第132話について

『第132話 底倉の瑞光』

小田原への出発は2段階
ついに政宗が小田原に出発です。
地図のところに小さく書き込みましたが、政宗はいちど会津の大内まで行って、このままのルートだと北条氏勢力圏であるから危険と判断して黒川城に引き返しました。その後、黒川城から用事もあって米沢城に寄り、小国峠から越後信濃を通って小田原に向かいます。

ところで、
小次郎の御守に粟野杢工という人物がいました。小次郎事件の際に姿を消し、やがて豊臣秀次の家臣として政宗の前に再び現れます。この杢工について、雪の難所。・小国峠から越後に逃げたとする記録があるようです。治家記録に「或記二」とあって資料名はなし。
小次郎事件についての生き残りが出てきました。



成実は主戦派だったのか? 小十郎が案じていたのは?
主戦派成実をいさめる小十郎、という、政宗御前での武と知の対決は、今までのドラマでも見どころのひとつです。
治家記録にも出てきます。(『伊達治家記録 二 』宝文堂171ページ)
ですがこれは、『片倉小十郎景綱関係文書』(白石市教育委員会 平成25)のP119下段の此月というところを見てください。
抄訳します。
「伊達はもう十分に強くなっているのだから、いまさら関白を恐れるにはあたらない」という「老臣」達に対して景綱が、「殿下(秀吉)は日に日に強くなっているのだから、早く小田原に行くべきだ」と意見を述べています。
この会議の場に成実はいません。
更に次項廿六日(2月28日)には、政宗が夜中に小十郎を訪ねて意見を聞くと、「関白の勢いは大変なものです。
これと戦い難いのは例えば夏に湧くハエのようなものです。
一度に二三百うち潰し、二三度までは防ぐことはできても、さらにいや増してきたら、その時には防ぎきれません。」
この次に凄いことを言っていますね。こりゃ会議の席では言えませんね。gaku-132-01.jpg
「あなたが家を失っても、長臣たちは伝手があったら(秀吉の、あるいは他家の)旗本にもなるでしょう。
今が(小田原に上る)時期だということがわかりませんか」
小十郎は、老臣たちには政宗がいなくなっても次があるのだと言っています。
そして、小十郎にとっては家より政宗なのですね。














治家記録での主戦派老臣と小十郎の意見対立は3月19日以降のことだと読み取れます。


成実の著作『成実記』、あるいはもとになった『政宗記』を見ても、成実が小田原に行かずに戦おうと主張したというのが、
探せません。どっかにあるのかな。
武の成実VS知の小十郎の政宗御前対決は、無かったんじゃないか。
成実も時勢をよく理解していたんじゃないかと考えて漫画を進めます。

さてさて、
政宗の小田原行きに随行したのは大半は会津、岩瀬の降臣の大身の者ども、つまり芦名と二階堂の旧臣の大物と政宗譜代の
家臣達でした。

小田原に行って「天下の戦」を見たかどうかで、各大名、各家その後の運命が分かれるように思います。

小田原の底倉です。
gaku-132-02.jpgこの辺は『小田原市史』のお世話になっています。
小田原の鈴木さん、土屋さん、本当にありがとうございます。

もともと北条方の底倉村が、略奪から逃れるために関白に臣従を誓ってそんなにたっていない時期です。
そのためかなり殺気立っている。
小田原城周辺の支城はすでに死屍累々、異臭がたいへんだったと記されます。
そんな中に押し込め待機となった政宗たちは、いざとなったら斬死の覚悟を決めたということですが、
瑞獣開運之舞により、政宗の前向きお坊ちゃんパワーが再起動するのです。