第133話について

『第133話 天下の戦』

白装束への今さらの疑問

うー、この回、いつか描き直すかもしれない。
これは手術後に病院で描いていた回です。やっぱり体力と気力は連動しますね。考える執着力が足りなかった。
今では私はこの時の白装束と、秀吉が政宗の首を杖で突いたことについて疑問を持っています。

まず、政宗の白装束について、混乱したことはありませんか。
あれ?小田原の時だっけ、大崎葛西一揆の時だっけ...なんて。
私のまず疑問点はそこです。
こういうことを2回やるかなあ。
2回目、かっこ悪くないですか?「あいつは白装束しかないのか」ってなりません?
だからまず、もしかしたらどっちか1回じゃないかと思ったのです。

伊達治家記録には、政宗の白装束は書いてありません。ただし、政宗は髪だけは水引で一束に結んで、
異風に見えたとは書いてあります。
白装束と杖でつんつんが書いてあるのは『関谷政春覚書』。説明は人物叢書『伊達政宗』小林清治 P64を引用します。「これは、後年政宗が前田利常(利長の養子)に直話したのを次の間で聞いていたものの話である、と『関谷政春覚書』は記している。関谷政春は、利常に仕えた兵学者であるから、この記事は一応信じてもよいのではあるまいか。」
小林先生、いつもと比べ、力の抜けた書きっぷり。
政宗がずーっと後になってから前田利常に話したことを、隣の部屋で聞いていた人が、関谷に話した、ということですね。伝言ゲームとしてはかなりの劣化が心配されます。
原文で読みたい人、『関谷政春覚書』のこの項目については翻刻が『伊達政宗卿伝記史料』P382にあります。

さて、私がこの時白装束じゃなかったんじゃないかと考える根拠は、政宗晩年の小姓木村宇右衛門が政宗の直話を書き留めた『木村宇右衛門覚書』です。
持っている人は、P65です。
内容を言うと、秀吉と対面する前日に、施薬院全宗と今井宗薫が政宗の陣を訪れて、明日どんな格好をしたらいいのかのファッションチェックをしています。家臣の服装まで相談しています。例によって抄意訳します。
「今は上方では袴上下だけど、陣屋だから、袴だけでもいいのでは。でも、袴の上に十徳を着たらいいでしょうね」という宗薫たちのアドバイスに、「ともかく模様良きようにと頼み候ば」政宗が、まあかっこが付くようにお願いします、と言ったんですね。と、供の者の着る十徳をたくさん寄越した、とあります。
貸衣装だ、これ。

情けないことに今資料が埋もれて出てこないのですが、秀吉にはこの時ファッションコーディネーターが付いていて、秀吉以外の武将の衣装も指南していたはずです。
秀吉の戦いは、「見せる」要素が大きいのですね。
秀吉と政宗のこの対面は、双方の衣装まで打ち合わせて行われた、儀礼的というよりさらに演劇的な要素が高いものではなかったのかと考えているところです。

北条氏は関東の大大名として最後まで秀吉に抵抗しました。
視点を逆にすると、秀吉は北条に天下人として認めてもらえなかった。
「あんたのことを天下人なんて、死んでも認めないからね」とやられたのでした。
だからこそここで、奥州の大大名の政宗が、並み居る諸将の前で秀吉に臣従を誓うことがとても大事です。
小田原参陣というのは大名たちが総出演する演劇空間でもあるわけで、政宗一人だけ派手な衣装で芝居をぶち壊すわけはないのではないでしょうか。
同時に、秀吉としても諸将の前で政宗に恥をかかせるのもまだ早いのです。
秀吉が絶対的な強者になるのは小田原が落ちた後、さらに言うと奥州仕置きの後です。

そういうわけで、私はこの時政宗は白装束ではなかったと考えているのです。
でも描いちゃった(泣)。いつか直す(こぶし握って背景夕陽)。


まあそれはそれとして、政宗がこの時落城前の小田原を見たことが、のちの運命を開くと考えています。

小田原、取材に行ってよかった。

※仙台から小田原に笹かまを持って行ったら惣無事違反になると思ってたけど、小田原のかまぼこもおいしいです。特に、かまぼこにワサビ漬けを添えるのってとーってもおいしゅうござる。素晴らしい工夫ではござらぬか。
あのう、これ気仙沼の人、蔵王方面の人、見ていませんかね。笹かま+ワサビ漬けってやりませんか。日本酒にとても会うと思います。


※やがて自分でも考えが変わるかもしれない。次の人が間違いを見つけてくれるかもしれない。そういうことも含めて、出典は本当に大事です。どの本にあったよって言われても、その一行を探すのに丸々一冊読むのは、慣れないうちはつらいですし、忙しい時もある。
それで、なるべくページ番号も記録しておくことにします。