何も終わらぬ5年/余震の中で新聞を作る158 飯舘村~オオカミ絵、よみがえる

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 全村避難中、突然の焼失
 火災が起きたのは2013年4月1日の早朝でした。福島第1原発事故のため全村避難指示が出されていた福島県飯舘村佐須の山津見神社。突園の変事の報を、地元佐須地区の人々は福島市飯坂温泉で聞きました。それぞれに避難生活中の住民が集っての総会が前夜に催され、会場の宿に泊まり合わせたのでした。
 「車を飛ばして神社に着いたのは、それから1時間後。すでに鎮火はしたが、拝殿も宮司の家も焼けていた。目の前のことが信じられず、真っ白になった頭に『奥さんの遺体が見つかった』という消防団員の声が聞こえた」。氏子総代の農業菅野永徳さん(75)=伊達市内の仮設住宅に避難中=はこう振り返りました。
 亡くなったのは久米隆時宮司(84)の妻園枝さん=享年(80)=でした。山津見神社の宮司一家は、64世帯の全戸が氏子である佐須の住民、神社を心のよりどころとする人々のために―と原発事故後も社務所、拝殿を開けて日参していました。
 「原発事故、避難生活がなければ、皆がすぐ駆け付けることができたのに」。住民たちはそんな痛恨の思いを抱えながら1週間通って、焼け跡の片付けの作業を続けました。「火災とともに歴史がぷっつりと断ち切られた気がした。山津見神社があって、自分たちの暮らしも文化もあったんだ」と、永徳さんは語りました。
 山津見神社の拝殿裏にそびえる標高705メートルの虎捕(とらとり)山は、火災で杉木立の一部が黒焦げになりましたが、大規模な延焼を免れ、山の神をまつる山頂の本殿は無事でした。そして、焼け残ったもうひとつのものが、拝殿前の阿吽一対の狛犬。もともと獅子が起源ともいわれる守護獣ですが、山津見神社の狛犬像はがっちりとたくましく、たてがみと牙があり、大きな耳をピンと立てて、目をらんらんとさせた姿で、明らかにオオカミです。私が火災後の神社を訪ねたのは4月6日。境内では重機が忙しく動き、焼け残った柱や瓦、コンクリートの塊などが残るだけでした。が、狛犬たちは炎と熱で焼け焦げ、表面の一部がはげ落ちながらも、変わらぬ精悍な表情で立っていました。
 1051(永承5)年創建という神社の由緒書きにはこうあります(以下は大意)。「およそ900年前、この地方に橘墨虎という屈強な兇賊がおり、住民を襲い、地元の豪族を従えた。都から奥州に赴任した源頼義が住民の訴えを聞いて墨虎征伐に立ったが、苦戦した。その折、山の神が夢でこう告げた。 『墨虎を討ちたければ、白狼の足跡を追え』。家来の藤原景道が命を受けて山中に入ると、獣の足跡が点々とあり、ひときわ突き立った岩の窟(あな)に墨虎を見つけた。逃げようした背中に、景道の投げた短刀が刺さった。頼義は山の神に感謝し、祠を建てて虎捕山神とたたえ、土地の名も『佐須』(刺す)となった」

 そのような伝承とともに、山の神の使いの白狼は山津見神社を守る狛犬となり、氏子からは「ご眷属(けんぞく)様」(従者)と敬われてきました。源頼義は息子・八幡太郎義家と共に奥州で奥六郡の主・安倍氏との前九年の役を戦いましたが、橘墨虎の伝説には東北の先人である蝦夷との抗争が生々しくなぞらえられているように思えます。日本の神仏の歴史以前、縄文時代から現代まで脈々と流れてきた東北の自然信仰にも、あまりにリアルなオオカミの狛犬は重なります。

 11年6月以来、佐須の自宅を拠点に生業再開の実験に取り組み、私も取材の縁を重ねる農業菅野宗夫さん(64)=飯舘村農業委員会委員長=に、住民と山津見神社とつながりについて聴きました。「佐須の里の一年は正月、住民が神社に集まっての村祈祷(きとう)で始まり、家内安全のおはらいを受ける。盆は先祖供養のお札を受け、旧暦9月は水神の幣束、年末は『かまど』神の幣束をもらう」。地区のお葬式も神式で、原発事故の全住民避難後は、神社の禰宜(ねぎ)がそれぞれの避難先の葬祭場に出向いて拝んでいるといいます。その絆を一目で伝えるのは、菅野さんの自宅はもとより、家々の玄関に貼られた火難盗難除(よ)けの護符。山津見神社は狩猟、林業や鉱業の神、田の神、酒造りの神、安産や良縁の神でもあり、山村に生きる住民の暮らしを守り、豊かな恵みを授けます。護符に描かれているのが、やはりオオカミなのです。それゆえに、永徳さんは「佐須の歴史、住民をつなぐ絆をぷっつりと断ち切られた思いだ」と嘆きました。
 火災が起きる2カ月前、その古い信仰の里を訪ねてきた研究者がいました。和歌山大観光学部教授の加藤久美さん(55)とオーストラリア人の特任助教で写真家のサイモン・ワーンさん(59)。加藤さんは、土地の食文化、環境を観光に生かす「地域再生」を研究のテーマとし、地元和歌山の熊野古道、鯨文化の太地町などをフィールドにしてきました。ニホンオオカミの研究も活動の一つです。1905年(明治38)年に奈良県吉野村で捕獲されたのを最後に目撃例が途絶えたとされています。「ニホンオオカミは野生の生態系の頂点にあり、自然と人との関わりの象徴だった。その絶滅によって失われた自然とのつながりを、いまに取り戻せないか」と、オオカミをめぐる信仰の記録と記憶を全国各地に調査する中で山津見神社を知りました。

託された「復元」の使命
 オオカミの狛犬は、埼玉県秩父の武甲山三峯神社、釜伏神社などにもあります。山津見神社と同じく「ご眷属(けんぞく)様」の名でまつられ、春に山から下りてシカ、サル、イノシシなどから田畑を守る農耕の神になり、秋の収穫後、山に帰るそうです。しかし、山津見神社には全国にも類例の少ない文化遺産がありました。それは拝殿の天井を埋めた237枚のオオカミの絵。民俗資料、文化財として知られておらず、「オオカミ絵について書かれた希少な文献(執筆者は、やはりオオカミ信仰を研究する宮城県村田町歴史みらい館の石黒伸一朗さん)の記述を読んだのが、縁の始まりになった」と加藤さんは振り返りました。神社に電話をしたところ、園枝さんが快く調査を受け入れてくれ、12年12月26日に初めて訪れた拝殿で天井絵を仰ぎ、その壮観に驚いたといいます。その時、「絵が傷んできて、保存状態がよくないの。何の記録もないし」と心配する園枝さんの言葉を聞いて、翌13年2月4~5日に山津見神社を再訪。「せめてデジタル画像に保存しよう」と、ワーンさんが約5メートルの高さの天井絵を1枚1枚、カメラに収めました。「それをまとめた写真集が3月末にできあがったので、園枝さんに届けようとしていた矢先、神社の焼失と園江さんの悲報を知った」と加藤さん。想像もしない巡り合わせになりました。
 「何もかもなくなってしまった」。衝撃を受けて山津見神社に飛んできた加藤さん、ワーンさんに、焼け跡にいた禰宜(ねぎ)=当時=の久米順之(じゅんじ)さん(47)が口を開いたそうです。焼失前に撮影したオオカミの天井絵の写真集を手渡すと、久米さんは「ああ、残ったのはもうこれだけだ」と声を絞り出しました。237枚の絵のオオカミは、目をむき、ほえ、跳ね、戯れ、草花の下で眠っています。まるで、もう一つの「鳥獣戯画」(京都・高山寺)のよう。彼らがこの地で確かに生きていたことの証しであり、ニホンオオカミ絶滅の運命を唯一免れ、生き延びた群れのようでした。
 久米さんが漏らした言葉に、加藤さんは予期せぬ衝撃を受けたといいます。見ず知らずの研究者の調査を歓迎し、天井絵の行く末を案じていた園枝さんから、「復元を託す遺言を、自分は受け取っていたのではないか」。会津女子高(現葵高)を卒業した加藤さんは、福島との再びの縁を思いました。「自然信仰の象徴であるオオカミの天井絵を復活させることは、福島第1原発事故の放射能が隔てた地元の人々と村の自然のつながりを取り戻す力になるのではないか」

 『福島県飯舘村の山津見神社の秋の例大祭が19日にあった。村は福島第1原発事故の避難区域に指定され、拝殿も4月の火災で全焼し、参拝者は焼け残った建物を使った仮の拝殿に向かってかしわ手を打った。
 氏子ら100人が参拝し、祈祷(きとう)を受け、プレハブの休憩所でみこからお札やお守りを受け取った。
 神職の久米順之さん(45)は「拝殿を再建し、氏子の皆さんが集まるようにしたい」と語った。
神社は1051年に建てられた。原発事故前、3日間の例大祭には出店が並び、2万人の参拝客でにぎわったという。火災で拝殿のほか、社務所が焼け、祭りは規模を縮小し、日程も1日限りで行った。神社は避難指示解除準備区域にあり、日中の立ち入りが認められている。』(13年11月20日の河北新報より)
 福島第1原発事故、火災の悲劇という二重の苦難を乗り越えて、山津見神社は地域の心のより所であり続けていました。焼け跡に設けられた仮社務所に順之が毎日通い、全村避難の中でも訪れる参拝者を迎えていました。そこで、加藤さん、ワーンさんに私が初めて会ったのは同年11月23日。偶然のきっかけです。生業や環境の再生実験、放射能測定などの活動で宗夫さんら地元の人々と協働するNPO法人「ふくしま再生の会」=理事長で物理学者の田尾陽一さん(74)ら首都圏など各地の市民、専門家ら約220人が参加) のメンバーがその日、宗夫さん宅で野菜の試験栽培用のビニールハウスを建てていました。手伝いを兼ねて取材をしていた折、「和歌山大の研究者がオオカミの天井絵の調査で山津見神社に来ているよ」と宗夫さんが教えてくれました。車で5分ほどの神社に設けられた仮社務所を訪ねたのは、日暮れが迫る時刻でした。
 加藤さんらは写真集を持参して久米順之さんを仮社務所に訪ね、「オオカミの天井絵の復元に役立てたら」と支援を申し出ました。加藤さんは元手の資金づくりにも奔走し、既に三井環境財団の助成金を申請して650万円認められており、「地元の人々がこれから、復元方法などを検討していくのをお手伝いできたら」という希望を伝えました。オオカミの天井絵について、山津見神社には「明治37(1904)年、元相馬中村藩士の宮司久米中時が私財を投じて拝殿を建て、同藩の元お抱え絵師に237枚のオオカミ絵を描かせた」という伝承がありました。氏子総代の永徳さんによると、「拝殿の天井は高くて薄暗くて、オオカミの絵はよく見えなかった。どういう価値があるものかも分からなかった。写真集を見せてもらって初めて、オオカミたちが生き生きとした姿で素晴らしいものだったと分かった」と語りました。神社関係者、氏子会は加藤さんの支援の申し出を喜び、ふくしま再生の会も協力に名乗りを上げて、天井絵復元へのプロジェクトが芽吹きました。

オオカミ信仰の広がり
 『「(オオカミの天井絵を描いた)絵師の名前までは伝わっていない」と禰宜の久米順之さん(46)。そこから先を加藤久美さんは調べ、中時と同時代を生きた旧藩御用絵師、伏見東洲(1841-1921)が作者ではないか、と推定しています。狩野派の絵師で、「相馬市内に襖絵などを残しており、その一つで、私が見ることができた襖絵の虎の絵は、表情が天井絵のオオカミとよく似ていた」と加藤久美さん。「でも、約240枚の天井絵には微妙な作風の相違も見られ、数人の絵師が関わった可能性もありそう」。東洲の当時の弟子に、相馬市出身で後に高名を成す彫刻家佐藤玄々(本名・清蔵、1888年―1963年)がいたことを、加藤久美さんは突き止めました。日本橋三越本店にある「天女像(まごころ)」が知られていますが、「上京した1905年まで数年間、東洲に絵を習っており、修行時代が、天井絵の制作時期にも重なる」。彫刻の大家となってから45年には、東京空襲で家を焼かれ、なんと山津見神社に疎開したといいます。神社滞在中も作っていたと思われる当時の作品が相馬市歴史民俗資料館にあり、それが「神狗(白狼)」でした。符合は重なります。「東洲が天井絵に関わっていたとしたら、あるいは玄々も・・」』(本ブログ『震災4年目/余震の中で新聞を作る119~飯舘の春いまだ遠く・その3/山津見神社復活(下)』=14年9月23日=より)

 天井絵復元のヒントを求め、制作過程の謎を精力的に調査していた加藤さんから「山津見神社の天井絵と同じ画風の絵が(宮城県)柴田町にある、と順之さんから教えられ、現地に行って見てきた」と聞いたのが14年5月でした。絵馬は、柴田町の「しばたの郷土館」が保存、展示しており、私も取材で見せてもらいました。四角い絵馬には明治45(1912)年の年号があり、3匹のオオカミが戯れる姿が描かれています。ワーンさん撮影の写真集の1枚とほぼ同じ図柄で、オオカミたちの人なつこい表情も重なりました。同町槻木の国井久仙という人が建てた施設「山津見神社遙拝所」(祈祷の場)に掲げられ、建物が老朽化して90年に解体された際、郷土館に寄贈されたそうです。しばたの郷土館が所蔵する遙拝所の遺物には、飯舘村佐須の菅野宗夫さん宅で私が見たのと同様の図柄のオオカミの護符もありました。久仙が山津見神社から取り寄せ、地元の人々に配ったといい、講をつくっての参拝も引率したようです。久仙にあてた中時の礼状もあり、信仰と交流の地域を越えた広がりが見えてきました。

 加藤さんとは別の機縁で、福島第1原発事故から間もない11年4月に山津見神社を訪ね、237枚の天井絵を撮影して画像データに記録していた人もいました。前述の村田町歴史みらい館副参事の石黒伸一朗さん(56)。「以前にも天井絵を見ていた。しばたの郷土館にあるオオカミの絵馬を含め、飯舘村と接する宮城県南部に山津見神社とつながるオオカミの信仰があることに注目し、原発事故の影響で村に入れなくなってしまう前に記録しなくてはと思った」と語り、焼失前の全貌をパソコン上で再現していました。石黒さんの分析で、天井絵のうち8枚の絵に現在の仙台市太白区、名取市の地名や人名、「一金五拾銭」などの金額が墨で書かれていたことが分かり、「制作時に、神社を信仰する人々が奉納したのではないか」。同年8月4日の河北新報には、飯舘村と隣接する宮城県丸森町で石黒さんが行った新たな調査の成果も紹介されました。

 『(前略)オオカミの木像やオオカミが描かれた石碑を発見した。ともに東北で見つかるのは初めてで、比較的距離が近い福島県飯舘村の山津見神社を信仰し、獣害対策や山仕事の安全祈願として祭られたと考えている。
 木像や石碑はいずれも丸森町南東部の大内地区で見つかった。木像は佐野山神社に1体、青葉山神神社に3体あり、高さは全て50センチ程度。口を開け、歯をむき出しにしている像もある。オオカミの木像は全国的にも珍しく、制作は明治期とみられる。(中略)石黒さんによると、宮城県北では、関東地方の神社の名前とオオカミが彫られた石碑があるが、オオカミだけを彫った石碑は大内地区以外にないという。
 山津見神社はオオカミの天井絵で知られ、オオカミは山の神の使いとされている。大内地区と山津見神社は直線で約15キロの距離で、かつては山越えの峠道もあった。石黒さんは「犬やキツネと誤って認識されているが、表情からもオオカミで間違いない。シカやイノシシから農作物を守り、山仕事での無事故、火難よけなどを祈るため、山津見神社の使いであるオオカミの木像や石碑を制作したのだろう」と推測している。』

無人の村に絵の存在理由
 石黒さんが理由を推し量っていますが、そもそもなぜ、山の神の使いであるオオカミそのものが信仰されたのでしょう? ニホンオオカミが絶滅したのは、明治になって薬剤が普及し、(家畜などに対する)「害獣」とみなされたオオカミが瞬く間に駆除されたため、といわれています。自然との共生から自然の開拓、支配へと人間の生き方が変わるとともに、生態系の頂点にいた肉食獣も畏怖の対象から邪魔者へと変わったといえましょう。その運命は、東北の山村を「高度経済成長期」に巻き込み、山々を杉だらけにした住宅建材木の植林ブームの陰で、自然の象徴だったブナが「ブナ退治」なる掛け声で皆伐されていった出来事に重なります。私がその理由を実感したのは、全村避難中の飯舘村で見た光景からでした。飯舘村小宮字萱刈庭の農業大久保金一さん(75)は13年から、ふくしま再生の会と協働して農地の除染実験、稲や大豆など野菜の栽試験培に取り組んでいます。希望の実りを見るはずの14年秋の惨状が上掲の本ブログ119『飯舘の春いまだ遠く・その3/山津見神社復活(下)』にこう記されています。

 『里山に囲まれた小盆地のような田畑の端に、避難生活中に骨組みだけになった花栽培用ハウスがあります。大久保さんは消沈した顔で中を指差し、「こんなにひどい被害は初めてだ」と言いました。収穫期を迎えようとしていた約20種類の大豆が見渡す限り、めちゃめちゃに倒され、実が詰まったさやだけがなくなっています。「サルの群れに襲われたんだ」 被害は大豆だけではありませんでした。夏の好天で順調に育ち、黄色に輝く田んぼの稲をよく見ると、多くの穂が欠けています。「これもサルに食われた。大豆のハウスも田んぼの周りも、食害避けの電気柵を何段にも回しているのだが、群れになると怖がらず、どんどん浸入するらしい。今月(9月)初めの朝、ほんの3時間ほど留守にした間の出来事だ」。約30アールの試験田のほぼ3分の2に被害は及んでおり、稲穂のもみの部分だけがきれいになくなり、地面にもみ殻だけが落ちています。歯でしごくように食べたのでしょう。
 「二つの群れが周りの山にすんでいるんだ。食べ物がないらしく、今年は山のクリも、うちの庭のアケビも、熟さないうちになくなった。大豆や稲が食べごろになるのを、じっと見計らっていたんだろう。全村避難になって以来、どこの田んぼにも畑にも何もないからな。イノシシの被害もあり、やつらは土を掘り返したり、作物をなぎ倒したりしていくが、サルはもっとひどい。跡形なく食っていくからな」』

 飯舘村をほぼ無人状態にした全村避難によって、長い歴史を通じて拓(ひら)かれた集落が再び自然の領域に取り込まれ、空白を埋めるように野生動物が増えて活動域を広げました。避難指示区域となった他の原発事故被災地も同様の状況です。その結果が、試験栽培のわずかな農作物をもたちまち餌食にするサル、イノシシなどの害。私が取材に通っている同村比曽の農家では、ミミズなどをあさるイノシシが田んぼを深さ30センチ前後も掘り返し、表土を5センチ削る除染作業を困難にしました。 山津見神社のお膝元の佐須でも、菅野宗夫さんとふくしま再生の会が協働する稲作再生の試験田の稲や野菜栽培実験のハウスをイノシシが荒らしてきました。害獣駆除の狩猟者たちは村から姿を消し、限られた農地を電気柵で囲うしか対策はありません。16年3月末に飯舘村の避難指示が解除になっても当面、帰村する住民は少ないとみられ、人間は再び野生生物と共生するしかありません。かつて自然の生態系に君臨し、「農家がオオカミを害獣除(よ)けに信仰した」(石黒さん)ことの理由は今なお消えず、山津見神社拝殿の天井を埋めたオオカミの絵の存在意味もリアルによみがえります。


復元プロジェクトに支援者集う
 2014年5月末、山津見神社境内の除染工事が始まり、ひと夏、作業が続きました。そのさなかの7月13日、仮社務所で天井絵復元に向けた意見公開が行われました。順之さん、氏子会の永徳さんと佐藤公一・佐須行政区長、加藤さん、ふくしま再生の会の田尾陽一代表、飯舘村の文化財保護委員、拝殿再建を請け負う地元工務店の社長、プロジェクト立ち上げに共鳴した日本画の専門家ら12人が集いました。

 順之さんから現状報告があり、この時点では7月いっぱいで携帯の除染が完了するという環境省、共同企業体の側の見通しで、8月初めに地鎮祭、着工の運びになると説明されました。工務店の社長は「年内には上棟式を終えて、冬の間は内装工事になる。天井絵の部分は、2尺(約60センチ)四方なら割り振りしやすいが、絵の大きさの条件に合わせられる。先にますを入れて、ゆくゆく絵をはめることもできる」と話しました。永徳さんは「来年春に拝殿も天井画も落成だよ、というのでなく、何年掛かってもいいから、絵を描き続けて、できたものから天井に掲げていけばいい。描くというのは、時間の早さより、心の持ち方。絵の1枚1枚に『奉納者』を募り、名前を入れ、いつでも来てみられるようになるのもいい。そうして、人の心をつなぎ直していくことが大切だ」と願いを語りました。加藤さんも「天井絵の歴史や意味を皆で知り、作業のプロセスを共有し記録しながら進めていけたら」と声を合わせました。
 議論の焦点になったのは、「オリジナルを忠実に再現するか?」「別の形で再創造するか?」「誰が手掛けるか?」。武蔵野美術大の日本画の教授は「世代をつなぐという意味で、いまの避難中の飯舘村の子どもたちが描いた絵もいいのではないか。ワークショップを開きたい」と提案しましたが、失われた絵の再現に重きを置くならば「プロに任せたいのが理想」との意見も出ました。田尾さんは「飯舘村の復興に多くの人に関わってもらうためにも、天井絵再生の作業への参加者を募集したい。共感の輪をつなげることが大事だから」というアイデアを披露しました。未完の空白を次の人が埋め、大勢の参加者が物語をつくっていく、というあり方でした。そして、参加者には「現代の奉納者になってもらう」。議論はさらに続き、この日川崎市の自宅からオートバイで駆けつけた若い日本画家が、まず最初の1枚の試作を引き受けることになりました。

 『福島第1原発事故で全村避難が続く福島県飯舘村。昨年4月に拝殿が全焼し、先月再建工事が始まった同村佐須の山津見神社で、失われたオオカミの天井絵復元に向けた第1作がこのほど披露された。賛同する日本画家が描いた迫力ある絵。氏子会や支援者らは、来年5月の拝殿完成に向けて復元プロジェクトを発足させることを決め、資金を募る活動などを検討する。 (中略)新たな絵は、復元に協力する東京芸大出身の志田展哉さん(41)=川崎市=が描き、先月30日、仮社務所での氏子と支援者の検討会に持参した。目と牙をむいて、敵に向かって威嚇するようにほえるオオカミの姿で、日本画伝統の染料と金箔(きんぱく)を用い、45センチ四方の杉板いっぱいに描いた。元絵は、昨年4月の神社焼失の2カ月前、天井絵を調べた和歌山大の研究者の一人、サイモン・ワーンさん(57)が撮影した記録画像の1枚。(志田さんが)コンピューターで作風を調べ、忠実に再現した。
 「画材の板の準備や、『にじみ止め』のミョウバンを両面に塗って乾かす時間も入れて、1枚の制作に2週間かかった」と志田さんは言う。制作費は「手間暇を今の常識で評価すれば、1枚が10万~15万円」になる。再建される拝殿の設計では、天井には計190枚の絵が飾られる。「お金でなく、復元に共鳴する画家仲間を集めたい」と志田さんは話した。
 全戸が神社の氏子である佐須地区は、原発事故後、住民の避難生活が続く。総代の農業菅野永徳さん(75)は「天井絵の復元は、復興の歩みと同じ。何年かかっても、少しずつでも進め、後世につながる活動にしよう」と語った。今後、氏子会が主体になり、佐須を拠点に住民を支援するNPO法人ふくしま再生の会(田尾陽一理事長)などとプロジェクト組織をつくる。震災前に2、3万人が参拝した全国の信者や、オオカミに愛着を持つ人々の双方が共感し、参加できる「現代版の奉納」などを検討するという。』(14年10月6日の河北新報より)

 境内の汚染土をはぎ取る除染作業が終わり、真新しい砂利が敷き詰められた境内では9月9日、再建工事の地鎮祭が行われました。「原発事故の災いを乗り越えよう」という順之さんの祝詞の後、玉串を捧げた永徳さんは「神社が焼けた時は、地区の歴史が途切れた思いがした。ばらばらになった村の心の結び直しになる。待ちに待っていた」と語りました。順之さんも「神社は閉まったままだと、まだ思われているようだ。今年の例大祭は12月上旬。再建のつち音が多くの人を呼び戻してほしい」と笑顔を見せました。ところが、思わぬ事態が起こりました。復元プロジェクトで神社側の窓口になっていた順之さんが10月末、事情あって神社を退職したのです(現在は神奈川県寒川町観光協会に勤務)。さまざまな支援者たちが集ったプロジェクトはにわかに中断しました。

オオカミ絵、ついに完成
 「怖い獣ではなく、人に身近な場所で一緒に暮らしている。むしろオオカミたちの姿をかわいらしく表現しているようだ。村の春夏秋冬、美しい自然が見えてきた」。15年4月7日、東京・上野公園にある東京芸術大大学院の保存修復日本画研究室で、准教授の荒井経さん(48)は語りました。見せてくれたのは、山津見神社拝殿にあった天井の絵を、荒井さん自身の筆で杉板に再生した最初の1枚。和歌山大のサイモン・ワーンさん(59)が撮った記録画像から絵の特徴、画風を分析し、日本画の伝統技法でよみがえらせました。依頼したのは加藤久美さん。いったんは動き出した天井絵の復元プロジェクトが挫折した後、加藤さんが最後の頼みとした人が、専門家の荒井さんでした。仏画、天井絵、ふすま絵、杉戸絵など国宝級に至る文化財の修復保存の第一人者です。
 「技法は簡潔だが、オオカミが自然の中で生き生きと暮らす情景を描き、当時の人々に身近で特別な存在だったと分かる」と分析し、構想を練ったといいます。「失われたものを取り戻すのでなく、いまを生きる画家が当時の作者に成り代わり、心を込めて描く。飾られるのは博物館でなく、百年後の住民も信仰を寄せる場所。写真を元に忠実に『現状模写』するやり方でなく、原作の絵の図象とぬくもりを継承したい。飯舘の自然を私たち自身が感じながら、心を込めて描かせようと考えている」。担い手と期待していたのは研究室の約20人の大学院生。「原発事故の被災地になった現地に関わり、自分たちに何ができるのかを考えてもらいたい」と、まず山津見神社を訪ね、杉板の下地作りや筆遣いの練習を経て、夏に大学で制作を進める計画でした。


 荒井さんと院生の有志9人が山津見神社拝殿に立ったのは6月21日。拝殿の再建工事はほぼ終わり、焦げ茶色の大きな鳥居と白壁、銅板葺きの新しい拝殿が初夏の日差しに輝いていました。約280平方メートルの拝殿にある二つの祈祷の間の天井には、天井絵の杉板をはめる格子も作られています。天井は焼失前よりも低く、照明もよく当たり、絵が見やすい環境に造られました。「これから帰村してくる人々を迎える立派な拝殿だ」と、荒井さんらは天井を仰ぎました。学生たちはそれから、拝殿裏の虎捕山山頂にある山の神の本殿を目指し、荒れ模様の空から降り出した雨の中、露出した巨石に打ち込まれた鎖を握って険しい参道を登りました。「オオカミ絵の画風に触れ、描く準備をさせた上で、7月中旬から9月末にかけてまず100枚を一気に仕上げたい」(荒井さん)という未経験の挑戦を前にした修行のように。一行は無人状態になった佐須の集落を眺め、待っていた永徳さんから「若い人の応援は頼もしい限りだ」と願いを託されました。
 参加する修士1年の林宏樹さん(23)の口からこぼれたのは自らの震災体験です。それは、苦い敗北感に満ちた話でした。「大学入る直前に震災と原発事故が起き、入学式は中止だった。埼玉県生まれの自分も、震災の当事者の一人なのだという思いを抱えた。4年生の秋、友人たちと車で、できるだけ福島第1原発に近い所に行ってみようと(福島県浜通りの)楢葉町に入った。でも、(住民が避難中の)誰もいない被災地で、放射能という見えないものの恐ろしさに震えて、何も描くことができなかった。帰り道のコンビニで観た『がんばろう東北』の文字が、反語的で現実離れしたものに思えた。2020年の東京オリンピック招致の時、(安倍晋三首相が演説で)『アンダーコントロール』と言っていたが、東京の人間はそう見がちだが、あんな異様な世界があるとは衝撃だった。何も終わっていないと知った。卒業制作で震災を扱った同期も少なく、自分たちは『震災、原発事故の前に美術は無力』という苦しさ、焦りを共有体験にした世代だった」

 「第1期として、まず100枚を一気に仕上げよう」との目標で、保存修復日本画研究室で院生ら約20人が絵筆を執ったのは夏休みの7月31日から20日間。「オオカミの天井絵が伝えた人と土地のぬくもりを、われわれ一人一人が現代の画家として受け継ごう」という指針を胸に杉板と向き合いました。荒井さんが詳しく考証したのは原作の色。「オオカミの毛は、いまの焦げ茶の絵の具で描いたのと違い、丹(黄色を帯びた赤)と墨、白を混ぜた色ではないか、と修復の経験から考えた」と言い、「クラシック音楽の楽譜のように、原作が描かれたプロセスを大事にしながら、現代の描き手が継承すればいい」と院生たちの前で語りました。博士課程2年の鷹浜春奈さん(27)は「原作の絵は単純に見えるが、毛並みの線に硬い部分と柔らかい部分の描き分けがあり、ぼかしもある。試行錯誤しながら描いたようだ」と当時の絵師の苦労を追体験したといいます。同大OGで制作に加わった杉並区の中学校教諭中谷桜子さん(29)は、飯舘村と接する伊達市の出身でした。「原発事故のころは、遠くから古里を心配した。昔、お参りしたことのある山津見神社の焼失が悲しかった。卒業後は日本画から離れていたが、久しぶりに握った絵筆で古里とつながり、役立てるのがうれしい」と目を潤ませました。

新しい当事者となって

  完成したオオカミの天井絵が、飯舘村・佐須地区公民館で披露されたのは11月28日。冬枯れの風景の中で、山津見神社は拝殿の再建後、初めての例大祭の朝でした。オオカミの狛犬たちと共に一対の白い幟が立てられ、年配の夫婦らが三々五々訪れていました。天井絵のお披露目は例大祭に合わせて催され、避難先から参拝した住民が公民館に足を延ばしました。3列に設けられた長テーブルの展示台に、大学院生らが最初の挑戦として取り組んだ100枚がずらりと並べられています。私は荒井さんの研究室で何度も制作中の天井絵を見せてもらっていましたが、あらためて眺めてみると、オオカミたちの姿、表情のなんと多様なことか。両目を閉じた安らかな寝顔、勢いのよい青い滝を見返る精悍な目、毅然と背筋を伸ばす白狼、背中を丸めたひょうきんなしぐさ、きょうだいのように仲の良さそうな2頭、相手を威嚇し戦おうとする緊迫の顔、珍しい白黒のぶちのオオカミ。それらを、梅の花、萩の花、ススキの穂など、四季の自然の美しさがおおらかに包んでいます。
 「どのオオカミもかわいいね」「芸大の学生が復元したんだってな。地元の宝。うれしいの一言だ」「焼失前の暗い天井にあった当時は、これほどの絵とは知らなかった」。私が聞いた住民たちの感想です。公民館の会場を訪れる人の流れは途切れることなく、1枚1枚に足を止めて、ゆっくりと眺めては語り合っていました。大震災、福島第1原発事故が被災地の人々に痛みとともに残したものは、被害と喪失の不可逆性。津波が古里のまちを奪ったように、除染をしても残存する放射性物質のように、「失われたものは二度と元に戻らない」というあまりに残酷な教訓でした。心に深い傷を負い、過去への諦めから再起を模索している飯舘村の住民にとって、焼失の悲劇からよみがえったオオカミたちの再会は「奇跡」と言えました。そんな会場の様子を、荒井さんと並んで和歌山大の加藤さん、ワーンさん、永徳さんが感動した表情で見つめていました。
 「僕らの中には不安があった。心を込めて描いたが、果たして飯舘の人たちから受け入れてもらえるだろうか。焼失前の天井絵を見ていた住民の方々の目にどう映るだろうか、と。地元で発表することの恐ろしさもわき上がった」。荒井さんに同行して飯舘村を再訪し、お披露目の場に立ち会ったた大学院生の林さんはこう漏らしました。「でも、とても熱心に見てもらえた。すごく立派に仕上がった、と言ってもらえた。オオカミの絵そのものが、村の人々の自然な、優しい気持ちの中から生まれたことを感じた。地元の人たちが絵を見る目や心と、描き手の思いが初めてシンクロし、つながることができた。自分はもう無力な傍観者ではなく、絵を描くことで被災地に関われる『当事者』になれた」

 残るオオカミの天井絵が荒井さんと大学院生たちの手ですべて完成した、というニュースが河北新報に載ったのは翌16年4月10日です。
 『東京電力福島第1原発事故で全村避難が続く福島県飯舘村の山津見神社で3年前、焼失した拝殿のオオカミ絵が全て復元された。作業を担った東京芸術大の荒井経准教授らが、昨年秋に仕上げた第1期の100枚に続き、残る142枚を完成させた。生き生きとよみがえったオオカミたちの絵は来月、福島県立美術館(福島市)で披露される。荒井准教授は「自分たちの専門の技で村の応援に関われた。新しい命を吹き込まれた絵が、帰還する人々の力になれば」と語った。
 絵は2013年4月に火災に遭った拝殿の天井に飾られていた。宮司久米中時が1904(明治37)年、旧相馬中村藩御用の絵師に描かせたと伝わる。火災の直前、絵を調査した和歌山大観光学部の加藤久美教授らが全部を撮影していた。
 荒井准教授は大学院保存修復日本画研究室の院生ら約20人と復元を引き受け、写真から絵を分析。現地訪問の上で昨年8月以降、実物と同じ杉の板に一枚一枚、伝統技法で丹念に描いた。同11月には地元の佐須地区公民館で、第1期分の完成を住民に報告した。
 飯舘村は来年3月末に避難指示解除の見通し。同神社氏子総代の菅野永徳さん(76)=伊達市に避難中=は「来年帰村するつもりだが、共同体を立て直すのは大変だ。神社の拝殿は再建された。オオカミの絵を通して村の文化と歴史が発信され、新しい交流が生まれたらいい」と期待する。福島県美術館は「絵の魅力を広く伝えたい」(増渕鏡子学芸員)と来月28日~7月3日、「よみがえるオオカミ」展を開催し、計242枚を一堂に披露する。』

ワーンさんの記録画像から、天井絵の白狼の姿

2013年4月6日、山津見神社拝殿の焼け跡を見る菅野永徳さん=福島県飯舘村佐須

13年11月23日、オオカミの狛犬の前で語り合う(左から)ワーンさん、加藤さん、久米さん

14年9月18日、サルの群れに食い荒らされた大久保金一さんの田の稲穂=飯舘村小宮

14年7月13日、ワーンさんの記録画像を基に復元方法を議論する支援者たち=山津見神社の仮社務所

15年6月21日、再建された山津見神社の拝殿を訪れた荒井さん(中央)と東京芸術大の大学院生たち

15年8月1日、東京芸術大の研究室で始まったオオカミの絵の再生作業

15年11月28日、佐須地区公民館でも催された天井絵のお披露目(右端がワーンさん)

16年4月7日、荒井さんと大学院生たちの手ですべて完成したオオカミの絵

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