マグロ漁業の危機との闘いは洋上にとどまらない。この十数年で気仙沼港を基地とする漁船は大幅に減り、多くの乗組員が慣れない陸(おか)の仕事に追いやられた。操業を続ける船も漁獲、魚価の低迷にあえぎ、追い打ちを掛けるように10年ぶりの国際減船が迫る。船員と家族には失業の不安が高まり、船主は会社と雇用を守るために奔走する。取り巻く環境の激変に耐えながら、必死に闘う人たちを追った。(マグロ危機取材班)=第3部は7回続き
床を傷めないように、掃除機は本体を持ち上げながらかける。養生のテープをはがす手つきは、おぼつかない。
新築工事が終わった仙台市内の高校校舎。清掃会社アルバイトの男性(66)=気仙沼市=は昨年12月29日、建物引き渡し前の仕上げ清掃に追われていた。
「傷つけると怒られるから、おっかなびっくりだ。マグロ船なら気を使わなくていいんだけど」と照れ笑いを浮かべる。
時給700円。始めてほぼ1年になる。2年前に漁労長兼船長を務めていた台湾の遠洋マグロはえ縄船を解雇された後、知人に紹介してもらった。
台湾船で漁労長の募集があれば知らせてほしいと、知り合いには声を掛けている。乗船依頼はまだ1件もない。
「太平洋だったら、この人で間違いありません。量も捕りますよ」
昨年12月上旬、気仙沼市の斉藤竹彦さん(63)は遠洋マグロはえ縄船の元漁労長を売り込んでいた。電話の相手は東京にある台湾系水産企業グループの輸入代理店。グループ本体のマグロ漁業会社が、日本人漁労長を探しているという。
斉藤さんは「漁師は海でこそ、能力を発揮する。船に乗れずに困っている船員が頼ってくれば、外国船にだって紹介する。日本の優れた漁労技術を衰退させるのは惜しい」と強調する。
手元には、台湾船への乗船を待つ日本人漁労長のリストがある。
パート先でのあだ名は「セレブ」。同僚が、もちろん冗談半分で付けた。気仙沼地方の女性にとってマグロ船の「船頭(漁労長)の妻」は、伝統的に「勝ち組」というイメージがあるからだ。
スーパーで発注業務を担当する菅野広子さん(48)=気仙沼市唐桑町=。夫の和郭さん(48)は20代で通信長から漁労長になり、最近もまずまずの漁獲成績を挙げている。
「船頭の奥さまがどうしてパートに」。こうした周囲の声に、広子さんは「息子は私立大生で、住宅ローンもある。昔の船頭の奥さんのような余裕はないんですよ」と少し困り顔だ。
パートを始めたのは10年前。マグロ船の「2割減船」が迫っていた。「失業するかもしれない。悪いけど、働いてみないか」と夫が切り出した。
夫は、お金の話になると「要するに、オレが(マグロを)捕ってくればいいんだ」と二の句を継がせないのが常だ。広子さんは「あの時は本当に不安だったのだと思う」と振り返る。
今は夫の扶養から外れるまでに収入が増えた。「頑張って、10年間続けて良かった。また減船があるようですから...」
「口の開きはこぶし大、腹の開きは5センチ程度がベスト」「えら周りをきれいに見せるため、水分は十分にふき取って」
昨年11月、静岡市の清水港。大手水産卸「第一水産」(東京)の松崎英彦さん(37)は、出港を控えた遠洋マグロはえ縄船「第18欣栄丸」(409トン)の乗組員にマグロの船上処理を説いていた。
松崎さんは東京・築地市場で競り人を務める「流通のプロ」。船を所有する「浜幸水産」(釜石市)専務の浜川幸三さん(34)が講師を依頼した。
ベテランぞろいの「漁労のプロ」にあらためて処理を学んでもらうのは、魚価が低迷する中、苦労して捕ったマグロを少しでも高く売るためだ。
第18欣栄丸が主に狙うのはメバチマグロ。バブル期に1キロ1300円を超えた築地市場の平均単価は近年、1000円以下で推移する。燃油高騰による一斉休漁があった昨年夏は一時的に1000円台を回復したが、燃油価格が落ち着くと、魚価も以前と同じ水準に戻った。