何も終わらぬ5年/余震の中で新聞をつくる153~帰るか、帰れぬのか 飯舘村比曽 その6

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 2015年12月23日、飯舘村比曽にある農業菅野義人さん宅を訪ねた日の続きです。目印の赤い屋根のサイロと棟続きで立っていた明治45(1902)年建築の母屋は、前年夏に始まったリフォーム工事がほぼ終わっていました。比曽の文化財のような家でした。
 『「4代前の先祖が建てたんだ。柱は杉と、奥の部分がヒノキ。痛みがなく構造もしっかりしていて、残せるものは残そうとやっているが、『五寸五分』といった昔の寸法なので、大工さんは大変だ。それに合わせて製材もしなくてはならない」。家主の菅野義人さん(62)は、どっしりそびえる、という貫禄で立つケヤキの大黒柱を見上げました。家と地域の縁の歴史そのものです。「ふすまを外すと、『田の字』の広間になり、昔は大勢の人が集まり、結婚式も葬式もここでやった」』(
本ブログ133『帰れるか、帰れぬのか~飯舘村比曽 その4』より)

 義人さんは、それらの黒光りする太い柱や梁をそのまま残して、避難先から帰還した後の新しい日々を生きるための場へと改築しました。黒い瓦屋根の下の白壁、こげ茶色の板壁が美しく、比曽の昔ながらの風景と生き方を受け継ごうという気概が込もる家です。ちょうど地元の男性が立ち寄り、内装工事の途中だった母屋を一緒に見せてもらいました。
 古い蔵と並んで立つ納屋の解体工事がひと月遅れているといい、「そこから、雪が本格的に降る前に少しずつ家具を運び込みたい。いっぺん積もると(標高600メートルの比曽の)寒さで凍りついて、作業ができなくなるから。これから大工さんが棚などを作っていくが、この家の歴史が一緒に生きる家になった」。義人さんがそう言って指さしたのは、天井近くに掲げられた立派な屋根のある神棚でした。一辺5~6メートルある部屋の壁いっぱいの横幅で、高さは1・2メートルほどにも見えます。私はかつて東北の民俗信仰の連載取材で遠野地方(岩手県)のオシラサマをまつる家などを訪ね歩きましたが、これほど大きな神棚を見たことがありません。深い飴色になった神棚の奥の板には、「明治四拾五年壱月六日 大工 越後之国蒲原郡 相馬駒吉 戸主 菅野義久(ぎきゅう)」と墨書されています。 

 「博物館を作るつもりか?と大工から言われた。梁に付けた電気の碍子(がいし)も、昭和20年代、電気が初めて通った時のものだ」。部屋の欄間もそうですし、玄関の格子天井は江戸時代からあった前々代の家から受け継がれています。「藩の侍を泊めた部屋にあったそうだ」。菅野家は代々旧比曽村で、旧相馬中村藩から武士の身分を許された肝入(きもいり・名主)でした=慶長12(1607)年、比曽を開拓した初代の白幡但馬から、義人さんは15代目=(本ブログ106『生きる、天明の末裔として~飯舘 その2』参照)。
 前年7月に訪ねた折、解体工事中だった母屋の大黒柱に触れながら、義人さんが語った言葉がよみがえりました。福島第1原発事故に暮らしを奪われ、放射線量を減らす闘いの中で、「それでもわれわれが頑張れるのは先祖たちの努力を思い返せばこそ。できることは、それを引き継いで後世に残すこと。『すっぱり壊して新築すればいいだろう』と言う人もいる。が、引き継ぐべきものがあるから、帰還後、ここで生き続けるための基軸になる」。

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 少し高台にある義人宅からは、比曽の小盆地の真ん中を占める広い水田の風景を望めます。が、いま見えるのは、時とともに増殖する真っ黒なフレコンバッグの山。15年度から始まった農地除染とともに汚染土の仮々置き場の造成も広がり、比曽の農家が優良農地に肥やした約60ヘクタールの水田のうち約半分、27ヘクタールを埋めていきます。「最低でも3年はそのままだろう。黒い袋で古里が埋まっているのを見た時、比曽に戻ろうとしていた人はどう思うか。戻ってまた農業をやろう、という気持ちもなえるのではないか」。義人さんのこんな言葉を、本ブログ133回「帰れるか、帰れぬのか~飯舘村比曽その4」などで引用しました。『「比曽の真ん中の一番いい農地に置かれたら、復興の妨げになる。われわれは、どうやって復興すればいいんだ?」と(環境省の現地担当者に)質すと、「それは、こちらの管轄ではない。早急に除染を進めたいためだ」との回答だったそうです。』
 政府は17年3月までの避難指示解除を飯舘村などに通告したにもかかわらず、義人さんが「住民の帰還への意欲がなえる」「復興を妨げる」と懸念した通り、仮々置き場は、住民が帰還するか否かの判断をする最も大切な1年余りを超えて居座ることが確実でした。そして、避難指示解除を迫られた当事者の住民に対し、環境省からの釈明はありません。この1週間後、12月30日の河北新報に、汚染土の排出先である中間貯蔵施設の用地交渉の遅れと被災地へ居座りを、復興の最大の課題になったと指摘する社説が載りました。

 『東京電力福島第1原発事故で発生した除染廃棄物を保管する中間貯蔵施設の用地交渉が難航している。福島県が昨年8月に建設受け入れを決定してから1年4カ月が経過した。建設予定地の大熊、双葉両町の地権者2365人のうち、契約がまとまったのは22人。県内各地から廃棄物を運び込む試験輸送がことし3月に始まったにもかかわらずである。
 施設は第1原発の周囲に建設予定で、周囲は帰還困難区域だ。大熊、双葉両町の全住民が避難しており、地権者約1000人と連絡が取れていない。うち約560人は既に死亡したという。(中略)試験輸送は、予定地近くの一時保管場に県内43市町村から廃棄物を1000立方メートルずつ運び込む。来年3月まで約4万3000立方メートルを搬入する計画だが、最大2200万立方メートルと推計される廃棄物のわずかにすぎない。
 試験輸送が円滑に進んでも、用地の確保が進まなければ、本格輸送に移行できまい。県内には除染廃棄物の仮置き場が約1000カ所、住宅の庭先などの現場保管が10万カ所以上ある。廃棄物が山積みのまま各地に仮置きされる状態が続いているのである。』

 義人さんは原発事故前、稲作と和牛の繁殖を営んでいました。計2.4ヘクタールの水田はいま、仮々置き場の下に埋まっています。自宅裏に大きな牛舎がありますが、がらんとして、当時飼っていた36頭の牛たちの名札が残るだけです。農協の和牛部会長などを務めた菅野さんは、原発事故と全村避難のさなかで起きた牛たちとの別離を回想しました。
 11年6月下旬、「牛を積んだトラックが連なって家畜市場へ処分に向かった。苦労して築いた産地が音を立てて崩れた日だ」。よろよろして歩けない生後1週間の子牛までも両腕で抱えて競りに出し、「牛飼いとして、やってはいけない罪悪を犯したと思った」と言います。「大冷害があった1980年の夏だった。稲が褐色になって壊滅した中で青々と茂る牧草を食べる牛たちに、俺たち農家が救われた」「空っぽの牛舎を見て人生の全てを失ったと感じ、避難するのを忘れて寝込んだ。もう牛を飼ってはいけないのではないか、と自責の念に今も苦しむ」(
本ブログ143回『生きる、飯舘に戻る日まで⑦ 牛たちの哀歌』参照)
 牛舎の裏山には、牛たちが遊んだなだらかだらかな牧草地がありました。農地除染の一環で草と表土を剥ぎ取られ、見渡す限りの土色が広がっています。水田の利用を仮々置き場に阻まれた状況でにあって、「この牧草地跡を一から耕して畑にし、帰還したら当面、野菜を作ろうと思う」と義人さん。しかし、重い工事車両を使った除染作業で土は踏み固められ、雨が浸透しなくなって、水が地表にあふれていました。「排水不良では作物が育たない」と避難先の二本松市から通い、小型重機で延長計160メートルに及ぶ地下排水管の埋設を独力でやり遂げたそうです。1人の開拓者に戻ったような畑開墾の第一歩ですが、その排水管の覆いに使ったのが、解体された母屋の廃材。ここでも歴史は生き続けます。
 「俺も10年後は70代。新しい家も畑も、次の代に手渡すのが自分の役目だと思う。それまで放射線量も下がるだろうし、それまで息子夫婦も孫も帰ってこれるように頑張る」

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 16年1月19日、新千歳空港からレンタカーで走る道の両側は、幸いに快晴の空の下、白銀の世界がどこまでも続いていました。1時間ほどで入った栗山町で、夏ならば広大な畑や牧草地のただ中かと思われる雪原に、大きなビニールハウス群が見えてきました。
 義人さんの長男、菅野義樹さん(37)はストーブのあるプレハブの休憩室に招き入れてくれました。「ゆうべ、子牛が生まれたんです。難産でなくてよかった。体重の計測をするのに、まもなく妻もここに来ますよ」。比曽の実家で父と一緒に農業に取り組んできましたが、福島第1原発事故のため、北の栗山町で避難生活を送りながら畜産を再開しました。
 まぶしい日差しを通すパイプハウスの広い牛舎に、生まれたばかりの子牛の鳴き声が響きます。義樹さんが大事そうに子牛を抱え、二つ並べた小型の体重計に乗ると、かがんで数値を注視していた妻美枝子さん(42)が「35キロあるよ」。義樹さんは「メスでは大きい方だ」と顔がほころばせました。早くも、哺乳瓶からミルクをたっぷり飲むそうです。
 牛舎2棟と、たい肥舎、乾燥室、機械室が各1棟の新しい施設。避難先での営農再開を支援する飯舘村の事業に応募し、15年9月から和牛の親牛25頭を飼い、家業だった繁殖を始めました。これまで6頭の子牛が生まれています。避難するまで2人だった夫婦にも家族が増え、4歳の長女葵ちゃん、1歳の長男義暁ちゃんは道産子。葵ちゃんはお父さんと一緒に子牛をなでるのが、義暁ちゃんはお母さんに抱っこして見るのが大好きです。
 
 原発事故が起きて間もなく、夫婦はまず常陸那珂市にある美枝子さんの実家に避難し、4月になって全住民の計画的避難が決まると、しばらくは帰れないことを覚悟せざるを得ませんでした。「当面、自分たちで収入を稼がなくてはならない」と、仕事ができる場所を模索し、同年7月、北海道に渡りました。義樹さんは酪農学園大(江別市)、美枝子さんは帯広畜産大で学び、ゆかり深い土地です。「来た時は、こちらで農業をやるかという思い、戻りたいという気持ち、避難も長期化するなという現実の間で揺れて、夢物語の中にいるようだった」と義樹さんは振り返りました。「32~33歳のころ、ニュージーランドなどいろんな所で働き、学んで飯舘村に帰った。30代で苦労して人生の基盤をつくらないと、その後に響くと考えていた。ところが、原発事故の後、ずるずると国に引きずられ、このままでは自分の人生を喪失すると焦った。自ら動いて人生を取り戻さなくては、と思った」

 空港や札幌から近い長沼町(栗山町の西隣)の野菜作り農家で1年間、研修をしましたが、「やはり違った。小さい時からおやじを手伝った和牛をやりたい、という答えを見つけた」と義樹さん。自分の原点から生活を再建しよう、決意が固まりました。栗山町は人口減や農業後継者難もあって、新規就農者や移住者の受け入れ・支援に力を入れており、「再出発の拠点をつくろう」という希望にかなう土地も見つかりました。飯舘村の事業は、福島県の交付金を通じて再起に必要な施設、機材を貸与する制度で、村復興の命運を託するような悲壮なる目的を掲げていました。

 『飯舘村の農業そのものが存続の危機に瀕している。これ以上の営農休止は、担い手の営農再開意欲を消滅させることになり、これまで培ってきた 「までいブランド」の市場評価はもとより、人材と栽培技術までをも失うことになる(中略)飯舘村の農業復興の 第一歩として、避難先での営農再開を支援するものである』

 「動くことで『自分は何をすべきか?』という焦りは薄れていった。まず、自分の生活から再建しよう、と。だが、このまま飯舘村から離れてしまうのではないのか? 俺は長男の務めを果たせないのに、おやじたちだけを村で頑張らせていいのか? そんな葛藤は消えなかった」

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 いま、牛舎で餌にしている牧草は「チモシー」という栄養に優れた寒冷地種。義樹さんは自前で7ヘクタール分を栽培し、それでも足りなくて、地元の農家から安価に仕入れている。「チモシーは内地の暑さに向かないので、福島県での作付は少なく、畜産農家は子牛の餌に高値で買っている。が、ここでは2割のコストで作っている。おやじが昔、チモシーの種を試しにまいていた。その意味をここで知った。標高600メートルの比曽なら、自給を大きくやれると思う」。遠い北海道で農業に挑むことで、飯舘村が見えてきました。
 栗山町は麦の生産も多い土地です。麦わらは牛舎の敷わらに適しており、「牛の堆肥との物々交換で、麦を栽培している農家からもらえる」。牛舎で牛ふんと交じった麦わらも良質の堆肥になり、それを畑にすきこむことで地力を富ませます。「農家が支え合う循環がここにはある。自分も飯舘村でやりたかったことだ。将来、飯舘村に帰って新しい農業を志す農家同士で、牛の餌の自給を含めて、地域を超えた循環の仕組みをつくれたらいい」
 義樹さんは大学を卒業後も4年間、実習教員として現地で過ごしましたが、北海道にあらためて来て、農業の先進地であること、「寒い所は遅れた地域」という内地の価値観とは逆の視点があることを知ったといいます。「飯舘村の良さも、おやじたちが模索してきたものも、いま学べている。新しいヒントや技術、経営のノウハウを身に着けた人材として飯舘村に帰り、復興に貢献したい。それが、自分がやるべきことだと思えるようになった」

 牧舎での取材を終えて、そこから車で栗山町の中心部に向かい、義樹さんが家族と暮らす家を訪ねました。以前は教員住宅で、町が新規就農者向けに貸しています。ちょうどお昼の時刻。キッチンのテーブルに家族4人がそろい、お母さん手作りのビーフハンバーガーをそろって頬張りました。美枝子さんはサラリーマン家庭で育ちましたが、父方の実家は農家で、「(畜産大の)学科は畜産でなかったけれど、サークル活動で付属農場の乳しぼりや畑仕事のボランティアをした」。義樹さんとは農業系のイベントで知り合って10年8月に結婚、比曽の両親と同居していました。その5カ月後の福島第1原発事故でした。
 「子どもがまだ生まれていなかったから、2人の選択で北海道に飛べた。『めぐり合わせ』があるなら、それぞれに意味あることをやるべきなのだと思う。原発事故で俺たちは生活の場、仕事の場を一度失ったけれど、当たり前に農業ができること、家族と一緒にいることの幸せをしみじみと考えられるようになった」。義樹さんはこう語り、さらに続けました。
「いまはおやじや(菅野)啓一さん(
本ブログ152『帰れるか、帰れぬのか~飯舘村比曽その5』参照)に、比曽のことをお任せしているが、やるべきは、ある現実を受け入れ、次に続く若手として農業を学ぶことだ。昔、高校進学前に両親は『自分に合う道があるなら決めればいい』と言った。でも、両親が誇りをもって農家の仕事をしている姿に、自分は迷わず相馬農業高を決めた」。そんな義樹さんの思いこそが、義人さん、啓一さんにとって、いまを踏ん張ることができる希望なのだ、と聴いていた私には分かりました。

 異郷での苦い思い、内なる苦闘もありました。「(原発事故被災地の)除染なんて無駄。なんで莫大な国費を掛けている」「危険な所から逃げてきてよかったね」と初めのころ、町の人から言われたそうです。「安全・危険で決めてほしくない、かけがえのない村なのだ」と歯を食いしばりましたが、最近は、飯舘村の実情を分かってくれる人が現れたそうです。「汚染牛を打って補償金をもらっているのか」という言い掛かりを投げつけられたこともあり、「自分も避難前に被ばくしたし、父はわが身を切られる思いで牛を処分したのに」と悔しさに耐えましたが、後になって相手は「申し訳ないことをした」と謝ったそうです。

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 義樹さんが大学卒業後の4年間、実習教員をしたとご紹介しましたが、その当時、東京の子どもたちが来て「乳搾りをしたら、すごく温かい」と喜ぶのを見て、「農村は価値ある教育の場だと気付いた」。札幌や新千歳空港、苫小牧からも近い栗山町などの地域には遠来の親子旅行が訪れ、さまざまな農業体験やファームレストランもあります。「都会の人が憩える農村空間を飯舘村で提供したい」という夢も膨らんでいるそうです。長年の共同体の分断という現実がある全村避難中の古里に「人と人のつながり」を取り戻したい、という願いでもあります。異郷での生活は自分だけの力でなく、さまざまな「つながり」の中で農業を営み、暮らしていると実感している、それを飯舘村に持ち帰りたい、と義樹さん。
 うまいイタリアンで評判の「オステリア デッレ ジョイエ/Osteria delle Gioie」という店が福島市にあります。震災前に知り合いからシェフを紹介され、そこに昨年、肉を提供したそうです。「ブランドだった『飯舘牛』は、しゃぶしゃぶに合う肉という定評だったが、ジョイエのシェフには赤肉を使ってもらった。『菅野さんの肉とワインを楽しむ会』という催しで。震災を考えるイベントなどで使ってもらっている」「『東京朝市 アースデイマーケット』(毎月1回、代々木公園)を催している人とも出会ったが、その人も福島に足を運んで福島産のものを使って、伝えてくれている。不特定多数の消費者に流通させる、という従来のやり方でなく、しっかりと目に見える人に、こちらの思いを乗せて的確に届けたい。そんな『つながりの経済』を広げていけたら、『風評』の壁もきっと破れる」

 義樹さんは、福島第1原発事故の翌年、飯舘村の若い世代の有志7、8人を中心にした議論の場「対話の会」を立ち上げました。福島市内の会場にたびたび集って、さまざまな立場、考え、視点を突き合わせて意見を交換し、古里の未来のこと、それぞれがどう生きて何をすべきか―などを話し合ってきました。その仲間が昨年、栗山町に義樹さんを訪ねてきました。牛舎からは続く広々とした農地と、その向こうの地平線を縁取る夕張山地を眺めて、こう漏らしたそうです。「まるで、比曽のようだな」。その風景に義樹さんも、いずれ帰る古里を重ねています。

 比曽のランドマークのように鮮やかな赤い屋根。本稿の冒頭でも触れた菅野家の古いサイロは、「祖父が北海道にあこがれて建てた。自分が生まれた時に植えてくれた記念樹はシラカバだった」と義樹さん。「これも、めぐり合わせなのかもしれない。いま、ここに生かされている、という思いが強くなる」

 

2015年12月23日、リフォーム工事が進んだ母屋で、古い家から受け継いだ神棚を見上げる菅野義人さん(右)

12月23日、開墾を予定する除染後の牧草地跡に埋設した地下配水管を見る義人さん

16年1月12日、比曽の共同墓地の真ん前に積み上がった汚染土のフレコンバッグ

1月12日、義人さん宅の母屋で、比曽のこれからを語り合う菅野啓一さん(手前)と義人さん

1月17日、北海道栗山町の新しい牛舎で、生まれたばかりの子牛の体重を量る菅野義樹さんと美枝子さん

牛舎でミルクを飲む別の子牛を見守る義樹さんの一家

夕張山地に地平線を縁取られた、古里比曽に似た栗山町の雪景に立つ義樹さん

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