シネマに包まれて-映画祭報告

presented by 河北新報

(6完)最優秀は「バシールとワルツを」

2008/12/01

 最終日の11月30日夜、会場の有楽町朝日ホールで授賞式が行われた。最優秀作品賞には、カンヌ映画祭で高く評価されながら無冠に終わったイスラエルのアリ・フォルマン監督の「バシールとワルツを」に。審査員特別賞は、中国のユー・グァンイー監督のドキュメンタリー「サバイバル・ソング」と、アメリカに住む韓国人ソヨン・キム監督の「木のない山」の2本で、副賞のコダック社からの8000米ドル相当のフィルム・ストックを2つに分けての受賞となった。

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最優秀作品賞「バシールとワルツを」の
アニメーション監督ヨニ・グッドマン氏

 授賞式に先立って、昼過ぎに行われた審査員の記者会見によれば、5人の審査員の間で早くから3本に作品が絞られたとのことだった。戦場に赴いた元兵士たちの悪夢の記憶をドキュメンタリーではなく、アニメーションという手法で描いた「バシールとワルツを」の実験精神と完成度の高さ、「木のない山」のドキュメンタリーとフィクションの狭間の新鮮さ、「サバイバル・ソング」のユー監督のドキュメンタリストとしての確かな視線は、今回のコンペ作品の中で抜きん出ていたように思われ、納得の受賞結果だった。

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2008年の受賞者と審査員の記念撮影

【受賞結果】
◆最優秀作品賞
 「バシールとワルツを」監督アリ・フォルマン
◆審査員特別賞
 「木のない山」監督ソヨン・キム
 「サバイバル・ソング」監督ユー・グァンイー
◆観客賞
 「愛のむきだし」監督 園子温

(齋藤敦子)

(5)韓国人作家の底力

2008/12/01

107.jpg 一時は日本の茶の間や映画館を席巻する勢いだった韓流ブームが凋落のきざしを見せている。韓国映画にお客が入らなくなり、配給会社が手を引いているという話もあるし、あれほど成功していたプサン映画祭も、かつての面影はないという噂も耳に入ってくる。韓国映画に何があったのかは専門家の分析に任せることにして、今回フィルメックスで見た韓国映画2本に、私はブームとはまったく違った地点にいる韓国人作家の底力を見た。

 1本は、特別招待作品の「夜と昼」(Night and Dayという海外向けにつけられた英語タイトルは"夜も昼も"と訳すべきだろう)で、今年のベルリン映画祭のコンペ作品である。監督のホン・サンスは、男女の恋愛をテーマに、人間の悲しさ、愚かさを独特のユーモアに包んで描くのに卓越した、私が最も注目する韓国人監督である。今回は、大麻問題で逮捕されそうになって、パリに逃避することになった中年の画家が、元恋人に再会したり、絵を勉強しに来た留学生の娘に恋をしたりする姿を描いたもの。パリの韓国人コミュニティーという狭い社会の中で、韓国男のマチズモ(男性優位)を封じられ、自分より年下の女たちに翻弄される中年男の姿には思わず微苦笑を誘われた。韓国の土を離れたことで、ホン・サンスの登場人物が本来持っているユーモラスな部分が、よりくっきりと表面に出てきていたように思われた。

 もう1本は、米国在住の韓国人ソヨン・キムの監督第2作で、コンペ作品の「木のない山」だ。主人公は母親の都合で幼い妹と共に伯母の家に預けられた6才の少女ジン。ブタの貯金箱が一杯になったら帰ってくるという母親の言葉を信じ、イナゴを獲っては売ってお金を貯め、大きな金を小銭に替えることを思いついて、貯金箱を一杯にするが、母親が帰って来ない。やがて伯母の家から祖父母の田舎の家に預けられることになり、祖父から冷たくあしらわれながらも、温かい祖母に受け入れられ、姉として成長していく。

 特にすばらしいのはドキュメンタリーと見紛うばかりの自然な演出だった。姉の方はキム監督がソウルの小学校を回り、妹はスタッフが孤児院を回って見つけたという。その二人の幼い少女を、"ドラマ性を廃したドラマ"の中に置き、自然な表情を引き出した手腕とセンスは卓越していて、林加奈子ディレクターの"今やドキュメンタリーやフィクションの線引きをしなくてもいい時期にきている"という言葉を体現するような作品だった。キム監督はアート畑の出身で、映画は映画学校ではなく、ご主人でもあるプロデューサーで映画作家のブラッドリー・ラスト・グレイ氏の撮影を手伝うことで実地に学んだという。韓国映画に今必要なのは、もしかしたら、キム監督のような、"外からの視線"なのかもしれない。

(齋藤敦子)

写真は、「木のない山」上映後の質疑応答の模様。ソヨン・キム監督(中央)、プロデューサーのブラドリー・ラスト・グレイ氏(右端)

(4)サンパウロ映画祭代表 レオン・カーコフ氏に聞く

2008/11/30

04filmex_01.jpg 林加奈子ディレクターとのインタビューにも出てくるように、今年は日本人のブラジル移民百年の記念の年でもあり、フィルメックスでは、ウォルター・サレス&ダニエラ・トマス共同監督によるブラジル映画「リーニャ・ヂ・パッシ」がオープニングを飾り、シネマ・ノーヴォの知られざる監督ジョアキン・ペドロ・デ・アンドラーデの特集が組まれた他、サンパウロ映画祭が製作した17話のオムニバス短編集「ウェルカム・トゥ・サンパウロ」が特別招待作品として上映されている。

 今年はカンヌ映画祭でも「リーニャ・ヂ・パッシ」と並んで、ブラジル出身のフェルナンド・メイレレスの「ブラインドネス」がコンペに選ばれた他、アルゼンチンのパブロ・トラペロの「レオネラ」とルクレシア・マルテルの「顔のない女」がコンペに選ばれ、南米映画の活躍が目立った年だった。グラウベル・ローシャやネルソン・ペレイラ・ドス・サントスら、シネマ・ヌーヴォの作家の活躍は世界的に有名だが、その後、大きなブランクのあるブラジル映画の現状について、審査員として来日中のレオン・カーコフ氏にお話をうかがった。

-シネマ・ヌーヴォの後のブラジル映画について、私たちのところに何も伝わってこなくなってしまったのですが、最近の復活までの間に何があったんでしょうか。

 カーコフ「それは、様々な意味での繋がりが断ち切られてしまったからなんです。一つは1964年に始まる独裁政権の影響です。シネマ・ノーヴォの作品が公開されたり、海外に送られたりするのはよかったんですが、その後、検閲が次第に厳しくなっていき、映画の企画にまで検閲が加えられるようになりました。85年に独裁性が終わり、選挙で選ばれた大統領による民政に移行しましたが、オフィシャルな製作会社エンブラフィルメ(映画公社)を閉鎖してしまい、それまでブラジル映画が持っていた、海外の映画祭や映画人との関係をすべて失わせる結果になったんです。それが世界からブラジル映画が消えてしまった理由の1つです。その後、別の方法で援助を得る手立てが少しずつできてきて、ブラジル映画が再び見られるようになったというわけです」

-今年はブラジル映画だけでなく、アルゼンチン映画が2本、コンペに登場しましたが、最近、南米の映画がどんどん世界の映画祭に登場してきているので驚いているんです。

 カーコフ「パブロ・トラペロの作品はウォルター・サレスの会社との共同製作なんですよ」

-そう言えば、ブラジル・アルゼンチン両国で撮影されていましたね。というと、何か協力体制のようなものが出来ているということでしょうか。

 カーコフ「国のレベルではなく、人と人の関係です。ブラジルは国としては南米のどの国とも関係を持っていません。人と人との関係なんです。パブロ・トラペロとウォルター・サレスとの出会いがあり、彼らが友人になったので、サレスが「モーターサイクル・ダイアリーズ」をアルゼンチンで撮影する際にトラペロが協力し、今度はサレスが協力したというわけなんです」

-数年前にヴェネチア映画祭で見たトラペロの「ファミリア・ロダンテ」はすばらしい作品でした。南米では、例えばパラグアイの「ハンモック」やウルグアイの「ウィスキー」など、面白い映画が次々に出てきています。

 カーコフ「実は、ブラジルには国際協力について協定のようなものはあるんですが、まるで機能していません。それにブラジル人は南米映画に何の興味もないし、アルゼンチン人はブラジル映画など見ません。観客が興味を持つのはアメリカ映画であって、南米の映画ではないんです。まずアメリカ映画、次にヨーロッパ映画、少しアジア映画という具合です」

-カーコフさんが代表をなさっているサンパウロ映画祭は、どのような映画祭なんでしょうか。

 カーコフ「77年に私が創設したんですが、まだ独裁政権下で、映画を見たり、批評したりする自由を求めたプロテストの意味もありました。それで運営には非常に苦労しました。というのも、上映される映画を事前にすべて当局に見せねばならなかったからです」

-というと、作品によっては上映を拒否されたりしたんですか?

 カーコフ「検閲というよりは映画祭の運営を邪魔するのが目的でした。だから、当時、上映を拒否されたのはたった1本だけなんです。非常にキッチュな中国の短編映画で、洗脳がテーマで、幼稚園の園児が"社会主義のリンゴはより赤い"と歌を歌うんですが、それがプロパガンダだと言うんです(笑)。まったく馬鹿げていますよ。上映禁止はその1本だけでしたが、当局との折衝で、いつも非常に消耗させられました。

 私たちの映画祭は若い映画作家に上映の機会を与えるのが目的で、最も大きな賞は監督第1作か2作目までの若い監督が対象です。それに、観客に優先権を与えるというコンセプトは創設当初から今も変わっていません。サンパウロ映画祭ではまず観客が映画に投票し、その上位20本を審査員が審査するんです」

-それに「ウェルカム・トゥ・サンパウロ」のような大きな企画も実現なさってますね。

 カーコフ「規模は大きいですが、実は資金ゼロの企画なんです。これは今の映画製作に対するプロテストとして作ったものです。というのは、今、映画監督は資金でも設備でも非常に恵まれ、プロデューサーに守られていて、出来上がった映画に観客が集まるかどうかに注意を払わないようになっています。既に監督料を受け取っていますからね。それで、何の補助もなく、資金ゼロで映画を作ってみようと思ったんです。それで、企画に賛同してくれた海外の友人の監督たちに事前に何の説明もせず、ただサンパウロに来てもらい、ビデオカメラを渡して街を撮ってもらった、とういわけです」

-つまり、外国に配給するためではなく、自国の若い映画作家に、こういう方法があると教えるために作ったんですね。

 カーコフ「そうです。そして重要なのは外からの視線で撮ったということです。日本でも同じだと思いますが、毎日家を出て仕事に行きますよね。そういう日常を内からの視線でなく、外から見てみる。するとまったく別のものが見えてくるでしょう。その視線が大事なんです」

04filmex_02.jpg-では、あなたという外からの視線で、今の若い日本映画を見たご感想は?

 カーコフ「新鮮さと誠実さが特徴ではないでしょうか。普通の人々に向ける視線は他のどの国よりも誠実ではないかと思います。特撮なしで、普通の人々に密着し、彼らの日常を誠実に撮っている。そこがいいですね」

 (齋藤敦子)

写真(上)サンパウロ映画祭代表で審査員のレオン・カーコフ氏
写真(下)28日に丸の内カフェで開かれたシンポジウム「それぞれの映画、日本映画篇」の模様
右から俳優の西島秀俊氏、寺島進氏、ヴァラエティ・ジャパン編集長の関口裕子さん

(3)故郷喪失の現実 「サバイバル・ソング」

2008/11/28

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 コンペティションの中国映画3本のうち、ヴェネチア映画祭の批評家週間で既に見ていた「黄瓜(きゅうり)」を除く2本を今回、見ることができた。

 そのうちの1本、ユー・グァンイー監督の「サバイバル・ソング」は、黒龍江省長白山脈で暮らす人々についてのドキュメンタリーである。その一帯は、急激に人口が増加した大都市ハルビン市に飲料水を供給するための貯水池建設のため、何十万もの人々が家を失うこととなったという。主人公の猟師ハンの家は貯水池の予定地から15キロ離れているために難を逃れたが、冬は雪に閉ざされる山の中の一軒家で、ハンは妻と二人で暮らし、娘2人を都会に出している。普段はヤギを飼い、冬になれば野生のイノシシを獲って暮らす。山の生活は厳しい。そのうえ、ハンは密猟を摘発されて拘留され、ハンの家は薬草の栽培用地に指定されて当局の手で取り壊されることになり、一家は離散の憂き目に遭うのだ。ユー監督はそんな猟師の生活をフィルムに収めながら、次第に、ハンの家で下働きをする小李子(シャオリーズ)という男に興味を移していく。

filmex08_photo02.jpg 家もなく、家族もなく、教育もない。拾ってくれる家があれば下働きをして生活する。小李子は悪人ではないが、隙あればハンのヤギも盗むし、ハンの妻のトイレを盗み見たりもする。歌が好きで、いつも一人で歌ったり踊ったりする。私は彼に魯迅の阿Qの姿を見た。百年近く前、辛亥革命の頃の亡霊が、今の中国に生きて現れた驚き。結局、庶民は何も変わっていないのだ。この貯水池だけでなく、三峡ダムの立ち退きも含め、今も何十万、何百万の人々が流民・棄民となっている。清朝末の混乱時と同じとは言わないが、突然家を奪われ、故郷を捨てねばならない現実が、まだそこにある。

 エミリー・タン監督の「完美生活」は、今年のヴェネチア映画祭のオリゾンティ部門で上映されている。マルコ・ミュラーのお薦め作品だったが、サプライズ上映でスケジュールが合わなかったために見逃していた。主人公は2人の女性、一人は中国東北部で暮らすリー、もう一人は香港で暮らすジェニーで、リーの部分はフィクション、ジェニーの部分はドキュメンタリーとして撮られている。21歳のリーは歌も踊りも出来ないのに瀋陽の歌舞団の試験を受けたりする。何かがやりたいが、何がやりたいか分からず、何も出来ない。結局、ホテルのメイドとして働き始め、そこで脚の悪い中年の画商と知り合い、絵を深圳に届けることになる。一方のジェニーは香港人の夫と別れ、深圳に戻ろうとする。この二人の物語が交互に描かれていく。

 原題の完美生活とは完璧な生活のこと。誰もが求めるが、誰にも得られない夢のことである。リーもジェニーも、共に完璧な生活にあこがれ、ここにはない、どこかを目指して家を出る。ある意味でこの二人の女性もまた、現代中国の流民ではないかと私は思う。

(齋藤敦子)

写真(上)ユー・グァンイー監督

写真(下)エミリー・タン監督(右)とプロデューサーのチャウ・キョン氏(左)

 

(2)ディレクター 林加奈子氏に聞く

2008/11/23

  FilmEx2008 003.jpg-今年9回目を迎えたフィルメックスですが、この9年でどういう風に変わってきたでしょうか。

 林「難しい質問ですね。フィルメックスは年を経るごとに少しずつ規模を拡大して何百本も上映するというような映画祭ではないんです。規模としてはニューヨーク映画祭と同じくらいでしょうか。あそこも厳選した20数本しか上映していませんよね。フィルメックスも同じで、コンペティション10本でアジアの若手の新しい才能を日本の観客に紹介し、世界にアピールしていく。それに、特別招待作品の10本程度で新しい流れを提案する。これは映画祭全体を通してのコンセプトでもあります。というのは、東京にいても、今の世界の最先端がどうなっているのかがわかりにくいという状況があると思います。これは配給システムの問題でもあるんですが、公開に時間がかかったり、タイミングがずれたりする。それで、フィルメックスは2008年に世界で起こっている、最も新しい流れを日本の観客にきちっとお届けしたい。それをアジアに限らず特別招待作品の枠で紹介する。実は、これまでの特別招待作品はアジア映画が多かったんです。それは予算の制約もあったんですが、実際にアジアの映画が世界を引っ張っているという状況もありました。でも、今年はマケドニアやドイツ、フランスもあるし、特にブラジルは、クラシックでアンドラーデの特集、オープニング作品のウォルター・サレス&ダニエラ・トマスの「リーニャ・ヂ・パッシ」、それに短編集の「ウェルカム・トゥ・サンパウロ」もあるという、例年より多彩なプログラムになっています。映画を作る人達は1本1本の作品で主張するわけですが、映画祭は、映画祭全体で新しい流れを観客に届けるのが役割だと思っています」

-今はアート系の映画配給が難しい時代だとヴェネチア映画祭のマルコ・ミュラーも語っていました。

 林「80年代、90年代、東京でミニシアターが隆盛を誇っていた時期がありましたよね。ブルータス座まで含めて、多様な映画を見ることができました。あの頃はカンヌでも配給業者が血眼になっていい映画を探していたし、私達も映画を見るためなら、かなり遠くの映画館まで足を運んでいた。ところが、レンタルビデオが普及し、DVDでも映画が見られるようになり、何でも見られるようになると、逆に何にも見られないようになってきたと思うんです。ミニシアターの頃の、"ここで見ないと、もう見られない"という切実感は本当に大事だったと思います。そして21世紀に入り、本当にいい作品を上映しても観客が入らないようになってきた。こうなると、配給する方も二の足を踏まざるを得なくなる。観客が来てくれることがわかれば映画は配給されるわけなので、これは業者の問題というより、観客の問題であると思います。

Film'Ex2008 021.jpg 例えば、今、映画監督を志している人達でさえ、"侯孝賢て誰?"というような現実がある。フィルメックスは映画を教えている教授達を通じて大学にチラシを置いてもらったりしているんですが、チラシを見て教授達は興奮してくれるのに、学生達はどれを見たらいいのかわからない。「これを見なさい」と言わないと見るべき映画がわからなかったりするんです。侯孝賢の映画を1本見て、その凄さがわかり、過去の作品を見たくなれば、手近なところにDVDがあるのに、そこまでの行動がなかなか起きない。映画に対する能動的な動きが出ない状況にあるような気がします。

 毎年、フィルメックスには、映画を見続けている、コアで深い映画ファンが来てくれているという手応えは感じます。ただ、熱狂的な映画ファンとは別に、いい映画があれば見たい人、世界の新しい動きを知りたいと思っている人がいるはずです。フィルメックスは、そういう人達、映画を美術や演劇などと同じ文化として、広く文化全般に興味のある人に届けたいと思うんです。去年からチラシも、美術館などに置いてもらえるような形状に変えました。宣伝費をかけ、タレントにフィルメックスの名前を連呼してもらって名前だけを浸透させるより、いい映画を見たいと思っている人達に、ちゃんと情報が届くようにしたいと思っているんです」

 -今は世界のすべてがデジタル化し、観客を取り巻く状況も変わってきたと思います。ネットや携帯で情報も簡単に得られるし、何でもランキングで表され、ランキングに入らないものは無視されてしまう。そこに批評が何の力も及ぼしていない状況に批評家としての反省もあるんですが。

 林「自分自身の評価は大事ですよね。私はこの映画をこう受けとめたという思いが大事だと思う。視聴率や観客の動員数ではなく、大切なのは深さなんです。けれど、深さというのは数字では測れない。2年前にパラグアイ映画の「ハンモック」を上映したときに、2回の上映の2回とも見に来てくださった人がいましたが、あの映画がどのくらい凄いのかというのは、深く突き刺さった人にしかわからないと思うんです。配給や興行の人達は数字で生きていかなければならないけれど、映画は深さで語られねばならない。その信念を貫くのが映画祭だと思うんです」

  Film'Ex2008 054.jpg-では、今年の内容を具体的にうかがいたいと思います。まず、特集上映にブラジルのジョアキン・ペドロ・デ・アンドラーデと蔵原惟繕の2監督を選ばれた理由は?

 林「蔵原監督については、今まで、清水宏、内田吐夢、中川信夫、岡本喜八、山本薩夫、松竹、東映、新東宝、東宝と、いろんなトライアルをしてきて、日活というのはやったことがなかった。日活にはもちろん川島雄三など凄い監督が沢山いらっしゃいますが、この企画はフィルムセンターとの共催なので、センターでも特集しておらず、新しい発見がある監督をということで蔵原さんになりました。実は、蔵原惟繕特集は、日本でも世界でも一度もやられたことがないだろうと思っていたんですが、野上照代さんに、故川喜多和子さんが「憎いあンちくしょう」が大好きで、清順共闘以前のシネクラブ時代に蔵原特集をやっていたということを教えていただいて驚いたんですよ」

-蔵原監督といえば、晩年、商業映画で大ヒットを飛ばしていたので、わざわざ特集をとは誰も思わなかった人ですよね。

 林「たしかに「キタキツネ物語」や「南極物語」の大ヒットで、そこで満腹になってしまうきらいがありますが、「第三の死角」や「ある脅迫」など、当時スターを起用していない作品は、ほんの数日で公開が終わったりして、一部の人達だけが凄いと言っているだけで、その後上映される機会がなかったりするんです。今回、日活の協力で全作品を見ながら12本に絞り込んでいったんですが、50年代、60年代には、裕次郎の映画の合間に新しいことにチャレンジした実験的な作品を撮ったりしていて、改めて見ると非常に多様性のある監督であることがわかりました。それで、これはぜひ海外に向けて発信せねばと思ったし、フィルムセンターも了承、日活も協力するということで、実現となりました。昨年、日活アクション映画がアメリカで特集が組まれたり、ウディネ映画祭で蔵原特集が組まれたりしていて、ある意味で、とてもタイムリーな企画なんです。

 アンドラーデは、4年前のカンヌで「2046」のプリントの到着が遅れ、上映スケジュールが大混乱になったときに、「2046」を諦め、カンヌ・クラシックで「マクナイーマ」を見たんです。観客が全然いない中で見たんですが、本当にぶったまげて、これは誰だ?と思ったのがきっかけです。そこからリサーチを始めたら、娘さんの存在がわかり、修復版が作られるともわかり、今年は日本人のブラジル移民百年記念の年でもあるので、ブラジル大使館も協力体制に入ってくださり、4年をかけ、満を持して実現の運びになりました」

-今年のコンペの傾向はどうでしょう?

 林「実は、私も市山も、国のバランスなど一切考えず、いいものの順に決めていくので、傾向はラインナップが決まってから探っていくしかないんです。それで、今年は中国が3本、イスラエル&レバノンが2本、日本が2本、カザフスタンが2本、韓国が1本となり、イランが1本もないんです。イラン映画はかなり見たんですが。大統領が替わったという政治状況もあるでしょうが、映画祭受けを狙っているようなところが見えてしまう映画が出てきたりしていて、結局1本も選びませんでした。ラインナップが出来上がってから見えてきたのは、劇映画とドキュメンタリーの境界線を考えさせられる、あるいは考えなくてもいいということを突きつける映画が多かったということです。「バシールとワルツを」のドキュメンタリーをアニメでやるチャレンジ精神、「私は見たい」のカトリーヌ・ドヌーヴがカトリーヌ・ドヌーヴを演じる凄さ。今やドキュメンタリーやフィクションの線引きをしなくてもいい時期にきているのではないか。そんな世界の動きを体験してもらえるラインナップではないかと思います」

(11月5日、赤坂、フィルメックス事務局にて  齋藤敦子)

写真(上)ディレクターの林加奈子さん。フィルメックス事務局にて
写真(中)開会式にて開会宣言をする林加奈子ディレクター
写真(下)今年の審査員勢ぞろい。左から韓国のソン・イルゴン監督、サンパウロ映画祭代表レオン・カーコフ氏、審査委員長の野上照代さん、香港の俳優レオン・カーファイ氏、フランスの映画評論家イザベル・レニエさん

(1)プログラム・ディレクター 市山尚三氏に聞く

2008/11/22

20081122.jpg 毎年、気になってはいたが、ナント三大陸映画祭と重なって、なかなかカバーできなかった東京フィルメックス。TIFFより規模は遥かに小さいものの、大きな志を持って始まったこの映画祭について今年はじっくりレポートしてみたい。

 まずは、プログラム・ディレクターの市山尚三氏に、そもそもの始まりからうかがった。


-東京フィルメックスを始めようと思い立った経緯は?

 市山「僕は元々松竹から東京国際映画祭に出向してシネマ・プリズムを担当していたんですが、98年に松竹を辞め、Tマークという当時あったオフィス北野の子会社に入りました。その頃、オフィス北野の森昌行社長が、北野武さんの映画を持って映画祭を回っていまして、それもカンヌやヴェネチアとかの大映画祭じゃなくて、テサロニキ、ロンドン、ロッテルダムといった映画祭だったんですが、東京国際といった大きな映画祭があるのはいいが、そういう映画祭では埋もれるような作品、もっと作家性の強い作品にスポットを当てた別の映画祭が日本にもあっていいんじゃないかということをおっしゃったんです。僕らもそれには同感で、せっかくシネマ・プリズムで面白い映画を紹介しても、大スターが来たり、日本映画の宣伝キャンペーンがあったりという東京映画祭というイメージの陰で、表にほとんど露出していかないし、一般に浸透していかないといったフラストレーションが溜まっていたわけです。それはまだ社内の雑談程度だったんですが、99年に東京国際を辞め、賈樟柯の「プラットフォーム」やアボルファズル・ジャリリの「少年と砂漠のカフェ」などのプロデューサー業に本腰を入れ始めた頃、オフィス北野の同僚が、前から話していたような映画祭が出来るかどうかやってみようと言って動いてくれたんです。そしたら、現在実行委員会に入ってくれている朝日新聞、J-WAVE、ディスクガレージの人達が、面白い、ぜひ協力すると言ってくれ、さらに、その年、たまたま北野武さんがジョニーウォーカーのCMに出ていたのが縁で、ジョニーウォーカーがスポンサーになってくれました。それで、ギリギリだけれども、なんとか映画祭をやるくらいの予算が見えたので、半年くらいの準備期間しかなかったけれども、思い切って第一回をやってしまったというのが始まりなんです。ジョニーウォーカーとは2回目までという約束でしたが、1回目の実績を元に文化庁の助成金がもらえることになったり、国際交流基金の助成金も得られたりで、今に至っています。

 また、始める前に、どんな映画祭にしようかと話し合ったとき、コンペティションがあった方が盛り上がるし、マスコミへの露出もしやすい、ということで、賞金は少なくてもコンペティションを作ろうということになり、漠然と世界に広げても仕方がないので、僕らの手の届く範囲でということで、アジアの若手作家を集めたコンペティション、それに招待作品、特集上映を加えた3本立てにすることに決め、その基本の枠組みは今も変わっていません」

-市山さんがディレクターをやるというのは最初から決まっていたんですか?

 市山「そうです。というか、外部のディレクターを雇う予算もなく、自前でやるしかなかったんです(笑)。林加奈子さんは、あの年はたまたま香港にいて、アドバイスはしてもらっていたんですが、翌年東京に戻ってくることはわかっていたんで、2回目から加わってもらいました」

-ということは、最初からダブル・ディレクターで行くという考えだったんですね?

 市山「僕はプロデューサーの仕事もやっているんで、映画祭だけに専念できない部分もあるんです。それで林さんが専任のディレクター、僕はプロデューサー業と映画祭の二足のわらじでずっと来ています。といっても、プログラム・ディレクターとディレクターで仕事をきっちり分けているのでなく、ほとんどのことは話し合って決めているんです。作品選定も二人でやっています」

-作品選定でぶつかることはないですか?

 市山「それはあります。でも、独善的にならないようにということもあるし、話し合いが分裂するというところまでは行きません」

-今年9回目ですが、この9年で変わってきたことは?

 市山「映画祭としての僕らのスタンスはまったく変わってないんですが、世の中、特にアート系の作品を配給する状況が非常に厳しくなってきている感じがしますね。最初僕らが目指したことは、フィルメックスをきっかけに日本での配給に繋げていくということでした。もちろん、国内配給を前提に作品を決めていたわけではないし、興行的に難しい作品も沢山上映していますが、マニアックな映画というより、そこから配給に乗っていけばいいと思いながらやっていたんですが、それがどんどん難しくなって、今年にいたっては日本映画以外は1本も配給が決まっていないんです。ウォルター・サレスの作品なども、当然日本公開が決まっているだろうと思っていたら、実は決まっていなかったり、逆に驚きだったですね。

 第一回のときに映画評論家のトニー・レインズが、"映画祭は、近いうちに作品のその後のプロモーションの始まりの場ではなく、スクリーンで見る最後の場になるだろう"と自虐的に語っていたんですが、その言葉が現実になりつつある気がします。今は、いい映画でも劇場のスクリーンに映されることなく、直接テレビ放映やDVD化されてしまうケースがすごく多い。加速度的にそういう状況になっていますね」

-この状況をどう打開していくかが配給の問題であり、それにどう関与していくかが映画祭の問題でもあるわけですが、これは世界的な状況でもありますね。

 市山「世界ではもっと厳しいかもしれません。映画祭で上映した作品を配給に繋げていく道すじもなかなか見えてきません。僕らは、配給業者を招待して、映画を見てもらうことくらいしか出来ないんです」

-市山さんは賈樟柯などの作品のプロデューサーでもあるし、アート系作品の配給の難しさはご存知ですね。

 市山「賈樟柯の作品については、ヴェネチアでグランプリを獲ったこともあるし、継続的にやってきているので、配給を見つける苦労はないんですが、僕は一人しかいないんで、多くの監督に同じことをやるわけにはいかないんです。いろんなプロデューサーや配給業者がそれぞれリスクを負う覚悟でやってくれればいいけれど、そういう配給業者がどんどん少なくなっている気がしますね」

( 2008年11月6日、赤坂にて  齋藤敦子)

写真は、プログラム・ディレクターの市山尚三氏、オフィス北野のあるビル前にて。

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