シネマに包まれて-映画祭報告

presented by 河北新報

(1)より広い世界への出発

2009/11/29

091129map.jpg 11月26日午後、成田を発って、今年も西フランスの古都ナントで開かれているアジア、アフリカ、中南米の三大陸に絞った作品だけを提供し続けるユニークな三大陸映画祭(11月24-12月1日)にやってきた。15度目の訪問だ。

 31回目を迎えた今年は、コンペティション部門(12作品)のほか「CURE」、「回路」などで「ゴッドファーザー・オブ・ジャパニーズホラー」として海外でも熱狂的支持を得る黒沢清監督、第二次世界大戦前の中央アジア(ウズベキスタン、タジキスタン)や無名だが希望が持てるエチオピアの作品群などの特集が組まれ、盛りだくさんの内容だ。会期中、市内中心部の三つの映画館の6スクリーンを中心に80本以上が上映される。

 成田から約18時間の旅。時差がマイナス8時間のためパリ着は同日午後6時前。パリの大渋滞につかまって予定していた8時発のナント行き新幹線(TGV)に乗り遅れ、1時間遅れの午後11時過ぎに到着。翌27日朝から映画を見始めた。初日はコンペ部門の韓国、インドネシア、エジプト3作品、招待作からトルコ、日本(何と「パンドラの匣」が選ばれていた)の2作品を見た。

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 韓国の「バンドゥービ(Ban-doo-bee)」は、孤独な女子高校生ミンスーとバングラデシュからの季節労働者カリムの偶然の出会いを通して、韓国が抱える都会の孤独から人種、格差問題までをあぶり出した作品。

 ミンスーは母親が若い恋人を新しい父親にしようとしているのに反発、彼女なりの自立を目指してアルバイトに励むが、孤独だ。ある日、下校時のバスで乗り合わせたカリムが落とした財布をくすねた彼女だったが、カリムに見つかってしまう。その場は何とかやりすごした彼女だったが、双方が別々のトラブルに巻き込まれて同じ警察で再会することに。

 家族や学校での疎外感から孤立するミンスーと異国からの出稼ぎで不当な扱いを受けて孤立するカリムは、少しずつ互いの気持ちを理解するようになる。バングラデシュに帰国しようと決めたカリムを真夜中の海岸に連れ出すミンスー。海を前にしてカリムは「俺はちゃんと生活したかっただけだ」と叫ぶ。

 経済発展をした国には都会の孤独、格差、人種問題が現れる。この映画祭で10数年前に見た韓国作品は、失われゆく伝統を現代社会にいかに伝えるかが一つのテーマだったように思う。イム・グォンテク監督の「風の丘を越えて」(1993年)「祝祭」(96年)に出合った時、伝統を忘れさったかのような日本に対して、今、韓国も同じ危機を迎えている、と感じたものだった。

 その韓国が経済発展で得たものはとは。既に都会の孤独を扱った作品は登場している。異国からの出稼ぎ者の視点を絡み合わせなければならないぐらい、問題が顕在化しているということだろう。ただシン・ドグイル監督(41)は、これらの問題を深刻ぶっただけの表現にはしていない。真っ直ぐなミンスーと愚直ともいえるカリムとの組み合わせは自然とコミカルな場面を生むし、カリムに代わってミンスーが経営者にエキセントリックな反撃をする場面は爽快(そうかい)ですらある。でも、そこには心の痛みも含まれている。

091129-01.jpg人種問題も絡ませた韓国の「バンドゥービ(Ban-doo-bee)」

 2人をつなぐ最初のひと言はミンスーの「何か食べさせて」。日常の不満と孤独を「食」で何とかごまかしてきた彼女。カリムは「何を食べる?」を合い言葉に彼女との距離を縮め、彼女に母国料理を作ってごちそうする。

 ラストが印象的だ。学校をやめて自活を始めたミンスーは、昼食時にバングラデシュ料理店に入る。料理を注文する彼女に、店主が「お詳しいですね」と尋ねたときの「ええ、友人がいてね」と言うときの何ともいえない表情。手で直接料理を食べて、カリムを思い出す表情もだ。それでも最後はフォークで味わうミンスー。彼女は今の韓国そのものでもあるのだ。監督の演出、主演2人の演技の良さがあいまって、見終わった後も席を立ちたくない作品だった。

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 インドネシアのエドウィン監督(31)の「飛ぶことを夢見る盲目のブタ」は、インドネシア国内で否定される少数派、中国系の人々の生きざまを、リンダという若い女性を中心に描き出す。こちらも人種問題という政治的に微妙なテーマを扱うが、深刻でいながらお茶目に展開して引き込まれた。

 歯医者の娘リンダは花火を包んだパンを口にして点火する"花火娘"として有名だが、彼女の家族や友人たちは、中国系であるだけで、インドネシアは安住の地ではないのだ。過去と現在を行き来しながら個人的ともいえるエピソードをつなげていく。だが、戻っていくのは中国系の人たちのアイデンティティだ。

 鍵になるのはスティービー・ワンダーの名曲「心の愛(Called to say I loveyou)」。リンダが父親や幼なじみたちと歌うのが、この曲。上手にではなく、生の歌声で「三つの単語があればいい、それはI love You 」と何度も歌われる。現状がそうでないからこそ、この曲に思いを託さなければならないのだ。ひもでつながれたブタであっても、気持ちだけは無限大に広げることができるのだ。映画を見終えた観客の中には「I Just called to say I love you」を口ずさむ姿もあった。監督の歌に込めた思いが伝わったことを信じたい。

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 3本目はエジプトの「シェーラザード-私に物語を聞かせて」。千一夜物語の語り手をタイトルにした作品は、首都カイロのテレビ業界を舞台に人間のエゴが招く悲劇を語り尽くす。

 新婚の女性キャスター、エバは微妙な政治問題を扱うコーナーで成功していたが、夫は彼女のコーナーが自分の出世の命取りになりかねないと、コーナーのテーマを政治から個人的なことへと変えさせる。彼女は政治的には節度を持って、招いた女性から話を聞き出すことを始める。ところが、その中の1人から、夫をひいきにする政治家のスキャンダルを引き出してしまった。怒った夫は彼女を半殺しにしようとする。反撃して何とか番組に間に合った彼女は、殴られてはれた顔をさらしながら「今日のゲストは私自身です」と語り始める...。

 ヨスリー・マサラフ監督(57)は昨年、「水族館」で冬のカイロで生きる人たちの孤独と思わぬつながり(ラジオの対話コーナーが登場していた)を描いて印象的だった。孤独に捕らわれた彼らは水族館の水槽に入れられた魚と同じでしかない、がタイトルの由来だった。今回も、テレビという他人事の世界とすませられるものが、思わぬつながりから思い掛けない結果を招くという設定が秀逸だった。

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091129-03.jpg 招待作では、ここで冨永昌敬監督(34)の「パンドラの匣」に出合えたことがうれしかった。原作は生誕100年の太宰治が1945年10月から46年1月まで河北新報朝刊に連載したもので、宮城県内でオールロケ、河北新報も制作の応援をしたなど、思い入れのある作品だけに、フランスでの反応はどうなのかが大いに気になったが、好評だった。

 終戦直後の結核療養施設に入所した青年ひばり(染谷将太)が、看護師の竹さん(川上未映子)やマア坊(仲里依紗)、風変わりな仲間と繰り広げる人間模様を描いたもの。敗戦とともに「新しい人間」への生まれ変わりをかたくなに目指すひばりには、戦後初の小説に賭ける太宰の意気込みそのもののが重ね合わされているといってもいい。その生硬さが、出会いの中で柔軟になっていくさまが、何ともみずみずしく描かれていることか。日本の敗戦時は実感できなくとも、青春群像として簡潔な描写、芥川賞作家川上の気負わない演技や仲の天真らんまんさが、ナントの観客にも新鮮だったようだ。エンドクレジットが出る前に拍手がわき上がっていた。

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 トルコのカズィム・オズ監督(36)の「ラストシーズン:シャワーク」は、毎夏、東部の山岳地帯シャワークへ移住して羊の放牧を行う一家を追ったドキュメンタリータッチの作品。

 冒頭の雪に覆われる日々の描写が美しくも過酷だ。羊たちは春先に出産、夏を迎えるとトラックに積み込まれて大移動する。まだ雪が残る山岳地帯ではテントなどの必需品を大量に担う馬が足を滑らせて何度も転倒する。馬も起こそうとする人間も必死だ。ちょっと目にできない広大な広がりに圧倒される。その中で人間も羊も小さい存在でしかないが、日々の営みが明日を支える。大きく育った子羊たちと下山した後には、食肉処理される羊との別れも待っている。口笛と伝統楽器で奏でられたメロディーも印象深いものだった。

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091129-02.jpg 赤い服の女性が大海原を前に1人たたずむ。今年のポスターの図柄だ。彼女は何を思うのか? これまでは関連づけがなかった映画祭作品の冒頭に付けられたテーマフィルムが、今年はそのものズバリで、若干の種明かしをしてくれる。

 砂浜が次々とフィルムをはき出し、さまざまな国のセリフが聞こえる中、彼女はその砂が覆った階段を踏みしめて海へ向かって歩き出す。その横顔は憂えてはいない、きっぱりした表情だ。

 新体制で臨む31回目の映画祭。「シネマの地平線」の拡大は、大海原、もっと広い世界への出発を新たに表明したといっていいのかもしれない。

(桂 直之)