シネマに包まれて-映画祭報告

presented by 河北新報

(1)プログラム・ディレクター 市山尚三氏に聞く

2008/11/22

20081122.jpg 毎年、気になってはいたが、ナント三大陸映画祭と重なって、なかなかカバーできなかった東京フィルメックス。TIFFより規模は遥かに小さいものの、大きな志を持って始まったこの映画祭について今年はじっくりレポートしてみたい。

 まずは、プログラム・ディレクターの市山尚三氏に、そもそもの始まりからうかがった。


-東京フィルメックスを始めようと思い立った経緯は?

 市山「僕は元々松竹から東京国際映画祭に出向してシネマ・プリズムを担当していたんですが、98年に松竹を辞め、Tマークという当時あったオフィス北野の子会社に入りました。その頃、オフィス北野の森昌行社長が、北野武さんの映画を持って映画祭を回っていまして、それもカンヌやヴェネチアとかの大映画祭じゃなくて、テサロニキ、ロンドン、ロッテルダムといった映画祭だったんですが、東京国際といった大きな映画祭があるのはいいが、そういう映画祭では埋もれるような作品、もっと作家性の強い作品にスポットを当てた別の映画祭が日本にもあっていいんじゃないかということをおっしゃったんです。僕らもそれには同感で、せっかくシネマ・プリズムで面白い映画を紹介しても、大スターが来たり、日本映画の宣伝キャンペーンがあったりという東京映画祭というイメージの陰で、表にほとんど露出していかないし、一般に浸透していかないといったフラストレーションが溜まっていたわけです。それはまだ社内の雑談程度だったんですが、99年に東京国際を辞め、賈樟柯の「プラットフォーム」やアボルファズル・ジャリリの「少年と砂漠のカフェ」などのプロデューサー業に本腰を入れ始めた頃、オフィス北野の同僚が、前から話していたような映画祭が出来るかどうかやってみようと言って動いてくれたんです。そしたら、現在実行委員会に入ってくれている朝日新聞、J-WAVE、ディスクガレージの人達が、面白い、ぜひ協力すると言ってくれ、さらに、その年、たまたま北野武さんがジョニーウォーカーのCMに出ていたのが縁で、ジョニーウォーカーがスポンサーになってくれました。それで、ギリギリだけれども、なんとか映画祭をやるくらいの予算が見えたので、半年くらいの準備期間しかなかったけれども、思い切って第一回をやってしまったというのが始まりなんです。ジョニーウォーカーとは2回目までという約束でしたが、1回目の実績を元に文化庁の助成金がもらえることになったり、国際交流基金の助成金も得られたりで、今に至っています。

 また、始める前に、どんな映画祭にしようかと話し合ったとき、コンペティションがあった方が盛り上がるし、マスコミへの露出もしやすい、ということで、賞金は少なくてもコンペティションを作ろうということになり、漠然と世界に広げても仕方がないので、僕らの手の届く範囲でということで、アジアの若手作家を集めたコンペティション、それに招待作品、特集上映を加えた3本立てにすることに決め、その基本の枠組みは今も変わっていません」

-市山さんがディレクターをやるというのは最初から決まっていたんですか?

 市山「そうです。というか、外部のディレクターを雇う予算もなく、自前でやるしかなかったんです(笑)。林加奈子さんは、あの年はたまたま香港にいて、アドバイスはしてもらっていたんですが、翌年東京に戻ってくることはわかっていたんで、2回目から加わってもらいました」

-ということは、最初からダブル・ディレクターで行くという考えだったんですね?

 市山「僕はプロデューサーの仕事もやっているんで、映画祭だけに専念できない部分もあるんです。それで林さんが専任のディレクター、僕はプロデューサー業と映画祭の二足のわらじでずっと来ています。といっても、プログラム・ディレクターとディレクターで仕事をきっちり分けているのでなく、ほとんどのことは話し合って決めているんです。作品選定も二人でやっています」

-作品選定でぶつかることはないですか?

 市山「それはあります。でも、独善的にならないようにということもあるし、話し合いが分裂するというところまでは行きません」

-今年9回目ですが、この9年で変わってきたことは?

 市山「映画祭としての僕らのスタンスはまったく変わってないんですが、世の中、特にアート系の作品を配給する状況が非常に厳しくなってきている感じがしますね。最初僕らが目指したことは、フィルメックスをきっかけに日本での配給に繋げていくということでした。もちろん、国内配給を前提に作品を決めていたわけではないし、興行的に難しい作品も沢山上映していますが、マニアックな映画というより、そこから配給に乗っていけばいいと思いながらやっていたんですが、それがどんどん難しくなって、今年にいたっては日本映画以外は1本も配給が決まっていないんです。ウォルター・サレスの作品なども、当然日本公開が決まっているだろうと思っていたら、実は決まっていなかったり、逆に驚きだったですね。

 第一回のときに映画評論家のトニー・レインズが、"映画祭は、近いうちに作品のその後のプロモーションの始まりの場ではなく、スクリーンで見る最後の場になるだろう"と自虐的に語っていたんですが、その言葉が現実になりつつある気がします。今は、いい映画でも劇場のスクリーンに映されることなく、直接テレビ放映やDVD化されてしまうケースがすごく多い。加速度的にそういう状況になっていますね」

-この状況をどう打開していくかが配給の問題であり、それにどう関与していくかが映画祭の問題でもあるわけですが、これは世界的な状況でもありますね。

 市山「世界ではもっと厳しいかもしれません。映画祭で上映した作品を配給に繋げていく道すじもなかなか見えてきません。僕らは、配給業者を招待して、映画を見てもらうことくらいしか出来ないんです」

-市山さんは賈樟柯などの作品のプロデューサーでもあるし、アート系作品の配給の難しさはご存知ですね。

 市山「賈樟柯の作品については、ヴェネチアでグランプリを獲ったこともあるし、継続的にやってきているので、配給を見つける苦労はないんですが、僕は一人しかいないんで、多くの監督に同じことをやるわけにはいかないんです。いろんなプロデューサーや配給業者がそれぞれリスクを負う覚悟でやってくれればいいけれど、そういう配給業者がどんどん少なくなっている気がしますね」

( 2008年11月6日、赤坂にて  齋藤敦子)

写真は、プログラム・ディレクターの市山尚三氏、オフィス北野のあるビル前にて。