何も終わらぬ5年/余震の中で新聞を作る151 南相馬市・小高~大悲山を守る人々その後㊦

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 東日本大震災から丸5年を迎えた2016年3月11日の昼過ぎ、私は常磐道を南下し南相馬市に向かいました。仙台からほぼ1時間。南相馬ICを下り、市役所がある原町の中心部を過ぎて再び南を指すと、相馬野馬追の神旗争奪戦の会場、雲雀(ひばり)ケ原に近い住宅地の一角、橋本町に着きます。小高区泉沢集落から避難中の石井光明さん(69)、一枝さん(63)夫妻の借り上げ住宅を訪ねました。石井さんは、泉沢にある古い信仰の場「大悲山」(平安時代の磨崖仏群)に福島第1原発事故後も通い、各地に離散してしまった住民組織「大悲山三尊保存会」の活動を担い続けています。
 「4月を目標に小高区の避難指示解除をする、と(桜井勝延)市長はずっと言ってきた。『予定通り、除染も環境整備も進める』という考えだったのだろうが、現実は不安ばかり。時期が尚早ではないかと、小高の住民からの批判は大きかった。先月20日の説明会では、『4月の解除はありえません』と市長が延期を口にしたよ。解除はお盆ごろになるになるのではないか、といううわさが流れている」
石井さんは居間のテーブルを挟んで、市が2月20日、小高生涯学習センターで開いた第1回の「避難指示区域解除に向けた避難指示区域内市民説明会」の模様を語りました。1回目が小高区の中心部、2回目が原町区の避難指示区域、3、4回目が小高区の他地区という順番で2月中にありました。桜井市長が延期を表明した目標とは、13年12月26日の河北新報で次のように報じられていました。

 『福島第1原発事故で、南相馬市は市内の居住制限区域、避難指示解除準備区域の避難指示を2016年4月を目標に解除することを決めた。
 国の住宅除染が15年度に終わると見込まれ、目標時期を定めた。対象は小高、原町両区の計約4000世帯。学校の再開も予定する。(中略)桜井勝延市長は「解除は除染の完了が前提。商店の再開支援など早期帰還できる環境を整備したい」と話した。』
 石井さんが参加した第1回の説明会の前日には、政府が当初の目標通りの実行を南相馬市に求めた動きがありました。政府の原子力災害対策本部の担当者が同月20日に市議会全員員協議会に出席。あくまで4月を目標に避難指示を解除する考えを明らかにし、『今月中に宅地周辺の除染が終わる前提に基づき「故郷での生活を再開し、復興を本格的に進めることが重要」と強調し、理解を求めた』(2月20日の河北新報より)。
 政府側はそのまま第1回の説明会にも出席し、除染作業やインフラ復旧の状況を説明した上で「地域復興に向け4月中に解除手続きを進めたい」との意向を伝えました。これに対し、約300人の住民の間からは除染効果のほか『廃棄物の保管や作業状況など除染に関して疑問が集中。市内の仮設住宅に避難している佐々木より子さん(54)は「現状では若者に住んでもらえない。解除を1年先送りしてほしい」と訴えた。』(2月21日の河北新報より)。避難指示解除を急ぎたいと見える政府の意向よりも、噴出した住民の不安の声を踏まえて、桜井市長は目標の延期を表明したと思われました。

 「環境省は3月中に除染作業を終えると言っている。だが、泉沢集落の仲間からは『家の解体を終えてから除染をしてほしい』という要望が上がっている」。石井さんはこう言います。11年3月11日の大地震で損壊したり、避難中に傷んだりした家々の解体事業は16年度も続きますが、古い化育の解体とともに粉じんが周囲に飛び散り、再び汚染されるという危惧が住民の間で強いといいます。

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 15年8月31日、大悲山の取材の帰り道に立ち寄った泉沢集落で、石井さんと共に避難先の鹿島区から通っている三尊保存会の仲間、農業島田滋さん(70)の自宅を見た時のショックを思い出しました。5年前の大地震で屋根の瓦が落ちて板の下地がむきだしになり、家族の不在中に雨にさらされて大きな穴が空き、その真下の部屋の床も腐って、下から伸びたササや雑草が繁茂していました(本ブログ150~南相馬・小高 大悲山を守る人々その後㊥)。「家の様子を見に戻る度に荒れ果ててゆき、悲しくて、帰る気をなくした」という別の小高区住民の話も耳にしました。島田さんの家の解体は説明会と同じころに始まったそうです。そして、昨年11月、3度目の申請がようやく市から認められた石井さんの自宅の解体作業は、昨年12月16日に始まり、あっという間に更地になったそうです。
 「『金の卵』の1人として田舎から働きに出、横浜や川崎の会社でお金をためて、30歳の時に建てた家だった。大型のバックホー(ショベル付きの重機)で、屋根から一気に崩して解体するんだ。見ていて、悲しいというか、どうしようもないというか。何を思っても、元には戻らない。もっとひどい目、悪い目に遭った人がいるのだから」。もう住めぬと分かりながら、石井さんは無念そうでした。

 目標がまだ決まらないとはいえ、避難指示解除の話が現実味を帯びてきたことで、泉沢集落の住民たちも「戻るか戻らぬか」の判断を迫られていました。家を建て直しての帰還を決めている石井さんにも、集落の仲間の模索が少し詳しく伝わってきました。「最近、行政区長さんから聴いたことだが、集落の54戸のうち、戻ってくるつもりの世帯が現時点で30戸あるそうだ」。昨年、行政区が行った避難先の住民のアンケート調査では、帰還の意向はわずか14戸でした。それが、2倍に増えました。大悲山三尊保存会の復活も遠くなくなったといえそうでした。が、石井さんは難しい表情のままです。
 「戻ってくるとしても、19戸あったうちの隣組は半分より少なくなる。島田さんの隣組は、10軒あるうちの4軒ほどか。小高区の外に新しい家を建て、帰らないことがはっきりしている人もいる。会うことも話すこともない人もいる。泉沢の行政区をどうするか? 隣組を合併するしかないか」
 石井さんが家族と新しい家に入れるのは2、3年後になるかもしれない、といいます。新しい共同体を再生できるのかどうか、まだ想像もつきません。自身も来年1月には70歳。保存会を復活させることは一番の希望ですが、それが続かなければ、「市の文化財課に活動を託すしかない。そのことも考えておかなくては」と、家族の事情で泉沢に戻らないつもりの島田さんと語り合っているそうです。

 石井さんの仮住まいで話を聴かせてもらっているうち、一枝さんが「ああ、(午後)2時46分になったね」と時計を指しました。5年前のこの時刻、私自身が仙台の職場の5階で揺られた未体験の恐怖を思い出しました。大船渡で、陸前高田で、気仙沼で、石巻で、相馬で、飯舘村で、この南相馬で、これかで取材の縁を重ねた人たちがどのように同じこの時を迎えているか。しばしの沈黙の間、1人1人の顔を思い浮かべました。石井さんは問わず語りに、大震災直後のことを振り返りました。
 「仏壇が、あの地震で吹っ飛んだな。家の中がぐちゃぐちゃになった。津波が近くの常磐線の線路まで来ていたことを知らないで、一枝と2人で家の中の片付けをしていた。原発事故が起きて白石(宮城県)に避難して、4月になってもう一度戻り、家財道具を運び出したが、翌日には(20キロ圏だった小高区の警戒区域指定で)入れなくなった。それから、こんな5年が過ぎるとは思わなかった」

 翌3月12日、浪江町方面に通じる旧街道を小高区に向かい、泉沢に着いたのは午後5時ごろ。大地震で建物がゆがんだままだった石井さんの自宅は跡形なく撤去されています。そこから100メートルほど離れた島田さんの家の前に移ると、作業時間を終えた長いアームの黄色い重機、青いダンプカーが目に入り、取り壊し中の大きな藏が、下半分のなまこ壁だけの姿になっていました。屋根に大きな穴が空いた母屋はもうありません。そこにあったものが消えてしまったことに戸惑いました。数年後、再び近隣に新しい家が建ち、家族の声が聞こえてくる未来をまだ想像できずに。こんな薄暮の黄昏時を昔の人は、この世ならぬ世界との境が開く「逢魔が時」と呼びました。田んぼも周囲の里山も薄茶色に枯れた集落の風景が次第にぼやけていく中、庭々の古い梅の木の花だけが妖しいほどに咲き誇っていました。

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 南相馬市役所の議会フロアに小高区出身の渡部寛一市議(63)=原町区に避難中=を訪ねたのは、それから2週間後の3月25日。一枝さんの高校の同級生で、「なじょしてる かんいち通信」という小高区住民向けのミニコミ紙兼議会報告を、石井さんの借り上げ住宅で見せてもらったことがきっかけです。切り出されたのは、南相馬市が2月下旬に開いた避難指示区域の住民向け説明会の話でした。
 「確かに、4月の避難指示解除はいまの状態では無理ですね、と(桜井)市長は言った。その上で4月中には可否を判断し、時期も明示したい、と」。その判断の前提となるものが、環境省による除染作業の完了でした。少し時計の針を進めると、4月1日の河北新報には次のような記事が載りました。
『東京電力福島第1原発事故に伴う南相馬市内の避難区域について、環境省は(3月)31日までに宅地など生活圏の除染作業を終えた。市は4月中に作業報告書の確認を進め、避難指示解除の具体的な時期を探る。
 除染の対象地域となっていたのは、同市小高区と原町区の一部約4000区画。環境省では廃棄物の仮置き場への搬入も終えた。4月以降、住民の要望があれば追加の除染を実施する。
国は2月、4月をめどに避難解除する考えを表明。3月までの除染終了に向け、現場作業員を増員するなどしていた。』

 この環境省の発表では、3月中に宅地などの除染が完了したことになっていますが、同省の除染情報サイトを見ると、3月31日現在の宅地の除染率は88%にとどまっています。これは、除染が必要な区画数約4400戸のうち、あくまで「除染を実施できる条件が整った」約3900戸について実施を完了した、という実情を示しています。この差は、除染を行うための同意を取れていない地権者が多いためで、ほかの実施率を見ても、農地は33%止まり、道路は39%、森林(宅地から20メートルの範囲まで)は44%にとどまっています。「避難指示解除を言いながら、いまだに泉沢で除染されていない家もある。区内のあちこちで除染作業が続いており、来年まで掛かるのが現実だろう」と石井さんは語っていました。これで帰還しろ、と言われる住民の不安はもっともでないのか、と。
 渡部さんの自宅は、泉沢集落から常磐線沿いに南にある小高区耳谷(みみがい)にあります。家屋の除染は終わっていますが、家の背後にある斜面の雑木林の除染方法について疑問を抱いたそうです。「家の裏手に(里山の端を削った)高さ7メートルの垂直ながけがあり、その上に斜面がある。常識的には、上の斜面の端から20メートルの範囲を除染するべきだが、実際の作業は、がけの一番下から測り始めた。おかしいと言ったが、それが国の基準だという。現場でなく、都会で考えた理屈だ」
 「国は早く復興を宣言したいがために解除を急いでいるのではないか、と言われても仕方がない。市長にも早く解除したい気持ちはあるが、それは、解除の時期が遅くなればなるほど、住民の帰還の意思が薄らいでいく懸念があるから。われわれ住民からしても、5年間待つというのは既に長い」

 渡部市議が見せてくれたのは、南相馬市が15年8月にまとめた小高区住民の帰還の意向調査結果です(計10979人のうち8314人が回答)。それによると避難先からの帰還意向は、南相馬市(原町区、鹿島区を含む)に「戻る」が20.2%(1680人)、「条件が整えば戻る」が26.4%(2191人)、「戻らない」(市外への居住を希望)が28.8%(2395人)、「わからない」が21.7%(1802人)。放射線量が比較的高い山沿いの西部では、「戻る」が14.7%(348人)、「戻らない」は34.9%(827)。津波で被災した海岸部の東部でも「戻らない」が36.6%(682人)でした。このうち「小高区に戻る」という意向の人は、さらに減って全体の13.7%(1141人)にとどまりました。「厳しく見て、現実に戻る人は1割くらいでは」と渡部市議は推測しています。

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 3月11日に泉沢集落へ行く途中、通過した小高の中心部のありさまを思い出しました。南相馬市への合併以前から旧小高町は商業で栄え、相馬地方でも大きな商店街がありました。大震災前には約350事業者が小高商工会に名を連ねていましたが、福島第1原発事故後は全住民が避難し、無人の街に。その後、避難指示解除に先駆けて少しずつ店や事業者が戻り、2年前の計30事業者から現在42事業者に増えています(ほかに152事業者が福島県内外で再開)。しかし、営業している小売業者はわずか7店。商店街の多くの店がシャッターを下ろし、ショーウィンドウ内の商品がめちゃめちゃだったり、外壁が崩れかけていたり、解体中だったり更地になったりした店の跡もあります。
 街そのものの再開を準備する動きも出てきました。商店街の一角には、小高区外の仮設住宅で暮らしている住民を迎え入れる災害公営住宅が建てられています。次のようなニュースもありました。
『東京電力福島第1原発事故に伴う住民避難が続く南相馬市小高区で28日、仮設店舗「東町エンガワ商店」がオープンする。地元小売店の大部分は休業が続いており、来春目標の避難指示解除に向けて市が整備した。
 小高区中心部のJR小高駅近くに立地。店舗面積約150平方メートルで食料品や日用雑貨など約1500点を扱う。運営は地元の商業者が担う。』(15年9月28日の河北新報より)
『南相馬市が同市小高区に整備する復興拠点施設の概要が固まった。東京電力福島第1原発事故からの地域再生に向け、住民交流、商業振興、子育て支援など多様な機能を持たせる。今後詳細設計に入り、2018年4月のオープンを目指す。』(16年2月26日の河北新報より)

 帰還意向の調査結果で小高区に「戻る」という人の8割は50~80代。高齢者を支える医療面では『東京電力福島第1原発事故の影響で診療休止を強いられた南相馬市小高区の開業医2人が、地元での再開準備を本格化させている。今春にも予定される避難指示解除をにらんで再スタートを決めた。帰還する住民は高齢層が中心になるとみられるだけに、地域から歓迎の声が上がりそうだ。』(16年2月2日の河北新報より)との朗報もありますが、入院・介護の施設再開の見通しはまだありません。
 渡部さんが心配するのは学校です。小高区の小学校(4校)中学校(1校)は鹿島区の仮設校舎で授業を続けていますが、児童生徒の在籍率は2~3割で、小学校の16年度新入生は6人。市教委は避難指示解除を見込んで16年8月(2学期)から小高区で小中学校を再開させる方針でしたが、15年11月に小高中の保護者たちが再開の先送りを求める請願を市議会に提出しました。県立の小高工業高が17年4月に再開する予定で、「なぜ小中学生が早いのか」という疑問も広まったそうです。ここでも地域再生を急ごうとする行政の思惑と住民の不安がぶつかりました。「市教委は2学期から再開する目標を断念して、早くても来年春に延期する考えを固めたようだ」と渡部さんは話します。

 5年前の3月11日、渡部さんは市議会の本会議中に大地震に遭い、急きょ戻った地元の耳谷地区の大半は幸にも津波の被災を免れ、家も無事でした。「原発事故が起きて、全住民避難となったが、市議である以上は南相馬を離れられず、原町区の知人宅を2カ月点々として市役所に通った」。農業後継者であった長男寛志さん(37)は妻、娘たちと共に、大学時代を過ごした愛媛県に避難しました。
『避難後、すぐにミカン栽培を始めた。「放射能の心配のない農作物を福島の人に食べてほしい」。コメや野菜は、風評被害に苦しむ福島の農家と競合してしまう。温暖な土地ならではの果物を選んだ。
 11年11月、ミカンを初収穫すると、自らトラックで福島の知人の元へ届けた。陸路で1200キロも離れている。周囲から「宅配便を使ったら」と言われたが、「古里とつながっている実感を持ちたい」と配達を続けた。翌年からは収穫量が増え、年10回のペースで通った。』(16年2月20日の河北新報社会面『震災5年 3・11 あの日と今/古里を離れて⑤』より)

 「私は避難指示解除になったら、家に帰るつもりだが、息子は、(幻合い小学生の)孫たちが高校を卒業するまで戻らない、と言っている」と渡部さん。自身もまた避難生活で家族と離れ、遠くにいる子と孫を思う小高区住民の1人です。不在中の家にアライグマやハクビシンが入り込み、天井に穴が空くほど荒らしていたといい、やはり解体して建て替えなくてはならないと頭を痛めています。

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 南相馬市議会での取材の後、小高区泉沢に向かいました。石井さんと大悲山での待ち合わせを約束していたのです。泉沢集落で島田さんの家の前を通ると、2週間前に解体中だった藏はなくなっていました。大震災と原発事故は、丸5年を経たいまもなお「被災地を奪い続けている」と感じました。
この日の目的地は、通い慣れた薬師堂ではなく、峰続きの山中にある信仰の遺跡、観音堂でした。高さ9メートルという国内最大級の磨崖仏でしたが、平安時代から約1100年の風雨で多くの部分が剥落し、残った顔の部分やたくさんの手に千手観音の面影を伝えています。13年3月23日、石井さんと島田さんに初めて案内してもらった観音堂は、2年前の大地震で古い覆屋(おおいや)が倒壊し、切り立った岩壁に巨大な姿のありのままを見せていました。その刹那の驚きを忘れられません(本ブログ91『石仏の守り手~南相馬市小高』参照)。

 南相馬市文化財課が同年11月から再建工事を進めていましたが、「新しい覆屋がようやく形を現した。ぜひ見に来て」と石井さんから電話をもらったのでした。少し急な参道を登っていくと、2段になった真新しい赤茶色の屋根、平安時代の建物を模した黄土色の太い円柱群が見えてきました。
 大震災に崩れることなく耐えた千手観音は、頭上に2本の手を上げて組んで小さな仏(化仏)を掲げ、天上につながっているような神々しさ。千の目と手をもって、この世のどんな人々をも救済する慈悲を差し伸べると言われています。傷ついた心を癒やし、よみがえらせようとする姿のようにも思えました。「これから参拝客が増えて、観音堂にも足を運んでくれるといい。それが泉沢集落の復活につながれば」と祈るように石井さん。明日はまだ見えなくても、希望は奪われ尽くされることはない、と。原発事故後の避難生活の中で石井さん、島田さんが通い続けた理由が分かった気がしました。

2016年3月12日、跡形もなくなった石井さんの家と薄暮の泉沢集落

3月12日、解体される島田さん宅の藏。母屋はなくなっていた。

3月12日、原発事故から丸5年が過ぎた小高の商店街

3月25日、小高区の避難指示解除の課題を語る渡部市議=南相馬市役所

3月25日、再建された大悲山・観音堂の覆屋と石井さん

巨大な観音像を見上げて祈る石井さん

 

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