シネマに包まれて-映画祭報告

presented by 河北新報

(5・完)「原発を扱った点を評価された」/「ほとりの朔子」でグランプリを受けた深田監督

2013/11/30

2013nantes_p_05_04.jpg 閉会式は25日午後7時半から、ロワール川の中州にある国際会議場「シティ・コングレ」で開かれ、インド映画100周年特集にちなみ、サタジット・レイ監督の「チャルラータ」(1964年)が上映された。監督は、「大地のうた」3部作などでインド映画を欧米に知らせる基盤をつくった。上映作は、カルカッタを舞台に、仕事に忙しい男の若い妻チャルラータが、休暇で訪れた夫のいとこに心ひかれることを通して、夫婦の絆を描いたもの。上映後には来場者から盛大な拍手を送られた。

 さて、今年のコンペ部門だが、日本の「ほとりの朔子」(深田晃司監督=日米合作、2013年)が、ナント出身のジュール・ベルヌにちなんだ金の熱気球賞(グランプリ)と若い審査員賞をダブル受賞、中国のドキュメンタリー「収容病棟」(ワン・ビン監督=中・仏・香港・日合作、2013年)が銀の熱気球賞(準グランプリ)を獲得した。また、トルコの「私は彼ではない」(タフン・ビリスリモグ監督=2013年)が審査員特別賞、イランの「ルールを曲げる」(ベハナ・ベザディ監督=2013年)が観客賞(観賞後の観客投票で決定)を受賞した。

2013nantes_p_05_05.jpg 地元紙「ウエスト・フランス」は翌朝、「ほとりの朔子がグランプリ」の見出しで閉会式の様子を報じた。

 「ほとりの朔子」は、大学浪人生の朔子(二階堂ふみ)が、叔母の海希江(鶴田真由)と訪れた海と山のほとりの避暑地で、叔母の幼なじみや、彼の甥の高校生孝史(太賀)らとの出会いを通して、人生の複雑さにも触れ、子どもから大人へと歩み出す姿を、リリカルに描き出している。タイトルの「ほとり」は、境界をやんわり示す辺(あたり)を指し、ヒロイン朔子の微妙な位置づけを、日本語ならではの繊細さで伝える。ちなみに、プログラムの仏訳は「さよなら 夏」で、簡潔に作品の意図を伝えていた。

 脚本も深田監督で、いろいろな視点で「ものの見方」が変わることが、大きなテーマとなっているのだが、大震災による福島原発事故についても、違う視点から何が正しいのか、を問う。孝史は福島から避難者、こちらの高校では不登校状態。久しぶりに会った同級の女学生から声を掛けられ、淡い恋心が募らせるのだが、彼女は別の男性と「原発反対」の集会を企画、孝史に体験談を語らせたかったのだ。原発事故と向き合ってこなかった孝史は、「避難者みんなが大変なのではない。僕は、親と一緒にいるのが嫌だから逃げ出しただけ」と言って、会場から逃げ出す。思い込みだけでは、見えないものがある。

 深田監督は、最初の若い審査員賞受賞で「フランス映画に育てられた人間として、フランスの賞を受賞できるのはうれしい」とあいさつ。グランプリ受賞には「若い審査員賞で(満足して)油断していた」と、最高賞受賞の驚きを表現した後、「2005年にバルザックの『人間喜劇』をモチーフにした、絵画をアニメーション化する『ざくろ屋敷』のロケで、ロワール川を訪れた縁がある。今回の作品は、昨年夏に撮影、つい最近まで編集し、フランスでは初めて公開した。受賞は本当にうれしい」と、喜びを表現した。

 授賞式後に深田監督に会った。

 - 若い人たちの評価をどう感じましたか。

 「原発を避けないで扱っている点を、若い審査員たちが、ちゃんと議論した上で評価してくれたと聞いている。原発大国フランスならでは、と感じている。福島原発のことは脚本を書くときから、必ず入れたいと思っていた。その意図が伝わり、分かってもらえたことが、大変うれしい」

 - いろいろな見方ができる作品ですね。
 
 「『歓待』では、ややにぎやかでユーモアを前面に出しながら家族とは何かを問うものだったが、『朔子』では他者との触れ合いの中で、それぞれが自分を知ることになることを、景観も取り入れながら静かに描いた」

 - 若い2人(二階堂ふみ、太賀)の演技が素晴らしかったが。
 
 「そう注文することなく任せたが、若々しくて自然な演技が出せたと思う」

 - 監督が平田オリザ率いる青年団に所属しているのは。

 「平田演劇を見て、映画づくりのためになるものが詰まっている、と感じたのがきっかけ。"留学"をしているようなもの」

 -次の作品の構想は。

 「平田演劇の短編をベースに、福島をテーマにした長編に仕上げる予定だ」

2013nantes_p_05_03.jpg 準グランプリの「収容病棟」は、ワン・ビン監督ならではの社会派ドキュメンタリー。監督は2003年に3部作、9時間に及ぶ「鉄西区」で、昨年は「三姉妹~雲南の子」、ともにドキュメンタリーでグランプリを受賞しており、今回もグランプリの最有力候補だった。

 今回は中国雲南省の公立精神病院に隔離収容された患者たちの生活ぶりを執よう追いかけ、227分という長編の記録にまとめている。

 20年間収容されている患者の一方で、まだ20日の患者もいる。「ドクター!」と呼ぶ声はするのだが、医師らしき存在も、治療行為の様子も見られない。ただ、収容しているだけの施設なのか? 労働が義務づけられている様子もなく、各人は自由(?)に振る舞っている。日本の精神病院からイメージされる情景とは大いに違う。

 病棟は決して明るくはないが、どうしようもなく暗いのではなく、意外に明るい。争いごとはなく、患者同士が微妙に助け合うというか、寄り添っているのだ。社会や家族との生き方に、他人より敏感に疎外感を感じている人たちが、現状に立ち向かうのではなく、身を寄せ合って、互いをかばい合っているのでは、と思わせられた。

 ここには、攻撃的な人間が存在しない。そこに救いがあるので、日常の執ような描写からも目をそむけようと思わず、最後まで見通した。人間は意志でなく、本能のままでも生きていけるということなのか。昨年の「三姉妹~雲南の子」は、より悲惨な状況の描写であっても、生きる人間の力強さを感じさせてくれた。今回の記録が伝えたいものは何なのか、見つけられないでいる。
 
2013nantes_p_05_02.jpg 審査員特別賞の「私は彼ではない」は、自分じゃない自分を夢想するという、人間の密かな欲望を逆手に取った、不思議な味わいのファンタジーだ。平凡な中年男が、若くて美しい彼女と暮らすことになるのだが、どこか自分が自分でないような、自分は誰か別人と思われているのかもしれない、という微妙な不安感を拭えないまま、ある種、幸せな状況が繰り返される。これが現実だとしたら、ちょっとしたスリラーだ。
 疑わずに幸せにかまけていれば、何ごともうまくいったのだろうか。だが、そこに疑念を持ってしまうと、消し去ることができないのが人間。タフン・ピリスリモグ監督=写真(上)=は、忘れがちな、人間本来の夢想を思い出させ、ちょっぴり恐怖の味付けもして、清涼感漂う作品に仕上げた。観客の反応も上々で、カトロザでの上映時には拍手が鳴りやまなかった。
 
2013nantes_p_05_01.jpg 観客賞の「ルールを曲げる」は、学生たちのアマチュア劇団が、団員の1人と親の意見の食い違いで、海外招待公演そのものが危うくなる、という中で、現代イランの若者の仲間意識と世代間の対立を描いたもの。
 ベハナ・ベザディ監督は、劇団員を個性豊かに描き分けて、現代イランの若者像を浮かび上がらせる一方で、厳格な、それでいて娘思いの父親と娘との溝は埋まらない状況も丁寧に描いた。モバイルカメラによる緊迫した演出、即興演奏の音楽の扱いも出色で、若者を中心に観客の心をつかんだようだ。

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 前年からプログラム構成が変わり、閉会式当日もコンペ作品の上映が行われようになり、初日から訪れなくとも、コンペ作品すべてを見ることができるようになった。今回は9本と、例年より作品数が少なかったこともあり、余裕をもってすべてを見ることができた。とはいえ、特集はインド映画100周年の一部を楽しんだだけで、中国映画、ブラジルなどの特集も楽しむことができなかった。

 一昨年の「日活100周年」、昨年の「相米慎二全作品」と日本の特集が2年続いたこともあって、今回は日本の作品が「ほとりの朔子」1本だったことは寂しかった。上映会場で日本人の姿を余り見かけなかったことも、その影響かもしれない。ただ、その1本がグランプリと、日本の新しい才能が育っていることを証明して、大いに満足だった。

 上映面では、例年以上にトラブルが多かった。21日の「ほとりの朔子」では、フランス語の字幕なしで上映が始まり、10分後に観客が騒ぎ始めて初めて、上映が中断された。英語の字幕は焼き込んであるのだが、フランス語字幕は、パソコンで連動させて、画面下の表示窓に映すことになっていたのだが、担当者がいなく、そのまま上映を始めてしまったというのだ。上映時刻がズルズルとずれ込むのは、「フランス流で仕方ない」と諦めているのだが、字幕なしには、ちょっとびっくりした。

【写真(上から】
金の熱気球トロフィーを手にする深田晃司監督
深田監督のグランプリ受賞を伝える「ウエスト・フランス」
準グランプリのワン・ビン監督
審査員特別賞のタフン・ビリスリモグ監督
観客賞のベハナ・ベザディ監督

(桂 直之)

(4)若者と世代間対立描く/イランの「ルールを曲げる」

2013/11/29

2013nantes_p_04_01.jpg 24日はコンペ作品からイランの「ルールを曲げる」、招待作から中国の「DISTANT」、アルジェリアの「過ぎ去った日」の2本を見た。日曜日とあって商店街、マルシェには子ども連れの人が集まり、映画館も前日に負けない観客で賑わった。

 「ルールを曲げる」(2013年)は、学生たちのアマチュア劇団が、海外の祭典に招待されるのだが、団員の1人と親の意見の食い違いで、旅行そのものが危うくなる、という中で、現代イランの若者の仲間意識と世代間の対立を描いたもの。

 団員たちは親たちに「修学旅行に行く」と説明して了解を取り付けていたが、シャハザドだけは父親に正直に話したことで、父親は旅行に反対。彼女を行かせまいとして、パスポートを取り上げてしまう。彼女は父親と話し合うが、話は平行線。彼女は団員仲間と家探しし、パスポートを見つけ出すのだが、父親は、団員たちの練習場を訪れ、娘を帰すように迫る。一度は父親と帰宅したはずの彼女は、車から飛び降りて、行方不明になる。彼らは公演旅行に出発できるのだろうか?

 ベハナ・ベザディ監督(41)は、練習場ともなっているカフェに集う劇団員を個性豊かに描き分けて、現代イランの若者像を浮かび上がらせる。その一方で、厳格な、それでいて娘思いの父親と娘との溝は埋まらない状況を丁寧に描く。彼女を気遣いながらも、それぞれが違った反応を見せ、団員間でも意見が割れそうになる。

 それぞれが、自らを「正しい」と思い、主張だけをぶつけ合うのでは、合意点は見いだせない。若者と父親の"仲介役"的に叔父が登場するのだが、父親の主張の一途さにサジを投げてしまう。シャハザドは、自分が原因で公演旅行を駄目にしたくない意識から、父の気持ちに素直になれない。

 団員たちは、彼女の代役を立てて練習を始めるのだが、出発時刻が迫る中、リーダーは結論を迫られる...。
 団員たちのカフェの中での動きは、モバイルカメラで機動的にとらえ、リーダーらの即興的な音楽を、シーンに合わせてはめ込むことで、若者同士の親密さ、その対極の世代間の緊張関係をも暗示させる演出は出色だ。
 
 招待作の2作品はそれぞれが問題作だ。中国の「DISTANT」(2013年)は、見ようによっては映画作法を全く無視した作品だ。夜の港、燈台の灯りが点滅する冒頭はまだいいとして、都会のバス停を遠くから固定カメラでとらえたまま、バスが何台か停車して、人間が乗り降りするのだが、カメラが昇降客をアップすることもなく、場面転換する。今度は公園だろうか、車がやってきて2人が降り、何か作業をして立ち去る。何の作業かは分からない。どこかで携帯の呼び出し音が...。突然、ウエディングドレス姿の女性が携帯を手に現れるが、彼女も遠景のまま。携帯と花束を投げ出すのだが、どうしてなのかは分からない。登場する13の場面が、すべてこの調子だ。

 ヤン・ツェンファン監督(28)は、上映前に、「ある種のドキュメンタリー。中国の都市風景を遠くに置いて切り取ることで、都市のもつ不条理さや矛盾などが見えてきて、ユーモアさえも発するのではないだろうか」とあいさつしたのだが、その意識先行とフィクションとしての映画が、ちゃんとマッチングしたのだろうかと、疑問に感じた。

 誰かが主人公で、行為には意味がある、という先入観を捨てろ、というのが監督の狙いだとしても、ここまで突き放されると、神経がジリジリしてしまう。それだけ、今の中国の都市の日常とは疎外に満ちているのだろうか。ささいなユーモアも、小さく笑えるというのではなく、トゲと毒を含んでいるようにも感じた。

2013nantes_p_04_02.jpg アルジェリアの「過ぎ去った日」(2013年、アルジェリア・仏合作)は、アルジェリア内戦を扱って、同じ国民でありながら、互いに分かり合えないものがあったことを描いていて、内戦を知らない日本人には、本当には理解できないテーマだと思い知らされた。

 アルジェリア内戦は、政府軍と複数のイスラム主義反政府軍との対立が1991年から2002年まで続き、「暗黒の10年」「テロルの10年」といわれた。カリム・モサウイ監督(37)は、「どうしてわれわれは、相手サイドに立てないのだろうか」のテーマを、2つの視点、同じ学校に通う、若い男女の目を通して、しかも同じ時間帯で描く試みで、1994年の内戦状況での、双方の隔たりと救いのなさをあぶり出している。

 ダジャベーとヤミノは同じ学校に通い、彼は彼女を憎からず思っている。最初は彼の視点から。政府寄りの彼女の家族とは親密にできない状況、でも彼女を守ろうとする彼。政府よりの人間への発砲事件があり、彼女は学校を離れことになる。何も言えないままの別れ。今度は同じ時間帯が彼女の視点から描かれる。彼も彼女も主体的に内戦にかかわっている訳ではなく、親やグループがそうであるだけなのだが、目に見えない境界が常に意識されている。発砲事件の捜査が進展することもなく、彼女の一家は引っ越していく。彼女の視線から見た、彼の表情の、どうしようもない虚ろさは、彼が彼女を見送った表情以上に訴えるものがあった。
 
 彼に視点ではなかった、最後の場面が衝撃的だ。彼女の車が走り去った後、倉庫のような場所を警戒していた警察官たちが、ある集団に襲われて全員射殺される。この時期、内戦は、政府軍と警察官を標的にすることから、民間人攻撃へと憎しみの連鎖は拡大していった。牧歌的な風景の中での淡い思いは、子ども時代の記憶にしかとどめることがないのだ。アルジェリアの作品では、内戦を扱った作品に度々出合った。監督の問いは、未だに答えが得られていない、ということなのだろう。僕の想像力で、どこまで近づけたのかは分からないままだ。

写真(上) 父親の説得に頭を悩ますことになるシャハザド(「ルールを曲げる」より)
写真(下) 引っ越していく少女の目から見たダジャベーの表情(「過ぎ去った日」より)


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                        ホットワインの香りが漂うマルシェ

 日曜日、映画の合間を縫って、今年も、映画祭の通訳ボランティアとして知り合った日本人女性の3家族と食事をともにした。1つの家族には姉妹に新たに男の子も加わった。それぞれの家族が料理やケーキを持ち寄って、いろいろなことを話し合う。

 今年のナントは例年以上に寒いということだった。カトロザ前で20~30分並んで待たされると、夜はダウンコートを着ていても足踏みをしないと耐えられないぐらいだった。値上がりが相次いでいて、暖房をどうするかが話題になり、3家族とも何と、湯たんぽを愛用していることが分かった。実は僕も、昨年から愛用している。

 それだけではない。お湯を毎回捨てる家庭はなかった。何度か沸かし直して使うのだが、そのためだけのポットを用意していて、5~6回使うという、徹底ぶりには、ちょっぴり驚かされた。エコも徹底しなければならないのだ。見習わなければ!

 夕方、映画に戻る前にパレス・ロワイヤルのマルシェをのぞいてみた。例年と変わらぬ店構えだが、扱う品物には目新しいものも。電飾は丸い円形からダイナミックな光の束が連続して飛び出している形で、「ここ数年では一番」との声も出ていた。ホットワインの鼻を強烈に刺激する香りの誘惑を振り切って、カトロザに向かった。

2013nantes_p_04_04.jpg                        ダイナミックな今年の電飾

(桂 直之)

(3)精神病棟にカメラ/ワン・ビン監督の「収容病棟」

2013/11/26

2013nantes_p_03_01.jpg 23日はコンペ作品、中国のワン・ビン監督の「収容病棟」(2013年、中国・仏・香港・日本合作)だけを見た。

 ワン・ビン監督といえば、デビュー作が3部作で計9時間の「鉄西区」(2003年の山形ドキュメンタリー映画祭、直後のナントでもグランプリ受賞)、昨年のグランプリと観客賞だった「三姉妹~雲南の子」も153分の長尺ものだった。

 今回は中国雲南省の公立の精神病院に隔離収容された患者たちの生活ぶりを執よう追いかけて記録した、227分のドキュメンタリー。初の日本との共同製作。「三姉妹」が、悲惨な状況ながら、生きる力強さを感じさせてくれたのに比べると、今回はテーマ自体が重く、見る前から少し怖じ気づいてしまい、この日は、この1本だけに絞って見ることにした。

 4時間近い上映時間、観客は少ないのではと勝手に思い込んでいたら、何とほぼ満席状態。ナント市民の監督への思いが伝わってきた。

 スチール写真を見てもらうと分かるが、病院はロの字の形のビルで、廊下が中庭に面して回遊なっていて、廊下は鉄柵と金網に覆われている。男性患者たちは2階の各部屋に6人ずつ、入れられている。

2013nantes_p_03_02.jpg ふとんを頭からかぶった患者を無理矢理起こそうという患者がいる。それが始まりだった。患者の中には、名前と収容期間が表示される者もいる。まだ20日の患者もいれば、20年という患者もいる。飲み物、食事が配られる以外、「ドクター!」と呼ばれる声はするのだが、ちゃんとした医師が治療行為を行っている様子は全く見られない。

 ただ、収容しているだけなのか? 

 何かを、労働を強制されるようなことはなく、各人が自由(?)に振る舞っている。日本での精神病院からイメージされる情景とは違うようだ。

 夜、寝られなくて裸のまま水をかぶる者、廊下を全速力で駆ける者、祈りを捧げる者、とさまざま。自分の主張を譲らない者がいるが、それで争いごとになることはない。わざわざ、他人の狭いベッドに潜り込む者も、ベッドを交換する者も...。

 家族が衣類や食べ物を持って訪れる。「すぐに帰りたい」と声高に繰り返すのだが、それを最後まで主張しない。家族のことも気遣うのか、最後は黙ってしまう。

 
2013nantes_p_03_03.jpg 治って、ここから出て行く者はいるのか、と思っていたら、11年間収容されていた男性が"退院"となった。カメラは、その男性の家まで追いかけ、家族の様子や、一夜明けた男性の表情も伝える。家族は淡々と接している風に見えたが、元患者の病院とは違う爽やかな表情が印象的だった。

 退院する際、病院側から「政府は、ちゃんと治療している(だから、退院できるんだ)」との声が漏れ聞こえてくるのだが、ここは監督が"譲歩"したのだろうか。

 病棟は決して明るくはないが、じゃあ、どうしようもなく暗いのか? 意外に明るいのだ。患者同士の微妙な助け合い、食べ物を分け合ったり、苛立ちをなだめたり、1階の女性患者との声の掛け合いの中に、ほのかに伝わる男女の機微...。そんな視点に、人間の救いを感じた。

 2日前に見た、ブラジルの厳しい高地の自然と生活ぶりを追ったドキュメンタリー「SOPRO」での生き様を思い浮かべた。そこでの、受け入れなければ生きていけないギリギリの生活は、収容者たちには無理なのかもしれない。患者たちは社会や家族に、どこか疎外感を抱いていて、それを他人より敏感に感じているだけ、なのだろう。1人1人が立ち向かっているわけではないのだ。病院内の微妙な助け合いは、その現れではないのだろうか、と思った。

 人間には根元的に救いがあるのでは、との意味では、作品を評価する拍手をしたかったが、できなかった。もちろん観客からは盛大な拍手が鳴りやまなかったのだが。

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 週末になって、クリスマス商戦の装いも整った街には、プレゼント下見の人たちがどっと繰り出した。この日も小雨が降り、夕方からは強い風が吹き荒れたが、夜遅くまで人々の姿が町中にあふれた。クリスマス用品の小物から装身具、チョコレートやワインとさまざまなものを扱う、この時期特有の"マルシェ(出店)"も店開きした。ナントの中心ロータリー、パレ・ロワイヤルには60近くが開店、日中からホットワインの甘い香りが周囲に漂った。

写真(上)金網張りの廊下で、それぞれの思いに浸る患者たち(「収容病棟」より)
写真(中)ワン・ビン監督の作品を見ようとカトロザ前に列をつくる観客たち
写真(下)上映前にあいさつするワン・ビン監督(右)

(桂 直之)

(2)本当の自分はどこに?/不思議なファンタジー「私は彼ではない」

2013/11/25

2013nantes_p_02_01.jpg 22日はトルコ、ペルー、タイのコンペ作品とインド特集の1本見た。

 トルコの「私は彼ではない」(2013年)は、不思議な感覚にさせられる作品だ。中年のコック助手ニハトは、独身で毎日決まり切った生活を送っているのだが、同じ職場の若い女性から思わせぶりな視線を送られる。彼女の夫は収監中で、彼は気にしながら避けていたのだが、彼女から直接誘われ、自宅を訪問することに。

 なぜか彼に優しい彼女。彼女の自宅に飾ってあった写真は、何と彼そっくりの男性とのツーショ ットだった。はっきりした理由が分からないまま彼女を受け入れ、一緒に暮らし始める。幸せは長 くは続かない。湖でボートに乗った2人だが、彼が寝込んでいるうちに、彼女は姿を消し、死体となって岸に打ち上げられていた。

 喪失感から職場を変えた彼だが、彼女とそっくりな女性を発見してしまう。不思議なことに、こ の女性とも親密になれ、以前と似たような生活が戻ってくる。でも、なぜか落ち着かない。自分が 自分でないような...。自分は誰か別人と思われているのかもしれない。そんな中、自分とそっくり な男性と出会い、その男の本性を見極めようとするのだが...。

2013nantes_p_02_02.jpg あらすじを書き連ねても、この作品の魅力は伝えられないだろう。冒頭のニハトが起き出し、鏡 をのぞいた後に台所へ行った後も、鏡には彼の顔が張り付いたままになっていた。ここが、この" ファンタジー"の入り口だ。

 ニハトの生活が変化する契機は、トラブルから警察の留置場に入れられたことだった。そこには 若い先客がいて、男は革靴で鉄格子をたたき続け、看守にボコボコにされる。自分そっくりな男を 確かめようとして、再び留置場に入れられて彼は、そこでも革靴の若い先客に出会う。そして、響く鉄格子をたたく音...。

 世の中には自分のそっくりさんが3人はいる、という話を聞く。誰もが、自分じゃない自分を夢 想すること、その裏返しとして存在する話なのだろう。でも、それが現実だとしたら、ちょっとしたスリラーだ。タフン・ピリスリモグ監督は、人間の密かな欲望を、ファンタジーとして描き出し た。彼と彼女の、つつましいが、どこか本当でない暮らしぶりの描き方が出色だ。幸せだが、本当かな、と疑っても、せわしい現代では、突き詰めて考えることもないだろう。忘れ去っている、人間本来の夢想を思い出させ、清涼感が味わえた作品だった。

 ペルーのダニエル(37)、ディエゴ(36)のベガ兄弟による「EL MUDO」(2013年、ペルー、仏、メキシコ合作)は、一発の銃弾で声帯を失った裁判官が、自らを陰謀の犠牲者と信じ込み、突き進むさまを描いたもの。

 ベガ兄弟は2010年、強欲な貸金業者の男が、赤ん坊を家の前に置かれたことから変わっていく、コミカルな「10月の奇跡」でカンヌ映画祭「ある視点」部門の審査員賞を得て、この年のナントでも 招待作に選出されている。

 今回は、法を曲げてでも真相に迫ろうとする主人公ゼガラの猛進ぶりが圧巻で、ブッラクユーモアといっていいかもしれない。話せないことの苦痛を押し込め、信じたことから目をそらさないゼ ガラを、やや狂信的な面を漂わせながらフェルナンド・バシリオが好演している。彼は今年のロカ ルノ映画祭で男優賞を受賞している。映像的にも、交差点で銃弾が窓ガラスを突き破って命中する シーンでの自在なカメラワーク、音楽とシンクロしたスローモーションなど、見どころ満載だ。

 タイの「36」(2012年)は、デジタルのデータが持つ危うさをテーマにした実験的な作品。若い女性Saiは、フィルム撮影の場所を探す一方で、サイト上のアートディレクターOomと連絡 を取り合う。数年後、彼女はハードディスク上で、彼らの出会いの唯一の証拠である写真(廃ビル から始まった、いっぱいの思い出)を検索するのだが...。フレームの端に文字を残して撮影した36枚(フィルム式カメラの36枚撮りに合わせた?)が映し出す小さな物語は、2人の結び付きをうかがわせはしても、多くの情感までは伝えず、空虚さが漂う。

 
 Nawapol Thamrongrattanarit監督は、画像を機械的に保存することが習慣になっているデジタル時代だからこそ、イメージでわれわれの感情や記憶を代替えすることの危うさを問い直している。 ただ、彼女が撮り続けた写真が映し出されたのは数枚だけで、撮影シーンの連続、36回暗転して タイトルという構成では、監督の目指した意図を伝えきれたか疑問に思った。

 インド映画100周年特集の「BHUMIKA」(1977年)は、インド映画の魅力(歌と踊り)と撮影現場の雰囲気が味わえて大いに楽しかった。 


 父親を亡くしたウーシャは、母親が知る映画監督のつてでボンベイに行き、撮影スタジオでの歌手になる。祖母仕込みの歌ですぐ認められると、女優の道も開けてくる。彼女は、無節操に利用し続ける監督を信頼し続けるが、撮影現場と悲惨な恋愛の双方で、女優生命も危うくなり、1人で打開しようと決める...。
 
 1940年代の有名な女優ハンサー・ワルカー(1924-1971)をモデルにした作品。スミター・パティルがきらびやかに歌って踊って、ボリウッド女優のアイデンティティを貫こうとするさまを熱演していて、最初の国家賞を受賞している。スタジオ風景が多くはめ込まれ、当時の撮影現場でカメラワークや演出、小道具などがどうだったのか、興味深く見ることができた。シリアスな面も備えながら、歌って踊る、インド映画本来の楽しみも十分に盛り込んだ傑作の一つだ。

 写真(上) ニハトには同じ顔の他人がいるのだろうか?(「私は彼ではない」より)

 写真(下) 「私は彼ではない」上映前にあいさつするピリスリモグ監督(中央)

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 ナントが歴史的な建物を長期的に修復していることは、これまでも報告してきた。今回は、映画祭の主会場カトロザ近く、グラスリン劇場前のロータリーが、すっかり模様替えされて驚いた。100以上続くビストロ「スィガル」の前には噴水ができ、街灯も一新された。まだ、花壇の整備が全てそろってはいないのだが、全体に広々とした感じになった。週末からXmas商戦が始まることもあって、何とか間に合わせたようだ。ガラス天井の3階建てアーケード、パサージュ・ポメリもお化粧直しの真っ最中だった。少し汚れていた彫像たちも塗り直しされるようだ。こちらも楽しみだ。

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           噴水が登場して一新したパレス・グラスリン

2013nantes_p_02_03.jpg             彫像もお色直し(パサージュ・ポメリ)

(桂 直之)

(1)少女から大人への心理描く/ナント3大陸映画祭に「ほとりの朔子」

2013/11/25

2013nantes_p_01_03.jpg 11月21日朝、西フランスの古都ナントで開かれている3大陸映画祭(11月19-26日)にやってきた。1年が経つと習慣のように訪れて19度目になる。

 映画祭はアジア、アフリカ、中南米の3大陸に絞った作品だけを提供し続けるユニークなもので、今年で35回目を迎える。コンペティション部門9作品(フィクション7作品、ドキュメンタリー2作品)、招待作8作品のほか、「北京から香港-中国映画の歴史1930~50年」の11作品、「インド映画100周年」の12作品、「レンズを通して見る南アフリカの歴史」の13作品、「現代ブラジルに焦点」の10作品などの特集が組まれ、今年も盛りだくさんだ。会期中、中心街の3つの映画館(6スクリーン)と郊外の3会場(3スクリーン)で計92本が上映される。

 仙台から成田経由だと、乗り継ぎ時間も加えて、ほぼ1日がかりの旅。21日早朝のパリは思っていた以上寒くて2度、おまけに雨だった。新幹線(TGV)を使ってのナント着が午前9時前。こちらも小雨で寒い。10時から映画を見始めた。初日は日本を含むコンペ部門4作品と、この映画祭で出会い、関心を持ち続けていたツァイ・ミンリャン監督の最後の作品(招待作、今年のベネチア映画祭で引退表明)を見た。

 日本のコンペ作は深田晃司監督(33)の「ほとりの朔子」(2013年、日米合作)。タイトルの「ほとり」は最近ではピンとこないかもしれないが、境界をやんわり示す辺(あたり)のことで、水辺が分かりやすいだろうか。ヒロイン朔子の微妙な位置づけを表している。

2013nantes_p_01_02.jpg 大学浪人生の朔子(二階堂ふみ)は、叔母の海希江(鶴田真由)と一緒に海と山のほとりを避暑で訪れる。叔母の幼なじみと、彼の甥で高校生の孝史らと出会う。孝史との出会いや、叔母たち大人の世界にも巻き込まれ、子どもと大人の「ほとり」にいる朔子は、人生の複雑さをかいま見ることになる。
 深田監督は2010年の「歓待」が、この年の東京映画祭「ある視点」部門賞を受賞して注目を浴びている。東京下町の小さな印刷所に流れ者が居座り、次々と他人を呼び込んで起きる騒動に翻弄される家族らの姿が、視点を変えるとユーモラスであって、けっして他人事ではないことを描き出していた。

 「ほとりの朔子」は今年の東京映画祭コンペ部門出品作。深田監督は、22日訪れるとのことで、上映前あいさつはなかったが、ほかの場所で「『歓待』の延長線上にある作品」と表現している。朔子にではなく、海希江や孝史らに視点を移すと、「ほとり」の意味するものは別ものになってくる。監督は「100通りの見方ができる作品にした」とも言っている。脚本も監督で、孝史が大震災による原発事故で福島から避難しているという設定の中で、原発との関わりは何が正しい、といえるのかも問う。派生して朔子には、インドネシアを研究している海希江に、「どうして日本人なのに日本のことを研究しないの」か問わせる。返答はこうだ。「自分のことは自分が一番知っている、と思っているけど、そんなことはないの。他人や他国から見ることで分かることもあるのよ」

 海が海岸沿いに迫り、海と山の双方が視野に入る景観は、それだけでも見応えがある。二階堂ふみ(19)の、少女の恋愛感情から大人へと一歩踏み出す表情の、ちょっとした違いが見どころだ。大人たちが、本音を隠しながら話を合わせる場面での、違和感の仕草と表情も何ともいえない。彼女は、東日本大震災後に舞台設定した、孤独な少年と少女の魂の彷徨を描いた「ヒミズ」(園子温監督)で、少年役の染谷将太とともに2011年のベネチア映画祭マルチェロ・マストロヤンニ賞(新人俳優賞)を受賞、今や若手女優のホープだ。「歓待」に続いて、監督が所属する平田オリザ主宰の青年団からの出演者(古館寛治)が役達者ぶりを発揮しているのも楽しめる。

 韓国の「我らのスンヒ」(2013年)はホン・サンス監督(52)が得意とする、おしゃれなラブストーリーだ。
フィルムスクールの学生スンヒは、恋人でもある担当教官に米国留学への推薦状について相談するのだが、彼女がかつて好きだった学生2人も入り交じった6日間が描かれる。
サンス監督は1996年の処女作「豚が井戸に落ちた」で、ロッテルダム映画祭のグランプリを獲得して注目される。2010年以降では、「教授とわたし、そして映画」「次の朝は他人」、仏女優のイザベル・ユベールを主演にした「3人のアンヌ」などが、3大映画祭で話題になってきた。「アバンチュールはパリで」(03年)のタイトルでも分かるように、欧米的エスプリがきいた作品は、ヨーロッパでは大人気だ。この日も会場はいっぱいで、その人気を実感させられた。
今年のベルリン出品作「誰の娘でもないヘウォン」(13年)とも、ストーリー展開は重なる。"恋敵"3人が場所や状況で重なり合い、時には不安な構図にもなるのだが、落ち着くところに落ち着いていく...。ストーリーは相変わらずでも、場所、状況の違いを楽しむ、その小粋さが受けるのだろう。音楽の使い方もツボにはまっていて楽しめた。

 ミャンマー生まれ、台湾で学んだミディ・ズー監督(31)の「貧しき人々(POOR FOLK)」(2012年)は、全てがお金中心の東南アジアで、貧困が生む悲喜劇を描いたもの。主人公の妹が人身売買の手に落ちたことから、仲間とバンコックへ向かい、賭博や地元ギャングとのアンフェタミン違法販売などで金を稼ぎ、助け出そうとする。複雑に絡んだ人間関係と一筋縄ではいかない「悪の世界」、彼らは妹を助け出せるのか。
 犯罪映画の全ての要素を取り込みながら、決して最強のヒーローでない男たちの家族愛に支えられた奮闘ぶりが、広角レンズの長回しを通して、予期せぬユーモアさえ呼び覚ます。だが、自分たちの「正義」のためには別な犠牲者も必要になる...。

 ブラジルのマルコス・ピネンタル監督の「SOPRO」(2013年)は、ブラジルの南東部、ミナスジェライス州の高地SOPROの自然と、その中に生きる人間と動物を取り込んだドキュメンタリー。
 3つの要素のどれかに主体が置かれることが普通だが、この作品ほどバランス良く切り取った作品はまれではないか。吹き荒れる砂煙、凶暴なハイエナやハゲタカが獲物を狙っている。そんな中で人間は、最低限の穀類と家畜で支えられ、テレビの音声(後半では馬の背に乗ってパラボラアンテナが運ばれてくるのだが)はなく、対話も最小限ながら、強く結ばれている。高齢者と少ない子どもの強固な結び付きは、この厳しい環境の中だからなのか。独り遊びする子どもは決して寂しくはないのだ。そこが都会とは違う。牛の出産をじっくりとらえたシーンは、直後の子牛が立ち上がりを母子ともどの頑張りが、見る者を熱くする。これこそが命の保存なのだが、果たして恵まれた人間の生き様は、どうなのか。

2013nantes_p_01_01.jpg 最後に見たのが、招待作品、ツァイ・ミンリャン(55)の「野良犬」(台湾・仏合作)だ。新興住宅地の看板持ちでわずかな収入を得ている男は、台北の廃ビルに子ども2人と暮らす。子どもはスーパーの試食品で餓えをしのぶ。そして謎の女も加わる...。大都会の片隅で野良犬のように生きる人間を彼独特のセリフの少ない、ドキュメンタリー的な、そして極端な長回し、という独特のスタイルで描く。

 監督に出会ったのは、ナントに最初に訪れた1993年だった。台北の若者の孤独感、焦燥感と親との確執を醒めた視点で描いていて引きつけられた。ナントで最優秀処女作賞を得た。翌年の「愛情萬歳」では、空間をすれ違い的に共有する若い男女3人を通して、都会の持つジレンマが生み出す孤独感や焦燥感を、距離を置いてじわりと感じさせる秀作だった。ナントで連続受賞、ベネチア映画祭ではグランプリに輝いた。

 その後も「河」(97年)でベルリン映画祭銀熊賞、台北の映画館の最後の夜を描いた「楽日(らくび)」(2003年)でもナント観客賞を獲得、この映画祭とともに歩んできたのを同時体験してきた。

 それだけに、今年のベネチア映画祭で宮崎駿監督に続き、ツァイ・ミンリャン監督も引退表明したのには驚かされた。その理由が「(今、主流の)商業映画をつくることは自分の信念に反する」というものだった。いかにも監督らしいが、55歳での引退は、何といっても早すぎて、残念だ。

 彼の作品を支え、成長してきたのが主演のリー・カンション。「野良犬」でも、監督特有の長回しが随所に出てくるのだが、鶏のもも肉をほおばるシーン(8分間)に耐えられるのは、カンションしかいないだろう。「楽日」ではラストで5分間、同じシーンが流れた。今回も、ここまで必要なのかと、旅の疲れもあって、自問しながら見た。ただ生きる、それ以外を考えない、男と子どもたち。そぎ落とした「虚無」の世界の、これが結論なのだろうか。

 23日に開幕する第14回東京フィルメックスでは「ピクニック」というタイトルで特別上映される。原題が「郊遊」なので、全くお門違いとは言えないが、違和感も覚える。

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2013nantes_p_01_04.jpg 今年のポスターは南アフリカ特集にあやかって、映画のワンシーンが使われている。モノトーンに金色を配した、簡潔だが、映画祭の特徴を表した構図になっている。

 上映開始時の映像は、1昨年から同じ、これまでの受賞作のうち、ツァイ・ミンリャン、サタジット・レイ、ウォン・カーウィらの代表作の場面をつないだもので、最後に砂が洗われて字が浮かび、受賞者一覧に変わるという趣向も昨年と全く同じ。予算が問題だとしても、フランスらしい工夫があっても良かったのでは、と思わせられた。

 写真(上) 水面の広がりに物思う朔子(二階堂ふみ)(「ほとりの朔子」より)
 写真(下) 男の誕生日に、謎の女がケーキを用意して現れる(「野良犬」より)

(桂 直之)
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