何も終わらぬ5年/余震の中で新聞を作る155 南相馬~苦き風評からの再起 その3

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 『東京電力福島第1原発事故後の農業復興を目指し、南相馬市の農家グループ「南相馬農地再生協議会」が栽培に取り組む菜種の油を、英国企業がせっけんの原料に選び、10日から神奈川県内の工場で製造する。6月ごろ収穫される本年産菜種からも油1~1.5トンを買い入れる予定だ。英国企業は継続支援を希望し、同協議会は「念願だった販路が開ける」と喜んでいる。
 農地再生協議会は、原発事故後に作付け自粛とされたコメに代わり、菜種の栽培と油の特産化を目標におととし、同市原町区太田の有機農家杉内清繁さん(65)を代表に、共鳴する農家ら12個人・団体が結成した。昨年は約30ヘクタールに畑を拡大、9トンの菜種油を生産した。
 英国企業は世界的な化粧品・バス用品メーカーのLUSH(ラッシュ)。昨年6月、日本法人担当者が杉内さんを訪ねて菜種油を仕入れ、せっけん商品化の研究開発を英国本社で行った。好結果を得て9月に550キロを買い入れ、生産に乗り出すことを決めた。来月1日から「つながるオモイ」の名前で国内販売する。
 (中略)「菜種油を原料にしたせっけん開発で、生産の取り組み、品質、哲学が消費者にとって確かな相手を探していた。杉内さんたちとの提携は東日本大震災の被災地支援にもかなう。買い入れを継続して増やしたい」とラッシュ・ジャパン(神奈川県愛川町)の担当者は話す。』

 2016年2月9日の河北新報に載った記事です。11年3月の福島第1原発事故後のほぼ5年間、放射能による農地の汚染と厳しい風評から地域再生の苦闘と模索を重ねた南相馬市原町区太田の人々にとって、ようやく訪れた明るいニュースでした。「いつか日の目が見られなくては、被災地の俺たちは浮かばれない」と、記事に登場する杉内さんは自宅の居間で苦笑いしました。LUSHの関係者から最初の話があったのは15年6月。杉内さんの活動を紹介したNHKのテレビ番組を(国際放送で)同社の英国本社トップが見て、動かされたことがきっかけだそうです。「14年の秋、チェルノブイリ原発事故(1986年4月)から28年が経過したウクライナの被災地を、奥村(健郎)さん=(58)・太田の農家で南相馬農地再生協議会の仲間=と一緒に視察した時だ。現地で取材を受けたんだ」
 杉内さんが別のNHKの番組で知ったのが縁で交流してきたNPO法人「チェルノブイリ救援・中部」の理事の川田昌東さん(元名古屋大・分子生物学者)の橋渡しで、川田さんが現地の人々と協働して取り組んでいた菜種栽培と、菜種油やバイオマス燃料への活用を見聞しようという旅でした。
 『福島第1原発事故で、地元の有機農業の仲間たちは再開を諦めて離れたそうです。しかし、杉内さんは郡山市や仙台市に避難した後、「荒れて先が見えぬ南相馬の農地と農業を再生したい」と志して民間稲作研究所に通い、そこで油脂植物に着目しました。「土壌の放射性物質の吸収効果とともに、種から絞った油には放射性物質が移行しないという実証結果を知った。これだと思った」と語ります。 川田さんらが菜種栽培と油の活用をチェルノブイリ周辺の復興産業として根付かせた理由もそこにありました』(『余震の中で新聞を作る128 風評の厚き壁を前に/南相馬 ・新たな希望~相馬農高生の魂』より)

 「(15年6月に)LUSHからは、『菜種油を、石けんの原料として30トン欲しい』と言われた。しかし、南相馬再生協議会として生産した15年産(毎年6月が収穫期)の菜種油は、計30ヘクタールの畑から9トン。私の計算だと、100ヘクタールに広げる必要がある。16年産の菜種畑は42ヘクタールに増えたが、まだまだ足りない。しかし、これからへの目標はできた」と杉内さん。

 15年産の菜種油は、9トンの大半が食用油「油菜ちゃん」、姉妹品の「油菜ちゃんマヨネース」の原料となっていました。LUSHからの注文に可能な限り応えようと、杉内さんたちは550キロ分を送ったといいます(一部は英国本社に送られ、商品開発に用いられました)。「何よりも、一番の課題だった南相馬産菜種油の販路が、一気に開けることになったのがうれしい」。杉内さんは語りました。LUSH側は16年産菜種油も1~1・5トンを買い入れたい意向で、継続的な提携を約束しました。「現在は収穫した菜種を栃木県の施設に運んで搾油しているが、産地として地元に搾油所も設けたい」
 晴れの舞台となった、ラッシュ・ジャパン品川オフィスでの商品発表会があったのは2月15日。さまざまなメディアが詰めかけました。「つながるオモイ」について、同社は「DROP OF HOPE」という英語名を付け、「たくさんの人の希望を湛えるひとしずくのオイル。福島・南相馬産の菜種油に託された、溢れんばかりのオモイも一緒にソープにしました」と紹介。担当者は「南相馬の生産者が育てた菜種油を商品に使うことで、震災からの復興を支援したい。それまでも菜種油を原料に用いることを検討していたが、『顔の見える』生産者のものを消費者に届けたい」とアナウンスしました。
 出席した杉内さんは、登壇して話しました。「菜種油を通して、地域の農業も経済も再生したい。原発事故を契機に若い世代が避難・流出した。もう住める所ではないと感じたのかもしれない。前に進む勇気も失いかけた時期もある。だが、菜種は、チェルノブイリでの取り組みから、地域の再生につながると確信できた。農業と人の交流も目指したい」。苦闘の実りである商品を掲げて、誇らしそうに(本ブログ136『 帰れるか、帰れぬのか~南相馬 苦き風評からの再起 その2/菜種の可能性』参照)。

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 「菜種だけじゃなく、太田の希望の星がもう一つある。イチゴを復活させた若者がいるんだ」。奥村さんから、こう紹介されていた人がいます。奥村さんと同じ下太田集落に立つ15アールのハウスを訪ねたのは、2月2日です。32歳の農業大和田祥旦(よしあき)さん。原発事故の後、5年ぶりとなるイチゴの収穫を始めたばかりで、ハウスの中には見渡す限り、まぶしい緑と白い小さな花、赤く色づく「とちおとめ」の実がありました。ブーンという小さな羽音は、授粉をするミツバチたちです。
 東北の太平洋岸のイチゴといえば、宮城県亘理町、山元町が大産地で、相馬市の観光農園も知られますが、南相馬市内の栽培農家は数軒だけ。なぜ、仕事に選んだかを大和田さんに尋ねると、「イチゴが好きだから。味が大好きで、自分で食べたいから」と屈託なく笑いました。ハウスは、農家の父親が15年前に建て、キュウリ栽培をしていた施設を利用しています。後継者として滋賀県内のタキイ園芸専門学校で学び、静岡、栃木両県内の観光農園などでイチゴ作りを研修。「生食で勝負し、じかに消費者とつながれる」という醍醐味を知り、2007年に実家に戻って就農すると同時に、酸味と甘さのバランスが一番いい」というトチオトメの栽培に挑戦しました。そして、東日本大震災の発生は5年目のシーズンのさなか。「技術も品質も販路も、やっと順調な軌道に乗ったところだった。得意先になった市内のスーパーのイチゴの棚の8割を自分の品でしめられるようになり、ケーキに使ってくれるお菓子屋も1店できた。足場が固まり、贈答用の箱も新調して、これから広げようとしていたところだった」

 あの日、11年3月11日の午後2時46分は、朝から昼過ぎまで収穫したイチゴをパック詰めしていた時だ。幸いにも、自宅に大地震の被害はなかったが、やがてテレビ映像が大津波の襲来を伝え、市内で漁師をしている母親の弟から「家が流される」という悲鳴のような電話があった。「行けるとことまでいってみよう」と車で浜の方角に向かい、途中、すさまじい津波の被災を目撃して戻った。「(福島第1)原発がやばいと感じ、万が一の時は誰かに手助けしてもらえたら」と「mixi」で友人たちに状況を知らせ、12日の午後3時ごろ、北隣の相馬市と接する鹿島区の親戚宅に家屋で身を寄せました。間もなく、「ドン」という爆発音が20キロ余り南の福島第1原発から響き、テレビが水素爆発発生の異常事態を告げていました。危機が迫ったと感じた大和田さんと家族、親戚の計12人で避難を決意します。西隣の飯舘村に向かう峠道の渋滞に巻き込まれながら、会津まで車を飛ばしました。
 「14日になって園芸専門学校の先輩から連絡があり、『(会津若松市近郊の)東山温泉に身内の旅館があり、被災者を受け入れる避難所になっているから行ってみろ』との情報をもらった」。ところが、犬と猫を同伴していたために旅館に入れず、「うちの家族の5人と2匹で、磐越道をさらに進んで新潟を目指すことにした」。新潟市は縁のない異郷でしたが、不動産屋を探して水道、ガスがすぐに使える空き家を見つけました。ここでも助けてくれたのは、園芸専門学校の先輩です。「OB会の新潟支部長が借家の近所にいて連絡をくれ、親身に世話をしてくれた。避難所や、民間で支援活動をする人を訪ね、仮住まいに必要な物資を得ることができた。だが、生活費を稼がなくてはならず、3月25日には仕事を見つけて動き出した。自分と両親は農家の手伝い、妹さんはファミレスでバイトに通った」

 父親は5月、母親も6月には太田に戻りました。原発事故後の混乱から間もない当時の太田の様子を、本ブログ22回『相馬・南相馬 見えない壁を背に(11年5月16日)がこう伝えています。
 『太田地区では、3月12日に起きた第1原発の水素爆発事故の3日後、南相馬市の手配したバス5台で子どものいる家族らの避難が始まりました。20キロ圏に接する地域と線引きされて、住民の自主避難が相次ぎ、区長会もいったん解散となりました。「地区で残った人は1割くらいだった」と、自身も踏みとどまった奥村さんは語りました。
  残った区長や市議らが、ボランティア活動という形で再び集ったのは3月23日でした。20キロ圏内となった南隣の小高区で、避難後の無人の家々で盗難が起きているという話があり、自主防犯のパトロールを始めたのです。また、「『避難先で迷惑を掛けるから』と高齢者が残る家もあり、民生委員も残って回っていた。われわれが一緒に支えなくては、というのも活動のきっかけだった」。
  残った人々は、放射能への不安を募らせながらも、「避難した農家の大型ハウスを、みんなで有効に生かさせてもらおう」と、キウリやコマツナ、シュンギク、イチゴなどを「孤立無援のろう城」の生活の糧として、食べつないだそうです。
  4月に入ってからは避難先から戻る人が増え、同25日になって区長会も再開。「今は、世帯のおよそ8割が戻った。男の人は1日も早く働いて収入を得ないといけないし、子育て中のお母さんたちは避難先にとどまるという家も多く、住民の数にすれば、まだ6割くらい。今の状況では仕方がないのかもしれないね」と奥村さんは語りました。』

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 大和田さんが妹と一緒に帰郷したのは翌12年夏。きっかけは「イチゴからまた作るか」という父親の相談でした。現実には原発事故のため、南相馬の人口のまだ半数以上が流出していた時期で、商店街や商業施設の再開も道半ばで、厳しい風評も地元産品にのしかかっていました。大和田さんが自力で開拓した販路は途切れ、「東京電力の賠償がどうなるかも分からない中で冒険ができず、まずは作りやすいキュウリから始めよう」と決まりました。それから3年、イチゴは見果てぬ夢の日々でした。
 「それでも、イチゴを諦めたくなかった」と大和田さんは振り返りました。父親のキュウリ作りを手伝う間、「ブランクだけは出さないようにしよう」とイチゴの親苗を農協から仕入れ、10月ごろから冬越しさせて、春にプランターに移す作業を辛抱強く続け、親苗を約200本に増やしていました。
 「ぼちぼち地元産を取引できる状況になってきた。また、イチゴを出してもらえたら」。得意先だったスーパーから、待ちに待った連絡をもらったのが14年暮れ。「うれしかったが、久々なので心配はあった」と大和田さん。原発事故前までイチゴを作っていた畑とは違う場所で栽培することになり、「何年もやって分かる畑の土の『癖』が、最初は分からなかった」という手探りからの再出発でした。原発事故に心折れることなく、再起の希望とともに守り育ててきた親苗を定植したのは15年11月。苗は病気を出すことなく、すくすくと伸びて実を結び、16年2月1日の朝、原発事故で中断して以来5年ぶりの収穫を迎えました。「最初の実りは、震災前にひいきにしてもらったお客さん、苦しかった避難生活を助けてくれた人たちに食べてほしい。会津や新潟をはじめ、全国にいる園芸専門学校の先輩や仲間たちに、真っ先に」。心を込めて詰めた初採りイチゴの送り先は約30カ所にもなりました。
 本格的な販売・出荷を始めたのは2月15日。1日15箱と少ない量でのスタートでしたが「イチゴのシーズンが終盤になる5月には、日に60箱は出したい。それを目標に勝負する」。原発事故前、クリスマスの季節を中心に得意先だったケーキ店も「地元の新鮮なイチゴが欲しかった」と仕入れを再開してくれました。大和田さんの友人がなじみにしている市内のバーからは「南相馬の旬の味を生かしたカクテルを作りたい。その材料に」と注文が寄せられました。「市内のイオンにある農協直売場にも出している。ほそぼそとだけれど、販路は広がっている」。贈答用の注文も「宮城県内の(園芸専門学校の)仲間が良くしてくれる」。大和田の挑戦は、風評の「壁」にも風穴を開けつつありました。

 「これから、南相馬でどう生きていきたいか?」。取材の後、大和田さんにこんな質問をしてみました。南相馬市内のイチゴ栽培農家がいま、原発事故前の半数の5人しかおらず、若い人もほかにいない、という話を聞かされ、被災地の農業青年としての孤立感はないのか、少し気になったからです。
 「自分はここで、昔からの人のつながりを一番大切にしていきたい」。大和田さんからは、迷いのない答えが返りました。「正月の神楽、運動会、芋煮会とか、どこでも集落ぐるみでやらなくなってきた。親の世代が、息子たちに田舎の面倒事に巻き込みたくないと、行事を簡素化してきたこともある。でも、そこから出てきた問題もある。若い人たちが地元でも顔を合わせる機会が減ったんだ。仕事が農家だけでなく、ばらばらになったからなおさら」
 「太田では、水田を広げる基盤整備事業が計画されているが、若い人の声が出てこない。この地域を復興させていくのは国の事業ではなく、人の力。そのつながりが再生してこその復興なんだ。原発事故で一度切れかかった、昔からの人のまとまりをつなぎ直したい。自分はそれをやっていきたい」
 大和田さんは、「下太田青年団のメンバーだ」といいます。私は、青年団が健在だと知って驚きました。昔ながらの地域文化が残る東北でも、農村の若者流出とともに希少な存在になっているからです。「自分を入れて現役が6人、OBが6人。昔は太田地区青年団という大きな組織があったが、いまはこの下太田だけ。おととしから、自分も仕掛け人の一人になって動き始めた。近々、集まりがあるんだ。来てみたら面白いよ」。杉内さん、奥村さんら原発事故後の太田を背負う50~60代の苦闘を追ってきた私も、若い世代との新たな出会いにわくわくとしたものを感じていました。

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 東日本大震災の発生から丸5年を過ぎて翌日の3月12日夕、薄暗くなった田園の道を若者たちが次々と、下太田集会所に集まってきました。傍らにあるモニタリングポスト(24時間の放射線量測定装置)には「0.156(マイクロシーベルト毎時)」という低い空間線量の値が赤いLED電球で浮かび上がっています。きれいな緑の畳敷きの部屋に上げてもらうと、壁の鴨居の上に何枚もの集合写真が掲げられています。その1枚に、赤い獅子頭を真ん中にした紺地の和服姿の10数人の若者が映っています。大和田さんの顔も見つけました。下太田の神楽の一座です。「毎年、元日の朝5時50分に、俺たち青年団がこの衣装で集まって、相馬太田神社と地元の三つの祠を巡って、最後は公会堂の新年会で舞って悪魔祓いをする。11年の元旦に神楽をやって、原発事故を挟んでその年の暮れに新潟から(一時帰省で)戻ったら、けっこう仲間が帰ってきていて、早速、神楽の練習をした。下太田の神楽は途絶えなかった。原発事故の年に集落の運動会もやったんだ」
この夕方、青年団のメンバーが8人集まりました。「いつものようにやりますからね」と大和田さんが言うと、若者たちは長テーブルと座布団を並べ、瓶ビールと乾きもののおつまみ、メンチカツや春巻きを広げて、乾杯をするやいなや議論を始めていました。14年11月以来、地域の住民に呼び掛けて継続的に開いている「下太田を考える会」という集いを、この3月末に新趣向で催すといい、それに向けた打ち合わせでした。「地元に残った若い仲間たちで、まず大田の復興事業がどうなっているか、自分たちに何ができるか、上下の世代、地域の人が考えを持ち寄ることで何が見えてくるか。そこから議論を始めた。原発事故の後に途切れかけた交流とつながりを継承しよう、という場なんだ」。まとめ役で、建設業に携わる青年団長の高野博信さん(37)はこう話しました。

 その2か月後には、南隣の避難指示区域・小高区の現状を知る―をテーマに第2回の「考える会」を開き、翌15年4月に「有機農業の里」で有名な二本松市東和町の農業復興と地域づくりを視察に行き、同7月の第4回には「ホタル復活」のプロジェクトが生まれました。「子どものころ、ホタルがいっぱい飛んだが、いつからか見なくなった。その復活も故郷の大切な風景の継承」と高野さん。青年団は水路の草刈り作業をし、夏休みに入った太田小の子どもたちとゲンジボタルの幼虫の放流大会を行いました。「ホタルが飛ぶのは6月。去年秋に大雨があり、幼虫が流されていないか、不安もある」と大和田さんは言います。下太田の大人も子どももホタル復活を待ちかねています。
 「この土地で暮らし続けるということ」の題で、次の「下太田を考える会」があったのは3月26日夕でした。講師は首都大学東京教授の玉野和志さん(社会学)。NHKの「クローズアップ現代」で町内会のコミュニティの課題や可能性を話していたのを大和田さんが観て、ぜひ招いて話を聴いてみたいと考えたそうです。会場の下太田集会には、奥村さんや行政区長ら20人が詰めかけました。人口が流出し、都市側から切り捨てられた地方、過疎地域、限界集落から、いま、危機感と裏返しの工夫と地元の資源を駆使した生き直しの動きが始まっている―と玉野さんは語り、被災地となって過疎化と農業衰退が数十年分早送りされた観のある地元の未来に希望を抱かせました。「生産者が消費者とじかにつながっていく」「集落の良さを残し、維持することに価値が生まれる」「交流で、大和田さんがイチゴや青年団でそれぞれ挑んできたことに、希望の光が当てられていきました。

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 4月20日。なだらかな阿武隈の山並みに縁取られた広い田園風景は、農地除染の廃棄物置き場の白いフェンスが目立たぬほど、まぶしい黄色にあちこち染まっていました。「今年も南相馬農地再生協議会主催の『菜の花のお花見会』を、30日の日曜に予定しているんだが、暖冬で菜種の生育が思った以上に進み、10日余りも早く満開になった」。奥村さんから半分困ったような声の電話をもらい、「下太田を考える会」に参加して以来、久々に太田地区を訪ねました。隣の小高地区の避難指示解除時期に合わせて16年中の復旧(現時点では7月ごろ)が見込まれるJR常磐線・太田駅のすぐ東側に、杉内さんの計65アールの菜種畑があります。ここで15年9月27日、地元の相馬農業高の生徒ら約100人が参加した種まき体験会があり、その満開の姿をぜひ見たいと思ったのです(本ブログ136『帰れるか、帰れぬのか~南相馬 苦き風評からの再起 その2』参照)。
 1本1本の花の密度と背丈が整った生育ぶり、花びらの黄色の濃さ、それらが溶け合った景色の見事さは想像以上でした。「農地再生協議会の活動に刺激されて菜種をまく農地が増えたが、大抵はまきっぱなし。花が疎々としか咲かない。われわれは最終的に油を搾ることが目的なので、菜種の量をできるだけ多く取れるように育てねばならず、しっかりと追肥をやっているんだ」。手塩に掛けた春の楽園の真ん中に立った杉内さんの言葉に、地域の復興を目指す篤農家の気迫がにじみました。
 「原発事故からの5年を考えると、放射能の汚染さえなければ、みんな、震災後の生活、生業の再建に取り組んでいただろう。地域社会を立て直すには、放射能という得体のしれないものに向き合わねばならず、どう取り組んでいいかも分からず、模索の末、チェルノブイリの経験を生かせないかと考えた。その成果と呼べるものが、菜種栽培と油の商品化だった。コメをはじめ他の作物が厳しい風評にさらされた中にあって、菜種の油に放射性物質は取り込まれない―というチェルノブイリなどでの実証結果が、われわれの希望になり、活動の土台になり、思いを込めた商品になった」

 杉内さんたちの思い描く未来図は、菜種油の産地づくりだけにとどまっていませんでした。「当初から菜種油と両輪で考えてきたのが、油を取った後の搾りかすを活用したバイオエネルギーだ。地域で生み出す貴重な資源の循環利用であり、エネルギーを自給して住民の暮らしに還元することで、未曽有の原発事故の被災地として、原発事故の教訓を実践した地域社会づくりをしていける」
 その具体化のために杉内さんは4月上旬、奥村さんと共に「脱原発」を国策としたドイツのバイオエネルギー企業のプラントと、ライプチヒにあるバイオガス研究センターを視察してきました。そのプラントでは、地域の農業を担う畜産農家から出される牛の糞尿を原料としてメタンガスを製造し、地元の熱エネルギー需要を賄っています。研究センターでは温水利用の魚養殖もしており、発酵後にできる液体も肥料として農地に還元する方法も開発されています。現地で生産される主な穀物である麦も、価格が下落した場合は、バイオガスの燃料として買い入れられるといいます。
 「われわれの菜種とは原料が異なるが、地元の産業と暮らしに根差し、密着した持続的なエネルギーづくりが現実であることを学ぶことができた。この太田にも、これからさらに作付けを増やす菜種の自前の搾油所を設けることが当面の目標だが、その先に、搾りかすからガスを製造するプラントの実現に取り組みたい」と杉内さん。バイオエネルギーの熱を何に使いたいのですか、との問いには「まず、高齢化社会が進むこの地域の住民たちに開かれた保養、交流の施設をつくり、そのお湯や暖房に還元できたらいい。南相馬に住み続けるための良い環境をつくっていく一歩として」。
  実際には、菜種だけではバイオガス原料を賄えない、と杉内さん、奥村さんらは考えており、「去年から、原料として期待できる飼料作物のデントコーンを試験栽培している」(奥村さん)。日本でバイオエネルギープラントを手掛ける企業も構想に関心を持ってくれているといい、「軌道に乗っていけば、将来は400~500ヘクタール規模の原料生産の農地が必要になる。(政府による避難指示解除が間近な)小高区では、農家の多くが風評のため稲作再開を半ば諦めている。そんな農家仲間に参加を呼び掛けていくことができる」。菜の花畑の上の空に、杉内さんの夢は広がりました。

 そして4月30日、南相馬農地再生協議会が呼び掛けた「菜の花畑お花見会」は好天に恵まれ、満開を過ぎた黄色の花も雨風に耐えていてくれました。杉内さんらメンバーが育てた菜種の畑を巡る見学ツアーに、今年も菜種栽培で協働する相馬農業高の生徒たち、南相馬の住民のほか、菜の花を広める活動をしているNPO関係者らが全国から参加しました。太田から市内各地に広がった菜種畑は、黄色い花の海が約70人のにぎやかな交流の場に。太田の人々が模索してきた新しい地域の生き方の種もようやく芽をふき始めました。

4月20日、満開の菜種畑にで立つ杉内さん=南相馬市原町区太田

2016年2月15日、菜種油を使った石けん「つながるオモイ」の発表会で語る杉内さん(左端)=ラッシュ・ジャパン東京事務所

3月に発売された「つながるオモイ」と、原料になった菜種油の商品「油菜ちゃん」

2月2日、原発事故を挟んで5年ぶりにイチゴを収穫する大和田さん=南相馬市原町区太田

3月12日、集会所で打ち合わせをする下太田青年団(左端が大和田さん)

3月26日、青年団が催した「下太田を考える会」

4月20日、同月上旬に視察したドイツのバイオエネルギー施設の写真を見せる奥村さん

4月30日、相馬農業高生ら約70人が交流した「菜の花 お花見会」

 

 

 

 

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