シネマに包まれて-映画祭報告

presented by 河北新報

(6完)歴史、どう生かす?来年に期待

2009/12/04

 今年の最終日はこれまでと違った。前日30日に閉会式が行われたため、最終日は特集の一部上映と、コンペ部門受賞作の再上映のみが行われた。今回は幸いというか、残念というか、到着後に上映されたコンペ作品の中から受賞作が出たため、最終日に映画を見る意欲を失ってしまい、黒沢清監督特集のVシネマ「蜘蛛(くも)の瞳」(1998年、「蛇の道」と同時撮影)だけを見て切り上げた。

 30回という区切りを経て、新体制で行われた第31回の映画祭は、果たして望むようなスタートを切ることができたのだろうか?

 新しい試みは見られたものの、それがスムーズに機能したとは言い切れないし、課題は依然残っている。ただ、30年続いてきたものを改革しようというのだから、1年だけで判断するのは早計だろう。今年の映画祭を検証してみた。

 映画祭はフィリップ、アランのジャラド-兄弟が創設、ずっと運営を担ってきた。良くも悪くもジャラドー兄弟の個性で成り立っていた面があった。2000年以降、禁煙運動の高まりによる大スポンサーたばこ産業の降板、それ以降の経済情勢の悪化も重なり、企業頼みの運営は厳しくなっていた。参加者への宿泊・昼食補助の削減やパーティーの質素化など、経費節減が目に見える形で始まった。02年の第24回では、大型の映画祭ポスターが姿を消し、閉会式以外のパーティーは全廃だった。「第25回を盛大にするため経費を抑えている」という"言い訳"が流れたが、翌年も同じ緊縮スタイルだった。

 昨年の第30回では、赤字が85,000ユーロ(約1,150万円)に上り、後援するナント市から3年間での立て直しを求められ、ジャラドー兄弟が運営から手を引くことになった。

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仮設テントでの閉会式パーティー、華やかさとは無縁だった

 今年も節約色が全面に出ていた。遠来の参加者の宿泊補助は4日から2日に半減。閉会式は、会場費やバスのチャーター代などを考慮して、従来のロワール川中州にある国際会議場シティ・コングレをやめ、中心部にある歴史的な建物、グラスリン劇場だった。ここではパーティー会場がとれないので、近くの公園内にテントを仮設して対応。もちろん周囲は覆われていて暖房もされていた。一般参加者は有料なのだが、飲み物、食べ物も寂しい限り、遠来のゲストもビックリしたのではないだろうか。

 閉会式が最終日でなかったことは、どうだろう。受賞作に関心を持ってもらい、新たな観客動員につなげようという試みは評価できなくはない。その一方で映画祭がどこか尻切れトンボのようになったのも事実だろう。

 閉会式の進行はよく言えばコンパクト、見方を変えれば素っ気なかった。受賞者は舞台右袖のマイク台でスピーチするのだが、前に張ってある映画祭ポスターが邪魔をして、受賞者の表情やポーズがほとんど見えないケースもあった。トロフィーの授与も左袖でアッという間に終わってしまい、こちらとしてはシャッターチャンスがつかめず、冷や汗ものだった。もっと余韻のある進行、例えば受賞者と来場者がともに受賞を喜び合う時間の余裕があっても良かったのではないだろうか。

 疑問点ばかり挙げてきたが、評価すべき点もあった。小学生を対象とした上映会は初の試みだった。中州にある木工と機械工学を合体させた動く動物(マシーン)を生み出している「ラ・マシーン・デ・イル」のギャラリーが会場だったのはユニーク。映画館でない所へも映画の方から出ていった。子どもたちはお泊まり感覚で寝ころびながら眺め、同伴の親たちもくつろいで楽しんでいた。何人かの子どもたちの心の中には映画の火が灯ったことだろう。

 総じて映画祭の広報は迅速で、工夫も見られた。プログラムは事前にメールで送られてきたため、到着後の観賞スケジュールが立てやすかった。一般に配られた簡易プログラムは昨年以上にビジュアル化され、監督、出演者らのゲスト来場や英語字幕付きの有無などが一目で分かるようになっていて、大いに助かった。最終日には、今回を総括するデータなどが早々とメールで送られてきた。

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地元紙「ウエスト・フランス」の閉会式記事。カラーでもなく、扱いも地味だった

 「映画祭の起源と歴史をつくったジャラドー兄弟の心を尊重して準備したことで新体制への移行は滑らかだった」が結びの言葉だった。閉会式にジャラドー兄弟の姿はなかった。唯一、「黒沢清監督との対話」の場にアランが姿を見せたが、壇上で対話に加わって欲しいという、こちらの思いはかなわなかった。

 来年の第32回は11月23~30日開催と公表されている。歴史を生かしながら、どう変革していくのだろうか。来年も訪れて確かめてみたい。

(桂 直之)

(5)魅力ある作品の収集を

2009/12/04

 映画祭の本領はどんな作品を集めるか、それをどうプログラムして見せるかだ。

 コンペ部門、コンペ外招待作以外に、「ゴッドファーザー・オブ・ジャパニーズ・ホラー」と海外でも評価の高い黒沢清監督を目玉に、中央アジアの戦前の無声映画を3人の民俗音楽演奏家の伴奏で見せたり、アフリカの先端作品を長・短編やシナリオ朗読で探ったり、子どもを含めたヤング向けにアニメ、スリラー、ロードムービーなどを幅広く集めるなど6つを特集、76作品が紹介された。写真とのコラボも例年通り行われた。

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コンペ作への投票は真剣そのもの=カトロザ2

 今年はコンペ作品を上映会場、一番収容人数が多いカトロザ2が満席になることはなかった。4、5年前までは立ち見が出ることも珍しくなかった。映画への関心が薄れたのだろうか。そうではあるまい。コンペ作品への観客投票は真剣だし、土砂降りが交じる雨の日でも傘を差して並ぶ人たちの長い列ができた。ただ、中高年のコアなファンがほとんどで、例年より若い人は少なかったように感じた。これまでは金曜、土曜日に高校の映画クラブを中心に若い人がまとまって観賞に来ていたのだが、その方面への働き掛けは行われたのだろうか。

 映画祭事務局のまとめでは、今回の入場者数は2万8,000人。2002年の4万人をピークに減少傾向になり、03~04年は3万8,000人台、07年は3万7,000人だった。昨年も3万人の大台は確保していたはずだから、今年を寂しく感じたのは事実だったのだ。

 作品の選択は十分だったのだろうか。例えばコンペ部門、12作品の地域的な内訳はアジア10本、中南米、アフリカ各1本と大きくアジアに偏っていた。面積的に広いアジアが多くなるのは仕方ないが、昨年だとアジア6本、中南米4本、アフリカ2本とバランスが取れていた。最近は中南米、メキシコ、アルゼンチンなどが元気なはずなのだが...。今回は、どうして選ばれたのか疑問に感じる作品もあった。受賞作が集中する一方で、主演男優、主演女優、審査員特別賞などは該当作がなかった。厳しく言えばコンペ作にふさわしい作品が少なかったとも言えるのではないか。

(桂 直之)

(4)グランプリに韓国の「バンドゥービ」

2009/12/02

 30日は韓国のコンペ作品と日本のアニメ作品を見た。会期は明日12月1日までなのだが、新体制の今年は閉会式が1日繰り上がって、この日の開催。これだと最終日は特集の一部を上映するぐらいで寂しいと思っていたら、グランプリ作品を午後から計4回上映して、内容を知ってもらうのだという。

 韓国のコンペ作品「木のない山」は、母親と離れて暮らさざるをえなくなった幼い姉妹が、母恋しさだけに明け暮れず、自らの力で生きていこうとするきっかけをつかむまでを描いたもの。

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幼い姉妹の自立への道を描く韓国の「木のない森」

 6歳のジンと妹のビンは母親と一緒にソウルの狭苦しいアパートに暮らしていた。母親が、家を出て行った父親を探し出そうと決心したことで、夏の間、小さな町のおばに預けられることになる。姉妹は母親恋しと、毎日のようにバス停に出かけるが、母親は帰ってこない。おばは余り姉妹のことを構わず、2人は食べ物にも事欠く有様。バッタを集めて焼いたものを売り出して小銭を手に入れ、自分たちで食べていく。

 そうしているうちにおばが家を失ったため、2人は田舎の祖父母宅へ連れ行かれる。周りには同世代の子どもが誰もいない。姉妹2人だけで寄り添うしかないのかと不安がっていると、祖母は黙って2人に仕事を手伝わせ、自然の恵みを教えるのだった。

 キム・ソヨン監督は、ことさら姉妹に擦り寄ったりせずにジンやビンの表情をとらえる。近所の家が自分たちに優しいと分かると、純粋に遊びに行きたいだけのビンに釣られるようにしながらジンは、実はお菓子目当ての自分に恥じ入ったりする。そんな表情もしっかりと描かれる。

 ソウル、近郊の町、田舎、それぞれで挟み込こまれる空のシーンが印象的だ。都会では根無し草的な生活を映すかのようによそよそしい、働けばちゃんと食べていける田舎では空も姉妹を包み込んでくれるかのようだ。タイトルは、バス停を見下ろすことができる木1本生えていない丘を指す。2人は枯れ木をそこに立てたが、それは葉を出すことはないだろう。でも、田舎の2人には豊かな緑がそよいでいる。

 今敏(こん・さとし)監督(46)のアニメ「パプリカ」は、若者向けにスリラー、ロードムービー、アニメ、ストップモーションなどをそろえた特集で紹介された。2006年の作品で、公開当時話題になったので何度か見たが、あらためて見てみた。

 
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夢と現実が一緒になる? 奔放な色彩に圧倒される「パプリカ」

 近未来、個人の夢に侵入できる最新のサイコセラピー機器DCミニが開発され、優秀なセラピスト敦子は、他人の夢に少女の人格を持った"分身"パプリカとして現れ、治療を行っていた。ところがDCミニが何者かに盗み出され、それによって精神を破壊された人々が続出して、夢と現実の境目が破られようとする。敦子は、そしてパプリカは防ぐことができるのだろうか。

 筒井康隆原作のSFサイコサスペンスの狂気を、あふれんばかりの極彩色イメージで描いていて、飲みこまれそうになる。ただ、自らが原作・脚本も手掛けた、3人のホームレスが捨て子の親探しに奔走するアニメ「東京ゴッドファーザーズ」(03年)のアットホームで地に着いた味わいはなく、原作に縛られながらイメージを膨らませようとした無理をどこかに感じた。
 日本のアニメでは合田経郎(ごうだ・つねお)監督のコマ撮りアニメ「こまねこ」(06年)が、中州にあるアミューズメント「レ・マシーン・デ・イル」で、子供たちを相手に上映された。寝転がってもOKという自由なスペースで低年齢の子供たちを対象にした試みは初めてだという。

 今年のコンペだが、ジュール・ベルヌにちなんだ金の熱気球賞(グランプリ)は、韓国の「バンドゥービ(Ban-doo-bee)」(シン・ドグイル監督)が獲得した。ノミネートされていた12本の地域別はアジア10本、中南米、アフリカ各1本と、圧倒的にアジアに偏っていた。フィクション、ドキュメンタリーの別では
フィクションが10本、ドキュメンタリーと両者の融合が各1本だった。フィクションが圧倒的に多くなったのは、演出的にドキュメンタリー手法を取り入れることが"常識"になったということだろう。

  3-09.jpg グランプリ受賞の感想を話す韓国のシン・ドグイル監督(右)

 閉会式は午後7時30分から、パリ・オペラ座を模したという1788年完成の歴史有るグラスリン劇場で開かれた。これまでの中州の国際会議場シティ・コングレに比べると手狭だが、市内中心部という地の利がある。ウズベキスタンの民俗音楽が演奏された後、受賞作が発表された。

4-09.jpg 閉会式の会場となったパリ・オペラ座を模したグラスリン劇場

 グランプリの「バンドゥービ」は、孤独な女子高校生とバングラデシュからの季節労働者の偶然の出会いを通して、韓国が抱える都会の孤独から人種、格差問題までをあぶり出した作品。今回の訪問で最初に見た作品で、「出だしからいい作品に出合った」と感じていただけに、受賞は正直うれしい。

 経済発展が必然的にもたらす都会の孤独や格差問題は、韓国でもいくつかの作品に登場しているが、異国からの出稼ぎ者問題には初めて出会った。それだけ顕在化しているということなのか。

 シン・ドグイル監督(41)は、2人の交流を、ピュアなミンスーと愚直なカリムとの組み合わせにすることで、自然とコミカルな場面を生み出し、これらの問題を深刻ぶっただけの扱いにはしていない。さらには「食」を軸とすることで、2人の出会いに文化的な深みも与えていた。学校をやめて自活を始めたミンスーが、昼食時のバングラデシュ料理店でカリムを思い出し、手で直接料理を食べるラストが印象的だ。それでも最後はフォークで味わう彼女は、今の韓国そのものを映しているともいえる。監督の演出、主演2人の演技の良さがあいまって、文句ない受賞だった。

 受賞を「ミラクル」と言いながらも、閉会式の参加者を何度も笑わせながら、いつまで続くのかと思わせるほどスピーチした監督は、最初から自信があった風にも見えた。

 その他の各賞は以下の通り。男優・女優賞や審査員特別賞は該当作品がなく、やや寂しい内容だった。

◇準グランプリ 「飛ぶことを夢見る盲目のブタ」
         (エドウィン監督=インドネシア)
◇ナント市賞 「シェーラザード - 私に物語を聞かせて」
         (ヨスリー・マサラフ監督=エジプト)
◇若い観客賞 「飛ぶことを夢見る盲目のブタ」

 準グランプリの「飛ぶことを夢見る盲目のブタ」は、何と言っても作中で何度となく歌われるスティービー・ワンダーの名曲「心の愛(Called to say I love you)」が賞を引き寄せたといってもいいだろう。

 こちらも人種問題という微妙なテーマ。インドネシア国内で否定される少数派、中国系の人々の生きざまを、リンダという若い女性を中心に、過去と現在を行き来しながら個人的ともいえるエピソードをつなげていく形で描き出した。

 だが、深刻でいながらお茶目な展開を支えたのが、この曲。リンダや父親らによって生の声で、しかも上手にではなく、「3つの単語があればいい、それは I love You 」と何度も歌われる。中国系の人々にとって現状が厳しいからこそ、この曲に思いを託すのだ。ひもでつながれたブタでも、気持ちだけは無限大にできるはずだ。エドウィン監督(31)の演出に拍手だ。見終えた後に若い観客たち
が「I Just called to say I love you」と口ずさむ姿を見かけた。観客の投票で決まる若い観客賞も合わせて受賞したのは当然と言えようか。
 
 ナント市賞の「シェーラザード - 私に物語を聞かせて」は、首都カイロのテレビ業界を舞台に人間のエゴが招く悲劇を取り上げる。
 自分の出世を妨げかねないと、妻が担当するコーナーを政治的なものから個人的なものへと変えさせた夫。だが、彼女はゲストの1人から夫が支持する政治家のスキャンダルを引き出してしまう。夫に暴力を振るわれた彼女は、はれた顔をさらしながら「今日のゲストは私自身です」と語り始める...。

 ヨスリー・マサラフ監督(57)は昨年、カイロで生きる人たちの孤独と思わぬつながりを「水族館」という作品で描いて印象的だった。今回は、他人事の世界だとしてすませられるはずのテレビが、思わぬつながりから悲劇的な結果を招くという秀逸な設定が評価されたのだろう。女性キャスター役モナ・ザッキーの演技も光っていた。

 井口奈己監督の「人のセックスを笑うな」は惜しくも選に漏れた。地方の美術学校に通う19歳の男子生徒(松山ケンイチ)が、20歳年上で人妻の非常勤講師(永作博美)に恋して、振り回されながらのめり込んでいくさまと、周囲でかかわる人たちを描く。

 井口監督は、永作、松山の即興性も生かした演技とさりげない日常シーンの積み重ねの中で、どちらかというと女性視線で描いていく。日本で見たときは男たちの軟弱さ(今風に言えば草食系?)に小さな憤りを覚えたのだが、日本を離れたことで、より突き放して見ていると、男たちは放っておいて女性たちを応援したくなった。彼、彼女らがどうなるかは気懸かりだが、今を生きないことには結果はない-のだ。

(桂 直之)

(3)今を生きる「人のセックスを笑うな」

2009/12/01

 29日はコンペ部門で日本、香港の2作品を見て、「黒沢清監督との対話」をのぞき、彼の制作の原点、姿勢などについて興味深い話を聞いた。

* * *

 日本から選ばれたのは井口奈己監督(42)の「人のセックスを笑うな」。
 地方の美術学校に通う19歳の男子生徒みるめ(松山ケンイチ)は、ふとしたことで出会った非常勤講師ユリ(永作博美)に恋をしてしまう。ユリは20歳年上で人妻だった。彼女に振り回されながらものめり込むみるめ。彼に思いを寄せるながらも、応援しようとする同級生えんちゃん(蒼井優)の気持ちが切ない。

091201-01.jpgみるめ(松山ケンイチ)はユリ(永作博美)に一目ぼれ-「人のセックスを笑うな」

 原作は山崎オナコーラの同名小説。寒い部屋で一緒に寝る2人。「寒いね」「うん、寒いね」「寒いよね」「それってストーブをつけさせようってこと?」。言外に見せる甘え。井口監督は、永作、松山を即興性も生かした演技の中で、男性より女性優位の視線で描いていく。こんなシーンもある。「好きな人には触れてみたいでしょう。触れてみたらいいのに」。ユリが、えんちゃんに無造作を装って投げ掛ける言葉。この言葉に押されて、ユリに会えない空白から酔いつぶれたみるめにキスしようとしたえんちゃんだったが、彼がもらした「ユリ」のひと言でとどまってしまう。

 みるめ・ユリ+えんちゃん+えんちゃんを思う同級生、彼らの微妙な関係が、さりげない日常シーンの積み重ねの中で描かれる。そこには「そんな関係続くはずないよ」「気持ちなんて変わるんだから」とは言わせない"今を生きる"時間の流れを感じさせる。

* * *

 香港の「意外(Accident)」は、綿密に事故を仕組んで殺人を請け負う男女4人組のリーダーが、仲間をアクシデントで失ってから疑心暗鬼にかられて自壊していく心理サスペンスだ。今年のベネチア国際映画祭と先日終わった第10回東京フィルメックスで、ともにコンペ作品に選ばれている。

091201-02.jpgクールな視点で貫かれた韓国の「意外」

 高級車を自ら運転する男性、パンクしたベンツに道をふさがれる。何とか脇をすり抜けたものの、また荷物車に邪魔される。そこを回避してホッとする暇もなく交差点で、ビルの垂れ幕広告が外れて車を直撃。フロントグラスは割れなかったものの、怒って垂れ幕を引っぱった途端、ビルのガラスが割れ、彼の頭上に降ってきた。あ~あ、何と運の悪いこと、と思っていると、なにやら周辺に不審な人物。これらはすべて仕組まれた殺人だったのだ。

 冒頭のこの5分でソイ・チェン監督(37)の術中にはまってしまう。テンポのいい展開で殺人チームの手際の良さ、特にリーダー(ルイス・クーがクールに好演)の冷静で緻密なことを刷り込まされてしまう。次の依頼殺人を成功させた直後に思わぬ事故が起き、仲間の1人亡くなる。「仲間は誰かに殺されてのではないか」と、これまでと同じ緻密さで調査を開始するリーダーに、観客も肩入れして、同じ袋小路へと導かれてしまうのだ。

* * *

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黒沢清監督との対話(左からジャン・フィリップ・テシエ、3人目が黒沢監督、シネマトグラフ)
 「黒沢清監督との対話」は市内中心部から少し離れていて、ブルターニュ大公城に近い、古い教会を改装した映画館「シネマトグラフ」で約2時間にわたって行われた。

 映画祭コンペ部門の選考委員ジャン・フィリップ・テシエ氏ら2人の質問に黒沢監督が答える形で進められ、最後に観客からの質問も受け付けた。「ゴッドファーザー・オブ・ジャパニーズホラー」として海外でも支持を集める黒沢監督だけに160人のファンが詰め掛け、立ち見も出た。監督の制作過程を追いながら、どう制作姿勢が変わってきたかを中心に概要を伝える。

【映画制作の出発点は?】
 ―商業映画として制作した第1作「神田川淫乱戦争」(1983年)と第2作「ドレミファ娘の血が騒ぐ」(85年)はピンク映画(ソフトポルノ)です。制作会社が今はないため著作権の問題もあって、この2本の上映はお断りしました。まだ大学サークルの8㍉撮影の延長線気分で、関心のあった映画ジャンルや好きな監督の手法を1本の中にモザイクように詰め込んだものでした。ジャン・ジャック・ゴダールに似ているとの指摘がありましたが、当時も今も彼の熱烈なファンです。ピンク映画の世界は、自分の好きなものを実験的につくることができた"自由な場"でした。

【監督の作品はどのジャンル?】
 ―日本ではジャンルは明確ではなく、色々なものを撮るのが実情です。1980年代以降、撮影所システムが崩れてきたことで、主な日本映画は①小説やコミックを原作とする②テレビなどで既にポピュラー-なものになり、オリジナリティーを無くしました。僕はオリジナリティーにこだわってきました。今日上映したホラーの「回路」(2000年)と無気力に生きる青年の小さな変化を扱った作家性のある「アカルイミライ」(02年)はジャンルは違うが、一から僕が考えたところが共通しています。

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「黒沢監督との対話」を伝える地元紙「ウエスト・フランス」
【「回路」はどこから?】
 ―2000年を迎える前に、アメリカ映画みたいに思い通りの映画をつくってみたいと考えていましたが、技術、予算、文化的にも無理。撮影と音楽を実験的に突き詰めたら怖いものになりました。幽霊って見えない存在ですが、カメラで撮れば現実になるのです。カメラとは存在しているものを撮るものです。その「原理」を突き進めれば、写っていることは"本当に起こったことなんだ"と観客に伝わるのです。

【制作の姿勢に変化は?】
 ―最初から変わっていませんが、今は柔軟になってきました。アウトローものを徹底的につくっていったら、ハミ出し者の主人公は「法」や「国」、さらには「世界」と対立するこになります。現実なら主人公が負けるのですが、それは嫌。世界の側を滅ぼそうとしたのが「カリスマ」(1999年)や「回路」(2000年)です。ただ2000年までは「世界は一つ」の想定でしたが、01年以降は「世界はたくさんのものが複雑に絡み合い、変化し続けている」という考えになりました。今後もつくりながら考えていきます。

【今後の制作予定は?】
 ―「トウキョウソナタ」(昨年のカンヌ映画祭「ある視点」部門で審査員賞)は海外では好評なのですが、なぜか国内ではそれほどでもありません。昨年末の世界同時株安以降、国内での映画制作の環境は悪くなっています。企画はあって準備を進めているので、海外との提携も積極的に探っていきます。

 <黒沢清> 1955年、神戸市生まれ。75年立教大に入学、映画制作サークルに入部。81年に「しがらみ学園」でPFF入賞。卒業後、長谷川和彦、相米慎二に師事。92年、「カリスマ」のオリジナル脚本でサンダス・インスティテュート・スカラシップを得て渡米。97年「CURE」が認められて以降、ベルリン、カンヌ、ベネチアなどの国際映画祭に招かれる。三大陸映画祭は初めて。

(桂 直之)

(2)クールな非情さが魅力「蛇の道」

2009/11/30

 28日は中国(チベット)のコンペ作品「捜索」と黒沢清監督特集から「蛇の道」の2本だけを見た。

 「捜索」は、映画のディレクターらがチベット演劇の主人公役を求めて、チベットの奥深くに入っていく一種のロードムービー。

 奥地の郷土演劇の盛んな村で理想的な声を持つ少女に出会い、王妃役は決まったものの王様役がいない。少女とかつて一緒に王様役を演じた、彼女の前のボーイフレンドを見つけ出さなければ役を引き受けてくれそうもない。前のボーイフレンドを捜しながら、各地でそれ以外の役回りに当たるうちに、彼を見つけ出した。果たして...。

 映画祭でチベットの作品は初めてだが、ペナ・チェデン監督にとっては9作目の作品。今回の広大な土地を車で苦労しながら進む中で物語が生まれる、という設定での制作はハードルが高かったはずだ。イランのアッバス・キアロスタミ監督が既に同じ設定で、「そして人生はつづく」(1992年)、「オリーブの林をぬけて」(94年)という完成度の高い作品を世に出しているからだ。

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チベットの地方芸能にも触れられる「捜索」

 監督はあえて困難な設定のままで、メロドラマ(少女のかつての恋への思い)と社会的リアリズム(村々の過疎化)の融合に挑戦しているともいえる。

 その結果はどうだったのか。やや消化不良だったように思える。人物を遠景にばかり置くため個々人の表情はほとんど分からない上に、大半が車内での映画ディレクターと彼の友人のビジネスパートーナーの会話ばかり。一般の人を登場させたとしても、彼らから表情を引き出すのも監督の力量ではないだろうか。最近、生活音などをわい雑なまでに取り入れた傾向が強いが、この作品も、終始聞こえる車のエンジン音が耳についた。これでは、ずっと流れる郷土音楽の意味がないように思えるのだが。

* * *
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「蛇の道」上映前にあいさつする黒沢清監督(シネマトグラフ)

 黒沢清監督の「蛇の道」(1998年)は、同時に制作された「蜘蛛の瞳」とともに劇場公開よりもビデオ販売を主目的としたVシネマで、「ヤクザもの」といえるもの。

 小学生の娘を誘拐されて殺された宮下は、自らの手で犯人を突き止めて復讐しようとする。新島という男が手を貸し、ヤクザの幹部を拉致、強引に口を割らすと、組長の指示だと言う。宮下はかつて組長の下で働いていた。宮下の行動はエスカレートし、組長も拉致する。組長が犯人なのか、新島はどうして宮下を助けるのか?

 憶病なくせに行動に踏み切ると自分で舞い上がってしまう宮下を香川照之がはまり役的に演じているが、何といっても哀川翔演じる新島が怖い。宮下をそれと気付かれずにそそのかす一方で、宮下に隠れて組長や幹部に取引を持ち掛ける。彼の正体は? 彼の非情さには隠された理由があった。緊張をはらんだまま意外な結末へところがっていく。

 上映前に監督自身が「最初脚本を見て、ここまで非情にやっていいのかと思った。責任の半分は脚本の高橋洋(「リング」「リング2」などを手掛ける)のせいです」と話して笑いを誘っていたが、哀川からクールな非情さをここまで引き出したのは、あくまでも監督の力だろう。

* * *

 今年のナントは例年に比べてちょっとした"異常気象"だ。この時期、すっかり晴れる日は少ないのだが、1日中雨というのも珍しくて、大抵は傘なしでやり過ごす。ところが27、28の両日は降るときは激しく降り、おまけに風まで吹き付けてきた。ナント在住の知人によると、到着する1週間ほど前にはヒョウも降ったそうだ。

 映画祭の入場券は、昨年からPCによる事前予約がなくなったため、ジャーナリストや関係者も含めて長い列を作って待つほかはない。おかしなことに待っているときに降ってきて、見ている間は晴れ、終わって出てくるとまた雨、という具合。

 大西洋の暖流のせいでほとんど雪も降らず、雨も小雨、だからフード付きコートがあれば大丈夫、という例年の常識が崩れた。僕も慌てて折りたたみ傘を買いに走った。

 とはいえ、列をつくる人たちは映画ファンだけに、「アラ、アラ」と言いながらも澄ました顔の人が大半、列は崩れることなくさらに長くなるのだ。

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雨にもめげず並んで開場を待つナントの市民ら(カトロザ前)
(桂 直之)

(1)より広い世界への出発

2009/11/29

091129map.jpg 11月26日午後、成田を発って、今年も西フランスの古都ナントで開かれているアジア、アフリカ、中南米の三大陸に絞った作品だけを提供し続けるユニークな三大陸映画祭(11月24-12月1日)にやってきた。15度目の訪問だ。

 31回目を迎えた今年は、コンペティション部門(12作品)のほか「CURE」、「回路」などで「ゴッドファーザー・オブ・ジャパニーズホラー」として海外でも熱狂的支持を得る黒沢清監督、第二次世界大戦前の中央アジア(ウズベキスタン、タジキスタン)や無名だが希望が持てるエチオピアの作品群などの特集が組まれ、盛りだくさんの内容だ。会期中、市内中心部の三つの映画館の6スクリーンを中心に80本以上が上映される。

 成田から約18時間の旅。時差がマイナス8時間のためパリ着は同日午後6時前。パリの大渋滞につかまって予定していた8時発のナント行き新幹線(TGV)に乗り遅れ、1時間遅れの午後11時過ぎに到着。翌27日朝から映画を見始めた。初日はコンペ部門の韓国、インドネシア、エジプト3作品、招待作からトルコ、日本(何と「パンドラの匣」が選ばれていた)の2作品を見た。

* * *

 韓国の「バンドゥービ(Ban-doo-bee)」は、孤独な女子高校生ミンスーとバングラデシュからの季節労働者カリムの偶然の出会いを通して、韓国が抱える都会の孤独から人種、格差問題までをあぶり出した作品。

 ミンスーは母親が若い恋人を新しい父親にしようとしているのに反発、彼女なりの自立を目指してアルバイトに励むが、孤独だ。ある日、下校時のバスで乗り合わせたカリムが落とした財布をくすねた彼女だったが、カリムに見つかってしまう。その場は何とかやりすごした彼女だったが、双方が別々のトラブルに巻き込まれて同じ警察で再会することに。

 家族や学校での疎外感から孤立するミンスーと異国からの出稼ぎで不当な扱いを受けて孤立するカリムは、少しずつ互いの気持ちを理解するようになる。バングラデシュに帰国しようと決めたカリムを真夜中の海岸に連れ出すミンスー。海を前にしてカリムは「俺はちゃんと生活したかっただけだ」と叫ぶ。

 経済発展をした国には都会の孤独、格差、人種問題が現れる。この映画祭で10数年前に見た韓国作品は、失われゆく伝統を現代社会にいかに伝えるかが一つのテーマだったように思う。イム・グォンテク監督の「風の丘を越えて」(1993年)「祝祭」(96年)に出合った時、伝統を忘れさったかのような日本に対して、今、韓国も同じ危機を迎えている、と感じたものだった。

 その韓国が経済発展で得たものはとは。既に都会の孤独を扱った作品は登場している。異国からの出稼ぎ者の視点を絡み合わせなければならないぐらい、問題が顕在化しているということだろう。ただシン・ドグイル監督(41)は、これらの問題を深刻ぶっただけの表現にはしていない。真っ直ぐなミンスーと愚直ともいえるカリムとの組み合わせは自然とコミカルな場面を生むし、カリムに代わってミンスーが経営者にエキセントリックな反撃をする場面は爽快(そうかい)ですらある。でも、そこには心の痛みも含まれている。

091129-01.jpg人種問題も絡ませた韓国の「バンドゥービ(Ban-doo-bee)」

 2人をつなぐ最初のひと言はミンスーの「何か食べさせて」。日常の不満と孤独を「食」で何とかごまかしてきた彼女。カリムは「何を食べる?」を合い言葉に彼女との距離を縮め、彼女に母国料理を作ってごちそうする。

 ラストが印象的だ。学校をやめて自活を始めたミンスーは、昼食時にバングラデシュ料理店に入る。料理を注文する彼女に、店主が「お詳しいですね」と尋ねたときの「ええ、友人がいてね」と言うときの何ともいえない表情。手で直接料理を食べて、カリムを思い出す表情もだ。それでも最後はフォークで味わうミンスー。彼女は今の韓国そのものでもあるのだ。監督の演出、主演2人の演技の良さがあいまって、見終わった後も席を立ちたくない作品だった。

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 インドネシアのエドウィン監督(31)の「飛ぶことを夢見る盲目のブタ」は、インドネシア国内で否定される少数派、中国系の人々の生きざまを、リンダという若い女性を中心に描き出す。こちらも人種問題という政治的に微妙なテーマを扱うが、深刻でいながらお茶目に展開して引き込まれた。

 歯医者の娘リンダは花火を包んだパンを口にして点火する"花火娘"として有名だが、彼女の家族や友人たちは、中国系であるだけで、インドネシアは安住の地ではないのだ。過去と現在を行き来しながら個人的ともいえるエピソードをつなげていく。だが、戻っていくのは中国系の人たちのアイデンティティだ。

 鍵になるのはスティービー・ワンダーの名曲「心の愛(Called to say I loveyou)」。リンダが父親や幼なじみたちと歌うのが、この曲。上手にではなく、生の歌声で「三つの単語があればいい、それはI love You 」と何度も歌われる。現状がそうでないからこそ、この曲に思いを託さなければならないのだ。ひもでつながれたブタであっても、気持ちだけは無限大に広げることができるのだ。映画を見終えた観客の中には「I Just called to say I love you」を口ずさむ姿もあった。監督の歌に込めた思いが伝わったことを信じたい。

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 3本目はエジプトの「シェーラザード-私に物語を聞かせて」。千一夜物語の語り手をタイトルにした作品は、首都カイロのテレビ業界を舞台に人間のエゴが招く悲劇を語り尽くす。

 新婚の女性キャスター、エバは微妙な政治問題を扱うコーナーで成功していたが、夫は彼女のコーナーが自分の出世の命取りになりかねないと、コーナーのテーマを政治から個人的なことへと変えさせる。彼女は政治的には節度を持って、招いた女性から話を聞き出すことを始める。ところが、その中の1人から、夫をひいきにする政治家のスキャンダルを引き出してしまった。怒った夫は彼女を半殺しにしようとする。反撃して何とか番組に間に合った彼女は、殴られてはれた顔をさらしながら「今日のゲストは私自身です」と語り始める...。

 ヨスリー・マサラフ監督(57)は昨年、「水族館」で冬のカイロで生きる人たちの孤独と思わぬつながり(ラジオの対話コーナーが登場していた)を描いて印象的だった。孤独に捕らわれた彼らは水族館の水槽に入れられた魚と同じでしかない、がタイトルの由来だった。今回も、テレビという他人事の世界とすませられるものが、思わぬつながりから思い掛けない結果を招くという設定が秀逸だった。

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091129-03.jpg 招待作では、ここで冨永昌敬監督(34)の「パンドラの匣」に出合えたことがうれしかった。原作は生誕100年の太宰治が1945年10月から46年1月まで河北新報朝刊に連載したもので、宮城県内でオールロケ、河北新報も制作の応援をしたなど、思い入れのある作品だけに、フランスでの反応はどうなのかが大いに気になったが、好評だった。

 終戦直後の結核療養施設に入所した青年ひばり(染谷将太)が、看護師の竹さん(川上未映子)やマア坊(仲里依紗)、風変わりな仲間と繰り広げる人間模様を描いたもの。敗戦とともに「新しい人間」への生まれ変わりをかたくなに目指すひばりには、戦後初の小説に賭ける太宰の意気込みそのもののが重ね合わされているといってもいい。その生硬さが、出会いの中で柔軟になっていくさまが、何ともみずみずしく描かれていることか。日本の敗戦時は実感できなくとも、青春群像として簡潔な描写、芥川賞作家川上の気負わない演技や仲の天真らんまんさが、ナントの観客にも新鮮だったようだ。エンドクレジットが出る前に拍手がわき上がっていた。

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 トルコのカズィム・オズ監督(36)の「ラストシーズン:シャワーク」は、毎夏、東部の山岳地帯シャワークへ移住して羊の放牧を行う一家を追ったドキュメンタリータッチの作品。

 冒頭の雪に覆われる日々の描写が美しくも過酷だ。羊たちは春先に出産、夏を迎えるとトラックに積み込まれて大移動する。まだ雪が残る山岳地帯ではテントなどの必需品を大量に担う馬が足を滑らせて何度も転倒する。馬も起こそうとする人間も必死だ。ちょっと目にできない広大な広がりに圧倒される。その中で人間も羊も小さい存在でしかないが、日々の営みが明日を支える。大きく育った子羊たちと下山した後には、食肉処理される羊との別れも待っている。口笛と伝統楽器で奏でられたメロディーも印象深いものだった。

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091129-02.jpg 赤い服の女性が大海原を前に1人たたずむ。今年のポスターの図柄だ。彼女は何を思うのか? これまでは関連づけがなかった映画祭作品の冒頭に付けられたテーマフィルムが、今年はそのものズバリで、若干の種明かしをしてくれる。

 砂浜が次々とフィルムをはき出し、さまざまな国のセリフが聞こえる中、彼女はその砂が覆った階段を踏みしめて海へ向かって歩き出す。その横顔は憂えてはいない、きっぱりした表情だ。

 新体制で臨む31回目の映画祭。「シネマの地平線」の拡大は、大海原、もっと広い世界への出発を新たに表明したといっていいのかもしれない。

(桂 直之)
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