シネマに包まれて-映画祭報告

presented by 河北新報

(5完)大賞に「我々のものではない世界」/マルケル特集で朗読会

2013/10/19

yama13_05_02.jpg 10月16日夕、授賞式が行われ、以下のような結果が発表されました。今年の審査員は足立正生さんを長として、フィリピンのラヴ・ディアス、フランスのジャン=ピエール・リモザン、マレーシアのアマール・ムハマド、ドイツのドロテー・ヴェナーの各氏で、全員映画監督です。

 大賞のフラハティ賞を受賞した『我々のものではない世界』は、イスラエル占領下で難民として生きるパレスチナの人々の苦難を見つめたドキュメンタリーで、日本赤軍の一員としてPFLP(パレスチナ解放戦線)の活動に加わっていた足立さんらしい選択だと言えるかもしれません。今年の問題作だった『殺人という行為』は最優秀賞にあたる山形市長賞を受賞しました。
 正味3日という短い滞在だったため、コンペの作品はもとより、アジア千波万波の作品がほとんど見られなかったのはとても残念でした。写真は大賞を受けた「我々のものではない世界」の1シーンです。

 今年、山形に行こうと思ったきっかけは、昨年7月に91歳で亡くなったフランスの映像作家クリス・マルケルの特集が組まれたことです。親日家で、代表作の『サン・ソレイユ』など日本を舞台にした作品を多く発表しているマルケルとは個人的にも親しくお付き合いをさせていただいたこともあり、彼の作品を改めて見直してみたいと思ったのでした。写真は、パリのポンピドーセンターでキュレ

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ーターを務めるエチエンヌ・サンドランさんとクリス・マルケル・ファンクラブの会長を自認する上智大学教授の福崎裕子さんが、クリス・マルケルの『ル・デペイ(異/祖国)』を朗読する模様です。

 『デ・ペイ』は、日本を訪れた旅人が、日本で見つけた風景を通して国について考察するという作品で、マルケルが撮った映像をスクリーンで写しながら、フランス語と日本語のテキストを交互に朗読するというもので、『サン・ソレイユ』のもとになった作品です。この朗読会と合わせて、1953年のアラン・レネとの共作の『彫像もまた死す』から、2012年の『オリンピア52についての新しい視点』までの45作品が上映されました。

 若くしてレジスタンス運動に身を投じてから、マルケルの人生は旅と闘いで貫かれ、彼の旅と思索の記録が映像作品として残されてきました。旅と猫と友人を愛した彼の足跡をたどる特集が、彼の愛した日本の山形で組まれたことを、きっと天国で喜んでいることでしょう。

【受賞結果】
●インターナショナル・コンペティション部門
ロバート&フランシス・フラハティ賞(大賞):『我々のものではない世界』監督マハディ・フルフェル(パレスティナ、アラブ首長国連邦、イギリス)

山形市長賞(最優秀賞):『殺人という行為』監督ジョシュア・オッペンハイマー(デンマーク、インドネシア、ノルウェー、イギリス)

優秀賞:『リヴィジョン/検証』監督フィリップ・シェフナー(ドイツ)
    『サンティアゴの扉』監督イグナシオ・アグエロ(チリ)

特別賞:『蜘蛛の地』監督キム・ドンリョン、パク・ギョンテ(韓国)

●アジア千波万波部門
小川紳介賞:『ブアさんのござ』監督ズーン・モン・トゥー(ヴェトナム)

奨励賞:『怒れる沿線:三谷(さんや)』監督チャン・インカイ(香港)
   『モーターラマ』監督マレク・シャフィイ、ディアナ・サケブ(アフガニスタン)

特別賞:『戦争に抱かれて』監督アッジャーニ・アルンバック(フィリピン)

*その他の賞などの詳細は、映画祭のHP(http://www.yidff.jp/home.html)をご覧ください。

(齋藤敦子)

(4)移動映写の価値再び/山形事務局 高橋卓也ディレクターに聞く

2013/10/16

yama13_04_01.jpgQ:高橋さんは、どういう形で映画祭に入られたんですか?

高橋:もともと山形フォーラムの一番最初の社員なんです。大学を出て山形に帰って図書館員とかトラックの運転手とか、いろいろ仕事をやってた頃、長澤さんが市民運動で映画館を作ったという新聞記事を見て、非常にびっくりして初日に見に行き、その2か月後には就職していました。最初は営業で1年くらい映画館の仕事をし、長澤さんには映画センターという自主製作の映画を地域で紹介していく仕事があるんですが、そっちに移って3年目ぐらいに小川紳介監督が『1000年刻みの日時計』という作品を完成して、見に行ったら非常に面白くて、小川プロには人がいないので、少なくとも山形県内は長澤さんと私で配給しようということになった。それがきっかけで小川さんとも知り合いになりました。映画祭が始まることは情報で知ってましたけど、直接のアプローチはまったくなかったし、行政がプロと組んで勝手にやっちゃうんだろうくらいに思っていたところ、小川さんが行政にやらせといちゃダメだ、山形に住んでる映画の好きな連中が関わった方が面白い映画祭になると言って役所に電話してくれて、担当者と私が会って、山形県内でいろんな映画の取り組みをやっている若い人たちがいるから、その人たちを集めて映画祭の応援団を作りますということで、映画祭が始まる2か月前くらいにネットワーク組織を立ち上げたんです。

Q:今のような立場になられたのは?

高橋:2007年からNPO法人の事務局長になっていますが、映画センターの仕事が面白かったので、すぐ映画祭に入りたいとは思いませんでした。

Q:最初は手伝うという感じだったんですか?

高橋:山形では行政より我々の方が映画の宣伝力もあるし、人を組織する力も持っていたんで、自分たちが納得のいく、自分たちが面白いと思える映画祭にしたい、という気分で関わっていました。2005年の映画祭には、ちょうど仕事がなかったんで事務職員として入って内部の人間として関わり、映画祭が終わったときに、行政の方から独立しないかという話が出たんです。行政が民間に委託するというと、予算を減らして、いずれ潰すのが目的なんじゃないかと心配をする人がたくさんいて、周りから止められたんですが、その当時の現場にいる専門委員の人たちが独立した方がいいと一番思ってたので。私としては現場の感覚を優先すべきだろうし、現場の人間が生き生きしていないと映画祭もつまらないと思って。

Q:それで事務局長になられたということですね。藤岡朝子さんにインタビューした際に、高橋さんが映像文化都市宣言をやろうとしていると聞いたので、そのことについてうかがいたいんですが。

高橋:映像文化創造都市というのは、基本的に映像を見る、あるいは上映するといった映像文化を深める活動の中で、まち作りに貢献できる可能性があるというものです。たとえば、子供に映画の作り方を教えたり、地域の歴史や家族を記録するような映像の綴り方みたいな教室を開いたり。映像は内省的な部分があると同時に発信力のあるメディアですから、それを地域でいろんな形で活発化することで地域も面白くなり、子供たちも新しい表現を学べるんじゃないか。そういう役割を映画祭が恒常的にやっていくべきだろうと。国際映画祭を2年に1回開催する準備もしながら、映像文化が持っている教育力や地域を見つめる力、発信する力を常に地域の人たちと共有する。それによって映画祭のファンも当然増えていくと。

Q:映画祭をやってきて、受け取り方が変わってきたというようなことはありますか?

高橋:我々自身が地域の人たちの中に入っていき、実際に映画祭のことを話す生の体験が増えてきていることです。映画を共有する喜びは、ものすごく充実感があるんです。ほっとけば上映会もないようなところに、たとえばコンペティション作品でも県内で配給できる作品でもいいんですが、学校に行って「こういう作品があるんですが」と、先生とお話したりすると、「ああ、映画祭って2年に1回イベントやるだけかと思ってたけど、そうじゃないんだね」と言ってくれる。そういう認識を新たにしてくれる体験というのは、我々にとってすごく勇気が出ることなんです。

 それから、今は山形県内だけでなく全国的にそうですけど、映画教室というのがまったくないんですね。週休2日制になってそういう芸術教育というものがなくなってしまった。たぶん映画が一番最初になくなったと思います。20年前には、私自身がしょっちゅう小学校に行って映写機を回して、子供たちが変わる瞬間や喜ぶ瞬間を見てきたんで、それがまったくないのは、やっぱりどこかおかしい。いい映画を大人たちが薦めなくなっているというのもあるし、映画との接点がすごく少なくなってきている。昔は大人たちが子供たちにいいものを見せようとお金も時間もかけてやってて、ありがたかったですが、それが今、まったくないんです。それで、我々がやっていることが単にイベントで終わってしまわないように、受け手側の、子供たちに映画を見せようという大人の意識の変わり方をシステムとして確立しようと。

 あと、県内に眠っていたフィルムがここ数年いろいろ出てきているんです。今回オープニングで上映した山形市公報ニュースですが、これは昭和30年代のまだ放送局が出来る前に行政マンが東京に修行に行ってカメラの使い方を覚えてきて、地域を記録したのを映画館で本編の前にニュース映像として上映していたもので、今見ても非常に面白い。山形の人たちの暮らしがそこに本当に非常にボリュームのある情報量として写っていて、それをフィルムとして修復して残しておくことと、データに変換して、たとえばDVDにして公民館で上映する活動も今やり始めています。

Q:映像文化創造都市宣言をすると、どういう風に変わる?

高橋:どういう風に変わるかは正直あまり見えてないんです。1つには教育の世界に映画をもっと入れたいということ。それから地域の記録に市民がもっと積極的に取り組んで、それを皆で共有したい。映画祭でも公民館の上映でもいいんですが、それをやりたい。それから震災に関するフィルムライブラリーを山形で作りたいんです。これは映画祭が25年の歴史のなかで培った信頼度を背景にやらなければ出来ない仕事だと思うんです。

 震災に関しては出版物とかチラシとか新聞とか、いろんなライブラリーが作られていると思いますが、配給者がいて映画製作者がいる映画作品は、配給が終われば仕舞われてしまう。それを商業的な価値などを超えた、同じ東日本大震災の記録として、ニュース映像でなく、作家が作ったしっかりした映像として、半永久的に保存することを誰かがやらないとダメだと思ったんです。そのことをきっかけにフィルムライブラリーというものの価値に気づいた。フィルムライブラリーの活動として、さっき言った山形県内の映像を集めて保存して修復し、それを展開していくような事業も出来るだろうし、子供たちに映像教育をする拠点としても活用できるんじゃないか。フィルムライブラリーが持っている機能をもっと拡大できるんじゃないかと思っているんです。そのためにはお金も人ももっと必要ですから、それは映像文化創造都市という考えの中でする。貴重な映像を保存し活用していこうという考え方に市民がなっていかないとたぶん無理だと思います。

Q:震災をきっかけに、山形の人たちにドキュメンタリー映画や映画祭への期待が高まったのではないかと思ったんですが、手応えのようなものがありましたか?

高橋:1つ思ったのは、被災地に映写機を持って上映会に行ってたときのことです。日本映画の歴史の中で移動映写の歴史って結構あるんですよ。被災地のがれきに囲まれた小学校で電気がやっときたというようなところで、なんとか落ち着いたから映画を上映しに来てくれという話があって、行くと本当にひさしぶりに映写機のそばに皆さんが来てくれて握手してくれ、"ああ、映画って人の役に立つな"と思いましたね、変な言い方ですけど。

Q:作品は何を写したんですか?

高橋:石巻の湊小学校という石ノ森萬画館から一番近い小学校は、自治組織というか被災者の人たちがまとまってて、自治会長さんから"寅さんの48作目をやってくれ"と。"なんでですか"と聞いたら、48作目は寅さんの一番最後の作品なんですが、神戸の震災で炊き出しをするシーンがあって、それが見たいからとおっしゃって。で、改めて見てみたら初っぱなから出てくるんです。とらやで、さくらとおいちゃん、おばちゃんが神戸の震災のテレビを見ている。「大変な思いをしてる人がいるね。ところで、うちの寅はどうしてる?」といってカメラがずっと寄っていくと寅さんが炊き出しをしていて「あそこにいた!」っていう(笑)。それをぜひやって欲しいということで上映しに行きました。体育館には、なぜかスクリーンが垂らしっぱなしになっていて、そのちょうど中間に、ここまで水が来たというラインがあった。そのスクリーンは使いませんでしたが。中は全部泥出しが終わって、皆さんの食事の場所になっていたんですけれども、そこで上映しました。そしたら寅さんに炊き出しのやり方を教えた方がボランティアで来ていたんです。下見に行ったときに、「来週ここで映画を上映するんです、寅さんの48作目で」と言ったら、「私、渥美さんに炊き出しを教えました」という方がいた(笑)。

Q:奇遇ですね。

高橋:神戸の人たちが真っ先に来てくれたんですね。映画は立派な映画館で見るということじゃなく、人の中に映画を運んで行くという行為そのものが映画を伝えていくことなんだな、役立つんだなと思ったことと、震災なんて我々がまったく経験したことがないことで、それと映画がどう向き合えるかといえば、まったく解答がない。だけど震災を見つめることで何か作り出したいという若手の人たちがたくさんいる。実際に被災地に行って、そこの人たちと一緒に映画を作っている人たちが今回たくさん作品を出してくれたんですから、まだまだ映画の役割は終わってないという気はしますよね。映画祭は、ドキュメンタリー映画という、なかなかメジャーになりにくい世界で、震災と向き合って作品を作っている人たちの発表の場にならなければいけない。それに、その作品が1回上映されて終わりではなく、ライブラリーという残し方が出来るのは、東北では山形しかないと思っているんです。ですから、自分たちがやった方がいいと思うことが増えた、というのが1つの手応えですね。

Q:映画祭があることで点が線になり、線が面になって、広がりが出来ていくような気がしますね。

高橋:震災の年、予算が通る前に山形にもっと大きい震災の被害があれば映画祭がやれてなかったわけで、我々は滑り込みセーフだったという感じがあった。そのときにふと、東北の他の映画祭はどうなってるんだろうと思って連絡を入れてみたら、皆"他はどうなっているんだろう"と心配してたと言うんです。何とか映画祭はやれそうだけど予算は少なくなったところとか、通常の時期にはやれなくなって3か月後にやることになったところとか、いろいろあったけど、皆が"やりたい"って言うわけです。そのとき初めて十いくつかの映画祭と連絡をとりあった。そこで共同声明文を出そうという提案をして、山形で共同声明文を書いたら、"山形の文章は甘い、もっと自分たちの言葉で声明文を出したい"ということで11枚の声明文が集まり、仙台で記者会見を開いて1か所1か所が声明文を読み上げた。そこで初めて東北というところで映画祭をやっている人たちの顔をまじまじと見て話すことが出来たんです。

Q:地震で揺れて見えてきたものがあったんですね。

高橋:ありました。移動映写の価値も見直されたし、映画の仲間も改めて意識したし、悪いことばっかりではなかったですね。
(10月14日、山形にて)

(齋藤敦子)

(3)震災に向き合う目。多様に、感動とともに。

2013/10/15

yama13_03_01.jpg 「ともにある」は震災をきっかけに急遽作られたプログラムで今年が2回目。山形美術館を会場に、内外の監督が震災と向き合った作品15本が上映されました。私はその中で、宮森庸輔監督の『輪廻 逆境の気仙沼高校ダンス部』と島守央子監督の『ソノサキニ』という2本の中編を見ました。本当は全作品を見たかったところですが、なかなか時間が合わず、本当に心残りでした。

 私が見た12日の上映回では、2作品の前に、福島県立相馬高校放送部が制作した『相馬高校から未来へ』という8分の短編が上映されました。震災後、子供だからといって自分たちの声を聞いてもらえない状況にいらだった相馬高校の女子高生が、<今伝えたいこと(仮)>と題する劇を作り、全国各地で上演する際に長崎や水俣を訪れ、福島が長崎や水俣と繋がっていることを発見していくという感動的なドキュメンタリーで、第60回NHK杯全国高校放送コンテストで優勝した作品です。

yama13_03_02.jpg 『輪廻 逆境の気仙沼高校ダンス部』は、津波で被害を受け、学校が避難所になった気仙沼高校ダンス部が、さまざまな苦労を乗り越えながら、震災をテーマにした『輪廻』というモダンダンスを作りあげていく過程を追ったドキュメンタリー。何ひとつ元通りにならない絶望的な状況にも、"完全復活"を宣言して笑顔で立ち向かっていく部員たちの健気さに心を打たれました。

 『ソノサキニ』は、八戸市で4代続く魚の加工会社を経営する父親が、津波に呑み込まれた会社を建て直そうと奔走する姿を、娘である島守央子監督が見つめた作品。京都造形芸術大学で映画を学ぶ島守さんが、偶然実家に帰省している際に震災に遭遇し、それがきっかけで父親に目を向けるようになります。震災で工場を失い、家族のような社員がバラバラになっていく状況を何とか建て直そうとする4代目社長の姿にも胸が痛むのですが、父を見つめるカメラに何とも言えない愛情がこもっていて、それが何より感動的でした。

 娘が父/母を見つめるといえば砂田麻美監督の『エンディングノート』や、加藤治代監督の『チーズとうじ虫』という秀作があります。娘には息子にはない特別な目があるのかどうかはともかくも、島守監督にも、社長をやめざるを得なくなった父親の"ソノサキ"をさらに追い続け、ぜひ1本の長編として完成してもらいたいと思いました。

 写真(上)は上映前に挨拶する宮森庸輔監督と島守央子監督、右端がコーディネーターの小川直人さん。写真(下)は「ソノサキニ」の1場面で、会社を辞めることになった工場長の手を握る島守社長(右)。

(齋藤敦子)

(2)大虐殺を加害者の視点で/「殺人という行為」

2013/10/15

yama13_02_01.jpg 10日夕方に開会式を迎え、11日から本格的に上映が始った映画祭ですが、今年の最大の話題作で問題作でもある映画が、12日の朝コンペティション部門で上映されました。それがロンドン在住のアメリカ人のジョシュア・オッペンハイマー監督が撮った『殺人という行為』です。朝10時からの上映にもかかわらず、メイン会場の山形市中央公民館が満員の観客で埋まりました。

 日本ではあまり知られていないのですが、1965年から66年にかけて、インドネシアで50万人とも100万人ともいわれる人々が虐殺される事件が起こりました。これは、当時スカルノ大統領が進めていた親共路線を阻止し、彼から実権を奪うために、スハルト陸軍大臣が大統領の支持母体であったインドネシア共産党の党員および共産党との関係を疑われた人々を殺したもので、20世紀最大の虐殺事件の1つと言われています。その後スハルトが大統領となり、虐殺を主導した側が今にいたるまで政権についているので、加害者(その多くは右翼の青年団やギャングたち)は罪を問われないばかりか、今でも英雄として扱われているのがこの事件の特異なところです。

 『殺人という行為』は、その大虐殺に関わった加害者に、彼らの行為を再現させるという恐るべきドキュメンタリー。中心になるのはアンワルという町の顔役のような人物で、実際に自分が殺戮を行ったビルの屋上に監督を案内し、どうやって効率よく人を殺したかを説明しながら加害者と被害者を交互に演じてみせる様は、見ていて胸が悪くなるほどでした。

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 監督の話によれば、人権団体の要請で大虐殺の被害者を取材していたところ、当局から被害者への接触が禁止されたために、対象を加害者側に変えて取材を続け、41人目にアンワルに出会い、彼の方からカメラの前で当時の状況を再現してみせると申し出たのだそうです。大勢の人々を無慈悲に殺したことを誇らしげに語り、殺人の正当性を堂々と主張するアンワルは、まるで人間の心を失った怪物のように見えます。そんな彼も、実は夜ごと悪夢にうなされ、罪悪感を持っているらしいことが分かってくると、虐殺事件を告発するという当初の監督の意図を超え、人間の倫理とは何かという根源的な問題まで浮かびあがってくるように思いました。

 『殺人という行為』はインドネシアを始め、世界各地で上映され、インドネシア国内では自由にダウンロードして見ることができるようになっているそうです。

 写真は『殺人という行為』のスチル写真と、上映前に挨拶するオッペンハイマー監督です。

(齋藤敦子)

(1)震災後、映画の力を実感/藤岡ディレクターに聞く

2013/10/12

yama13_01_01.jpg 山形国際ドキュメンタリー映画祭は、89年の第1回から隔年に開催され、今年で12回目。東京国際映画祭と開催日が近いため、私にとっては、なかなか足をのばせない、気になるが縁遠い映画祭だった。前回参加したのはアジア千波万波で国際映画批評家連盟賞の審査員を務めた2005年で、全期間滞在したのはそれが初めて。今回、短いながらも8年ぶりに山形に行けることになったので、まずはディレクターの藤岡朝子さんにお話をうかがった。


Q:山形では、どのように作品を選ばれるですか?

藤岡:部門によって違うんですが、インターナショナル・コンペティションは全世界から公募した中から15本選ぶというのが先に決まっていて、30人くらいの時代もあったらしいんですが、ここ10年ぐらいは10人で、東京と山形が半数ずつ。事務局と外部の評論家の方、市民や学生など一般に近い方、5人、5人で。

Q:会って話し合うというやり方ですか、それとも手分けして?

藤岡:手分けして見ています。1本の作品は必ず2人は見るように調整し、必ず最初から最後まで見てコメントを書いて、コメントを共有するという形です。推薦したいものをどんどん挙げていって、誰かが推薦したものは必ず全員が見るようにしています。

Q:すごく民主的なんですね。

藤岡:でも悩むし、時間がかかります。準備期間の間、半年の間に3回か4回くらい、皆で集まって会議をするんですけど、推薦の数が少なくて、やりたいという人が10人のうち2人くらいでも、そこで強い意見を持っていて説得力があれば、さっと入ることもあるんです。最終的には票の数ではなくて意見の強さで入るか入らないかが決まる。だから大嫌いというものが結構入ったりする。ラインナップとしては、そういうのもいいんですね。

Q:他のセクションは担当の人が中心になって選んでいくわけですか?

藤岡:そうですね。もう1つのコンペティションになっているアジア千波万波なんかは私を入れて4人で選んでいます。

Q:前回はちょうど震災の年だったですよね。昨年はずいぶん震災関係のドキュメンタリーを見た気がするんですが、2年たって、いかがですか?

藤岡:応募作品の数は今年もとても多かったです。日本映画全部で300本くらい応募がありましたが、印象として100本くらいは震災に関する映画だったと思うくらい多かったです。「ともにある」という震災の復興支援上映プロジェクトは仙台のメディアテークの小川さんがコーディネーターなんですが、ご自分も被災者である小川さんが、このプログラムを作っているということに関してすごく自覚的で、意識が強い。作品を見ていく中で、正論みたいな映画、きちんと出来ている映画がいっぱい出てきているなという印象を持ったけれども、それは被災した自分たちとしては違和感があるように感じられたと言うんです。完成度が高ければ高いほどパッケージ化されて、見せ物になっているものであればあるほど、自分たちの現実から遠いという感じを持たれたみたいです。今回は15本選んでいただいたんですが、比較的素朴なもの、その人でなければ作れないもの、商品化されてないもの、アラはたくさんあるけれども、そこには何ともいえないけれども何かある、というような不思議な言い方をされていたんだけど、そういうものを選んでいるようです。

Q:震災後、ドキュメンタリーというもの、あるいは映画祭に対して山形の人たちの見方が変わってきましたか。

藤岡:1つには山形は福島から避難してきた人たちがとっても多いんですね。今でも300人くらい残っておられるみたいですが、当初は何千人かわからないですが、すごくたくさん福島から避難してきておられたので、山形中に福島のムードとか雰囲気があった。映画祭自体も、この人たちと何か一緒にやっていかなければいけないという思いになりましたね。これは東京からの意見なんですが、震災をきっかけに、東北で唯一の国際映画祭なんだということを、ものすごく強く考え始めたような気がします。それまでは自分たちの特徴がよくわからなかった。NPOになったんで、山形の人たち、東北の人たちと繋がらなきゃという思いはあったと思うけど、どこか自分たちのことではないような感じがあったように私は見ていたんです。そしたら急に震災があったことで映画の力というものに実感を持った。

 山形県内には映像関係のオープンセットとか、映画製作の施設があるし、山形市内にもムービーフェスティバルがあったり、映画に関係することが山形県にはいろいろあるんだなということに気づいて、山形事務局の高橋卓也さんが、これを束ねて何かしようと。今年は山形の映像文化都市宣言みたいなことをしようという運動を立ち上げようとしているんです。20年前の東京から映画がやってきた、さあ観光客をお迎えしよう、というところとは全然変わってきているなと私も思いますね。とっても面白い時代で、本当の意味でローカルとインターナショナルのバランスのとれた映画祭になりつつあるなと思います。

Q:この20年で世界のドキュメンタリーに変わってきたことはありますか。

藤岡:今、いろんなことを思います。私は95年から最初は百花繚乱、今は千波万波というアジアの部門をやってきて、アジアの勃興してきた時代とちょうど同じ時期で、一緒に歩んできたという気持ちがあり、作り手の人たちに対するシンパシーが強いので、あえてアジアのことを言えば、ずる賢いという部分も含めて賢くなっていると思います。今はネットなどの情報と、映像をネットで見られるということの関連性で、若い人が映画というものが簡単にマネできるものというか、こういう風に作れば成功できる、という感じを持ち始めているのではないか。20年前には、映画作家として成功していくというストーリーがドキュメンタリーの世界では絶対にありえなかった。でも今は、ドキュメンタリストも映像作家として非常に尊敬される立場にあるということに気づき始めていて、大きな映画祭で賞をとったりしていけば、そういう立場にいけるかもと思っている。特に中国は野心家が多いから、そう思う人が多い。あと、海外の映画祭で賞金をとることによって食えるんじゃないかという具体的な道筋が見えてきている。それが見えてきた途端に作っていくものが変わるような気がするんです。昔はという言い方はおかしいけど、無我夢中で、何も知らないけれども自分はこれを撮りたいと思って撮った。そんな、どうやって撮っていけばいいんだろうと一生懸命自分なりに考えるというプロセスを通らないで、簡単に、じゃあアピチャッポンのあれをマネしようとか、マネじゃないけれども、無意識のうちになぞってしまっている自分がいる。

Q:映像が氾濫しているから、マネしやすいし。

藤岡:あと、メディアが煽るじゃないですか。ヒーローを煽りたてるところがあるんで、それに乗ってしまう。もう1つは、世界の映画祭のサーキットの閉鎖性。閉鎖性という言葉が正しいかどうかわからないですが。ネットワーキングと言うけれども、実際は世界のメジャーな映画祭にいくと同じ人たち、同じ作品がぐるぐる回っている。でも、そこに乗ればいいんだという感じがある。グローバライズされてしまった映画のネットワークの問題でもあると思うんですが。山形はそこから、幸か不幸か非常に切り離されているんです。私たちは1800本応募が来たけど1本1本最初から最後まで見ます。どこで受賞したかということと関係なしに、1本1本向き合いましょうという姿勢で、すごく木訥にやってきていて、それは結構誇らしいです。あの映画祭でああいう大きな賞をとったものを上映しないのかとか、いろいろ批判はあるんですが、映画祭グローバリゼーションのネットワークに絡みとられない映画祭であり続けていくことを山形はしていかなきゃいけないと思います。今年のアジア千波万波は、山形は初めての人たちばかりだし、世界でもまだ紹介されていない人たちが多いんですよ。

Q:ドキュメンタリーって、はまると深いじゃないですか。だから困る。山形に行くと皆から、あれがよかったこれがよかったと言われるけれども、自分の体は1つなので、見られないものばかりが増えていって、だんだん機嫌が悪くなる。1つに絞れないのが山形の良さではあるけれど、ふんぎりがつかないとなかなか行けないんです。

藤岡:だから、名残惜しくて2年後もまた行っちゃう、みたいな。フィルメックスみたいにすべての映画が見られる映画祭というのも1つの方針として貴重だと思うけれど、観客の"全部制覇したぞ"みたいなおたく的な感性って、なんとなく好きじゃないんです。

Q:見きれないフラストレーションを与えて、2年後にまた、というのが手なんですね(笑)。観客はどうですか?

藤岡:毎回少しずつ上がってきています。微増ですかね。でも、今年はすごく増えそうな予感がするんです。ちまたでの雰囲気もあるし、プレスの申請がすごく多い。海外から自費で来るという人も3~40人くらいいて、こんなことはここ最近なかったことです。
 それに観客も若くなっています。学生がすごく多いんです。いろいろな社会の変化の中で、批判的な見方ができる若い人たちが増えているのかな。世界が何を思っているのか興味を持つ人が増えている。TPPでも反原発でも、声をあげ始めているということと関係があるかもしれません。社会的なテーマで映画を作る人と、それを見に行きたい人が増えている。それはすごく嬉しいことです。 (10月8日、東京・四谷にて)

(齋藤敦子)
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