シネマに包まれて-映画祭報告

presented by 河北新報

(4)主人公はバルセロナ 「ダルフールのために歌え」

2008/10/25

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 石坂健治氏の言葉にもあるように、現在の映画界はデジタル化の流れを無視して語ることはできない。私の記憶が正しければ、初めてカンヌ映画祭のコンペでデジタル作品のデジタル上映が行われたのは2006年のヌリ・ビルゲ・ジェイランの「クライメート」だったと思うが、今年、東京映画祭でも初めてデジタル作品のデジタル上映が行われた。それが「ハーフ・ライフ」、「プラネット・カルロス」、「ダルフールのために歌え」の3本だ。

 アジア系アメリカ人ジェニファー・ファングの「ハーフ・ライフ」は、地球温暖化と環境破壊で人類が破滅に向かう近未来を舞台に、カリフォルニア郊外に住むアジア系家族の屈折した人間模様を描いた作品で、ところどころにリチャード・リンクレイターの「ウェイ
キング・ライフ」に似たデジタル・ペインティングによるアニメーションが挿入される。設定を別にすれば、物語はどこかしらリサ・チョロデンコの「しあわせの法則」を彷彿とするし、幼い弟に不思議な力があるところはタルコフスキーの「ストーカー」っぽいが、
彼ら巨匠に比べ、映像に想像力を喚起する力がなく、非常に退屈だった。

 「プラネット・カルロス」はドキュメンタリー出身のドイツ人アンドレアス・カネンギーサーがニカラグアで撮った作品。ヒガントーナという人形劇の主役である "詩人"の役をやりたいカルロス少年が、ヒガントーナを演じるグループに奨学金が出るという噂を信じて仲間を集めるが、噂が勘違いだったと分かって窮地に陥るというストーリー。少年が自分の夢を追求するというテーマは悪くないが、それをストーリーに結び付けていく力が弱い。ドキュメンタリー的な手法でフィクションを撮るのはいいが、よほどプロットをしっかり作っておかないと作品に締まりがなくなってしまう。カネンギーサーはフィクションを甘く見すぎていたと私は思う。

 ヨハン・クレイマーの「ダルフールのために歌え」=写真=は、今回新たに見た作品の中で最もよくまとまっていた作品の1本だった。主人公はバルセロナという街と人で、チャリティ・コンサート"ダルフールのために歌え"を見にきたアメリカ人観光客がスリに遭い、コンサートのチケットを盗まれてしまうのを発端に、盗まれたチケットを手にする人々、彼らに関わりのある人々を繋いでいき、再びアメリカ人観光客に戻って終わる"輪舞"形式で描く。縦横にバルセロナの街を切り取っていく、まさにデジタルの機動力を生かした作品だった。

 それ以外で作品的にまとまっていたのは、フランスの中堅フランソワ・デュペイロンの「がんばればいいこともある」とジャン=フランソワ・リシェの「パブリック・エネミー・ナンバー1」だった。「がんばればいいこともある」は、郊外の低所得者団地に住む黒人家族のギャンブル狂の父親が急死し、窮地に陥った母親が、向かいの老人の入れ知恵で父親の死体を地下室に埋め、一家の大黒柱として頑張るうちに運が向いてくる。黄色を強調した画面作りなど、スパイク・リーの「ドゥ・ザ・ライト・シング」によく似たテイストを持っているが、ストーリーが寓話風なので、どことなく切実さに欠けるのが欠点。

 「パブリック・エネミー・ナンバー1」は、フランス史上最凶の犯罪者といわれたジャック・メスリーヌの伝記映画で、ヴァンサン・カッセルがメスリーヌを演じている。2部構成で、フランスでは現在前編が公開中だが、映画祭では前後編が合わせて上映された。メスリーヌは79年に警察の待ち伏せにあって銃殺されるが、当時の雰囲気が忠実に再現されていて、まるで70年代のギャング映画を見ているような爽快感があった。けれども、商業性の勝ったこのような作品を映画祭のコンペで上映することについては、大きな疑問を感じた。東京は2年前に「OSS117 カイロ、スパイの巣窟」をコンペに選んだおかげで大恥をかいているではないか。再び同じ過ちが繰り返されないとは限らない。ジョン・ヴォイトがジャン=ピエール・ジュネほどへそ曲がりではないと誰に断言できるだろう?

(斎藤敦子)