余震の中で新聞を作る

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  外出から帰り、職場のパソコンを開いて仕事を再開した刹那でした。11日午後2時46分ごろ。
  ゆらゆらという横揺れがあって、それが次第に振幅を大きく、激しくし、周囲の同僚たちも机にしがみつくほどに。「もうじき止むさ」という気持ちを翻弄するような揺れが、本やファイルをすべて床に落とし、終息まで2分にも3分にも思えました。
「恐ろしさからか周囲には声もなく、これで死ぬのか、と思った」と、隣席の友人は翌日の朝刊につづりました。やはり被害の大きかった1978年の宮城沖地震を経験した同僚は多いのですが、やはり同様の感想を聞きました。

  あらゆる書類や書籍が散乱した5階フロアから、編集局の中心がある6階に駆け上がると、様相は一層ひどく、天井のかけらが落ち、蛍光灯のカバーがぶらさがり、本棚は倒れ、いったい外界はどうなっているのか、想像のつかない不安に襲われました。
  一時避難した駐車場から社屋をながめると、外壁の一部がはがれていました。
  未曾有の地震であったことを実感させたたものは、ほどなくしてテレビの画面にとらえられた大津波の映像でした。

                         ◇

  沖合に「地震の巣」を抱える東北の太平洋岸、とりわけリアス式の狭い湾が津波の力を増幅させやすい三陸は、有史以来、数々の大津波に襲われました。
  19世紀末、岩手、宮城、青森で約2万2000人の命を奪った明治三陸大津波。その後、再び岩手から宮城にかけて約3000人が犠牲になった1933年(昭和8年)の昭和三陸大津波。60年(同35年)にはチリ地震津波があり、大船渡市で53人、宮城県志津川町で37人、陸前高田市で8人が犠牲になりました。
  それからじつに半世紀ぶりの大津波の再来でした。しかも、その被害はもはや三陸にとどまらず、八戸から小名浜(いわき)まで、南北全域にわたる浜という浜、街という街がのみこまれたのです。気仙沼は津波の後に大火にも包まれました。しかし、いったい何が起きたのか、の全貌−M9.0という数字では表しきれないほどの−は、数日たった今ですら分かりません。  
  そして、私たちはただぼう然とはしていられませんでした。

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  まず現場の記者たちが無事でいるのか。そして、1人1人の家族は大丈夫か。その安否確認が、すべての始まりです。まして、今回は被災地となった街々に支局があり、記者たちがいます。
  編集局内の「本部」となるテーブルには報道部長やデスクたちが集まりました。電話連絡を懸命に取りながら、いま集まれる記者たちを確認し、誰がどこを、何を取材すべきなのか−を即座に「有事対応」の体勢に切り替えて決めてゆきます。
  既に時計は午後3時を回り、夕刻は間近。どんな危険があるかも分からない、どこまでたどり着けるか分からない状況下で、動ける時間は限られています。雪も強く降り出しました。
  瓦葺きの門塀が倒壊した寺、盛り上がって割れた道路、倒れた石塀、遠方に見える火の手。そんな情報を伝える電話の1本1本にデスクたちは労をねぎらいながら、「見たままでいいから」と言ってメモを取り、その断片のような話の数々をジグソーパズルのように重ねてゆきます。
  やがて届き始めた現場の写真や、空から撮られた映像が、情報を生々しい被害の実相へと変えました。

  発生翌日の朝刊1面から末面に大きくまたがった写真は、仙台の南隣、名取市の浜にある閖上(ゆりあげ)地区の変わり果てた風景でした。名取川の河口にある漁港で、新鮮な海産物の朝市で知られる閖上は、見渡す限り水没し、木っ端があふれ、水面に点在する家々の一角からは火の手が上がっていました。まさしく目を疑う光景でした。

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  33年前の宮城沖地震の際は、当時の河北新報の新聞作りを支えた鉛の活字が全部ひっくり返り、ろうそくの明かりを頼りに、マッチ棒ほどの長さの「あいうえお」や漢字の活字を1本1本拾って、なんとか新聞を作った−と先輩たちから聞かされました。その時に勝る今回の大地震は、IT時代の新聞作りにとっても初めての経験でした。

地震直後から仙台市内は大規模な停電となり、本社と同市泉区にある印刷工場は自家発電に切り替えられました。印刷工場は免震構造のため被災を免れました。しかし、本社内にある新聞製作システムの基本サーバーが横倒しになり、編集局は日夜の新聞製作が困難と判断し、システム災害協定を結ぶ新潟日報に応援を求めました。

取材した原稿、写真を新潟日報に送信し、整理部からもデスクら2人を陸路、新潟に派遣。できあがった紙面のデータを印刷工場に送って2ページの号外を1万部を発行し、翌12日付朝刊8ページも無事に自社で発行できました。

サーバーは、同夜のうちに正常に稼働することが確認でき、翌日の夕刊から本社での紙面制作が完全に復旧しました(通常は26ページ)。自家発電のための燃料や用紙の確保も、調達先のある地域の被災で不安が生じましたが、それぞれの担当者の協力で危機を一晩で乗り切りました。

 多くの被災地では、いまだ電気が(水道も)なく、電話もネットもつながりにくい状況です。大きな余震も毎日続いています。不安の中で、何が起きているのかを知らせる役割は、ラジオと新聞が担うことになります。
  未曾有の震災で、東北6県の45万人もの人々が家を失って避難し、不明の家族との再会や支援を求め、また予期せぬ二次災害も起こっています。このような時こそ、新聞は一日も休むことができません。
    

3月12日の河北新報朝刊


3月13日の夕刊

                                 (Cafe Vita/寺島英弥) --------