番外 晴宗のこと、輝宗のこと、断片

晴宗の法名、杉目城に移った時期

bangai-0728-01.jpg風の便りに、上記のことを知りたがっておいでの方があるやに聞こえ申した。
『伊達史料集(下)』小林清治(昭和42年 新人物往来社)P197~198。(伊達正当世次考巻之十下の最後の方に年次不明の記録がまとめてある) 年次欠く「夏五月十日...」という書状の記録があって、内容は新川邑に移るについて、あて先は 上郡山民部大輔殿、道祐 黒印を捺すく
今按ずるに、永禄之初、米沢の本城を 輝宗公に譲り、自ら新川邑に移り住す。道祐は法名を称すなり。
というのがありまする。端折りましたが、この辺に手がかりがあるみたいでござる。世次考は漢文です。比較的読みやすい翻刻がどこかの市史か町史の資料編にあると聞いたばかりなのに、忘れてしまった。無念。あんまり読みやすくはないけれど、国会図書館のデジタルアーカイブでも見られます。『伊達史料集』は、稙宗と晴宗のところだけ世次考の漢文を読み下してくれているので、読みやすさが段違いなのです。ありがたいなあ。

それから、『性山公治家記録』、宝文堂版だと1巻のP191から始まる輝宗の治世記録、永禄八年のところに「御父左京大夫従四位下晴宗道祐殿隠居シ給ヒ、公家督を継キ給フ。公ハ出羽国置賜軍長井庄米沢城ニ御座ス。道祐君ハ信夫郡杉目後改福島ニ隠居シ給フ。」というのがありまする。


ただし、道祐の名乗りについて「はるかなる伊達晴宗―同時代史料と近世家譜の懸隔―」黒嶋敏(青山史學第20号 2002)、47ページ下段中ほどには、「実際には永禄8年の時点で晴宗が「道祐」を名乗った可能性は低いのだが(伊達家233)...」とあります。


お役に立つといいのだけれど。
私は研究者の皆さんから、ほかの分野の皆さんからもいろんな資料のありかを教えていただいて、本当に助けられています。


輝宗の花火、再び


bangai-0728-02.jpgつい先日ネットの記事で、「初めて花火を見た日本人は、あの"伊達者"戦国武将だった!」というのを見まして、その記事では1589年の政宗のことなんですが...。
前にも書いたような気がするんだけれど、少なくとも天正2(1574)年には31歳の輝宗が花火を見ています。輝宗日記に本人が書いています。
輝宗日記は原文も素敵です。(原文で読みたい人、最近復刻発行された『福島県の古代・中世文書―福島県史資料編―』(2017 戎光祥出版株式会社)668ページから、輝宗日記が載っています)
解説付きで分かりやすいものとしては、私は『梁川町史 通史編1』(平成8年 梁川町)第4編第4節ー1 輝宗日記の世界 の記述がいいなあと思っています。花火のところを引用します。P482です。
「10月15日佐竹より唐人が来た。佐竹義重からの書状を帯しているかもしれない。10日後にまた唐人が来た。彼と双六を打つ。勝負がかかっているかもしれない。11月8日またまた唐人が来た。本卦取りをする。自分が61歳の還暦の時にどんな境遇でいるのか、唐人に占ってもらう。11月13日夜花火をやる。りんせんか(輪旋火)、ねずみ花火か。十分な大人ではあるが、異国からもたらされた花火が珍しく、いつまでも暗闇の中の美しい火を楽しんでいる。」
これ、情報を伝えつつ、すてきな文学です。絵が浮かぶ。
61歳の占いをしてもらいながら、41歳で死んだ輝宗。
さてたびたび出てくる唐人、政宗の時にも回ってきています。
輝宗日記では佐竹から来たということでもあり、佐竹でも花火を見ていた可能性もあるんじゃないかな。

※晴宗と輝宗のイラストは、どっちも史料をもとに私が作ったものなので、これをこのまま資料として使ってはいけませんぞ。
いろんな私の解釈が入っていて、元の絵とは変わっています。