何も終わらぬ5年/余震の中で新聞を作る157 引き裂かれる思い 南アルプス山麓で~その後㊦

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 東日本大震災の津波と福島第1原発事故の被災地となった南相馬市から2012年5月、農業を続けられる土地を求め、山梨県北杜市白州町に移った小野田等さん(62)=「何も終わらぬ5年/余震の中で新聞を作る156 引き裂かれる思い 南アルプス山麓で~その後㊤」参照=。異郷に我が身一つを投じての模索を追う取材行は、再びの訪問が15年10月20日、前回3月から7カ月後の秋の午後でした。JR中央線の小淵沢駅には、妻ひろ子さん(61)が愛犬ランと一緒に軽ワゴン車で迎えにきてくれました。収穫の季節のさなか、小野田さんは新しい住まいのある白州町鳥原の農家たちの手伝いに出ている、といいます。釜無川を渡って白州町に至る道の途中、雄大な姿を見せる甲斐駒ケ岳は薄い山霧に隠れていました。ひろ子さんが車を止めたのは、山麓の鳥原集落に広がる畑の一角です。
 地元では甘い「干し芋」が特産の名物で、その材料となるサツマイモが収穫され、道端のビニールハウスに積まれていました。麦わら帽に花柄の割烹着、小さなリュックを背負った奥さん方がちょうど帰宅するところで、ひろ子さんは笑顔で立ち話をした後、宮下十四郎さん(77)を紹介してくれました。「いま栽培しているのが、ベニハルカという新しい品種なんだ。タマユタカという長年作った品種の後継で、甘みが強く、焼き芋でも人気がある」。地元の農家6人の農事組合法人「白州鳥原平組合」の圃場管理責任者をしており、小野田さんも組合の仲間です。サツマイモの畑1ヘクタールのほか、コメ、ブロッコリー、そして、ソバの畑も7ヘクタールあり、やはり収穫期を迎えています。

 「うちのお父さん、ここに来ていたはずなんだけど。どこに行ったか知らない?」。ひろ子さんが問うと、「ソバの畑にいるんじゃないかな。収穫機械のトラブルがあって、修理を手伝っているそうだ」。岐阜県内の業者が12ヘクタールの規模で栽培しているという大根畑の緑を眺めながら、軽ワゴン車はソバ畑に向かいました。「何があったんだろう、こんなに時間が掛かっているなんて」とひろ子さんは首をかしげながら。間もなく着いたソバ畑では、なぜか収穫が中断し、赤いコンバイン型の収穫機械のまわりに小野田さんら3人の組合員が集まっていました。「作業の途中で、キャタピラーの片側が外れちゃったんだってさ。小野田さんなら直せるんじゃないかって、急に頼まれたんだよ」
 3月に訪れた際、見せてもらった農業機械の倉庫には、メンテナンスと修理の機材がそろっていました。「農家は自分で直せなきゃ。業者を呼んでいたのでは、コストばかりかさんで赤字になる」というのが小野田さんの農家経営のポリシーです。南相馬市鹿島区で就農する前には、山梨県内で重機メーカー「コマツ」の営業マンをしていたキャリアがあり、そこにいた小野田さんは本宿のエンジニアのようでした。外れたキャラピラに太い支え木を何本もあてがい、大きなジャッキを二つ使って車体を持ち上げ、ハンマーを握り、原因箇所と格闘しています。最後に男3人で、鉄の棒をてこにして強化ゴムのキャタピラを再び車輪にはめ、収穫機械を少し前に動かすと、見事に元通りに。「やった、やった」と拍手が起きました。仲間の農家が再び運転席に座り、ソバの実を刈り取っていきました。

 このトラブルの解決に、1時間以上を要しました。いつの間にか、あたりに夕方の薄暗さが忍び寄り、ソバ畑の傍らに立つ大きな柿の木いっぱいの実が斜光を浴びて、いっそう赤々と輝いていました。
「さすが小野田さん。プロの農家だな」という声に送られて、自分の軽トラックに乗り込んだ本人はさすがに、ぐったりと疲れ切った表情。「作業をしていた仲間は、きょうが初めての運転だった。無理な動かし方をしないでよ、危ないから、と注意をしていたんだ」「東北とは少し生き方が違うんだな。ここでは秋の収穫が終わると、冬はお休みにする農家が多い。昔から貧乏だった東北の農家は、四六時中あれこれ心配したり、節約に頭を悩ませたり、冬にできる仕事を工夫したり、必死に生きてきた。だから、『何でもできるんだね』と頼み事をされちゃう。同じ集落の仲間なので、忙しくても、俺は引き受けている。燻炭(くんたん・籾殻をいぶした肥料、土壌改良材)の作り方とか、東北の農家の知恵も伝えている。だから、俺が生きていける場があるんだ」。小野田さんは笑って言いました。鳥原集落は約50戸ありますが、「平均年齢が70歳を超えているんじゃないかな。子どもは5人しかいない。だから、『おじいさんが倒れて入院した。もうコメを作れないので、何とか引き受けて』と、おばあちゃんから泣きそうな顔で頼まれたりして、栽培を受託する田んぼが毎年増えている」。

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 稲刈りは10月上旬に終わっていました。悪戦苦闘したソバ畑を後にして、小野田さん、ひろ子さんと一緒に見に来たのは、12年5月に白州町鳥原に移って最初のコメ作りに取り組んだ場所でした。再出発の希望を託した田んぼはサントリー白州蒸留所のすぐそばにあり、傍らの水路には南アルプスに発する冷たい山水が流れ落ちています。山麓の斜面に段々の農地が切り開かれた高台にあり、夕日で稲の切り株の影が伸びた刈田のはるか北に、紅葉で赤く染まった八ケ岳の連峰が浮かんでいました。
 小野田さんは、わずか計60アールだった1年目の挑戦の後、地元の田んぼを借りて広げてきました。15年には4ヘクタールの自前の田と、地元農家からの計約2ヘクタールの受託田でコシヒカリを収穫しました。が、試行錯誤は続いています。「こちらの刈り取り時期がなかなか読み切れず、まわりが刈り始めたら俺も始めたが、ようやく分かりかけてきた」と小野田さん。「東北だと、稲刈り前、田んぼを干して稲の茎の3分の2が赤くなったら刈り取り時期―という目安があったが、ここでそれをやると『同割れ』(コメ粒に亀裂が入る)が起きる。日差しが東北より強く、気温が高いんだ」
 前年の14年秋、総量20万トンを超えるとされるコメ余りとともに、福島県や東北のコメについては明らかに原発事故由来の風評が市場価格に反映され、全国の銘柄米の農家前渡し金の下落が起きました。しかし、政権与党が各県で突き上げを受ける反動も起きて、15年産米はわずかながらに値を戻しました。北杜市などのコシヒカリは「特A」で18000円(60キロ当たり)で国内有数の高値を維持しましたが、福島県浜通産コシヒカリは、前年暴落しての6900円から9100円に上がっただけ。「作るだけ赤字という状況は変わらない。震災前まで、俺は(南相馬市鹿島区で作った)コシヒカリを2万円近い値で買ってもらっていた。『お前のコメだから食べたい』というお客さんと築いた信頼の値だった」(小野田さん)。農家がコメで生きていくための努力も水の泡にされました。

 「知り合いの南相馬市役所の人から『いつ戻ってくるんだ。また農業をやってほしい』と声を掛けられていたが、おととしの米価暴落の後は一切、話がなくなった」。収穫したコメの脱穀後の乾燥には、南相馬市から運んできた2基の大型乾燥機を使いました。7月に建てた倉庫の天井まで届くような、高さ約6メートルのタワーです。同市原町区で3ヘクタールのコメ作りをしていた兼業農家の弟さんが、原発事故が起きた年から農業をやめていたことから、この夏に解体して運んできました。
 「去年、小高(同市小高区)の知人がここに来た。俺と同じ農家民宿をしていたが、震災で家が全壊し、(福島第1)原発事故で小高区が避難区域にもなって、福島市から新潟、秋田、岩手と避難を重ね、青森で公営住宅に入って地元農家のブリッコリー作りなどを手伝っていたが、最後は栃木県内に家を買ったそうだ。『近くに医大病院もあり、生活に不便はない』と言っていた」。こう語る小野田さんは複雑な表情でした。年を追うごとに、そうした古里の人との行き来は少なくなり、「知人の奥さんが亡くなったことを、市役所から送られてくる広報紙で知った」。前回、白州町鳥原を訪ねた3月、小野田さんが「やっと借り手が見つかった」と語っていた鹿島区北屋形の無人の自宅には、やはり原発事故で全町避難となり、原町区の見なし仮設住宅にいた浪江町の住民の家族が入ったそうです。
 福島第1原発の北40キロ前後の距離にある鹿島区は、もともと放射線の影響が少なく、除染後の市の測定データでは、小野田さん宅の室内線量は0.09マイクロシーベルト(毎時)。住むのに問題がないといっていいレベルですが、水田の除染で土壌改良材ゼオライトが投入されたためか、「(稲作再開後の)コメの味が微妙に変わった」という話も聞いたそうです。「皆、以前にはもう戻れない。かみさんもここで一緒に暮らし、営農の本拠も移したところだ。二重生活を続けていては、前に進めないからな」
 ひろ子さんが続けました。「鹿島の自宅には、まだタンス、家財道具など一切が残ってる。トラックで1台分だね。いらないものを捨てないとならないけど。だんだん行く用事もなくなると、がらくたになっちゃう。悲しいけどね」

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 「プチホテル白州」。白州町鳥原の集落外れにある小野田さんの家に隣接して、こんな看板のある大きなロッジ風の建物がありました。茶色いレンガの外壁に赤い屋根、広いバルコニーやテニスコートがあり、立派なリゾートホテルだったのに違いありません。南アルプスのしゃれた高原ホテルの雰囲気があり、長らく閉鎖されていたというのを、見るたびにもったいなく思っていました。「俺も参加して、ここを再生させる合同会社をつくった。来年4月にオープンさせる予定だ」。11月7日、この年3度目の取材行で会った小野田さんからこう聞いて、びっくりしました。「ホテルじゃなくて、鳥原の自然や農業を体験してもらい、鳥原の人たちと交流してもらうための宿泊施設にしたいんだ」
 昭和の終わりに建てられ、バブル経済のころのリゾートブームが過ぎた後は廃業状態の物件でしたが、「地元に安価で譲りたい」という話があり、農事組合法人「白州鳥原平組合」の組合長で元北杜市議の渡辺陽一さん(75)が引き受けて、15年秋、新しい施設名「eファーム甲斐白州」を運営する合同会社を設立したのでした。「俺が鳥原に初めて来た時、受け入れに尽力してくれたのが渡辺さん」という地域の世話役で、渡辺さんが代表組合員(社長に当たる)となり、「若い世代の農業体験の場となる農家民宿を鳥原でも実現させたい」と夢を温める小野田さんに参加の声が掛かりました。
 施設は少々古いですが、ヨーロッパ調のレストランがあり、ふかふかのツインベッドと浴室が各部屋に完備され、きれいに清掃されています。レストランの隣に広い厨房があり、ガス台や調理台が整っており、提供する食事や厨房づくりのアイデアを、ひろ子さんが担当することになっています。「来週、ここで集落の奥さんたちも呼んで料理教室を開き、実際に厨房を使ってみて、どんな料理を出したらいいか、話し合うの。やっぱり、地元のおいしいコメと野菜をたっぷり生かせたらなと思う」

 小野田さんが鳥原集落に住むようになって、変わったことは何ですか?-と、この日のレストランでの話の合間、渡辺さんに尋ねました。「原発事故での苦労は聞いている。新しい土地にも農業で溶け込み、これだけ頑張っている。われわれは規模の小さな兼業の農家が多いが、小野田さんはプロフェッショナルだ。その蓄積を分けてもらって、互いに協力し合って、それが信頼関係になった。奥さんと定住してくれるのはありがたい。私は親戚のような付き合いをして、いろんな人につないでいるよ」「小野寺さんには、若い人を呼び寄せる力がある。われわれにないものだった。高齢化していくばかりだった地域に、新しい交流の場をつくれたら」。渡辺さんは、小野田さんに期待していました。
 この日、さっそく東京の若者たちが「eファーム甲斐白州」に泊まることになっていました。小野田さんが南相馬市鹿島区の自宅で開いていた農業体験民宿の出会いが縁で、いまも応援者となっている広告代理店勤務の男性が紹介してくれた、「Youth for 3.11」という大学を超えた東京の学生ボランティア団体(NPO法人)です。この年、アスパラの種まき、野菜苗の定植や畑の草取りなどの作業を手伝いに通い、「きょうが収穫祭なんだよ」と小野田さんは心待ちにしていました。
 午後2時すぎ、男女7人の大学生が車で「eファーム甲斐白州」に到着しました。小野田さんに声を掛けられ、作業着姿になって外に出ると、施設のまわりに野積みになった木の枝や丸太の片付けに1時間も汗を流し、それからレストランでお茶を飲みながら、翌日の活動のミーティング。小野田さんがホワイトボードを使って話しました。若者たちへ伝える言葉を。「俺は、みんなの意見を聞いて、書いていく。一人一人、考えが違うのは当たり前で、それをまず全部書いて、それから議論し消去していく。最後に、必ずいいものが残るんだよ。そうやれば、争いもなくなる。戦争だって、そうだ」
 「Youth for 3.11」の代表、お茶の水女子大4年の永田和奈さん(22)は、埼玉県内の高校3年生になる直前に東日本大震災を体験し、その1年後、大学生になって初めて被災地の岩手県大槌町でボランティアをして、「東北に関わり続けたい」と思ったそうです。新たな出合いから、永田さんらは「山梨で農業体験」という継続的な参加募集プログラムをウェブサイトに掲げました。晩秋の日が深い山並みに落ちると、いつもは寂しいほど真っ暗になる鳥原集落の夜に「eファーム甲斐白州」の灯が温かく浮かび、ひろ子さんと一緒に山梨名物「ほうとう」を料理する若者たちの声が外までにぎやかに響きました。渡辺さん、小野田さんが夢見る交流の場が生まれつつありました。

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 「俺がまだ小さかったころ、昭和32年ごろだ。うちのおやじが長男だったので、兄弟みんなの面倒をみて、家族は15人もいた。飯も、さつまいもご飯が主だったなあ。どこまで食べても、芋ばかりだったなあ」。小野田さんが「Youth for 3.11」の大学生たちに語った話です。同じ古里の懐かしい食べ物で、忘れがたいお袋の味がありました。福島県相馬地方の同胞である私もよく知る「凍み餅」です。餅米をふかして「ごんぼっ葉」(ヤマゴボウ/オヤマボクチ)の葉を練り込み、寒風にさらした保存食です。「それを焼いて、砂糖じょうゆで食べさせてくれた。最高の味だった」
 小野田さんは古里から遠い山梨の山村で、それを作ってみようと思い立ちました。15年3月4日に訪ねた際、こんな話を聞きました。「こっちには、凍み餅がないんだ。飯山(長野県飯山市)にいる友だちに電話で聞いたら、「ごんぼっ葉をそばのつなぎにしているそうだ。取りあえず、種を送ってもらい、暖かくなってから1反歩(10アール)育てるつもり。冬には凍み餅を試作したいんだ」
 10月に再訪すると、昔の救荒植物でもあったごんぼっ葉は畑に大きな緑の葉を広げており、そこから摘んだ葉がビニールハウスの棚いっぱいに広げられ、自然乾燥のさなかでした。11月に来た「Youth for 3.11」の大学生たちは、カラカラに乾いた葉から硬い芯を抜く作業もしていきました。小野田さんの田んぼでは餅米も収穫され、南アルプス山麓の白州町鳥原は零下10度まで冷え込む日も珍しくないという冬を迎えました。「材料がそろって、凍み餅はうまくできたのだろうか?」。そんな想像をしながら小野田さんのその後を訪ねたのは、明くる16年1月31日でした。

 JR小淵沢駅前に雪はなく、軽ワゴン車で迎えに来てくれた小野田さんも薄手のジャンパー。平年なら、一冬凍結して事故を多発させるという白州町までの急坂も、ほとんど乾いていました。車内にも春のような日差しが注ぎ、私もジャケットを脱ぎました。「暖冬でね、零下10度は二日くらいで、寒さが続かない。そのせいなのか、12年にこっちに来てから初めて、今年は初日の出が見えた」
 鳥原の家に着くと、お茶とともに出してしてくれたのが、真空パックの茶色い干し芋。かじると、これまた懐かしい甘さでした。「畑のベニハルカから加工まで、うちの奥さんの試作品だよ。国の助成事業を紹介してもらい、去年の秋から家の裏に建てていた農産加工場ができたんだ。見に行こう」
 裏手に回ると遠望できる八ケ岳にも雪は少なく、早春のように青っぽく感じられました。見慣れない銀色の四角い建物があり、中は広々として、大きな流しと調理台、ガス台、冷蔵庫などが並んでいます。「ここで、今年はいろんなものを作る。さまざまな餅、赤飯、ジャムとか。地元の道の駅などだけでなく、インターネットにも販路を広げていこうと思う。もちろん、干し芋も、凍み餅もね」
 小野田さんはそう言って、農産加工場の裏手、八ケ岳に面した北側に出ました。屋根の下の日陰に渡されたアルミの長いパイプから何十本もの長いひもが垂れ、干されていたのが凍み餅でした。独特の半月形に切り分けられた灰色の餅に、黒いごんぼっ葉が点々とまぶされています。触ってみると、さすがに、かちんかちんの硬さです。「実家に帰った時に、お袋から作り方を聞いたり、(福島県)古殿町で自家製の凍み餅を販売している農家の女性に電話を掛けて助言をもらったりした。どうやら、寒風にさらす前に餅を水に漬ける時間が、俺は足りなかったらしい」。小野田さんは苦笑いしました。
 

 その時にはっと思い出したのが、原発事故後間もない11年4月から、やはり取材の縁を重ねた同県飯舘村の農家の主婦、佐野ハツノさん(67)=「何も終わらぬ5年/余震の中で新聞を作る137~生きる、飯舘に戻る日まで①若妻たちは飛んだ」参照=が、全村避難を前にしてごちそうしてくれた凍み餅でした。やはり、たっぷりの砂糖じょうゆで味わった絶品でした。しかし、こんな痛切な言葉が続きました。「飯舘の山のごんぼっ葉は、(放射能のために)もう採れない。これが、震災前に作って取っておいた最後の凍み餅なの」。ごんぼっ葉は、原発事故から5年を経たいまなお、相馬地方では「採れない山菜」の一つとみなされています。かつては家々のばあちゃんが手作りし、私もおやつに食べていた凍み餅は、ほとんど幻の味になってしまいました。それは「文化の喪失」でした。同じ味の記憶を持った小野田さんが遠い異郷で復活させた凍み餅に、私は感動して見入っていました。

 

2015年10月20日、キャタピラが外れたソバの収穫機械を修理する小野田さんー北杜市白州町鳥原

10月20日、15年の収穫を終えた田んぼに立つ小野田さんと妻ひろ子さん、愛犬ラン

小野田さんらが合同会社をつくり、農業体験の宿泊施設として再生した「eファーム甲斐白州」

11月7日、ボランティア作業に訪れた、「Youth for 3.11」のメンバーと小野田さん

作業を終えて、「Youth for 3.11」のメンバーとレズトランで語り合う小野田さん

10月20日、鳥原の自宅の畑に育った「ごんぼっ葉」

16年1月31日、初めて試作した凍み餅の出来をみる小野田さん、ひろ子さん。後方に八ケ岳

 

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