何も終わらぬ5年/余震の中で新聞をつくる154~帰るか、帰れぬのか 飯舘村比曽 その7

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 話は2015年11月30日に戻ります。この日夕方、私が5年前から東北大で受け持っている河北新報・東北大連携講座の授業に、飯舘村比曽の農業菅野義人さん(64)を招きました。メディアに関心ある大学生たちに東日本大震災と福島第1原発事故を、福島の被災者のナラティブ(当事者が語る事実)を通して、自らの体験として知ってもらえたら、と考えたからです。義人さんも快く引き受けてくれました。「震災の経験、教訓をこれからに生かしてくれる若い世代に伝えたい」と言って。
 7人の受講生が聴き入る同大川内キャンパスの教室で、義人さんは語り始めました。「大震災以後、エネルギーを含めて、われわれの生活をどう変えていけるか? その問題意識があっという間に風化しつつある。全村避難を前に『放射線量が下がったら、皆で比曽に戻ろう』と約束し合った住民の間でさえ」。講話のテーマは、原発事故と地域の共同体の行方でした。「冬になれば、比曽の人たちは月5000円を出し合ってトラクターを借り、お年寄りの家の雪かきをした。お金の問題ではなく、何代にもわたって住民が力を出し合い、支え合ってきた地域のありようだ。それが危機の瀬戸際にある」

 原発事故後の11年5月末、比曽の86戸のお別れ会が催されました。「必ず帰るぞ、この比曽へ」「比曽は一つしかないんだぞ」。集会所のホワイトボードには、住民の寄せ書きが残されました。その決意を実らせようと、「私たち比曽行政区は翌6月6日から、放射線量の定点測定を続けてきた。当初は毎時8.12~16.3マイクロシーベルトもあった。ちゃんと記録して国に線量を下げてもらい、『皆で帰るべ、再生するべ』という思いだった」と義人さん。苦い挫折を味わう体験がありました。
 「原発事故後。飯舘村は放射線量が高くなっているとの情報が流れたが、テレビで(枝野幸男)官房長官が『避難することはない』と言っていた。比曽の隣の長泥地区(帰還困難区域)の知人から『うちの嫁さんの様子がおかしい。うつのようになっている』と電話があった。その家に出掛けていって、『健康に影響はない、と(政府が)言ってるんだから、気をもむ必要はない。安心していいんだ』と2時間も説得した。少し安心したようだったが、美人の奥さんの顔つきが変わっていた。その1週間後、(政府から全住民の)計画的避難指示の方針がテレビで伝えられ、結果的に自分はうそを言ったことになった。その奥さんにとっては耐えがたい苦痛だったろう。自分がやったことがいやになった」
 「そのころ文部科学省の放射線量モニタリング測定調査があり、区長から『30マイクロシーベルトあるそうだ。義人くん、どうしたらいい?』と問われ、『マイクロだから、1000分の1、10000分の1のレベルではないのか』と答えた。当然、避難しなければならない数字だった。放射性物質の影響について知識がなかったことに、また自分がいやになった」。その挫折感が、住民が動いて調べ、自分たちの地区の実態を知り、そこから訴えよう、という自主活動を始める出発点になりました。

 それから4年余り。避難指示解除の期限は17年3月に迫っていますが、離散した住民の何人が比曽に戻る意向なのか、互いに分からぬままです。
 復興庁が15年3月に公表した飯舘村の住民意向調査(回答は全2973世帯の47.5%)によると、村民の帰還意向は「戻りたい」が29.4%、「戻らない」が26.5%、「まだ判断がつかない」が32.5%。「戻りたい」は60代の4割、50代と70代のそれぞれ約3割を占めましたが、20~40代で1割前後。回答者の大半が福島市など村の近辺に避難しており「村とのつながりを保ちたいと思う」は全体の51.5%でした=最新の調査(16年2月)では、「戻りたい」が32.8%、「戻らない」が31.3%で、前回に比べ、それぞれ3.4ポイント、4.7ポイント増えた。帰還しない理由は「避難先のほうが利便性が高い」が57.1%、「放射線量が不安」は49.8%=。
 「長年、青年会やPTAなどで一緒に活動してきた住民の3割しか戻らない。孫がおり、放射線が心配で帰れないという人、避難先で親の介護に追われている人もおり、それぞれの事情がある。だが、仮に3割が戻るとしても、全村避難前と同じ事が地域でやれるか? 戻らないと決めた人に以前のような協力を求められるか? もう、お別れ会の時のような気持ち、同じ価値観では人を導けない」

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 義人さんは、プロジェクターで原発事故前の比曽で行われていた住民活動を紹介しました。春は農作業に先立つ用水路の泥上げ、夏は川べりや道路沿いの草刈り、田植え後や収穫後の神社の祭り、冬は除雪作業。「都会の人には分からないかもしれないが、われわれにとって共同体とは、なくては生きられぬ必修科目だった。代々培った共助の暮らしを原発事故は壊した。除染後の農地や用水路、比曽に四つある神社の維持管理を取っても、わずかな帰還者の力では無理。「では、戻らない人に『共同作業に集まって』と協力を求められるか。あるいは、どんな住民の連携が可能なのか。帰還者だけが疲弊して復興があるのか。避難指示解除が再来年3月に迫るいま、地区ごとに話し合いを始めなくては間に合わない」
 講話を聴いた学生たちは、教室の黒板の前にいすを並べて義人さんを囲み、次々と質問をしました。
 「コミュニティの重要さが語られたが、互いの支え合いは村でどんな意味を持っていたのですか?」
義人さんは、自身の父親の話から答えをひもときました。「私が32歳の時、父はがんで亡くなったが、最後にこう言った。『義人、体に気をつけて頑張れよ』『組(隣組の班)の人たちによろしく言ってくれ』。弱った体で、なんで『組』の話なのかと思った。父が他界すると、組の人たちが自宅に来て、布団を下ろして葬式の準備をはじめ、すべてやってくれた」「飼っていた牛が難産の時、仲間に電話をすると、牛飼いの人たちがどっと来て手伝ってくれた」。

 農協和牛部会の委員長も長く務め、集まりは年に大小40回もありました。「夜の会合に出掛ける時など、『自分の赤ちゃんより組織が大切なの?』と家内に責められたが、お互いの助け合いだった。(繁殖させた)牛の売り値が安くて困った、と言えば、何か企画を考えようと議論し、「牛まつり」のイベントを始めた。たった1時間の雹(ひょう)で作物がだめになったり、牛が死んだり、冷害で稲がやられたり、人間1人ではどうしようもない天変地異の時こそ、支え合いに助けられた。農村では、生命保険よりも介護保険よりも大きな力だった」

 「『までい』の意味を教えてください。地域再生の指標になるのですか?」との質問も出ました。
 義人さんは、飯舘村が発信している「真手(まて・両方の手)。真心を込めて丁寧に」とのきれいな説明に賛同せず、「我慢をする」という意味合いがこもった言葉ではないかと、子どものころの思い出を語りました。「昔の村には、子どもが欲しがるいいものを売っていなかった。でも、父が身の回りの木っ端から船やそり、スキー板を作ってくれた。売っている高いものでなく、村の人は自分で工夫して作って、使った。それが『までい』と感じた」。困った状況があっても、集まって議論し、知恵を出し合い、「ないもの探し」でなく、あるものからイベントも生み出したという村人の生き方そのものでした。「その気持ちがいま、みんなの中に残っているか。難しいのではないか、と思っている」
 

 以前は、自分の住む地域が良くならなければ、自分も良くなれないという意識さえ持っていたといいます。しかし、原発事故後、避難先の個々人が賠償金や精神的慰謝料を手にし、「他人に頼らぬ自己完結な生き方ができるようになった」。その変化を、義人さんが衝撃とともに感じた出来事がありました。13年秋、環境省福島環境再生事務所から「比曽の水田27ヘクタールを仮々置き場の用地として賃借したい」という申し出が、比曽行政区にあった時です。本ブログ105『生きる、天明の末裔として その2』に、役員会でのこんなくだりがあります。
 『「役員会には借地料が示され、田んぼが10アール当たり18万円、牧野が9万円だった」と菅野さん。地区の住民の間には「除染しても、今の市場流通では、ここで作るコメに買い手がつくかどうか。それよりも、お金を得た方がいいのではないか」との意見が出たそうです。「残念だ。お金では、村は復興できない」と、菅野さんはマイクで語りました。
  「寄りかかったら、一歩を踏み出せないし、そういうお金は自助、自立の復興に結びつかない。お金で土地を売り、原発を造らせたのと一緒。除染は手段であって、目的ではないのだ。国はそれを考えない。はぎ取られるのは、結束しなくてはならぬ住民の気持ちだ」』

 その時の役員会で、仮々置き場の受け入れに反対した義人さんらに投げ掛けられたのが、「金のある人はいい。俺は1円でも欲しい」という仲間の言葉だったそうです。「原発事故は、人の関係を壊し、ばらばらにする災害だ」と義人さん。村の人々が大切にしてきた「までい」の心も壊れた瞬間でした。

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 「中間貯蔵施設(双葉町、大熊町)に放射性廃棄物(除染廃土のフレコンバッグなど)が試験搬入された、というニュースが流れていますが、どう受け止めますか?」と質問する学生もいました。政府が福島県内の放射性廃棄物(約2200万立方メートル)を搬入、集約する計画の中間貯蔵施設は、15年末の段階で地権者2365人のうち22人としか契約が進んでおらず、造成の見通しはつかず、環境省の失態を指摘する声が上がっています(本ブログ153『帰るか、帰れぬのか 飯舘村比曽その6』参照)。同省はやむなく、予定地に野積みする形で運び込み試験搬入に踏み切っていました。政府の被災地支援が進展している印象のニュースに、義人さんは「実態は全く違うと思う」と違和感を語りました。黒いフレコンバッグの山は被災地の山野にあふれ、比曽の共同墓地の真ん前にもそびえています。
 同年12月24~26日の河北新報社会面に連載「中間貯蔵施設 故郷を手放す 福島・原発事故の現場」が出ました。予定地とされた両町の地権者である住民たちの生の声が伝えられています。


 『自宅や畑が中間貯蔵施設になるという話を聞き、インターネットで確かめた。環境省は何も言ってこない。地権者との用地交渉が進まず、建設が遅れている-。そんな報道を見て、頭に血が上った。
 「連絡も寄こさないくせに、地権者を悪者にするつもりか」。福島環境再生事務所の電話番号を調べ、問いただした。ことし11月中旬、相談窓口などが書かれた封書が届いた。』
 『施設をめぐっては、搬入開始から30年後に廃棄物を福島県外に搬出することが法律で定められている。廃炉が進み、除染などで放射線量が下がれば、帰還できる日が来るかもしれない。営農再開は難しくても、先祖伝来の土地に子孫が戻れる選択肢を残したい。
ただ、多くの地権者は県外搬出には懐疑的だ。「結局、最終処分場になるんじゃないか」「だれも戻らないんじゃないか」。地区の集まりでは、決まってそんな話になる。賃貸契約に返還時期を明記するよう求めるつもりだ。それが6代目の責任だ。』
 『「最後は金目でしょう」。2014年夏、施設をめぐる(石原伸晃)環境大臣の発言に耳を疑った。地権者説明会でも、土地などの補償方針を一方的に説明する国の姿勢に違和感が募り、途中で席を立った。受け入れは「県や町が勝手に決めた」との思いが今も拭えない。』

 「復興を求め、語るべき本当の主人公は、国でも県でもなく住民だ。そこへ戻ろうとする人にとってどうなのか。それを突き詰めないと、国の大規模な事業の陰で、復興の意味が分からなくなる」。義人さんは話を飯舘村に戻し、こう語りました。「多額な国の予算を投じた事業の末に、人が戻らなくては復興と言えない。地方が国のやり方に巻き込まれる、これまでの流れをいまからでも変えないと」
 飯舘村は「までいな復興計画」(第5版)に「復興拠点エリア」整備を掲げています。中心部の深谷地区の県道に道の駅とミニスーパー、交流ホール、イベント広場、花栽培施設、災害公営住宅などを備えた大規模施設を、国の復興加速化交付金で17年3月までに造る予定です。政府の避難指示解除要件である公共インフラ、住民サービスの復旧にもかない、新しい村の顔にふさわしい施設と位置付けています。この事業が「復興の目玉」とされていることに、義人さんは疑問と危惧を抱いていました。利便性はあっても、「人が帰って生活していく『地域』とのつながりがどこにもないから」と。
 

 同じ危惧は、飯舘村が15年10月から会合を重ねている「営農再開検討会議」にも向けられます。この会議は村の畜産、花作り、イチゴ栽培の農家、農協や農業団体の関係者、福島県職員らを委員(9人)に、「(避難指示解除後の)営農再開に向けて目標となるビジョンを明確にし、もって飯舘村の農業の復興に資する」(設置要項より)狙いを掲げています。ただし現場の声を吸い上げて計画を練る場ではなく、復興計画にある農業分野の目標を具体的な施策として提案し、委員に認証してもらう審議会で、メニューの大半は国の農業復興関連事業を組み合わせた内容です。「生きがい農業」「なりわい農業」の選択と共存、「営農再開の意欲の高い人を先行的に支援する」「20行政区の農地保全を図っていく」「未来の農業者の育成を図っていく」などを掲げ、あらかじめ事業ごとに示した数カ年の実施スケジュールを遂行する先に「復興」のゴールがある、という村主導のシナリオが描かれています。
 「村が主眼を置く『意欲ある人』とは、地域を離れた『点』でしかない」と義人さん。そのあり方は、やはり村が目玉とする「復興拠点」の姿に重なります。「一握りの人たちの挑戦がもし破綻し、孤立した時、その後ろに地域の支えも助けもないとしたらどうなる。国に頼った復興は失敗してしまう」
(その後、16年2月10日にあった3回目の営農再開検討会議で公表されたのが『営農再開に係る意向等アンケート』(農家台帳に登録された1196人が対象)。避難先の632人から回答があり、再開の意向がある人は29%=『なりわい農業』希望者はその11%=。再開の意向がない人は64%、除染後の農地の管理・保全もしない―と答えた人も47%に上り、離農の加速が鮮明になりました)

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 東日本大震災と福島第1原発事故から丸5年となった16年3月を過ぎて、4月2日、3人の東北大生生が飯舘村比曽を訪れました。東北大学新聞部の越田健介さん(19)、片山篤規さん(19)、千葉麻菜美さん(20)。1年生だった前年、河北新報東北大連携講座を受講し、義人さんがゲストに招かれた講義に参加しました。東北大学新聞でも「震災から5年」を3回にわたって特集することになり、「義人さんを比曽に訪ねて、講義だけで分からない村の現状を伝えたい」と希望したのでした。
 のどかな春の村を黒く埋めるフレコンバッグの山に言葉を奪われながら、3人が胸に抱いた関心はやはり原発事故とコミュニティをめぐる問題。「長年の仲間が他人のようになってしまう。復興したくとも、それを担う人の力、絆がなくなる。一番必要なもので、国のお金では買えないもの」と越田さん。「被災地の外にいる人は、『復興は進んでいる』という情報を鵜呑みにしている。積み上げてきたものが一瞬で崩れたことのやりきれなさが、義人さんの表情や言葉にあった」と片山さんは話し、千葉さんも「(来年3月に)避難指示解除になると聞いて、だいぶ状況が良くなったのかと思っていた」。リフォーム工事が終わった自宅で再会を果たした3人は、居間のテーブルで義人さんを囲みました。

 「人生でこれほど大きな変化はなかった5年であり、空白の5年だった。専業農家の仕事、地元での活動が一切できず、牛も処分した。家族もばらばらになった。(二本松市内に)避難してからは地域の再生を思い、くまなく線量を測り、どんな課題があるのかを手探りし、皆が戻れるための一番いい対処を訴えてきた。だが、原子力災害では国が関与している点が、経験になかったこと。それまでは村と住民の顔の見える関係だったが、例えば環境省の除染方法の要望などはストレートに伝わらない。諦めずに話し合いをしてきたが、地元の声を国の政策に反映できる余地は少ないのが現実。仲間には諦めが出ているが、若い人が帰ってくれる環境を取り戻すためにも線量を下げるよう訴え続けていく」


 「ただ、政府の姿勢は、戻りたい人は戻ってください、そうでない人は戻らなくていい、という自己判断、自己責任を被災者の側に投げ掛け、地域の価値観になかったお金を絡めて『分断』を生じさせた。それぞれの関心もばらつき、距離も気持ちも遠くなるところに『●○さんは福島市に新しい家を建てたそうだ』といった話を聞かされ、複雑な思いを募らせた。幸せとは、人と人が信頼関係をもって一緒に生きられること。『お前だけが良くなっても、だめなんじゃないか。みんなのレベルが上がらなければ』『お前は、おやじ(父親)の苦労を知っているのか』『少し学校で勉強したからって、いい気になるな。ここでは通用しないんだぞ』―人生で聞かされた厳しい言葉の数々も、人を教え、育てる地域の力だった。多少考えは違って議論しても、同じ地域や組織で生きる者同士だからこそ、一緒に力を合わせて活動できた。農村のコミュニティの本質だった。原発事故は、それを断ち切った」

 どうすれは避難指示解除後の村に、その本質なる魂を取り戻すことができるのか? 国主導の復興事業とは違う、飯舘村らしく住民が主体となって地域から「までい」に取り組む復興の道はないのか? その自問と格闘し、義人さんがたどり着いた提案があります。15年11月13日に福島市内であった、村の復興を論議する有志の定例会で発表しました。「飯舘村地域再生プラン」という名前です。東北大生3人の比曽訪問から4週間後の4月30日、私は義人さんを再訪し、その話を聴きました。

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 『長引く避難生活により、それぞれの家庭を取り巻く環境は大きく変化し、帰村する村民の激減、高齢化により、各地域の再生に関しては大きな困難が予想される。
また避難指示解除後の課題に対し、現在進められている拠点整備を中心とした復興政策のみでは、十分に対応できるものとは思えない。
 戻りたいと考える村民が、村で生きるための道を見出すことができ、生きるための糧を得ながら、戻らないと決めた村民とも連携を図ることが出来れば、必ず村の再建につなげることが可能であろう。
そのためには、自分たちの地域は、その地域で決められるような裁量権と財源を確保することで、自主性・主体性を発揮できる仕組みができる。
 しかも、多くの村民は、賠償がなくなれば、収入の道を絶たれた状況となることから、生きるための糧を得ることと、地域づくりを行うことを連結して行えることが重要である。
また、生活の基盤は集落にあることを認識したうえで、地域再生のためには、状況の変化に対応しながら集落機能の再生しなければならない。』

 義人さんはプランを作った理由と採るべき方策をこう記し、村独自の「飯舘村地域再生基金」の創設を提唱しました。各行政区に分配して、住民が自らの地域の再生計画を作り、実践していくための基金です。それを活用するプランは、17年3月の避難指示解除を前にした16年度から10カ年にわたります。これまで報告してきた義人さんの疑問や問題意識を形にしたものであると分かります。
 最初の16年度は行政区ごとに、急を要する「帰還」についての住民の意識調査、公的資源である農地・農道・集会所・神社などの維持管理の方法、人口減が明らかな行政区の組織運営と活動・事業の見直し、新たな現実で可能な地域づくりの企画、放射線を下げるなど住環境整備の継続的な取り組みや、村外に家を建てるなど「戻らない」意向である住民との連携の検討ーなどを挙げ、それを基にした「地域再生計画」の策定を挙げています。
 避難指示解除後の3年間は、国と「点」でつながる補助事業でなく各行政区の帰還農家が協働する営農再開支援事業や、孤立の恐れがある高齢者の生活を地域で支える事業などが挙がります。4年目から6年間は、帰還後の現実に合わせた計画修正と必要な事業を検討し、次世代の帰還と参加を促す新たな産業興し、他地域や都市の人々との交流、集落を超えてつながる活動や事業を展開する―といい、財源として村地域再生基金から、地区ごとに毎年1000万円を、10年間分配する構想です。

 地域再生プランは、15年5月にあった村幹部と比曽行政区の懇談会で響いた『「復興計画案を読む気にならない。計画案がいう『復興』は村の中心部だけ。比曽など周辺地区は後回しなのか。(中略)周辺地区は、住民が自分たちで考えてやれ、と言われているようだ。どうしたらいいの? どういう暮らしをしたらいいのか? 私が帰りたい所の計画を立ててほしい」』(本ブログ132『 帰れるか、帰れぬのか~飯舘村・比曽 その3)という住民の率直な訴えを形にしたものでした。

 その原点には、「周辺地域」とされた反骨から比曽など7行政区が原発事故前年まで開催した住民交流の「わいわいがやがやサミット」があり、あるいは村が各行政区に1000万円ずつを分配し、住民の「地区別計画策定委員会」が議論を重ねて10年間で実らせた自主事業がありました(比曽行政区はミニ公園や比曽地区史などを手作り)。「飯舘という村の個性も強さも地域の力、議論する力にあった」と義人さんは力を込めました。
 

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 飯舘村は、「平成の大合併を拒否した村」でもありました(以下は04年9月8日の河北新報より)。
『福島県飯舘村の菅野典雄村長は7日、原町市、鹿島町、小高町と構成する南相馬法定合併協議会から離脱する考えを明らかにした。同日開会した村議会9月定例会に、法定協離脱の議案を追加提案した。離脱理由について菅野村長は「山間部の飯舘村は3市町と環境が違い、分権分散型合併への思いに温度差がある。自立の道を選ぶことが最善と判断した」と述べた。議案は17日に採決される。』
 当時、村議だった義人さんも離脱に賛成しましたが、村議会の議案採決は8対9の僅差で否決。菅野村長は翌10月にあった村長選(任期満了)で「飯舘村の自立」を住民に訴え、反対派候補と「離脱か合併か」を争いました。「合併しないと、国から金(合併特例債)が来ない。村の将来もない」「国は厳しい財政見直しを迫ってくる。小さな村は生きていけなくなる」と反対陣営は危機をあおり、「合併すれば、農林業以外に産業がない村も豊かになる」とのバラ色のチラシをまいた、と義人さんは振り返りました。「それに対し『飯舘らしい自立の村づくりを』という自分たちの訴えは『我慢のプラン』。だが、まさしく『までい』の精神だった」。住民ぐるみの議論は451票差という大激戦を生みました。
 「選挙が終わっても、そこから村としてどうやって、また一つになってやっていけるか、という新たな議論が村議会の内外で始まった。村の生き方を、われわれは自分たちで決めてきた。ところがいま、除染のあり方や避難指示解除をめぐっては、住民を挙げた議論が起きていない。政府の指示のまま、村も住民も『もう決まったこと』との態度は、村にとっていいことなのか? 避難指示を解除すれば、政府は『復興』をアピールし、被災地を自立へと突き放すだろう。いまは国の復興予算で財政が膨らんだ村も、『みんな、力を貸してくれ』と住民に求める日が、原点回帰の日が必ず来るはずだ」

2015年11月30日、東北大の講義で学生たちに語る菅野義人さん=仙台市青葉区の川内キャンパス

4月2日、飯舘村比曽に義人さんを訪ねた東北大生たち、リフォーム工事が終わった家の前で

義人さんを囲んでインタビューする東北大生たち

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