第163話について

『第163回 宮崎城攻防戦』

宮崎城攻防戦はgaku-163-01.jpg『宮崎町史』が勝者側資料、敗者側資料 として双方載せてくれています。
これに治家記録を合わせて読むと、起きたことは大体みな同じことが書いてあって、解釈が違っているようです。

起きたことを追いながら、私があれ?と思ったことを書いてみます。

鉄砲の戦で伊達が押されている

最初から銃撃戦だったようです。
宮崎側の記録、鉄砲48挺に対して(手練れと書いているけれど)撃ち手4人って、バランスが変な気がする。
撃ち手が少なすぎると見るか、銃が多いと見るか。両方か。
撃ち手が少なすぎるなら、逃亡者が出たか。
銃が多いなら、近隣の投降した城から、銃だけ密かに宮崎城に搬入されたか。つまり表は伊達に従いつつ、
裏では一揆勢にまだ心をよせて密かに武器を渡した...とか。
そんなことを考えます。
連射が過ぎて銃身を冷やしながら撃つがなおも限界、というすさまじい銃撃戦です。


名前に見覚えないですか 出しておきます。

なかなか書きだされることも無いと思うので、名前を挙げておきましょう。
先回顔を出した伊達軍以外の攻め手。
黒川晴氏(月鑑斎)の家老松坂周防定頼、その嫡子次郎右衛門定治、岩手沢城から真山式部(玉造郡真山邑の邑主)、
加美郡小野田城主石川長門敬重、四竈城主四竈尾張隆秀、などの名が見えます。

次に初戦の戦死者及び戦傷者の名を。( )の中はその時の年齢です。
地元の人や、この地域に興味のある人には大事な手掛かりです。

浜田伊豆景隆(38) 成田惣八郎(18) 松木伊勢 小島右衛門 前田河上総 峯左近
 伊庭野惣八郎 鹽森六郎左衛門 御同朋小出小阿弥(18) 他足軽100人余り
ここで政宗が怒って敵陣に近づいたところで乗馬が被弾
次に大松沢左衛門元実、被弾後首ふたつ取る。
松坂周防定頼塀を乗り越えようとしたとき場内からの槍で突き殺され、従者の鈴木藤内が敵を取って槍を分捕り、
周防の亡骸を引き上げる。
門目善右衛門、塀を乗り越そうとして槍数本で突き殺される。
栗生原主殿 伊庭野外記 青木因幡 鈴木帯刀 真柳文太郎(15) 松岡与五郎
荒川新左衛門、塀に縋りついたところをで左手を撃たれる。
大河内又助、縄文際の塀にとりつくところを城中からの投石で塀の中に打倒される。
松岡脩左衛門、深手のところを兄の松岡春介が解放して引き退く。
そのほか高名の戦士の輩あり。氏名伝わらず。

なんか名前から地域が見えませんか。

気になるところで 御同朋衆の小出小阿弥という名は、お能の関係者でもあるのでしょうか。
それから、宮崎城兵が弩を使っているようですね。これ、ボウガンでいいんでしょうか。映画『関ケ原』でも出てきました。
投石も使われています。

宮崎城主から降伏の申し出

城主の笠原民部が、伊達に付いた親類の小野田城主石川長門、四竈城主の四竈尾張を通じ、伊達成実経由で降伏を申し入れてきました。
政宗は攻め落とすべしと言う。
成実は、次に手強い佐沼城を攻めなければいけないので、宮崎城は落としてしまおうと言う。
gaku-163-02.jpg将兵に大量の戦士を出した後です。このタイミングで降伏は受け入れられなかったでしょう。

新聞連載時には政宗のセリフが「開戦直前まで三度にわたり降伏勧告はした」でした。

何か根拠はあったはずなんだけれど、今手元にある治家記録だけではわからなくなってしまいました。なのでセリフ変更。
出典は細かく、自分のためにメモしとかなきゃだめだあ。
ここは反省で締めくくります。

昔の絵かきさんに感謝しつつ、描き切れない。

昨年仙台市博物館で開催された、政宗生誕450年特別展で、関ケ原合戦図と大坂の陣図屏風を見ることができました。
びっくりしたのが、関が原と大坂の陣で、軍装が変わっていること。
関ケ原の時はけっこうみんな兜も笠もかぶっていなくて、被髪で走り回っています。
個人戦も多い。
それから、抜き身を肩にしょって走り回っています。
私は抜き身の刀を肩に背負うのは特別な時だと思っていました。だって、自分の頸動脈のそばにあんな切れる刃物をしょって走るなんて、危ない。
と思ったら、走ってる走ってる、大勢抜き身背負って走っている。
刀に関する感覚が全く違うんだー。

宮崎城合戦でも、抜き身で走っていたり、兜をかぶっていなかった可能性もあるし、伊達軍の軍装が御揃いになるのも早すぎるかもしれません。
でもここは絵の都合。
コスチュームで敵味方を判別する都合もあるのです。