第160話について

『第160話 ふたつの月の間に』

今日は
1政宗の月の話、2輝宗から政宗への手紙の話、
ふたつのテーマで書いてゆきます。
だからちょっと長いです。


1 政宗の前立を考える

政宗というと連想されるのが「三日月!」。
マンガを描いている段階ではまだ整理しきれていなかったので、 再度ここでまとめてみます。
輝宗→政宗に伝えられる日月(じつげつ)の三段階のはなしです。


輝宗が制定した月と太陽


湯殿山に祈って嫡子を得た輝宗は、gaku-160-01.jpg嫡子誕生をきっかけに伊達の旗本 の前立てを月に統一し、日の丸の旗を制定します。
ここは、湯殿山の本地が大日如来で、大日如来は月であり日輪である、 というのを付け加えるとわかりやすくなるでしょう。
この段階でどんな 月の形だったかはわかりません。


政宗が付けた大日如来梵字の丸い月


政宗生誕450年展で展示された鎧兜で、丸い月の輪郭の中に大日如来の梵字が入っている 前立てがありました。
ご覧になったでしょうか。
大日如来の月、大日如来の 日の丸がまだセットです。


政宗の選んだ細い月と紺地に金の日の丸


このあと、私たちがよく知るあの細い月の前立てに代わるようです。
瑞巌寺の木造で、愛姫が文禄の役出陣の頃の政宗の姿を現すようにしたということです。
文禄の役といえば、あの派手なパレードで「紺地に金の日の丸」が登場します。
それまでの伊達の旗は勝色=紺色の無地でした。


細い月の前立は三日月なのか


一応誕生日が8月3日だから三日月か...gaku-160-02.jpgとは考えたことはあるのですが、旧暦と月齢は完全に一致しているわけではありません。
3日に三日月が出ているとは限らないのです。
そこで月齢計算が必要ですが、政宗が生まれたのは西暦でもユリウス暦時代、その後1582年にグレゴリオ暦に変更になっていて、ふたつの暦の間には断絶があります。
むかしファシクラ伝を描いたときに、仙台市天文台の小石川先生から、政宗や支倉の時代がちょうど引っかかるので、注意しておいた方がいいよと教えていただきました。
一応ユリウス暦では細い細い月が出ていたことになるのですが。

三日だから三日月というのは少々心もとなくはあるのです。


三日月は「新月」らしい。


あの前立てを「三日月」という同時代史料はない、と仙台市博物館で教えていただいた時はけっこう衝撃でした。
それでなんとなく広辞苑で三日月を引いてみました。
すると、三日月は古語で「新月」といったという話。
それが今回のマンガの元です。
闇の夜を割いて初めて現れる月を新しい月というのは感覚的に納得できます。
三日月と言う言葉自体、起源や使われ方を別に調べないといけないですね。
調べ物というのはこうしてどんどんつながっていきます。

そして、辞書には「新月」の隣に「心月」がありました。
政宗辞世の句に出てくる心の月です。

政宗の前立ては「新月」ではないか。
そして政宗の生涯は新月から心月への向う道ではなかったのか。
新月の前立と心月をさきだてる、とはつながっているのではないか。

これを武水しぎのさんにご連絡したら、スマフォで引いたら新月は特に8月3日のこととある、と教えていただきました。
なんと、それデジタル大辞林。広辞苑には乗っていない。
それからいろんな辞書を引き比べました。
『大辞林』『大辞泉』『日本国語大辞典』に、新月とは特に8月3日の月をさすとあります。
輝宗から受け継いだ大日如来の月からひとつ進み、闇を裂く新しい月「新月」を選んだのが政宗の前立てではなかったか。
政宗の前立は誕生日の8月3日の新月、ということでいいのではないでしょうか。
一方で日の丸も受け継がれました。
白地に赤の日の丸は輝宗から。
紺地に金の日の丸は政宗からです。


心の月


政宗の和歌には「月」を題材にしたものが多く見られます。
政宗が読んだ最も若い時期の歌が「暮れわかぬ月になる夜のみちすがら」。
元服前年、輝宗と一緒に晴宗の杉目城を訪ねて正月連歌をした時の句です。
有名な伊達の正月連歌の最初の記録でもあります。
連歌の約束事として、「月」は一回きり、というのがあると読んだことがあります。
これも調べ直さないと。
「月」を読むのはその席での大事な人、またはルールを知らない素人がやらかしちゃった
ことになります。
梵天丸はものを知らずにたまたま月を詠んでしまったのか。gaku-160-03.jpg
それとも、これもまた輝宗の思惑だったのか。

政宗の辞世の句は、本人が書いたものが残っていません。
てらしてぞゆく と てらしてぞゆけ など確定できないのはそのためです。

くり返しになりますが、和歌の人でもあった政宗にとって、新月の前立、心月をさきだてる、は掛詞になっているように思いませんか?
月は政宗の好みという以上に、人生のテーマだったのでは。


2 粟の巣での横死直前の輝宗の手紙を読み直す。


輝宗が政宗にあてたこの手紙は、父子の情愛の手紙として良く紹介されます。
よく知られている部分は「若い時にはいろいろあるだろうが...」というところなので、私はてっきり処世訓かと思っていました。

この手紙を改めて大日本古文書の翻刻で読んでいたら、あれ、これは今まで思っていたのとかなりニュアンスが違う激烈な手紙ではないかと思えてきました。

まず手紙が書かれた時期を確認しましょう。
輝宗が「東」と署名していて、隠居所の工事もしているようです。政宗が家督を継いでからのことです。
それから、鮎の話が出てくるので初夏以降。
家督を譲ったのが天正12年の暮れで翌年の10月6日に輝宗は畠山義継に殺されるので、天正13年の夏から10月6日までの間です。

次に、手紙の内容を見てみましょう。
どうも政宗の戦の方針に内部から強い批判が出ていて政宗が輝宗に相談したようです。
輝宗はこんな風に書いています。
何があっても政宗を立てるから、決して心配しないように。
自分のもとに来ている政宗批判は政宗の耳には入れない。
政宗に反対するものがあったら自分が刺し違えて死んでもいいとさえ思っている。
万が一そんなことになってもあと追うなどというのは料簡違いだ。

この後に紙の右上に戻って、追而書として
若いうちはいろいろあるが大丈夫だ、
という文章が来ます。
この時代の書札礼では、追而書(おってがき)は文末に来ることが多いようですが、この書状の写真をよく見ても「若きときは...」は右上に押し込むように書いてあります。
やっぱり追而書、つまり追伸です。

手紙の内容に戻ります。
家督を継いで、畠山義継を追い詰めていた時、政宗自身も追い詰められていたのでした。
助けを求めてきた政宗のために、輝宗が前線に出て、あの悲劇が起こります。
残された政宗にとって「自分が死んでもあとは追うな」という手紙の存在はとても大きかったでしょう。

政宗のしぶとさ、何としても生き残ろうとする執念の根っこかもしれません。