何も終わらぬ5年/余震の中で新聞を作る148~生きる、飯舘に戻る日まで⑫生き直しの選択

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 『政府は12日、東京電力福島第1原発事故で多大な被害を受けた福島の復興指針を改定し、閣議決定した。「居住制限区域」と「避難指示解除準備区域」の避難指示を、事故から6年後の2016年度末までに解除するほか、事業再建に向けて16年度までの2年間に集中支援する方針を盛り込み、被災者の自立を強く促す姿勢を打ち出した。』『居住制限区域など両区域の人口は約5万4800人で避難指示区域全体の約7割を占めるが、生活基盤や健康被害への不安は根強く、避難指示が解除されても帰還が進むかは不透明だ。』
 2016年6月13日の河北新報からの引用です。11年3月11日の東日本大震災とともに起きた東京電力福島第1原発事故。振り返れば同夜、当時の菅直人首相が史上初の「原子力緊急事態宣言」を発し、午後9時23分、第1原発の半径3キロ以内の住民に避難を、10キロ以内に屋内退避を指示(翌12日夜、避難指示を半径20キロに拡大)したのを皮切りに、4月21日に20キロ圏を「警戒区域」に、同23日には20キロ圏外でも放射線量が高かった飯舘村全域と4市町の一部に「計画的避難」を指示しました。さらに12年4月~13年8月、計11市町村の避難区域を再編し、年間被ばく線量に応じて「避難指示解除準備区域」、「居住制限区域」、「帰還困難区域」の三つに再編し、現在に至っている。
 そのうち、立ち入りが制限され除染も行われていない帰還困難区域を除いて、残る区域の除染作業を急ぎ、17年3月末までに避難指示を解除する―というのが、この政府決定でした。政治がついに、大震災、原発事故の幕引きにかじを切った動きであり、被災した古里を離れて避難生活を送ってきた住民がそれぞれに、「帰還するのか否か」という生き直しの選択を迫られることを意味しました。飯舘村の松川工業団地第1仮設住宅(福島市松川町)で暮らす佐野ハツノさん(67)と家族もいま、同じ状況にあります。


 「俺は福島市内に中古住宅を買った。いずれ(飯舘村から)住民票を移すつもりだ。地元の知人にも、(村外に)家を買った人が大勢いる。村の人口や復興はどうなるのか」「介護保険料は(飯舘村が)全国2番目に高くなると聞いた。年金暮らしの高齢者の夫婦が帰村したら、負担があまりに大きくて暮らせない」。15年5月7日、福島市飯野町にある飯舘村飯野出張所(仮役場庁舎)で開かれた、ハツノさんの地元の前田・八和木地区の住民と村幹部との「行政区懇談会」で挙がった質問でした。この時点で政府の避難指示解除への動きは既に報道されており、住民の不安は募っていました。
 紹介した前者の質問に、菅野典雄村長は「(復興庁や村が実施した)村民のアンケート調査によれば、約3割が戻りたい、約3割が戻らない、残る3割前後が決めかねている。予測はつかないが、震災前の人口約6000人が、2000人前後になる可能性もある」と厳しい見方を語りました。後者が触れた介護保険料の話は、同年4月28日に厚生労働省が発表した15~17年度の65歳以上の月額負担のことです。全村避難の間にも高齢化が進んだ飯舘村は月額8003円に上がり、全国2番目の水準になりました。避難指示が解除となれば、それまでの公的な支援も切られていく見込みで、それまで減免されていた核種税金や医療費などが降りかかります。新たな現実での自立を、住民は迫られたのです。
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 行政区懇談会の質疑を、ハツノさんも会場で聞いていました。自宅がある八和木は居住制限区域。集落の状況は「28世帯あるうち、『避難先から戻らない』と言っているのが5、6軒。でも、帰るかどうか迷っている人もいる。この家族は帰る、とはっきり分かるのは15軒くらいかな」。それは、家屋のリフォーム工事が、あちこちで目につくようになったからです。全村挙げての避難が始まった11年5月以来、留守宅になっている家々には大小の痛みが出ており、家屋や周囲の除染は行われても、放射性物質を一度かぶった家への抵抗感も住民にはあります。国、飯舘村は、帰還を後押しするため古い家屋の解体やリフォームを支援する事業を設け、村が受け付けた家屋解体の申請は3000件(物置なども含め)を超えています。しかし、住民側の事情は複雑です。
 前田・八和木行政区では家屋の除染後、村の定点観測地点の放射線量測定値(地上1メートル)が同年10月1日現在で、0.54と1.23でした。山林や居久根(屋敷林)の近くなど場所によって線量の高低はあるものの、村内の他の居住制限区域と比べて低めに推移しています。しかし、既に村外に家を建てて、帰村のためでなく不動産の二重課税を避けるための解体もあります。八和木地区の隣の前田地区では、大半の世帯が戻らない見込みだと聞きました。やはり息子夫婦が避難先の福島市内に家を建て、そこに同居することになった高齢者の話です。望郷の念は募っても、現実は残酷です。「たまに一時帰宅して泊まっても、夜は集落のどこにも明かりがない。隣に誰もいない所ではもう暮らせない」

 ハツノさんと夫幸正さん(68)の家には、同年10月半ばからリフォームの業者が入りました。2人は帰村すると決めています。「うちは、もともと(村外に)避難したくなかった。父ちゃんも『俺は残る。避難しないで済む方法はないのか』と、ぎりぎりまで言っていた」。ハツノさんの言葉を聞いて、原発事故の後、初めて八和木の自宅を訪ねた11年4月12日の取材を思い出しました。その前日、政府が飯舘村への「計画的避難」の指示を発表し、村役場は説明を求める商工業者や行政区長らの出入りで混乱していました。
 『「村から『農』の種も牛も死に絶えたら、若い人が再び戻って生活を立て直す基盤もなくなる」と佐野さん夫婦。それでは避難の意味もない。「私たちは、食べる分だけの野菜をハウスで作り、とどまりたい。村が村のままであるよう」』(11年4月16日の河北新報『東日本大震災/ふんばる 3・11大震災』より)
 自宅の牛舎にたたずみ、血を吐くように訴えた2人の思いは、4年、5年の歳月が流れたいまも変わりません。リフォーム工事が始まる前、ハツノさんが家の片付けの手を休めて語った言葉と、それは時を超えて響き合いました。「だって、先祖たちが苦労してつくってきたものを簡単に手放せないもの」    「子どものころ、幕末に生まれたひいばあちゃんがまだ健在で、天明の飢饉(ききん)の言い伝えを話していたの。『集落のここにも、あそこにも昔、家があったんだ。食べるものがなくなって、皆、病気になったり、死んだり、夜に逃げていったりした』と。そんな時代を生き延びた先祖たちが頑張って、それが受け継がれて、この村が築かれた。原発事故があって放射能が降ったからといって、苦しい経験をしたからって、わたしたちは逃げるわけにいかないの」
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 ハツノさんに問うてみたいのは、「帰村がかなったら、何から再び始めたいか?」。何よりも再開したいものはきっと、1989年のドイツ農村研修の旅「若妻の翼」から夢の種を持ち帰り、06年11月に自宅で開業した「までい民宿どうげ」ではなかったか、と筆者は思っていました。原発事故で客は絶え、避難とともに閉じざるをえなかったのです。
 『「田舎の親戚です」の言葉通り、家族がそれぞれにホストを引き受けた。(義母)トミエさんは、家庭菜園で先生役になり、野菜のこと、栽培の知恵や苦労から、50歳で心臓手術をして命を取りとめた話まで披露して、お客と仲良くなった。「春になって『何を食べたい?』とお客さんに聞くと、『よもぎ餅』というリクエストがった。自然はいっぱいなので、皆で摘みに行き、餅をついてごちそうした」。山菜の季節は、名人級のトミエさんや幸正さんが一緒に採りに出掛けた。幸正さんはシャイな人で、茶の間のおしゃべりに「だんなさんも入って」と誘われても、すぐ引っ込んでしまう。でも、名物になった自家栽培のそば打ちは、幸正さんの役目だった。「タレが最高なんだ」というキジやカモも捕ってきて、にこにこと振舞った。』(連載5回目「までい民宿『どうげ』繁盛記」より)
 「そうした楽しい思い出ばかり」だといいます。が、ハツノさんの答えは予想と違いました。「あのころのように体が健康ならば、民宿を再開して頑張りたかったな。泊まってくれたお客さんで、『また行きたい』と頼りをよこす人もいる。でも…」。ハツノさんは仮設住宅暮らしの中でがんを患い、2度の大きな手術と厳しい治療の日々を重ねています。予後は順調ながら、再発を防ぐための免疫療法も同年10月から続けています。帰村できるのは17年春以降になりますが、毎日の「業」としての民宿の切り盛りはもう無理、と諦めています。「『どうげ』の開業前に苦労して取った旅館業、飲食業の許可証も、すっぱりと保健所に返してしまったから」
 「親しい友だち、避難生活の間も応援してくれた人、これからの飯舘村を訪ねてみたいという人に泊まってもらい、わたしたちも一緒に楽しめるような家にしたい。(避難指示が解除され)帰村宣言が出されても、ただ寂しいだけの村になってしまわないように、いつも人が集まれる場所をつくれたら。わたしは昔から、にぎやかなことが大好き。苦しい思いはもうたくさん。体をいたわりながら、これからの時間を楽しく生きていきたい」。母屋のリフォーム工事で、そのために、1、2階に計3部屋の新しい客間を設ける計画です。

 幸正さんは「また、田んぼでコメ作りをやりたい」と言います。原発事故前は、後継者だった長男と3人で、親牛4頭を飼って和牛の繁殖を営み、計13ヘクタールの稲作、85アールの葉タバコ栽培、2ヘクタールのソバ作りのほか、家庭菜園でトマト、白菜、レタス、ワサビをはじめ季節の野菜を育てていました。松川工業団地第1仮設住宅に移り住んだ後も、「体を動かさないではいられない」と、地元で田んぼ60アールと畑10アールを借りて、12年以来ずっとコメの収穫をしてきました。筆者もごちそうになります。「朝5時ごろ、父ちゃんと仮設住宅のまわりを散歩していると、80歳近いおばあちゃんが鍬を担いで出掛けていくの。やっぱり近くの畑で野菜を作っているんだね。飯舘の人は働き者だなあと思う。何もできず、ぽつんと捨て置かれていることが、どんなにつらいことか」
 八和木集落では、環境省の農地除染(表土から5センチまでの汚染土のはぎ取り)が進んでいます。ただし除染作業が終わっても農家に引き渡されず、基本肥料と放射性物質の吸収抑制効果がある土壌改良材をすきこむ地力回復工事にまた1年を要します。そして、そこにも問題は山積しています。はぎ取られた汚染土は黒いフレコンバッグに詰められ、同省が広大な田んぼを借り上げた仮々置き場に保管されていますが、除染廃棄物を一括して集約、貯蔵する「中間貯蔵施設」(双葉町、大熊町に建設予定)がいまだ着工の見通しが立たっていません。仮に来春、ハツノさんたちが帰還したとしても、目の前の黒い山と毎日向き合わねばなりません。現時点では、大半の農作物が原発事故被災地で摂取、販売の規制の網をかぶっており、農家の側も根強い「風評」を恐れ、「作っても、どうせ売れない」と除染後のコメ作りをほぼ諦めています。土を離れて5年の空白も農家には重いと言えますが、それでも、幸正さんはコメを作るつもりです。「売らなくてもいい。自分たちが食べる分だけで十分。ハウスで野菜も育てたいの。それが楽しみ」とハツノさんは言います。
 それでは、仲間である松川第1仮設住宅の入居者たちはどんな選択をするのでしょう。
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 『東京電力福島第1原発事故で全村避難する福島県飯舘村の住民が暮らす福島市の仮設住宅の自治会が、2017年3月までの避難指示解除を前に、帰村の形を独自に模索している。明治大の研究者らの支援を受け、「仮設で培った縁を生かす公営の集合住宅を設けて」と村に要望した。願うのは、帰村の思いが強い高齢者らが集い、家族と離れても孤独死の不安が鳴く、支え合って暮らせる場だ。
 福島市松川町の松川工業団地第1仮設住宅(117世帯)の自治会長、木幡一郎さん(79)らが住民の声を要望書にまとめた。(15年)3月に村役場に提出したが、回答はまだない。避難指示解除後の生き直しの選択を迫られるいま、「真剣に検討してほしい」と言う。
 求めているのは、プライバシーを保てる平屋の一戸建てが集まった公営住宅の村への整備。住民の会合やイベントに催せる集会所や広場を備え、介護が必要になった人の世話に対応できる施設に―と提案する。「買い物や通院に使えるバスの運行や移動販売などの生活支援があり、見守る管理人もいる。お楽しみ会を催し、家族や村の友人たちも来る。独居や夫婦の高齢者が共に支え、笑い、自給自足の農業を楽しむ」。木幡さんが描く帰村だ。
 自治会は平均年齢が70歳を超え、半数が独居。お楽しみ会は11年8月の開所後、古里を離れて意気消沈し、居室にこもる住民を元気にしようと毎月、元管理人の佐野ハツノさん(67)らと始めた演芸の集いだ。
 「苦楽を分かち合った縁を帰村後に生かしたい。他の仮設住宅にも同様の希望者がいるはずで、村の小学校学区ごとに集合住宅を設けては」と提案する。
支援するのは服部俊宏明大農学部准教授(農村計画学)と学生たち。11年秋に仮設を訪ね、わらじ作りを学んで以来、草刈り応援などの交流を重ねる。住民の望郷の念と悩みを知り、昨年春から意向調査や要望の取りまとめを手伝った。
 「家族も隣人も生き場所はばらばらで、元の生活に戻れず、村の相互扶助は失われた。帰りたいが年を取れば1人で暮らせない。仮設のコミュニティーを持ち帰れたら、と住民は思っている」と服部さんは話す。
 避難指示が解除されれば、税や医療費、介護保険料の減免措置も打ち切られる可能性があり、年金生活者の不安は大きい。「自分は農家。野菜のハウス栽培くらいできる。それを仲間に広げれば、一緒に食べていける。花の栽培も大丈夫。長年の経験、知恵はある」
 集合住宅入居に手を挙げる住民はまだ十数人だが、「新しい帰村の場が生まれれば、帰りたい人は増えるはず。その選択肢を村は認めてほしい」と訴える。(15年10月18日 河北新報社会面『〈その先へ 3・11大震災〉帰村の形 独自に模索/縁生かし 共に生きる』)

 「村からはその後も反応はない。避難指示解除まであと1年ほどだというのに」。自治会長の木幡さんは少し憮然として話しました。16年3月1日、松川工業団地第1仮設住宅の集会所。筆者の友人で当時北海道大の研究者だった難波美帆さんが、「いま、どんな情報が必要か」というテーマの聴き取り調査を自治会に協力をお願いし、ハツノさんら5、6人の入居者が集まりました。口々に語られたのは不安と憤りでした。
 木幡さんは続けました。「(菅野)村長からは『どこから予算を出すんですか?』と言われただけだ。住民が知恵を出し合った提案を基に、いい施策づくりを話し合いましょう、と言ってほしかった」「ならば、どうする。ここで手探りするだけでは限界だ」。がんを発症するまでハツノさんが激務を重ねたように、平均年齢が70歳を超える入居者たちの命をまず守ることが、自治会の一番大きな役目だったといいます。その入居者たちが避難指示解除とともに、運命共同体の「箱船」のような仮設住宅で培ったコミュニティーを奪われ、あの原発事故後の避難のように、またばらばらに引き離されて「生き地獄に追われるのではないか」と木幡さんは強い言葉で思いを語りました。
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 「村に帰るとしても、スーパーや食料品店、病院はあるのか。診療所は開かれるというが」「取りあえず、真っ先に帰るのは高齢者たち。だが、車を運転できるかどうかが問題だ」「若いなら収入も稼げるが、それができない。畑で何かを作っても、風評を払拭させるのは厳しい」「山菜からキノコまで、自然の恵みがあったが、いまは(除染が行われない)山にも行けない」「まず、戻ってみないと分からない。初めから、戻ってよかったという悠々自適の生活は望めない。村に戻らない人も、それは同じだろう」
「避難指示を解除するから戻ってください、と国は言うけれど、原発事故の当時は『村を出ろ、出ろ』と言われた。息子の嫁は『だから、いまでも(放射能が)怖い』と話している」「当時は、どの学者の話を聴いたらいいのか、分からなかった」「怖い人はいまだに怖い」「帰って大丈夫というのなら、環境大臣がきちんと説明してほしい」
 入居者たちの訴えは尽きませんでした。60代の男性は「家の除染が終わったのに、去年の長雨で裏山が土砂崩れを起こし、家が埋まってしまった。もう住むのは無理。息子がいる浜通りに移住しないとならない。従うほかなくなった」と無念そうに話しました。70代の女性は、特別なことを何も望んでいません。「もう一度、ごく普通の生活をしたいだけ。このあたり(仮設住宅のある地元)の人たちがやっているような」

 ハツノさんにはもう一つ、人生の仕事として続けたいものがありました。仮設住宅の管理人をしていた11年10月、自らが呼び掛けた「までい着」作りです。家庭に眠る古い着物の寄付を広く募り、仮設住宅の仲間の女性たちと運営する「カーネーションの会」(20人)の活動として、多彩な柄を生かした普段着や小物に再生しています。東京の支援者たちの尽力で首都圏のデパートの販売会も催され、「飯舘の女たちも負けていない、仮設住宅発の特産品にして世に出そう、というのが目標だった」というハツノさんは、さらに先を見据えていました。「飯舘村に帰っても、原発事故の前の暮らしはもう戻らず、自然や農の恵みを生かした稼ぎもなくなり、帰還者に懸かる負担だけは重く、当分は苦しさが続くかもしれない。それでも、村で生活していけるだけの収入を、までい着の特産化で得ることができたら。みんなが孤立せず、いつでも集まる活動をできれば、かつての『結』の支え合いや、生きる力にもなる」
 その言葉を本当にしたような光景を、筆者は目にしています。カーネーションの会のメンバーたちは、八和木のハツノさん宅に集まり、寄付され着物の糸抜き前に水洗いをして、天日で干す作業を行っているのです。40~80代の女性が15人ほど、和気あいあいと手を動かし、持ち寄ったおにぎりや手作り総菜、お菓子を広げ、陽気なおしゃべりを響かせます。無人の村である現実も、「つらいことも忘れられる。村が村であることを、わたしたち自身をも取り戻せる、こんな時間が必要なの」と女性たちは目を輝かせました。幸正さんも黒一点、うれしそうに得意のそば打ちをして振る舞います。ハツノさんも闘病中の身を忘れて、仲間たちにこう宣言しました。「私は死ねない。生きるよ、飯舘に戻る日まで」

2015年5月、前田・八和木行政区懇談会でマイクを握った菅野典雄村長=筆者撮影

八和木集落の田んぼに積み上げられた除染後の黒いフレコンバッグの山=2016年4月、筆者撮影

2015年9月、仮設住宅の入居者と語り合う自治会長の木幡さん(右端)=筆者撮影

2015年5月、ハツノさん宅で着物の水洗い作業の後、おしゃべりする「カーネーションの会」=筆者撮影

2015年3月、仮設住宅の談話室で「までい着」作りをするハツノさん=筆者撮影

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