第161話について

『第161話 政宗帰還』

天正18年5月、政宗が米沢に帰還。


6月から一揆征圧の陣頭に立ちます。


一揆は半年停戦状態gaku 161-03.jpg
葛西大崎一揆は、天正17年10月に始まりました。
圧政を強いて一揆の引き金となった木村吉清が佐沼城に籠城。
豊臣政権下にあっては、政宗は木村を救わぬわけにいかず、ほぼ10日で城を五つ抜いて救出。
その後政宗を警戒する蒲生氏郷とも、表面的には和解します。

ところが、秀吉の命令で、ここで戦闘中止。
18年になるとすぐ、政宗も氏郷も上洛です。
そして18年6月から本格征圧開始。

天正17年暮れから18年秋にかけて続いたという漠然とした把握でいましたが、実際の戦闘は最初のひと月と、最後のふた月で、その間の半年は停戦に近い膠着状態だったんですね。
私にはちょっと意外でした。


停戦下の外交戦

伊達で国許にいた大物は伊達成実。
年明けから留守政景が合流します。
この人たちを中心に一揆勢の取り崩しが行われていったのでしょう。
一揆勢内部の分裂、伊達への降伏がすすみます。
かつて大崎合戦のあと、じわじわと伊達が大崎家臣団を取り崩していったのと同じです。


一揆勢力の変容
上衆に対する抵抗として始まった戦は、いっぺんに広まりましたが、目の前に敵がいないと長い間結束しにくいというのもあるでしょう。
伊達の働き掛けもあり、徹底抗戦派と適応派が分裂します。
抗戦派の家臣が伊達に投降しようとする城主を追い出し、城主の家族を人質にしたのが宮沢城、今の古川です。
投降する人たちが増えると、残されるの武闘派が濃縮されていきます。
政宗が戦うのは、戦って死ぬことが目標にさえなった最後の一揆衆たちです。


一揆から離れた人たち
降(くだ)った人たちは、その後伊達が召し抱えることになります。
治家記録、6月19日で、政宗は葛西晴信の甥、流斎と連絡を取っています。
同日のところで「大崎の旧臣等過半出仕意義なし」とあります。
一揆の最終戦の前に、大崎の過半数がすでに伊達の家臣となっているのです。
一揆衆は一丸となって最後まで伊達に徹底抗戦した、というイメージがあるなら、一度見直した方がいいようです。
これまでのマンガでも時々出てきましたが、新参の家臣は前線で忠義と能力を示さなければなりません。
伊達に付いた大崎衆は、一揆討伐の主力になります。


秀吉政権下の供出
政宗たちにも別の苦労がありました。
天正18年6月14日の政宗の書状を見ると、一揆征伐に下向する上衆の兵糧を供出しなければならないのです。
既に出すものはかき集めて出していました。一揆で生産力も落ちています。
地主の家は一軒に付き升ふたつ、名子は一軒升ひとつ、などという政宗の書状が残っています。このほか、上衆たちへの宿の提供もありました。
政宗は地域と実情と秀吉スタンダードとの板挟み状態で、その中での生き残りを模索しています。


ここはもっと掘り下げたらいいのだけれど、このマンガにいれたらページが足りずに全体が破たんします。

このマンガは、地域のお話を大事にしようと思っていたら、やはり紙幅の都合で描けなかったところがたくさん出てきています。
なかなか悔しいですが、今は描きぬくことを優先にしています。


宮崎城合戦
宮崎城は、合併前は宮崎町、今は加美町。
ちょっとこのマンガから外れると、宮崎は磁器に使う土がとれます。
江戸時代には「切込焼」という仙台藩特産の磁器が作られました。
少し灰色がかった肌に、少し濁りのある呉須(青い染付)が特徴。

粘土があるところは、急斜面ができますね。
宮崎城も片側が急な崖です。

次回は宮崎城合戦になります。