何も終わらぬ5年/余震の中で新聞を作る150~南相馬・小高 大悲山を守る人々その後㊥

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 「大震災で壊れた家の解体を、南相馬市がやっと認めてくれた。本年度中にやってくれるそうだ。4カ月も待たされて、今月4日に連絡が来た。受理番号670番だった」
 南相馬市小高区泉沢にある磨崖仏群「大悲山」を8月31日に訪ねた後、その守り手となっている地元「大悲山三尊保存会」の石井光明さん(69)=福島第1原発事故後、妻一枝さん(63)と同市原町区に避難中=から、11月になって電話をもらいました。泉沢集落にある石井さんの自宅の様子は、本ブログ149「南相馬・小高 大悲山を守る人々その後㊤」で紹介しました。家全体がゆがみ、無数のひび割れがあり、次の大きな地震があれば倒壊しそうな危険が感じられました。が、調査した市は2度にわたって「一部損壊」の評価をし、石井さんが「もう住むのは無理」と再調査を訴えていました。
 大悲山を再訪したのは、晩秋の冷たい雨が落ちていた11月26日。石井さんの小高小中学校の同級生で、大悲山保存会の仲間、そして、同じく福島県自然環境保護指導員である農業島田滋さん(70)が同行してくれました。原発事故後、小高区の全住民避難指示とともに、北の相馬市に隣接する鹿島区の仮設住宅で家族5人の避難生活を送ってきました。島田さんもまた、原発事故によって運命をねじ曲げられた1人でした。

 『島田さんは、11年3月11日の地震が来た時、炭焼きをしていたといいます。
 「畑のそばの炭窯に火を入れ、ふたをして焼いていたところ、グラグラと来て窯が割れ、中から火が吹いた。スコップで土をかけて30〜40分も掛けて火を消し、家に戻ってみると、屋根瓦がいっぱい落ちていた。1日家にいて片付けをしていたら、翌12日(午後3時36分ごろ)、『バーン』という音が響いた。雷が落ちた訳でもないのに何だろうと思っていたら、南の浪江町の方から車がどんどん通る。たまたま家の前に車を止めた老夫婦に、何があったのかと聞くと、『原発が爆発して、逃げてきた』と言う。泉沢は原発から13〜14キロ。翌13日に小高の町の妹宅に半日いて、テレビで爆発事故の様子を見て、これはもうだめだと思った。いったん家に帰って必要なものを車に積んで、原町から飯舘村に抜ける八木沢峠のふもとにある家内の妹宅に寄せてもらった。その間、夜も昼もすごいかずの車が峠を登っていく。ここも危ないと思って福島市に向かい、(同市)渡利の福島南高に避難した」』
 『妻と母親、娘と子どもの5人でひと月過ごした福島南高の体育館では、寒さから母親が肺炎になって渡利病院に20日間入院する事態になりました。4月に入ると高校の授業再開で他の避難所に移ることを余儀なくされ、同市飯坂温泉の旅館に受け入れてもらい3カ月を経て7月、南相馬市鹿島区の仮設住宅に入ったそうです。小高区は警戒区域とされ、農家の島田さんは仕事も失って、12年夏から「ふるさと小高地域農業復興組合」という(農家支援)事業に申し込み、ほとんど毎日、津波で被災した水田に茂った雑草刈りやがれき片付けに参加しています。「浜もひどいものだ。今はふんばって生きるしかない」と言います。』(本ブログ91『石仏の守り手・南相馬市小高』より)

 前回8月31日の取材で石井さんの自宅に立ち寄った折、近くにある島田さんの無人の家も外から拝見しました。光沢あるえび茶色の瓦が葺かれた大きな屋根の母屋、立派な藏。この土地に根付いてきた歴史ある農家の証です。その母屋の姿は、しかし、痛ましいほどの惨状でした。地震で落下したのでしょう、屋根の真ん中の瓦がすっぽりとなくなり、むき出しになって板張りの下地には、4年半もの間、雨水にさらされて大きな穴が空いていました。その真下に当たる居間なども湿って朽ちているようで、暗がりに緑色のこんもりした塊が見えました。床下の地面から伸びて繁茂するササのやぶでした。

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 「5年近くも雨漏りしていたからなあ」。大悲山の薬師堂を石井さんと見回った後の立ち話で、島田さんはぽつりと話しました。「あの大地震の時に瓦は落ちたが、中はそっくりしていた(無傷だった)んだ。だが、急いで避難することになり、修理どころでなく、家財道具すら運び出せなかった。その間に雨漏りし、家が腐ってしまい、草まで生えた」
 自宅は早い段階で「解体」の判定を受け、年明けから工事が行われる見通しでした。しかし、「家族は、もう戻らない、と話し合っている」。奥さん、90歳になる母親、娘、孫と一緒に辛抱して暮らした仮設住宅を14年春に出て、いまは、同じ鹿島区に建てられた災害公営住宅に住んでいます。自宅の解体後、石井さん一家のように家を建て直すのではなく、原町区か鹿島区に新しい家を造ることが家族としての意向になった、と。当分の間、そちらにいることになるだろう」。島田さんは苦渋を顔に浮かべて、「当分」という言葉を使いました。「おれ1人だけががんばって戻っても、どうしようもない」

 集落では、環境省による全戸の家屋除染が終わり、農地の除染が始まっていました。島田さんは2・8ヘクタールの稲作をする専業農家でしたが、13年3月の取材で「原発事故の影響で、田んぼの土に1000ベクレル以上(キロ当たり)の放射能がある」と話していました。福島第1原発から真北の海岸線沿いは、放射性物質が拡散が薄く、コメ作付け制限の基準値(土壌1キロ当たり5000ベクレル)を下回っています。島田さんの自宅前にある田んぼでも除染作業が行われており、生い茂った雑草が刈り取られて、黒いフレコンバッグに詰められていました。しかし、島田さんの心は晴れません。小高区では除染の開始が遅れたこともあって、試験栽培以外の稲作の自粛が続き、5年近く農業を離れた島田さんには先行きの不安が大きいようでした。
 「泉沢など三つの集落にまたがる水田の復興基盤整備事業の計画(約90ヘクタール。福島県を主体に早ければ17年度に工事開始)があって、大きいところで1ヘクタールの田んぼができる。おれも地権者になっているんだ。だが、もう集団営農のやり方でなくては、農業で生活するのは大変だ。(風評も根強く)花など口に入れるもの以外でやっていくならいいと思うが」。ここまで話して、島田さんはやっぱり寂しげです。「元気でいれば、もう一度できるかもしれないが、自分はもうすぐ70歳。農業を継いでくれる後継者もいないから…」

 石井さんと島田さんは薬師堂を出ると、参道の急な石段を下りました。入り口に至る途中に巨大な杉の木がそびえ立っています。2人はその前で立ち止まりました。傍らに「天然記念物 大悲山大杉 福島県教育委員会」「霊木 樹齢壱千百余年 古くからお百度巡(めぐり)は特に縁結 安産 長寿満足に霊験あり」という2本の立て札があります。根元は目通り幹周り8・6メートル、高さ約45メートル。樹齢からすれば、大悲山の磨崖仏が彫られた当時から生き続けてきた木です。大悲山では薬師堂の磨崖仏群のほかに、高さ9メートルという巨大な磨崖仏の観音像があり、1959年建造の覆(おおい)屋が11年3月11日の地震で倒壊しました。南相馬市文化財課が再建工事を進めており、それに先立つ発掘調査で、灯明皿として用いられた10世紀前半(平安時代)の赤焼き土器が出土しました。

 「泉沢には、大悲山に慈徳寺(じとくじ)という名前が残り、八つの寺が点在する大寺院だったという言い伝えがある。これだけ大きな信仰の場だったのだから。だが、度重なる火災ですべて焼けてしまったそうで、名前以外には何の古文書も遺物も残っていない」と石井さんは残念そうに話しました。この大杉こそが大悲山の誕生と栄華から原発事故まで、1100年の時を超えて知る証人なのでした。

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 大杉には、2匹の大きな蛇が絡まり合って太い幹に巻き付いているような、しめ縄が飾られています。「稲わら50束を使って作り、長さは18メートルもある」と石井さん。大悲山の例大祭は毎年2月8日の「初薬師詣」です。それに先立つ第1日曜、泉沢集落の男衆が参道入り口の集会所に寄り合い、それぞれに持参した地元の新しい稲わらでしめ縄を作り、大杉に巻くのが伝統の共同作業となってきました。例大祭の日には小高の街にある真言宗金性(きんしょう)寺から住職が来て護摩壇をたき、泉沢集落と参集する人々の安寧を祈とうしました。大悲山を信仰する200人もの善男善女が集い、にぎわったそうです。
 「原発事故と避難生活で保存会の仲間はばらばらになり、例大祭もなくなっていた」と石井さん。小高区が旧警戒区域(福島第1原発から20キロ圏)に入れられ、立ち入りもできなくなっていた間、大悲山そのものも無人の山中で眠りについていました。

 「だが、今年の2月の第一日曜日に保存会の有志が再び集まり、4年ぶりに新しいしめ縄を作って、大杉に巻いたんだ」。警戒区域や立ち入り制限が解かれ、13年末に南相馬市が「市内の避難区域の指示解除を16年4月に」とした帰還目標を掲げるなど、小高区を取り巻く新しい動きが出てきたことから、石井さん、島田さんが泉沢集落の伝統行事の再開を思い立ち、行政区長が住民に送っている「泉沢通信」に呼び掛けを載せてもらったのでした。「当日、南相馬市内やいわき市に避難中の21人が集まった。みんな、愛着があるんだ。地元産の稲わらはなかったので、相馬市の農家から分けてもらった」。でも、金性寺も原町区に避難中で例大祭は開けぬまま。その復活は泉沢集落の再生につながる課題になりました。

 石井さん、島田さんが避難先から大悲山に通い、行っている草刈り、木々の剪定、参道や駐車場の掃き掃除、周辺の水路にたまった落ち葉の「堀上げ」、薬師堂の参拝客の賽銭回収などは長年、泉沢集落の全戸が加入する三尊保存会の共同作業によって担われてきたものです。大悲山には初薬師詣だけでなく、8月初めの週末に恒例の夏祭りがあり、初日が夜7時から保存会の人たちの「夜篭り」(昔は身を清めて寺務所で夜明かししました。最近は午後8時半終了)、2日目が本祭りで、護摩を焚いて住民の健康と村の吉事を祈る「村祈祷」、田んぼの豊作を祈る「稲祈祷」が催されました。集落挙げての祭りだったそうです。
 「2月に仲間が集まった時、作業をしながら近況を語り合った。みんなの地元への愛着は変わらないが、例大祭の復活となると難しい。まずは休止状態になっている保存会の総会を開かなくてはならないが、その見通しもまだつかない」「帰還するかどうかの意向について、集落でアンケートも行ったのだが、『帰る』と答えた仲間は54戸のうちの14戸だった」。石井さんはこう語りました。
 自身は避難指示解除後、自宅を新築して家族と共に帰還するつもりですが、同じく戻るという回答者人に「農業をやる」という人おらず、多くは勤め先を定年退職した人たちで、40~50代が3、4人。「10年後の集落がどうなっているか。自分たちも年を取っていく。保存会を維持し、住民が昔ながらに大悲山を守っていけるのかどうか」

2015年8月31日、大悲山からの帰路に立ち寄った島田さんの自宅=南相馬市小高区泉沢

島田さんの家の中に生い茂った雑草

島田さんの水田でも始まっていた除染作業

同年11月26日、大悲山の薬師堂を見回る石井さん(左)と島田さん

全住民避難の間も守ってきた薬師堂の磨崖仏群と島田さん(右)と石井さん=撮影・坂本秀明(河北新報社写真部)

薬師堂への参道にある樹齢約1100年の大杉と、原発事故後4年ぶりに泉沢の人々が作ったしめ縄

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