第158話について

『第158話 大崎荒涼たり』

減反政策がgaku-158-01.jpgぐいぐい進められていた昭和の終わりころ、「休耕田」という言葉をよく聞きました。
田んぼは一回休耕すると、復田(ふくでん)は難しいものです。作ったり休んだり、そう簡単ではないのです。
ひとつの理由は畦(あぜ)が壊れることで、大敵はモグラ。畦に穴をあけられて見えないところから水が抜けて行ってしまっては、稲の管理ができません。

このマンガではあまり人前で怒ったり悲しんだりする顔を見せない留守政景が、畦を壊されて珍しく悲憤をあらわにしています。
畦を壊すことは、天つ罪(あまつつみ)の一番初めに挙げられます。
本来美田であるべきところが荒涼としている姿は全く無残です。
私たちも、震災の後にそれを見ています。

想像。家と地形の性格の関連性?gaku-158-02.jpg
大崎を沃土として書いていますが、じつはこれちょっと誇張しています。
右の絵は 第87話大崎攻め・壱からですが、大崎が現在のようなイメージに近い本当の美田地帯になるのは、この御伊達領になってからの長い道のりの先です。
水路は昭和の地図から描き上げました。
だからちょっと恣意的です。

田んぼって、水をどう引いてくるかと同時に、どう排水するかが大事です。
大崎地方の今の地図を見ても、網目のように水路が巡っていますが、排水路や調整池が多いのが特徴です。
高低差の少ない広い土地を大きな川が蛇行するので、水が滞留しやすいのです。
田んぼの水の調整というのは一軒で頑張ってもどうしようもなく、上流下流、広域での調整が不可欠です。
上流の権利が強いかというと、下流が氾濫すれば上流も危ない。
大崎地域に圧倒的な強者が誕生せず、多くの豪族が離合を繰り返していたのって、この水利調整が複雑な地形に関係していないかと想像することがあります。

景色が変わる城破(しろわり)
徳川政権下の一国一城令というのは有名ですが、その前に、豊臣政権下で城破といって、豊臣が指定した城だけ残し、あとは破壊し、臣下を城のまわりに集住させる政策がありました。
城破、城割、どっちも使われます。
ここでは『東北近世の胎動』高橋充編(2016 吉川弘文館)で使われている城破の方を使いました。
城割という言葉は、城の配置計画の時にも使われます。
例えばもっと後の話になりますが、肥前名護屋城の城割図、などのように使われているのを見ることができます。
現代の学術的にはどう使い分けられているのか、当時は混在していたと思っていいのか...この時代は音が同じ文字だと結構入れ替えて使うことがあるのです。
このマンガでは破城(はじょう)の時には城破、城を戦場に配置する...割り付けをする時には城割の文字を使おうと思っています。
これは私の感覚での使い分けです。

城破によって、それまで1村1城くらいに城だらけだった景色が変わります。
同時に家臣たちの中央集住が進みます。


葛西晴信はどこに?

この時期、伊達側は葛西晴信の動きをつかみ切れていないようです。

『葛西盛衰記』では葛西晴信は戦いの末に登米郡寺池城で死んだとしています。
平成27年の一関市博物館特別展「葛西氏の興亡」図録解説では、伊達治家記録に、晴信はのち上京して上杉景勝に使えたという記述を紹介し、この説の信憑性が高いだろうとしています。