何も終わらぬ5年/余震の中で新聞を作る149~南相馬・小高 大悲山を守る人々その後㊤

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 『知られざる磨崖仏群が南相馬市にある。東京電力福島第1原発事故で避難指示区域となった小高区泉沢にある「大悲山(だいひさん)の石仏」。全戸で保存会をつくる住民は地元を離れ、市内に残る石井光明さん(68)、島田滋さん(69)が草刈りや掃除に通う。市は来年4月を避難指示解除の目標としており、「何戸戻るか分からないが、祭りなど人が集う場を復活させていけたら」と願う。
 大悲山は、薬師堂、観音堂、阿弥陀(あみだ)堂の3カ所に平安期の磨崖仏群があり、国の重要文化財。
 54戸の泉沢地区では原発事故後、住民が市内外に避難。大悲山の保存会も休止し、それぞれ原町区、鹿島区に移った石井さんと島田さんが地元に通っている。古い信仰の場を守る活動は2013年4月の本紙「ふんばる」で紹介された。
 泉沢地区では家屋の除染が終わり、現在は農地で作業が進む。避難指示解除後の帰還の意向を行政区が聞いた住民アンケートでは「帰りたい」の回答は14戸。石井さんは戻るつもりだ。
 築38年の自宅は東日本大震災で損壊し、本年度中に解体される。新築して妻一枝(63)さん、相馬市にいる次女夫婦と一緒に暮らしたいという。「17歳から横浜、川崎の町工場で働き、帰郷して建てた家だ。あの苦労を捨て去ることはできない」
 島田さんは戻ることを諦めた。自宅の屋根に穴が空いて雨が入り、雑草が生えた。「家族が帰りたくない気持ちなので」。専業農家で、周囲では数年がかりの農地復興事業が計画されるが「後継者がおらず、また農業をやれるかどうか」。
 大悲山では避難中にもかかわらず、磨崖仏9体が並ぶ薬師堂に参拝者が復活し、関東から年数千人が来る。震災で高さ9メートルの千手観音像の覆家が全壊したが、市の再建工事が来月下旬に終わる。市文化財課は「広く紹介していきたい」と言う。
 「地元から大悲山をもり立てる時。何戸が戻るか分からないが、自分たちは関わり続ける」。福島県から現地の自然環境保護指導員も委嘱された石井さんと、島田さんは口をそろえる。
 大悲山の例大祭は毎年2月8日。小高区の金性寺住職が護摩祈禱(きとう)をする習わしだが、中断したままだ。ことしは、その日に先立って保存会の有志約20人が近隣から集まった。境内にある樹齢約1000年の「大杉」のしめ縄を、わら50束で作って奉納した。石井さんは言う。
 「来年も集まろうと決めている。皆の近況とともに、保存会の総会や例大祭を復活させていけるかなど、いろんな話を始めたい」』(2015年12月15日の河北新報社会面『その先へ 3・11大震災』 人が集う場取り戻す/『大悲山の石仏』保存会)

 これは、南相馬市小高区泉沢集落の山中にある「大悲山(だいひさん)」という平安時代の磨崖仏群(仏教遺跡)を、2011年3月11日の大震災・原発事故の後も地元に通って守り続ける2人の住民を追った記事の続報です(同月10日の河北新報社会面連載『ふんばる』~地域信仰の守り神に再び住民集う日、願って~、同月1日の本ブログ『震災3年目/余震の中で新聞を作る91〜石仏の守り手・南相馬市小高』参照)。

 福島第1原発事故の旧警戒区域(20キロ圏)とされ、全住民の避難が続く小高区について、桜井勝延市長は13年12月、除染完了を前提として小高区など市内の居住制限区域、避難指示解除準備区域の指示解除を「16年4月とする」との方針を打ち出していました。隣接する福島県飯舘村が政府から決められた解除時期(17年3月)よりほぼ1年早い目標設定でした。環境省は16年3月末、「宅地など生活圏の除染が完了した」と発表しましたが、飯舘村と同様、住民にとって問題は山積していました。このブログ版の続報は、石井さんと一緒に大悲山を再訪した15年8月31日の取材から始まります。

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 サルスベリの大木が、燃えるように鮮やかな紅色の花をいっぱいに咲かせていました。無人状態の旧小高町の商店街から、やはり原発事故以来、電車が止まっているJR常磐線(北の相馬~原町間は運転)に沿って南に車を走らせて約10分の泉沢集落。そこから西の里山に分け入る道を進むと、駐車場が開け、大悲山の史跡への参道があります。既に2年余りの縁を重ねた石井さんは、小雨降るこの日も避難先の原町区橋本町の借り上げ住宅から泉沢の自宅近くの大悲山を訪れ、雨具に長靴、麦わら帽の姿で夏草を刈っていました。参道の急な石段を上ると、史跡の一つ、古い木造の薬師堂があります。靴を脱いでお堂に入り、石井さんが照明を付けると、空調のため設けられたガラス戸の向こうの暗がりに、高さ約3メートルの9体の磨崖仏が浮かび上がりました。どれほどの歳月と情熱で岩壁に刻んだのか、1000年の聖地となってきた荘厳な仏教世界です。

 石井さんは、奉納された幟(のぼり)や折り鶴がある堂内の木机に載った帳面を開き、記帳された名前を数えました。茨城県などからの参拝者が原発事故後も絶えず、それが石井さんの希望になりました。次の一節は、13年7月30日の河北新報の記事です。

 『ツアーバスが訪れるようになったのは昨年11月から。「新しい参拝者の記帳が増えているのは知っていたが、実際にバスの乗客たちと現地で話したのは最近です」と保存会の石井光明さん(66)は言う。
 バスを運行しているのは水戸市の「石塚サン・トラベル」(綿引薫社長)。震災直後から毎週、石巻、東松島両行きのボランティアのツアーバスを企画し、計約1万6000人を運んだ。
 南相馬市へのツアーについて同社は「被災地を訪ねることが支援になれば、という年配者向けに企画した」と話す。(中略)6月上旬に夫婦で参加し、大悲山を訪れた角谷喜代子さん(78)=水戸市=は「立派な磨崖仏があることに驚いた。でも、誰も住んでいない小高区の風景に泣けた。地元の人たちの思いを伝えたい」と語った。』 

 「大悲山でも除染の作業が行われて、参道や境内の(放射性物質を含んだ)土が5センチ削られ、新しい砂利が敷かれた。今月22日に市の住民説明会があり、小高区全体で25%の除染が終わったそうだ」。石井さんは地元の近況を語りました。お盆の時期を挟んで小高区住民が一時帰宅できる「特別宿泊」(政府が許可)は31日で終わったものの、引き続き3カ月延長される、といいます。しかし、石井さんにはよそ事の話でした。大悲山を下りて、泉沢集落にある石井さんの自宅に立ち寄りました。クリーム色のサイディングがモダンな2階建ての家です。外観は何でもなさそうですが、中に上げてもらうと、11年3月11日の大地震で全体がひどく痛めつけられたことが分かりました。建物はゆがみ、壁と床、天井の継ぎ目が至る所でずれ、壁はひび割れだらけで、崩れている部分もありました。次に大きな揺れがあれば、一気に倒壊しそうな危うさでした。

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 「とても住めないのは明らか。だが、市が一部損壊としか見てくれない。解体申請を2度出したが、その度に却下されている。集落では、もう家を解体した人もいるのに。このままでは、泉沢に帰りたくても帰れない。諦めずにまた申請してみるつもりだが」

 小高区が避難指示解除となれば、石井さんは帰還するつもりでした。それだけ愛着の深い土地だといいます。小高駅前の指物大工の家に5人兄弟の長男として生まれ、「金持ちの子しか高校に上がれなかった時代」、中学を出ると職業訓練校で木工を習得して、17歳で「金の卵」として上京。都内、埼玉の木工の会社を経て、横浜にあった日東樹脂工業という会社で働きました。24歳でいったん辞めて帰省した後、世話になった前の職場の労務部長の紹介で川崎市の下請け企業に入り、当時人気だった家具調ステレオのカバーを作ったそうです。そこの社長の言葉が、若い石井さんを奮起させました。「石井くん。君は長男なのだから、お金をためて、故郷に立派な家を建てるんだぞ。頑張れ」

 その激励通り、懸命に働いた石井さんは30歳で実家に戻り、小高町にあった籐製品作りの会社に再就職し、縁あって泉沢に買った土地に両親と暮らす家を建てました。友人の紹介で知り合った旧原町市出身の妻一枝さん(63)と結婚した時、32歳でした。苦労を重ねた末に新しい家と家族を持った泉沢は、石井さんの新しい古里になりました。

 『石井さんは、「福島第1原発で22年間、保守点検の仕事をした」と言います。東京電力の協力会社の一つで働き、60歳で定年を迎えた後も2年残り、平成20年に辞めたそうです。「定期点検などで原子炉建家の清掃作業をやったんだ。4、5人で班を組んで、スコッチブライトで市販の洗剤で落としたり。フル装備で原子炉の炉心にも入って除染をした。一番汚染がひどい『C、D』レベルの時は、放射線量が最高で0・80くらいだが、30〜40分、往復の移動時間を除けば20分くらいでやらねばならなかった。女川、志賀、大飯(原発)にも班長で出張したよ。福島第1では、重要機器の耐震設備があった記憶があるが、あの原発事故を知った時は正直、『そんなことがあっていいのか?』と不思議だった」
 泉沢から避難したのは、福島第1原発で3度目の爆発があった11年3月15日の午後。最初の爆発から3日目でした。「それまで家の片付けをやっていた。11日の地震の後、一時停電になったが、電気が戻り、テレビで翌12日の爆発を知った。原発の中のことまでよく知っているつもりで、まさか、という安全神話が自分にもあったんだ。15日までとどまったが、親子3人暮らしで年頃の娘もいるので、もういかんと思った。いったん(南相馬市)原町に避難した後、縁者のいる(宮城県)白石市に移り、原町区の借り上げ住宅が決まった(同年)10月までいた」』(本ブログ『震災3年目/余震の中で新聞を作る91』より) 

 石井さんが原発のメンテナンスを行う双葉町の会社に勤めたのは40歳の時。1カ所の仕事を請け負えば半年間、家を離れざるを得ないという出張生活を続けました。さすがに家族との暮らしに落ち着きたくなったといい、「65歳まで働けたが、3年早く辞めた。あのまま続けていたら、福島第1原発事故に遭遇したかもしれない」と言います。

 橋本町の借り上げ住宅では一枝さんと2人暮らし。「うちの実家のある石神地区はナシの産地。お世話になった川崎の会社の社長に毎年贈っていたけれど、原発事故の後は(送るのを)やめたの。もらった人が風評を気にして困るかと思って。小高でコメを試験栽培している知人がいて、できたコメを配ったら、白鳥の餌にまいた人もいたと聞いた。心が痛む」と一枝さんは、みずみずしく甘い地元のナシをむきながら語りました。「わたしは縫製工場でずっと働いていたけれど、震災の1年前に閉鎖されていた。親たちのことをみんな見送り、それだけはよかった」。一枝さんは農家出身で、原発事故前は泉沢の家の庭で野菜や花を育てたそうです。「ここは街中で何もやれない。やる気になれない」

 一枝さんは夫と同じく、小高の避難指示が解除されたら、泉沢に帰りたいといいます。苦労しながら一から家族の歴史を刻んだ場所で、新しい生活をまた始めたい、と。「泉沢には、うちの墓もある。次女(千明さん)は1月に結婚して、共稼ぎし、相馬市のアパートで暮らしているんだが、俺たちが泉沢に新しい家を建てたら、『わたしたちも帰って、2世代で住みたい』と言ってくれている」と石井さんが続けました。希望の笑顔をほっと浮かべて。 

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 ナシの皿がある茶の間のテーブルに、「なじょしてる(どうしてる?の方言) かんいち通信」という前日の8月30日付のミニコミ誌が載っていました。一枝さんの高校の同級生で、小高区出身の市議・渡部寛一さん(63)=原町区に避難中=が出している小高のニュース兼議会報告です。その1面の「小高区の保育園・幼稚園 通園希望者ゼロ」という厳しい見出しが目に飛び込みました。小高区に住所があり、かつ現在南相馬市の避難先の保育園・幼稚園の通園児60人の保護者48人を対象にしたアンケート調査の結果でした(回答は、うち41人)。

その設問①「縁が再開されれば通園させたいと思いますか?」に、「通園させたい」はゼロ、「通園させたくない」は39人。設問②「今後、小高区に住む考えは?」に対し、「住む考えはない」が30人(いずれでも、その他は『分からない』など)。「通園希望者は少ないだろうとは予想していたものの、ゼロとは・・・ショックです。小高区の復興は容易ならざるものがあることを強く感じます」とのコメントが末尾にありました。

(続く)

2015年8月31日、泉沢の山中にある大悲山の薬師堂と石井さん=南相馬市小高区

薬師堂の内部にある磨崖仏たち

住民避難中の間も途切れない大悲山参拝者の記帳を数える石井さん

壁に無数のひび割れができ、家全体がゆがんだ石井さんの自宅

地元産のナシを出してくれた一枝さん(左)と石井さん

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