何も終わらぬ5年/余震の中で新聞を作る146~生きる、飯舘に戻る日まで⑩「までい着」誕生

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 忘れがたく爽やかな光景が記憶に刻まれています。夏の抜けるような空が広がった2012年7月19日の昼。福島市松川町にある松川工業団地第1仮設住宅の中庭に青いシートが敷き詰められ、ハワイアンの調べが流れ出した。まぶしい緑や赤のドレスをまとう女性ダンサーが10人、そよ風のように柔らかに優雅にフラを舞いました。踊りにも仕草の一つ一つにも自然や神のメッセージを伝える意味が込められ、これは人々の平安を祈るフラでした。東京電力福島第1原発事故のため飯舘村から避難中の住民たちが、中庭を取り巻く棟の日陰にいすをずらりと並べて、あるいは居室の窓々から身を乗り出し、うっとりと見入っていました。
 踊り手を率いて訪れたのは松野幸枝さん(59)。飯舘村の隣の相馬市出身で、ハワイで伝統的なフラを受け継ぐ名人の教室に通って学び、東日本大震災の被災地となった相馬、南相馬両市や東松島市などでフラのサークルをつくり、女性たちの心を癒やす活動をしている人です。筆者の同級生で、松川第1仮設住宅の自治会が毎月1回、入居者のための「お楽しみ会」を企画している、来てくれたら、という話を伝えたところ、自宅のある仙台市などで主宰するサークルの教え子と共に二つ返事で駆けつけてくれたのでした。
 「仮設の皆さんのお部屋に彩りを添えてください」と、管理人(当時)の佐野ハツノさん(67)に松野さんが持参したのが450本のバラの花だった。赤、ピンク、黄、白の花束をプレゼントされ、華やかな原色のスカートを配られ、フラを一緒に踊った入居者たちの表情は輝いていました。「それが縁になり、松野さんは翌年のクリスマス、仙台であったフラの集いにも、外に出る楽しみが少ない私たちを招待してくれた。冬の風物詩の『光のページェント』も見て、レストランでおいしいものを食べて、うれしい小旅行になった」とハツノさんは出会いを喜びました。

 広々とした古里の家と田畑、自然の恵みに満ちた里山、家族や隣人から引き離され、見知らぬ土地の仮設住宅に住まわされた人々は、独居の高齢者が多く、居室に引きこもる人、認知症の症状を進ませる人、心身を弱らせる人も出ました。世話役であるハツノさんは24時間、いつ鳴るか分からぬ携帯電話を手放せず、炎天下であろうと雨天であろうと、仮設住宅の仲間を「孤立させない」ために居室を巡回し声掛けをすることが日課になりました。
 自治会の木幡一郎会長ら役員たちと相談して11年11月に始めたのが、同胞たちを外に連れ出し、気持ちを和ませる「お楽しみ会」でした。さまざまな人の縁と支援の志を生かしてゲストを招く演芸会、観光名所や温泉へのミニ旅行などを企画しました。筆者も楽しみにしていたのが、春の「お花見会」。地元の支援者が提供する大型トレーラーのウィングを開いて即席のステージとし、もともと芸達者な入居者たちが踊りや歌を披露し、陽気に笑い、手作り弁当やつきたての餅、お酒を味わいました。最後にはいつも「相馬盆歌」の踊りの輪が、中庭いっぱいに広がりました。翌12年4月のお花見会で、ひときわ大きな笑いと喝采を呼んだのは、ひょっとこ、おかめのこっけいな「どじょうすくい」。熱演の後、面を外した人は女性で、筆者も知っている菅野ウメさん(86)でした。
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 ウメさんが独りきりで松川第1仮設住宅に入居したのは11年9月。自宅は、ハツノさん宅のある八和木と隣接する前田集落にあります。夫は農作業中の事故で亡くなり、息子さんは農水省や農協が推奨したイチゴの先端的ハウス栽培に友人と共同で取り組み、市場で「味も日持ちも販売収入も日本一」といわれるまでの評判を取ったそうです。ところが、経営が軌道に乗ったころに原発事故が起き、全村避難を政府から指示され、ウメさんは家族の仕事も暮らしも奪われることに苦悩し、2週間寝込みました。同年7月半ばに自宅を離れ、息子さんの家族と一緒に福島市内のアパートに移り、それからひと月、また寝込む日が続きました。
 「アパートの周りの農家は毎日、一生懸命に農作業をやっていた。『同じ農家が、お金(賠償金)だけをもらって楽をしている』とみられると思うと、つらい。外に出ることもできなくなった」。若い家族はそれぞれに新しい仕事や転校先の生活が始まりました。「何もできない自分は足手まといでしかない。寝ていると、窓のカーテンが目に入り、あれで首をつれたら楽になるな、と思った」。母親のそんな心の揺れに気付き、息子さんから「同じ地区の人たちも入っているから、一緒にいれば気持ちが休まる」と松川工業団地第1仮設住宅への入居を勧められました。
 ウメさんはかつて村の生活改良普及員を20年間務め、農家の主婦たちが結成した農産加工グループの代表にもなりました。女性の立場から農村の暮らしの向上に取り組んできた人です。朝早くから暗くなる夜まで田畑で働いた篤農家であり、針仕事も上手で、「村の着物作り名人の1人」という定評もありました。それだけに、「自分はいま、何のために生きているのか。家族に何もしてやれず、毎日をこんな生き地獄に変えた原発事故が憎い」という絶望と憤りにさいなまれ、希望も居所も見つけられなくなっていたといいます。親しい間柄のはずの訪問客に疲れ、誰の呼び声にも応えるのが嫌になり、居室に閉じこもりました。2週間が過ぎたころ、ガラス戸をたたく音がしたそうです。管理人のハツノさんが「ウメさんに相談がある。ウメさんでなくては、できないことなの」と、外から懸命に訴えました。

 「それが『までい着』作りの活動の始まりだった」とハツノさんは振り返ります。どの家も貧しく、物も不足した戦中から敗戦後の時代、家庭の母親たちは古くなった着物を捨てず、子どもの服や綿入れに仕立て直して着せました。それが、までい着。ウメさんが、こんな話を聞かせてくれました。「昭和18年、東京に嫁いだ伯母が疎開で実家に戻ってきて、着物から防空ずきんとズボンを作って持ってきた。あのころの女の作業着は『もんぺ』だったが、はきにくかった。伯母が持参したズボンは、ゴムが入っていて、動きやすく工夫されていた。あれが最初のまでい着だった。それにならって自分も作るようになった」
 飯舘村の生き方として語られるようになった「までい(手間暇を掛け、大事に)」精神の原点と言える手業で、「仮設住宅の女性たちの仕事として復活させよう」というのがハツノさんのアイデアでした。「仮設の入居者は、目標をなくして気持ちが落ち込みがち。飯舘らしい活動をしましょう。その師匠役になってほしい」。それが、ウメさんにお願いした、ウメさんしかできないことでした。自治会もまでい着作りの活動を応援することになり、参加者募集のお知らせを仮設住宅の全世帯に配ると、40~80代の約20人が集まりました。
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 身の回りの品しかない狭い仮設住宅の暮らし。活動の元手になる材料の古い着物は、善意の寄付に頼るほかありませんでした。ハツノさんたちの呼び掛けを伝えた日本農業新聞や河北新報の記事は驚くほどの反響を生み、共感した全国の女性たちから着物入りの段ボール箱が続々と、設住宅の集会所に届きました。「亡き形見の品です」「娘が受け継いでくれそうにないので、役立ててください」といった手紙が1箱1箱に添えられ、「みんな、飯舘村を支援しようと送ってくれた。感謝して、お返しの気持ちを込めて作らなくてね」と当時、ハツノさんは仲間と語り合いました。
 活動は11年10月から毎週水曜の午前中、仮設住宅の外れにある談話室を会場に始まりました。「寄付された着物の糸を解き、型紙に合わせて裁断し、縫う工程を分担し、それぞれが居室に持ち帰って夜なべで仕上げる」(ハツノさん)という、まさしく手間暇の掛かる作業です。でも、どの着物を取っても、古風ながら華やかな色、意匠豊かで多彩な模様が、モダンな洋服のデザインに絶妙に生きる「までい着」に仕立て直されていきました。
 「活動には名前が必要だわね」と一堂で話し合い、「カーネーションの会」と決まりました。子どもの時から憧れた洋服を縫い続けたNHKの朝ドラマのヒロインと、お母さんの花であるカーネーションのイメージを重ねた命名です。1989年、村の主婦たちがドイツの農村生活を体験した研修の旅「若妻の翼」(村公民館が企画)で、ハツノさんと生涯の友となった女性たちも活動に参加しました。村の自宅にあった縫製工場を切り盛りして置いた佐藤英子さん(69)=伊達市に避難中=と、仮設住宅の仲間で、やはり縫製の仕事をした経験がある松下清子さん(65)。それぞれ会の副代表と会計担当を引き受けました。

 東京にも「までい着を売り出しましょう」と企業に働き掛けてくれる支援者が現れました。その橋渡しで12年1月には、そごう柏店(柏市)が大震災から1年後の3月10、11日、までい着の販売をメーンにした「飯舘村支援バザー」を催しました。結果は大盛況。デパート側の要望で半年後の9月にも同じ催しが開かれました。筆者が取材に行ったのは翌12年3月9、10日、西武所沢店(所沢市)が企画した販売会です。伊達、相馬両市内の仮設住宅にも会のメンバーが広がり、までい着やベスト、バッグ、小物、Tシャツなど、こつこつと作りためた約2000点がほぼ完売しました。多くの女性客が詰めかけ、「飯舘の女性たちに声を掛けたかった。実家が中越地震被災地の新潟県長岡市。その経験が重なって、ぜひ応援したかった」「わたしも福島生まれ。遠く離れた古里の人たちの苦悩が、いつも重く心に掛かっている」と口々に語ってくれました。ウメさんらも、までい着作りを大勢の客の前で実演しながら、仮設住宅暮らしの実情や帰村への思いを伝えました。
 「被災者となっても、飯舘の『までい』の心で仲間たちが一つになり、支援への感謝を込めて縫っています。仮設に届く着物には『ごめんなさい』と言って、はさみを入れます。までい着をたくさんの人に着ていただき、どこかでつながってくださることが、一日も早い帰村を念じて待つ私たちを支える希望なのです」。いまも代表を担うハツノさんの言葉です。

2012年7月19日の「お楽しみ会」で松野幸枝さんたちと一緒にフラを踊る入居者たち=筆者撮影

カーネーションの会結成から間もない2012年1月11日、寄付された着物を手に「までい着」作りを話し合うハツノさん(右から2人目)と仮設の仲間たち=筆者撮影

2013年3月9日、西武所沢店での2年目の販売会で、までい着を客に紹介するハツノさん=筆者撮影

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