被災地からの発信(1)~続「余震の中で新聞を作る」

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  2011年3月11日の東日本大震災の4日目から昨年8月末まで書いてきた取材記録ブログ「余震の中で新聞を作る」(158回)の続編を、きょうから、「被災地からの発信」のでして始めます。大震災と東京電力福島第1原発事故から丸6年が過ぎましたが、被災地の時間は長引くだけで何も解決せず、新たな問題を山積させています。進んだのは風化と「記念日化」。7年目の3月11日の政府追悼式で安倍晋三首相は「原発事故」の言葉すら避け、「復興は着実に進展している」「福島においても順次避難指示の解除が行われるなど、復興は新たな段階に入りつつある」と震災、原発事故の幕引き姿勢を露わにしました。

 置き去りにされる現実の被災地に広がるのは、いまだ土色の「もう一つの日本」のような風景。古里に戻りたくとも再生を待てず、あるいは諦める人の離散は止まらず、帰還する人は開拓者のような自立の覚悟を迫られます。このブログでは、7年目の被災地で何が起きているのか、人々はどう生き直すのか―を、厳しい運命に向き合う人々の声、希望への懸命な模索とともに伝えていこうと思います。被災地外で暮らす人にも現地を追体験してもらい、震災とは何か、何が起きるのか、どんな問題や苦難と向き合うのか、何を迫られるのか、どう乗り越えたらいいのか―を共に考えてもらえますよう。                          (随時掲載/文・写真 河北新報社編集委員 寺島英弥)

                               ◇

待ちわびた春 試験操業の光と影/相馬

コウナゴに7年ぶりの競り入札

 東日本大震災から丸6年を過ぎて間もない2017年3月13日の午前10時すぎ。相馬市の松川浦漁港にある荷さばき場(市場)には、記事にあるように久々のにぎわいが戻りました。この日が漁期の幕開けであるコウネゴ(イカナゴ)は、地元の「春告げ魚」。津波に襲われた11年3月11日はコウナゴ漁の開始直前で、破壊された漁港のまわりに「特選 小女子」と刷られた出荷用の箱がおびただしく散乱していたのを思い出します。津波で被災した荷さばき場(4800平方メートル)は、仮施設を経て隣接する相馬双葉漁協事務所とともには昨年9月に再建され、半ドーム型の屋根の下には明るい外光が注いでいました。

 午前9時半前後、小型漁船が数キロ沖の漁場から次々と帰り、漁船員たちが岸壁に水色のかごを10箱、20箱と揚げていきます。中にはきらきらと透明に輝く体長4、5センチのコウナゴが20キロほど入り、そのまま荷さばき場に並べられました。漁協職員、アルバイト作業に来た浜の女性たちもそれまでの水揚げと様子が違い、そわそわと待っています。大震災と東京電力福島第1原発事故の後、7年ぶりの競り入札が行われるのでした。

 『相馬市の松川浦漁港で13日、東京電力福島第1原発事故の影響で休止していた競り入札が6年ぶりに再開した。落札価格や業者名を読み上げる競り人の威勢のいい掛け声が響き、場内は活気づいた。
 福島県沖で漁が始まったコウナゴ7トンを競りにかけた。仲買業者3社が入札に参加し、1キロ当たり920~300円で落札した。西日本での漁獲不振の影響もあり、前年の相対取引よりも高値で取引された。
 水揚げした相馬双葉漁協コウナゴ操業委員長の立谷義則さん(52)は「漁師たちの活力が湧くような値段が今後もついてほしい」と話した。
 福島沖で漁獲された魚介類は原発事故後、風評による値崩れを防ぐため、漁協が加工組合や仲買組織と相対で販売していた
。』(3月14日の河北新報より)

苦境を共にした仲買業者

 この記事にあるように、仲買業者たちが欲しい産物に値を付け、競り落とすのは、市場の当たり前の慣行です。ところが、福島第1原発事故が起こって翌11年4月4日、東電が原発構内にたまった汚染水11500トンを、当事者である福島県漁連に事前説明もなくファクス1枚の通知で放出し、同漁連傘下の漁業活動は操業自粛に追い込まれました。

 海の生業復活を目指す人々の苦闘はそこから始まり、相馬双葉漁協の若い組合員たちと同県水産試験場による根気強いモニタリング調査(放射性物質検査の検体漁獲)を経て13年6月、監督機関となる同県地域漁業復興協議会の指導下で試験操業にこぎつけました。政府の支援がない当事者の自助努力で、船主たちは東電の補償から経費を出し合いました。最初はミズダコ、ヤナギダコ、シライトマキバイ(ツブ貝)の3種、計600キロという細々とした水揚げで、厳しい検査体制で安全を確かめながらの試験販売も始まりました。

 試験操業は週2回程度。1年後に漁獲できる魚種が16種に、水揚げ量は約300トンに増えましたが、原発事故前の10年度(1万8900トン)の2%に満たず、市場が成り立たちませんでした。仲買をしていた水産加工業者、小売業者らは共同で「買い付け人組合」をつくって、出荷先を失った漁協との相対価格(直接の取引で値を決める方法)で相馬の魚介類を買い支え、地元の魚店、スーパーに卸し、か細い流通を守ってきました。ある仲買の業者は原発事故前の年商を40分の1に落とし、浜の雇用も失われました。

 試験操業を引っ張ってきた原釜小型船主会会(45人)の会長、今野智光さん(58)はこの朝5時に松川浦漁港を出て4~5キロ沖でコウナゴを漁獲し、計250キロを水揚げしました。「天気予報を見て出漁を決めているが、(3月)13日は初日としては、これまでで一番早かった。量はいまひとつ。船1そうで500キロは取りたかった。だが、去年の初日に1キロ700円だったのが、きょうは910~1370円の値がついた」

 西日本では、産地の伊勢湾(三重、愛知)が2年続けて禁漁になるなど不漁が長期化しています。今野さんは「全国で一番まとまった量が水揚げされるのは、相馬沖から仙台湾しかない。原発事故以来悩まされてきた風評も、いまのところは心配ない。コウナゴが大きくなっていく4月末までの漁期の間に、漁獲も増えていくだろう」と、ひとまず安堵の表情を浮かべました(今野さんの水揚げは翌14日、計400キロに増えたそうです)。

浪江町請戸でも希望の漁

 14日の河北新報朝刊には、同県浪江町の請戸漁港での水揚げ復活の記事も載りました。

 『東京電力福島第1原発の20キロ海域での試験操業が13日、解禁された。同海域は原発事故を受けて全面自粛が続いていたが、安全性が確認できたことからコウナゴ漁が可能になった。福島県浪江町の請戸漁港からは9隻が出漁し、故郷の海で魚影を追った。
 この日は請戸周辺で魚群が見つからず、相馬沖での操業が中心となった。それでも、請戸漁港には約900キロのコウナゴが6年ぶりに水揚げされ、浜が活気づいた。
 地元漁協は対象魚種を拡大していく方針。ただ、原発10キロ圏内は操業自粛が続く。南相馬市の漁師今井亨夫さん(56)は「20キロ圏海域の解禁は大きな一歩。これからも漁の正常化を進めたい」と力を込めた。』

 請戸漁港は、無人の野になったままの津波被災地を後背地に、いまのところ岸壁だけが復旧され、水揚げが可能になりました。地元の浪江町が福島第1原発から20キロ圏にあって、全住民対象の避難指示区域となり、古い漁師町の請戸も6年前の津波で壊滅し、さらに20キロ圏は全面禁漁という三重の苦難が、漁業者たちにのしかかっていました。

 請戸沖での試験操業解禁(原発から10~20キロ圏内)は、海中に残されていた津波のがれき撤去完了が第1の理由でした。「福島の漁業復興を一歩進めたい」と同県漁連が担い、昨年9月から相馬双葉漁協の小型漁船が中心となって海底のがれきを回収し、いわき市内や請戸に陸揚げの後、検査を経て専門業者が処分しました。そして、母港を失い、避難先で6年を過ごした請戸の漁業者の「帰還」の悲願がありました。浪江町は飯舘村などと同じく3月末の避難指示解除(帰還困難区域を除く)が予定されています。相馬双葉漁協請戸支所や荷さばき場も再建されておらず、地元に住まいはなく、コウナゴの取引は相馬の市場を頼るほかありませんが、漁業者たちにあるのは古里の海と港に戻れた喜びです。

 コウナゴ漁初日、松川浦漁港の荷さばき場には、競り入札の再開を待ちわびた佐藤弘行組合長(61)がいました。「競り入札は、漁業正常化への歩みの証しだ。試験操業で漁獲できる対象の魚介は、今年1月までに97種に増えた。大震災と原発事故の前には200種以上が捕れた相馬の豊かな海と漁業が、ようやくここまで復活してきた。漁業者も活気づくだろう。『非常時』を終わらせる大きな節目と考えている」
 過去、その最大の障壁となってきたのが、福島第1原発の汚染水問題、そこからたびたび生まれた風評でした。コウナゴに続いて4月からは、試験操業で水揚げされる全対象種について競り入札が行われますが、参加を申請した仲買業者はわずか3社。コウナゴの乾燥施設を備えた水産加工業者です。外気にさらされる天日干しが風評の元になりかねないと、まだ出荷の許可要件となっていないからです。春の日差しでコウナゴが干される漁村の風物詩復活はまだ先です。

新たな懸念も動き出す

 この日を前にした3月8日、同漁協で取材させてもらった佐藤組合長は、久々の明るいニュースの陰で今年直面するかも知れない一つの懸念を語りました。「これまで重ねた漁業者の努力を無にしかねない問題だと、県漁連が一貫して『容認できない』と国、東電に訴えている『トリチウム』のことだ。いつ、国と東電が言い出してくるのか分からないが」

 トリチウム(三重水素)とは放射性物質の1種で、水素と性質が似て、溶け込んだ水から分離できず、福島第1原発の汚染水処理で東電が稼働させている多核種除去設備(ALPS・62種の放射性物質を除去)でも唯一除去できない。汚染水処理を東電は当初「浄化」としていたが、実際には半減期12年のトリチウムを含んだ廃水が、保管タンクに約80万トンもある。汚染水は、溶けた核燃料が残る原子炉建屋に地下水が流入して毎日発生。それを減らそうと東電が建屋の周囲に開設した「凍土壁」などの対策を試みています。

 漁業者が懸念する海洋放出は13年9月、日本原子力学会の福島第1原発事故調査委員会が最終報告案で「自然の濃度まで薄めて放出」と提案。原子力規制委員会、経済産業省の幹部が「放出やむなし」の見解を語りました。さらに政府の汚染水処理対策委員会が、①深い地層に注入 ②基準以下に希釈しての海洋放出  ③蒸発  ④水素に還元して大気放出  ⑤固化またはゲル化し地下に埋設―を検討し、「海洋放出が最も低コストで処分できる」と試算しました(注・試算値は、①約12カ月、約3884億円 ②約88カ月、34億円 ③約115カ月、約349億円 ④約101カ月、約1000億円 ⑤約98カ月、約2431億円)。これらの処分方法をめぐって議論する小委員会も発足しましたが、昨年11月11日の初会合では慎重論が相次いだ、と報じられました。

  『関谷直也東大大学院特任准教授(災害情報学)は、地元の漁業者らが反発している海洋放出を念頭に「福島の漁業はまだ試験操業の段階で(海産物が)通常の物流ルートにのっていない。東北の漁業が特殊な状態にあることを認識すべきだ」と強い懸念を示した。
 小山良太福島大教授(農業経済学)も「全部(の処分方法が)風評になると思う。放射性物質をどうコントロールするのか、説明が重要になる」と強調した。
 東北放射線科学センター(仙台市)の高倉吉久理事は「外国で東北の海産物の輸入規制が続いている。風評の影響を考えると、委員会として結論を出すのは非常に難しい」と述べた
。』(同12日の河北新報より)

 福島の漁業者たちを巻き込む論議は既に、当事者の知らない場所で動き出しています。

3月13日朝、新しい魚市場の荷さばき場に今年初めて水揚げされたコウナゴ=相馬市松川浦漁港

体長4センチほどのコウナゴ

水揚げを終えた漁船員たち

コウナゴの大漁祈願の縁起物を掲げた漁船

カモメに追われながら、落札したコウナゴを加工場へ運ぶ仲買業者

 

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ブログ「余震の中で新聞を作る」から5冊目の本ができました

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 2011年3月11日の東日本大震災、東京電力福島第1原発事故が起きてから5年余り。その間、河北新報編集委員としての被災地取材の詳報を記録してきた私のブログ『余震の中で新聞を作る』から、5冊目の本が刊行されました。
 『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』(明石書店/350ページ、2200円)です。

 『政治の側が大震災、原発事故に幕引きするかのように振りまく「復興」の明るい響きが現実を覆い隠そうとし、逆に被災地には厳しい正念場が背なる中で、同胞たちはどのような選択をし、生きなおそうとしているのか?古里の未来はどうなろうとしているのか? そんな新たな現実を記録しなければなりません。』

. まえがきの末尾に、こう書きました。これまで4冊の本では、岩手から福島まで南北の被災地を俯瞰していただけるように、その現実と復興を模索する人々の声を同時進行の形で記していました。が、今回の新刊ではタイトルの通り、原発事故を背負わされた私の郷里、福島県相馬地方の同胞たちの5年を記録しました。

 避難指示解除が来年3月末に迫る飯舘村の難題山積の現状と「帰るのか、帰れぬのか?」に選択に苦悩する住民たち、いまなお復興を阻む厳しい「風評」からの再生を試行錯誤する南相馬の農家たちの闘いを中心に、取材の縁を重ねていた人々の5年を通して見える、その歳月の意味、原発事故が喪失させたもの、不可逆の現実から始めるほかない「生き直し」の多難さ―。「復興五輪」を掲げた政府の幕引きの動きとは裏腹に、除染後の砂漠のような農地と汚染土袋の黒山の風景が、置き去りにされる被災地の姿を光と影のように一層あらわにしているからです。

 『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』は、①帰れるか、帰れぬのか―比曽から問う ②生きる、飯舘に戻る日まで(雑誌『婦人之友』2015年1~12月号連載に加筆) ③オオカミ絵、よみがえる ④南相馬 苦き風評からの再起―の4章とエピローグ「沖縄で響いた被災地からの訴え」、そして、2本のコラム「風化と風評をどう乗りこえるか」(『ジャーナリズム』15年12月号メディアリポートに加筆)、「被災地で聞かれぬ言葉、当事者の言葉」(復興学会誌『復興』16年3月号への寄稿に加筆)を収録しました。

 明るい表紙の笑顔の女性は2章の主人公、佐野ハツノさん。避難中に発病したがんと闘いながら、「までい着」作りなどで仮設の仲間を励まし、帰村の春を待つ人です。原発事故による「古里喪失」を一時は覚悟し、津波で変わり果てた懐かしい浜々の景色に心をぼろぼろにされながら、記録し伝える仕事を続ける励みと希望をくれたのが、本書に登場する同胞たちの苦境の中の笑顔、困難な未来へも再起する勇気、かつて天明の飢饉を生き抜いた先人から受け継ぐ不屈の魂でした。それらの思いを託されたメッセージを、どうぞ、受け取っていただけましたら幸いです。

 158回まで連載してきましたブログ『余震の中で新聞を作る』は、9月から再開いたします。

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 全村避難中、突然の焼失
 火災が起きたのは2013年4月1日の早朝でした。福島第1原発事故のため全村避難指示が出されていた福島県飯舘村佐須の山津見神社。突園の変事の報を、地元佐須地区の人々は福島市飯坂温泉で聞きました。それぞれに避難生活中の住民が集っての総会が前夜に催され、会場の宿に泊まり合わせたのでした。
 「車を飛ばして神社に着いたのは、それから1時間後。すでに鎮火はしたが、拝殿も宮司の家も焼けていた。目の前のことが信じられず、真っ白になった頭に『奥さんの遺体が見つかった』という消防団員の声が聞こえた」。氏子総代の農業菅野永徳さん(75)=伊達市内の仮設住宅に避難中=はこう振り返りました。
 亡くなったのは久米隆時宮司(84)の妻園枝さん=享年(80)=でした。山津見神社の宮司一家は、64世帯の全戸が氏子である佐須の住民、神社を心のよりどころとする人々のために―と原発事故後も社務所、拝殿を開けて日参していました。
 「原発事故、避難生活がなければ、皆がすぐ駆け付けることができたのに」。住民たちはそんな痛恨の思いを抱えながら1週間通って、焼け跡の片付けの作業を続けました。「火災とともに歴史がぷっつりと断ち切られた気がした。山津見神社があって、自分たちの暮らしも文化もあったんだ」と、永徳さんは語りました。
 山津見神社の拝殿裏にそびえる標高705メートルの虎捕(とらとり)山は、火災で杉木立の一部が黒焦げになりましたが、大規模な延焼を免れ、山の神をまつる山頂の本殿は無事でした。そして、焼け残ったもうひとつのものが、拝殿前の阿吽一対の狛犬。もともと獅子が起源ともいわれる守護獣ですが、山津見神社の狛犬像はがっちりとたくましく、たてがみと牙があり、大きな耳をピンと立てて、目をらんらんとさせた姿で、明らかにオオカミです。私が火災後の神社を訪ねたのは4月6日。境内では重機が忙しく動き、焼け残った柱や瓦、コンクリートの塊などが残るだけでした。が、狛犬たちは炎と熱で焼け焦げ、表面の一部がはげ落ちながらも、変わらぬ精悍な表情で立っていました。
 1051(永承5)年創建という神社の由緒書きにはこうあります(以下は大意)。「およそ900年前、この地方に橘墨虎という屈強な兇賊がおり、住民を襲い、地元の豪族を従えた。都から奥州に赴任した源頼義が住民の訴えを聞いて墨虎征伐に立ったが、苦戦した。その折、山の神が夢でこう告げた。 『墨虎を討ちたければ、白狼の足跡を追え』。家来の藤原景道が命を受けて山中に入ると、獣の足跡が点々とあり、ひときわ突き立った岩の窟(あな)に墨虎を見つけた。逃げようした背中に、景道の投げた短刀が刺さった。頼義は山の神に感謝し、祠を建てて虎捕山神とたたえ、土地の名も『佐須』(刺す)となった」

 そのような伝承とともに、山の神の使いの白狼は山津見神社を守る狛犬となり、氏子からは「ご眷属(けんぞく)様」(従者)と敬われてきました。源頼義は息子・八幡太郎義家と共に奥州で奥六郡の主・安倍氏との前九年の役を戦いましたが、橘墨虎の伝説には東北の先人である蝦夷との抗争が生々しくなぞらえられているように思えます。日本の神仏の歴史以前、縄文時代から現代まで脈々と流れてきた東北の自然信仰にも、あまりにリアルなオオカミの狛犬は重なります。

 11年6月以来、佐須の自宅を拠点に生業再開の実験に取り組み、私も取材の縁を重ねる農業菅野宗夫さん(64)=飯舘村農業委員会委員長=に、住民と山津見神社とつながりについて聴きました。「佐須の里の一年は正月、住民が神社に集まっての村祈祷(きとう)で始まり、家内安全のおはらいを受ける。盆は先祖供養のお札を受け、旧暦9月は水神の幣束、年末は『かまど』神の幣束をもらう」。地区のお葬式も神式で、原発事故の全住民避難後は、神社の禰宜(ねぎ)がそれぞれの避難先の葬祭場に出向いて拝んでいるといいます。その絆を一目で伝えるのは、菅野さんの自宅はもとより、家々の玄関に貼られた火難盗難除(よ)けの護符。山津見神社は狩猟、林業や鉱業の神、田の神、酒造りの神、安産や良縁の神でもあり、山村に生きる住民の暮らしを守り、豊かな恵みを授けます。護符に描かれているのが、やはりオオカミなのです。それゆえに、永徳さんは「佐須の歴史、住民をつなぐ絆をぷっつりと断ち切られた思いだ」と嘆きました。
 火災が起きる2カ月前、その古い信仰の里を訪ねてきた研究者がいました。和歌山大観光学部教授の加藤久美さん(55)とオーストラリア人の特任助教で写真家のサイモン・ワーンさん(59)。加藤さんは、土地の食文化、環境を観光に生かす「地域再生」を研究のテーマとし、地元和歌山の熊野古道、鯨文化の太地町などをフィールドにしてきました。ニホンオオカミの研究も活動の一つです。1905年(明治38)年に奈良県吉野村で捕獲されたのを最後に目撃例が途絶えたとされています。「ニホンオオカミは野生の生態系の頂点にあり、自然と人との関わりの象徴だった。その絶滅によって失われた自然とのつながりを、いまに取り戻せないか」と、オオカミをめぐる信仰の記録と記憶を全国各地に調査する中で山津見神社を知りました。

託された「復元」の使命
 オオカミの狛犬は、埼玉県秩父の武甲山三峯神社、釜伏神社などにもあります。山津見神社と同じく「ご眷属(けんぞく)様」の名でまつられ、春に山から下りてシカ、サル、イノシシなどから田畑を守る農耕の神になり、秋の収穫後、山に帰るそうです。しかし、山津見神社には全国にも類例の少ない文化遺産がありました。それは拝殿の天井を埋めた237枚のオオカミの絵。民俗資料、文化財として知られておらず、「オオカミ絵について書かれた希少な文献(執筆者は、やはりオオカミ信仰を研究する宮城県村田町歴史みらい館の石黒伸一朗さん)の記述を読んだのが、縁の始まりになった」と加藤さんは振り返りました。神社に電話をしたところ、園枝さんが快く調査を受け入れてくれ、12年12月26日に初めて訪れた拝殿で天井絵を仰ぎ、その壮観に驚いたといいます。その時、「絵が傷んできて、保存状態がよくないの。何の記録もないし」と心配する園枝さんの言葉を聞いて、翌13年2月4~5日に山津見神社を再訪。「せめてデジタル画像に保存しよう」と、ワーンさんが約5メートルの高さの天井絵を1枚1枚、カメラに収めました。「それをまとめた写真集が3月末にできあがったので、園枝さんに届けようとしていた矢先、神社の焼失と園江さんの悲報を知った」と加藤さん。想像もしない巡り合わせになりました。
 「何もかもなくなってしまった」。衝撃を受けて山津見神社に飛んできた加藤さん、ワーンさんに、焼け跡にいた禰宜(ねぎ)=当時=の久米順之(じゅんじ)さん(47)が口を開いたそうです。焼失前に撮影したオオカミの天井絵の写真集を手渡すと、久米さんは「ああ、残ったのはもうこれだけだ」と声を絞り出しました。237枚の絵のオオカミは、目をむき、ほえ、跳ね、戯れ、草花の下で眠っています。まるで、もう一つの「鳥獣戯画」(京都・高山寺)のよう。彼らがこの地で確かに生きていたことの証しであり、ニホンオオカミ絶滅の運命を唯一免れ、生き延びた群れのようでした。
 久米さんが漏らした言葉に、加藤さんは予期せぬ衝撃を受けたといいます。見ず知らずの研究者の調査を歓迎し、天井絵の行く末を案じていた園枝さんから、「復元を託す遺言を、自分は受け取っていたのではないか」。会津女子高(現葵高)を卒業した加藤さんは、福島との再びの縁を思いました。「自然信仰の象徴であるオオカミの天井絵を復活させることは、福島第1原発事故の放射能が隔てた地元の人々と村の自然のつながりを取り戻す力になるのではないか」

 『福島県飯舘村の山津見神社の秋の例大祭が19日にあった。村は福島第1原発事故の避難区域に指定され、拝殿も4月の火災で全焼し、参拝者は焼け残った建物を使った仮の拝殿に向かってかしわ手を打った。
 氏子ら100人が参拝し、祈祷(きとう)を受け、プレハブの休憩所でみこからお札やお守りを受け取った。
 神職の久米順之さん(45)は「拝殿を再建し、氏子の皆さんが集まるようにしたい」と語った。
神社は1051年に建てられた。原発事故前、3日間の例大祭には出店が並び、2万人の参拝客でにぎわったという。火災で拝殿のほか、社務所が焼け、祭りは規模を縮小し、日程も1日限りで行った。神社は避難指示解除準備区域にあり、日中の立ち入りが認められている。』(13年11月20日の河北新報より)
 福島第1原発事故、火災の悲劇という二重の苦難を乗り越えて、山津見神社は地域の心のより所であり続けていました。焼け跡に設けられた仮社務所に順之が毎日通い、全村避難の中でも訪れる参拝者を迎えていました。そこで、加藤さん、ワーンさんに私が初めて会ったのは同年11月23日。偶然のきっかけです。生業や環境の再生実験、放射能測定などの活動で宗夫さんら地元の人々と協働するNPO法人「ふくしま再生の会」=理事長で物理学者の田尾陽一さん(74)ら首都圏など各地の市民、専門家ら約220人が参加) のメンバーがその日、宗夫さん宅で野菜の試験栽培用のビニールハウスを建てていました。手伝いを兼ねて取材をしていた折、「和歌山大の研究者がオオカミの天井絵の調査で山津見神社に来ているよ」と宗夫さんが教えてくれました。車で5分ほどの神社に設けられた仮社務所を訪ねたのは、日暮れが迫る時刻でした。
 加藤さんらは写真集を持参して久米順之さんを仮社務所に訪ね、「オオカミの天井絵の復元に役立てたら」と支援を申し出ました。加藤さんは元手の資金づくりにも奔走し、既に三井環境財団の助成金を申請して650万円認められており、「地元の人々がこれから、復元方法などを検討していくのをお手伝いできたら」という希望を伝えました。オオカミの天井絵について、山津見神社には「明治37(1904)年、元相馬中村藩士の宮司久米中時が私財を投じて拝殿を建て、同藩の元お抱え絵師に237枚のオオカミ絵を描かせた」という伝承がありました。氏子総代の永徳さんによると、「拝殿の天井は高くて薄暗くて、オオカミの絵はよく見えなかった。どういう価値があるものかも分からなかった。写真集を見せてもらって初めて、オオカミたちが生き生きとした姿で素晴らしいものだったと分かった」と語りました。神社関係者、氏子会は加藤さんの支援の申し出を喜び、ふくしま再生の会も協力に名乗りを上げて、天井絵復元へのプロジェクトが芽吹きました。

オオカミ信仰の広がり
 『「(オオカミの天井絵を描いた)絵師の名前までは伝わっていない」と禰宜の久米順之さん(46)。そこから先を加藤久美さんは調べ、中時と同時代を生きた旧藩御用絵師、伏見東洲(1841-1921)が作者ではないか、と推定しています。狩野派の絵師で、「相馬市内に襖絵などを残しており、その一つで、私が見ることができた襖絵の虎の絵は、表情が天井絵のオオカミとよく似ていた」と加藤久美さん。「でも、約240枚の天井絵には微妙な作風の相違も見られ、数人の絵師が関わった可能性もありそう」。東洲の当時の弟子に、相馬市出身で後に高名を成す彫刻家佐藤玄々(本名・清蔵、1888年―1963年)がいたことを、加藤久美さんは突き止めました。日本橋三越本店にある「天女像(まごころ)」が知られていますが、「上京した1905年まで数年間、東洲に絵を習っており、修行時代が、天井絵の制作時期にも重なる」。彫刻の大家となってから45年には、東京空襲で家を焼かれ、なんと山津見神社に疎開したといいます。神社滞在中も作っていたと思われる当時の作品が相馬市歴史民俗資料館にあり、それが「神狗(白狼)」でした。符合は重なります。「東洲が天井絵に関わっていたとしたら、あるいは玄々も・・」』(本ブログ『震災4年目/余震の中で新聞を作る119~飯舘の春いまだ遠く・その3/山津見神社復活(下)』=14年9月23日=より)

 天井絵復元のヒントを求め、制作過程の謎を精力的に調査していた加藤さんから「山津見神社の天井絵と同じ画風の絵が(宮城県)柴田町にある、と順之さんから教えられ、現地に行って見てきた」と聞いたのが14年5月でした。絵馬は、柴田町の「しばたの郷土館」が保存、展示しており、私も取材で見せてもらいました。四角い絵馬には明治45(1912)年の年号があり、3匹のオオカミが戯れる姿が描かれています。ワーンさん撮影の写真集の1枚とほぼ同じ図柄で、オオカミたちの人なつこい表情も重なりました。同町槻木の国井久仙という人が建てた施設「山津見神社遙拝所」(祈祷の場)に掲げられ、建物が老朽化して90年に解体された際、郷土館に寄贈されたそうです。しばたの郷土館が所蔵する遙拝所の遺物には、飯舘村佐須の菅野宗夫さん宅で私が見たのと同様の図柄のオオカミの護符もありました。久仙が山津見神社から取り寄せ、地元の人々に配ったといい、講をつくっての参拝も引率したようです。久仙にあてた中時の礼状もあり、信仰と交流の地域を越えた広がりが見えてきました。

 加藤さんとは別の機縁で、福島第1原発事故から間もない11年4月に山津見神社を訪ね、237枚の天井絵を撮影して画像データに記録していた人もいました。前述の村田町歴史みらい館副参事の石黒伸一朗さん(56)。「以前にも天井絵を見ていた。しばたの郷土館にあるオオカミの絵馬を含め、飯舘村と接する宮城県南部に山津見神社とつながるオオカミの信仰があることに注目し、原発事故の影響で村に入れなくなってしまう前に記録しなくてはと思った」と語り、焼失前の全貌をパソコン上で再現していました。石黒さんの分析で、天井絵のうち8枚の絵に現在の仙台市太白区、名取市の地名や人名、「一金五拾銭」などの金額が墨で書かれていたことが分かり、「制作時に、神社を信仰する人々が奉納したのではないか」。同年8月4日の河北新報には、飯舘村と隣接する宮城県丸森町で石黒さんが行った新たな調査の成果も紹介されました。

 『(前略)オオカミの木像やオオカミが描かれた石碑を発見した。ともに東北で見つかるのは初めてで、比較的距離が近い福島県飯舘村の山津見神社を信仰し、獣害対策や山仕事の安全祈願として祭られたと考えている。
 木像や石碑はいずれも丸森町南東部の大内地区で見つかった。木像は佐野山神社に1体、青葉山神神社に3体あり、高さは全て50センチ程度。口を開け、歯をむき出しにしている像もある。オオカミの木像は全国的にも珍しく、制作は明治期とみられる。(中略)石黒さんによると、宮城県北では、関東地方の神社の名前とオオカミが彫られた石碑があるが、オオカミだけを彫った石碑は大内地区以外にないという。
 山津見神社はオオカミの天井絵で知られ、オオカミは山の神の使いとされている。大内地区と山津見神社は直線で約15キロの距離で、かつては山越えの峠道もあった。石黒さんは「犬やキツネと誤って認識されているが、表情からもオオカミで間違いない。シカやイノシシから農作物を守り、山仕事での無事故、火難よけなどを祈るため、山津見神社の使いであるオオカミの木像や石碑を制作したのだろう」と推測している。』

無人の村に絵の存在理由
 石黒さんが理由を推し量っていますが、そもそもなぜ、山の神の使いであるオオカミそのものが信仰されたのでしょう? ニホンオオカミが絶滅したのは、明治になって薬剤が普及し、(家畜などに対する)「害獣」とみなされたオオカミが瞬く間に駆除されたため、といわれています。自然との共生から自然の開拓、支配へと人間の生き方が変わるとともに、生態系の頂点にいた肉食獣も畏怖の対象から邪魔者へと変わったといえましょう。その運命は、東北の山村を「高度経済成長期」に巻き込み、山々を杉だらけにした住宅建材木の植林ブームの陰で、自然の象徴だったブナが「ブナ退治」なる掛け声で皆伐されていった出来事に重なります。私がその理由を実感したのは、全村避難中の飯舘村で見た光景からでした。飯舘村小宮字萱刈庭の農業大久保金一さん(75)は13年から、ふくしま再生の会と協働して農地の除染実験、稲や大豆など野菜の栽試験培に取り組んでいます。希望の実りを見るはずの14年秋の惨状が上掲の本ブログ119『飯舘の春いまだ遠く・その3/山津見神社復活(下)』にこう記されています。

 『里山に囲まれた小盆地のような田畑の端に、避難生活中に骨組みだけになった花栽培用ハウスがあります。大久保さんは消沈した顔で中を指差し、「こんなにひどい被害は初めてだ」と言いました。収穫期を迎えようとしていた約20種類の大豆が見渡す限り、めちゃめちゃに倒され、実が詰まったさやだけがなくなっています。「サルの群れに襲われたんだ」 被害は大豆だけではありませんでした。夏の好天で順調に育ち、黄色に輝く田んぼの稲をよく見ると、多くの穂が欠けています。「これもサルに食われた。大豆のハウスも田んぼの周りも、食害避けの電気柵を何段にも回しているのだが、群れになると怖がらず、どんどん浸入するらしい。今月(9月)初めの朝、ほんの3時間ほど留守にした間の出来事だ」。約30アールの試験田のほぼ3分の2に被害は及んでおり、稲穂のもみの部分だけがきれいになくなり、地面にもみ殻だけが落ちています。歯でしごくように食べたのでしょう。
 「二つの群れが周りの山にすんでいるんだ。食べ物がないらしく、今年は山のクリも、うちの庭のアケビも、熟さないうちになくなった。大豆や稲が食べごろになるのを、じっと見計らっていたんだろう。全村避難になって以来、どこの田んぼにも畑にも何もないからな。イノシシの被害もあり、やつらは土を掘り返したり、作物をなぎ倒したりしていくが、サルはもっとひどい。跡形なく食っていくからな」』

 飯舘村をほぼ無人状態にした全村避難によって、長い歴史を通じて拓(ひら)かれた集落が再び自然の領域に取り込まれ、空白を埋めるように野生動物が増えて活動域を広げました。避難指示区域となった他の原発事故被災地も同様の状況です。その結果が、試験栽培のわずかな農作物をもたちまち餌食にするサル、イノシシなどの害。私が取材に通っている同村比曽の農家では、ミミズなどをあさるイノシシが田んぼを深さ30センチ前後も掘り返し、表土を5センチ削る除染作業を困難にしました。 山津見神社のお膝元の佐須でも、菅野宗夫さんとふくしま再生の会が協働する稲作再生の試験田の稲や野菜栽培実験のハウスをイノシシが荒らしてきました。害獣駆除の狩猟者たちは村から姿を消し、限られた農地を電気柵で囲うしか対策はありません。16年3月末に飯舘村の避難指示が解除になっても当面、帰村する住民は少ないとみられ、人間は再び野生生物と共生するしかありません。かつて自然の生態系に君臨し、「農家がオオカミを害獣除(よ)けに信仰した」(石黒さん)ことの理由は今なお消えず、山津見神社拝殿の天井を埋めたオオカミの絵の存在意味もリアルによみがえります。


復元プロジェクトに支援者集う
 2014年5月末、山津見神社境内の除染工事が始まり、ひと夏、作業が続きました。そのさなかの7月13日、仮社務所で天井絵復元に向けた意見公開が行われました。順之さん、氏子会の永徳さんと佐藤公一・佐須行政区長、加藤さん、ふくしま再生の会の田尾陽一代表、飯舘村の文化財保護委員、拝殿再建を請け負う地元工務店の社長、プロジェクト立ち上げに共鳴した日本画の専門家ら12人が集いました。

 順之さんから現状報告があり、この時点では7月いっぱいで携帯の除染が完了するという環境省、共同企業体の側の見通しで、8月初めに地鎮祭、着工の運びになると説明されました。工務店の社長は「年内には上棟式を終えて、冬の間は内装工事になる。天井絵の部分は、2尺(約60センチ)四方なら割り振りしやすいが、絵の大きさの条件に合わせられる。先にますを入れて、ゆくゆく絵をはめることもできる」と話しました。永徳さんは「来年春に拝殿も天井画も落成だよ、というのでなく、何年掛かってもいいから、絵を描き続けて、できたものから天井に掲げていけばいい。描くというのは、時間の早さより、心の持ち方。絵の1枚1枚に『奉納者』を募り、名前を入れ、いつでも来てみられるようになるのもいい。そうして、人の心をつなぎ直していくことが大切だ」と願いを語りました。加藤さんも「天井絵の歴史や意味を皆で知り、作業のプロセスを共有し記録しながら進めていけたら」と声を合わせました。
 議論の焦点になったのは、「オリジナルを忠実に再現するか?」「別の形で再創造するか?」「誰が手掛けるか?」。武蔵野美術大の日本画の教授は「世代をつなぐという意味で、いまの避難中の飯舘村の子どもたちが描いた絵もいいのではないか。ワークショップを開きたい」と提案しましたが、失われた絵の再現に重きを置くならば「プロに任せたいのが理想」との意見も出ました。田尾さんは「飯舘村の復興に多くの人に関わってもらうためにも、天井絵再生の作業への参加者を募集したい。共感の輪をつなげることが大事だから」というアイデアを披露しました。未完の空白を次の人が埋め、大勢の参加者が物語をつくっていく、というあり方でした。そして、参加者には「現代の奉納者になってもらう」。議論はさらに続き、この日川崎市の自宅からオートバイで駆けつけた若い日本画家が、まず最初の1枚の試作を引き受けることになりました。

 『福島第1原発事故で全村避難が続く福島県飯舘村。昨年4月に拝殿が全焼し、先月再建工事が始まった同村佐須の山津見神社で、失われたオオカミの天井絵復元に向けた第1作がこのほど披露された。賛同する日本画家が描いた迫力ある絵。氏子会や支援者らは、来年5月の拝殿完成に向けて復元プロジェクトを発足させることを決め、資金を募る活動などを検討する。 (中略)新たな絵は、復元に協力する東京芸大出身の志田展哉さん(41)=川崎市=が描き、先月30日、仮社務所での氏子と支援者の検討会に持参した。目と牙をむいて、敵に向かって威嚇するようにほえるオオカミの姿で、日本画伝統の染料と金箔(きんぱく)を用い、45センチ四方の杉板いっぱいに描いた。元絵は、昨年4月の神社焼失の2カ月前、天井絵を調べた和歌山大の研究者の一人、サイモン・ワーンさん(57)が撮影した記録画像の1枚。(志田さんが)コンピューターで作風を調べ、忠実に再現した。
 「画材の板の準備や、『にじみ止め』のミョウバンを両面に塗って乾かす時間も入れて、1枚の制作に2週間かかった」と志田さんは言う。制作費は「手間暇を今の常識で評価すれば、1枚が10万~15万円」になる。再建される拝殿の設計では、天井には計190枚の絵が飾られる。「お金でなく、復元に共鳴する画家仲間を集めたい」と志田さんは話した。
 全戸が神社の氏子である佐須地区は、原発事故後、住民の避難生活が続く。総代の農業菅野永徳さん(75)は「天井絵の復元は、復興の歩みと同じ。何年かかっても、少しずつでも進め、後世につながる活動にしよう」と語った。今後、氏子会が主体になり、佐須を拠点に住民を支援するNPO法人ふくしま再生の会(田尾陽一理事長)などとプロジェクト組織をつくる。震災前に2、3万人が参拝した全国の信者や、オオカミに愛着を持つ人々の双方が共感し、参加できる「現代版の奉納」などを検討するという。』(14年10月6日の河北新報より)

 境内の汚染土をはぎ取る除染作業が終わり、真新しい砂利が敷き詰められた境内では9月9日、再建工事の地鎮祭が行われました。「原発事故の災いを乗り越えよう」という順之さんの祝詞の後、玉串を捧げた永徳さんは「神社が焼けた時は、地区の歴史が途切れた思いがした。ばらばらになった村の心の結び直しになる。待ちに待っていた」と語りました。順之さんも「神社は閉まったままだと、まだ思われているようだ。今年の例大祭は12月上旬。再建のつち音が多くの人を呼び戻してほしい」と笑顔を見せました。ところが、思わぬ事態が起こりました。復元プロジェクトで神社側の窓口になっていた順之さんが10月末、事情あって神社を退職したのです(現在は神奈川県寒川町観光協会に勤務)。さまざまな支援者たちが集ったプロジェクトはにわかに中断しました。

オオカミ絵、ついに完成
 「怖い獣ではなく、人に身近な場所で一緒に暮らしている。むしろオオカミたちの姿をかわいらしく表現しているようだ。村の春夏秋冬、美しい自然が見えてきた」。15年4月7日、東京・上野公園にある東京芸術大大学院の保存修復日本画研究室で、准教授の荒井経さん(48)は語りました。見せてくれたのは、山津見神社拝殿にあった天井の絵を、荒井さん自身の筆で杉板に再生した最初の1枚。和歌山大のサイモン・ワーンさん(59)が撮った記録画像から絵の特徴、画風を分析し、日本画の伝統技法でよみがえらせました。依頼したのは加藤久美さん。いったんは動き出した天井絵の復元プロジェクトが挫折した後、加藤さんが最後の頼みとした人が、専門家の荒井さんでした。仏画、天井絵、ふすま絵、杉戸絵など国宝級に至る文化財の修復保存の第一人者です。
 「技法は簡潔だが、オオカミが自然の中で生き生きと暮らす情景を描き、当時の人々に身近で特別な存在だったと分かる」と分析し、構想を練ったといいます。「失われたものを取り戻すのでなく、いまを生きる画家が当時の作者に成り代わり、心を込めて描く。飾られるのは博物館でなく、百年後の住民も信仰を寄せる場所。写真を元に忠実に『現状模写』するやり方でなく、原作の絵の図象とぬくもりを継承したい。飯舘の自然を私たち自身が感じながら、心を込めて描かせようと考えている」。担い手と期待していたのは研究室の約20人の大学院生。「原発事故の被災地になった現地に関わり、自分たちに何ができるのかを考えてもらいたい」と、まず山津見神社を訪ね、杉板の下地作りや筆遣いの練習を経て、夏に大学で制作を進める計画でした。


 荒井さんと院生の有志9人が山津見神社拝殿に立ったのは6月21日。拝殿の再建工事はほぼ終わり、焦げ茶色の大きな鳥居と白壁、銅板葺きの新しい拝殿が初夏の日差しに輝いていました。約280平方メートルの拝殿にある二つの祈祷の間の天井には、天井絵の杉板をはめる格子も作られています。天井は焼失前よりも低く、照明もよく当たり、絵が見やすい環境に造られました。「これから帰村してくる人々を迎える立派な拝殿だ」と、荒井さんらは天井を仰ぎました。学生たちはそれから、拝殿裏の虎捕山山頂にある山の神の本殿を目指し、荒れ模様の空から降り出した雨の中、露出した巨石に打ち込まれた鎖を握って険しい参道を登りました。「オオカミ絵の画風に触れ、描く準備をさせた上で、7月中旬から9月末にかけてまず100枚を一気に仕上げたい」(荒井さん)という未経験の挑戦を前にした修行のように。一行は無人状態になった佐須の集落を眺め、待っていた永徳さんから「若い人の応援は頼もしい限りだ」と願いを託されました。
 参加する修士1年の林宏樹さん(23)の口からこぼれたのは自らの震災体験です。それは、苦い敗北感に満ちた話でした。「大学入る直前に震災と原発事故が起き、入学式は中止だった。埼玉県生まれの自分も、震災の当事者の一人なのだという思いを抱えた。4年生の秋、友人たちと車で、できるだけ福島第1原発に近い所に行ってみようと(福島県浜通りの)楢葉町に入った。でも、(住民が避難中の)誰もいない被災地で、放射能という見えないものの恐ろしさに震えて、何も描くことができなかった。帰り道のコンビニで観た『がんばろう東北』の文字が、反語的で現実離れしたものに思えた。2020年の東京オリンピック招致の時、(安倍晋三首相が演説で)『アンダーコントロール』と言っていたが、東京の人間はそう見がちだが、あんな異様な世界があるとは衝撃だった。何も終わっていないと知った。卒業制作で震災を扱った同期も少なく、自分たちは『震災、原発事故の前に美術は無力』という苦しさ、焦りを共有体験にした世代だった」

 「第1期として、まず100枚を一気に仕上げよう」との目標で、保存修復日本画研究室で院生ら約20人が絵筆を執ったのは夏休みの7月31日から20日間。「オオカミの天井絵が伝えた人と土地のぬくもりを、われわれ一人一人が現代の画家として受け継ごう」という指針を胸に杉板と向き合いました。荒井さんが詳しく考証したのは原作の色。「オオカミの毛は、いまの焦げ茶の絵の具で描いたのと違い、丹(黄色を帯びた赤)と墨、白を混ぜた色ではないか、と修復の経験から考えた」と言い、「クラシック音楽の楽譜のように、原作が描かれたプロセスを大事にしながら、現代の描き手が継承すればいい」と院生たちの前で語りました。博士課程2年の鷹浜春奈さん(27)は「原作の絵は単純に見えるが、毛並みの線に硬い部分と柔らかい部分の描き分けがあり、ぼかしもある。試行錯誤しながら描いたようだ」と当時の絵師の苦労を追体験したといいます。同大OGで制作に加わった杉並区の中学校教諭中谷桜子さん(29)は、飯舘村と接する伊達市の出身でした。「原発事故のころは、遠くから古里を心配した。昔、お参りしたことのある山津見神社の焼失が悲しかった。卒業後は日本画から離れていたが、久しぶりに握った絵筆で古里とつながり、役立てるのがうれしい」と目を潤ませました。

新しい当事者となって

  完成したオオカミの天井絵が、飯舘村・佐須地区公民館で披露されたのは11月28日。冬枯れの風景の中で、山津見神社は拝殿の再建後、初めての例大祭の朝でした。オオカミの狛犬たちと共に一対の白い幟が立てられ、年配の夫婦らが三々五々訪れていました。天井絵のお披露目は例大祭に合わせて催され、避難先から参拝した住民が公民館に足を延ばしました。3列に設けられた長テーブルの展示台に、大学院生らが最初の挑戦として取り組んだ100枚がずらりと並べられています。私は荒井さんの研究室で何度も制作中の天井絵を見せてもらっていましたが、あらためて眺めてみると、オオカミたちの姿、表情のなんと多様なことか。両目を閉じた安らかな寝顔、勢いのよい青い滝を見返る精悍な目、毅然と背筋を伸ばす白狼、背中を丸めたひょうきんなしぐさ、きょうだいのように仲の良さそうな2頭、相手を威嚇し戦おうとする緊迫の顔、珍しい白黒のぶちのオオカミ。それらを、梅の花、萩の花、ススキの穂など、四季の自然の美しさがおおらかに包んでいます。
 「どのオオカミもかわいいね」「芸大の学生が復元したんだってな。地元の宝。うれしいの一言だ」「焼失前の暗い天井にあった当時は、これほどの絵とは知らなかった」。私が聞いた住民たちの感想です。公民館の会場を訪れる人の流れは途切れることなく、1枚1枚に足を止めて、ゆっくりと眺めては語り合っていました。大震災、福島第1原発事故が被災地の人々に痛みとともに残したものは、被害と喪失の不可逆性。津波が古里のまちを奪ったように、除染をしても残存する放射性物質のように、「失われたものは二度と元に戻らない」というあまりに残酷な教訓でした。心に深い傷を負い、過去への諦めから再起を模索している飯舘村の住民にとって、焼失の悲劇からよみがえったオオカミたちの再会は「奇跡」と言えました。そんな会場の様子を、荒井さんと並んで和歌山大の加藤さん、ワーンさん、永徳さんが感動した表情で見つめていました。
 「僕らの中には不安があった。心を込めて描いたが、果たして飯舘の人たちから受け入れてもらえるだろうか。焼失前の天井絵を見ていた住民の方々の目にどう映るだろうか、と。地元で発表することの恐ろしさもわき上がった」。荒井さんに同行して飯舘村を再訪し、お披露目の場に立ち会ったた大学院生の林さんはこう漏らしました。「でも、とても熱心に見てもらえた。すごく立派に仕上がった、と言ってもらえた。オオカミの絵そのものが、村の人々の自然な、優しい気持ちの中から生まれたことを感じた。地元の人たちが絵を見る目や心と、描き手の思いが初めてシンクロし、つながることができた。自分はもう無力な傍観者ではなく、絵を描くことで被災地に関われる『当事者』になれた」

 残るオオカミの天井絵が荒井さんと大学院生たちの手ですべて完成した、というニュースが河北新報に載ったのは翌16年4月10日です。
 『東京電力福島第1原発事故で全村避難が続く福島県飯舘村の山津見神社で3年前、焼失した拝殿のオオカミ絵が全て復元された。作業を担った東京芸術大の荒井経准教授らが、昨年秋に仕上げた第1期の100枚に続き、残る142枚を完成させた。生き生きとよみがえったオオカミたちの絵は来月、福島県立美術館(福島市)で披露される。荒井准教授は「自分たちの専門の技で村の応援に関われた。新しい命を吹き込まれた絵が、帰還する人々の力になれば」と語った。
 絵は2013年4月に火災に遭った拝殿の天井に飾られていた。宮司久米中時が1904(明治37)年、旧相馬中村藩御用の絵師に描かせたと伝わる。火災の直前、絵を調査した和歌山大観光学部の加藤久美教授らが全部を撮影していた。
 荒井准教授は大学院保存修復日本画研究室の院生ら約20人と復元を引き受け、写真から絵を分析。現地訪問の上で昨年8月以降、実物と同じ杉の板に一枚一枚、伝統技法で丹念に描いた。同11月には地元の佐須地区公民館で、第1期分の完成を住民に報告した。
 飯舘村は来年3月末に避難指示解除の見通し。同神社氏子総代の菅野永徳さん(76)=伊達市に避難中=は「来年帰村するつもりだが、共同体を立て直すのは大変だ。神社の拝殿は再建された。オオカミの絵を通して村の文化と歴史が発信され、新しい交流が生まれたらいい」と期待する。福島県美術館は「絵の魅力を広く伝えたい」(増渕鏡子学芸員)と来月28日~7月3日、「よみがえるオオカミ」展を開催し、計242枚を一堂に披露する。』

ワーンさんの記録画像から、天井絵の白狼の姿

2013年4月6日、山津見神社拝殿の焼け跡を見る菅野永徳さん=福島県飯舘村佐須

13年11月23日、オオカミの狛犬の前で語り合う(左から)ワーンさん、加藤さん、久米さん

14年9月18日、サルの群れに食い荒らされた大久保金一さんの田の稲穂=飯舘村小宮

14年7月13日、ワーンさんの記録画像を基に復元方法を議論する支援者たち=山津見神社の仮社務所

15年6月21日、再建された山津見神社の拝殿を訪れた荒井さん(中央)と東京芸術大の大学院生たち

15年8月1日、東京芸術大の研究室で始まったオオカミの絵の再生作業

15年11月28日、佐須地区公民館でも催された天井絵のお披露目(右端がワーンさん)

16年4月7日、荒井さんと大学院生たちの手ですべて完成したオオカミの絵

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 東日本大震災の津波と福島第1原発事故の被災地となった南相馬市から2012年5月、農業を続けられる土地を求め、山梨県北杜市白州町に移った小野田等さん(62)=「何も終わらぬ5年/余震の中で新聞を作る156 引き裂かれる思い 南アルプス山麓で~その後㊤」参照=。異郷に我が身一つを投じての模索を追う取材行は、再びの訪問が15年10月20日、前回3月から7カ月後の秋の午後でした。JR中央線の小淵沢駅には、妻ひろ子さん(61)が愛犬ランと一緒に軽ワゴン車で迎えにきてくれました。収穫の季節のさなか、小野田さんは新しい住まいのある白州町鳥原の農家たちの手伝いに出ている、といいます。釜無川を渡って白州町に至る道の途中、雄大な姿を見せる甲斐駒ケ岳は薄い山霧に隠れていました。ひろ子さんが車を止めたのは、山麓の鳥原集落に広がる畑の一角です。
 地元では甘い「干し芋」が特産の名物で、その材料となるサツマイモが収穫され、道端のビニールハウスに積まれていました。麦わら帽に花柄の割烹着、小さなリュックを背負った奥さん方がちょうど帰宅するところで、ひろ子さんは笑顔で立ち話をした後、宮下十四郎さん(77)を紹介してくれました。「いま栽培しているのが、ベニハルカという新しい品種なんだ。タマユタカという長年作った品種の後継で、甘みが強く、焼き芋でも人気がある」。地元の農家6人の農事組合法人「白州鳥原平組合」の圃場管理責任者をしており、小野田さんも組合の仲間です。サツマイモの畑1ヘクタールのほか、コメ、ブロッコリー、そして、ソバの畑も7ヘクタールあり、やはり収穫期を迎えています。

 「うちのお父さん、ここに来ていたはずなんだけど。どこに行ったか知らない?」。ひろ子さんが問うと、「ソバの畑にいるんじゃないかな。収穫機械のトラブルがあって、修理を手伝っているそうだ」。岐阜県内の業者が12ヘクタールの規模で栽培しているという大根畑の緑を眺めながら、軽ワゴン車はソバ畑に向かいました。「何があったんだろう、こんなに時間が掛かっているなんて」とひろ子さんは首をかしげながら。間もなく着いたソバ畑では、なぜか収穫が中断し、赤いコンバイン型の収穫機械のまわりに小野田さんら3人の組合員が集まっていました。「作業の途中で、キャタピラーの片側が外れちゃったんだってさ。小野田さんなら直せるんじゃないかって、急に頼まれたんだよ」
 3月に訪れた際、見せてもらった農業機械の倉庫には、メンテナンスと修理の機材がそろっていました。「農家は自分で直せなきゃ。業者を呼んでいたのでは、コストばかりかさんで赤字になる」というのが小野田さんの農家経営のポリシーです。南相馬市鹿島区で就農する前には、山梨県内で重機メーカー「コマツ」の営業マンをしていたキャリアがあり、そこにいた小野田さんは本宿のエンジニアのようでした。外れたキャラピラに太い支え木を何本もあてがい、大きなジャッキを二つ使って車体を持ち上げ、ハンマーを握り、原因箇所と格闘しています。最後に男3人で、鉄の棒をてこにして強化ゴムのキャタピラを再び車輪にはめ、収穫機械を少し前に動かすと、見事に元通りに。「やった、やった」と拍手が起きました。仲間の農家が再び運転席に座り、ソバの実を刈り取っていきました。

 このトラブルの解決に、1時間以上を要しました。いつの間にか、あたりに夕方の薄暗さが忍び寄り、ソバ畑の傍らに立つ大きな柿の木いっぱいの実が斜光を浴びて、いっそう赤々と輝いていました。
「さすが小野田さん。プロの農家だな」という声に送られて、自分の軽トラックに乗り込んだ本人はさすがに、ぐったりと疲れ切った表情。「作業をしていた仲間は、きょうが初めての運転だった。無理な動かし方をしないでよ、危ないから、と注意をしていたんだ」「東北とは少し生き方が違うんだな。ここでは秋の収穫が終わると、冬はお休みにする農家が多い。昔から貧乏だった東北の農家は、四六時中あれこれ心配したり、節約に頭を悩ませたり、冬にできる仕事を工夫したり、必死に生きてきた。だから、『何でもできるんだね』と頼み事をされちゃう。同じ集落の仲間なので、忙しくても、俺は引き受けている。燻炭(くんたん・籾殻をいぶした肥料、土壌改良材)の作り方とか、東北の農家の知恵も伝えている。だから、俺が生きていける場があるんだ」。小野田さんは笑って言いました。鳥原集落は約50戸ありますが、「平均年齢が70歳を超えているんじゃないかな。子どもは5人しかいない。だから、『おじいさんが倒れて入院した。もうコメを作れないので、何とか引き受けて』と、おばあちゃんから泣きそうな顔で頼まれたりして、栽培を受託する田んぼが毎年増えている」。

                 ◆

 稲刈りは10月上旬に終わっていました。悪戦苦闘したソバ畑を後にして、小野田さん、ひろ子さんと一緒に見に来たのは、12年5月に白州町鳥原に移って最初のコメ作りに取り組んだ場所でした。再出発の希望を託した田んぼはサントリー白州蒸留所のすぐそばにあり、傍らの水路には南アルプスに発する冷たい山水が流れ落ちています。山麓の斜面に段々の農地が切り開かれた高台にあり、夕日で稲の切り株の影が伸びた刈田のはるか北に、紅葉で赤く染まった八ケ岳の連峰が浮かんでいました。
 小野田さんは、わずか計60アールだった1年目の挑戦の後、地元の田んぼを借りて広げてきました。15年には4ヘクタールの自前の田と、地元農家からの計約2ヘクタールの受託田でコシヒカリを収穫しました。が、試行錯誤は続いています。「こちらの刈り取り時期がなかなか読み切れず、まわりが刈り始めたら俺も始めたが、ようやく分かりかけてきた」と小野田さん。「東北だと、稲刈り前、田んぼを干して稲の茎の3分の2が赤くなったら刈り取り時期―という目安があったが、ここでそれをやると『同割れ』(コメ粒に亀裂が入る)が起きる。日差しが東北より強く、気温が高いんだ」
 前年の14年秋、総量20万トンを超えるとされるコメ余りとともに、福島県や東北のコメについては明らかに原発事故由来の風評が市場価格に反映され、全国の銘柄米の農家前渡し金の下落が起きました。しかし、政権与党が各県で突き上げを受ける反動も起きて、15年産米はわずかながらに値を戻しました。北杜市などのコシヒカリは「特A」で18000円(60キロ当たり)で国内有数の高値を維持しましたが、福島県浜通産コシヒカリは、前年暴落しての6900円から9100円に上がっただけ。「作るだけ赤字という状況は変わらない。震災前まで、俺は(南相馬市鹿島区で作った)コシヒカリを2万円近い値で買ってもらっていた。『お前のコメだから食べたい』というお客さんと築いた信頼の値だった」(小野田さん)。農家がコメで生きていくための努力も水の泡にされました。

 「知り合いの南相馬市役所の人から『いつ戻ってくるんだ。また農業をやってほしい』と声を掛けられていたが、おととしの米価暴落の後は一切、話がなくなった」。収穫したコメの脱穀後の乾燥には、南相馬市から運んできた2基の大型乾燥機を使いました。7月に建てた倉庫の天井まで届くような、高さ約6メートルのタワーです。同市原町区で3ヘクタールのコメ作りをしていた兼業農家の弟さんが、原発事故が起きた年から農業をやめていたことから、この夏に解体して運んできました。
 「去年、小高(同市小高区)の知人がここに来た。俺と同じ農家民宿をしていたが、震災で家が全壊し、(福島第1)原発事故で小高区が避難区域にもなって、福島市から新潟、秋田、岩手と避難を重ね、青森で公営住宅に入って地元農家のブリッコリー作りなどを手伝っていたが、最後は栃木県内に家を買ったそうだ。『近くに医大病院もあり、生活に不便はない』と言っていた」。こう語る小野田さんは複雑な表情でした。年を追うごとに、そうした古里の人との行き来は少なくなり、「知人の奥さんが亡くなったことを、市役所から送られてくる広報紙で知った」。前回、白州町鳥原を訪ねた3月、小野田さんが「やっと借り手が見つかった」と語っていた鹿島区北屋形の無人の自宅には、やはり原発事故で全町避難となり、原町区の見なし仮設住宅にいた浪江町の住民の家族が入ったそうです。
 福島第1原発の北40キロ前後の距離にある鹿島区は、もともと放射線の影響が少なく、除染後の市の測定データでは、小野田さん宅の室内線量は0.09マイクロシーベルト(毎時)。住むのに問題がないといっていいレベルですが、水田の除染で土壌改良材ゼオライトが投入されたためか、「(稲作再開後の)コメの味が微妙に変わった」という話も聞いたそうです。「皆、以前にはもう戻れない。かみさんもここで一緒に暮らし、営農の本拠も移したところだ。二重生活を続けていては、前に進めないからな」
 ひろ子さんが続けました。「鹿島の自宅には、まだタンス、家財道具など一切が残ってる。トラックで1台分だね。いらないものを捨てないとならないけど。だんだん行く用事もなくなると、がらくたになっちゃう。悲しいけどね」

                 ◆

 「プチホテル白州」。白州町鳥原の集落外れにある小野田さんの家に隣接して、こんな看板のある大きなロッジ風の建物がありました。茶色いレンガの外壁に赤い屋根、広いバルコニーやテニスコートがあり、立派なリゾートホテルだったのに違いありません。南アルプスのしゃれた高原ホテルの雰囲気があり、長らく閉鎖されていたというのを、見るたびにもったいなく思っていました。「俺も参加して、ここを再生させる合同会社をつくった。来年4月にオープンさせる予定だ」。11月7日、この年3度目の取材行で会った小野田さんからこう聞いて、びっくりしました。「ホテルじゃなくて、鳥原の自然や農業を体験してもらい、鳥原の人たちと交流してもらうための宿泊施設にしたいんだ」
 昭和の終わりに建てられ、バブル経済のころのリゾートブームが過ぎた後は廃業状態の物件でしたが、「地元に安価で譲りたい」という話があり、農事組合法人「白州鳥原平組合」の組合長で元北杜市議の渡辺陽一さん(75)が引き受けて、15年秋、新しい施設名「eファーム甲斐白州」を運営する合同会社を設立したのでした。「俺が鳥原に初めて来た時、受け入れに尽力してくれたのが渡辺さん」という地域の世話役で、渡辺さんが代表組合員(社長に当たる)となり、「若い世代の農業体験の場となる農家民宿を鳥原でも実現させたい」と夢を温める小野田さんに参加の声が掛かりました。
 施設は少々古いですが、ヨーロッパ調のレストランがあり、ふかふかのツインベッドと浴室が各部屋に完備され、きれいに清掃されています。レストランの隣に広い厨房があり、ガス台や調理台が整っており、提供する食事や厨房づくりのアイデアを、ひろ子さんが担当することになっています。「来週、ここで集落の奥さんたちも呼んで料理教室を開き、実際に厨房を使ってみて、どんな料理を出したらいいか、話し合うの。やっぱり、地元のおいしいコメと野菜をたっぷり生かせたらなと思う」

 小野田さんが鳥原集落に住むようになって、変わったことは何ですか?-と、この日のレストランでの話の合間、渡辺さんに尋ねました。「原発事故での苦労は聞いている。新しい土地にも農業で溶け込み、これだけ頑張っている。われわれは規模の小さな兼業の農家が多いが、小野田さんはプロフェッショナルだ。その蓄積を分けてもらって、互いに協力し合って、それが信頼関係になった。奥さんと定住してくれるのはありがたい。私は親戚のような付き合いをして、いろんな人につないでいるよ」「小野寺さんには、若い人を呼び寄せる力がある。われわれにないものだった。高齢化していくばかりだった地域に、新しい交流の場をつくれたら」。渡辺さんは、小野田さんに期待していました。
 この日、さっそく東京の若者たちが「eファーム甲斐白州」に泊まることになっていました。小野田さんが南相馬市鹿島区の自宅で開いていた農業体験民宿の出会いが縁で、いまも応援者となっている広告代理店勤務の男性が紹介してくれた、「Youth for 3.11」という大学を超えた東京の学生ボランティア団体(NPO法人)です。この年、アスパラの種まき、野菜苗の定植や畑の草取りなどの作業を手伝いに通い、「きょうが収穫祭なんだよ」と小野田さんは心待ちにしていました。
 午後2時すぎ、男女7人の大学生が車で「eファーム甲斐白州」に到着しました。小野田さんに声を掛けられ、作業着姿になって外に出ると、施設のまわりに野積みになった木の枝や丸太の片付けに1時間も汗を流し、それからレストランでお茶を飲みながら、翌日の活動のミーティング。小野田さんがホワイトボードを使って話しました。若者たちへ伝える言葉を。「俺は、みんなの意見を聞いて、書いていく。一人一人、考えが違うのは当たり前で、それをまず全部書いて、それから議論し消去していく。最後に、必ずいいものが残るんだよ。そうやれば、争いもなくなる。戦争だって、そうだ」
 「Youth for 3.11」の代表、お茶の水女子大4年の永田和奈さん(22)は、埼玉県内の高校3年生になる直前に東日本大震災を体験し、その1年後、大学生になって初めて被災地の岩手県大槌町でボランティアをして、「東北に関わり続けたい」と思ったそうです。新たな出合いから、永田さんらは「山梨で農業体験」という継続的な参加募集プログラムをウェブサイトに掲げました。晩秋の日が深い山並みに落ちると、いつもは寂しいほど真っ暗になる鳥原集落の夜に「eファーム甲斐白州」の灯が温かく浮かび、ひろ子さんと一緒に山梨名物「ほうとう」を料理する若者たちの声が外までにぎやかに響きました。渡辺さん、小野田さんが夢見る交流の場が生まれつつありました。

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 「俺がまだ小さかったころ、昭和32年ごろだ。うちのおやじが長男だったので、兄弟みんなの面倒をみて、家族は15人もいた。飯も、さつまいもご飯が主だったなあ。どこまで食べても、芋ばかりだったなあ」。小野田さんが「Youth for 3.11」の大学生たちに語った話です。同じ古里の懐かしい食べ物で、忘れがたいお袋の味がありました。福島県相馬地方の同胞である私もよく知る「凍み餅」です。餅米をふかして「ごんぼっ葉」(ヤマゴボウ/オヤマボクチ)の葉を練り込み、寒風にさらした保存食です。「それを焼いて、砂糖じょうゆで食べさせてくれた。最高の味だった」
 小野田さんは古里から遠い山梨の山村で、それを作ってみようと思い立ちました。15年3月4日に訪ねた際、こんな話を聞きました。「こっちには、凍み餅がないんだ。飯山(長野県飯山市)にいる友だちに電話で聞いたら、「ごんぼっ葉をそばのつなぎにしているそうだ。取りあえず、種を送ってもらい、暖かくなってから1反歩(10アール)育てるつもり。冬には凍み餅を試作したいんだ」
 10月に再訪すると、昔の救荒植物でもあったごんぼっ葉は畑に大きな緑の葉を広げており、そこから摘んだ葉がビニールハウスの棚いっぱいに広げられ、自然乾燥のさなかでした。11月に来た「Youth for 3.11」の大学生たちは、カラカラに乾いた葉から硬い芯を抜く作業もしていきました。小野田さんの田んぼでは餅米も収穫され、南アルプス山麓の白州町鳥原は零下10度まで冷え込む日も珍しくないという冬を迎えました。「材料がそろって、凍み餅はうまくできたのだろうか?」。そんな想像をしながら小野田さんのその後を訪ねたのは、明くる16年1月31日でした。

 JR小淵沢駅前に雪はなく、軽ワゴン車で迎えに来てくれた小野田さんも薄手のジャンパー。平年なら、一冬凍結して事故を多発させるという白州町までの急坂も、ほとんど乾いていました。車内にも春のような日差しが注ぎ、私もジャケットを脱ぎました。「暖冬でね、零下10度は二日くらいで、寒さが続かない。そのせいなのか、12年にこっちに来てから初めて、今年は初日の出が見えた」
 鳥原の家に着くと、お茶とともに出してしてくれたのが、真空パックの茶色い干し芋。かじると、これまた懐かしい甘さでした。「畑のベニハルカから加工まで、うちの奥さんの試作品だよ。国の助成事業を紹介してもらい、去年の秋から家の裏に建てていた農産加工場ができたんだ。見に行こう」
 裏手に回ると遠望できる八ケ岳にも雪は少なく、早春のように青っぽく感じられました。見慣れない銀色の四角い建物があり、中は広々として、大きな流しと調理台、ガス台、冷蔵庫などが並んでいます。「ここで、今年はいろんなものを作る。さまざまな餅、赤飯、ジャムとか。地元の道の駅などだけでなく、インターネットにも販路を広げていこうと思う。もちろん、干し芋も、凍み餅もね」
 小野田さんはそう言って、農産加工場の裏手、八ケ岳に面した北側に出ました。屋根の下の日陰に渡されたアルミの長いパイプから何十本もの長いひもが垂れ、干されていたのが凍み餅でした。独特の半月形に切り分けられた灰色の餅に、黒いごんぼっ葉が点々とまぶされています。触ってみると、さすがに、かちんかちんの硬さです。「実家に帰った時に、お袋から作り方を聞いたり、(福島県)古殿町で自家製の凍み餅を販売している農家の女性に電話を掛けて助言をもらったりした。どうやら、寒風にさらす前に餅を水に漬ける時間が、俺は足りなかったらしい」。小野田さんは苦笑いしました。
 

 その時にはっと思い出したのが、原発事故後間もない11年4月から、やはり取材の縁を重ねた同県飯舘村の農家の主婦、佐野ハツノさん(67)=「何も終わらぬ5年/余震の中で新聞を作る137~生きる、飯舘に戻る日まで①若妻たちは飛んだ」参照=が、全村避難を前にしてごちそうしてくれた凍み餅でした。やはり、たっぷりの砂糖じょうゆで味わった絶品でした。しかし、こんな痛切な言葉が続きました。「飯舘の山のごんぼっ葉は、(放射能のために)もう採れない。これが、震災前に作って取っておいた最後の凍み餅なの」。ごんぼっ葉は、原発事故から5年を経たいまなお、相馬地方では「採れない山菜」の一つとみなされています。かつては家々のばあちゃんが手作りし、私もおやつに食べていた凍み餅は、ほとんど幻の味になってしまいました。それは「文化の喪失」でした。同じ味の記憶を持った小野田さんが遠い異郷で復活させた凍み餅に、私は感動して見入っていました。

 

2015年10月20日、キャタピラが外れたソバの収穫機械を修理する小野田さんー北杜市白州町鳥原

10月20日、15年の収穫を終えた田んぼに立つ小野田さんと妻ひろ子さん、愛犬ラン

小野田さんらが合同会社をつくり、農業体験の宿泊施設として再生した「eファーム甲斐白州」

11月7日、ボランティア作業に訪れた、「Youth for 3.11」のメンバーと小野田さん

作業を終えて、「Youth for 3.11」のメンバーとレズトランで語り合う小野田さん

10月20日、鳥原の自宅の畑に育った「ごんぼっ葉」

16年1月31日、初めて試作した凍み餅の出来をみる小野田さん、ひろ子さん。後方に八ケ岳

 

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 「この土地に1人で飛び込んだのが、震災、(福島第1)原発事故の翌年、2012年の5月だった。古い空き家を借りて、試行錯誤を始めたんだ」。15年3月4日、山梨県北杜市。北の諏訪から山峡を吹き下ろしてくるという早春の風は冷たく、眼前にそびえる南アルプス・甲斐駒ケ岳(標高2,967メートル)の頂もまだ白く、小野田等さん(62)が立つビニールハウスのまわりには「一度降ると、寒さでいつまでも解けない」という雪が残っていました。なだらかな阿武隈山地、のどかな田園が広がる福島県浜通りの古里から遠く、峻厳とさえ映る異郷の風景は、そのまま小野田さんの心境を物語るかのようです。
 「最初の年は来てすぐ、借りた田んぼの田植え準備に追われた。ずっと眠れないままで薬に頼っていて、こっちの医者に行くと、安定剤と睡眠薬をくれて、それでやっと眠れた。が、それ以来、薬をやめた。薬を続けるのは体に悪いし、頼るのはよくなかった」
 小野田さんは、南相馬市鹿島区の浜沿い、北屋形という集落で9ヘクタールのコメ作りを営む農家でした。11年3月11日の津波で集落の家々は流され、明治時代の干拓で地元に生まれた広い水田地帯(八沢浦地区)も津波と激しい地盤沈下によって水没し、かつての海辺の浦の姿に戻りました(その後の排水工事で水田は復活)。わずかに高台にあった小野田さんの自宅は助かりましたが、追い打ちをかけたのが原発事故です。鹿島区は福島第1原発から北に約40キロ離れ、放射性物質の影響はほとんどなかったのですが、市内全域で住民の避難が相次ぎ、コメの作付けも自粛とされました。近隣の農家仲間たちが消沈し、津波の被災と原発事故への重苦しい不安から再開の希望を失う中で、小野田さんは「来年もここでコメ作りができるかどうか。まだ、その見通しすらない。放射能の影響の有無を確かめるコメを取る、試験田の田植えをやりたい。風評を農家自らが吹き払いたい」と決意し、たった1人で5月下旬に決行しました(『余震の中で新聞を作る24〜相馬・南相馬へ/田の神よ、守れ』参照)。

 原発事故など知らなかったかのように、その秋、試験田の稲は黄金色に実りました。その結果は。
『収穫後の玄米の放射性セシウム測定検査(市による測定)を行ったところ、結果は、試験田内の2地点A・Bでそれぞれ、A/セシウム134=14・7、同137=15、B・同134=0、同137=11・4(いずれもベクレル)。国の暫定基準値(キロ当たり500ベクレル/2012年4月から同100ベクレルに厳格化)をはるかに下回り、土壌の測定値も1キログラム当たりA=760、B=653と、同様に国のコメ作付の目安(5000ベクレル)を下回りました。
 「精米すれば、ゼロになる数値だった」と小野田さんは語り、「風評を農家自らが吹き払いたい」と念願した通りの結果になりました。が、同10月に福島県が2011年産米の「安全宣言」を出した後に、福島、伊達、二本松各市内の一部の産米から暫定基準値を超えるセシウムが検出され、大きなニュースとなり、福島の農産物に対する逆風はさらに強まることになりました。「個人の努力では、風評に立ち向かえないのか」との挫折感もまた。』(本ブログ63『再びの春 農の行方/その1』より
 小野田さんは逆風の強さ、賠償請求をめぐる東京電力の姿勢に、心身の疲れと憤りを募らせました。
 『隣で妻ひろ子さん(58)が、「『風邪にしてはおかしい』と話していたの。1月10日から、その月いっぱい寝込み、起きることもできず、ご飯を食べるのがやっと。頬はげっそりとやせて。心身症でも、うつでもない。なら、何なの?と。医者からは、『強いストレスがある。環境を変えなさい』と言われた」。昨年3月11日以来,ため込んだ疲れとストレスが堰を切ってあふれ出、毒のように心身を侵した—。そうとしか思えませんでした。
 「東京電力と交渉し始めたら、また不調がぶり返して。やり取りは、女房にやってもらっている」と小野田さん。この時、そうだそうだ東電から新しい書類が届いた−と、ひろ子さんが目の前で封筒を開けました。』
 『「あんたたち(東京電力の賠償請求窓口の担当者)の原発事故のために俺は苦労しているのに何だ、と言っても、また話がかみ合わない。それがまた、新しいストレスになった。未来のことでなく、起きていることはすべて現実なのに」と小野田さん。ここでは農業を続けることができるのか否か、とどまるべきなのか移住すべきか、自らの心身を害するほどに悩み葛藤し、その思いが決して通じることのない世界と交渉を続けることの濃い疲労が、その顔にありました。』(本ブログ63より

         ◆

 農業を諦めて働き口を見つける仲間もいた中で、「どうやって、これから生きていくか」「このままでは病気になり、だめになる」「俺には、農業しかない」と悩み、葛藤した末、長年作ってきたコシヒカリ、10年続けたイチゴのハウス栽培を両立できる土地はないのか、と小野田さんは手探りを始めました。北海道の函館近郊、宮城や埼玉など、可能性がありそうな候補の町と連絡を取って調べましたが、気候や受け入れ態勢などが合わず、12年春になって、最後まで残った北杜市との話が具体的に進んだのでした。自身も何度か現地に足を運んで、農地、借家の確保などを話し合い、何とか田植えの時期に間に合いました。南相馬市鹿島での就農前、重機メーカー「コマツ」の販売会社の営業マンとして山梨県富士吉田市を中心に6年間働いた経験もあり、「なにかの縁がつながったんだろう」。
 身を引き裂かれるような思いで古里を離れて、出合った新天地は、サントリーの白州蒸留所がある北杜市白州町の鳥原という集落。JR中央線の小淵沢駅(標高881メートル)から急坂の道を下り、釜無川を渡った対岸が白州町です。わずか計60アールの水田でコシヒカリの栽培に挑戦しました。
『戦国時代の「信玄堤」の伝承にもあるように、自然と闘いながら山峡のわずかな平地を利用して田畑を開き、山の恵みを生かしてきた土地であると、実際に立ってみて実感できました。
 「田んぼの区画も小さく、9ヘクタールなんて、もう望むべくもない。この1年は試験のつもり。昼はけっこう暑くなるが、日がかげれば寒い。稲を寒さから守る深水管理が大事になりそうだし、稲刈りの時期も、向こうよりひと月も早いそうだ。まず、やってみないことには。俺が24年間やってきたコメ作りがここでもできるか。それを確かめてから、移住を決めたいと思う」。妻ひろ子さん(58)と愛犬ランを(南相馬市鹿島の)自宅に残しての単身生活です。』(本ブログ73『引き裂かれる思い/南アルプス山麓で』より/本ブログ85『引き裂かれる思い 南アルプス山麓で~その2』参照)
 その切実な意欲と東北農民らしい研究熱心さは、すぐに地元の信頼を集めるようになり、後継者がいないまま高齢化した農家からの耕作受託が増えました。3年目となった15年春の時点の営農規模は水田4ヘクタール、畑1ヘクタールに広がり、まだハウス1棟分ですがイチゴ栽培も復活しました。

 サントリーの醸造所に近い同町鳥原集落の外れに小野田さんの家があります。最初は古い空き家で借り住まいをし、同じ年の秋に集落の人の世話で、東京の会社の社員向け保養所だった三角屋根、広いベランダがある山荘風の家を借り、翌13年5月に買い取りました。後に引けぬ決意の表れでした。どっしりした鉄製のまきストーブが備え付けられた居間で、小野田さんは茶を入れ、語りました。
「鹿島に帰るとしても、おそらく現役の農家を引退した後だろうな。あっちにいたら、農家は続けられなかった。それが分かってきた。就農してから、俺が作るコメを食べてくれるお客さんとの出会いの縁を重ね、23年を掛けて、首都圏を中心に200人になった。ところが、原発事故がそのつながりは途切れさせた。白州に来て再びコメを作ることができ、なじみのお客さんたちに再出発を知らせる手書きのダイレクトメールを出した。思いを丁寧につづったつもりだった。が、返事をくれたのは10人。みんな、離れていった。たとえ山梨のコメでも、福島の人が作っているからだめなのか」
 「去年、鹿島の同級生を亡くした。同じ南海老でかなり大きくコメ作りをやっていた農家だが、津波ですべて流され、残ったのはハウスだけだった。その上にある親戚の土地に家を建て直し、奥さんとハウスを始めたのだが、急に倒れて亡くなってしまった。脳梗塞だったかと思うが、やはり疲れ、心労、ストレスが原因だろうと感じた。(南相馬市に合併する前の)旧鹿島町の農業委員も一緒にやった間柄だった。同級生に逝かれるのは一番きつい、つらい。俺もまた、あのままの状態でいたら、この世にいなかったのではないか、と思われてならない」

        ◆

 再起の新しいコメ作りを支えてくれたのは、暗中模索のさなかで「応援するから、頑張れ」「どこで作ろうと、あんたのコメを食べるよ」と返事を寄せた10人のお客さんでした。「残ってもらった人たちが、それぞれ新しいお客さんを紹介してくれた。おかげでいま、60人まで復活した」。新規の人には5~10キロの新米を試食用に送って食味を確かめてもらい、その上で買ってもらうといい、独居から多様な家族の形に応じて5~30キロまで送り、それが計80俵(4・8トン)ほどになったそうです。「震災の時は、患者さんに出すのを家人に止められて中断したが、また頼むよ」と言って、すぐに購入を復活してくれた千葉県の病院の院長、東京のお得意さんの紹介でつながり、「困っているのか」と注文してくれた名古屋の仕出し屋さんもおり、「いろんな人の縁に助けられたんだ」。
 白州町で作るコメはコシヒカリですが、鹿島で作っていたコシヒカリとまるで違う、と小野田さん。こちらに来たばかりのころ、世話をしてくれた集落の人から「ご飯を食べに来て」と呼ばれ、初めて口にしたコメにびっくりしたといいます。「『これが、コシヒカリか? 粘りけがないね』と感想をすると、逆に『粘りって何だ?』と聞かれた。でも、うまい。雑味がないと東京のお客さんは言う」。これには、ミネラルウォーターなどにも用いられている、南アルプスの花こう岩地帯をくぐったミネラル分豊富なきれいな水、同じ花こう岩質の砂質壌土、昼夜の気温差の大きさなどの理由があるといわれています。
 「ここのコシヒカリは梨北米(山梨県北産の意味)といい、地元の農家は『魚沼産コシヒカリよりも高値の年があった』と自慢する。確かに13年産米は特Aランクで18500円(60キロ)もした。(福島県)浜通りのコシヒカリの値が暴落した去年(14年産米の概算金が同11500円から6900円に下落)も、ここのコメは1500円下がっただけだった。浜通りの米は1年して2000円ほど値を戻したが、俺の試算では作るだけ赤字になる。それも風評が加味された値段だろう」

 南相馬市鹿島の知人の農家から、津波にのまれた近隣の水田が復旧、除染もされ、「50~60ヘクタールもの広さで圃場整備(1枚ごとの面積を広げる事業)されて田んぼが大きくなったし、そこで、コスト低減の完全直播(ちょくは・種もみの直まき)をやる」と電話があったそうです。だから、帰ってこないか、と。だが、「震災前、14000円(同)はした」と小野田さんが振り返る浜通り産のコシヒカリは風評に翻弄され、南相馬市は稲作再開を宣言したこの15年、農家の意欲、収入を減退させぬために、農協を通して、より高く売れる「餌米」として販売する窮余の策を採りました。
 「ここでは放射能のことが一切話題にならないし、福島第1原発で汚染水漏れが起きたといった事故以外、新聞もテレビも被災地の情報を流さない。精神的には楽になったが、浦島太郎だ」。小野田さんは、震災も原発事故も何事もなかったような風化の現実に割り切れなさを覚えます。被災地とは天地ほどのコメの扱いにもかかわらず、「わずか1500円下がっただけで、ここの農家たちは『やっていられない』という気持ちのようで、実際に作るのをやめて、俺に60アール分の耕作委託の田んぼが集まったほどだ。いいコメは取れても、農家はほぼ70代で若い後継者がおらず、だんだんとやめていくい人が多い。俺はいろんなことをやりたいが、忙しい時にお手伝いを頼む相手がいない」

          ◆

 人手の確保が一番の悩みだったという小野田さんを、14年春、大学生たちが応援に来ました。筑波大の「のうりんむら」というのサークルです。自分たちで大学近くの田んぼを借りてコシヒカリと餅米を作り、秋の学園祭で販売している、農業を愛する若者たちです。田植え前の大仕事である苗作りのための種まき作業を、メンバーが車で遠路駆けつけ、わいわいと片付けてくれました。「のうりんむら」に声を掛け、縁をつないだのは、元一橋大生で東京の広告代理店に勤める渡辺雄さんという小野田さんの若い友人。「鹿島の自宅で農家民宿を始めたころに出会って、それ以来の仲間なんだ」
 小野田さんの鹿島の自宅は、カナダ産の丸太で組まれた野趣たっぷりのログハウスです。「コマツ」を退職し、就農のため帰郷した時、親しい同僚らが来て新居造りを手伝ってくれたそうです。そこで農家としての新たな人生を歩みだすとともに、もう一つの大きな夢を育てる場にしていきました。原発事故から間もない11年5月初め、小野田さんの苦悩を初めて紹介した本ブログ18『相馬・南相馬へ/風評に立ち向かう』にこのようにつづりました。
 『「あと10年は、農業を続けようと思っていた」と、小野田さんは語りました。そのために温めている夢も、始めていることもあります。国の都市農村交流事業に参加して2000年、「グリーンツーリズム・コーディネーター」の資格を得、自宅のログハウスの一室を開放して「もっけの幸(さいわい)」という名の農村体験民宿を開いているのです。
 都会から「農」を志す人を募って農業体験をしてもらい、「将来、高齢化などで農家がやめてゆくような地域の農業を助けてくれる人材を育てよう」とのプランです。福島県立農業短大の学生や、東京の若者たちが毎年訪れるようになっていました。』

 渡辺さんも広告代理店という都会の仕事に就きながら、小野田さんからもらった「農」の種まきをいまも手伝っている人です。「彼のような、いろんな気持ちやきっかけで農業をやってみたいという若者たちに、泊まりがけで農家の仕事を体験してもらい、夜はにぎやかに議論をし、仲間づくりをしてきたんだ。その中から、農業に新しい可能性を開いてくれる後釜たちが育って、俺は安心して後方支援に回れたらいいな、という夢があった」
 「若い者を入れていかなきゃ、農業そのものがだめになる。移ってきた山梨の農村でも、そんな現実は進んでいた。だって、俺が『若手』なんだもの。お客さんとのつながりもそうだし、若い世代との交流の場になっていかなきゃ、農業も農村も生き残っていけない。原発事故は起きたが、鹿島を離れなくてはならなかったが、育てかけた種を絶やしたくない。まだ、夢半ばなんだ」
 白州町に買った元保養所の家は築30年になり、ウッドデッキや外壁の防水加工が古くなったりして、屋根も含めて直さないといけないそうですが、2階には7、8人がゆったりと泊まれるスペースがあります。「のうりんむら」の学生たちは泊まりがけで、春の種まきの後も畑の手伝いなどに通い、「さすがに動きがいいよ」と小野田さん やはり渡辺さん紹介で、「Youth for 3,11」という大学を超えた東京の学生ボランティア団体(NPO法人)も14年秋の野菜収穫に訪れました。ホームページで結成のきっかけをこう伝えています。    

 「2011年3月11に発生した東日本大震災では、ボランティア不足が深刻であるにもかかわらず、学生がボランティアに行けていない現状を目の当たりにしました。将来日本を担う学生が、社会問題解決において重要な存在であると考えています。そこで私たちは、学生にとって参加しやすいボランティアの機会を提供し、ボランティアと学生をつなぐことで社会問題に向き合える若者を増やしていきます」
 石巻や気仙沼でカキ、ホヤ、ホタテ、ワカメなどの養殖の手伝い、福島県内で避難中の被災者の支援などを、現地の当事者とじかにつながってプログラムを組み、参加する大学生を募って週末にバスを運行してきました(16年5月現在も活動は続き、原発事故被災地への住民帰還に向けた家々の清掃や草刈り、新しいコミュニティための瓦版づくりの取材なども行っています)。
「継続的にお手伝いしたい、と彼らも言ってくれてね。今年も4月中旬の種まきに来てもらえるそうだ」。零下10度を下回る山峡の厳しい冬を越え、若者たちと再会できる春が近づいていました。

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 妻のひろ子さんはこの日、不在でした。「鹿島の家にやっと借り手がついたんだ。(福島県)浪江町の人で、原発事故で全町避難となり、(南相馬市)原町の借家を見なし仮設住宅にしていたが、家主が戻ってくるんだそうだ。それで、家を探していたんだな。その話で、かみさんは鹿島に帰っている」
 小野田さんはもと南相馬市原町区(旧原町市)の農家の生まれで、Uターンして鹿島で就農してから農業者としての地元の信用と水田耕作の受託を積み上げて9ヘクタールまで経営面積を広げました。「だが、もう年間100万円もの賃借料を払う意味はなくなり、元の持ち主に返した」。家財道具や農業機械類も、暇を見つけては鹿島の自宅を往復して4トントラックで運んだそうです。田んぼが狭い山梨では珍しい五条植えの田植機、こちらで買い換えたという2年ものの中古のコンバインなどが白州町鳥原の家の前にある倉庫に並んでいます。ビニールハウスでは栽培を再開してから2年目の収穫期のイチゴが赤々と、形のよい三角錐の実を垂らしていました。が、小野田さんは浮かぬ顔です。
 「去年はうまくいったんだが、うどんこ病(白いカビが広がる)が出た。苗作りがうまくいかなかった。その時期に、こちらではすごく乾燥した風が吹く。十分に水をかけたつもりでも、午後になると苗の葉が丸まっている。気候風土の違いとは、つくづく、そこで生きてみないと分からないものだ」
 古里にはもう、いつでも帰れる場所も、丹精込めて肥やした田んぼもなく、前を向いて進むしかない覚悟の試行錯誤が続いていきます。

2015年3月4日、北杜市白州町鳥原に立つ小野田さんのビニールハウス。甲斐駒ケ岳が眼前にそびえる

元保養所を買い取って新天地の家にした小野田さん

家のまわりの畑を見る小野田さんと愛犬ラン

小野田さんが新しいコメ作りに使う五条刈りのコンバイン

ビニールハウスで栽培を再開して2年目のイチゴ

 

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 『東京電力福島第1原発事故後の農業復興を目指し、南相馬市の農家グループ「南相馬農地再生協議会」が栽培に取り組む菜種の油を、英国企業がせっけんの原料に選び、10日から神奈川県内の工場で製造する。6月ごろ収穫される本年産菜種からも油1~1.5トンを買い入れる予定だ。英国企業は継続支援を希望し、同協議会は「念願だった販路が開ける」と喜んでいる。
 農地再生協議会は、原発事故後に作付け自粛とされたコメに代わり、菜種の栽培と油の特産化を目標におととし、同市原町区太田の有機農家杉内清繁さん(65)を代表に、共鳴する農家ら12個人・団体が結成した。昨年は約30ヘクタールに畑を拡大、9トンの菜種油を生産した。
 英国企業は世界的な化粧品・バス用品メーカーのLUSH(ラッシュ)。昨年6月、日本法人担当者が杉内さんを訪ねて菜種油を仕入れ、せっけん商品化の研究開発を英国本社で行った。好結果を得て9月に550キロを買い入れ、生産に乗り出すことを決めた。来月1日から「つながるオモイ」の名前で国内販売する。
 (中略)「菜種油を原料にしたせっけん開発で、生産の取り組み、品質、哲学が消費者にとって確かな相手を探していた。杉内さんたちとの提携は東日本大震災の被災地支援にもかなう。買い入れを継続して増やしたい」とラッシュ・ジャパン(神奈川県愛川町)の担当者は話す。』

 2016年2月9日の河北新報に載った記事です。11年3月の福島第1原発事故後のほぼ5年間、放射能による農地の汚染と厳しい風評から地域再生の苦闘と模索を重ねた南相馬市原町区太田の人々にとって、ようやく訪れた明るいニュースでした。「いつか日の目が見られなくては、被災地の俺たちは浮かばれない」と、記事に登場する杉内さんは自宅の居間で苦笑いしました。LUSHの関係者から最初の話があったのは15年6月。杉内さんの活動を紹介したNHKのテレビ番組を(国際放送で)同社の英国本社トップが見て、動かされたことがきっかけだそうです。「14年の秋、チェルノブイリ原発事故(1986年4月)から28年が経過したウクライナの被災地を、奥村(健郎)さん=(58)・太田の農家で南相馬農地再生協議会の仲間=と一緒に視察した時だ。現地で取材を受けたんだ」
 杉内さんが別のNHKの番組で知ったのが縁で交流してきたNPO法人「チェルノブイリ救援・中部」の理事の川田昌東さん(元名古屋大・分子生物学者)の橋渡しで、川田さんが現地の人々と協働して取り組んでいた菜種栽培と、菜種油やバイオマス燃料への活用を見聞しようという旅でした。
 『福島第1原発事故で、地元の有機農業の仲間たちは再開を諦めて離れたそうです。しかし、杉内さんは郡山市や仙台市に避難した後、「荒れて先が見えぬ南相馬の農地と農業を再生したい」と志して民間稲作研究所に通い、そこで油脂植物に着目しました。「土壌の放射性物質の吸収効果とともに、種から絞った油には放射性物質が移行しないという実証結果を知った。これだと思った」と語ります。 川田さんらが菜種栽培と油の活用をチェルノブイリ周辺の復興産業として根付かせた理由もそこにありました』(『余震の中で新聞を作る128 風評の厚き壁を前に/南相馬 ・新たな希望~相馬農高生の魂』より)

 「(15年6月に)LUSHからは、『菜種油を、石けんの原料として30トン欲しい』と言われた。しかし、南相馬再生協議会として生産した15年産(毎年6月が収穫期)の菜種油は、計30ヘクタールの畑から9トン。私の計算だと、100ヘクタールに広げる必要がある。16年産の菜種畑は42ヘクタールに増えたが、まだまだ足りない。しかし、これからへの目標はできた」と杉内さん。

 15年産の菜種油は、9トンの大半が食用油「油菜ちゃん」、姉妹品の「油菜ちゃんマヨネース」の原料となっていました。LUSHからの注文に可能な限り応えようと、杉内さんたちは550キロ分を送ったといいます(一部は英国本社に送られ、商品開発に用いられました)。「何よりも、一番の課題だった南相馬産菜種油の販路が、一気に開けることになったのがうれしい」。杉内さんは語りました。LUSH側は16年産菜種油も1~1・5トンを買い入れたい意向で、継続的な提携を約束しました。「現在は収穫した菜種を栃木県の施設に運んで搾油しているが、産地として地元に搾油所も設けたい」
 晴れの舞台となった、ラッシュ・ジャパン品川オフィスでの商品発表会があったのは2月15日。さまざまなメディアが詰めかけました。「つながるオモイ」について、同社は「DROP OF HOPE」という英語名を付け、「たくさんの人の希望を湛えるひとしずくのオイル。福島・南相馬産の菜種油に託された、溢れんばかりのオモイも一緒にソープにしました」と紹介。担当者は「南相馬の生産者が育てた菜種油を商品に使うことで、震災からの復興を支援したい。それまでも菜種油を原料に用いることを検討していたが、『顔の見える』生産者のものを消費者に届けたい」とアナウンスしました。
 出席した杉内さんは、登壇して話しました。「菜種油を通して、地域の農業も経済も再生したい。原発事故を契機に若い世代が避難・流出した。もう住める所ではないと感じたのかもしれない。前に進む勇気も失いかけた時期もある。だが、菜種は、チェルノブイリでの取り組みから、地域の再生につながると確信できた。農業と人の交流も目指したい」。苦闘の実りである商品を掲げて、誇らしそうに(本ブログ136『 帰れるか、帰れぬのか~南相馬 苦き風評からの再起 その2/菜種の可能性』参照)。

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 「菜種だけじゃなく、太田の希望の星がもう一つある。イチゴを復活させた若者がいるんだ」。奥村さんから、こう紹介されていた人がいます。奥村さんと同じ下太田集落に立つ15アールのハウスを訪ねたのは、2月2日です。32歳の農業大和田祥旦(よしあき)さん。原発事故の後、5年ぶりとなるイチゴの収穫を始めたばかりで、ハウスの中には見渡す限り、まぶしい緑と白い小さな花、赤く色づく「とちおとめ」の実がありました。ブーンという小さな羽音は、授粉をするミツバチたちです。
 東北の太平洋岸のイチゴといえば、宮城県亘理町、山元町が大産地で、相馬市の観光農園も知られますが、南相馬市内の栽培農家は数軒だけ。なぜ、仕事に選んだかを大和田さんに尋ねると、「イチゴが好きだから。味が大好きで、自分で食べたいから」と屈託なく笑いました。ハウスは、農家の父親が15年前に建て、キュウリ栽培をしていた施設を利用しています。後継者として滋賀県内のタキイ園芸専門学校で学び、静岡、栃木両県内の観光農園などでイチゴ作りを研修。「生食で勝負し、じかに消費者とつながれる」という醍醐味を知り、2007年に実家に戻って就農すると同時に、酸味と甘さのバランスが一番いい」というトチオトメの栽培に挑戦しました。そして、東日本大震災の発生は5年目のシーズンのさなか。「技術も品質も販路も、やっと順調な軌道に乗ったところだった。得意先になった市内のスーパーのイチゴの棚の8割を自分の品でしめられるようになり、ケーキに使ってくれるお菓子屋も1店できた。足場が固まり、贈答用の箱も新調して、これから広げようとしていたところだった」

 あの日、11年3月11日の午後2時46分は、朝から昼過ぎまで収穫したイチゴをパック詰めしていた時だ。幸いにも、自宅に大地震の被害はなかったが、やがてテレビ映像が大津波の襲来を伝え、市内で漁師をしている母親の弟から「家が流される」という悲鳴のような電話があった。「行けるとことまでいってみよう」と車で浜の方角に向かい、途中、すさまじい津波の被災を目撃して戻った。「(福島第1)原発がやばいと感じ、万が一の時は誰かに手助けしてもらえたら」と「mixi」で友人たちに状況を知らせ、12日の午後3時ごろ、北隣の相馬市と接する鹿島区の親戚宅に家屋で身を寄せました。間もなく、「ドン」という爆発音が20キロ余り南の福島第1原発から響き、テレビが水素爆発発生の異常事態を告げていました。危機が迫ったと感じた大和田さんと家族、親戚の計12人で避難を決意します。西隣の飯舘村に向かう峠道の渋滞に巻き込まれながら、会津まで車を飛ばしました。
 「14日になって園芸専門学校の先輩から連絡があり、『(会津若松市近郊の)東山温泉に身内の旅館があり、被災者を受け入れる避難所になっているから行ってみろ』との情報をもらった」。ところが、犬と猫を同伴していたために旅館に入れず、「うちの家族の5人と2匹で、磐越道をさらに進んで新潟を目指すことにした」。新潟市は縁のない異郷でしたが、不動産屋を探して水道、ガスがすぐに使える空き家を見つけました。ここでも助けてくれたのは、園芸専門学校の先輩です。「OB会の新潟支部長が借家の近所にいて連絡をくれ、親身に世話をしてくれた。避難所や、民間で支援活動をする人を訪ね、仮住まいに必要な物資を得ることができた。だが、生活費を稼がなくてはならず、3月25日には仕事を見つけて動き出した。自分と両親は農家の手伝い、妹さんはファミレスでバイトに通った」

 父親は5月、母親も6月には太田に戻りました。原発事故後の混乱から間もない当時の太田の様子を、本ブログ22回『相馬・南相馬 見えない壁を背に(11年5月16日)がこう伝えています。
 『太田地区では、3月12日に起きた第1原発の水素爆発事故の3日後、南相馬市の手配したバス5台で子どものいる家族らの避難が始まりました。20キロ圏に接する地域と線引きされて、住民の自主避難が相次ぎ、区長会もいったん解散となりました。「地区で残った人は1割くらいだった」と、自身も踏みとどまった奥村さんは語りました。
  残った区長や市議らが、ボランティア活動という形で再び集ったのは3月23日でした。20キロ圏内となった南隣の小高区で、避難後の無人の家々で盗難が起きているという話があり、自主防犯のパトロールを始めたのです。また、「『避難先で迷惑を掛けるから』と高齢者が残る家もあり、民生委員も残って回っていた。われわれが一緒に支えなくては、というのも活動のきっかけだった」。
  残った人々は、放射能への不安を募らせながらも、「避難した農家の大型ハウスを、みんなで有効に生かさせてもらおう」と、キウリやコマツナ、シュンギク、イチゴなどを「孤立無援のろう城」の生活の糧として、食べつないだそうです。
  4月に入ってからは避難先から戻る人が増え、同25日になって区長会も再開。「今は、世帯のおよそ8割が戻った。男の人は1日も早く働いて収入を得ないといけないし、子育て中のお母さんたちは避難先にとどまるという家も多く、住民の数にすれば、まだ6割くらい。今の状況では仕方がないのかもしれないね」と奥村さんは語りました。』

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 大和田さんが妹と一緒に帰郷したのは翌12年夏。きっかけは「イチゴからまた作るか」という父親の相談でした。現実には原発事故のため、南相馬の人口のまだ半数以上が流出していた時期で、商店街や商業施設の再開も道半ばで、厳しい風評も地元産品にのしかかっていました。大和田さんが自力で開拓した販路は途切れ、「東京電力の賠償がどうなるかも分からない中で冒険ができず、まずは作りやすいキュウリから始めよう」と決まりました。それから3年、イチゴは見果てぬ夢の日々でした。
 「それでも、イチゴを諦めたくなかった」と大和田さんは振り返りました。父親のキュウリ作りを手伝う間、「ブランクだけは出さないようにしよう」とイチゴの親苗を農協から仕入れ、10月ごろから冬越しさせて、春にプランターに移す作業を辛抱強く続け、親苗を約200本に増やしていました。
 「ぼちぼち地元産を取引できる状況になってきた。また、イチゴを出してもらえたら」。得意先だったスーパーから、待ちに待った連絡をもらったのが14年暮れ。「うれしかったが、久々なので心配はあった」と大和田さん。原発事故前までイチゴを作っていた畑とは違う場所で栽培することになり、「何年もやって分かる畑の土の『癖』が、最初は分からなかった」という手探りからの再出発でした。原発事故に心折れることなく、再起の希望とともに守り育ててきた親苗を定植したのは15年11月。苗は病気を出すことなく、すくすくと伸びて実を結び、16年2月1日の朝、原発事故で中断して以来5年ぶりの収穫を迎えました。「最初の実りは、震災前にひいきにしてもらったお客さん、苦しかった避難生活を助けてくれた人たちに食べてほしい。会津や新潟をはじめ、全国にいる園芸専門学校の先輩や仲間たちに、真っ先に」。心を込めて詰めた初採りイチゴの送り先は約30カ所にもなりました。
 本格的な販売・出荷を始めたのは2月15日。1日15箱と少ない量でのスタートでしたが「イチゴのシーズンが終盤になる5月には、日に60箱は出したい。それを目標に勝負する」。原発事故前、クリスマスの季節を中心に得意先だったケーキ店も「地元の新鮮なイチゴが欲しかった」と仕入れを再開してくれました。大和田さんの友人がなじみにしている市内のバーからは「南相馬の旬の味を生かしたカクテルを作りたい。その材料に」と注文が寄せられました。「市内のイオンにある農協直売場にも出している。ほそぼそとだけれど、販路は広がっている」。贈答用の注文も「宮城県内の(園芸専門学校の)仲間が良くしてくれる」。大和田の挑戦は、風評の「壁」にも風穴を開けつつありました。

 「これから、南相馬でどう生きていきたいか?」。取材の後、大和田さんにこんな質問をしてみました。南相馬市内のイチゴ栽培農家がいま、原発事故前の半数の5人しかおらず、若い人もほかにいない、という話を聞かされ、被災地の農業青年としての孤立感はないのか、少し気になったからです。
 「自分はここで、昔からの人のつながりを一番大切にしていきたい」。大和田さんからは、迷いのない答えが返りました。「正月の神楽、運動会、芋煮会とか、どこでも集落ぐるみでやらなくなってきた。親の世代が、息子たちに田舎の面倒事に巻き込みたくないと、行事を簡素化してきたこともある。でも、そこから出てきた問題もある。若い人たちが地元でも顔を合わせる機会が減ったんだ。仕事が農家だけでなく、ばらばらになったからなおさら」
 「太田では、水田を広げる基盤整備事業が計画されているが、若い人の声が出てこない。この地域を復興させていくのは国の事業ではなく、人の力。そのつながりが再生してこその復興なんだ。原発事故で一度切れかかった、昔からの人のまとまりをつなぎ直したい。自分はそれをやっていきたい」
 大和田さんは、「下太田青年団のメンバーだ」といいます。私は、青年団が健在だと知って驚きました。昔ながらの地域文化が残る東北でも、農村の若者流出とともに希少な存在になっているからです。「自分を入れて現役が6人、OBが6人。昔は太田地区青年団という大きな組織があったが、いまはこの下太田だけ。おととしから、自分も仕掛け人の一人になって動き始めた。近々、集まりがあるんだ。来てみたら面白いよ」。杉内さん、奥村さんら原発事故後の太田を背負う50~60代の苦闘を追ってきた私も、若い世代との新たな出会いにわくわくとしたものを感じていました。

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 東日本大震災の発生から丸5年を過ぎて翌日の3月12日夕、薄暗くなった田園の道を若者たちが次々と、下太田集会所に集まってきました。傍らにあるモニタリングポスト(24時間の放射線量測定装置)には「0.156(マイクロシーベルト毎時)」という低い空間線量の値が赤いLED電球で浮かび上がっています。きれいな緑の畳敷きの部屋に上げてもらうと、壁の鴨居の上に何枚もの集合写真が掲げられています。その1枚に、赤い獅子頭を真ん中にした紺地の和服姿の10数人の若者が映っています。大和田さんの顔も見つけました。下太田の神楽の一座です。「毎年、元日の朝5時50分に、俺たち青年団がこの衣装で集まって、相馬太田神社と地元の三つの祠を巡って、最後は公会堂の新年会で舞って悪魔祓いをする。11年の元旦に神楽をやって、原発事故を挟んでその年の暮れに新潟から(一時帰省で)戻ったら、けっこう仲間が帰ってきていて、早速、神楽の練習をした。下太田の神楽は途絶えなかった。原発事故の年に集落の運動会もやったんだ」
この夕方、青年団のメンバーが8人集まりました。「いつものようにやりますからね」と大和田さんが言うと、若者たちは長テーブルと座布団を並べ、瓶ビールと乾きもののおつまみ、メンチカツや春巻きを広げて、乾杯をするやいなや議論を始めていました。14年11月以来、地域の住民に呼び掛けて継続的に開いている「下太田を考える会」という集いを、この3月末に新趣向で催すといい、それに向けた打ち合わせでした。「地元に残った若い仲間たちで、まず大田の復興事業がどうなっているか、自分たちに何ができるか、上下の世代、地域の人が考えを持ち寄ることで何が見えてくるか。そこから議論を始めた。原発事故の後に途切れかけた交流とつながりを継承しよう、という場なんだ」。まとめ役で、建設業に携わる青年団長の高野博信さん(37)はこう話しました。

 その2か月後には、南隣の避難指示区域・小高区の現状を知る―をテーマに第2回の「考える会」を開き、翌15年4月に「有機農業の里」で有名な二本松市東和町の農業復興と地域づくりを視察に行き、同7月の第4回には「ホタル復活」のプロジェクトが生まれました。「子どものころ、ホタルがいっぱい飛んだが、いつからか見なくなった。その復活も故郷の大切な風景の継承」と高野さん。青年団は水路の草刈り作業をし、夏休みに入った太田小の子どもたちとゲンジボタルの幼虫の放流大会を行いました。「ホタルが飛ぶのは6月。去年秋に大雨があり、幼虫が流されていないか、不安もある」と大和田さんは言います。下太田の大人も子どももホタル復活を待ちかねています。
 「この土地で暮らし続けるということ」の題で、次の「下太田を考える会」があったのは3月26日夕でした。講師は首都大学東京教授の玉野和志さん(社会学)。NHKの「クローズアップ現代」で町内会のコミュニティの課題や可能性を話していたのを大和田さんが観て、ぜひ招いて話を聴いてみたいと考えたそうです。会場の下太田集会には、奥村さんや行政区長ら20人が詰めかけました。人口が流出し、都市側から切り捨てられた地方、過疎地域、限界集落から、いま、危機感と裏返しの工夫と地元の資源を駆使した生き直しの動きが始まっている―と玉野さんは語り、被災地となって過疎化と農業衰退が数十年分早送りされた観のある地元の未来に希望を抱かせました。「生産者が消費者とじかにつながっていく」「集落の良さを残し、維持することに価値が生まれる」「交流で、大和田さんがイチゴや青年団でそれぞれ挑んできたことに、希望の光が当てられていきました。

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 4月20日。なだらかな阿武隈の山並みに縁取られた広い田園風景は、農地除染の廃棄物置き場の白いフェンスが目立たぬほど、まぶしい黄色にあちこち染まっていました。「今年も南相馬農地再生協議会主催の『菜の花のお花見会』を、30日の日曜に予定しているんだが、暖冬で菜種の生育が思った以上に進み、10日余りも早く満開になった」。奥村さんから半分困ったような声の電話をもらい、「下太田を考える会」に参加して以来、久々に太田地区を訪ねました。隣の小高地区の避難指示解除時期に合わせて16年中の復旧(現時点では7月ごろ)が見込まれるJR常磐線・太田駅のすぐ東側に、杉内さんの計65アールの菜種畑があります。ここで15年9月27日、地元の相馬農業高の生徒ら約100人が参加した種まき体験会があり、その満開の姿をぜひ見たいと思ったのです(本ブログ136『帰れるか、帰れぬのか~南相馬 苦き風評からの再起 その2』参照)。
 1本1本の花の密度と背丈が整った生育ぶり、花びらの黄色の濃さ、それらが溶け合った景色の見事さは想像以上でした。「農地再生協議会の活動に刺激されて菜種をまく農地が増えたが、大抵はまきっぱなし。花が疎々としか咲かない。われわれは最終的に油を搾ることが目的なので、菜種の量をできるだけ多く取れるように育てねばならず、しっかりと追肥をやっているんだ」。手塩に掛けた春の楽園の真ん中に立った杉内さんの言葉に、地域の復興を目指す篤農家の気迫がにじみました。
 「原発事故からの5年を考えると、放射能の汚染さえなければ、みんな、震災後の生活、生業の再建に取り組んでいただろう。地域社会を立て直すには、放射能という得体のしれないものに向き合わねばならず、どう取り組んでいいかも分からず、模索の末、チェルノブイリの経験を生かせないかと考えた。その成果と呼べるものが、菜種栽培と油の商品化だった。コメをはじめ他の作物が厳しい風評にさらされた中にあって、菜種の油に放射性物質は取り込まれない―というチェルノブイリなどでの実証結果が、われわれの希望になり、活動の土台になり、思いを込めた商品になった」

 杉内さんたちの思い描く未来図は、菜種油の産地づくりだけにとどまっていませんでした。「当初から菜種油と両輪で考えてきたのが、油を取った後の搾りかすを活用したバイオエネルギーだ。地域で生み出す貴重な資源の循環利用であり、エネルギーを自給して住民の暮らしに還元することで、未曽有の原発事故の被災地として、原発事故の教訓を実践した地域社会づくりをしていける」
 その具体化のために杉内さんは4月上旬、奥村さんと共に「脱原発」を国策としたドイツのバイオエネルギー企業のプラントと、ライプチヒにあるバイオガス研究センターを視察してきました。そのプラントでは、地域の農業を担う畜産農家から出される牛の糞尿を原料としてメタンガスを製造し、地元の熱エネルギー需要を賄っています。研究センターでは温水利用の魚養殖もしており、発酵後にできる液体も肥料として農地に還元する方法も開発されています。現地で生産される主な穀物である麦も、価格が下落した場合は、バイオガスの燃料として買い入れられるといいます。
 「われわれの菜種とは原料が異なるが、地元の産業と暮らしに根差し、密着した持続的なエネルギーづくりが現実であることを学ぶことができた。この太田にも、これからさらに作付けを増やす菜種の自前の搾油所を設けることが当面の目標だが、その先に、搾りかすからガスを製造するプラントの実現に取り組みたい」と杉内さん。バイオエネルギーの熱を何に使いたいのですか、との問いには「まず、高齢化社会が進むこの地域の住民たちに開かれた保養、交流の施設をつくり、そのお湯や暖房に還元できたらいい。南相馬に住み続けるための良い環境をつくっていく一歩として」。
  実際には、菜種だけではバイオガス原料を賄えない、と杉内さん、奥村さんらは考えており、「去年から、原料として期待できる飼料作物のデントコーンを試験栽培している」(奥村さん)。日本でバイオエネルギープラントを手掛ける企業も構想に関心を持ってくれているといい、「軌道に乗っていけば、将来は400~500ヘクタール規模の原料生産の農地が必要になる。(政府による避難指示解除が間近な)小高区では、農家の多くが風評のため稲作再開を半ば諦めている。そんな農家仲間に参加を呼び掛けていくことができる」。菜の花畑の上の空に、杉内さんの夢は広がりました。

 そして4月30日、南相馬農地再生協議会が呼び掛けた「菜の花畑お花見会」は好天に恵まれ、満開を過ぎた黄色の花も雨風に耐えていてくれました。杉内さんらメンバーが育てた菜種の畑を巡る見学ツアーに、今年も菜種栽培で協働する相馬農業高の生徒たち、南相馬の住民のほか、菜の花を広める活動をしているNPO関係者らが全国から参加しました。太田から市内各地に広がった菜種畑は、黄色い花の海が約70人のにぎやかな交流の場に。太田の人々が模索してきた新しい地域の生き方の種もようやく芽をふき始めました。

4月20日、満開の菜種畑にで立つ杉内さん=南相馬市原町区太田

2016年2月15日、菜種油を使った石けん「つながるオモイ」の発表会で語る杉内さん(左端)=ラッシュ・ジャパン東京事務所

3月に発売された「つながるオモイ」と、原料になった菜種油の商品「油菜ちゃん」

2月2日、原発事故を挟んで5年ぶりにイチゴを収穫する大和田さん=南相馬市原町区太田

3月12日、集会所で打ち合わせをする下太田青年団(左端が大和田さん)

3月26日、青年団が催した「下太田を考える会」

4月20日、同月上旬に視察したドイツのバイオエネルギー施設の写真を見せる奥村さん

4月30日、相馬農業高生ら約70人が交流した「菜の花 お花見会」

 

 

 

 

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 話は2015年11月30日に戻ります。この日夕方、私が5年前から東北大で受け持っている河北新報・東北大連携講座の授業に、飯舘村比曽の農業菅野義人さん(64)を招きました。メディアに関心ある大学生たちに東日本大震災と福島第1原発事故を、福島の被災者のナラティブ(当事者が語る事実)を通して、自らの体験として知ってもらえたら、と考えたからです。義人さんも快く引き受けてくれました。「震災の経験、教訓をこれからに生かしてくれる若い世代に伝えたい」と言って。
 7人の受講生が聴き入る同大川内キャンパスの教室で、義人さんは語り始めました。「大震災以後、エネルギーを含めて、われわれの生活をどう変えていけるか? その問題意識があっという間に風化しつつある。全村避難を前に『放射線量が下がったら、皆で比曽に戻ろう』と約束し合った住民の間でさえ」。講話のテーマは、原発事故と地域の共同体の行方でした。「冬になれば、比曽の人たちは月5000円を出し合ってトラクターを借り、お年寄りの家の雪かきをした。お金の問題ではなく、何代にもわたって住民が力を出し合い、支え合ってきた地域のありようだ。それが危機の瀬戸際にある」

 原発事故後の11年5月末、比曽の86戸のお別れ会が催されました。「必ず帰るぞ、この比曽へ」「比曽は一つしかないんだぞ」。集会所のホワイトボードには、住民の寄せ書きが残されました。その決意を実らせようと、「私たち比曽行政区は翌6月6日から、放射線量の定点測定を続けてきた。当初は毎時8.12~16.3マイクロシーベルトもあった。ちゃんと記録して国に線量を下げてもらい、『皆で帰るべ、再生するべ』という思いだった」と義人さん。苦い挫折を味わう体験がありました。
 「原発事故後。飯舘村は放射線量が高くなっているとの情報が流れたが、テレビで(枝野幸男)官房長官が『避難することはない』と言っていた。比曽の隣の長泥地区(帰還困難区域)の知人から『うちの嫁さんの様子がおかしい。うつのようになっている』と電話があった。その家に出掛けていって、『健康に影響はない、と(政府が)言ってるんだから、気をもむ必要はない。安心していいんだ』と2時間も説得した。少し安心したようだったが、美人の奥さんの顔つきが変わっていた。その1週間後、(政府から全住民の)計画的避難指示の方針がテレビで伝えられ、結果的に自分はうそを言ったことになった。その奥さんにとっては耐えがたい苦痛だったろう。自分がやったことがいやになった」
 「そのころ文部科学省の放射線量モニタリング測定調査があり、区長から『30マイクロシーベルトあるそうだ。義人くん、どうしたらいい?』と問われ、『マイクロだから、1000分の1、10000分の1のレベルではないのか』と答えた。当然、避難しなければならない数字だった。放射性物質の影響について知識がなかったことに、また自分がいやになった」。その挫折感が、住民が動いて調べ、自分たちの地区の実態を知り、そこから訴えよう、という自主活動を始める出発点になりました。

 それから4年余り。避難指示解除の期限は17年3月に迫っていますが、離散した住民の何人が比曽に戻る意向なのか、互いに分からぬままです。
 復興庁が15年3月に公表した飯舘村の住民意向調査(回答は全2973世帯の47.5%)によると、村民の帰還意向は「戻りたい」が29.4%、「戻らない」が26.5%、「まだ判断がつかない」が32.5%。「戻りたい」は60代の4割、50代と70代のそれぞれ約3割を占めましたが、20~40代で1割前後。回答者の大半が福島市など村の近辺に避難しており「村とのつながりを保ちたいと思う」は全体の51.5%でした=最新の調査(16年2月)では、「戻りたい」が32.8%、「戻らない」が31.3%で、前回に比べ、それぞれ3.4ポイント、4.7ポイント増えた。帰還しない理由は「避難先のほうが利便性が高い」が57.1%、「放射線量が不安」は49.8%=。
 「長年、青年会やPTAなどで一緒に活動してきた住民の3割しか戻らない。孫がおり、放射線が心配で帰れないという人、避難先で親の介護に追われている人もおり、それぞれの事情がある。だが、仮に3割が戻るとしても、全村避難前と同じ事が地域でやれるか? 戻らないと決めた人に以前のような協力を求められるか? もう、お別れ会の時のような気持ち、同じ価値観では人を導けない」

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 義人さんは、プロジェクターで原発事故前の比曽で行われていた住民活動を紹介しました。春は農作業に先立つ用水路の泥上げ、夏は川べりや道路沿いの草刈り、田植え後や収穫後の神社の祭り、冬は除雪作業。「都会の人には分からないかもしれないが、われわれにとって共同体とは、なくては生きられぬ必修科目だった。代々培った共助の暮らしを原発事故は壊した。除染後の農地や用水路、比曽に四つある神社の維持管理を取っても、わずかな帰還者の力では無理。「では、戻らない人に『共同作業に集まって』と協力を求められるか。あるいは、どんな住民の連携が可能なのか。帰還者だけが疲弊して復興があるのか。避難指示解除が再来年3月に迫るいま、地区ごとに話し合いを始めなくては間に合わない」
 講話を聴いた学生たちは、教室の黒板の前にいすを並べて義人さんを囲み、次々と質問をしました。
 「コミュニティの重要さが語られたが、互いの支え合いは村でどんな意味を持っていたのですか?」
義人さんは、自身の父親の話から答えをひもときました。「私が32歳の時、父はがんで亡くなったが、最後にこう言った。『義人、体に気をつけて頑張れよ』『組(隣組の班)の人たちによろしく言ってくれ』。弱った体で、なんで『組』の話なのかと思った。父が他界すると、組の人たちが自宅に来て、布団を下ろして葬式の準備をはじめ、すべてやってくれた」「飼っていた牛が難産の時、仲間に電話をすると、牛飼いの人たちがどっと来て手伝ってくれた」。

 農協和牛部会の委員長も長く務め、集まりは年に大小40回もありました。「夜の会合に出掛ける時など、『自分の赤ちゃんより組織が大切なの?』と家内に責められたが、お互いの助け合いだった。(繁殖させた)牛の売り値が安くて困った、と言えば、何か企画を考えようと議論し、「牛まつり」のイベントを始めた。たった1時間の雹(ひょう)で作物がだめになったり、牛が死んだり、冷害で稲がやられたり、人間1人ではどうしようもない天変地異の時こそ、支え合いに助けられた。農村では、生命保険よりも介護保険よりも大きな力だった」

 「『までい』の意味を教えてください。地域再生の指標になるのですか?」との質問も出ました。
 義人さんは、飯舘村が発信している「真手(まて・両方の手)。真心を込めて丁寧に」とのきれいな説明に賛同せず、「我慢をする」という意味合いがこもった言葉ではないかと、子どものころの思い出を語りました。「昔の村には、子どもが欲しがるいいものを売っていなかった。でも、父が身の回りの木っ端から船やそり、スキー板を作ってくれた。売っている高いものでなく、村の人は自分で工夫して作って、使った。それが『までい』と感じた」。困った状況があっても、集まって議論し、知恵を出し合い、「ないもの探し」でなく、あるものからイベントも生み出したという村人の生き方そのものでした。「その気持ちがいま、みんなの中に残っているか。難しいのではないか、と思っている」
 

 以前は、自分の住む地域が良くならなければ、自分も良くなれないという意識さえ持っていたといいます。しかし、原発事故後、避難先の個々人が賠償金や精神的慰謝料を手にし、「他人に頼らぬ自己完結な生き方ができるようになった」。その変化を、義人さんが衝撃とともに感じた出来事がありました。13年秋、環境省福島環境再生事務所から「比曽の水田27ヘクタールを仮々置き場の用地として賃借したい」という申し出が、比曽行政区にあった時です。本ブログ105『生きる、天明の末裔として その2』に、役員会でのこんなくだりがあります。
 『「役員会には借地料が示され、田んぼが10アール当たり18万円、牧野が9万円だった」と菅野さん。地区の住民の間には「除染しても、今の市場流通では、ここで作るコメに買い手がつくかどうか。それよりも、お金を得た方がいいのではないか」との意見が出たそうです。「残念だ。お金では、村は復興できない」と、菅野さんはマイクで語りました。
  「寄りかかったら、一歩を踏み出せないし、そういうお金は自助、自立の復興に結びつかない。お金で土地を売り、原発を造らせたのと一緒。除染は手段であって、目的ではないのだ。国はそれを考えない。はぎ取られるのは、結束しなくてはならぬ住民の気持ちだ」』

 その時の役員会で、仮々置き場の受け入れに反対した義人さんらに投げ掛けられたのが、「金のある人はいい。俺は1円でも欲しい」という仲間の言葉だったそうです。「原発事故は、人の関係を壊し、ばらばらにする災害だ」と義人さん。村の人々が大切にしてきた「までい」の心も壊れた瞬間でした。

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 「中間貯蔵施設(双葉町、大熊町)に放射性廃棄物(除染廃土のフレコンバッグなど)が試験搬入された、というニュースが流れていますが、どう受け止めますか?」と質問する学生もいました。政府が福島県内の放射性廃棄物(約2200万立方メートル)を搬入、集約する計画の中間貯蔵施設は、15年末の段階で地権者2365人のうち22人としか契約が進んでおらず、造成の見通しはつかず、環境省の失態を指摘する声が上がっています(本ブログ153『帰るか、帰れぬのか 飯舘村比曽その6』参照)。同省はやむなく、予定地に野積みする形で運び込み試験搬入に踏み切っていました。政府の被災地支援が進展している印象のニュースに、義人さんは「実態は全く違うと思う」と違和感を語りました。黒いフレコンバッグの山は被災地の山野にあふれ、比曽の共同墓地の真ん前にもそびえています。
 同年12月24~26日の河北新報社会面に連載「中間貯蔵施設 故郷を手放す 福島・原発事故の現場」が出ました。予定地とされた両町の地権者である住民たちの生の声が伝えられています。


 『自宅や畑が中間貯蔵施設になるという話を聞き、インターネットで確かめた。環境省は何も言ってこない。地権者との用地交渉が進まず、建設が遅れている-。そんな報道を見て、頭に血が上った。
 「連絡も寄こさないくせに、地権者を悪者にするつもりか」。福島環境再生事務所の電話番号を調べ、問いただした。ことし11月中旬、相談窓口などが書かれた封書が届いた。』
 『施設をめぐっては、搬入開始から30年後に廃棄物を福島県外に搬出することが法律で定められている。廃炉が進み、除染などで放射線量が下がれば、帰還できる日が来るかもしれない。営農再開は難しくても、先祖伝来の土地に子孫が戻れる選択肢を残したい。
ただ、多くの地権者は県外搬出には懐疑的だ。「結局、最終処分場になるんじゃないか」「だれも戻らないんじゃないか」。地区の集まりでは、決まってそんな話になる。賃貸契約に返還時期を明記するよう求めるつもりだ。それが6代目の責任だ。』
 『「最後は金目でしょう」。2014年夏、施設をめぐる(石原伸晃)環境大臣の発言に耳を疑った。地権者説明会でも、土地などの補償方針を一方的に説明する国の姿勢に違和感が募り、途中で席を立った。受け入れは「県や町が勝手に決めた」との思いが今も拭えない。』

 「復興を求め、語るべき本当の主人公は、国でも県でもなく住民だ。そこへ戻ろうとする人にとってどうなのか。それを突き詰めないと、国の大規模な事業の陰で、復興の意味が分からなくなる」。義人さんは話を飯舘村に戻し、こう語りました。「多額な国の予算を投じた事業の末に、人が戻らなくては復興と言えない。地方が国のやり方に巻き込まれる、これまでの流れをいまからでも変えないと」
 飯舘村は「までいな復興計画」(第5版)に「復興拠点エリア」整備を掲げています。中心部の深谷地区の県道に道の駅とミニスーパー、交流ホール、イベント広場、花栽培施設、災害公営住宅などを備えた大規模施設を、国の復興加速化交付金で17年3月までに造る予定です。政府の避難指示解除要件である公共インフラ、住民サービスの復旧にもかない、新しい村の顔にふさわしい施設と位置付けています。この事業が「復興の目玉」とされていることに、義人さんは疑問と危惧を抱いていました。利便性はあっても、「人が帰って生活していく『地域』とのつながりがどこにもないから」と。
 

 同じ危惧は、飯舘村が15年10月から会合を重ねている「営農再開検討会議」にも向けられます。この会議は村の畜産、花作り、イチゴ栽培の農家、農協や農業団体の関係者、福島県職員らを委員(9人)に、「(避難指示解除後の)営農再開に向けて目標となるビジョンを明確にし、もって飯舘村の農業の復興に資する」(設置要項より)狙いを掲げています。ただし現場の声を吸い上げて計画を練る場ではなく、復興計画にある農業分野の目標を具体的な施策として提案し、委員に認証してもらう審議会で、メニューの大半は国の農業復興関連事業を組み合わせた内容です。「生きがい農業」「なりわい農業」の選択と共存、「営農再開の意欲の高い人を先行的に支援する」「20行政区の農地保全を図っていく」「未来の農業者の育成を図っていく」などを掲げ、あらかじめ事業ごとに示した数カ年の実施スケジュールを遂行する先に「復興」のゴールがある、という村主導のシナリオが描かれています。
 「村が主眼を置く『意欲ある人』とは、地域を離れた『点』でしかない」と義人さん。そのあり方は、やはり村が目玉とする「復興拠点」の姿に重なります。「一握りの人たちの挑戦がもし破綻し、孤立した時、その後ろに地域の支えも助けもないとしたらどうなる。国に頼った復興は失敗してしまう」
(その後、16年2月10日にあった3回目の営農再開検討会議で公表されたのが『営農再開に係る意向等アンケート』(農家台帳に登録された1196人が対象)。避難先の632人から回答があり、再開の意向がある人は29%=『なりわい農業』希望者はその11%=。再開の意向がない人は64%、除染後の農地の管理・保全もしない―と答えた人も47%に上り、離農の加速が鮮明になりました)

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 東日本大震災と福島第1原発事故から丸5年となった16年3月を過ぎて、4月2日、3人の東北大生生が飯舘村比曽を訪れました。東北大学新聞部の越田健介さん(19)、片山篤規さん(19)、千葉麻菜美さん(20)。1年生だった前年、河北新報東北大連携講座を受講し、義人さんがゲストに招かれた講義に参加しました。東北大学新聞でも「震災から5年」を3回にわたって特集することになり、「義人さんを比曽に訪ねて、講義だけで分からない村の現状を伝えたい」と希望したのでした。
 のどかな春の村を黒く埋めるフレコンバッグの山に言葉を奪われながら、3人が胸に抱いた関心はやはり原発事故とコミュニティをめぐる問題。「長年の仲間が他人のようになってしまう。復興したくとも、それを担う人の力、絆がなくなる。一番必要なもので、国のお金では買えないもの」と越田さん。「被災地の外にいる人は、『復興は進んでいる』という情報を鵜呑みにしている。積み上げてきたものが一瞬で崩れたことのやりきれなさが、義人さんの表情や言葉にあった」と片山さんは話し、千葉さんも「(来年3月に)避難指示解除になると聞いて、だいぶ状況が良くなったのかと思っていた」。リフォーム工事が終わった自宅で再会を果たした3人は、居間のテーブルで義人さんを囲みました。

 「人生でこれほど大きな変化はなかった5年であり、空白の5年だった。専業農家の仕事、地元での活動が一切できず、牛も処分した。家族もばらばらになった。(二本松市内に)避難してからは地域の再生を思い、くまなく線量を測り、どんな課題があるのかを手探りし、皆が戻れるための一番いい対処を訴えてきた。だが、原子力災害では国が関与している点が、経験になかったこと。それまでは村と住民の顔の見える関係だったが、例えば環境省の除染方法の要望などはストレートに伝わらない。諦めずに話し合いをしてきたが、地元の声を国の政策に反映できる余地は少ないのが現実。仲間には諦めが出ているが、若い人が帰ってくれる環境を取り戻すためにも線量を下げるよう訴え続けていく」


 「ただ、政府の姿勢は、戻りたい人は戻ってください、そうでない人は戻らなくていい、という自己判断、自己責任を被災者の側に投げ掛け、地域の価値観になかったお金を絡めて『分断』を生じさせた。それぞれの関心もばらつき、距離も気持ちも遠くなるところに『●○さんは福島市に新しい家を建てたそうだ』といった話を聞かされ、複雑な思いを募らせた。幸せとは、人と人が信頼関係をもって一緒に生きられること。『お前だけが良くなっても、だめなんじゃないか。みんなのレベルが上がらなければ』『お前は、おやじ(父親)の苦労を知っているのか』『少し学校で勉強したからって、いい気になるな。ここでは通用しないんだぞ』―人生で聞かされた厳しい言葉の数々も、人を教え、育てる地域の力だった。多少考えは違って議論しても、同じ地域や組織で生きる者同士だからこそ、一緒に力を合わせて活動できた。農村のコミュニティの本質だった。原発事故は、それを断ち切った」

 どうすれは避難指示解除後の村に、その本質なる魂を取り戻すことができるのか? 国主導の復興事業とは違う、飯舘村らしく住民が主体となって地域から「までい」に取り組む復興の道はないのか? その自問と格闘し、義人さんがたどり着いた提案があります。15年11月13日に福島市内であった、村の復興を論議する有志の定例会で発表しました。「飯舘村地域再生プラン」という名前です。東北大生3人の比曽訪問から4週間後の4月30日、私は義人さんを再訪し、その話を聴きました。

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 『長引く避難生活により、それぞれの家庭を取り巻く環境は大きく変化し、帰村する村民の激減、高齢化により、各地域の再生に関しては大きな困難が予想される。
また避難指示解除後の課題に対し、現在進められている拠点整備を中心とした復興政策のみでは、十分に対応できるものとは思えない。
 戻りたいと考える村民が、村で生きるための道を見出すことができ、生きるための糧を得ながら、戻らないと決めた村民とも連携を図ることが出来れば、必ず村の再建につなげることが可能であろう。
そのためには、自分たちの地域は、その地域で決められるような裁量権と財源を確保することで、自主性・主体性を発揮できる仕組みができる。
 しかも、多くの村民は、賠償がなくなれば、収入の道を絶たれた状況となることから、生きるための糧を得ることと、地域づくりを行うことを連結して行えることが重要である。
また、生活の基盤は集落にあることを認識したうえで、地域再生のためには、状況の変化に対応しながら集落機能の再生しなければならない。』

 義人さんはプランを作った理由と採るべき方策をこう記し、村独自の「飯舘村地域再生基金」の創設を提唱しました。各行政区に分配して、住民が自らの地域の再生計画を作り、実践していくための基金です。それを活用するプランは、17年3月の避難指示解除を前にした16年度から10カ年にわたります。これまで報告してきた義人さんの疑問や問題意識を形にしたものであると分かります。
 最初の16年度は行政区ごとに、急を要する「帰還」についての住民の意識調査、公的資源である農地・農道・集会所・神社などの維持管理の方法、人口減が明らかな行政区の組織運営と活動・事業の見直し、新たな現実で可能な地域づくりの企画、放射線を下げるなど住環境整備の継続的な取り組みや、村外に家を建てるなど「戻らない」意向である住民との連携の検討ーなどを挙げ、それを基にした「地域再生計画」の策定を挙げています。
 避難指示解除後の3年間は、国と「点」でつながる補助事業でなく各行政区の帰還農家が協働する営農再開支援事業や、孤立の恐れがある高齢者の生活を地域で支える事業などが挙がります。4年目から6年間は、帰還後の現実に合わせた計画修正と必要な事業を検討し、次世代の帰還と参加を促す新たな産業興し、他地域や都市の人々との交流、集落を超えてつながる活動や事業を展開する―といい、財源として村地域再生基金から、地区ごとに毎年1000万円を、10年間分配する構想です。

 地域再生プランは、15年5月にあった村幹部と比曽行政区の懇談会で響いた『「復興計画案を読む気にならない。計画案がいう『復興』は村の中心部だけ。比曽など周辺地区は後回しなのか。(中略)周辺地区は、住民が自分たちで考えてやれ、と言われているようだ。どうしたらいいの? どういう暮らしをしたらいいのか? 私が帰りたい所の計画を立ててほしい」』(本ブログ132『 帰れるか、帰れぬのか~飯舘村・比曽 その3)という住民の率直な訴えを形にしたものでした。

 その原点には、「周辺地域」とされた反骨から比曽など7行政区が原発事故前年まで開催した住民交流の「わいわいがやがやサミット」があり、あるいは村が各行政区に1000万円ずつを分配し、住民の「地区別計画策定委員会」が議論を重ねて10年間で実らせた自主事業がありました(比曽行政区はミニ公園や比曽地区史などを手作り)。「飯舘という村の個性も強さも地域の力、議論する力にあった」と義人さんは力を込めました。
 

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 飯舘村は、「平成の大合併を拒否した村」でもありました(以下は04年9月8日の河北新報より)。
『福島県飯舘村の菅野典雄村長は7日、原町市、鹿島町、小高町と構成する南相馬法定合併協議会から離脱する考えを明らかにした。同日開会した村議会9月定例会に、法定協離脱の議案を追加提案した。離脱理由について菅野村長は「山間部の飯舘村は3市町と環境が違い、分権分散型合併への思いに温度差がある。自立の道を選ぶことが最善と判断した」と述べた。議案は17日に採決される。』
 当時、村議だった義人さんも離脱に賛成しましたが、村議会の議案採決は8対9の僅差で否決。菅野村長は翌10月にあった村長選(任期満了)で「飯舘村の自立」を住民に訴え、反対派候補と「離脱か合併か」を争いました。「合併しないと、国から金(合併特例債)が来ない。村の将来もない」「国は厳しい財政見直しを迫ってくる。小さな村は生きていけなくなる」と反対陣営は危機をあおり、「合併すれば、農林業以外に産業がない村も豊かになる」とのバラ色のチラシをまいた、と義人さんは振り返りました。「それに対し『飯舘らしい自立の村づくりを』という自分たちの訴えは『我慢のプラン』。だが、まさしく『までい』の精神だった」。住民ぐるみの議論は451票差という大激戦を生みました。
 「選挙が終わっても、そこから村としてどうやって、また一つになってやっていけるか、という新たな議論が村議会の内外で始まった。村の生き方を、われわれは自分たちで決めてきた。ところがいま、除染のあり方や避難指示解除をめぐっては、住民を挙げた議論が起きていない。政府の指示のまま、村も住民も『もう決まったこと』との態度は、村にとっていいことなのか? 避難指示を解除すれば、政府は『復興』をアピールし、被災地を自立へと突き放すだろう。いまは国の復興予算で財政が膨らんだ村も、『みんな、力を貸してくれ』と住民に求める日が、原点回帰の日が必ず来るはずだ」

2015年11月30日、東北大の講義で学生たちに語る菅野義人さん=仙台市青葉区の川内キャンパス

4月2日、飯舘村比曽に義人さんを訪ねた東北大生たち、リフォーム工事が終わった家の前で

義人さんを囲んでインタビューする東北大生たち

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 2015年12月23日、飯舘村比曽にある農業菅野義人さん宅を訪ねた日の続きです。目印の赤い屋根のサイロと棟続きで立っていた明治45(1902)年建築の母屋は、前年夏に始まったリフォーム工事がほぼ終わっていました。比曽の文化財のような家でした。
 『「4代前の先祖が建てたんだ。柱は杉と、奥の部分がヒノキ。痛みがなく構造もしっかりしていて、残せるものは残そうとやっているが、『五寸五分』といった昔の寸法なので、大工さんは大変だ。それに合わせて製材もしなくてはならない」。家主の菅野義人さん(62)は、どっしりそびえる、という貫禄で立つケヤキの大黒柱を見上げました。家と地域の縁の歴史そのものです。「ふすまを外すと、『田の字』の広間になり、昔は大勢の人が集まり、結婚式も葬式もここでやった」』(
本ブログ133『帰れるか、帰れぬのか~飯舘村比曽 その4』より)

 義人さんは、それらの黒光りする太い柱や梁をそのまま残して、避難先から帰還した後の新しい日々を生きるための場へと改築しました。黒い瓦屋根の下の白壁、こげ茶色の板壁が美しく、比曽の昔ながらの風景と生き方を受け継ごうという気概が込もる家です。ちょうど地元の男性が立ち寄り、内装工事の途中だった母屋を一緒に見せてもらいました。
 古い蔵と並んで立つ納屋の解体工事がひと月遅れているといい、「そこから、雪が本格的に降る前に少しずつ家具を運び込みたい。いっぺん積もると(標高600メートルの比曽の)寒さで凍りついて、作業ができなくなるから。これから大工さんが棚などを作っていくが、この家の歴史が一緒に生きる家になった」。義人さんがそう言って指さしたのは、天井近くに掲げられた立派な屋根のある神棚でした。一辺5~6メートルある部屋の壁いっぱいの横幅で、高さは1・2メートルほどにも見えます。私はかつて東北の民俗信仰の連載取材で遠野地方(岩手県)のオシラサマをまつる家などを訪ね歩きましたが、これほど大きな神棚を見たことがありません。深い飴色になった神棚の奥の板には、「明治四拾五年壱月六日 大工 越後之国蒲原郡 相馬駒吉 戸主 菅野義久(ぎきゅう)」と墨書されています。 

 「博物館を作るつもりか?と大工から言われた。梁に付けた電気の碍子(がいし)も、昭和20年代、電気が初めて通った時のものだ」。部屋の欄間もそうですし、玄関の格子天井は江戸時代からあった前々代の家から受け継がれています。「藩の侍を泊めた部屋にあったそうだ」。菅野家は代々旧比曽村で、旧相馬中村藩から武士の身分を許された肝入(きもいり・名主)でした=慶長12(1607)年、比曽を開拓した初代の白幡但馬から、義人さんは15代目=(本ブログ106『生きる、天明の末裔として~飯舘 その2』参照)。
 前年7月に訪ねた折、解体工事中だった母屋の大黒柱に触れながら、義人さんが語った言葉がよみがえりました。福島第1原発事故に暮らしを奪われ、放射線量を減らす闘いの中で、「それでもわれわれが頑張れるのは先祖たちの努力を思い返せばこそ。できることは、それを引き継いで後世に残すこと。『すっぱり壊して新築すればいいだろう』と言う人もいる。が、引き継ぐべきものがあるから、帰還後、ここで生き続けるための基軸になる」。

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 少し高台にある義人宅からは、比曽の小盆地の真ん中を占める広い水田の風景を望めます。が、いま見えるのは、時とともに増殖する真っ黒なフレコンバッグの山。15年度から始まった農地除染とともに汚染土の仮々置き場の造成も広がり、比曽の農家が優良農地に肥やした約60ヘクタールの水田のうち約半分、27ヘクタールを埋めていきます。「最低でも3年はそのままだろう。黒い袋で古里が埋まっているのを見た時、比曽に戻ろうとしていた人はどう思うか。戻ってまた農業をやろう、という気持ちもなえるのではないか」。義人さんのこんな言葉を、本ブログ133回「帰れるか、帰れぬのか~飯舘村比曽その4」などで引用しました。『「比曽の真ん中の一番いい農地に置かれたら、復興の妨げになる。われわれは、どうやって復興すればいいんだ?」と(環境省の現地担当者に)質すと、「それは、こちらの管轄ではない。早急に除染を進めたいためだ」との回答だったそうです。』
 政府は17年3月までの避難指示解除を飯舘村などに通告したにもかかわらず、義人さんが「住民の帰還への意欲がなえる」「復興を妨げる」と懸念した通り、仮々置き場は、住民が帰還するか否かの判断をする最も大切な1年余りを超えて居座ることが確実でした。そして、避難指示解除を迫られた当事者の住民に対し、環境省からの釈明はありません。この1週間後、12月30日の河北新報に、汚染土の排出先である中間貯蔵施設の用地交渉の遅れと被災地へ居座りを、復興の最大の課題になったと指摘する社説が載りました。

 『東京電力福島第1原発事故で発生した除染廃棄物を保管する中間貯蔵施設の用地交渉が難航している。福島県が昨年8月に建設受け入れを決定してから1年4カ月が経過した。建設予定地の大熊、双葉両町の地権者2365人のうち、契約がまとまったのは22人。県内各地から廃棄物を運び込む試験輸送がことし3月に始まったにもかかわらずである。
 施設は第1原発の周囲に建設予定で、周囲は帰還困難区域だ。大熊、双葉両町の全住民が避難しており、地権者約1000人と連絡が取れていない。うち約560人は既に死亡したという。(中略)試験輸送は、予定地近くの一時保管場に県内43市町村から廃棄物を1000立方メートルずつ運び込む。来年3月まで約4万3000立方メートルを搬入する計画だが、最大2200万立方メートルと推計される廃棄物のわずかにすぎない。
 試験輸送が円滑に進んでも、用地の確保が進まなければ、本格輸送に移行できまい。県内には除染廃棄物の仮置き場が約1000カ所、住宅の庭先などの現場保管が10万カ所以上ある。廃棄物が山積みのまま各地に仮置きされる状態が続いているのである。』

 義人さんは原発事故前、稲作と和牛の繁殖を営んでいました。計2.4ヘクタールの水田はいま、仮々置き場の下に埋まっています。自宅裏に大きな牛舎がありますが、がらんとして、当時飼っていた36頭の牛たちの名札が残るだけです。農協の和牛部会長などを務めた菅野さんは、原発事故と全村避難のさなかで起きた牛たちとの別離を回想しました。
 11年6月下旬、「牛を積んだトラックが連なって家畜市場へ処分に向かった。苦労して築いた産地が音を立てて崩れた日だ」。よろよろして歩けない生後1週間の子牛までも両腕で抱えて競りに出し、「牛飼いとして、やってはいけない罪悪を犯したと思った」と言います。「大冷害があった1980年の夏だった。稲が褐色になって壊滅した中で青々と茂る牧草を食べる牛たちに、俺たち農家が救われた」「空っぽの牛舎を見て人生の全てを失ったと感じ、避難するのを忘れて寝込んだ。もう牛を飼ってはいけないのではないか、と自責の念に今も苦しむ」(
本ブログ143回『生きる、飯舘に戻る日まで⑦ 牛たちの哀歌』参照)
 牛舎の裏山には、牛たちが遊んだなだらかだらかな牧草地がありました。農地除染の一環で草と表土を剥ぎ取られ、見渡す限りの土色が広がっています。水田の利用を仮々置き場に阻まれた状況でにあって、「この牧草地跡を一から耕して畑にし、帰還したら当面、野菜を作ろうと思う」と義人さん。しかし、重い工事車両を使った除染作業で土は踏み固められ、雨が浸透しなくなって、水が地表にあふれていました。「排水不良では作物が育たない」と避難先の二本松市から通い、小型重機で延長計160メートルに及ぶ地下排水管の埋設を独力でやり遂げたそうです。1人の開拓者に戻ったような畑開墾の第一歩ですが、その排水管の覆いに使ったのが、解体された母屋の廃材。ここでも歴史は生き続けます。
 「俺も10年後は70代。新しい家も畑も、次の代に手渡すのが自分の役目だと思う。それまで放射線量も下がるだろうし、それまで息子夫婦も孫も帰ってこれるように頑張る」

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 16年1月19日、新千歳空港からレンタカーで走る道の両側は、幸いに快晴の空の下、白銀の世界がどこまでも続いていました。1時間ほどで入った栗山町で、夏ならば広大な畑や牧草地のただ中かと思われる雪原に、大きなビニールハウス群が見えてきました。
 義人さんの長男、菅野義樹さん(37)はストーブのあるプレハブの休憩室に招き入れてくれました。「ゆうべ、子牛が生まれたんです。難産でなくてよかった。体重の計測をするのに、まもなく妻もここに来ますよ」。比曽の実家で父と一緒に農業に取り組んできましたが、福島第1原発事故のため、北の栗山町で避難生活を送りながら畜産を再開しました。
 まぶしい日差しを通すパイプハウスの広い牛舎に、生まれたばかりの子牛の鳴き声が響きます。義樹さんが大事そうに子牛を抱え、二つ並べた小型の体重計に乗ると、かがんで数値を注視していた妻美枝子さん(42)が「35キロあるよ」。義樹さんは「メスでは大きい方だ」と顔がほころばせました。早くも、哺乳瓶からミルクをたっぷり飲むそうです。
 牛舎2棟と、たい肥舎、乾燥室、機械室が各1棟の新しい施設。避難先での営農再開を支援する飯舘村の事業に応募し、15年9月から和牛の親牛25頭を飼い、家業だった繁殖を始めました。これまで6頭の子牛が生まれています。避難するまで2人だった夫婦にも家族が増え、4歳の長女葵ちゃん、1歳の長男義暁ちゃんは道産子。葵ちゃんはお父さんと一緒に子牛をなでるのが、義暁ちゃんはお母さんに抱っこして見るのが大好きです。
 
 原発事故が起きて間もなく、夫婦はまず常陸那珂市にある美枝子さんの実家に避難し、4月になって全住民の計画的避難が決まると、しばらくは帰れないことを覚悟せざるを得ませんでした。「当面、自分たちで収入を稼がなくてはならない」と、仕事ができる場所を模索し、同年7月、北海道に渡りました。義樹さんは酪農学園大(江別市)、美枝子さんは帯広畜産大で学び、ゆかり深い土地です。「来た時は、こちらで農業をやるかという思い、戻りたいという気持ち、避難も長期化するなという現実の間で揺れて、夢物語の中にいるようだった」と義樹さんは振り返りました。「32~33歳のころ、ニュージーランドなどいろんな所で働き、学んで飯舘村に帰った。30代で苦労して人生の基盤をつくらないと、その後に響くと考えていた。ところが、原発事故の後、ずるずると国に引きずられ、このままでは自分の人生を喪失すると焦った。自ら動いて人生を取り戻さなくては、と思った」

 空港や札幌から近い長沼町(栗山町の西隣)の野菜作り農家で1年間、研修をしましたが、「やはり違った。小さい時からおやじを手伝った和牛をやりたい、という答えを見つけた」と義樹さん。自分の原点から生活を再建しよう、決意が固まりました。栗山町は人口減や農業後継者難もあって、新規就農者や移住者の受け入れ・支援に力を入れており、「再出発の拠点をつくろう」という希望にかなう土地も見つかりました。飯舘村の事業は、福島県の交付金を通じて再起に必要な施設、機材を貸与する制度で、村復興の命運を託するような悲壮なる目的を掲げていました。

 『飯舘村の農業そのものが存続の危機に瀕している。これ以上の営農休止は、担い手の営農再開意欲を消滅させることになり、これまで培ってきた 「までいブランド」の市場評価はもとより、人材と栽培技術までをも失うことになる(中略)飯舘村の農業復興の 第一歩として、避難先での営農再開を支援するものである』

 「動くことで『自分は何をすべきか?』という焦りは薄れていった。まず、自分の生活から再建しよう、と。だが、このまま飯舘村から離れてしまうのではないのか? 俺は長男の務めを果たせないのに、おやじたちだけを村で頑張らせていいのか? そんな葛藤は消えなかった」

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 いま、牛舎で餌にしている牧草は「チモシー」という栄養に優れた寒冷地種。義樹さんは自前で7ヘクタール分を栽培し、それでも足りなくて、地元の農家から安価に仕入れている。「チモシーは内地の暑さに向かないので、福島県での作付は少なく、畜産農家は子牛の餌に高値で買っている。が、ここでは2割のコストで作っている。おやじが昔、チモシーの種を試しにまいていた。その意味をここで知った。標高600メートルの比曽なら、自給を大きくやれると思う」。遠い北海道で農業に挑むことで、飯舘村が見えてきました。
 栗山町は麦の生産も多い土地です。麦わらは牛舎の敷わらに適しており、「牛の堆肥との物々交換で、麦を栽培している農家からもらえる」。牛舎で牛ふんと交じった麦わらも良質の堆肥になり、それを畑にすきこむことで地力を富ませます。「農家が支え合う循環がここにはある。自分も飯舘村でやりたかったことだ。将来、飯舘村に帰って新しい農業を志す農家同士で、牛の餌の自給を含めて、地域を超えた循環の仕組みをつくれたらいい」
 義樹さんは大学を卒業後も4年間、実習教員として現地で過ごしましたが、北海道にあらためて来て、農業の先進地であること、「寒い所は遅れた地域」という内地の価値観とは逆の視点があることを知ったといいます。「飯舘村の良さも、おやじたちが模索してきたものも、いま学べている。新しいヒントや技術、経営のノウハウを身に着けた人材として飯舘村に帰り、復興に貢献したい。それが、自分がやるべきことだと思えるようになった」

 牧舎での取材を終えて、そこから車で栗山町の中心部に向かい、義樹さんが家族と暮らす家を訪ねました。以前は教員住宅で、町が新規就農者向けに貸しています。ちょうどお昼の時刻。キッチンのテーブルに家族4人がそろい、お母さん手作りのビーフハンバーガーをそろって頬張りました。美枝子さんはサラリーマン家庭で育ちましたが、父方の実家は農家で、「(畜産大の)学科は畜産でなかったけれど、サークル活動で付属農場の乳しぼりや畑仕事のボランティアをした」。義樹さんとは農業系のイベントで知り合って10年8月に結婚、比曽の両親と同居していました。その5カ月後の福島第1原発事故でした。
 「子どもがまだ生まれていなかったから、2人の選択で北海道に飛べた。『めぐり合わせ』があるなら、それぞれに意味あることをやるべきなのだと思う。原発事故で俺たちは生活の場、仕事の場を一度失ったけれど、当たり前に農業ができること、家族と一緒にいることの幸せをしみじみと考えられるようになった」。義樹さんはこう語り、さらに続けました。
「いまはおやじや(菅野)啓一さん(
本ブログ152『帰れるか、帰れぬのか~飯舘村比曽その5』参照)に、比曽のことをお任せしているが、やるべきは、ある現実を受け入れ、次に続く若手として農業を学ぶことだ。昔、高校進学前に両親は『自分に合う道があるなら決めればいい』と言った。でも、両親が誇りをもって農家の仕事をしている姿に、自分は迷わず相馬農業高を決めた」。そんな義樹さんの思いこそが、義人さん、啓一さんにとって、いまを踏ん張ることができる希望なのだ、と聴いていた私には分かりました。

 異郷での苦い思い、内なる苦闘もありました。「(原発事故被災地の)除染なんて無駄。なんで莫大な国費を掛けている」「危険な所から逃げてきてよかったね」と初めのころ、町の人から言われたそうです。「安全・危険で決めてほしくない、かけがえのない村なのだ」と歯を食いしばりましたが、最近は、飯舘村の実情を分かってくれる人が現れたそうです。「汚染牛を打って補償金をもらっているのか」という言い掛かりを投げつけられたこともあり、「自分も避難前に被ばくしたし、父はわが身を切られる思いで牛を処分したのに」と悔しさに耐えましたが、後になって相手は「申し訳ないことをした」と謝ったそうです。

                    ◆

 義樹さんが大学卒業後の4年間、実習教員をしたとご紹介しましたが、その当時、東京の子どもたちが来て「乳搾りをしたら、すごく温かい」と喜ぶのを見て、「農村は価値ある教育の場だと気付いた」。札幌や新千歳空港、苫小牧からも近い栗山町などの地域には遠来の親子旅行が訪れ、さまざまな農業体験やファームレストランもあります。「都会の人が憩える農村空間を飯舘村で提供したい」という夢も膨らんでいるそうです。長年の共同体の分断という現実がある全村避難中の古里に「人と人のつながり」を取り戻したい、という願いでもあります。異郷での生活は自分だけの力でなく、さまざまな「つながり」の中で農業を営み、暮らしていると実感している、それを飯舘村に持ち帰りたい、と義樹さん。
 うまいイタリアンで評判の「オステリア デッレ ジョイエ/Osteria delle Gioie」という店が福島市にあります。震災前に知り合いからシェフを紹介され、そこに昨年、肉を提供したそうです。「ブランドだった『飯舘牛』は、しゃぶしゃぶに合う肉という定評だったが、ジョイエのシェフには赤肉を使ってもらった。『菅野さんの肉とワインを楽しむ会』という催しで。震災を考えるイベントなどで使ってもらっている」「『東京朝市 アースデイマーケット』(毎月1回、代々木公園)を催している人とも出会ったが、その人も福島に足を運んで福島産のものを使って、伝えてくれている。不特定多数の消費者に流通させる、という従来のやり方でなく、しっかりと目に見える人に、こちらの思いを乗せて的確に届けたい。そんな『つながりの経済』を広げていけたら、『風評』の壁もきっと破れる」

 義樹さんは、福島第1原発事故の翌年、飯舘村の若い世代の有志7、8人を中心にした議論の場「対話の会」を立ち上げました。福島市内の会場にたびたび集って、さまざまな立場、考え、視点を突き合わせて意見を交換し、古里の未来のこと、それぞれがどう生きて何をすべきか―などを話し合ってきました。その仲間が昨年、栗山町に義樹さんを訪ねてきました。牛舎からは続く広々とした農地と、その向こうの地平線を縁取る夕張山地を眺めて、こう漏らしたそうです。「まるで、比曽のようだな」。その風景に義樹さんも、いずれ帰る古里を重ねています。

 比曽のランドマークのように鮮やかな赤い屋根。本稿の冒頭でも触れた菅野家の古いサイロは、「祖父が北海道にあこがれて建てた。自分が生まれた時に植えてくれた記念樹はシラカバだった」と義樹さん。「これも、めぐり合わせなのかもしれない。いま、ここに生かされている、という思いが強くなる」

 

2015年12月23日、リフォーム工事が進んだ母屋で、古い家から受け継いだ神棚を見上げる菅野義人さん(右)

12月23日、開墾を予定する除染後の牧草地跡に埋設した地下配水管を見る義人さん

16年1月12日、比曽の共同墓地の真ん前に積み上がった汚染土のフレコンバッグ

1月12日、義人さん宅の母屋で、比曽のこれからを語り合う菅野啓一さん(手前)と義人さん

1月17日、北海道栗山町の新しい牛舎で、生まれたばかりの子牛の体重を量る菅野義樹さんと美枝子さん

牛舎でミルクを飲む別の子牛を見守る義樹さんの一家

夕張山地に地平線を縁取られた、古里比曽に似た栗山町の雪景に立つ義樹さん

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 「環境省が行った『実証事業』とは、こういうものだった」。2015年12月23日、飯舘村比曽の農業菅野義人さん(63)は、自宅から車で数分の距離にある1軒の留守宅を訪れ、裏手の居久根(いぐね・屋敷林)に案内してくれました。高い杉林の居久根は、家の端から続く高さ5メートルほどの急な斜面の上にあります。その斜面の表土は工事ではぎ取られており、数十メートルにわたって真新しい土が出ており、下の方には土砂の流出を防ぐ土留めが作られていました。
 「実証事業」とは、つまり試験除染のことです。義人さんも役員を務める比曽行政区が繰り返し要望していました。86戸ある比曽では、同省による家屋の除染作業が15年春までに終わりました。が、義人さんの仲間である前区長の菅野啓一さん(60)が中心となって行政区独自の検証測定を全戸で行ったところ、多くの家で、居久根や山林がある裏手の放射線量が高い実態が分かりました(本ブログ131『 帰れるか、帰れぬのか~飯舘村・比曽 その2』参照)。
 環境省の福島環境再生事務所に要望を重ねた末、「実証事業」が行われたのは3戸。除染後の検証測定では、家屋の表(玄関側)と裏手の放射線量がそれぞれ①0.7マイクロシーベルト(毎時)と3.1マイクロシーベルト、②0.6マイクロシーベルトと4.7マイクロシーベルト、③1.1マイクロシーベルトと7.4マイクロシーベルト―と極端に違った結果が出ました。そのうちの1軒が義人さんに案内された家で、2代前の区長で羽山神社の氏子総代長、菅野民雄さん(69)=本ブログ132 『帰れるか、帰れぬのか~飯舘村・比曽 その3』参照=の自宅です。「居久根から飛んでくる放射線の影響は明らかだ」と義人さん。居久根はそれぞれの家の財産で、子や孫が建てる家の材料などに―と代々植えられ、守られてきました。2011年3月の福島第1原発事故で拡散し、北東方向の飯舘村に降った放射性物質が高木の居久根の葉や枝に付着しました。

 環境省の除染は家屋の周囲の汚染土を5センチの厚さではぎ取り、放射線量を下げる方法ですが、居久根の部分は、森林について定めた除染基準に沿って落ち葉など表面の堆積物を除去するのみです。「農家は家にこもって暮らせない。居久根は昔から生活圏なんだ。家の周囲が等しく安全な環境に戻らなければ、人も帰れない。土のはぎ取りは必須の条件だ」と義人さんは憤りました。自宅のすぐ裏の斜面の上に、やはり大きな杉木立の居久根があり、氏神をまつる社がたたずんでいます。中に古い鉦が下がっており、見せてもらうと、延享2(1745)年の年号と先祖の菅野伝左衛門の銘がありました。「代々の家族がお参りしてきた場所だ。生活圏と認めてもらわなくては困る」と同省の現地担当者に訴え、14年秋、特例的に社の周りだけ土のはぎ取りが行われました。
 義人さんはこの時の除染作業前後の放射線量を測定し、記録したデータを11月末の比曽行政区の役員会に報告しました。社の周囲7~8メートル四方の4地点での①除染前②堆積物除去後③はぎ取り・覆土後の空間線量(地表1メートル)は次のようになりました。
 【A地点①7.13→②5.87(①と比べ18%減)→③2.43(①と比べて66%減) B地点①8.73→②6.96(①と比べ20%減)→③2.74(①と比べて69%減) C地点①データなし②3.68→③1.49 D地点①データなし②6.01→③2.49】

 除染後も放射線量の高止まり状態が続くことの原因について、比曽行政区に協力して義人さんと一緒に居久根の汚染実態を調べた辻修帯広畜産大教授(農業土木/防風林を研究)はこう解説しました「林床では、落ち葉が腐って分解すると腐葉土になっていく。その過程で、葉に付いた放射性物質が外に離れる。これが土ならば、粘土分に付着する性質のあるセシウムはがっちり固定されるが、腐葉土の層には粘土がないので吸着せず、降ってくる雨水がとともに下に動いていく。原発事故から3年半がたち、落ち葉は積もって腐葉土となり、セシウムは既に林床に染み込んでいる。表面の堆積物の除去だけでは不十分なことは明らかだ」(本ブログ131参照)。
 帰還のために、生活圏の放射線量を確実に下げる「はぎ取りは必須の条件だ」という義人さんの訴えの根拠はここにあります。福島県森林計画課が15年3月にまとめた森林のモニタリング調査で、同県内の森林に降った放射性物質の75%が、それまで4年の間に木々の枝葉から、辻教授が語ったメカニズムによって、土壌(深さ5センチ内)に移行したことが分かりました。表面の堆積物除去で足りないのは自明でした。問題は、自らの基準に固執し、被災地の現場からの声に耳を傾けなかった環境省の姿勢でした。
                     ◆
 「実証事業をしたい」と環境省福島環境再生事務所から比曽行政区に話があり、それが実施されたのは15年10~11月だった。義人さんによると、「これでは、とても帰還などできない。再除染をしてほしい」という行政区からの度重なる要望があったから応えるものでない―と環境省側から断りを入れられ、「(同じく放射線量が下がらないとの声が挙がった)他の地区からつつかれるので、おおっぴらにしねいで。事前にマスコミにも出さないでもらいたい」と注文をつけられ、さらに「確認し合ったことをきちんと文書にしてほしい」という行政区の求めも容れられず、実証事業の実施日も明らかにされない、という異例づくめの出来事でした。実施の個所については行政区から、前述のように除染後の検証測定で玄関側と居久根側の放射線量の差が大きい家々の中から3戸を選んで要望しました。
 菅野民雄さん宅の実施個所で見た限り、重機ではなく作業員の手作業による工事でした。はぎ取りの深さは5センチとみられますが、義人さんが問題だと指摘したのは、「斜面の表土はぎ取りが、家との境から約5メートルという狭い範囲にとどまっていたこと」。実証事業の結果について同事務所から報告があったのは、比曽行政区が同年12月4日に開いた新旧役員らの除染協議会の席上です。「環境省側からは『除染効果が上がった』と話し、『放射線量の低減率はおおむね45%だった』と説明された。が、詳しいデータなどを記した資料は、いったんわれわれに配られながら、すべて回収されてしまった」。義人さんはやり取りをこう振り返りました。

 実証事業が「表土から5センチのはぎ取りを」という地元の希望に沿ったはぎ取り試験を行ったことは事実でした。しかし、「除染の範囲(奥行)がわずか5メートル程度では、放射線量の低減効果は限られている。『居久根という空間全体を住民の生活圏と認めてほしい』という行政区の要望から遠かった」。行政区はさらに「こちらの意見も生かして、本格的な再除染を比曽の全戸で実施してほしい。住民の不安を取り除いてもらいたい」と訴えましたが、これに対して環境省側は「今回の結果を踏まえて新たな基準をつくって、除染のガイドラインに盛り込む」というあいまいな回答を後に残しただけでした。「いったい、この実証事業が何につながるのか、現地の当事者にも知らされない。記録も文書も約束も地元には残されない。住民に言われたからやった、とは決して認めたくないからないのだろう」。それが国の姿勢だ、と義人さんは厳しく語りました。

 「除染後も高い線量が残る場所でフォローアップ(追加)除染を行う」という方針案を環境省が明らかにしたのは同年12月21日、原発事故被災地をめぐる「環境回復検討会」(第16回)の場でした。飯舘村比曽(地名は公表せず)のほか南相馬市、福島県川俣町、葛尾村などの斜面など計30カ所で同様の「実証事業」を行って検討したといい、「基本的に面的な除染は再度実施しないということでありますが、除染効果が維持されていない箇所が確認された場合には、その原因も可能な限り把握して、合理性や実施可能性を判断した上で、フォローアップの除染を実施する」=鈴木基之座長(東京大名誉教授/環境工学・環境省中央環境審議会会長)=。その中で、従来「土砂崩れの恐れが出る」という理由で実施してこなかった斜面でのはぎ取りを特例的に認めました。その理由は地元住民からの要望があったからでなく、あくまで政府内の期限、都合に迫られての方針転換でした。
 鈴木座長はこう触れました。「最近の動きでございますけども、6月の閣議決定、原子力災害からの福島復興の加速に向けてにおきましては、遅くとも平成29年3月までに避難指示を解除し、住民の方々の帰還を可能にしていけるよう、除染の十分な実施等に取り組むと。また、併せまして、居住地周辺における除染効果を確実なものとするための取り組み等、復興の動きと連携した除染を推進するとされております。ご承知のとおり、避難指示解除に向けましては、年間積算線量が20ミリシーベルト以下になることが確実であることという要件を満たすこととされておりまして、今後、円滑な避難指示解除にできる限り貢献できるように、除染を進めていく必要があるという状況でございます。」

 ただし、この日の環境再生検討会の資料には「宅地内の法(のり)面の表土の削り取り」との表現はありますが、居久根、標準語なら屋敷林への言及はありません。環境省の現地担当者に対する「居久根を住民の生活圏と認めてほしい」という比曽行政区の訴えは、顧みられなかったことになります。検討会の議事録には「住民に近い自治体の方々にフォローアップ除染をしていただく、あるいは判断をしていただく、それから住民の方々と実際に相談をして必要なところを除染する。全て環境省がおやりになるんじゃなくて、次のフェーズへ移していくような措置も、ぜひ、とっていただきたいと思います。」という委員の要望も記されています。「現地のことは、現地の人が一番よく知っている。意見を聴け」との提言です。が、これと正反対の姿勢を翌年2月、環境大臣自身が露呈してしまいました。
              ◆
 2月8日の信濃毎日新聞。丸川珠代環境相が前日、松本市で講演したという記事を載せましたが、その中での発言が他メディアにも波紋を広げました。東京電力福島第1原発事故の後、政府が全住民避難を指示した福島県の被災地で行っている除染で、年間被ばく量の目標を1ミリシーベルト(毎時換算0.23マイクロシーベルト)としている点について「『反放射能派』と言うと変ですが、どれだけ下げても心配だと言う人は世の中にいる。そういう人たちが騒いだ中で、何の科学的根拠もなく時の環境大臣が決めた」と同紙は報じました。
 「年間1ミリシーベルト」は、政府の原子力災害対策本部が15年6月に決定した基本方針「原子力災害からの福島復興の加速に向けて」(改訂版)に以下のように明記してあります。「住民の方々が帰還し、生活する中で、個人が受ける追加被ばく線量を、長期目標として、年間1ミリシーベルト以下になることを引き続き目指していく」。この文言に続き、線量水準に関する国際的・科学的な考え方を踏まえて対応することについて、「住民の方々に丁寧に説明を行い、正確な理解の浸透に引き続き努める」という努力を政府自らに課しています。「年間1ミリシーベルト」は、国際放射線防護委員会(ICRP)が原子力災害の「復興期(現存被ばく状況)」にある場合の目標を1~20マイクロシーベルトと勧告し、その範囲での適切な防護をした上での長期目標としています。原発事故被災地の避難指示解除要件として、政府は「年間20ミリシーベルトを下回る」ことを除染目標を掲げています。

 原発事故被災地の復興に向けて政府が決めた最高方針であり、責任者の丸川環境相が知らぬはずはありません。同9日の衆議院予算委員会で発言を問われ、「反放射能派」について「秘書がおらず記録も取っておらず、こういう言い回しをしたという記憶もない」と答弁し、翌10日には「1ミリシーベルトを除染だけで達成するとか、帰還の際の目標値だと誤解している人がいる。住民との意思疎通が不十分だったとの指摘をしたいとの趣旨だった」と釈明しました。ご当人は就任後の15年10月8日に福島市入りした際、同省福島環境再生事務所で「『原発事故直後、東京で電気を使っている立場として申し訳ないと思っていた。皆さんと共に頑張っていきたい』と言葉を詰まらせながら職員に訓示した」(同9日の河北新報より)。どちらが本心か。比曽の菅野義人さんにはどう響いたのでしょう。
 「あれだけの原発事故を起こして、政府が自らの責任で除染を行っている以上、被災地の環境回復と住民の帰還のために少しでも線量を下げる、しっかりやっていく、と言うべき立場なのが環境相ではないか」「目標通りの安全達成を目指してもらいたいのは『反放射能派』でなく、われわれ当事者なのだ」「(丸川環境相は)初心の謙虚さを忘れたというより、線量よりも『早く幕引きをしたい』という政府の本音を出したようだ。政府は来年3月までの避難指示解除(全住民避難地域が対象。帰還困難区域を除く)を決めたが、そこからどうやって生活していけるかが、帰還する者には問題なのだ」

 本心はどこにあるのか? その疑問は、環境省の「フォローアップ除染」のこれからの進め方にもありました。「除染後も高い放射線量が残る場所を再測定した上で実施を判断する」というのが基本の手順ですが、その判断の基準は被災地の住民の常識とは違っています。環境省は「年間20ミリシーベルトを下回る」という政府の避難指示解除要件を超える放射線量がある場合を挙げますが、「年間20ミリ」の中身は、毎時単純換算をした数値の2.28マイクロシーベルトでなく、「3.8マイクロシーベルト」だとしています。その根拠とは「屋外に8時間、屋内に16時間とどまる」という生活パターンを想定したケースでの独自の計算です。文部科学省も原発事故があった11年、この計算による「3.8マイクロシーベルト」を福島県の学校における校庭・校舎使用の基準として通知しました。
 しかし、平常時の基準1ミリシーベルトと比べて「あまりにも高線量だ」と保護者らの強い批判を浴び、撤回した経緯がありました。にもかかわらず、避難指示解除後にやはり子どもが帰るかもしれない被災地に適用しようとする構えです。同省除染チームは筆者の問い合わせに「『3.8マイクロシーベルト』は政府・原子力災害対策本部の基本方針で、それに準拠している」と答えました。が、政府の最高方針である「原子力災害からの福島復興の加速に向けて」(改訂版)に、その説明は明記されていません。もし、「3・8マイクロシーベルト」がフォローアップ除染の判断基準として運用されるならば、「農家は、家にこもっていては仕事にならない」と語る比曽の住民たちが、「安心できない」と受け止める多くの場所が「問題なし」と片付けられてしまいます。その科学的根拠についてこそ、責任者の丸川環境相は被災地の住民訪ねて説明するべきでしょう。(11年4月、福島県の学校への通知に当時の内閣官房参与の小佐古敏荘東大教授が『年間1ミリシーベルトで管理すべき』と泣いて抗議しました。文科省は通知を撤回し、『年間1ミリシーベルト』以下を目標にすると発表しました)。
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 「田んぼ(の稲作)は諦めているよ。風評がどうだという前に、このありさまではなあ」
 16年1月初めの夕方、比曽の小盆地は厳しい寒さと薄雪に包まれ、全住民避難の里のわびしさを増していました。菅野啓一さん(61)は荒れ果てた水田を指さしました。避難先の福島市内のアパートから車で40~50分の道を足しげく通い、自宅に残した農地の草刈りなど維持管理を怠っていません。しかし、見渡す限りの水田の土はめちゃくちゃに掘り返され、くぼみの凹凸の深さは30センチもありました。イノシシがミミズなど土中の餌をあさった跡です。人の姿がなくなった飯舘村の全域で数を増し、縄張りを広げたのがイノシシとサル。他地区でも深刻な問題になっています。
「うちの田んぼにはまだ除染作業の順番が回ってきていないが、イノシシは(放射性物質で)汚染された土を、くぼみの底までかき混ぜている。深さ5センチまで土をはぎ取る環境省の方法では、もうやれない。でこぼこをいったん重機で平らにならしたとしても、汚染土は取り切れないだろうな」

 啓一さんは福島第1原発事故の前、稲作と和牛繁殖、トルコキキョウのハウス栽培を手掛けていました。原発事故を挟んで12年3月まで8年間、比曽行政区長を務め、菅野義人さんとは地元青年会以来の地域づくりの仲間で、避難指示解除後の帰還とそれからの生き直しの道を共に模索しています。「手塩に掛けた皆の財産を取り戻したい。そのために、できることを何でもやる」と地区の放射線量測定やソバの栽培試験、自前の除染実験、行政区除染協議会メンバーとして家屋除染後の検証測定にも取り組んできました(本ブログ131参照)。
 築後28年になる家も、帰還に備えてリフォーム工事を終え、外壁などは真新しく輝いています。「(来年3月が期限の)避難指示解除後は税や医療費などの減免、賠償や補償もなくなるだろう。当分は無収入を覚悟しなくてはな。村の『見守り隊』(住民による行政区ごとの巡回活動)に代わる臨時雇用事業も要望しながら、生業の再建を準備しないとならない」
 「いくら除染をしても、口に入るもの(コメなどの作物)を作るのは無理だろう」と、先の見通しがつかない農地の利用では、まずトルコキキョウの栽培を再開するつもりです。「比曽は標高600メートル。9年間栽培したトルコキキョウは、高冷地の気候に合って発色が良いと、市場で評判だった。その経験があるから自信はある」。避難中も風雪による破損から守ってきた10棟のハウスは、15年秋にビニールを全て外しました。「土を新鮮な空気と雨水にさらして生き返らせ、春には耕起する」。啓一さんは、復興加速化事業として10アール規模の大型ハウスを建てる計画を村に申請しています。「連作障害を防いで1年交代で栽培できるようにハウスを広げる。だが、実際に花作りを始められるのは早くて2年後だろうな」。そう言って、啓一さんは骨組みだけのハウスの梁に手を伸ばしました。無収入を覚悟の生活再建の厳しさ、辛抱して待つ年月の長さを、その日の寒さの中で感じました。

 家の裏手に大木の杉の居久根が広がっています。「おやじが杉を植え、この家を建てた時、俺が一本一本を切って材料にした。居久根は、次の世代に手渡す財産なんだ」。12年9月には、それらの枝を独力で切り払い、長年の冬仕事で習得した小型重機操縦の技術で林床の土をはぎ取る実験をしました。
 『実験範囲は、家の周囲と、境を接する屋敷林の奥行き約20メートル。林床に積もった落ち葉を除去し、小型ショベルカーを入れ、表土から十数センチの土をはぎ取った。廃土や落ち葉は、深さ約1メートルの粘土層まで穴を掘って埋め、きれいな土で覆った。
実験前後の線量の変化を測った結果、家と屋敷林の境の計測地点では、地表面が20.5マイクロシーベルトから1.8マイクロシーベルトに減り、地上1メートルの線量も9マイクロシーベルトから2マイクロシーベルトに減った。
 家の周囲、屋敷林の計23地点で、実験後の計測値は1〜3マイクロシーベルト(いずれも地上1メートル)と低く、生活圏を一体にした除染の効果が確かめられた。
菅野さんは「高所の枝切り、急斜面の場所での作業などに課題はあるが、実際にここまでやれると分かったことは希望だ。各地区の除染を行う国にデータを示し、住民の提案を採り入れてもらいたい」と話している。』(12年9月24日の河北新報より)

 その居久根の杉材で造られた小屋が、一番家屋寄りの場所に立っています。内部には汚染されていない土と杉材を組み合わせた三重の壁があり、真ん中の空間に放射線を24時間測定する装置が据えられています。居久根から飛んでくる放射線を土の壁で遮り、帰還後の安全な住まい方を工夫するための実験施設。原発事故のため需要がなくなった地元材を活用するモデルハウスの試作品でもあります。村民有志と協働し、生業と生活の再建を支援しているNPO法人「ふくしま再生の会」(田尾陽一理事長)から実験を提案され、啓一さんが頭領役になって15年秋、再生の会メンバーと建てました。
 小屋の周囲は奥行き20メートルまで杉の木々が切られ、家の敷地の一部として堆積物除去の除染が行われていました。残った居久根の一番前列に立つ木、そこからさらに10メートル奥にある木などにも点々と放射線量の測定機が取り付けられ、「居久根の放射線の実態を調べるんだ。奥に向かって自前の除染実験も進めていき、小屋に届く線量がどう変わるかも測定する」と啓一さんは語りました。「『フォローアップ』なんて、環境省のやることを当てにしていられない」という強い言葉とともに。
 「何度も言ってきたのに、環境省は居久根の除染をする気がない。俺たちは、モルモットにされるのはごめんだ。俺も義人さんもここに戻って、生きていかなきゃならないんだ。戻ることを決めた自分たちで除染を続けていくしかないと思っているんだ。俺は4年も前に居久根の除染実験をやって、どうやればどこまで下がるか、やり方を分かっている。村が新しい臨時雇用事業にしてもくれるよう働き掛けて、一緒に比曽に戻る仲間、外から参加してくれる人を募り、安全な状態まで除染をしたい」
 避難指示解除とはバラ色の夢でなく、新たな闘いの始まり―。啓一さんのもう一つの厳しい覚悟でした。

2016年12月23日、環境省の「実証事業」が行われた現場に立つ菅野義人さん=飯舘村比曽。

12月23日、自宅裏の居久根にある氏神の社と義人さん。社の周囲の土がはぎ取られた。

社に残る、延享2年(1745年)の銘と先祖の名が刻まれた鉦

2016年1月12日の雪をかぶった菅野啓一さんの田んぼ。イノシシに掘り返された。

トルコキキョウの栽培再開を決意し、骨組みになったハウスを見る啓一さん

帰村に向けてリフォームした自宅と、裏手の居久根にむかって立つ実験小屋

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 東日本大震災から丸5年を迎えた2016年3月11日の昼過ぎ、私は常磐道を南下し南相馬市に向かいました。仙台からほぼ1時間。南相馬ICを下り、市役所がある原町の中心部を過ぎて再び南を指すと、相馬野馬追の神旗争奪戦の会場、雲雀(ひばり)ケ原に近い住宅地の一角、橋本町に着きます。小高区泉沢集落から避難中の石井光明さん(69)、一枝さん(63)夫妻の借り上げ住宅を訪ねました。石井さんは、泉沢にある古い信仰の場「大悲山」(平安時代の磨崖仏群)に福島第1原発事故後も通い、各地に離散してしまった住民組織「大悲山三尊保存会」の活動を担い続けています。
 「4月を目標に小高区の避難指示解除をする、と(桜井勝延)市長はずっと言ってきた。『予定通り、除染も環境整備も進める』という考えだったのだろうが、現実は不安ばかり。時期が尚早ではないかと、小高の住民からの批判は大きかった。先月20日の説明会では、『4月の解除はありえません』と市長が延期を口にしたよ。解除はお盆ごろになるになるのではないか、といううわさが流れている」
石井さんは居間のテーブルを挟んで、市が2月20日、小高生涯学習センターで開いた第1回の「避難指示区域解除に向けた避難指示区域内市民説明会」の模様を語りました。1回目が小高区の中心部、2回目が原町区の避難指示区域、3、4回目が小高区の他地区という順番で2月中にありました。桜井市長が延期を表明した目標とは、13年12月26日の河北新報で次のように報じられていました。

 『福島第1原発事故で、南相馬市は市内の居住制限区域、避難指示解除準備区域の避難指示を2016年4月を目標に解除することを決めた。
 国の住宅除染が15年度に終わると見込まれ、目標時期を定めた。対象は小高、原町両区の計約4000世帯。学校の再開も予定する。(中略)桜井勝延市長は「解除は除染の完了が前提。商店の再開支援など早期帰還できる環境を整備したい」と話した。』
 石井さんが参加した第1回の説明会の前日には、政府が当初の目標通りの実行を南相馬市に求めた動きがありました。政府の原子力災害対策本部の担当者が同月20日に市議会全員員協議会に出席。あくまで4月を目標に避難指示を解除する考えを明らかにし、『今月中に宅地周辺の除染が終わる前提に基づき「故郷での生活を再開し、復興を本格的に進めることが重要」と強調し、理解を求めた』(2月20日の河北新報より)。
 政府側はそのまま第1回の説明会にも出席し、除染作業やインフラ復旧の状況を説明した上で「地域復興に向け4月中に解除手続きを進めたい」との意向を伝えました。これに対し、約300人の住民の間からは除染効果のほか『廃棄物の保管や作業状況など除染に関して疑問が集中。市内の仮設住宅に避難している佐々木より子さん(54)は「現状では若者に住んでもらえない。解除を1年先送りしてほしい」と訴えた。』(2月21日の河北新報より)。避難指示解除を急ぎたいと見える政府の意向よりも、噴出した住民の不安の声を踏まえて、桜井市長は目標の延期を表明したと思われました。

 「環境省は3月中に除染作業を終えると言っている。だが、泉沢集落の仲間からは『家の解体を終えてから除染をしてほしい』という要望が上がっている」。石井さんはこう言います。11年3月11日の大地震で損壊したり、避難中に傷んだりした家々の解体事業は16年度も続きますが、古い化育の解体とともに粉じんが周囲に飛び散り、再び汚染されるという危惧が住民の間で強いといいます。

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 15年8月31日、大悲山の取材の帰り道に立ち寄った泉沢集落で、石井さんと共に避難先の鹿島区から通っている三尊保存会の仲間、農業島田滋さん(70)の自宅を見た時のショックを思い出しました。5年前の大地震で屋根の瓦が落ちて板の下地がむきだしになり、家族の不在中に雨にさらされて大きな穴が空き、その真下の部屋の床も腐って、下から伸びたササや雑草が繁茂していました(本ブログ150~南相馬・小高 大悲山を守る人々その後㊥)。「家の様子を見に戻る度に荒れ果ててゆき、悲しくて、帰る気をなくした」という別の小高区住民の話も耳にしました。島田さんの家の解体は説明会と同じころに始まったそうです。そして、昨年11月、3度目の申請がようやく市から認められた石井さんの自宅の解体作業は、昨年12月16日に始まり、あっという間に更地になったそうです。
 「『金の卵』の1人として田舎から働きに出、横浜や川崎の会社でお金をためて、30歳の時に建てた家だった。大型のバックホー(ショベル付きの重機)で、屋根から一気に崩して解体するんだ。見ていて、悲しいというか、どうしようもないというか。何を思っても、元には戻らない。もっとひどい目、悪い目に遭った人がいるのだから」。もう住めぬと分かりながら、石井さんは無念そうでした。

 目標がまだ決まらないとはいえ、避難指示解除の話が現実味を帯びてきたことで、泉沢集落の住民たちも「戻るか戻らぬか」の判断を迫られていました。家を建て直しての帰還を決めている石井さんにも、集落の仲間の模索が少し詳しく伝わってきました。「最近、行政区長さんから聴いたことだが、集落の54戸のうち、戻ってくるつもりの世帯が現時点で30戸あるそうだ」。昨年、行政区が行った避難先の住民のアンケート調査では、帰還の意向はわずか14戸でした。それが、2倍に増えました。大悲山三尊保存会の復活も遠くなくなったといえそうでした。が、石井さんは難しい表情のままです。
 「戻ってくるとしても、19戸あったうちの隣組は半分より少なくなる。島田さんの隣組は、10軒あるうちの4軒ほどか。小高区の外に新しい家を建て、帰らないことがはっきりしている人もいる。会うことも話すこともない人もいる。泉沢の行政区をどうするか? 隣組を合併するしかないか」
 石井さんが家族と新しい家に入れるのは2、3年後になるかもしれない、といいます。新しい共同体を再生できるのかどうか、まだ想像もつきません。自身も来年1月には70歳。保存会を復活させることは一番の希望ですが、それが続かなければ、「市の文化財課に活動を託すしかない。そのことも考えておかなくては」と、家族の事情で泉沢に戻らないつもりの島田さんと語り合っているそうです。

 石井さんの仮住まいで話を聴かせてもらっているうち、一枝さんが「ああ、(午後)2時46分になったね」と時計を指しました。5年前のこの時刻、私自身が仙台の職場の5階で揺られた未体験の恐怖を思い出しました。大船渡で、陸前高田で、気仙沼で、石巻で、相馬で、飯舘村で、この南相馬で、これかで取材の縁を重ねた人たちがどのように同じこの時を迎えているか。しばしの沈黙の間、1人1人の顔を思い浮かべました。石井さんは問わず語りに、大震災直後のことを振り返りました。
 「仏壇が、あの地震で吹っ飛んだな。家の中がぐちゃぐちゃになった。津波が近くの常磐線の線路まで来ていたことを知らないで、一枝と2人で家の中の片付けをしていた。原発事故が起きて白石(宮城県)に避難して、4月になってもう一度戻り、家財道具を運び出したが、翌日には(20キロ圏だった小高区の警戒区域指定で)入れなくなった。それから、こんな5年が過ぎるとは思わなかった」

 翌3月12日、浪江町方面に通じる旧街道を小高区に向かい、泉沢に着いたのは午後5時ごろ。大地震で建物がゆがんだままだった石井さんの自宅は跡形なく撤去されています。そこから100メートルほど離れた島田さんの家の前に移ると、作業時間を終えた長いアームの黄色い重機、青いダンプカーが目に入り、取り壊し中の大きな藏が、下半分のなまこ壁だけの姿になっていました。屋根に大きな穴が空いた母屋はもうありません。そこにあったものが消えてしまったことに戸惑いました。数年後、再び近隣に新しい家が建ち、家族の声が聞こえてくる未来をまだ想像できずに。こんな薄暮の黄昏時を昔の人は、この世ならぬ世界との境が開く「逢魔が時」と呼びました。田んぼも周囲の里山も薄茶色に枯れた集落の風景が次第にぼやけていく中、庭々の古い梅の木の花だけが妖しいほどに咲き誇っていました。

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 南相馬市役所の議会フロアに小高区出身の渡部寛一市議(63)=原町区に避難中=を訪ねたのは、それから2週間後の3月25日。一枝さんの高校の同級生で、「なじょしてる かんいち通信」という小高区住民向けのミニコミ紙兼議会報告を、石井さんの借り上げ住宅で見せてもらったことがきっかけです。切り出されたのは、南相馬市が2月下旬に開いた避難指示区域の住民向け説明会の話でした。
 「確かに、4月の避難指示解除はいまの状態では無理ですね、と(桜井)市長は言った。その上で4月中には可否を判断し、時期も明示したい、と」。その判断の前提となるものが、環境省による除染作業の完了でした。少し時計の針を進めると、4月1日の河北新報には次のような記事が載りました。
『東京電力福島第1原発事故に伴う南相馬市内の避難区域について、環境省は(3月)31日までに宅地など生活圏の除染作業を終えた。市は4月中に作業報告書の確認を進め、避難指示解除の具体的な時期を探る。
 除染の対象地域となっていたのは、同市小高区と原町区の一部約4000区画。環境省では廃棄物の仮置き場への搬入も終えた。4月以降、住民の要望があれば追加の除染を実施する。
国は2月、4月をめどに避難解除する考えを表明。3月までの除染終了に向け、現場作業員を増員するなどしていた。』

 この環境省の発表では、3月中に宅地などの除染が完了したことになっていますが、同省の除染情報サイトを見ると、3月31日現在の宅地の除染率は88%にとどまっています。これは、除染が必要な区画数約4400戸のうち、あくまで「除染を実施できる条件が整った」約3900戸について実施を完了した、という実情を示しています。この差は、除染を行うための同意を取れていない地権者が多いためで、ほかの実施率を見ても、農地は33%止まり、道路は39%、森林(宅地から20メートルの範囲まで)は44%にとどまっています。「避難指示解除を言いながら、いまだに泉沢で除染されていない家もある。区内のあちこちで除染作業が続いており、来年まで掛かるのが現実だろう」と石井さんは語っていました。これで帰還しろ、と言われる住民の不安はもっともでないのか、と。
 渡部さんの自宅は、泉沢集落から常磐線沿いに南にある小高区耳谷(みみがい)にあります。家屋の除染は終わっていますが、家の背後にある斜面の雑木林の除染方法について疑問を抱いたそうです。「家の裏手に(里山の端を削った)高さ7メートルの垂直ながけがあり、その上に斜面がある。常識的には、上の斜面の端から20メートルの範囲を除染するべきだが、実際の作業は、がけの一番下から測り始めた。おかしいと言ったが、それが国の基準だという。現場でなく、都会で考えた理屈だ」
 「国は早く復興を宣言したいがために解除を急いでいるのではないか、と言われても仕方がない。市長にも早く解除したい気持ちはあるが、それは、解除の時期が遅くなればなるほど、住民の帰還の意思が薄らいでいく懸念があるから。われわれ住民からしても、5年間待つというのは既に長い」

 渡部市議が見せてくれたのは、南相馬市が15年8月にまとめた小高区住民の帰還の意向調査結果です(計10979人のうち8314人が回答)。それによると避難先からの帰還意向は、南相馬市(原町区、鹿島区を含む)に「戻る」が20.2%(1680人)、「条件が整えば戻る」が26.4%(2191人)、「戻らない」(市外への居住を希望)が28.8%(2395人)、「わからない」が21.7%(1802人)。放射線量が比較的高い山沿いの西部では、「戻る」が14.7%(348人)、「戻らない」は34.9%(827)。津波で被災した海岸部の東部でも「戻らない」が36.6%(682人)でした。このうち「小高区に戻る」という意向の人は、さらに減って全体の13.7%(1141人)にとどまりました。「厳しく見て、現実に戻る人は1割くらいでは」と渡部市議は推測しています。

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 3月11日に泉沢集落へ行く途中、通過した小高の中心部のありさまを思い出しました。南相馬市への合併以前から旧小高町は商業で栄え、相馬地方でも大きな商店街がありました。大震災前には約350事業者が小高商工会に名を連ねていましたが、福島第1原発事故後は全住民が避難し、無人の街に。その後、避難指示解除に先駆けて少しずつ店や事業者が戻り、2年前の計30事業者から現在42事業者に増えています(ほかに152事業者が福島県内外で再開)。しかし、営業している小売業者はわずか7店。商店街の多くの店がシャッターを下ろし、ショーウィンドウ内の商品がめちゃめちゃだったり、外壁が崩れかけていたり、解体中だったり更地になったりした店の跡もあります。
 街そのものの再開を準備する動きも出てきました。商店街の一角には、小高区外の仮設住宅で暮らしている住民を迎え入れる災害公営住宅が建てられています。次のようなニュースもありました。
『東京電力福島第1原発事故に伴う住民避難が続く南相馬市小高区で28日、仮設店舗「東町エンガワ商店」がオープンする。地元小売店の大部分は休業が続いており、来春目標の避難指示解除に向けて市が整備した。
 小高区中心部のJR小高駅近くに立地。店舗面積約150平方メートルで食料品や日用雑貨など約1500点を扱う。運営は地元の商業者が担う。』(15年9月28日の河北新報より)
『南相馬市が同市小高区に整備する復興拠点施設の概要が固まった。東京電力福島第1原発事故からの地域再生に向け、住民交流、商業振興、子育て支援など多様な機能を持たせる。今後詳細設計に入り、2018年4月のオープンを目指す。』(16年2月26日の河北新報より)

 帰還意向の調査結果で小高区に「戻る」という人の8割は50~80代。高齢者を支える医療面では『東京電力福島第1原発事故の影響で診療休止を強いられた南相馬市小高区の開業医2人が、地元での再開準備を本格化させている。今春にも予定される避難指示解除をにらんで再スタートを決めた。帰還する住民は高齢層が中心になるとみられるだけに、地域から歓迎の声が上がりそうだ。』(16年2月2日の河北新報より)との朗報もありますが、入院・介護の施設再開の見通しはまだありません。
 渡部さんが心配するのは学校です。小高区の小学校(4校)中学校(1校)は鹿島区の仮設校舎で授業を続けていますが、児童生徒の在籍率は2~3割で、小学校の16年度新入生は6人。市教委は避難指示解除を見込んで16年8月(2学期)から小高区で小中学校を再開させる方針でしたが、15年11月に小高中の保護者たちが再開の先送りを求める請願を市議会に提出しました。県立の小高工業高が17年4月に再開する予定で、「なぜ小中学生が早いのか」という疑問も広まったそうです。ここでも地域再生を急ごうとする行政の思惑と住民の不安がぶつかりました。「市教委は2学期から再開する目標を断念して、早くても来年春に延期する考えを固めたようだ」と渡部さんは話します。

 5年前の3月11日、渡部さんは市議会の本会議中に大地震に遭い、急きょ戻った地元の耳谷地区の大半は幸にも津波の被災を免れ、家も無事でした。「原発事故が起きて、全住民避難となったが、市議である以上は南相馬を離れられず、原町区の知人宅を2カ月点々として市役所に通った」。農業後継者であった長男寛志さん(37)は妻、娘たちと共に、大学時代を過ごした愛媛県に避難しました。
『避難後、すぐにミカン栽培を始めた。「放射能の心配のない農作物を福島の人に食べてほしい」。コメや野菜は、風評被害に苦しむ福島の農家と競合してしまう。温暖な土地ならではの果物を選んだ。
 11年11月、ミカンを初収穫すると、自らトラックで福島の知人の元へ届けた。陸路で1200キロも離れている。周囲から「宅配便を使ったら」と言われたが、「古里とつながっている実感を持ちたい」と配達を続けた。翌年からは収穫量が増え、年10回のペースで通った。』(16年2月20日の河北新報社会面『震災5年 3・11 あの日と今/古里を離れて⑤』より)

 「私は避難指示解除になったら、家に帰るつもりだが、息子は、(幻合い小学生の)孫たちが高校を卒業するまで戻らない、と言っている」と渡部さん。自身もまた避難生活で家族と離れ、遠くにいる子と孫を思う小高区住民の1人です。不在中の家にアライグマやハクビシンが入り込み、天井に穴が空くほど荒らしていたといい、やはり解体して建て替えなくてはならないと頭を痛めています。

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 南相馬市議会での取材の後、小高区泉沢に向かいました。石井さんと大悲山での待ち合わせを約束していたのです。泉沢集落で島田さんの家の前を通ると、2週間前に解体中だった藏はなくなっていました。大震災と原発事故は、丸5年を経たいまもなお「被災地を奪い続けている」と感じました。
この日の目的地は、通い慣れた薬師堂ではなく、峰続きの山中にある信仰の遺跡、観音堂でした。高さ9メートルという国内最大級の磨崖仏でしたが、平安時代から約1100年の風雨で多くの部分が剥落し、残った顔の部分やたくさんの手に千手観音の面影を伝えています。13年3月23日、石井さんと島田さんに初めて案内してもらった観音堂は、2年前の大地震で古い覆屋(おおいや)が倒壊し、切り立った岩壁に巨大な姿のありのままを見せていました。その刹那の驚きを忘れられません(本ブログ91『石仏の守り手~南相馬市小高』参照)。

 南相馬市文化財課が同年11月から再建工事を進めていましたが、「新しい覆屋がようやく形を現した。ぜひ見に来て」と石井さんから電話をもらったのでした。少し急な参道を登っていくと、2段になった真新しい赤茶色の屋根、平安時代の建物を模した黄土色の太い円柱群が見えてきました。
 大震災に崩れることなく耐えた千手観音は、頭上に2本の手を上げて組んで小さな仏(化仏)を掲げ、天上につながっているような神々しさ。千の目と手をもって、この世のどんな人々をも救済する慈悲を差し伸べると言われています。傷ついた心を癒やし、よみがえらせようとする姿のようにも思えました。「これから参拝客が増えて、観音堂にも足を運んでくれるといい。それが泉沢集落の復活につながれば」と祈るように石井さん。明日はまだ見えなくても、希望は奪われ尽くされることはない、と。原発事故後の避難生活の中で石井さん、島田さんが通い続けた理由が分かった気がしました。

2016年3月12日、跡形もなくなった石井さんの家と薄暮の泉沢集落

3月12日、解体される島田さん宅の藏。母屋はなくなっていた。

3月12日、原発事故から丸5年が過ぎた小高の商店街

3月25日、小高区の避難指示解除の課題を語る渡部市議=南相馬市役所

3月25日、再建された大悲山・観音堂の覆屋と石井さん

巨大な観音像を見上げて祈る石井さん

 

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