シネマに包まれて-映画祭報告

presented by 河北新報

(8)感服するパナヒ監督の作家魂

2011/05/23

 今年から、映画祭が1つの国を選んで、その国の映画を紹介する企画が始まり、最初の招待国にエジプトが選ばれました。これは今年の1月に民衆の抗議活動がムバラク大統領を辞任に追い込み、独裁体制を倒したことを受けてのことで、前のレポートでお伝えした"チュニジアへのオマージュ"も、同じ意図で企画されたものです。

 去年のレポートでもお伝えした通り、去年のカンヌは、イラン当局に突然逮捕・拘束されたジャファール・パナヒを助けるため、映画祭が彼を審査員に選び、結果として彼の不在が強調されて、表現の自由を奪われたイランの映画人の問題を世界にアピールした年でした。
その後、各国の映画祭や映画人が連帯して働きかけた結果、パナヒは、今は拘束を解かれて自宅軟禁状態にあります。そのパナヒがドキュメンタリー作家のモジタバ・ミルタマスブと共同で作った『これは映画ではない』が特別上映されました

 『これは映画ではない』という題名は、シュールレアリストの画家ルネ・マグリットの有名な絵<これはパイプではない>のもじりではなく、当局から20年の活動禁止を申し渡されているパナヒが編み出した、"映画でなければ何を作ろうと違反にならない"という苦肉の策。
その内容は、テヘランの花火大会の日、自宅でひとり留守番をするパナヒを友人のミルタマスブが訪れ、弁護士からの電話を受けたり(その内容から、パナヒにかかっている罪は法律上には存在しないもので、純粋に政治的な処置であったことがわかってきます)、ペットのイグアナに餌をやったり、隣人の犬を預かったりするなか、彼が撮ろうとしていた映画の内容を説明しようとする(パナヒ曰く"映画に作ることは禁じられているが、脚本を読むことは禁じられていない")1日を追ったドキュメンタリーです。

 "人は映画を撮ることで映画監督になる"と言ったのはアニエス・ヴァルダですが、逆の意味で、映画監督に映画を撮ることを禁じるのは、息を吸うことを禁じるようなもの。どんな手段でも創作活動を続けようとするパナヒ監督のゆるぎない強い意志と作家魂に感服すると共に、その勇気に拍手を送りたいと思いました。
写真は、『これは映画ではない』の上映前に、国外はもとより、家の外にさえ出ることが出来ないパナヒ監督に代わって会場の観客に挨拶するミルタマスブ監督(右)です。

20110523.jpg 今年のカンヌには、こういった特別な企画だけでなく、上映される作品にも政治を扱ったものが沢山ありました。フランスのサルコジ大統領やシラク元大統領といった政治家をそっくりの俳優が演じるグザヴィエ・デュランジェの『征服』や、フランスの架空の運輸大臣を主人公に、政治の裏側を描いたピエール・シェラーの『政府の演習』、コンペ作品のアラン・カヴァリエ『パテル』(ラテン語で"親"の意味)は、カヴァリエと俳優のヴァンサン・ランドンが"フランス大統領と首相ごっこ"をするというドキュメンタリーとフィクションの狭間にある面白い映画でした。

 そんな政治的な年だからなのか、映画祭の最中にドミニク・ストロス=カーンの事件が起こって、映画祭から世間の注目が奪われてしまったのは皮肉なことでしたが、最後にだめ押しのようにラース・フォン・トリアーの舌禍事件が起きてしまいました。

 事件の発端は、コンペに出品している新作『メランコリア』の記者会見で、映画にゴシックな雰囲気があると質問されたトリアーが、"自分はヒトラーに少し親近感を抱いている"と言ってしまったことでした。その場を取り繕おうと、冗談のつもりで"僕はナチなんだ"と言って笑いを誘ったものの、その日の午後、発言を問題視した映画祭から謝罪を求められ、トリアーもそれに応じて一端騒動は終結しました。
ところが翌朝、映画祭のオフィスで開かれた謝罪会見のときのフォトセッションで、今度はFUCKと書いた拳をカメラに突き出してみせ、反省の色のないトリアーに映画祭側も堪忍袋の緒が切れて、前代未聞の"ペルソナ・ノングラータ"(好ましからざる人物)処分が下り、トリアーの会場への立入が一切禁止されてしまいました。

 トリアーは、いわゆる紙一重の天才で、これまで何度も舌禍事件を起こしているうえ、特に最近は精神的に不安定な状態にあるので、映画関係者の間では"ああ、またか"という反応が多いのですが、ヨーロッパではネオナチの台頭が無視できない時期。真意はともかく、トリアーには公人としての自覚を持ち、発言・行動を謹んでもらいたいというのがプレス共通の思いです。

(齋藤敦子)