第169話について 

『第169話 仙台藩胎動』

一揆後の葛西大崎


葛西大崎一揆のまとめ回です。
これについては2015年の一関市博物館第22回企画展『葛西氏の興亡』の展示と、中川学さんと入間田亘夫先生の講演の内容におおいに影響を受けています。
葛西大崎一揆をルサンチマンで括らず、他の見方ができないか。
葛西浪人の多くが帰農して地元に残ったことで、学問と政治のできる百姓が多い風土ができ上がった。葛西大崎出身者が仙台藩の学問や思想の中核を支え、今日の宮城県の政治の中枢にも深くかかわっているというお話でした。
講演内容は図録に同趣旨の論が掲載されていますが、残念ながら図録は売り切れ。
もしもどこかで見かけたらお買い求めになることをおすすめします。

マンガの絵では大槻三代を出しました。gaku-169-01.jpg
大槻氏は仙台藩~近代の有名な学問の大御所たちで、葛西代表としては良かったのですが、遊佐木斎を出しておくべきでした。これは私の勉強が追い付いていなかったせいです。

2018年(今年!)7月3日、仙台市博で明石治郎さんの講演「伊達綱村と歴史書の編さん」がありました。
伊達の歴史書の基礎、伊達治家記録の実質的な編さん作業者が遊佐木斎であること。
ではなぜ編纂の筆頭に田辺希賢の名があるかというと、これは綱村の判断。
史書を編纂すれば必ずどこからかクレームが来る、その時には遊佐が百姓出身者であることで身を守れないだろう。だから家格も高い儒者の田辺希賢の名を出しておくが、遊佐の仕事であることはゆるぎないことなので、そこは分かってほしいと、遊佐に伝えています。知らなかった!
綱村、すごいなあ。
市博の講演会はタイトルを見て「関係ないや」と思わず、行けるときは言った方がいいですよ。歴史ってジグソーパズルみたいで、こんな情報のかけらが巡り巡ってあんな情報とくっついて、思わぬ像が見えたりします。

で、話戻って。その遊佐さんは、地元の人は名前を聞いて「遊佐かあ、あの辺か」と思うでしょうが、栗原郡のお百姓出身です。
大槻氏に遊佐氏。葛西大崎旧臣が帰農して地元に残って学問を大切にする土地柄を作り、仙台藩の歴史藩の基礎を作っていったことになるんですね。


国替-仙台藩の礎

政宗にとっては大いに不本意なことに、米沢など伊達根幹の地を失いました。
ここ数回浅野長吉について危ない奴、という風に楽屋で書いてきましたが、この国替に伴う減収については心配し「伊達が立ち行かなくなるのでは」という手紙を8月7日付で施薬院、富左近あてに出しています。手紙では富左近だけど、略称かな。治家記録では富田左近将監とあります。

ところで、マンガでは仙台の「胎動」を仙台城縄張りでなくこの時期に置きました。
この国替で、領土の中に平泉の中尊寺、大崎八幡、塩竃神社が揃いました。
奥州王たる奥州藤原氏の寺、奥州探題の大崎八幡、奥州一之宮の塩竃神社。
領内に、奥州支配の宗教と由緒の裏付けが揃いました。
また南奧の阿武隈川に加え、旧葛西領の北上川が手に入りました。
これは街道に加えて流通の根幹です。
まだ開拓が進んでいないとはいえ、大崎平野、それに太平洋岸も直接支配下にはいりました。生産の基盤です。
こういうことから、仙台藩の基礎はこの辺にあっていいんじゃないかと思うのです。


ところで、ここに書いているのは、素人の私が研究者のお話を聞いたり本を読んだりして、素人なりに考えていることです。
素人のお勉強の七転八倒、七転び八起き、あがきの痕跡なのです。
鵜呑みにされると危ないかもしれないけれど、これから始めようとする人の役には立つかもと思う。
参考にした本などはなるべく挙げるので、興味を持ったらぜひ直接読んでみてください。


あ、追記。九戸出兵に関する浅野書状

もっと前の段階に出すべきでしたが、とにかく忘れないようにここに書いておきます。
6月17日付、だから宮崎城攻撃前の日付ですが、浅野長政は政宗に対して、南部が加勢を求めているから江差に兵を出すようにという書状を送っています。
治家記録宝文堂版だと2巻の284頁。
書状の後半を意訳しますね。
「南部方については加勢の儀を申し越してきたのでその方面が随分はかどるよう仰せつけらたい。必ず南部表に人数を差し越すように仰せられてください。委細は伊藤四郎兵衛に申し含めました。恐惶謹言 浅野弾正少弼 長吉」
これは微妙なところなんですが、南部が「伊達に」加勢を頼んだとは書いていない。でも浅野は伊達に必ず人数を出せという。

7月15日の書状では、、前後を略しますが
兔角葛西・大崎、南部辺までも貴所御一分にて仰せつけられ候えば、天下一の覚え、拙者一身の大慶、これに過ぎず候
きな臭いこと書いていますね。
南部領も政宗が取れるって言ってる。

でも政宗は動かない。動けない。
これについては170~171話、さらに、続く。