物語、百年の変容

先回の楽屋で、輝宗の死について伊達以外の初期録を比べてみました。
『二本松市史』通史1(平成11年)の329ページには、『藤葉栄衰記』『会津四家合考』『奥羽永慶軍記』が政宗が撃てと下知、『奥陽仙道記』『松府来歴金華抄』では政宗が父もろともに義継を鉄砲で打ち取ろうとしたが義継が輝宗を刺し殺して自害 と紹介しています。
先回の叙述比べでは正徳4(1714)年成立の『奥陽仙道記』(よく似た名前で『仙道軍記』というのは『藤葉栄衰記』の別名)         安永3(1774)年成立の『松府来歴金華抄』は使いませんでした。
『二本松市史』では、史書を比べているので、漫画の中で大きく扱った『山口道斎物語』には触れていませんね。
その場にいた成実による『政宗記』、それをもとにした『伊達治家記録』のみ政宗がその場にいなかったという記述になっているという紹介ですが、さてさて、伊達の記録でも、1585年の事件から百年以上たった元禄15(1702)年成立の『伊達便覧誌』では、違う記述になっています。作者は仙台藩の儒者にして画家の佐久間同巌。新井白石とも文を通してずっとお付き合いがあった人です。
ここでの記述を見てみましょう。内容はこう。
政宗は鷹狩に行っていてその場にいなかったが、輝宗拉致の報を聞いて直ちに馬をはせて追いつき、諸卒に「阿武隈川を越えて畠山領に入られたらもうどうしようもない。ただ敵を漏らさず討て」と命令する。
すると輝宗が扇を上げて大声でおっしゃるには「今自分の運命が尽きて虜となった。恥を永遠に残して名をはかなく消えることだろう。(政宗よ)汝は私を父と思わず、郎党も主君と思うな。ただ早く義継とともに自分を討って、自分の恥をすすげ」と呼ばわった。

ただ、政宗はこの後すぐ行動には移れません。義継と並走します。いよいよ阿武隈川が近くなって、政宗は叫びます。

ただ父君とともに速やかに討ち取れ
下知した政宗は先頭に立って進みましたがその時何者かが鉄砲を発射。義継家臣が輝宗を刺し殺し、義継も自害。

ざっとまとめてみました。原文を読みたい人は、図書館で復刻版『仙台叢書』(昭和46年 宝文堂)第3巻記載の『伊達便覧誌』。仙台叢書はネットで読むこともできます。


治家記録との違いは、
政宗が追い付いてその場にいる。
輝宗が二回にわたって自分を討てと言っている。
政宗が父もろとも討てと下知している。
特に輝宗が扇を上げて大声で叫ぶあたりは芝居の名場面みたいです。
政宗と輝宗が互いに相手を思う緊迫したシーンがあります。
書き手はこれを書き込むことで、「油断による事故」と言えば救いのない話を、「輝宗の命がけの愛情で政宗が英雄になるための試練」にした、と、私は思いました。


事件から百年以上。
伊達家中で政宗が英雄として、ほとんど神格化されると、政宗自身にとってつらい記憶が、あたかも英雄を彩る黒い魅惑の花のように描かれていきます。
父殺し、弟殺し、母による毒殺未遂は政宗の物語で必ず語られます。
あれだけ隻眼の姿を残すなと遺言しても、黒沼の魚が片目であるとか、万海上人が片目であったとか、ついには「独眼竜政宗」の名が生まれたりします。
現代においては政宗が片目であることがかっこよさのポイントとなり、片目を強調する黒い眼帯が必須アイテムになっています。

歴史は、本人たちの思惑を超えて物語になっていきます。
でも、物語を深く深く探っていくと、その中から歴史が見えてくることもある、そう思っています。


ところで、出展忘れたこんな話が。輝宗が拉致された時、輝宗の小姓が義継の馬の鐙に縋りつき、何があっても離れず引きずられていく。輝宗が刺されるとき身を投げ出して輝宗に覆いかぶさったが、刀は幾度も小姓を貫いて輝宗に届き、輝宗とともに死ぬ。
...お話としては見せ場にはなります。でも、ほかの記録に出てこないのは、真実味にかけるせいかもしれません。