第121話について

『第121話 伊達の黒川城』

会津に保春院登場
6月10日、芦名義広が黒川城を放棄して出奔です。佐竹の兄が怖かったのか、まっすぐ三春戦線に戻らず、しばらく養父であった白川氏のもとに滞在していたようです。佐竹からは、早く来るようにという書状が出ています。

政宗の黒川入城が6月11日。13日には保春院が黒川城西舘にいます。この時、愛も一緒であったろうかと治家記録にはあります。なお、後藤孫兵衛が愛姫から頂いたという打掛が、子孫の家に伝わっていたようです(小牛田町史)。米沢から檜原越えをしたなら、長年檜原峠を守っていた孫兵衛を愛がいたわるシーンがあってもいいかもしれませんね。

さて、女性ふたりの黒川入城の時期が早いなあと思いませんか。

当主芦名義広が出奔して2日め。まだ城内が落ち着いていないかもしれません。
それで逆に、城内を落ち着かせるために保春院と愛、このふたりが必要ではなかったのかと考えてみました。
カギになるのは亡き彦姫の存在の大きさです。

芦名を支えていた亡き彦姫のイメージが濃厚に残る黒川城です。

次に来る伊達の女性たちは必ず比べられます。下手をすれば侮られます。
そこで保春院の登場です。
gaku121_1.jpg羽州探題最上家に生まれ、奥州探題伊達輝宗の正室となり、嫡男政宗を生んだ立場の強さは奥州随一。そのうえ大崎合戦の際の80日の仲人も知られていたでしょう。
8月には保春院の乳母の菩提寺も置賜郡長井から会津城下に移します。
これもまた「伊達は会津を蹂躙しに来たのではなく、腰を据えて領主になるのだ」という意思表明に見えるのですが、どうでしょう。
この漫画に出てくる愛では、ひとりでは芦名に抑えが効きそうにありません。

なお片倉喜多は13日遅れて黒川入城。少納言=喜多の移動は治家記録にしっかり書かれるのです。ただの乳母扱いではありません。私は米沢城の手配りをしてきたのではないかと想像しているところです。

政宗の弟小次郎の入場はさらに遅い8月18日です。

二階堂家から反伊達連合の家々に戦を呼びかける文?
gaku121_2.jpgそういう手紙は存在したようですが、この時城から見つかったという話はありません。話を早く進めるためのマンガの都合です。あちこちの家に内応者がいる伊達ですから、そっちからの知らせで知ってもいいでしょうが、だってほら1頁1話だから。

元ネタは、『伊達政宗言行録 木村右衛門覚書』(P58 )にある「あまつさへ方々へくわいぶんをまわしさまたけ給ふの間」(伯母だからと思っていろいろ様々申し上げたのに全く聞く耳を持たず、そのうえあっちこっちの家に廻し文をして伊達の邪魔をなさった)です。
政宗はひどく不快に思っているようです。
戦を呼びかけるだけなら普通のことでしょうに、内容で何か政宗の心にひっかかるものがあったのでしょうか。

留守政景が板挟みです。 

gaku121_3.jpg二階堂阿南姫と芦名の彦姫、そしてもうひとり...

ふたりの姫は、ともに晴宗の娘です。阿南姫が長女で輝宗の姉。嫁いだのは晴宗治世下でしょう。彦姫は輝宗の妹で、輝宗の治世下で芦名に嫁ぎました。
ふたりは姉妹である以上にいくつもの縁があります。

芦名の彦姫の2番目の夫・盛隆は阿南姫の息子です。彦姫と盛隆は10年ほど添っています。
この間盛隆は芦名と二階堂両家の政治を取っていました。
盛隆が死ぬと、芦名は遺児亀王丸が跡を継ぎます。彦姫の息子は阿南姫には孫であり、甥です。
ふたつの家はほぼ一体です。
いやいや佐竹も見てください。
人も文も頻繁に行き交ったと考えてもいいのではないでしょうか。
ちょっと文章では追いかけきれないですね。図にしてみます。
それでも十分複雑です。

これが伊達包囲網です。

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