第143話について

『第143話 葛西・大崎に一揆起きる』

大崎葛西一揆か葛西大崎一揆か
いろんな自治体史や本をあたっていたら、葛西大崎一揆という言い方と、大崎葛西一揆という記述が、両方あるのです。
どっちで覚えました?
これって、起きた順番で言うの?あいうえお順?北から?
でももう歴史的用語ですよねえ。まだ統一されていないのかあ。
どっちを使えばいいのか、最後まで混乱のままです。
読む人にはご迷惑をかけます。そういうわけです。

そして、うわわ、2015年の一関市博物館の「葛西氏の興亡」の図録、木村吉清、清久父子と書いてある。(34ページ)
父子なのか同一人物改名なのか、これも、まだ結論が出ていないのか。

このマンガの一揆は、こういう名前の事では混乱が残ります。


岩手沢 岩手山 岩出山
今の岩出山のことです。一般的には治家記録にある、政宗入府の時に「岩手沢」を「岩出山」に変えた、というのが知られています。
ところがもともと、「岩手沢」の他に「岩手山」があり、どちらも政宗入府後も書類の中に出てくる、と、ここは仙台市博物館の方に教えていただきました。
ありがとうございます。

陣取 または 乱取
戦場での略奪行為です。


古川から脱出した木村家臣が全滅
大崎旧臣は木村の古川城を攻めて、木村家臣の命乞いを受け入れて逃がします。
ところが、逃げた木村家臣は黒川領に入った時、黒川衆によって全員殺されてしまいます。
この黒川衆の動きを政宗は重視します。
一揆が簡単に収まらないよう、政宗の足を引っ張るために木村家臣らを殺したのではないか、とさえ書いた手紙が残っています。
かつて大崎攻めで黒川月舟斎のために大敗を喫した政宗は、この時のこともあって月舟斎を大いに憎むようになります。
マンガの裏側で起きているお話です。


政宗は一揆の黒幕だったのか
これが、気になる人は多いですよね。
直接の引用でなくて申し訳ないのですが、2012年発行のミネルヴァ日本評伝選『蒲生氏郷―おもひきや人の行方ぞ定めなき―』藤戸達生氏のなか、136~137ページに、2000年の立花京子氏の論文が引用されています。 最後の2行半が「しかも、二つの一揆を組織的に扇動したのは政宗だった疑いが濃い」とありました。(論文全体を読まずにここだけ紹介するのは申し訳ありません。)

今回私は漫画を描きながら、いつどこに誰がいて、何が起きていたのかをもう一度見ようとしています。
政宗は陰謀家だったから何かたくらんだに違いない、という見方をする人もあるでしょう。
ところが鶺鴒の花押、黄金の磔柱、蒲生氏郷に毒を盛った、などは『氏郷記』という、蒲生氏郷が死んでずっとたってから書かれた軍記の中にあるお話です。
(似たような名前の本が多いのですが『蒲生記』『蒲生氏郷記』『氏郷記』は区別して使わないと怖いです。)
『氏郷記』にある「鶺鴒の花押」に関しては、仙台市史編さんとその後の調査で発給文書が4500通余り、そのうち筆跡がわかるものが2500通、このうち原本2200通。
(「2017年仙台市博物館特別展 伊達政宗―生誕450年記念―」図録168頁)
膨大な政宗文書にひとつとして針孔がないという、圧倒的な証拠があります。「用心のためにいつも針孔をあけていた」は真実ではないわけですね。
黄金の磔柱も、『氏郷記』の中でさえ、ちゃんと読むと、氏郷本人は見ていない、伝聞だったことがわかります。
後の軍記の中で作られた「陰謀家政宗」という人物像は一度捨ててみたいと思います。

一揆衆も、政宗も、秀吉さえも勝者と言えない救いのない展開と、救われようとした人たちのお話を、これから描いていきます。

ところで、次の1話は引っ越しのご挨拶。
2017年の4月から、こども新聞から河北の朝刊に掲載紙が移りました。
こども新聞とお別れするのは寂しいけれど、大崎葛西一揆を描くのに、こども新聞でなくてよかったかもしれないと、そのことは思ったのでした。