第172話について 

『第172話 荒療治(あらりょうじ)』

浅野長吉には南部に加勢してgaku-172-01.jpg九戸に出征するよう強く要請されていた政宗ですが、自身は出馬せず、白石宗実に軍勢を付けて、南部領境に近い旧葛西領水沢城に派遣します。
これは、病気もあったのでは。


病の経過と政宗の移動日


政宗は佐沼攻めの時期は重病を押して戦っていたが、それを外部には悟らせないようにしていたと考えられます。
一揆の戦後処理会談が行われる8月6日に向けて豊臣武将たちに情報を出し始め、8月6日には実際に病身をさらして答弁。
以後浅野、石田、大谷、徳川、秀次など歴々が政宗に見舞いを送る。
岩出山縄張りは家康が行う。
※この間思い切った治療を行ったのではないか。→木村宇右衛門覚書
9月末に高清水城から岩出山上に移る。
病が手紙上で確認されてから、実際に移動したのは8月6日の二本松と子の岩出山入城。ほぼ50日ほど開いています。

この間の記録は抜き書きを文末に入れておきました。
詳しく見たい人は最後の方を参照してください。

治家記録と木村宇右衛門覚書の整合

さて、このマンガでたびたび参照するのが『木村宇右衛門覚書』です。
この中に小十郎が政宗の脇腹のできものを焼いた鉄の棒で荒療治する話があります。
『木村...』の中ではいつの頃かわからない話になっていますが、わたしは一揆終結後のこの時期に入れました。
木村本でいう政宗が50日、小十郎が70日、時期が重なって体を動かせないピンチに、治家記録を見ると周りのどこからも攻め込まれていません。
木村本では、そこは心配しないで養生しているようです。
治家記録にある諸将からのお見舞い「心配しないで養生専一に」とくっつけて考えています。
治家記録と片倉代々記を見ましたが、8月6日の二本松出仕、9月の岩出山入城以外、政宗は年末に狩りをするまで、小十郎は年明けに上洛するまで、移動や運動の記録が見られません。木村宇右衛門の50日、70日と適合します。

そんなこんなで私は、木村宇右衛門に出てくる荒療治の話を葛西大崎一揆後にあてていいと考えています。
これはつまり、惣無事が成員の安全保障としての機能した例ではないか。
政宗はまず惣無事の務めとしての一揆鎮圧を果たし、次に主要な豊臣に自分のピンチを知らせて誰からも攻め込まれない状況を作ったのではないか。
プライベートな話に見える政宗の病ですが、この中に戦争の遂行と抑止という、惣無事の両面が見える気がするのです。

それで何の病気だったんだ

気になりますよね。gaku-172-02.jpg
いつもの虫気ではないようです。
政宗の手紙で早いうちに根治すればよかったというのが...どこに行ったっけ。
小林清治先生が引いているはず。
このデキモノはどうやら育っていったらしい。最終的には、こぶのように外からにぎれるようになり、焼き切ったら直った。
予後が大変だったのは、火傷の後遺症もあったでしょう。
(抗生物質があって、最初に腫れを引かせて、麻酔かけて、きれいに切り取って縫えたらねえ、と思いました。)
外科的なものですから、いつもの虫気、胃腸炎ではないようです。
私は、アテローマ、粉瘤(ふんりゅう)が成長しつつ化膿してしまったのではないかと想像しています。
最初は小さくても、患部が脇腹で、甲冑を着込んで戦う夏の間にどんどん大きくなってしまったのではないかな。
傷を焼いた後、何日かして大量の血膿が出たようですが、その中に白いかけらがいくつかあったと、これは木村右衛門の記述です。
これが粉瘤の核だったんじゃないかなあ。
ここは想像です。

ところで、私はこの話が「小十郎が目を切り取った」話の元だと考えています。
現代から見ると胸が熱くなる主従のいい話ですが、当時の人から考えたら、政宗と小十郎がふたりだけで、政宗の命にかかわることを即断実行してしまった。
ある意味家中としてはマズいこと。
それできちんとした記録に残らなかったのが、政宗と言えば目!ということでくっついちゃったんじゃないかなと考えています。
きちんとした記録に残らない割には、晩年の政宗は小姓たちに脇腹の傷の大きさを測らせたりして、在りし日の小十郎との絆を自慢げに語っています。

参考 政宗を見舞う手紙

佐沼城が落ちたのが7月3日。4日に周辺諸城の自落。
8月3日になると、浅野長吉から、
「病気が少しでもよかったら輿に乗ってでも二本松まで出てきて豊臣秀次に会ってください」という内容の手紙が来ています。豊臣秀次が二本松まで下向してきているので、葛西大崎一揆の戦後処理について政宗に答弁を求めているんですね。
政宗は病をおして二本松に行きます。ここでの答弁大事なんだけど、今回パス。
で、治家記録には「公何様の御病ありや伝わらず」とあります。
輿に乗ってでもとあります。
乗馬できないくらいの病状のようです。

8月5日、蒲生氏郷から
二日の御礼今日拝見しました。ただいま中納言秀次様が岩瀬にお着きになり、明日二本松にいらっしゃいます。すでに患っておいでと浅野弾正が言っていますが安心してください。弾正も我らも明後日二本松に行きますので、お目にかかって...(中略)
返す返すもお煩いの儀は時分のこともありますから御油断なく御養生に専念なさってください。御不自由であることは仕方がありません。中納言(秀次)様には申し上げておきますのでお心安かるべく、
という手紙

8月6日、政宗は二本松に登城して秀次に一揆の戦後処理について答申しています。
これは病をおしての登城ということなのでしょう。

9月2日、豊臣秀次から、その方が病気で大変だということ、散々で気の毒だ。心もとないことだろう。よくよく養生をすることが肝要だ。

9月7日付の大谷刑部からの書状に「今において御病気だとのこと、御養生なさってください」とあり、病気が続いていることがわかります。
9月10日には徳川家康からの手紙に御煩いが少し良くなったようですが油断なき養生してくださいねとあります。
手紙ではありませんが
9月10日の伊達治家記録の項目に、公は高清水城に御座し、御病気なり、とあります。
9月20日には蒲生氏郷から、まだずっとお煩いとのことですが、心配しています。知らなかったので(お見舞いの)使いも送らず、失礼しました。油断なく養生なさってください。病でとりまぎれているなかでお心にかけていただき...というような手紙が。
まだある。
9月22日には石田三成からの手紙に御所労はいかがですか、とある。
9月23日に政宗が岩出山に移ります。

まとめると、政宗の病は8月初めには病を浅野に通知、8月6日には一揆戦後処理のため無理に二本松城に出仕。
その後病はさらに悪化して9月22まで浅野長政、蒲生氏郷、石田三成、大谷刑部、徳川家康、豊臣秀次からの手紙の中に見舞いの言葉がある。
23日に岩出山に移る。
マンガの中で病のことは秀吉に届けてあるというのは、上記の浅野、石田、徳川、大谷などの人たちが豊臣政権での取次役であるので、こういう表現をしました。



私はこういう資料の突き合わせや、そこから現れる物事と向き合うのがとても好きです。
固まってしまったイメージの殻を割って、別な政宗たちが見える気がします。