シネマに包まれて-映画祭報告

presented by 河北新報

(4)若者と世代間対立描く/イランの「ルールを曲げる」

2013/11/29

2013nantes_p_04_01.jpg 24日はコンペ作品からイランの「ルールを曲げる」、招待作から中国の「DISTANT」、アルジェリアの「過ぎ去った日」の2本を見た。日曜日とあって商店街、マルシェには子ども連れの人が集まり、映画館も前日に負けない観客で賑わった。

 「ルールを曲げる」(2013年)は、学生たちのアマチュア劇団が、海外の祭典に招待されるのだが、団員の1人と親の意見の食い違いで、旅行そのものが危うくなる、という中で、現代イランの若者の仲間意識と世代間の対立を描いたもの。

 団員たちは親たちに「修学旅行に行く」と説明して了解を取り付けていたが、シャハザドだけは父親に正直に話したことで、父親は旅行に反対。彼女を行かせまいとして、パスポートを取り上げてしまう。彼女は父親と話し合うが、話は平行線。彼女は団員仲間と家探しし、パスポートを見つけ出すのだが、父親は、団員たちの練習場を訪れ、娘を帰すように迫る。一度は父親と帰宅したはずの彼女は、車から飛び降りて、行方不明になる。彼らは公演旅行に出発できるのだろうか?

 ベハナ・ベザディ監督(41)は、練習場ともなっているカフェに集う劇団員を個性豊かに描き分けて、現代イランの若者像を浮かび上がらせる。その一方で、厳格な、それでいて娘思いの父親と娘との溝は埋まらない状況を丁寧に描く。彼女を気遣いながらも、それぞれが違った反応を見せ、団員間でも意見が割れそうになる。

 それぞれが、自らを「正しい」と思い、主張だけをぶつけ合うのでは、合意点は見いだせない。若者と父親の"仲介役"的に叔父が登場するのだが、父親の主張の一途さにサジを投げてしまう。シャハザドは、自分が原因で公演旅行を駄目にしたくない意識から、父の気持ちに素直になれない。

 団員たちは、彼女の代役を立てて練習を始めるのだが、出発時刻が迫る中、リーダーは結論を迫られる...。
 団員たちのカフェの中での動きは、モバイルカメラで機動的にとらえ、リーダーらの即興的な音楽を、シーンに合わせてはめ込むことで、若者同士の親密さ、その対極の世代間の緊張関係をも暗示させる演出は出色だ。
 
 招待作の2作品はそれぞれが問題作だ。中国の「DISTANT」(2013年)は、見ようによっては映画作法を全く無視した作品だ。夜の港、燈台の灯りが点滅する冒頭はまだいいとして、都会のバス停を遠くから固定カメラでとらえたまま、バスが何台か停車して、人間が乗り降りするのだが、カメラが昇降客をアップすることもなく、場面転換する。今度は公園だろうか、車がやってきて2人が降り、何か作業をして立ち去る。何の作業かは分からない。どこかで携帯の呼び出し音が...。突然、ウエディングドレス姿の女性が携帯を手に現れるが、彼女も遠景のまま。携帯と花束を投げ出すのだが、どうしてなのかは分からない。登場する13の場面が、すべてこの調子だ。

 ヤン・ツェンファン監督(28)は、上映前に、「ある種のドキュメンタリー。中国の都市風景を遠くに置いて切り取ることで、都市のもつ不条理さや矛盾などが見えてきて、ユーモアさえも発するのではないだろうか」とあいさつしたのだが、その意識先行とフィクションとしての映画が、ちゃんとマッチングしたのだろうかと、疑問に感じた。

 誰かが主人公で、行為には意味がある、という先入観を捨てろ、というのが監督の狙いだとしても、ここまで突き放されると、神経がジリジリしてしまう。それだけ、今の中国の都市の日常とは疎外に満ちているのだろうか。ささいなユーモアも、小さく笑えるというのではなく、トゲと毒を含んでいるようにも感じた。

2013nantes_p_04_02.jpg アルジェリアの「過ぎ去った日」(2013年、アルジェリア・仏合作)は、アルジェリア内戦を扱って、同じ国民でありながら、互いに分かり合えないものがあったことを描いていて、内戦を知らない日本人には、本当には理解できないテーマだと思い知らされた。

 アルジェリア内戦は、政府軍と複数のイスラム主義反政府軍との対立が1991年から2002年まで続き、「暗黒の10年」「テロルの10年」といわれた。カリム・モサウイ監督(37)は、「どうしてわれわれは、相手サイドに立てないのだろうか」のテーマを、2つの視点、同じ学校に通う、若い男女の目を通して、しかも同じ時間帯で描く試みで、1994年の内戦状況での、双方の隔たりと救いのなさをあぶり出している。

 ダジャベーとヤミノは同じ学校に通い、彼は彼女を憎からず思っている。最初は彼の視点から。政府寄りの彼女の家族とは親密にできない状況、でも彼女を守ろうとする彼。政府よりの人間への発砲事件があり、彼女は学校を離れことになる。何も言えないままの別れ。今度は同じ時間帯が彼女の視点から描かれる。彼も彼女も主体的に内戦にかかわっている訳ではなく、親やグループがそうであるだけなのだが、目に見えない境界が常に意識されている。発砲事件の捜査が進展することもなく、彼女の一家は引っ越していく。彼女の視線から見た、彼の表情の、どうしようもない虚ろさは、彼が彼女を見送った表情以上に訴えるものがあった。
 
 彼に視点ではなかった、最後の場面が衝撃的だ。彼女の車が走り去った後、倉庫のような場所を警戒していた警察官たちが、ある集団に襲われて全員射殺される。この時期、内戦は、政府軍と警察官を標的にすることから、民間人攻撃へと憎しみの連鎖は拡大していった。牧歌的な風景の中での淡い思いは、子ども時代の記憶にしかとどめることがないのだ。アルジェリアの作品では、内戦を扱った作品に度々出合った。監督の問いは、未だに答えが得られていない、ということなのだろう。僕の想像力で、どこまで近づけたのかは分からないままだ。

写真(上) 父親の説得に頭を悩ますことになるシャハザド(「ルールを曲げる」より)
写真(下) 引っ越していく少女の目から見たダジャベーの表情(「過ぎ去った日」より)


        <<<    >>>

2013nantes_p_04_03.jpg

                        ホットワインの香りが漂うマルシェ

 日曜日、映画の合間を縫って、今年も、映画祭の通訳ボランティアとして知り合った日本人女性の3家族と食事をともにした。1つの家族には姉妹に新たに男の子も加わった。それぞれの家族が料理やケーキを持ち寄って、いろいろなことを話し合う。

 今年のナントは例年以上に寒いということだった。カトロザ前で20~30分並んで待たされると、夜はダウンコートを着ていても足踏みをしないと耐えられないぐらいだった。値上がりが相次いでいて、暖房をどうするかが話題になり、3家族とも何と、湯たんぽを愛用していることが分かった。実は僕も、昨年から愛用している。

 それだけではない。お湯を毎回捨てる家庭はなかった。何度か沸かし直して使うのだが、そのためだけのポットを用意していて、5~6回使うという、徹底ぶりには、ちょっぴり驚かされた。エコも徹底しなければならないのだ。見習わなければ!

 夕方、映画に戻る前にパレス・ロワイヤルのマルシェをのぞいてみた。例年と変わらぬ店構えだが、扱う品物には目新しいものも。電飾は丸い円形からダイナミックな光の束が連続して飛び出している形で、「ここ数年では一番」との声も出ていた。ホットワインの鼻を強烈に刺激する香りの誘惑を振り切って、カトロザに向かった。

2013nantes_p_04_04.jpg                        ダイナミックな今年の電飾

(桂 直之)