何も終わらぬ5年/余震の中で新聞を作る156 引き裂かれる思い 南アルプス山麓で~その後㊤

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 「この土地に1人で飛び込んだのが、震災、(福島第1)原発事故の翌年、2012年の5月だった。古い空き家を借りて、試行錯誤を始めたんだ」。15年3月4日、山梨県北杜市。北の諏訪から山峡を吹き下ろしてくるという早春の風は冷たく、眼前にそびえる南アルプス・甲斐駒ケ岳(標高2,967メートル)の頂もまだ白く、小野田等さん(62)が立つビニールハウスのまわりには「一度降ると、寒さでいつまでも解けない」という雪が残っていました。なだらかな阿武隈山地、のどかな田園が広がる福島県浜通りの古里から遠く、峻厳とさえ映る異郷の風景は、そのまま小野田さんの心境を物語るかのようです。
 「最初の年は来てすぐ、借りた田んぼの田植え準備に追われた。ずっと眠れないままで薬に頼っていて、こっちの医者に行くと、安定剤と睡眠薬をくれて、それでやっと眠れた。が、それ以来、薬をやめた。薬を続けるのは体に悪いし、頼るのはよくなかった」
 小野田さんは、南相馬市鹿島区の浜沿い、北屋形という集落で9ヘクタールのコメ作りを営む農家でした。11年3月11日の津波で集落の家々は流され、明治時代の干拓で地元に生まれた広い水田地帯(八沢浦地区)も津波と激しい地盤沈下によって水没し、かつての海辺の浦の姿に戻りました(その後の排水工事で水田は復活)。わずかに高台にあった小野田さんの自宅は助かりましたが、追い打ちをかけたのが原発事故です。鹿島区は福島第1原発から北に約40キロ離れ、放射性物質の影響はほとんどなかったのですが、市内全域で住民の避難が相次ぎ、コメの作付けも自粛とされました。近隣の農家仲間たちが消沈し、津波の被災と原発事故への重苦しい不安から再開の希望を失う中で、小野田さんは「来年もここでコメ作りができるかどうか。まだ、その見通しすらない。放射能の影響の有無を確かめるコメを取る、試験田の田植えをやりたい。風評を農家自らが吹き払いたい」と決意し、たった1人で5月下旬に決行しました(『余震の中で新聞を作る24〜相馬・南相馬へ/田の神よ、守れ』参照)。

 原発事故など知らなかったかのように、その秋、試験田の稲は黄金色に実りました。その結果は。
『収穫後の玄米の放射性セシウム測定検査(市による測定)を行ったところ、結果は、試験田内の2地点A・Bでそれぞれ、A/セシウム134=14・7、同137=15、B・同134=0、同137=11・4(いずれもベクレル)。国の暫定基準値(キロ当たり500ベクレル/2012年4月から同100ベクレルに厳格化)をはるかに下回り、土壌の測定値も1キログラム当たりA=760、B=653と、同様に国のコメ作付の目安(5000ベクレル)を下回りました。
 「精米すれば、ゼロになる数値だった」と小野田さんは語り、「風評を農家自らが吹き払いたい」と念願した通りの結果になりました。が、同10月に福島県が2011年産米の「安全宣言」を出した後に、福島、伊達、二本松各市内の一部の産米から暫定基準値を超えるセシウムが検出され、大きなニュースとなり、福島の農産物に対する逆風はさらに強まることになりました。「個人の努力では、風評に立ち向かえないのか」との挫折感もまた。』(本ブログ63『再びの春 農の行方/その1』より
 小野田さんは逆風の強さ、賠償請求をめぐる東京電力の姿勢に、心身の疲れと憤りを募らせました。
 『隣で妻ひろ子さん(58)が、「『風邪にしてはおかしい』と話していたの。1月10日から、その月いっぱい寝込み、起きることもできず、ご飯を食べるのがやっと。頬はげっそりとやせて。心身症でも、うつでもない。なら、何なの?と。医者からは、『強いストレスがある。環境を変えなさい』と言われた」。昨年3月11日以来,ため込んだ疲れとストレスが堰を切ってあふれ出、毒のように心身を侵した—。そうとしか思えませんでした。
 「東京電力と交渉し始めたら、また不調がぶり返して。やり取りは、女房にやってもらっている」と小野田さん。この時、そうだそうだ東電から新しい書類が届いた−と、ひろ子さんが目の前で封筒を開けました。』
 『「あんたたち(東京電力の賠償請求窓口の担当者)の原発事故のために俺は苦労しているのに何だ、と言っても、また話がかみ合わない。それがまた、新しいストレスになった。未来のことでなく、起きていることはすべて現実なのに」と小野田さん。ここでは農業を続けることができるのか否か、とどまるべきなのか移住すべきか、自らの心身を害するほどに悩み葛藤し、その思いが決して通じることのない世界と交渉を続けることの濃い疲労が、その顔にありました。』(本ブログ63より

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 農業を諦めて働き口を見つける仲間もいた中で、「どうやって、これから生きていくか」「このままでは病気になり、だめになる」「俺には、農業しかない」と悩み、葛藤した末、長年作ってきたコシヒカリ、10年続けたイチゴのハウス栽培を両立できる土地はないのか、と小野田さんは手探りを始めました。北海道の函館近郊、宮城や埼玉など、可能性がありそうな候補の町と連絡を取って調べましたが、気候や受け入れ態勢などが合わず、12年春になって、最後まで残った北杜市との話が具体的に進んだのでした。自身も何度か現地に足を運んで、農地、借家の確保などを話し合い、何とか田植えの時期に間に合いました。南相馬市鹿島での就農前、重機メーカー「コマツ」の販売会社の営業マンとして山梨県富士吉田市を中心に6年間働いた経験もあり、「なにかの縁がつながったんだろう」。
 身を引き裂かれるような思いで古里を離れて、出合った新天地は、サントリーの白州蒸留所がある北杜市白州町の鳥原という集落。JR中央線の小淵沢駅(標高881メートル)から急坂の道を下り、釜無川を渡った対岸が白州町です。わずか計60アールの水田でコシヒカリの栽培に挑戦しました。
『戦国時代の「信玄堤」の伝承にもあるように、自然と闘いながら山峡のわずかな平地を利用して田畑を開き、山の恵みを生かしてきた土地であると、実際に立ってみて実感できました。
 「田んぼの区画も小さく、9ヘクタールなんて、もう望むべくもない。この1年は試験のつもり。昼はけっこう暑くなるが、日がかげれば寒い。稲を寒さから守る深水管理が大事になりそうだし、稲刈りの時期も、向こうよりひと月も早いそうだ。まず、やってみないことには。俺が24年間やってきたコメ作りがここでもできるか。それを確かめてから、移住を決めたいと思う」。妻ひろ子さん(58)と愛犬ランを(南相馬市鹿島の)自宅に残しての単身生活です。』(本ブログ73『引き裂かれる思い/南アルプス山麓で』より/本ブログ85『引き裂かれる思い 南アルプス山麓で~その2』参照)
 その切実な意欲と東北農民らしい研究熱心さは、すぐに地元の信頼を集めるようになり、後継者がいないまま高齢化した農家からの耕作受託が増えました。3年目となった15年春の時点の営農規模は水田4ヘクタール、畑1ヘクタールに広がり、まだハウス1棟分ですがイチゴ栽培も復活しました。

 サントリーの醸造所に近い同町鳥原集落の外れに小野田さんの家があります。最初は古い空き家で借り住まいをし、同じ年の秋に集落の人の世話で、東京の会社の社員向け保養所だった三角屋根、広いベランダがある山荘風の家を借り、翌13年5月に買い取りました。後に引けぬ決意の表れでした。どっしりした鉄製のまきストーブが備え付けられた居間で、小野田さんは茶を入れ、語りました。
「鹿島に帰るとしても、おそらく現役の農家を引退した後だろうな。あっちにいたら、農家は続けられなかった。それが分かってきた。就農してから、俺が作るコメを食べてくれるお客さんとの出会いの縁を重ね、23年を掛けて、首都圏を中心に200人になった。ところが、原発事故がそのつながりは途切れさせた。白州に来て再びコメを作ることができ、なじみのお客さんたちに再出発を知らせる手書きのダイレクトメールを出した。思いを丁寧につづったつもりだった。が、返事をくれたのは10人。みんな、離れていった。たとえ山梨のコメでも、福島の人が作っているからだめなのか」
 「去年、鹿島の同級生を亡くした。同じ南海老でかなり大きくコメ作りをやっていた農家だが、津波ですべて流され、残ったのはハウスだけだった。その上にある親戚の土地に家を建て直し、奥さんとハウスを始めたのだが、急に倒れて亡くなってしまった。脳梗塞だったかと思うが、やはり疲れ、心労、ストレスが原因だろうと感じた。(南相馬市に合併する前の)旧鹿島町の農業委員も一緒にやった間柄だった。同級生に逝かれるのは一番きつい、つらい。俺もまた、あのままの状態でいたら、この世にいなかったのではないか、と思われてならない」

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 再起の新しいコメ作りを支えてくれたのは、暗中模索のさなかで「応援するから、頑張れ」「どこで作ろうと、あんたのコメを食べるよ」と返事を寄せた10人のお客さんでした。「残ってもらった人たちが、それぞれ新しいお客さんを紹介してくれた。おかげでいま、60人まで復活した」。新規の人には5~10キロの新米を試食用に送って食味を確かめてもらい、その上で買ってもらうといい、独居から多様な家族の形に応じて5~30キロまで送り、それが計80俵(4・8トン)ほどになったそうです。「震災の時は、患者さんに出すのを家人に止められて中断したが、また頼むよ」と言って、すぐに購入を復活してくれた千葉県の病院の院長、東京のお得意さんの紹介でつながり、「困っているのか」と注文してくれた名古屋の仕出し屋さんもおり、「いろんな人の縁に助けられたんだ」。
 白州町で作るコメはコシヒカリですが、鹿島で作っていたコシヒカリとまるで違う、と小野田さん。こちらに来たばかりのころ、世話をしてくれた集落の人から「ご飯を食べに来て」と呼ばれ、初めて口にしたコメにびっくりしたといいます。「『これが、コシヒカリか? 粘りけがないね』と感想をすると、逆に『粘りって何だ?』と聞かれた。でも、うまい。雑味がないと東京のお客さんは言う」。これには、ミネラルウォーターなどにも用いられている、南アルプスの花こう岩地帯をくぐったミネラル分豊富なきれいな水、同じ花こう岩質の砂質壌土、昼夜の気温差の大きさなどの理由があるといわれています。
 「ここのコシヒカリは梨北米(山梨県北産の意味)といい、地元の農家は『魚沼産コシヒカリよりも高値の年があった』と自慢する。確かに13年産米は特Aランクで18500円(60キロ)もした。(福島県)浜通りのコシヒカリの値が暴落した去年(14年産米の概算金が同11500円から6900円に下落)も、ここのコメは1500円下がっただけだった。浜通りの米は1年して2000円ほど値を戻したが、俺の試算では作るだけ赤字になる。それも風評が加味された値段だろう」

 南相馬市鹿島の知人の農家から、津波にのまれた近隣の水田が復旧、除染もされ、「50~60ヘクタールもの広さで圃場整備(1枚ごとの面積を広げる事業)されて田んぼが大きくなったし、そこで、コスト低減の完全直播(ちょくは・種もみの直まき)をやる」と電話があったそうです。だから、帰ってこないか、と。だが、「震災前、14000円(同)はした」と小野田さんが振り返る浜通り産のコシヒカリは風評に翻弄され、南相馬市は稲作再開を宣言したこの15年、農家の意欲、収入を減退させぬために、農協を通して、より高く売れる「餌米」として販売する窮余の策を採りました。
 「ここでは放射能のことが一切話題にならないし、福島第1原発で汚染水漏れが起きたといった事故以外、新聞もテレビも被災地の情報を流さない。精神的には楽になったが、浦島太郎だ」。小野田さんは、震災も原発事故も何事もなかったような風化の現実に割り切れなさを覚えます。被災地とは天地ほどのコメの扱いにもかかわらず、「わずか1500円下がっただけで、ここの農家たちは『やっていられない』という気持ちのようで、実際に作るのをやめて、俺に60アール分の耕作委託の田んぼが集まったほどだ。いいコメは取れても、農家はほぼ70代で若い後継者がおらず、だんだんとやめていくい人が多い。俺はいろんなことをやりたいが、忙しい時にお手伝いを頼む相手がいない」

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 人手の確保が一番の悩みだったという小野田さんを、14年春、大学生たちが応援に来ました。筑波大の「のうりんむら」というのサークルです。自分たちで大学近くの田んぼを借りてコシヒカリと餅米を作り、秋の学園祭で販売している、農業を愛する若者たちです。田植え前の大仕事である苗作りのための種まき作業を、メンバーが車で遠路駆けつけ、わいわいと片付けてくれました。「のうりんむら」に声を掛け、縁をつないだのは、元一橋大生で東京の広告代理店に勤める渡辺雄さんという小野田さんの若い友人。「鹿島の自宅で農家民宿を始めたころに出会って、それ以来の仲間なんだ」
 小野田さんの鹿島の自宅は、カナダ産の丸太で組まれた野趣たっぷりのログハウスです。「コマツ」を退職し、就農のため帰郷した時、親しい同僚らが来て新居造りを手伝ってくれたそうです。そこで農家としての新たな人生を歩みだすとともに、もう一つの大きな夢を育てる場にしていきました。原発事故から間もない11年5月初め、小野田さんの苦悩を初めて紹介した本ブログ18『相馬・南相馬へ/風評に立ち向かう』にこのようにつづりました。
 『「あと10年は、農業を続けようと思っていた」と、小野田さんは語りました。そのために温めている夢も、始めていることもあります。国の都市農村交流事業に参加して2000年、「グリーンツーリズム・コーディネーター」の資格を得、自宅のログハウスの一室を開放して「もっけの幸(さいわい)」という名の農村体験民宿を開いているのです。
 都会から「農」を志す人を募って農業体験をしてもらい、「将来、高齢化などで農家がやめてゆくような地域の農業を助けてくれる人材を育てよう」とのプランです。福島県立農業短大の学生や、東京の若者たちが毎年訪れるようになっていました。』

 渡辺さんも広告代理店という都会の仕事に就きながら、小野田さんからもらった「農」の種まきをいまも手伝っている人です。「彼のような、いろんな気持ちやきっかけで農業をやってみたいという若者たちに、泊まりがけで農家の仕事を体験してもらい、夜はにぎやかに議論をし、仲間づくりをしてきたんだ。その中から、農業に新しい可能性を開いてくれる後釜たちが育って、俺は安心して後方支援に回れたらいいな、という夢があった」
 「若い者を入れていかなきゃ、農業そのものがだめになる。移ってきた山梨の農村でも、そんな現実は進んでいた。だって、俺が『若手』なんだもの。お客さんとのつながりもそうだし、若い世代との交流の場になっていかなきゃ、農業も農村も生き残っていけない。原発事故は起きたが、鹿島を離れなくてはならなかったが、育てかけた種を絶やしたくない。まだ、夢半ばなんだ」
 白州町に買った元保養所の家は築30年になり、ウッドデッキや外壁の防水加工が古くなったりして、屋根も含めて直さないといけないそうですが、2階には7、8人がゆったりと泊まれるスペースがあります。「のうりんむら」の学生たちは泊まりがけで、春の種まきの後も畑の手伝いなどに通い、「さすがに動きがいいよ」と小野田さん やはり渡辺さん紹介で、「Youth for 3,11」という大学を超えた東京の学生ボランティア団体(NPO法人)も14年秋の野菜収穫に訪れました。ホームページで結成のきっかけをこう伝えています。    

 「2011年3月11に発生した東日本大震災では、ボランティア不足が深刻であるにもかかわらず、学生がボランティアに行けていない現状を目の当たりにしました。将来日本を担う学生が、社会問題解決において重要な存在であると考えています。そこで私たちは、学生にとって参加しやすいボランティアの機会を提供し、ボランティアと学生をつなぐことで社会問題に向き合える若者を増やしていきます」
 石巻や気仙沼でカキ、ホヤ、ホタテ、ワカメなどの養殖の手伝い、福島県内で避難中の被災者の支援などを、現地の当事者とじかにつながってプログラムを組み、参加する大学生を募って週末にバスを運行してきました(16年5月現在も活動は続き、原発事故被災地への住民帰還に向けた家々の清掃や草刈り、新しいコミュニティための瓦版づくりの取材なども行っています)。
「継続的にお手伝いしたい、と彼らも言ってくれてね。今年も4月中旬の種まきに来てもらえるそうだ」。零下10度を下回る山峡の厳しい冬を越え、若者たちと再会できる春が近づいていました。

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 妻のひろ子さんはこの日、不在でした。「鹿島の家にやっと借り手がついたんだ。(福島県)浪江町の人で、原発事故で全町避難となり、(南相馬市)原町の借家を見なし仮設住宅にしていたが、家主が戻ってくるんだそうだ。それで、家を探していたんだな。その話で、かみさんは鹿島に帰っている」
 小野田さんはもと南相馬市原町区(旧原町市)の農家の生まれで、Uターンして鹿島で就農してから農業者としての地元の信用と水田耕作の受託を積み上げて9ヘクタールまで経営面積を広げました。「だが、もう年間100万円もの賃借料を払う意味はなくなり、元の持ち主に返した」。家財道具や農業機械類も、暇を見つけては鹿島の自宅を往復して4トントラックで運んだそうです。田んぼが狭い山梨では珍しい五条植えの田植機、こちらで買い換えたという2年ものの中古のコンバインなどが白州町鳥原の家の前にある倉庫に並んでいます。ビニールハウスでは栽培を再開してから2年目の収穫期のイチゴが赤々と、形のよい三角錐の実を垂らしていました。が、小野田さんは浮かぬ顔です。
 「去年はうまくいったんだが、うどんこ病(白いカビが広がる)が出た。苗作りがうまくいかなかった。その時期に、こちらではすごく乾燥した風が吹く。十分に水をかけたつもりでも、午後になると苗の葉が丸まっている。気候風土の違いとは、つくづく、そこで生きてみないと分からないものだ」
 古里にはもう、いつでも帰れる場所も、丹精込めて肥やした田んぼもなく、前を向いて進むしかない覚悟の試行錯誤が続いていきます。

2015年3月4日、北杜市白州町鳥原に立つ小野田さんのビニールハウス。甲斐駒ケ岳が眼前にそびえる

元保養所を買い取って新天地の家にした小野田さん

家のまわりの畑を見る小野田さんと愛犬ラン

小野田さんが新しいコメ作りに使う五条刈りのコンバイン

ビニールハウスで栽培を再開して2年目のイチゴ

 

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