何も終わらぬ5年/余震の中で新聞を作る147~生きる、飯舘に戻る日まで⑪がんとの闘いに耐え

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 「いよいよ入院するの。かなり難しい手術になると先生から言われて、もしかすると、覚悟をしないといけないかもしれない」。福島市松川町にある松川工業団地第1仮設住宅の佐野ハツノさん(67)からこんな電話をもらったのは、2015年7月上旬。この連載の8回目の取材で、仮設住宅を同月15日に訪ねる予定をしていたのですが、「しばらく予定が分からなくなったので、その前に、まとめて話を聴いてほしい」というお願いでした。
 「直腸がん転移性肝臓手術」。それは2年前に発症し、手術をして摘出した直腸がんから、さらに肝臓に転移した新たながんでした。血管が集まる部位のため、そこを避けて、がんだけを取り除くという難手術です。避難生活の中で、ハツノさんは闘病を続けてきたのです。
 『最初の異変は、仮設の開所から約3カ月後の11年11月。風邪から肺炎になった。土日も夜もない(管理人の)仕事の疲れがたまっていた。休みをまとめて初めて取り、さいたま市のホテルに1週間泊まって、ひたすら体を休めた。
 「狭い仮設の部屋で寝ておられず、電話があれば動かなきゃならない」
  佐野さんは夫、義母と同居する。宮内地区にある実家の91歳と89歳の両親も同じ仮設に住まわせて、世話をしている。
  予定や来客がない週末に車で飯樋地区の自宅に行き、「山ほどある片付け事をする」。疲労は翌週に残り、朝の散歩もできなくなった。
  13年7月、家の番をする老犬が病気の上、通行車にはねられてけがをした。帰って介抱したその夜、便器を真っ赤にするほどの下血があった。
  病院で直腸がんと診断された。「すぐに手術します」「ストレスが原因ですよ」。医師からそう告げられた。』(2014年2月23日、河北新報連載『東日本大震災3年 飯舘の春いまだ遠く』4回より)
 最初の手術は13年7月30日、郡山市内の大きな病院で行われました。出血がひどかった直腸の中だけでなく、リンパ腺にも5個のがんが転移していたことが分かり、この時点で進行のステージは「1」から「2」になったといいます。がんをひとまず摘出した後、主治医は転移の可能性を告げ、引き続きの抗がん剤治療を勧めました。「抗がん剤も100%は効きません。40~60%かもしれない。しかし、用心のためです」。こう聞かされて、ハツノさんは「手術がうまくいったので安堵したのに、ほんとうにがっかりした。でも、もう再発なんてしないだろうと思って、それからを暮らすことにした」。
 『震災の疲れは家族にも表れた。村議だった夫幸正さん(67)は地元と役場の往復に追われ、仮設に入ってすぐ心臓を悪くし、昨年(13年)9月に辞めた。
  実父は全村避難を嫌がった。「裏山に隠れても避難しない。放射能でなく寿命で死ぬ」。両親を仮設から実家に連れだし、安心させることも佐野さんの役目だった。その父も体を弱らせ、14年の正月を病院で過ごした。
  佐野さんは手術の後、管理人を外れた。後任になった花井カツ子さん(66)は「こんなに仕事が多いのか」と驚いた。』(前掲記事より)
 入居者の世話や仮設住宅内の未経験の問題解決、外部の支援の受け入れ、マスコミの取材への応対まで、24時間勤務が実情だった初代の管理人の仕事は、気持ちも体も休まらぬ激務。「過労です」と主治医も言いました。それを辞めて、ハツノさんは肩の荷を下ろし、女性の仲間たちと「までい着」作りに取り組む「カーネーションの会」の代表として、楽しみながら活動しようと決めました。その矢先の14年2月、恐れていた兆候が見えました。郡山市の病院の定期検査で腫瘍マーカーがにわかに上がり、そして4月、肝臓への転移を診断されました。
 「3年、5年という単位の月日を無事に過ごすことを目標に、頑張って生きようと思っていた。それなのに、1年もしないうちに…。とてもショックだった」。いつも笑顔で前向きで、周りの人たちをも明るくするハツノさんは、落ち込んだ表情で語りました。さらに心を重くさせたのは、「再発の箇所が、血管や胆管が集まっているところで、切るのが難しい」という主治医の言葉です。が、希望はありました。その病院は、東北で数少ない先端技術の「陽子線治療」を行っており、直接メスを入れることに伴う危険を避けながら、がんだけを焼く―という方法に、ハツノさん、幸正さん夫婦は懸けることにした。ただし、その前にできる限り、がんを小さくするための抗がん剤治療を受ける、つらい5月が始まりました。
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 「ドイツにまた行こうよ」。1989年9月、ハツノさんら飯舘村の主婦たちがバイエルン地方の農村研修の旅をした第1回「若妻の翼」(飯舘村公民館が企画)のOGたちの間で、こんな話が持ち上がったのは同じ14年の初めでした。東西冷戦下、ドイツ分断の象徴だったベルリンの壁が崩壊したのが、ハツノさんらが帰国して間もない89年11月10日。翌90年、「ベルリンに桜の苗木を贈って、平和を願い、撤去された壁の跡に植えてもらおう」という東京のテレビ局のキャンペーンがあり、OGたちが「縁が生まれたドイツを応援しよう」とお金を出し合って苗木20本分の寄付をしました。
 それから25年後。桜の木々がベルリンで根付いて「季節はずれの花が咲いた」というニュースが14年正月、テレビで流れたのです。それを見ていたハツノさんが仲間たちに伝えると、たちまちのうちに「見に行こうよ」という話が盛り上がりました。「『6月が都合がいい』という相談がまとまっていた。もちろん、わたしもそのつもりでいたの。でも、思わぬことになり、5月に抗がん剤の治療が始まって、投与が8回も予定されていた。ドイツなんて、もう無理だろうと思った」。しかし、ハツノさんは諦めきれず、「だめで元々の気持ち」で主治医に葛藤を打ち明け、判断を仰ぎました。すると、答えは意外にも「行ってらっしゃい。体調に気を付けて、楽しんできたらいいです」との快い許可でした。

 ドイツ再訪は6月8~15日に実現し、当時の「若妻の翼」の仲間19人のうち10人が参加しました。ベルリンで念願の桜を見てから、最後はウィーンの休日―という夢のような旅でした。ブランデンブルグ門の前で記念写真を撮り、シェーンブルン宮殿の豪華さに酔い、ホイリゲ(自家醸造のワイン酒場)で彩り豊かな食事を楽しみ、福祉施設も訪問し交流しました。「若妻」たちに戻っての輝く笑顔、笑顔。その旅の後に作られた記念誌を開くと、東京電力福島第1原発事故と避難生活を忘れさせるような楽しい写真があふれています。でも、そこにハツノさんの姿は少なく、写っている写真の顔は痩せていました。
 「抗がん剤治療の1回目を終えた後で、体はきつく、夕方になると疲れて、げっそりした。夕食の時もホテルに1人残って寝たり、朝に仲間を送り出して丸1日休んだり。みんなはそんなわたしを気遣って、『ハツノさん、大丈夫?』『無理しないでね』と始終声を掛けてくれた。そして、『70歳になったら、また来ようね。約束だよ』と励ましてくれた。うれしくて、泣いちゃった。その時は『また来るなんて、きっと無理だろうな』と思いながら」
 旅から帰国すると、抗がん剤治療の続きが待っていました。仮設住宅の地元にあるJR松川駅から各駅の電車で通院しましたが、「吐き気、手のしびれ、脱力感。副作用がひどくて、1週間ずつ入院させてもらうようにしたの。その間に体重も5キロ減って、やつれて目が落ちくぼんで、仮設の人たちはびっくりしていた」
 その苦行が山を越えると、8月から24回もの陽子線治療が待っていました。病院の大きな部屋にたった1人、身動きの取れない状態で寝かされ、音も痛みもない陽子線が右の背中と脇腹から、肝臓のがんを狙って15分ほど照射されました。「照射された部分は、ちょうど鉄板で焼いた肉のように硬くなって、もう元のようには機能しなくなります。しかし、がんもちゃんと焼かれました」。9月にも追加された治療の後で主治医は語りました。15年2月初めの検査の後にも「不安は残りますが、大丈夫でしょう」。ところが…。
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 希なことだと言いますが、肝臓のがんがぶり返したのです。それが確かめられたのが同年4月。新たに3個が見つかりました。ハツノさん自身はもちろん、「一緒に乗りこえましょう」と力付けてくれた主治医も落胆したそうです。発病して以来3度目になる抗がん剤治療を提案されましたが、「それに耐える気力、体力は、もうなかった」とハツノさんは振り返ります。そこからの可能性を模索する治療法の検討の末、残ったのが手術でした。主治医から「静脈のそばにがんがあり、難度の高い手術ですが、大丈夫です。わたしも頑張ります」と佐野さん夫婦は伝えられ、覚悟は決まりました。それが「最後の最後のチャンス」であることを、ハツノさんは自覚していました。
 手術は7月28日に行われました。午前9時の開始から終了まで9時間半という大手術になりました。部屋の外で待っていたハツノさんの身内の人たちは、気をもんで何度もナース室に状況を問いに行ったそうです、幸正さんは手術後、執刀した主治医から「大変難しく、時間を要しました」と告げられました。ハツノさんはすぐ集中治療室に移されましたが、結果は成功。「転移したがんはすべて取り除かれました」と告げられました。
 「1週間単位で、だんだんと足も体も動くようになり、3週間ほどで退院できた。それから、原発事故の後に一時避難した岳温泉(二本松市)で8月中いっぱい、ゆっくり湯治をさせてもらった。まっすぐ仮設に帰れば、お見舞いの人がきっと毎日来てくれて、体が休まらなかったろうしね。毎日、散歩をしたり階段を上り下りしたり、自分なりのリハビリをするうちに、日一日と回復を感じていった」
 その後の検査で順調な経過が確かめられ、ハツノさんは安堵しながらも、「万が一、次に再発したら、もう手術はできません」と主治医から言われたそうです。「これからは絶対に気持ち次第だから。もう死んでしまうのではないかと思った時もあったけれど、負けてはいられない。楽しいことだけを考えたい。カーネーションの会の『までい着』作りが待っているし、『若妻の翼』の仲間とまたドイツにも行かなくちゃ。そして、一番心配を掛けた父ちゃん(幸正さん)と一緒に飯舘に帰って、新しい暮らしを始められるようにね」

 救われた命の陰で、旅立った命もありました。2011年以来の長き避難生活の間、飯樋地区八和木の留守宅を番してきた愛犬、太郎(17歳)のことです。セッターという種の猟犬で、狩猟を愛する幸正さんに付いて地元の山野を巡り、佐野家の家族として育てられました。柔和な目をして日ごろはおとなしいけれど、勇敢で、キジやカモが池に落ちれば、臆せず飛び込んで捕りにいったそうです。「『待て』と言えば、ずっと待っていたよ。こちらの気持ちをよく分かっていて、あんなに賢くていい犬はいなかった」と幸正さん。
 原発事故の後は、「血をはいたりして体調が悪くなった。わたしたちは避難しなければならず、心配しながら首輪を外して家を離れた」とハツノさんは言います。それからは1日おきに、幸正さんが仮設住宅から世話をしに戻りました。仮設住宅など避難先で飼えないペットのため、遠く関東から村に通う「餌やりボランティア」の人たちが佐野家を回り、太郎をかわいがってくれました。親しくなった千葉県の女性ボランティアから、「太郎は末期のがんではないかしら。もう長くはないようです」とハツノさんは教えられていました。
 福島第1原発事故で飯舘村の人々の暮らしと運命が大きく変えられたように、突然、孤独な環境に取り残されたペットたちもまた、強い不安とストレスにさらされた被災者だったと思います。同村比曽でのことですが、取材の間に夜になり、どこかの家から犬の遠吠えが聞こえたと思うと、暗闇に沈んだ集落のあちこちから、同じ境遇にある同胞たちの鳴き声が加わり、取り残された遠島者の合唱のようにも、主人の助けを求める叫びのようにも響きました。ハツノさんもこう語りました。「用事があって八和木の家に戻って、夕方、仮設住宅に帰る時、太郎は人間のような悲しい目をした。子どもが置いていかれると、泣いてお母さんを後追いするでしょ。あれと同じ。わたしも後ろ髪を引かれて、悲しくなって泣けた」。
 13年7月に車にはねられて以後は、いつも寝ているようになった太郎。体が冷たくなっていたのは7月19日朝でした。ちょうどハツノさんが手術準備で通院をしていた時です。いつもの餌やりボランティアが、眠ったままで息を引き取った姿を見つけました。連絡を受けて、その日の夕方、ハツノさんと幸正さんが家に戻り、「良かったなあ。苦しまないでなあ」と手を合わせました。それから、お葬式をしてやり、佐野家の先祖が眠る里山の墓の一角に埋めたそうです。ボランティアが6人も集まってくれました。「お母さんの身代わりになってくれたんじゃないかな、きっと」と言われ、ハツノさんもそれを信じています。

2014年6月、ドイツ再訪の旅の最後、ウィーンのホイリゲで「若妻の翼」の仲間と。後列右から4人目がハツノさん=佐野さん提供

2014年2月の雪の中で留守宅を守り、佐野さん夫婦の帰りを待つ太郎=撮影・門田勲(河北新報社写真部)

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