シネマに包まれて-映画祭報告

presented by 河北新報

(4)移動映写の価値再び/山形事務局 高橋卓也ディレクターに聞く

2013/10/16

yama13_04_01.jpgQ:高橋さんは、どういう形で映画祭に入られたんですか?

高橋:もともと山形フォーラムの一番最初の社員なんです。大学を出て山形に帰って図書館員とかトラックの運転手とか、いろいろ仕事をやってた頃、長澤さんが市民運動で映画館を作ったという新聞記事を見て、非常にびっくりして初日に見に行き、その2か月後には就職していました。最初は営業で1年くらい映画館の仕事をし、長澤さんには映画センターという自主製作の映画を地域で紹介していく仕事があるんですが、そっちに移って3年目ぐらいに小川紳介監督が『1000年刻みの日時計』という作品を完成して、見に行ったら非常に面白くて、小川プロには人がいないので、少なくとも山形県内は長澤さんと私で配給しようということになった。それがきっかけで小川さんとも知り合いになりました。映画祭が始まることは情報で知ってましたけど、直接のアプローチはまったくなかったし、行政がプロと組んで勝手にやっちゃうんだろうくらいに思っていたところ、小川さんが行政にやらせといちゃダメだ、山形に住んでる映画の好きな連中が関わった方が面白い映画祭になると言って役所に電話してくれて、担当者と私が会って、山形県内でいろんな映画の取り組みをやっている若い人たちがいるから、その人たちを集めて映画祭の応援団を作りますということで、映画祭が始まる2か月前くらいにネットワーク組織を立ち上げたんです。

Q:今のような立場になられたのは?

高橋:2007年からNPO法人の事務局長になっていますが、映画センターの仕事が面白かったので、すぐ映画祭に入りたいとは思いませんでした。

Q:最初は手伝うという感じだったんですか?

高橋:山形では行政より我々の方が映画の宣伝力もあるし、人を組織する力も持っていたんで、自分たちが納得のいく、自分たちが面白いと思える映画祭にしたい、という気分で関わっていました。2005年の映画祭には、ちょうど仕事がなかったんで事務職員として入って内部の人間として関わり、映画祭が終わったときに、行政の方から独立しないかという話が出たんです。行政が民間に委託するというと、予算を減らして、いずれ潰すのが目的なんじゃないかと心配をする人がたくさんいて、周りから止められたんですが、その当時の現場にいる専門委員の人たちが独立した方がいいと一番思ってたので。私としては現場の感覚を優先すべきだろうし、現場の人間が生き生きしていないと映画祭もつまらないと思って。

Q:それで事務局長になられたということですね。藤岡朝子さんにインタビューした際に、高橋さんが映像文化都市宣言をやろうとしていると聞いたので、そのことについてうかがいたいんですが。

高橋:映像文化創造都市というのは、基本的に映像を見る、あるいは上映するといった映像文化を深める活動の中で、まち作りに貢献できる可能性があるというものです。たとえば、子供に映画の作り方を教えたり、地域の歴史や家族を記録するような映像の綴り方みたいな教室を開いたり。映像は内省的な部分があると同時に発信力のあるメディアですから、それを地域でいろんな形で活発化することで地域も面白くなり、子供たちも新しい表現を学べるんじゃないか。そういう役割を映画祭が恒常的にやっていくべきだろうと。国際映画祭を2年に1回開催する準備もしながら、映像文化が持っている教育力や地域を見つめる力、発信する力を常に地域の人たちと共有する。それによって映画祭のファンも当然増えていくと。

Q:映画祭をやってきて、受け取り方が変わってきたというようなことはありますか?

高橋:我々自身が地域の人たちの中に入っていき、実際に映画祭のことを話す生の体験が増えてきていることです。映画を共有する喜びは、ものすごく充実感があるんです。ほっとけば上映会もないようなところに、たとえばコンペティション作品でも県内で配給できる作品でもいいんですが、学校に行って「こういう作品があるんですが」と、先生とお話したりすると、「ああ、映画祭って2年に1回イベントやるだけかと思ってたけど、そうじゃないんだね」と言ってくれる。そういう認識を新たにしてくれる体験というのは、我々にとってすごく勇気が出ることなんです。

 それから、今は山形県内だけでなく全国的にそうですけど、映画教室というのがまったくないんですね。週休2日制になってそういう芸術教育というものがなくなってしまった。たぶん映画が一番最初になくなったと思います。20年前には、私自身がしょっちゅう小学校に行って映写機を回して、子供たちが変わる瞬間や喜ぶ瞬間を見てきたんで、それがまったくないのは、やっぱりどこかおかしい。いい映画を大人たちが薦めなくなっているというのもあるし、映画との接点がすごく少なくなってきている。昔は大人たちが子供たちにいいものを見せようとお金も時間もかけてやってて、ありがたかったですが、それが今、まったくないんです。それで、我々がやっていることが単にイベントで終わってしまわないように、受け手側の、子供たちに映画を見せようという大人の意識の変わり方をシステムとして確立しようと。

 あと、県内に眠っていたフィルムがここ数年いろいろ出てきているんです。今回オープニングで上映した山形市公報ニュースですが、これは昭和30年代のまだ放送局が出来る前に行政マンが東京に修行に行ってカメラの使い方を覚えてきて、地域を記録したのを映画館で本編の前にニュース映像として上映していたもので、今見ても非常に面白い。山形の人たちの暮らしがそこに本当に非常にボリュームのある情報量として写っていて、それをフィルムとして修復して残しておくことと、データに変換して、たとえばDVDにして公民館で上映する活動も今やり始めています。

Q:映像文化創造都市宣言をすると、どういう風に変わる?

高橋:どういう風に変わるかは正直あまり見えてないんです。1つには教育の世界に映画をもっと入れたいということ。それから地域の記録に市民がもっと積極的に取り組んで、それを皆で共有したい。映画祭でも公民館の上映でもいいんですが、それをやりたい。それから震災に関するフィルムライブラリーを山形で作りたいんです。これは映画祭が25年の歴史のなかで培った信頼度を背景にやらなければ出来ない仕事だと思うんです。

 震災に関しては出版物とかチラシとか新聞とか、いろんなライブラリーが作られていると思いますが、配給者がいて映画製作者がいる映画作品は、配給が終われば仕舞われてしまう。それを商業的な価値などを超えた、同じ東日本大震災の記録として、ニュース映像でなく、作家が作ったしっかりした映像として、半永久的に保存することを誰かがやらないとダメだと思ったんです。そのことをきっかけにフィルムライブラリーというものの価値に気づいた。フィルムライブラリーの活動として、さっき言った山形県内の映像を集めて保存して修復し、それを展開していくような事業も出来るだろうし、子供たちに映像教育をする拠点としても活用できるんじゃないか。フィルムライブラリーが持っている機能をもっと拡大できるんじゃないかと思っているんです。そのためにはお金も人ももっと必要ですから、それは映像文化創造都市という考えの中でする。貴重な映像を保存し活用していこうという考え方に市民がなっていかないとたぶん無理だと思います。

Q:震災をきっかけに、山形の人たちにドキュメンタリー映画や映画祭への期待が高まったのではないかと思ったんですが、手応えのようなものがありましたか?

高橋:1つ思ったのは、被災地に映写機を持って上映会に行ってたときのことです。日本映画の歴史の中で移動映写の歴史って結構あるんですよ。被災地のがれきに囲まれた小学校で電気がやっときたというようなところで、なんとか落ち着いたから映画を上映しに来てくれという話があって、行くと本当にひさしぶりに映写機のそばに皆さんが来てくれて握手してくれ、"ああ、映画って人の役に立つな"と思いましたね、変な言い方ですけど。

Q:作品は何を写したんですか?

高橋:石巻の湊小学校という石ノ森萬画館から一番近い小学校は、自治組織というか被災者の人たちがまとまってて、自治会長さんから"寅さんの48作目をやってくれ"と。"なんでですか"と聞いたら、48作目は寅さんの一番最後の作品なんですが、神戸の震災で炊き出しをするシーンがあって、それが見たいからとおっしゃって。で、改めて見てみたら初っぱなから出てくるんです。とらやで、さくらとおいちゃん、おばちゃんが神戸の震災のテレビを見ている。「大変な思いをしてる人がいるね。ところで、うちの寅はどうしてる?」といってカメラがずっと寄っていくと寅さんが炊き出しをしていて「あそこにいた!」っていう(笑)。それをぜひやって欲しいということで上映しに行きました。体育館には、なぜかスクリーンが垂らしっぱなしになっていて、そのちょうど中間に、ここまで水が来たというラインがあった。そのスクリーンは使いませんでしたが。中は全部泥出しが終わって、皆さんの食事の場所になっていたんですけれども、そこで上映しました。そしたら寅さんに炊き出しのやり方を教えた方がボランティアで来ていたんです。下見に行ったときに、「来週ここで映画を上映するんです、寅さんの48作目で」と言ったら、「私、渥美さんに炊き出しを教えました」という方がいた(笑)。

Q:奇遇ですね。

高橋:神戸の人たちが真っ先に来てくれたんですね。映画は立派な映画館で見るということじゃなく、人の中に映画を運んで行くという行為そのものが映画を伝えていくことなんだな、役立つんだなと思ったことと、震災なんて我々がまったく経験したことがないことで、それと映画がどう向き合えるかといえば、まったく解答がない。だけど震災を見つめることで何か作り出したいという若手の人たちがたくさんいる。実際に被災地に行って、そこの人たちと一緒に映画を作っている人たちが今回たくさん作品を出してくれたんですから、まだまだ映画の役割は終わってないという気はしますよね。映画祭は、ドキュメンタリー映画という、なかなかメジャーになりにくい世界で、震災と向き合って作品を作っている人たちの発表の場にならなければいけない。それに、その作品が1回上映されて終わりではなく、ライブラリーという残し方が出来るのは、東北では山形しかないと思っているんです。ですから、自分たちがやった方がいいと思うことが増えた、というのが1つの手応えですね。

Q:映画祭があることで点が線になり、線が面になって、広がりが出来ていくような気がしますね。

高橋:震災の年、予算が通る前に山形にもっと大きい震災の被害があれば映画祭がやれてなかったわけで、我々は滑り込みセーフだったという感じがあった。そのときにふと、東北の他の映画祭はどうなってるんだろうと思って連絡を入れてみたら、皆"他はどうなっているんだろう"と心配してたと言うんです。何とか映画祭はやれそうだけど予算は少なくなったところとか、通常の時期にはやれなくなって3か月後にやることになったところとか、いろいろあったけど、皆が"やりたい"って言うわけです。そのとき初めて十いくつかの映画祭と連絡をとりあった。そこで共同声明文を出そうという提案をして、山形で共同声明文を書いたら、"山形の文章は甘い、もっと自分たちの言葉で声明文を出したい"ということで11枚の声明文が集まり、仙台で記者会見を開いて1か所1か所が声明文を読み上げた。そこで初めて東北というところで映画祭をやっている人たちの顔をまじまじと見て話すことが出来たんです。

Q:地震で揺れて見えてきたものがあったんですね。

高橋:ありました。移動映写の価値も見直されたし、映画の仲間も改めて意識したし、悪いことばっかりではなかったですね。
(10月14日、山形にて)

(齋藤敦子)