あるもの探しの旅

  •  美味しいものって、私たちを幸せな気持ちにしてくれますよね。
  • ふだん私たちが何気なく口にしているもの。
  • それはどんな人が、いかなる風土のもとで、どんな思いで作っているのか。
  • そんなことを考えてみたことってありますか。
  •  自分の体に取り込むものだからこそ、もっと知りたい。
  • 大量生産品が持ち得ないモノたちが秘めた飛びっきりなストーリー。
  • どうやら東北に暮らす私の足元と、ハンドメイドな職人王国のイタリアには
  • そんな物語がたくさんあるようです。
  •  ご一緒に「あるもん探しの旅」にちょっと出てみませんか
  • 読んで美味しい知ってうれしいお話を、どうぞ召し上がれ。Buon appetito!

2019/07/08

CiRO a Akashi チーロ @ 明石 〈中編〉

 Viaggio al Mondo ~あるもん探しの旅」で飲食店を取り上げる場合、最低2回以上は店を訪れることを自らに課していることを前々回の中で述べました。

 2007年のブログ開設以降、墨守し続けているこの掟。対価を支払う客に対する背信行為に他ならないシェフの不在に起因する味のブレがないか、サービスは目配り心配りが行き届いているかを見定め、より確かな内容を皆様にお伝えするためにほかなりません。

 今回ご紹介する食レポは、昨年11月初旬の初回訪問時のランチ。今年3月に再訪した2回分を一挙公開すると当然ボリューミーとなります。皆様のお腹のキャパも考慮して〈中編〉〈後編〉の2回に分けてご紹介します。

 どうぞ心して召されますよう。

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 大阪府は自転車が引き起こす人身事故の発生件数が、より人口が多い東京都を抜いて全国一をここ数年独走しています。隣接する兵庫県内の自治体で自転車事故の発生件数が最多なのは、西宮市と大阪市に挟まれた尼崎市です。庄イタが暮らす西宮から勤務地の大阪市中央区北浜までの路上移動は、そんなエリアを通過せねばならないのです。

 ナポリさながらの信号無視をはじめ、一時停止義務不履行・車道の右側逆走・歩行者すれすれの暴走など、道交法で軽車両に位置付けられる自転車に乗る人の意識が低すぎる大阪に転勤して以降、夏の猛暑も手伝って勤務先まで片道20kmのロードバイク通勤+勤務中の足としての活用をやむなく封印してきました。

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【photo】明石浦で揚がる旬の魚が月ごとにイラストで紹介される昼夜共通CiRO チーロのグランドメニューの冒頭箇所より。魚料理か肉料理のいずれかを選ぶセコンドピアットでは、淡路産イノブタのサルシッチャ、牛肉の厚切りビステッカや薄切り炭火焼きタリアータ、イタリア版とんかつ・コトレッタなど、グリル系を中心に肉料理も選択可能。されど店とは目と鼻の先で午前11時30分から水揚げされたばかりの魚介を昼ぜりににかける光景を目の当たりにするCiROだけに、庄イタならずとも食指は魚料理にのびてしまうのが人情というもの

 食い倒れの街・大阪に移って2年3か月。アルコール発酵したブドウ果汁の割合が少なくないカロリー摂取量は横ばいでも、ロードバイクによるカロリー消費が激減しているため体重は増加傾向にあります。腰回りの余分なぜい肉を落とすべく腹8分目を心掛けよ、という理性の声は、手渡されたグランドメニューの字面を目で追うに従って心の片隅へと追いやられ、やがてかき消されてゆくのでした。

 つい胃袋の容量を忘れ、あれもこれもとヨダレを流しつつ選択に迷ってしまう。そんな食い道楽冥利に尽きる時間が「Trattoria Pizzaria CiRO トラットリア・ピッツェリア・チーロ」には流れていました。

 これまで訪れた2度とも、オーダーしたのは前菜+ピッツァ+パスタ+魚料理または肉料理の組み合わせで、料理を取り分けて頂く「トラットリアコース(昼夜とも3,850円/1名)」。基本4品をベースに、生ガキやドルチェを追加した内容になっています。

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 まずは昨年11月3日(土)文化の日にふさわしく、2017年にユネスコ無形文化遺産に指定された「ナポリピッツァ職人の技術と伝統」の精華、そしてピッツァだけにとどまらない南イタリア・ナポリの食文化に触れたご報告から。

 宮城県塩竃市「Pizzaria La Gita ピッツェリア・ラ・ジータ」佐沢桃子さんのように、今でこそ珍しくなくなった女性ピッツァイヨーラの草分けとなった小谷紀三子さん。小学生を含む3人のお子さんとの時間を大切にしているため、紀三子さんが店においでの平日昼以外、お弟子さんがピッツァを焼いていることは織り込み済みです。

 イタリアの権威ある食とワインに関する評価本「Gambero Rosso ガンベロ・ロッソ」は、2017・2018年と2年連続で西日本エリアNo.1のピッツェリアとしてCiROを選出。〝ピッツァを食べればナポリへと誘われ、活きの良い魚介料理はアマルフィ海岸と張り合う〟と評した店の魅力を探りたい。そんな思いで紀三子さんがたとえ不在であっても、二次発酵したピッツァ生地のごとく期待に胸を膨らませ、JR神戸線明石駅の改札口を出ました。

panetti_pizza-napoletana.jpg【photo】※以下は一般的な仕込みの流れで、画像を含めてCiROの作り方ではありません
生地の材料となる小麦粉・水・塩・酵母を混ぜ合わせた後、静置する一次発酵の所要時間は4時間ほど。正月のお供え餅に見えなくもない180g程度の球形に分割成形上画像後、さらに二次発酵として室温で1時間静置。気温や湿度により、材料の配合割合や時間を変える静置の間は湿らせた布巾などで生地の表面が乾かぬように覆っておく。すると発酵により発生する炭酸ガスの気泡を含んで生地が膨張し、含まれる水分が表面に出てきて照りが生じてくればスタンバイOK。ピッツァイオーロが生地を手で伸ばして成型する際、気泡は中心部から縁に向けて集められ、加熱によって縁が膨張したコルニチョーネが具材の壁の役割も果たす

 イタリア人が好む硬めなパスタの茹で加減〝al dente アル・デンテ〟を理解しようとはせず、フランス的価値観を振りかざす上から目線が鼻につく「Micheli● (ミシュラ●)」ごときより、自国(より正確に言えば郷里)の食に対する思い入れが強すぎるイタリア人が選定するガンベロ・ロッソこそが、庄イタにとっては共感でき、かつ信頼に値する評価なのです。

uontana.2018.11.3.15.08.jpg【photo】ランチタイムに明石駅から徒歩でCiROまで向かうなら、浜の旬を知る予習または食後の復習で立ち寄りたい商店街が「魚の棚(うぉんたな)」。すぐ近くで昼競りが11時30分から行われる明石漁港直送の鮮度抜群な旬の魚介が店頭に並ぶ。この日CiROで調理されて出てきたハリイカやガシラ(アカメバル)が超お手頃価格で店先にズラリ

 昼網で揚がったばかりの鮮魚が並ぶ「魚の棚(うぉんたな)商店街」を抜け、明石漁港に向かって徒歩3分。2週間前の9時半に電話予約が可能となる席の予約を幾度か試みるも玉砕が続き、やっとの思いで2回転目の席を予約できた13時少し前に店に到着。休日の昼時とあって席は先客で埋め尽くされていました。

 店内ではテーブル席の間をフロアスタッフが行き交い、薪窯の前や厨房には対応能力の高さを物語るスタッフ5,6名ほどの姿が見て取れ、活気あふれるナポリ下町のトラットリアそのままの雰囲気です。

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 魚の棚を移動中には9割方、さらにCiROでメニューを手にした時点で120%〝今日は魚の日!!!〟と気持ちが固まっていました。゛♪さかな、さかな、さかな~、魚を食べると、あたま、あたま、あたま~、頭が良くなる...(中略)... 魚がボクらを 待っている〟のでした。

 もとよりピッツァだけで済ませるつもりは毛頭ないため、良き相伴となるのはヴィーノ・イタリアーノ。ワインリストから選ぶ基準は゛地の料理には地のワイン〟という鉄則です。イタリアワイン法で最高位となるD.O.C.G.に南イタリアで最初に選定された長熟型のヴィーノ・ロッソ「Taurasiタウラージ」の申し分ない作り手が「Antonio Caggiano アントニオ・カッジャーノ」。

 料理との相性を考慮し、標高400mの粘土と石灰岩が混じる畑で育ったブドウを主体とする白ワイン「FiaGre フィアーグレ2014」下画像に白羽の矢を立てました。

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 ローマ・ミラノに次ぐイタリア国内で3番目となる95.5万(2018年)の人口を擁するナポリを州都とするカンパーニャ州を代表するワイン産地が、海岸部のサレルノから30kmほど離れたアペニン山脈南麓に位置する冷涼な「Avellino アヴェリーノ」から北の「Benevento ベネヴェント」にかけての内陸部。

 どちらもギリシャ人が持ち込んだ歴史の古いブドウで、19世紀中庸にヨーロッパ全域のブドウ栽培に壊滅的被害をもたらしたフィロキセラ(ブドウネアブラムシ)禍で一時は姿を消すも見事な復活を遂げた「Fiano フィアーノ」、温暖な南伊らしからぬ酸と厳格さを持ち合わせた「Greco グレコ」を7:3の割合で混醸した白ワインです。

 フィアーノの特徴となるハチミツや花の心地よい香りがグラスから立ち上がりますが、飲み口はあくまで辛口。グレコ特有の硬質な酸味が引き締めるアフターにかすかな苦味を伴います。

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 セコンドピアットは店一番のオススメという「本日の魚料理」(1,600円~)に。ほどなくスタッフがオマールエビ以外は明石浦の昼網で揚がった7種類の魚をテーブルに持参下画像。スタッフと客が調理法を相談して決めるという素敵なシステムなのです。

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 もはや生モノは食傷気味ゆえ、刺身の船盛りが登場するとゲンナリする庄イタ。「いかようにも調理しますよ」と言いつつ、こんなモノを目の前に持ってこられた日にはたまったもんじゃありません。ヒトの食欲を抑制する働きがある血中アドレナリンの濃度が測定下限値を下回り、食欲のリミッターを外すドーパミンが止めどなく脳内で駆け巡ってゆくのでした。

 アンティパストはこの日のお薦めで、積み重ねてきた食遍歴の経験則からほぼ味の想像がつく「明石産ハモのパン粉オーブン焼きレモン風味」「カツオとマヨネーズ、赤タマネギのブルスケッタ」「チーズ・サラミ・卵をタルト生地で焼いたナポリのキッシュ、ピッツァルスティカ」とは異なり、未知なる組み合わせの妙に期待感が高まった「明石産ハリイカとイタリア栗の柔らか煮込み」を下画像

 秋から冬場の柔らかく甘さが乗ったハリイカとイタリア栗のマロンペーストが出合った優しい味つけに一皿目から癒されます。

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 初見参の店では、トマトソース+オレガノ+ニンニクのシンプルな組合せの「マリナーラ」を食べるのを常とする庄イタ。なれどここはマダコで名高い明石。そこで選んだのが、マリナーラに明石ダコをトッピングした「Marinara con Polipi マリナーラ・コン・ポリピ」。家人が希望したマルゲリータと1枚ずつではお腹のキャパシティを越えること必至ゆえ、注文はMetà e Metà ないしは Mezzo e Mezzo(ハーフ&ハーフ)。庄イタの定番ルールでナポリ同様のノーカットを指定。下画像

 窯から出されたばかりの熱々で運ばれてきたピッツァはナイフとフォークでその都度食べやすい大きさの放射状にカットします。こうすればあらかじめ8等分する15秒程度をロスしている切れ目の入った生地より冷めにくく、右利きなら順繰り皿を時計回りに、左利きなら逆に回し、内側からコルニチョーネ側に生地を巻くように食べれば、スピーディに完食できます。手づかみのように手が汚れませんので是非お試しを。

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 グランドメニューに記載された心惹かれる30種類ものパスタ・リゾットからプリモピアットを絞り込むのは至難の業。そこでメニュー冒頭「本日の店長オススメ・季節のナポリ料理」にあった3品「手長エビとイカ・ポルチーニ茸のスーゴ風味のパッケリ」、「自家製サルシッチャとレンズ豆の手打ちチカテッリ」、「明石産生シラスのレモン風味スパゲッティ」の三択に。

 3種盛りを1人前の分量で注文できればベストでしたが、そんな虫のいい話は無理そうなので〝一番お腹に優しそう〟という理由から、生シラスのレモン風味スパゲッティに下画像。 

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 セコンドの魚は10月~12月が旬であり、何より選択肢の中で〝最も小ぶりである〟というプリモを選んだのと似たような理由からガシラ(アカメバル)を指名。大皿盛りで目の前に持ってこられたガシラは刺身でも十分イケる鮮度でしたが、地元では塩焼き、煮付け、唐揚げとオールマイティーな食べ方をするようです。

 アクアパッツァやシンプルなローストなど、お勧め頂いた調理法から、ハーブ焼をお願いしました下画像。パリッと火入れされた香ばしい皮、締まった上品な白身にはローズマリーやイタリアンパセリの香りがよく合います。

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 この時点で胃袋の許容量は105%まで達していましたが、ドルチェまで至らずにカッフェで〆るのは前世イタリア人としては悔いが残ります。店の入口脇にある冷蔵ケースを覗きに行くと、庄イタが大好きなナポリ菓子「スフォリアテッラ」が残っているではありませんか。そちらは持ち帰り用に確保して「モンテビアンコ(モンブラン)」をエスプレッソと共に店で頂くことに下画像

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 翌日、家で食べたのが、定番の貝殻型「Sfogliatella Ricciaスフォリアテッラ・リッチャ」ではなく、その原型とされる半円形の「Sfogliatella Frollaスフォリアテッラ・フロッラ」下画像。リコッタチーズ+αのフィリング(餡)にレモンピールがアクセントとなるアマルフィの修道女が編み出したといわれる美味極まりない焼き菓子です。

Sfogliatella-ciro1.jpg Sfogliatella-ciro-akashi.jpg

 2皿目のドルチェまで一気呵成に駆け抜けた〈中編〉はここまで。

 もうお腹いっぱいと顔に書いてあるそこのアナタ。まだ完食してはおりませんぞ。同じ分量のフルコース料理と〆のカッフェまで〈後編〉のネタを発酵中のピッツァ生地よろしく寝かせてご用意しております。

 後編もTanto mangiare! 

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トラットリア・ピッツェリア・チーロ

・住:兵庫県明石市本町1-17-3 ゑびや第2ビル1F
・Phone:078-912-9400
 ※予約は2週間前の9:30から電話で受付け(月曜除く)

・営:昼 11:30~L.O. 14:00
   夜 18:00~L.O. 21:00
   月曜定休(祝日の場合は翌日休)
・Pなし(近隣のコインパーキング利用)・禁煙
・URL: https://www.facebook.com/TrattoriaPizzeriaCiro/
 

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投稿者 vam : 22:46 | カテゴリー : Cuccina Italiana/| カテゴリー : ・Fuori Tohoku 圏外遠征

2019/06/24

CiRO a Akashi チーロ @ 明石 〈前編〉

赤穂さくらぐみファミリー第3弾
 

 一括りにイタリア料理というのではなく、リグーリア、トスカーナ、プーリア、シチリアなど、より実像に即した地域的な細分化と深化が進んだ平成の時代。今となっては隔世の感がありますが、昭和50年代までは日本で一般に西洋料理といえばフランス料理でした。

 今回の〈前編〉では旧約聖書風にナポリピッツア黎明期を回顧。〈中編〉&〈後編〉CiRO チーロ実食レポートへとつなげます。

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創世記・天地創造

Venezia-San-Marco-cupola.jpg【photo】現在は堂内撮影不可となったヴェネツィア、サン・マルコ聖堂。撮影可能だった1995年当時、入口すぐの柱廊ホール右端の天蓋モザイク「天地創造」(1220~1230年代)。万物の創造主である神が、光と闇を手始めに空と海、昼と夜、植物、命あるもの、アダムとイブなど7日間で世界を作り上げる旧約聖書冒頭の創世記の記述を文字が読めない信者のためにビザンティン様式で図像化。一説にはUFOも描かれているというが、空腹時にはモザイクの図像自体が「額縁」の意味がある盛り上がったcornicioneコルニチョーネ(→ピッツアの縁)にこんがりと焦げが入り、モッチリ柔らかな内側に黒オリーブ、プチトマト、シラス、チーズなどの具を散りばめたジェノヴェーゼ系創作ピッツァ(下・参考画像)にも見える... かも?

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 イタリア料理が日本で市民権を獲得して定着、隆盛をみる以前の1981年(昭和56)。播州赤穂の誇りである大石内蔵助ら赤穂義士を祭神とする赤穂大石神社近くのお城通りに面した一角でイタリア料理店「さくらぐみ」を開いたのが西川明男シェフ(当時21歳)

 いささかイタリアンとしては風変わりな店名の由来は、郷里である赤穂の市木がサクラであること。そして西川さんの実家には大きなサクラの古木があり、その下で毎年花見をするのが恒例行事だったからなのだそう。

 現在の王道ナポリスタイルとは全く異なり、創業してしばらくはアメリカ経由で日本に上陸したフカフカ生地のピザをガスオーブンで調理し、提供していたといいます。

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出エジプト、もとい、入ナポリ記

San Maurizio Monastero Maggiore.jpg【photo】1503年に建築が始まったミラノ「Chiesa di San Maurizioサン・マウリッツィオ教会」。大洪水からノアの家族と雌雄つがいで動物を救った旧約聖書・創世記の箱舟の逸話を描いたフレスコ画。ロンバルディア・ルネサンス様式の簡素な造りの外観だからと素通りするなかれ。内部は別世界。1554年に製作されたパイプオルガンの荘厳な調べやバロック音楽の演奏会がしばしば行われる礼拝堂、その奥のマッジョーレ修道院は必見の価値あり。ダ・ヴィンチ派やベルナルディーノとアウレリオのルイーニ親子による16世紀の保存状態が良いフレスコ画で壁面すべてが覆われた修道院は〝ミラノのシスティーナ礼拝堂〟とも称される。観光客だらけのバチカン・システィーナ礼拝堂よりも静謐な祈りの空間に浸れるこちらの方が、ミケランジェロの筋骨隆々としたマッチョな画風を好まない庄イタ的にはお勧め

 イタメシブームが巻き起こったバブル絶頂期の1990年(平成2)、西川さんは初めて訪れたナポリ下町の「Timpani & Tempura ティンパニ・エ・テンプラ」で伝統料理研究家としての顔を持つアントニオ・トゥベッリ氏に師事。本物との目からウロコの邂逅こそが、〝ナポリばか〟を自任するほどナポリ料理、とりわけピッツァにのめり込む今日へと至るコペルニクス的転回の契機となります。

 ちなみにアントニオ・トゥベッリ氏には、西川シェフ門下生のピッツァイヨーラ松岡佳代子さんも師事しており、同窓の柴田美緒さんとコンビを組む店「Mio & Temprina ミオ・エ・テンプリーナ」をご紹介した昨年8月に写真と共にご紹介済みなので、ご記憶の方もおいでかと。
 〈 ※ 2018.8拙稿「Mio & Tempurina ミオ・エ・テンプリーナ@赤穂」参照〉
  http://blog.kahoku.co.jp/shokuweb/vam/2018/08/mio_temprina.html

 足繁くナポリを訪れて食べ歩きを重ねる一方、毎年秋にナポリで開催され、プロの職人が参加し、各部門ごとに技能を競うピッツァの祭典「Nopoli Pizza Fest ナポリ・ピッツァ・フェスト」'97にSAKURAGUMIとして参加します。この催しは17世紀まで起源が遡るナポリピッツァの伝統を継承する目的で1984年に発足した「Associazione Verace Pizza Napoletana(AVPN)真のナポリピッツァ協会」が主催する秋の恒例行事です。

 その際、西川シェフに同行したのが、1988年(昭和63)にアルバイトとして働き始め、西川さんが料理のセンスを買っていた3番弟子にあたる船曳紀三子さん(当時27歳)でした。

 ところが西川さんらに主催者が用意したのは、名だたる名店のピッツァイオーロがしのぎを削り、来場者が群がる中心エリアから遠く離れた人影のない広大な会場の隅っこ。そんなアウェー状態の中、地元「IL MATTINO」紙の記者が東洋人チームの存在に目を留めます。

 船曳さんのピッツァを食べてその味に感激した記者は、翌日の紙面でナポリ人が忘れてしまったハートを日本人が持っていると称賛。遠く日本から参加した西川さんらを継子(ままこ)扱いする運営のあり方に疑問を投げかけます。すると翌日、会場入りしたチームさくらぐみメンバーには入口近くの条件が良い場所が用意されていたのだといいます。

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十戎を授かる「汝、コルニチョーネを食べ残すなかれ」

Ghiberti-Porta-Pradiso-10.jpg【photo】花の都フィレンツェのシンボル、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂付属のサン・ジョヴァンニ礼拝堂。後世、ミケランジェロがそう呼んで定着した東面を飾る「天国の門」(1452年,ロレンツォ・ギベルティ作)は、このモーセの十戒ほか、アダムとイブ、カインとアベル、ノアの洪水など、旧約聖書に記された物語を図像化した10の金箔を施したブロンズパネルで構成される。現在、礼拝堂を飾る天国の門は、銀座並木通りに本店があり、かつてPiacenzaのカシミアコート(2015.12拙稿「Principe di Salina サリーナ公爵~山猫の世界を体感するピュアカシミアコート」参照)やETROのネクタイなどを購入したセレクトショップ「サン・モトヤマ」創業者の故・茂登山長市郎氏が1990年(平成2)に寄贈したレプリカ。オリジナルはドゥオーモ付属博物館所蔵

 西川さん一行がナポリで出合ったピッツァは、生地の外側表面はカリッ・サクッとして中心部はモッチリ。独特な生地の食感を生み出す決め手が、薪火の輻射熱で炉内を450℃から485℃に保つナポリ製の薪窯であると知った西川さんは一つの決断をします。

 炉内の保温性能に優れ、60秒~90秒で焼き上げるナポリピッツァの焼成に理想的な炉床温度400~420℃を保持しやすく、堅牢で高性能な薪窯を日本のピッツェリアとしては初めてナポリからオーダーメードで取り寄せたのです。

 さらにグラニャーノ産パスタ《2010.7拙稿「珠玉のパスタ、Gragnano グラニャーノ」参照》や本場のピッツァ職人が厚い信頼を寄せるデュラム小麦、空輸による鮮度の高い水牛乳モッツァレラチーズなど、店で使用する素材を厳選してきました。

 ナポリ製の薪窯のごとく熱いハートと技が認められ、1997年(平成9)9月、さくらぐみはイタリア国外の店では初めて真のナポリピッツァ協会92番目の認定店となります。それはナポリ伝統の食文化に心からの敬意を抱く西川明男オーナーシェフにとって何よりの嬉しい勲章でした。

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バベルの塔「さあ、煉瓦を作ろう。火で焼こう」

stufa@regalo22.jpg【photo】色といい形といい、ピッツァを街頭で売り歩く際に使われ、内部が3枚程度を重ねる棚状の構造になった銅や錫の容器「Stufa Napoletana ストゥファ・ナポレターナ」(上画像中央/ロケ地:大阪市福島区福島1丁目「La Pizza Napoletana Regaloラ・ピッツァ・ナポレターナ・レガロ」)が絵のモデルと思いきや参考リンク、古代ローマの円形闘技場コロッセオに着想を得たのだというピーター・ブリューゲル「バベルの塔」(1563年,ウィーン美術史美術館蔵/ 下画像)。創世記によれば、東方からシンアルという地に至ったノアの子孫である人間たちは、町を造るにあたり「さあ、煉瓦を作ろう。火で焼こう」と声を掛け合いながら天まで届く塔を造ろうとした。これを見た神は意思の疎通が出来ないよう、互いの言葉を異なるものとし、塔の建造は頓挫。言語が多様化したという

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 日本人が作るナポリピッツァの実力を協会に認めさせたのは西川さんの情熱があってのこと。日本初の快挙を成し遂げるに際しての最大の功労者こそが、当時ピッツァ窯を任されていた船曳紀三子さんだったのです。

 紀三子さんは、現在も師と仰ぐ西川シェフから料理の腕を見込まれ、'97年にナポリ修行に送り出されます。ナポリ中心部から西に向かった近郊のBagnoli バニョーリ地区にあるAVPN認定店「O'Calamaro オ・カラマーロ」で名匠ガエターノ・エスポースィト師から本場の技と心を会得。協会の認定は、ピッツァイヨーラとして成長し、日本に帰国して間もなくのことでした。

※再生時に音がします

【Movie】AVPN技術委員やナポリピッツァ職人協会会長を務めたマエストロ、ガエターノ・エスポースィト氏が自身の歩みを語る。2001年、ナポリ市ヴォメロ地区に自身の店「L'Arte della Pizza」を開くまで所属した「O'Calamaro オ・カラマーロ」で、船曳紀三子さんにピッツァ作りを指導する様子を収めた写真が2分20秒付近で登場。パルテノペ総料理長、渡辺陽一氏の著作「生活人新書 至福のナポリピッツァ」(2002.6NHK出版刊)と共に、庄イタのナポリピッツァに関するニッチかつディープな知識の源泉となった雑誌BRUTUS「日本のピッツァはこれでいいのか⁉」(1996.9.15号)。日本のピッツァを食べ歩き、完膚なきまでにメッタ斬りした親日家のガエターノ・ファツィオ氏ら3名のナポリ・ピッツァ協会メンバーの一人がガエターノ・エスポースィト氏だった
 
 室町時代に起源が遡る船曳姓は兵庫県南西部から岡山県東部にかけて多く、船引という播磨地域の古い伝承に基づく地名に由来するとのこと参考リンク

 2003年(平成15)に紀三子さんが職場結婚したお相手で、後輩の小谷聡一郎さんは、ル・コルドン・ブルー東京校で習得したソース主体のフランス料理の濃い味付けに馴染めずイタリアンに転身。ナポリ出身のサルヴァトーレ、ラッファエーレ、ルイージのクオモ3兄弟が東京中目黒で営んでいた「サルヴァトーレ」勤務時代、店に食べに来た西川さんのもとに移籍、さくらぐみでナポリ料理の腕を磨きました。

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水牛の乳とオリーブの蜜が流れる地、カナン、もとい明石

presepio-napoletano.jpg【photo】ナポリの伝統工芸「プレセピオ」。Di Matteo, Da Michele など人気のピッツェリアからすぐ近くの「Spaccanapoli スパッカナポリ」地区の一角Via San Gregorio Armeno サン・グレゴリオ・アルメーノ通りは、プレセピオの職人街になっている。1年を通してこのようなキリスト生誕の場面を芸術性の高いジオラマで表現する聖家族ほか、ナポリピッツァを食べさせてくれる店の小道具として欠かせないナポリの仮面劇の道化プルチネッラほか、芸能人やサッカー選手などの人形が見られる

 結婚の翌年、お二人は海の幸に恵まれた明石での独立を果たします。そこは藩制時代は城下とは橋で結ばれた米蔵や茶屋(≒ 遊廓)があった浮島で、現在は錦江橋で繋がる明石市中崎。石造りの灯台としては日本最古の旧波門崎燈籠堂(国登録有形文化財)越しには淡路島と明石海峡大橋のパノラマが開けるビルの2階というロケーションでした。

 独り立ちする紀三子さんには、西川シェフからキラキラと海面が光り輝く瀬戸内海のようなウルトラマリンブルーの中に淡いパウダーブルーの丸タイルを散りばめた装飾が施された薪窯が嫁入り道具として贈られました。

 3か月後に出産を控えた紀三子さんと聡一郎さんが、夫婦二人三脚で歩み始めた「Trattoria Pizzeria CiROトラットリア・ピッツエリア・チーロ」は、たちまちにして予約困難な人気店となります。

 2016年9月、明石港に面した現在の場所に移転。遠方から訪れるピッツァ好きを含め、数多くのリピーターに支えられて今日に至っています。

 実のところ今回ご紹介しようと思っていた昨年11月と今年3月の食レポ2回分 @Ciro。黎明期とドッキングさせてしまうと、あまりに長文になります。申し訳ありませんが、次回に譲らせて下さい。Ci vediamo ~♪.


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投稿者 vam : 06:14 | カテゴリー : Cuccina Italiana/| カテゴリー : ・Fuori Tohoku 圏外遠征

2019/06/06

Strada per CiRO a Akashi チーロ @ 明石への道

「魚の棚」で寄り道タラタラ


 局地風をめぐる話題を取り上げた前回に続き、今回は心地よい地中海の風が吹きぬけてゆく兵庫県明石市が舞台となります。

stretto-Acasci.jpg【photo】日本標準時の東経135度の子午線が通る明石市立天文科学館から明石の市街地越しに明石海峡に架かる明石海峡大橋と対岸の淡路島を望む。安倍総理・麻生副総理の地元を結ぶ3本目のルートとなる下関北九州道路の忖度発言で引責辞任に追い込まれた塚田一郎国交副大臣は、かの田中角栄を輩出した新潟選挙区選出の2世議員。自民党伝統の利益誘導の最たる事例が、三木武夫(徳島)・大平正芳(高松)・宮澤喜一(広島)ら歴代総理大臣をはじめとする有力政治家の出身県同士に架かる本州四国連絡橋。3本の連絡道路が民営化された現在も当初計画の3.8倍、2兆8662億円の巨費を投じた債務の返済は、ずるずると先延ばしされ、35年後まで続く。四国が人口減に直面するなか、通行料収入は当初見込みを大きく下回っている

 全長3,911mで世界最長の吊り橋、明石海峡大橋が架かる淡路島を挟んで、大阪湾から播磨灘・周防灘にかけての瀬戸内海沿岸は、年間を通して温暖で穏やかな気候とされてきました。

ponte-grande-akashi.jpg【photo】神戸六甲アイランドを出航するフェリー「さんふらわあ号」デッキからの明石海峡大橋と明石方面の夜景。波静かな瀬戸内海を航行、大分港には翌早朝に到着するので、別府などマイカーでのおんせん県観光に至極便利。「ナポリを見て死ね」とまで言われ、落書きもゴミも遠目には目に入らない世界三大美港の街には一歩引けを取るも、神戸港から明石にかけての夜景はそこそこイケており、気分は地中海クルーズ??

 瀬戸内式気候は「晴れの国」を標榜する岡山など、特に夏場に雨が少ないのが特徴。ゆえに淡路島や讃岐平野など瀬戸内地域には耕作用としては日本一の大きさとなる周囲20kmに及ぶ広大な「満濃池」下画像をはじめ、人工のため池が数多く見られます。

Man-no-ike.jpg 国内のため池の7割近くを占めるのが四国・中国と近畿。特に瀬戸内海に面した岡山・広島・山口・香川の4県に中国・四国地域の8割以上が集中します。

 南北の季節風を遮る四国山地と中国山地に挟まれた瀬戸内海沿岸の地域の気候は、地中海性気候と似ているといわれます。

 雨が少ない地中海地域が原産とされるオリーブ。イタリアのサルデーニャ島には幹回りが13mにもなる推定樹齢3,800年という超ご長寿なオリーブがあります参考リンク

 香川県の小豆島ではオイルサーディン製造を目的に1908年(明治41)からアメリカから苗木を取り寄せたオリーブの樹が栽培されてきました下画像

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 三重と鹿児島でも試験栽培を行ったなかで唯一栽培に成功したのが小豆島だったのだそう。2年後に結実し、根付いた苗木を挿し木して初代と同じ場所に植えた2世木が原木として西村地区に現存します下画像

 小豆島では日本の風土に適した新品種「香オリ3号」「香オリ5号」の開発に成功しているほか、本場イタリアでも高い評価を受けるオイル製品が少なくありません。

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 現在では日本国内のオリーブ生産の9割を小豆島が占め、香川県全体で全国シェアの97%を占めるに至っています。

 またエジプトの地中海沿岸が原産とされ、地中海の交差点シチリアでは「Zibibboズィビッボ」と呼称が異なるブドウ品種「マスカット・オブ・アレキサンドリア」は岡山の特産として知られます。

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 温暖な地中海、とりわけ南イタリア・ナポリに似通った風を庄イタが感じるのが、昨年夏に申し分ないピッツリアを2軒ご紹介した兵庫県赤穂市です。《2018.7拙稿「さくらぐみ @赤穂 そこは紛れもなくナポリだった」、2018.8拙稿「Mio & Tempurina ミオ・エ・テンプリーナ@赤穂 そこにもナポリの風は吹いていた」参照》

 その局地風の吹き出し口の一つ、ナポリピッツァと海鮮ナポリ料理の店「さくらぐみ」がある赤穂市御崎(みさき)と同様、兵庫県内でナポリの局地風が吹くのは、さらにもう一カ所。そこは日本標準時の東経135度の子午線が通る明石(あかし)市。

 牛スジ入りのラヂオ焼きが進化した大阪名物たこ焼きの原型といわれるも、それとは似て非なる食べ物で、ジモティが玉子焼きと呼ぶのが明石焼き。そして明石海峡産のマダコや真鯛で有名ですね。

akashiyaki-funamachi.jpg【photo】いつも行列が絶えない明石焼の店「ふなまち」。一人前(税込600円)20個。地元っ子は「玉子焼き」と呼ぶマシュマロのごとき食感を生む溶き玉子が主体で、小麦からタンパク分を除いたデンプン主体のじん粉+小麦粉の三位一体からなる茹でダコを忍ばせたお出汁が利いた生地は、ふわ~っと軽い食感。食べ方は、アツアツトロトロをそのまま、冷たいつけ汁と共に、甘辛2種類のソースで、そしてソースをトッピングしてつけ汁で。七味・一味でもアレンジ自在な変化を楽しむうちに女性でもペロリと平らげてしまうはず

 明石港から淡路島の岩屋港を13分で結ぶ高速船を運行する会社は「淡路ジェノバライン」。わが郷里ピエモンテ州ランゲ丘陵を越えたリグーリアの港町Genovaジェノヴァへの優雅な地中海クルーズを連想させるネーミングではありませんか。

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 折しも今回の最終目的地、トラットリア・ピッツェリア「CiRO チーロ」にほど近い船着き場には、2年前に就航したばかりの高速双胴船「まりん・あわじ」が停泊中でした。そのあまりにベタなペイントが施された船体を一目見て、淡い期待は脆くも崩れ去ったのでした上画像

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 ジェノヴァ・ナポリなどイタリア本土とサルデーニャ島やコルシカ島などを結ぶ連絡船を運航するMoby社はトゥイティーやバッグス・バニーなどのキャラクターを船体にあしらったクルーズ船上画像を就航させています。

 ゆえに船体に明石ダコが躍り、鯛が跳ねる我らがまりん・あわじとて、船ゆえに海には浮かびますが、地中海で周囲から浮くことはないかもしれません。

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Akashi-uontana.jpg【photo】全長350mのアーケードに鮮魚店や飲食店を中心に100店が軒を連ねる商店街「魚の棚(うぉんたな)」。JR神戸線と山陽電鉄の明石駅南口の複合ビル「パピオスあかし」を経由し、国道2号線を跨ぐデッキ沿いに歩いてすぐ。丸ごと唐揚げが美味な川津エビ(サルエビ)は活きが良すぎて店先でピョンピョン飛び跳ねるなど、その日水揚げされたピチピチの地魚が昼過ぎには店頭に並ぶ。威勢の良い掛け声が飛び交う上を見上げると、アーケードの照明までが8本足のタコだった

 西宮から芦屋・神戸周辺の阪神地域で、春先に盛んに作られるのが「釘煮」です下画像ロケ地:魚の棚商店街。庄イタが暮らす夙川(しゅくがわ)近辺でも、醤油・ザラメ砂糖・みりん・ショウガなど家ごとのレシピで味付けする美味しそうなシンコを炊く甘辛い香りがご近所から漂ってくることが幾度かありました。

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 ところが、この春も材料となるイカナゴの稚魚シンコは3年続きの極端な不漁に見舞われたのです。地域によってコウナゴ、メロウドなどの別名で呼ばれるイカナゴに限らず、高度成長期に悪化した瀬戸内海の水質改善が進んだ近年、水揚げ高日本一を誇ってきたマダコなど特産の水産資源の枯渇が瀬戸内海で顕在化しています。

 3月に訪れた魚の棚でもイカナゴが1キロ2,800円の高値を付けていました下画像。それでも季節の味である釘煮に欠かせない春告魚を買い求める人々の姿が見られたのでした。

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 大量の魚介類を酸欠で死滅させる赤潮の原因となる工場排水や生活排水の排出基準が厳格化された結果、海水中の植物プランクトンや海藻の養分となる珪素・窒素・リンなどが減少。そのため動物プランクトンや小魚までが減っているというのです。

 こうした〝水清ければ魚棲まず〟状況を打開すべく、兵庫県は全国で初の窒素濃度0.2mg以上という下限値をこのほど設定しました。地元の味に欠かせない漁業資源の回復が待たれるところです。

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 話変わって今年1月、泉房穂明石市長が2年前に部下に発した暴言が露見し辞任したのは記憶に新しいところ。立候補した出直し選で信任されるという一連の紆余曲折が世間の耳目を集めました。

R2-Akashi-moyashitemae.jpg【photo】市長の引責辞任に発展、出直し選挙での再信任で決着を見た騒動の原因となった国道2号線の明石駅前交差点。当初計画に遅れること3年。最後まで残っていた角地の用地買収が進み、2019年度末には拡幅工事が完了予定(撮影:2019年3月中旬)

 イタリアでは口汚く相手を罵倒することを〝Parolaccia パロラッチャ〟と言います。本来の意味を離れて下卑た意味を持つ単語も豊富にあります。怒りが爆発する沸点が低いであろう明石市長は職務怠慢だと糾弾する部下に向けて「火つけてこい」「自分の家売れ」とパロラッチャを連発。

 吹き荒れる逆風の中、市長が辞職に追い込まれた時点では新たな風が吹くかと思われた出直し市長選。結果は皆さまご存知の通り〝大山鳴動して鼠一匹〟の結果に。

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 この選挙結果から垣間見えてきたのは、明石市政に関わるステークホルダーの以下のような構図です。

(役所や公共機関の無気力で横柄な対応に都度腹を立てない精神的タフネスを否応なく養成されるイタリア人とて、あまりの理不尽さに怒りを爆発させた時のように)感情の制御が利かない市長、そして(用地買収交渉が思うに任せず、市長の叱責を受けた担当部局の中間管理職は、仕事が捗らない自らの非を認めている点だけは異なるも)イタリアの公務員のような市職員、さらには(暴言が〝市民のため〟という熱い思いの表れだったにせよ、ハラスメント意識が高まった今どきの社会一般の常識からすれば、適性に難ありといわざるを得ない市長を大差で再び信任する)大きな度量を持つ有権者。

 清濁併せ呑み、多少のアラや細かいことは気にしない明石市民は心が広く、そして恐らく筋金入りのラテン気質のようです。

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 熱が去り、もはや冷めたピッツァのような前置きはこのくらいにして、話はいよいよ核心へ。

 ラテンな街・明石には「Pizzeria Beatrice ピッツェリア・ベアトリーチェ」ほか本格ナポリピッツァを提供する店が複数あります。そこでまず目指すべきは、赤穂さくらぐみOGのピッツアイヨーラ小谷紀三子さん、同OBで料理担当のご主人、聡一郎さんがおいでの「Trattoria Pizzeria CiRO トラットリア・ピッツエリア・チーロ」。

 関西のナポリピッツァ好きならば、その名を知らぬ人のない店と言ってよいでしょう。

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 正確を期するため、遠隔地でない限り「Viaggio al Mondo~あるもん探しの旅」では1度だけの訪店で飲食店を取り上げるのをタブーとしています。

 今回のCiroに関しても、世評の高さの理由を初訪店にして確認できた昨年秋、そして3月10日(日)に大阪ミナミで行われた関西宮城県人会の東日本大震災復興支援街頭募金の取材で出番となった代休で、出直し明石市長選挙の投票日直前で、駅前で対立候補が街頭演説に立っていた3月14日(木)の2度、店に伺った上でのレポートとなります。

 店先に並ぶ美味しそうな誘惑を振り払いつつ、魚の棚商店街を東端まで移動し右へ。騒動の原因となった明石駅前交差点からまっすぐ延びる明石銀座通りを進みます。

porto-akashi-Ciro.jpg【photo】明石港に面した茶色のビルの1階がCiRO。魚の棚で鮮魚店「林屋」を営む漁師の家に生まれ、大洋漁業(現マルハニチロ)の前身となった林兼商店を下関で創業した中部 幾次郎(1866-1946)が漁船団の母港としたのが明石港に隣接する林崎漁港。明石は大消費地の大阪・神戸に近く、急峻で複雑な海底地形と狭隘な海峡部で発生する変化に富む潮流があいまって、好漁場としての条件に恵まれている。9~12月に旬を迎えるモミジ鯛と呼ばれ珍重される真鯛や脂が乗った落ちハモ、ガシラ(アカメバル・カサゴ)、大型のアナゴを指すデンスケなど年間を通じた水揚げは100種類に及ぶ

 旧浜国道の交差点を渡ると、数多くの漁船が停泊する明石港のエリアとなります。錦江橋の手前を右に折れた先、魚の棚から歩いて5分ほどの場所にCiROはありました。

 そこは材木町にある行列の絶えない明石焼の名店「ふなまち」からも500mほどと至近。出汁の旨味が利いたフワトロの玉子焼きをアンティパストに、香ばしいナポリピッツァ+海鮮イタリアンなーんていうオツなダブルヘッダーを組むことも理論上は可能です。3Lサイズの強靭な胃袋を持つ方は挑戦されてみてはいかがでしょう^^。

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 店のすぐ目と鼻の先には水揚した魚をセリにかける明石市公設地方卸売市場の水産物分場があり上画像、更にその先が淡路ジェノバラインの発着場という港町の面影が色濃い一角です。

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 席の予約は2週間前の朝9時30分から電話のみで受け付けるため、電話が繋がらないことがしばしば。紛れもない人気店である点は小谷さんの古巣さくらぐみと同様です。

 予約開始時刻に電話が集中するため話中が多く、運よく電話が繋がっても週末はすでに満席だったりで、訪店を諦めること数度。

 意志あるところに道は開け、ヴィーノ・ビアンコと共に心ゆくまで海の幸とナポリピッツァを味わった顛末は機会を改めて。

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投稿者 vam : 05:25 | カテゴリー : Cuccina Italiana/| カテゴリー : ・Fuori Tohoku 圏外遠征

2019/05/24

局地風に関する一考察

Strada per CiRO a Akashi チーロ @ 明石への道


 局地風(きょくちふう。地方風とも)と称される風をご存知でしょうか。

 地球の地軸は23.4度傾いているため日射量は緯度ごと季節ごとに変化します。地球規模で常に循環する大気は、地球の自転により、恒常的に一定方向に吹く偏西風や貿易風となります。

 一方、地形的な要因や昼夜の寒暖差などの要因により、狭い地域で発生する風が局地風。

 イタリアからアルプス山脈を越えてスイス・フランス・ドイツ・オーストリアに向けて吹く南風は「フェーン(Foehn またはFöhn)」。山越えの風が高温をもたらすフェーン現象の語源となった局地風です。

piazza-S-pietro-VENTI.jpg【photo】暴徒化したスペイン王カール5世の軍勢によるローマ劫掠(1527)で破壊の限りを尽くされたローマ。これにより盛期ルネサンスが終焉を迎え、バロックの都へとローマが大きな変貌を遂げた記念碑ともいえるサンピエトロ寺院の内装も手掛けた天才ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(1598-1680)が1656年から20年以上を要して二重の円柱で囲まれた楕円形に改築したサン・ピエトロ広場。石畳には方角別に呼び名が異なる風の石板が埋め込まれている

 その他、北米大陸に猛吹雪をもたらす「ブリザード(Blizzard)」、アフリカ大陸から地中海を越えてイタリア半島に吹く熱風「シロッコ(Scirocco)」などがよく知られるところです。

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 日本に目を転ずれば「六甲おろし」は、おもに西高東低の気圧配置のもとで六甲山系を越えて神戸・芦屋・西宮地域にかけての表六甲地域に吹き降ろしてくる寒風が語源。おろしには「颪」という「下」と「風」を上下に組み合わせた字をあてています。風の性格がよく分かりますね。

 特A地区の三木市加東市など六甲山系の西側にあたる北播磨ほか兵庫県内で全国の8割を産出する酒造好適米が「山田錦」。西宮神社と目と鼻の先に湧出する良質な「宮水」と出合い銘酒が生まれます。

 神戸市東灘区から西宮にかけての灘五郷(なだごごう)地域は、寒造りの時季に吹く乾燥した六甲おろしの恩恵で酒造りに適した条件を備えています。

Dasai_Kato-shi.jpg【photo】1936年(昭和11)兵庫県明石市の県立農事試験場で誕生した酒造好適米「山田錦」。特に品質が良い特A地区の圃場が広がる三木市から加東市にかけての保湿力の高い粘土土壌の圃場には、明治以来の「村米制度」と呼ばれる大関・菊正宗など酒造メーカーとの契約栽培田を示すのぼり旗が林立する

 江戸時代の日本酒は、夏の暑さを挟んで秋風が吹き始める頃には味が落ちたそうです。ところが、水車で精米歩合を高める技法を編み出し、雑菌の繁殖を抑制する乾燥した六甲おろしのもと、宮水で仕込まれた灘酒は例外でした。

 花崗岩土壌で磨かれる六甲山系の伏流水は、神戸に寄港する外国航路の船員たちから赤道を通過しても水が腐らないため重宝されたそうです。西宮湊から海路江戸へと運ばれた灘の酒は評判を呼び、灘五郷地域に繁栄をもたらす一因となりました。

 よって、六甲おろしは地域に恩恵をもたらす局地風であると言えます。最も端的にそれを示すのは、ライトスタンドからレフト方向に吹く浜風が局地風となる甲子園球場でド派手な格好の猛虎ファンで盛り上がる阪神タイガースの応援歌としてかもしれません(笑)。

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 六甲おろしの他に地理的条件が要因となる局地風として庄イタ的になじみ深いのは冒頭に挙げた「シロッコ」と「清川だし」。

 シロッコは、春先と秋にアフリカ大陸からサハラの砂塵とともに地中海を越えてイタリア半島に吹き寄せる湿った南東風。風速40kmにも達する強風となることもあり、海が時化(しけ)るため、船の欠航が出たり、街路樹がなぎ倒されることも。

 シチリアやブーツのつま先からかかとに当たる南イタリア地域を中心に視界不良を引き起こし、アドリア海の海面上昇はヴェネツィアの異常潮位「Acqua altaアックアアルタ」下画像の原因となります。

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 かたや清川だしは、日本海に面した山形県庄内平野と四方を山に囲まれた新庄盆地とに生じる温度差により発生します。岡山県北東部の那岐山麓の「広戸風」、愛媛県四国中央市一帯に四国山地から吹く「やまじ風」と並ぶ〝日本三大悪風〟に数えられます。

 春から秋にかけての雪解けの季節、月山が水源となる立谷沢川と新庄盆地から最上峡を抜けてくる最上川が合流するのが庄内町清川地区。その下流部の狩川地区に向けて吹き抜けてくる冷風は風速20mにも達します。

Wind_Farm_Tachikawa.jpg【photo】清川だしを逆手にとり、風力発電の可能性に着目したのは平成の大合併前。旧余目町と合併して庄内町となった旧立川町は、1991年(平成3)、日本国内の自治体としてはいち早く米国製の100kw大型発電機3基を導入した

 そんな冷害の常襲地帯が深刻な凶作に見舞われた1893年(明治26)9月末、雪解け水を引く取水口近くに植えられる耐冷性がある冷立稲「惣兵衛早生」さえ青立ちする中、3本だけ稲穂を垂れた稲をもらい受けた阿部亀治が4年を要して育種したコメが「亀ノ尾」。

 耐冷性と食味を兼ね備えた亀ノ尾は戦前のコメ作りを支えた基幹品種となります。後世に誕生したコシヒカリ・つや姫・ササニシキなど数々の銘柄米のルーツとなった偉大な品種は、清川だしが吹きすさぶ過酷な環境のもとで誕生したのです。《2008.2拙稿「『亀の尾』の故郷の酒」参照》

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【photo】熊谷神社境内にある「亀之尾発祥乃地」記念碑(庄内町肝煎丑ノ沢)。徳川3代将軍家光の没後、由井正雪が首謀した討幕未遂事件「慶安の変」に参画した熊谷三郎兵衛を祀る。熊谷神社に参詣した阿部亀治が「亀ノ尾」を創出する契機となった3本の稲を発見した由来を記す

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 清川だしにせよ、シロッコにせよ、厄介者の局地風に違いありません。そしてさらに厄介な局地風がアメリカで吹き荒れています。それは世界を混乱の渦に巻き込んでいるトランプ旋風。

 大統領選挙中から支持基盤の保守層受けする極端な自国第一主義を標榜。2020年以降の気候変動対策を定めたパリ協定からの離脱を宣言し、地域経済が停滞する「Rust Beltラストベルト」(「錆びついた地域」の意)と呼ばれる五大湖周辺地域の衰退した製造業や石炭産業の復活を目論み、地球温暖化対策などどこ吹く風です。

 第二次世界大戦後、経済力と軍事力で世界の覇権を握ったアメリカは、台頭する二番手を「モグラたたき」よろしく叩き潰してきました。The nail that sticks up gets hammered down.(☞ 出る杭は打たれる。)

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【photo】1975年(昭和50)、日本のゲームセンターで産声を上げた「モグラ退治」は家庭用ゲーム機にも転用。モグラは国境を越えて海外にも進出。コチラは米国版「Whac-A-Mole」。映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の主役、マイケル・J・フォックス演じる青年ジョージ・マクフライを恫喝する自己中心的で攻撃的な性格の敵役ビフ・タネンのモデルとされるトランプ大統領なら、モグラを習近平首相の人形に入れ替えるに違いない

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 米国のエズラ・ヴォーゲル博士が1979年に発表した著作「Japan as Number One: Lessons for America(邦題:ジャパン・アズ・ナンバーワン)」は、太平洋戦争後の焦土から復興し、奇跡といわれた日本の高度経済成長の要因を緻密に分析しています。

 それから10年を経た1989年9月、ソニーがコロンビア・ピクチャーズを買収。翌10月には米国の富を象徴するマンハッタン5thアヴェニューの複合商業施設「ロックフェラー・センター」を三菱地所が買収します。このことが鉄鋼・半導体・自動車など1970年代からくすぶり続けた日米貿易摩擦で積もり積もった米国民の怒りの炎に油を注ぐ結果を招きます

 マネーゲームに浮かれて虎の尾を踏んだ格好になった日本は、不動産バブル崩壊によって急失速。1985年9月のプラザ合意による円高誘導を転機とする〝失われた30年〟と言われる平成の時代、デフレと実質所得の下落に見舞われた日本経済は長期低迷の隘路から抜け出せずにいます。

【Movie】国ごとの製品やサービスの生産総計額を指す国内総生産(GDP)。今後2100年までのGDP上位10か国の推定額をグラフ化。米国は2028年に首位の座を中国に明け渡し、少子高齢化が進む日本は2030年にインドに追い抜かれて第4位に後退。2059年に米国はインドに2位の座をも明け渡す。2072年以降は中国・インド・日本・インドネシア・フィリピンといったアジア諸国が世界経済をリードする

 2028年にはGDPが世界No.1に躍り出る可能性が中国への警戒を露わにする米国の対中貿易戦争は大国同士の覇権争いへと発展。両国のつばぜり合いは長期に及ぶことは避けられません。

 ウイグル民族に対する非人道的な抑圧政策に象徴される共産党一党独裁の習近平体制とメキシコ国境に壁を作り移民排斥を掲げるトランプ政権は、ある意味で表裏一体。互いに一歩も譲らぬ姿勢を見せており衝突は不可避です。

【Movie】冷戦構造下の1984年当時、軍拡競争に明け暮れ覇権を争ったアメリカ・レーガン大統領と(ドナルド・トランプ氏に似ている)ソ連のチェルネンコ書記長に扮した両者が取っ組み合いを繰り広げるMVが話題となった英国出身のバンドFrankie Goes to Hollywood 2枚目のシングル「Two Tribes」。〝When two tribes go to war, A point is all you can score.二つの民族が戦争を始めた時、得るものは多くない(中略)Giving you back the good times.良かった時代に戻してやろう〟。トランプ氏が演説で好んで使うMake America Great Again.(アメリカを再び偉大な国にしよう)とこの曲の一節とが妙に符合する

 トランプ旋風はアメリカ国内の局地風に留まらず、地球的スケールで乱気流を巻き起こしています。そのあおりを受け、日本の中国向け輸出に逆風が吹き景況感が急減速。

 景気がマイナス局面に入ったと内閣府が判断した3月の景気動向指数とは違い、輸出減による数字のマジックで今年1~3月期のGDPは0.5%のプラス成長。エッ、ホント~?

 株価は上がれど、諸物価の上昇に賃金が到底追いつかず、内需は冷え込む一方。選挙対策でぶち上げたアベノミクスによる景気回復を庶民は実感できないままです。

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【photo】風を受けて凧あげに興じる子ども。凧に書いてあるのは、米、砂糖、雑穀、酒、紙類、乾物、綿、太物など。そして酒樽や鰻の絵。世直し一揆や打ちこわしが各地で頻発し、政情不安に揺れた幕末期。その背景となった諸物価の値上がりを風刺する錦絵。アベノミクスの経済効果をアピールする政府発表とは裏腹に、実質所得が伸びない一方で値上げラッシュで国内消費が冷え込む現状と重なる。歌川芳虎「子供遊凧あげくらべ」1865年(慶応元年)

 巨額の対中貿易赤字を抱える米国主導のもとで実行された深圳に本拠を置く通信機器大手「ファーウェイ」製品の禁輸措置の発動が波紋を広げています。

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【photo】トランプ流の強権発動で新機種が発売延期に追い込まれたファーウェイ製スマートフォン。現行機種のファーウェイユーザーにオススメしたいスマホケース

 中国政府も認識しているように、これは長期戦となるであろう米中貿易戦争の序章に過ぎないでしょう。

 4年ごとの大統領選で選出される政権運営への有権者の評価を意味する今年11月の中間選挙。2期目を目指すトランプ大統領は、協調による世界秩序の維持には全く関心がないようです。

 その予測困難な言動により、先の読めない世界情勢は混迷の度を深めています。

 そんな中、令和初の国賓としてトランプ大統領が5月25日(土)から日本を訪問します。EU諸国など同盟国にあってすらトランプ政権とは一定の距離を置く首脳が多い中、蜜月ぶりをアピールしてきた安倍首相。これまでの強硬姿勢では進展を見なかった拉致問題の打開を含めて成果が期待されるところです。

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〝令和おじさん〟こと菅義偉官房長官は、20日、野党から内閣不信任案が提出されれば、衆議院を解散する大義となり、衆参同日選挙に打って出る構えを表明しました。

 野党の対立候補一本化態勢が整わない現状を受け、にわかに政権与党から強まってきたのが永田町周辺の局地風といえる「解散風」。秋に消費増税が予定される中、記録的な猛暑となった昨年に続いてこの夏は熱い政治の季節となるかもしれません。

 局地風がテーマだったはずが、気流の乱れが生じて話が二転三転しました。

 ガラリと風向きを変える次回は、局所的にナポリの風が吹く兵庫県明石市のトラットリア・ピッツェリア「CiRO チーロ」について語ります。 

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投稿者 vam : 06:02 | カテゴリー : ITALIA/| カテゴリー : ・Fuori Tohoku 圏外遠征

2019/05/03

世界 料理人気ランキング、栄えあるNo.1は?

Campione del Mondo, Cucina Italiana !


 英国の大手市場調査会社「YouGov ユーガブ」では、このほど世界24の国と地域の料理についての人気ランキングを発表しました。

【参考】https://yougov.co.uk/topics/food/articles-reports/2019/03/12/italian-cuisine-worlds-most-popular (英文)

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 ネットを活用したオンライン調査で多岐に渡る世論調査を頻繁に実施しているYouGovは、2000年の創業ながら、選挙における世論調査信頼性の高さで確固たる地位を確立。英語の日刊紙では世界最大の発行部数を有する「The Sun サン」と提携しています。

 先刻ご存知の通り、フィッシュ&チップス下画像やローストビーフに代表される伝統的なイギリス料理は、(常食している英国人を除き)評判が芳しくありません。

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 庄イタは某国大統領のような自国第一主義者でもなければ、ましてや人種差別主義者ではありません。ただし、経験則上、味覚音痴が疑われるアングロサクソンが対象の調査であれば、その信憑性に疑問符をつけたいところ。

 その点、当調査の抽出サンプル2万5千人は英国内のみならず、インターネットで結ばれた世界24の国と地域に及んでいます。ここは信頼に値する結果が得られたと考えて差し支えないでしょう。

 以下、興味深い結果が得られた調査内容をご紹介します。

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 今回、調査対象となったのは、イギリス・フィンランド・ノルウェー・スウェーデン・デンマーク・ドイツ・フランス・スペイン・イタリア・アラブ首長国連邦・サウジアラビア・インド・ベトナム・タイ・シンガポール・マレーシア・フィリピン・インドネシア・香港・台湾・中国・日本・オーストラリア・アメリカ合衆国。

 質問項目は
  ①自国の料理が好きか?
  ②好きな外国料理は?

 質問②の選択肢として挙げられたのが、調査対象である24の国と地域の料理にメキシコ・トルコ・韓国・ギリシャ・モロッコ・レバノン・カリブ・ブラジル・アルゼンチン・ペルーを加えた34の国と地域の料理。

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 まず①に対する回答を見ると、自国の料理を好きだと回答した割合が99%と最も高かったのが、わが祖国イタリア。郷土愛を意味するカンパリニズモの国・イタリアの面目躍如といった数字です。

Ribollita@osteria-antica-mescita-san-niccolo.jpg【photo】トスカーナの代表的な家庭料理「Ribollita リッボリータ」。ありあわせの野菜と豆を野菜の滋味が溶け込んだスープでくたくたに煮込み、硬くなったパンを浸して食べる。軽佻浮薄なインスタ映えなどとは無縁ながら、ほっぺが落ちそうなほど美味しい。観光客でごった返すフィレンツェ中心部を避けてアルノ川南岸へ。オルトラノ地区の隠れ家的なオステリア「Antica Mescita San Niccolò アンティカ・メッシタ・サン・ニッコロ」にて

〝イタリア各地に郷土料理はあれど、一括りに包含できるイタリア料理は存在しない〟というのが通説。これは北部・中部・南部・島しょ部ごとに地域性豊かな郷土料理が存在し、郷土の味が一番と考える傾向が顕著ということ。庄イタもその通りだと感じており、回答したイタリア人それぞれの地元料理といった方がより正確でしょう。

 2位の98%がタイとスペイン。インドネシア・マレーシア・フィリピンの東南アジア諸国が97%で同率3位。以下、96%:フランス・ベトナム・台湾・シンガポール、95%:中国、94%:日本・フィンランドと続きます。

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 逆に自国の料理に対する支持が最も低かったのが、81%のノルウェー。隣国のスウェーデンが92%、フィンランドは94%と健闘していますが、畜産が盛んなデンマークも85%に留まります。

 灰汁で戻してソテーなどで食する干ダラ下画像、トナカイなど地元食材が限られる寒冷な北欧2か国の低迷ぶりが目につきます。

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 次いで低いのが84%のアラブ首長国連邦。国際都市ドバイには世界中の料理が軒を連ねます。自国民は伝統料理には目もくれず潤沢なオイルマネーに物を言わせ、世界各国で美食の限りを尽くしているからなのでしょうか。ちなみにUAEで最も人気が高い料理は87%の支持を得たイタリア料理です。

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 自国の料理の支持率が9割を切ったのが、多彩なハム・ソーセージ類はまだしも、骨付き豚スネ肉の煮込みアイスバインと付け合わせにジャガイモ・酢漬けキャベツのザワークラウト上画像・レバークヌーデルスープ下画像など、洗練されたイメージとは程遠い料理が思い浮かぶドイツの85%、そして入植したイギリスの食文化の影響が色濃いオーストラリアの89%。

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 かろうじて9割を超える91%の自国民から支持されたのがイギリス。人口10万人当たりのマクドナルド店舗数が4.38と世界一のアメリカ合衆国も同率で並びます。高所得層でさえ半数以上のアメリカ人は週1回以上ファストフード店を利用しているのだといいます。(☜ 日本とて同店の店舗数は世界5位の2.9。他国のことを笑ってはいられない)

 EU諸国では関税の撤廃と物流網の発達により、統合以前と比べて遥かに食材のバリエーションは増えています。EUからの離脱に揺れるイギリスも恩恵に浴し、以前よりは料理が美味しくなったという声もチラホラ。

 誤解が無きよう申し添えますが、自国民の支持率が低かった国の料理を中傷する意図は全くありません。いのちを育む食べ物の価値に貴賤はありません。

 時間に追われ、空腹をただ満たすだけでは、あまりに人生は味気ないと考える庄イタ。少なくとも料理には魅力を感じない国々が下位に甘んじた事実をまずは確認しておきます。

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marinara-pizza-d'oro.jpg【photo】関西に居を移して2年あまり。梅田・西天満・天神橋筋・新町などで十指に余る食べ歩きした大阪市内で初めて納得できるナポリピッツァと出合ったのが、北区中崎町「Pizza d'Oro ピッツァ・ドーロ」のマリナーラ

 次に②好きな外国料理に関する結果をご紹介しましょう。

 集計に当たっては、調査対象となった国別の支持率をもとに平均値を求めたランキングになっています。

 平均84%の支持を獲得して第1位に選ばれたのもイタリア料理。①自国内の支持率ともども、②でも堂々の1位に輝いています。

 極東の国ジパングでガラパゴス的な突然変異で編み出されたケチャップ味の炒めスパゲッティ「ナポリタン」、某イタリアンレストランチェーンの看板メニュー「ミラノ風ドリア」、渋谷「壁の穴」で誕生したという「たらこスパゲッティ」をイタリア料理に含むかは微妙なところ(笑)。

 バブル期にイタ飯ブームを経た日本のイタリア料理は、ポピュラーなシチリア・ナポリ・トスカーナのみならず、ピエモンテ・ジェノヴァ・マルケ・プーリア、さらにはトスカーナ州最南部マレンマ地方など、地域的な細分化と深化を続けています。

napolitan-people-sendai.jpg【photo】令和の時代になっても紙ナプキンで先端を包んだフォークで頂く油で炒めたアルデンテではない昭和レトロな由緒正しいナポリタンを提供する仙台市若林区荒町の喫茶店「ぴーぷる」。喫煙に寛容なオーナーは平成の世に施行された健康増進法などどこ吹く風。時として隣席の副流煙の直撃に耐えなくてはならないのも昭和流。そんな時はスパゲッティを昭和流に「ズズズ...ッ」と大きな音を立ててすすって隣客に逆襲してはいかがだろう

 第2位が平均78%の中華料理。3位には同71%の日本料理が食い込みました。平均70%の同率4位がフランス料理とタイ料理、同68%の同率5位がスペイン料理とアメリカ料理と続きます。

 イタリアが他のG7加盟国の懸念をよそに先陣を切って覚書に署名した「一帯一路構想」を掲げ、全世界最多の人口14億人を擁する中国の影響力は世界を席巻。海外を旅していて中華料理店を目にしないことはありません。

 laCucinaItaliana-UEKI.jpg【photo】心斎橋の喧騒を離れ、シチリアの空気を吸いたくなったらここへ。当分の間ランチのみ営業する「la cucina italiana UEKI ラ・クチーナ・イタリアーナ・ウエキ」。丁寧な仕事ぶりが伝わるある日の「PRANZO B」(税込2,200円)より。アンティパスト、春キャベツのポタージュ、シチリア風レモンとピスタチオのリゾット、ナスを和えたトマトソースにリコッタチーズを削ったスパゲッティ・アッラ・ノルマ。その名はシチリア東部の街カターニャ出身の作曲家ベッリーニのオペラNormaに由来。+600円で人気のシチリア菓子「カンノーロ」とカッフェがセットに

 妥当な結果と言ってよいであろう1位・2位はともかく、3位に日本料理が入ったことは意外な結果でした。西欧や中華圏と比較して油脂やソース類を使う料理が少ない日本料理は、外国人には淡泊な印象を持たれることが多いからです。

 それでも2015年にミラノで食をテーマに開催されたミラノ万博では、日本食を紹介する日本館の入口に最長9時間待ちの長蛇の列が出来ました。そこに整然と並ぶイタリア人の姿に驚かされたものです。秩序立った行動や忍耐強さとは無縁の国民性だとばかり思っていたものですから(笑)。

 日本国外で増殖中の日本料理店は、日本人以外が経営するケースが少なからず存在し、実態が無国籍料理と化している場合も少なからずある点は目をつぶるとして、いまや Sushi, Tempuraは世界に名を馳せ、昆布や鰹のUmamiは西洋料理のグランシェフのイマジネーションを掻き立て、醤油・味噌は世界のグルマンを魅了する有名レストランの厨房で珍しいものではなくなりました。

 時代は変わっているのですね。

 cucina-mondo.jpg 

 今回の調査によれば、日本人が好きだと回答した外国料理は、中華料理(88%)とイタリア料理(85%)が両雄。次点はポイントをずっと落としてフランス料理(68%)、韓国料理と台湾料理(66%)という結果に。

kobemotomachi-bekkanBotanen-2018.2.6.jpg【photo】かまびすしい呼び込みには耳を貸さず、神戸・南京街の表玄関・長安門からメリケンロード(鯉川筋)を少し山側へ。元町北通の一角で1952年(昭和27)に広東省出身の王熾炳さんが創業。作家陳舜臣はじめ神戸っ子に愛されてきた「別館牡丹園」。現在は2代目王泰康さんが本場の味を受け継ぐ。豆苗の炒め「炒豆苗」・冬季限定の伊勢産カキ広東風お好み焼き「煎生蠔」・海老の卵炒め「滑旦蝦仁」・特製海老の天ぷら「炸大蝦」など一品料理のほか、本格コース料理も

 東京や関西圏には今回の調査対象となった国々の料理店が出揃いますが、日本人は欧州やアジア圏の国々と比べて外国料理の許容範囲が狭いことが読み解けます。

 欧州的な視点からの覇権国家としての影響力が主たる選定の基準であったろう世界三大料理(☞ 大英帝国は資格充分ながら、前述の理由でイギリス料理は落選)。 

 言わずもがなの3国とは、東アジアから黒海を越え、東欧諸国まで及んだ広大な領地に飽き足らず二度にわたる元寇で日本にも食指を伸ばした元朝時代の歴史を繰り返すのか、経済協力を餌にアフリカ諸国に支配力を強め、東南アジアでは海洋進出を目論む中国。次にフィレンツェからアンリ2世に政略結婚で嫁いだカテリーナ・デ・メディチが食文化を洗練させたブルボン王朝や、遠くロシアまで欧州一円に版図拡大を目論んだナポレオン・ボナパルト時代の恩恵に浴するフランス。そしてその一角に名を連ねるのが強大なオスマン帝国の歴史に彩られたトルコです。

the-complete-book-terkish-cooking.jpg【photo】1453年に東ローマ帝国が滅亡した後も、シルクロードの要衝であったコンスタンティノープルには西洋と東洋の食文化が出合い、権勢を誇った歴代スルタンの食卓を飾った宮廷料理が編み出された。その流れをくむ150のトルコ料理を豊富な画像と共に紹介する「The Complete Book of Turkish Cooking」Ghillie Basan著(2013刊)

 大英帝国の礎を築いた女王エリザベス1世統治時代のオスマン帝国の都コンスタンティノープルに交易のため着任した英国大使は、スルタンが催した晩餐会で100種類の宮廷料理で歓待されたといいます。オスマン帝国時代に体系化されたトルコ料理が好きと答えた日本人は、調査対象となった24か国中23番目の39%に過ぎません。

 古(いにしえ)より東西の文化が往来したシルクロードの東端にあたる日本は、諸外国の文化を巧みに取り入れてきました。食文化もしかり。明確な根拠はありませんが、日本人は繊細な味覚を持つといわれます。島国なるが故の傾向なのか性急にその理由を求めることはできません。

 何故なら同様の傾向は中国にも見て取れるのです。平均84%の支持を受けたイタリア料理が好きだと答えた中国人は69%。同様に71%の支持を得た日本料理が好きだと答えた中国人は54%に留まります。

 香港や台湾にはこうした傾向は読み取れないので、自国の文化を至上のものと考える中華思想が中国の人々に根強く残っているのでしょうか。う~む。

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 最後に精神構造がイタリア人である庄イタの当該調査に対する回答を述べておきましょう。

  質問①「Si. スィー。☞ Yes.」(自国の料理とはイタリア料理を指す)
  質問②「スペイン料理・フランス料理・インド料理・メキシコ料理」

kasimir-curry.jpg【photo】大阪のカレー愛好者を唸らせる北浜「カシミール」。一人で店を切り盛りする店主が納得ゆくまでは定刻の12時になっても開店しないため、通常の昼休み時間に食事にありつけることはまず不可能。13時前後の場合が多い手書きによる開店見込み時間の貼り紙を信じて並ぶか、即刻または待ち時間の長さにしびれを切らしてその場を立ち去るかは客の熱意次第。
調整可能な辛さは3辛がスタンダードというものの相当手ごわい。これはある日の「マトンカレー(具だくさんな)ミックスA」(1,100円)10辛(+数百円)。その色あいは、血の池地獄さながら。無謀な挑戦は控えよう

 例外はありますが、スペイン料理は南イタリア料理と、フランス料理は北イタリア料理に相通じます。数多くの香辛料が複雑に響き合うインド料理、サルサソースと唐辛子を多用するメキシコ料理については、辛味に対する耐性が常軌を逸している庄イタにとっては好ましい味つけと感じられます。

 この結果を国別の回答内容と照らし合わせると、な・な・なぁ~んと、①自国(99%)に次いで②好きな外国料理でスペイン料理(87%)、メキシコ料理(77%)がトップ3を占め、庄イタが好きな外国料理として挙げたフランス料理(60%)とインド料理(57%)が10位圏内に入っているイタリア人の回答内容に酷似していたという、さもありなんなオチで締めたいと思います。

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投稿者 vam : 02:57 | カテゴリー : Cuccina Italiana

2019/03/17

必見!「Il Gattopardo 山猫 4K修復版」

CGもARもひれ伏す精緻な実写のリアリティ
4Kで蘇った絢爛たる歴史絵巻〈後編〉


 リソルジメント(イタリア統一運動)が大詰めを迎えていた1860年5月。ポー川以北のヴェネトやチロル地域を領地としていたオーストリア帝国支配からの脱却、そして立憲君主制を志向するブルジョア革命のうねりは、スペインブルボン家の流れをくむ王政のもと、貴族支配による封建的な土地所有制が保たれていたシチリアにも及びます。

 ナポレオン支配を脱した後、サルデーニャ王国を盟主とする統一国家「イタリア王国」が1861年3月に成立する直前時点で、イタリア半島は紆余曲折を経て4つの国家に分かれていました。

Risorgimento.gif【Animation】イタリア統一運動が巻き起こった1829年から1871年までの時代変遷。ガリバルディがシチリアに上陸する1860年5月までにサルデーニャ王国(Regno di Sardegna:グレー)、オーストリア帝国(Impero Austoriaco)領ロンバルド=ヴェネト王国(Regno Lombardo-Veneto:レモンイエロー)は、ロンバルディア地域がサルデーニャ王国に編入、ローマ教皇領(Stato Pontificio:パープル)、両シチリア王国(Regno delle Due Sicilie:ベージュ)の4か国に統合されてゆく。その過程でフランス帝国ナポレオン3世とイタリア統一後初代首相となるサルデーニャ王国宰相カミッロ・カヴールとの密約により、オーストリア排除のためフランスが介入する見返りにガリバルディの生まれ故郷ニースやモナコ、サヴォア地域がフランスに割譲。オーストリアとの単独講和を結んだナポレオン3世の裏切りにより、イタリア統一の機運が高まる。1860年に実施された投票でトスカーナ大公国(オリーブ)やパルマ公国(ブラウン)とモデナ公国(ライトブラウン)がサルデーニャ王国に編入されるなど、複雑な経過を経る

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 祖国統一を目指すジュゼッペ・ガリバルディ上画像率いる私設軍「La Spedizione dei Mille(千人隊、ないしは赤シャツ隊)」の兵士約1,000名余は、2隻の船に分乗し、1860年5月シチリア西部のマルサラ付近に上陸。同年初めにパレルモやメッシーナなどで武力蜂起した農民と合流して王党軍と戦闘を繰り広げます。

 ガリバルディは反動的な治政を敷いたフェルディナント2世が実権を握るナポリ・シチリア王国打倒を旗印に掲げます。シチリアがノルマン人の支配下に入る11世紀末を起源とし、13世紀には確立していた封建的な土地制度を支えた農民や市民らの歓迎と加勢を受け、同年7月末までにパレルモから東部メッシーナまでを制圧。

 当初の2.5倍の規模に膨れ上がったガリバルディ軍は、シチリアを開放後、王朝軍が制海権を握るメッシーナ海峡を渡り、イタリア半島のつま先にあたるカラブリアから王国の首都ナポリへと進撃を続けます。

incontro-Garibaldi -Vittorio-Emanuele-II.jpg【photo】1860年10月26日。ピエモンテから南進したヴィットリオ・エマヌエーレ2世とシチリアから北上したガリバルディがナポリ近郊のテアーノで会見。共和派のガリバルディが解放した領土を王党派の領袖たるサルデーニャ国王に献上。戊辰戦争のような内乱を経ることなく統一運動が進展する。ピエトロ・アルディがトスカーナ州の古都シエナ市庁舎に1886年に描いたフレスコ画「テアーノの会見」

 1860年10月、サルデーニャ王国軍を率いてナポリに侵攻したヴィットリーオ・エマヌエーレ2世に対し、ガリバルディは制圧した全ての領地を献上。武力によるブルボン支配からの脱却を推し進めたガリバルディが身を引く形で、サルデーニャ王国主導のもとイタリア統一に向けた動きが加速します。

 映画「Il Gattopardo (邦題:山猫)」の主人公、サリーナ侯ドン・ファブリツィオ・コルベーラは、幾代にもわたって広大な領地を所有、その権益を享受してきた名門貴族ファブリッツィオ家の当主。その家族下画像も、そうした時代の一大変革期の渦に巻き込まれてゆきます。

Il-Gattopardo-salina-famiglia.jpg【photo】映画の冒頭、日課であるロザリオの祈祷を終えたサリーナ公爵家の家族にガリバルディ軍のシチリア上陸の一報が届く。新しい風がシチリアに吹き始めたかのようにレースのカーテンが風に揺らめく演出が心憎い。革命軍上陸に動揺して取り乱すマリア・ステッラ公爵夫人(右から3人目)や家族に対し、名門貴族の長であるサリーナ侯ドン・ファブリツィオ・コルベーラ(左から3人目)は落ち着き払った態度で接する Reporters Associati s.r.l

 映画のおさらいとして、〈前編〉の最後でお願いした通り、右記アーカイブよりDicembre 2015(2015年12月)の拙稿「Principe di Salina サリーナ公爵 ~ 山猫の世界を体感するピュアカシミアコート」をご覧いただいているという前提で話を進めます。

※ダイレクトリンク不可につき、お手数でも下記URLをコピペ頂けますようお願いします。
  http://blog.kahoku.co.jp/shokuweb/vam/2015/12/principe_di_salina.html

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 第二次世界大戦でイタリアが連合国に降伏した後、ナチスドイツの占領下にあったローマで対独レジスタンス活動を繰り広げた市民に降りかかる厄難をドラマチックに描いたロベルト・ロッセリーニ「Roma città aperta(邦題:無防備都市)」(1945)、大戦後の貧困にあえぐ父と息子の悲哀が心を打つヴィットリオ・デ・シーカ「Ladri di Biciclette(邦題:自転車泥棒)」(1948)、粗野な旅芸人ザンパノの助手となったジェルソミーナを身勝手から見捨て、数年後に無垢な彼女の末路を知って嗚咽するラストが胸に迫るフェデリコ・フェリーニ「La strada(邦題:道)」(1954)。

 こうしたイタリア映画の金字塔を打ち立てた作品は、有無を言わせず個人を力で抑圧するファシズムへの反動として、1940年代から1950年代にかけて黄金期を迎えるイタリアン・ネオレアリズモの本流を生み出し、映画や文学に新風を吹き込みます。

 ファシズム後の混乱した社会の不条理と貧困に立ち向かう人々の哀感をありのままに描くネオレアリズモの先駆的作品とされるのが、ミラノの名門貴族の出身であるルキーノ・ヴィスコンティ・ディ・モドローネ(1906-1976)の長編処女作「Ossessione(邦題:郵便配達は二度ベルを鳴らす)」(1943)です。

 イタリア語で妄想や悪夢を意味するOssessioneは、ファシスト一党独裁のベニート・ムッソリーニ政権末期にイタリア国内で公開されています。吹き荒れるファシズムへの反動として巻き起こったレジスタンス活動にヴィスコンティが身を投じた当時の処女作でしたが、上映後わずか数日で上映禁止処分を受けています。

 その理由として〝原作者ジェームズ・M・ケインの許諾を得ることなく映画化されたため〟と紹介されることが日本では少なくありません。しかしながら、この安直な解釈には疑問をさし挟む余地が残ります。

Ossessione.jpg【photo】映画「Ossessione(邦題:郵便配達は二度ベルを鳴らす)」より ©1943 I.C.I. Industrie Cinematografiche Italiane. © 1987 Marzi Vincenzo; © 2004 MARZI Srl. All rights reserved. International Sales VIGGO S.r.l.

 Ossessione の撮影が始まったのは第二次世界大戦の真っただ中の1942年6月。枢軸側のイタリア王国は、英米仏ら連合国と戦争状態にあり、許諾を取ろうにも困難な状況でした。ゆえに許諾を得ることなく映画製作が進んだことは事実です。

 独裁者ベニート・ムッソリーニの次男ヴィットリオは、映画批評誌「Cinema」編集長を務めており、同誌の編集同人だったヴィスコンティを含む下層社会に生きる人々への共感を示す左派ネオレアリズモ運動の旗手を担ってゆく映画人と交友がありました。独裁者の後ろ盾とヴィットリオの後押しを受け、脚本に若干の手直しを入れるだけで検閲をパスしたのは、イタリアが伝統的なコネ社会ゆえでしょう。

 翌1943年5月、ローマやミラノなどで劇場公開されるも、国家ファシスト党からは完成した映画に登場する非都市部の描写が貧相だと横槍が入り、保守的なカトリック教会からは内容が非道徳的だと糾弾され、封切り数日にして上映中止。官憲の手でフィルムは廃棄処分されます。アフリカ戦線からの撤退など戦況の悪化と連合国のイタリア本土上陸が現実味を増した同年7月25日、ムッソリーニは失脚、9月8日にイタリア王国は無条件降伏します。

making-ossessione.jpg【photo】初監督作Ossessione 撮影中の貴重なスナップ。1954年公開のヴィスコンティ作品「Senso(邦題:夏の嵐)」ほか、ベルナルド・ベルトルッチ監督作「Ultimo tango a Parigi(邦題:ラスト・タンゴ・イン・パリ)」(1972)にも出演する足掛かりとなったマッシモ・ジロッティ(1918-2003・中央)と共演のエリオ・マルクッツオ(1917-1945・)に演技指導するルキーノ・ヴィスコンティ()。エリオ・マルクッツオは、対ナチスドイツ破壊工作活動を行ったパルチザン組織「ガリバルディ旅団」に所属。ナチスドイツ降伏後間もない1945年7月、パルチザンに対する徹底した弾圧を行った秘密警察の残党により28歳で処刑された ©Osvaldo Civirani (attr.), 1942. Coll. Museo Nazionale del Cinema

 ナチスドイツによるイタリア占領下において、アルフレード・グイーディという偽名を名乗ってローマでレジスタンス活動中に身柄を拘束されるも、40日後の1944年6月4日、連合軍によるローマ解放の日に救出されます。

 第二次大戦終結後、ヴィスコンティが保管していたネガフィルムをもとに映画を復元、米国で劇場公開しようとするも、大手配給会社MGMは、いかにもハリウッド的なラナ・ターナーを主役に起用した「The Postman Always Rings Twice(邦題:郵便配達は二度ベルを鳴らす)」を制作しており、版権がネックとなってお蔵入りとなったというのが真相のようです。

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 イタリア国外では1976年まで公開できなかった初監督作「Ossessione」の完成後は、舞台演出家としての活動に重きを置きます。さらに1954年12月にはオペラの演出にも進出。ミラノスカラ座の歌劇「ヴェスタの巫女」全3幕公演にデビュー間もないマリア・カラスを起用し成功を収めます。翌年もカラスはヴィスコンティのもとでジュゼッペ・ヴェルディ「椿姫」ヴィオレッタなどの大役にも挑戦、演技に磨きをかけ、20世紀を代表する世界のプリマ・ドンナとして成長してゆくのです。

maria_callas_scala.jpg【photo】スカラ座には1950年にヴェルディ「アイーダ」で初舞台を踏んだマリア・カラス。ヴィスコンティの初演出によるガスパール・スポンティーニ「ヴェスタの巫女」('54)、ヴィンチェンツォ・ベッリーニ「夢遊病の女」('55)、ルイージ・ケルビーニ「メデア」('62)からのアリア集CD「スカラ座のマリア・カラス」(全6曲・42分)・演奏:ミラノスカラ座管弦楽団 ・指揮:トゥリオ・セラフィン  ・レーベル: ワーナーミュージック・ジャパン ℗ 1958 Warner Classics, Warner Music UK. Digital remastering (p) 2014 Warner Classics, Warner Music UK Ltd, A Warner Music Group Company

 選挙キャンペーン用に南部の貧困をドキュメンタリータッチで撮ってほしいというイタリア共産党の依頼を受け、出演者全員が地元の漁民や素人・オールロケによる撮影に着手。当初計画では短編映画の予定が、シチリア滞在は6カ月に及び、党の援助資金が途絶します。

 そのため、1939年に59歳で亡くなった母カルラの形見である宝石類をやむなく売却。165分の大作となった傑作「La Terra Trema - episodio del mare(邦題:揺れる大地-海の挿話」(1948)は、こうして完成します。

terra_trema_visconti.jpg【photo】ルキーノ・ヴィスコンティ監督作品「揺れる大地~海の挿話 デジタル修復版」 (Blu-ray)本体価格:5,800円(税別)販売元: KADOKAWA / 角川書店

 その後の「Bellisima(ベリッシマ)」(1951)、オムニバス映画「Siamo Donne(邦題:われら女性)」第5話「Anna Magnani(アンナ・マニャーニ)」(1953)、「Senso(邦題:夏の嵐)」(1954)、「Le Notti Bianche(邦題:白夜)」(1957)まで続くネオレアリズモ路線の展開と深化の集大成となったのが、「Rocco e i suoi fratelli (邦題:若者のすべて)」(1960)。

 遺作となった「L'innocente(イノセント)」(1976)撮影中の1975年、フランス「Cine Revue」誌による生前最後のインタビューが行われ、同年12月25日号に掲載されました。そこで自分にとって特権的な地位を占める最も好きな作品だと語っているのが、ミラノを舞台とするRocco e i suoi fratelli です。

rocco-suoi-fratelli@Duomo.jpg【photo】「若者のすべて」で、ロッコ(アラン・ドロン)が恋仲になったナディア(アニー・ジラルド)に別れを告げるシーン。ルキーノ・ヴィスコンティの血筋を14世紀末まで遡ったジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティが建造に着手したミラノのドゥオーモ屋上で撮影された

 映画作品としては唯一、ドゥオーモなどミラノの街並みが映し出されるだけでなく、経済発展著しいミラノで働く長兄を頼り、父を亡くして生活が困窮する南部バジリカータ州から移住した母ロザリアと息子たちパロンディ一家の崩壊を通し、南北格差というイタリアが抱える病理も浮き彫りにしたことをその理由として挙げています。

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 前回取り上げた「Ludwig(邦題:ルートヴィヒ)」(1972)など、後半生で追及してゆく「滅び」と向き合う人間の姿を描く転換点となったのが「Il Gattopardo (邦題:山猫)」(1963)。原作は統一前の両シチリア王国で歴代の宰相を務めた家柄の貴族パルマ公の末裔5代目ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ(1896-1957)。曾祖父ジューリオ・ファブリツィオ公爵や祖父4代目ジュゼッペ公爵をモデルとして死の直前に執筆、死の翌年1958年に出版されるや、イタリア国内でベストセラーとなった長編小説です。

 映画と小説の違いはあれど、「Il Gattopardo 山猫」は幼少期から貴族文化の中で育ち、本物だけが持つ輝きを知り尽くした2人だからこそ生み出せた一期一会の作品なのだといえます。

 それゆえ、贅沢の極みといえる山猫のような映画はもう二度と作ることが出来ないといわれてきました。

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 時代の転換点を生きたシチリア貴族の姿を描いた不朽の名作「山猫」が、かつてない精緻な4K 画像で蘇り、1976年にヴィスコンティがこの世を去った3月17日(日)から東京恵比寿の東京都写真美術館を皮切りに、日本における配給元「クレストインターナショナル」の版権が切れる関係で国内では最後となる上映が順次行われることになりました。

 ◎現時点で判明している主な上映スケジュールは以下の通り。
 ・3月17日~ 東京 東京都写真美術館ホール
 ・4月 6日~ 名古屋 名演小劇場
 ・4月19日~ 福島 フォーラム福島
 ・4月20日~ 京都 京都シネマ
 ・4月27日~ 茨城県那珂 あまや座
 ・5月 4日~ 新潟 新潟シネウインド
 ・5月31日~ 大阪 シネリーブル梅田
 ・期日未定  盛岡 フォーラム盛岡

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【photo】サリーナ公爵の日課である家族揃っての夕祷が続く中、使用人たちの騒然とした声が階下から聞こえてくる。広大な庭園の一角で王党軍の若い兵士が息絶えた状態で発見されたのだ。原作では嫌悪感を催す毀損著しい状態で発見された設定になっているが、ヴィスコンティの手にかかったそれはギリシャ彫刻さながら

 かたちあるものは全て滅びる。 ― 生きとし生けるものの命しかり、繁栄を謳歌したカルタゴやローマ帝国しかり。過去の名作映画もフィルムの退色など経年劣化を免れることはできません。

 「Taxi Driver(タクシードライバー)」(1976)、「GoodFellas)(グッドフェローズ)」(1990)、遠藤周作の原作による「Silence(邦題:沈黙-サイレンス)」(2016)などで知られる映画監督のマーティン・スコセッシ氏が1990年に設立した非営利団体「The film foundation ザ・フィルム・ファンデーション」は、過去の名作の保存修復に取り組んでいます。

 その発起人にはウッディ・アレン、フランシスフォード・コッポラ、クリント・イーストウッド、スタンリー・キューブリック、ジョージ・ルーカス、シドニー・ポラック、ロバート・レッドフォード、スティーブン・スピルバーグといった著名な映画人が名を連ねます。

【Movie】 1866年春。オーストリア帝国支配下のヴェネツィア。ジュゼッペ・ヴェルデヴィの歌劇「イル・トロヴァトーレ」を上演中のラ・フェニーチェ歌劇場。流浪の騎士マンリーコが仇敵ルーナ伯爵に母親を捕縛されたと聞き、怒りに燃え配下の兵と共に救出に向かう第3幕から映画は始まる。マンリーコがアリア「Di quella pira(見よ、恐ろしい火を)」を歌い終わると、天井桟敷席から最前列に陣取るオーストリア士官に「外国はヴェネツィアから出て行け、イタリア万歳!」の叫びと共にイタリア三色旗を表す赤白緑の花が投げつけられる。騒然となる劇場内にはオーストリア支配を脱却し独立を訴える3色のビラが舞い上演は中止。長編の監督作としては4作目となる「Senso(邦題:夏の嵐)」は、GUCCIの資金提供を受けたフィルムファンデーションによって修復された

 ◎同団体がこれまでに修復した主な作品は以下の通り。
 ・羅生門(黒沢 明 1950)
 ・夏の嵐(ルキーノ・ヴィスコンティ 1954)
 ・理由なき反抗(ニコラス・レイ 1955)
 ・甘い生活(フェデリコ・フェリーニ 1960)
 ・若者のすべて(ルキーノ・ヴィスコンティ 1960)
 ・ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ(セルジオ・レオーネ 1984)

 2010年、フィルムファンデーションの活動に賛同し、それまで「夏の嵐」や「若者のすべて」などイタリア映画の修復に1,500万ドルを資金援助していたGUCCIによる90万ドルの新たな提供を受け、山猫の修復がフェリーニの「La Dolce Vita(甘い生活)」と並行してなされたのです。

 山猫は、現在パリに本部を置く多国籍企業テクニカラー社が1957年に開発した通常の2倍の解像度を有する「Techinirama テクニラマ」方式で収録されており、マスターフィルムの退色・変色を4K画質で修復。ソニーピクチャーズの修復部門とイタリア・ボローニャのプロフェッショナルの協働作業は12,000時間に及んだといいます。

 映画用35mmフィルムの解像度は、2Kハイビジョンとほぼ同等。4Kはハイビジョンの4倍の情報量ゆえ、映像の鮮明度は格段に向上するわけです。技術革新により臨場感が尋常ではない8Kテレビまで登場した現在、デジタル化の波は映画館にも急速に広がっています。

 (一社)日本映画製作者連盟の統計(2018年12月末)では、日本国内の映画館のスクリーン数3,561のうち、デジタル設備は3,494を数えます。4Kプロジェクターの普及も徐々にではありますが進んでいます。

 フィルム映写機で1秒に24コマ送りの映像を映し出していた「ニューシネマパラダイス」で描かれた時代とは隔世の感があります。映画館からフィルムがほぼ消滅し、デジタルの時代となった今。映写技師アルフレードがトトに遺した贈り物の中身が明かされる感動的なラストシーンは、昔々のお伽話になってゆくのでしょうか。

 予告編を見る限りにおいて、1964年に日本で初公開されたデラックス・カラープリントによる英語国際版、そして1981年公開のテクニカラープリントのイタリア語版の画質は無論のこと、名作「ひまわり」ほか数々のフェリーニ作品、ヴィスコンティ作品では「山猫」や「若者のすべて」で撮影監督を務めたジュゼッペ・ロトゥンノ氏監修のもと1991年からオリジナルネガの捜索と修復が行われ、2004年に日本で公開された庄イタがDVDを所有する「イタリア語・完全復元版」でさえ太刀打ちできない画質の精細さに目をみはります。

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 「山猫」はヴィスコンティ映画では初めて米国の大手配給会社「20th Century Fox」が配給元となり、当時としては破格の製作費200万ドルが用意されました。完全主義者ヴィスコンティは、Techiniramaの長所である四隅まで焦点が定まったクリアな映像が収録できる高性能カメラを使い、スタジオセットでは再現が困難な時代の空気感まで細部にわたって表現しようとします。

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 名門貴族の次代を担う野心家の甥タンクレディ伯爵(アラン・ドロン /上画像右と新興ブルジョア成金ドン・カロージェロの娘アンジェリカ(クラウディア・カルディナーレ /上画像左の婚姻を認めることで、新たな時代を受け入れるサリーナ公爵(バート・ランカスター /上画像中

 「時代が変わっても旧態然としたシチリアは変わらない。」状況を見極める冷徹な目と時代感覚の持ち主であるサリーナ公爵がそう言い放ったように、1861年3月のイタリア王国成立後も映画ではサリーナ公爵家がモデルとなった貴族層が大土地所有者の座に第二次世界大戦の終結まで居残りました。

 原作は1860年5月のガリバルディ上陸から1883年7月の公爵の死を挟み、3年前にタンクレディも世を去った1910年5月、60歳代となったサリーナ公爵家の娘たちとアンジェリカの後日談までが示されます。映画では統一イタリア王国成立後1年半を経た1862年11月に催された舞踏会までが描かれます。

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 コンピュータグラフィクスなどのVFX技術が登場する以前の映画ゆえ、物語の舞台となる1860年には存在しなかった電柱やTVアンテナなどはカメラからフレームアウト。150名の建設スタッフにより屋外広告物や建造物の前には煉瓦積みの壁を作り、植物を植え替え、舗装路のアスファルトを剥がすなどして1860年当時のシチリアを再現しています。

 1961年の秋から1年以上を要した綿密なロケハンを経て撮影は1962年3月中旬から12月末まで行われます。原作者ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサの父祖が暮らしたランペドゥーサ宮は、1943年4月の連合国による爆撃で廃墟化しており、映画に登場するサリーナ侯爵邸はパレルモ近郊の「Villa Boscogrande ヴィッラ・ボスコグランデ」に差し替え、全編の1/3を占める舞踏会が催されるポンテレオーネ公爵邸は「Palazzo Valguarnera-Gangi ヴァルグァルネーラ・ガンジ宮」で収録が行われます。

 映画で使用されたサリーナ公爵邸の家具・什器、晩餐会や舞踏会に用いた燭台や食器類は、多くがランペドゥーサと遠い縁戚関係にあり、小説の版権を有する養子となったジョアキーノ・ランツァ・トマージ公爵とランツァ家の提供によるもの。

cena-il-gattopardo.jpg【Photo】サリーナ公爵家がドンナフガータ村に所有する別荘での晩餐の席に招かれた村長ドン・カロージェロ・セダーラは、不似合いな燕尾服で登場し公爵家の失笑を買うが、同伴した娘アンジェリカが登場するや、誰もがその美貌に目を見張る。タンクレディの下卑た内緒話に隣席のアンジェリカは大声をあげて笑い出し、高笑いが止まらなくなる。タンクレディに思いを寄せる長女コンチェッタは、場にふさわしくない彼女の品を欠く振る舞いに怒って席を立ち、座が白けてしまう

 前述の建築要員ほか、美術・衣裳・照明など総勢500名を超えたスタッフに加え、メインキャスト20名ほか、最大の見どころとなる舞踏会に招待される華やかな衣装に身を包んだ男女240名のうち80名は本物のシチリア貴族が出演しています。空前絶後のスケールとなった山猫のシチリアロケは、50年以上を経た今もパレルモやドンナフガータ村の語り草となっています。

 ヴァルグァルネーラ・ガンジ宮での舞踏会のシーンは、ロウソクの炎が冷房の風で揺らめくのを嫌ったヴィスコンティの意向により、夏の昼間の暑さを避けて夜8時から撮影を開始。翌朝の4時まで続くロケは連日36日に及びました。

【photo】米国の配給元「20th Century Fox」制作による映画「The Leopard(山猫英語版)」予告編。映画ではヴィスコンティの演出により威厳をたたえたシチリア貴族になり切っていたバート・ランカスターがナレーションで登場。ヴィスコンティの手を離れたバート・ランカスターは、どう見ても西部劇の方が似合う印象を受ける

 <前編>で写真をご紹介したミラノの生家で催された舞踏会に招かれた20世紀初頭の貴族女性の衣装を忠実に再現するべく、ヴィスコンティは色柄や風合い、ヘアスタイルなどのディテールに関して事細かに指示を出します。レベルの高い要求に応えるべく、衣裳・ヘアメイクを統括するピエロ・トージ氏は総勢120名体制で舞踏会の収録に臨みました。

 何百本というロウソクに火が灯された屋内の暑さに耐えかねたキャストが撮影の合間にドレスを脱いでしまうため、メイクアップ・衣裳などスタッフが現場を右往左往。そんな熱気渦巻く撮影現場は、灼熱の熱帯夜状態。コルセットで体を締め付けた女性キャストの失神者が相次いだといいます。

 サリーナ公爵とて、原作には記述のない「暑くてたまらん」というセリフを吐いたように、しきりに男性陣も汗をぬぐう姿が収録されています。

 完全主義者ヴィスコンティの一端を示す逸話を最後にご紹介しておきましょう。初のカラー作品「夏の嵐」冒頭フェニーチェ劇場での収録現場には監督が指定した黒ではなくグレーのシルクハットしか用意がありませんでした。機転を利かせたつもりのスタッフが帽子を黒く塗って撮影に臨もうとします。

 その様子を見ていたヴィスコンティは「ぶざまだ」と烈火の如く怒り、撮影が中断することも厭わず、スタッフをヴェネツィアからローマまで黒いシルクハットを買いに走らせたといいます。

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 ミラノの貴族社会で生まれ育ったヴィスコンティだからこそ、実写で再現できた滅びゆくシチリア貴族の栄華。過去にこの作品をご覧になっておいでの方でも、ディテールまで鮮明な4K修復版から新たな発見が得られるはずです。

 臨場感あふれる4K映像なればこそ、観る人は時空を超えてジュゼッペ・ヴェルディのワルツ曲やニーノ・ロータ作曲のマズルカが流れる舞踏会に迷い込んだかのような感覚を抱くやもしれません。

 日本では最後の上映機会となる4K修復版では、ヴィスコンティが細部にまで目を行き届かせた絢爛たる一大歴史絵巻に酔いしれたいものです。

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投稿者 vam : 10:25 | カテゴリー : Libro e Cinema, Arti ,Musica 書籍と映画, 芸術, 音楽

2019/02/24

4Kで蘇った絢爛たる歴史絵巻〈中編〉

続「Il Gattopardo 山猫 4K修復版」上映によせて
偉大なる敗北者。王の夢・ルートヴィヒⅡ世

 東京都写真美術館を皮切りに3月17日(日)から順次各地で上映される映画「山猫4K修復版」に関しては〈後編〉に回し、今回の〈中編〉ではヴィスコンティと庄イタの馴れ初めについて回顧します。

 ヴィスコンティ作品との初めての出合いは学生時代に観た映画「Ludwig(邦題:ルートヴィヒ ~ 神々の黄昏」4時間完全版。バイエルン王ルートヴィヒⅡ世(1845-1886)が18歳で即位してのち、今も真相が謎に包まれたままの最期を迎えるまでを描いた長編巨編です。

ludwig-visconti.jpg【photo】DVD「ルードヴィヒ」復元完全版デジタル・ニューマスター/237分/税別6,000円/販売元:紀伊国屋書店©1972MegaFilm-Cinetel-Dieter Geissler Filmproduktion-Divina Film

 作曲家リヒャルト・ワーグナー(1813-1883)のパトロンで、幼少期に愛読した中世騎士伝説を体現した3つの城を19世紀末に築城、40歳で謎の死を遂げた孤高の国王。

 映画をきっかけに不遜にも〝狂王〟などと称されるルートヴィヒⅡ世の生涯に強い関心を抱き、王が遺した3つの城とミュンヘンなど南ドイツからオーストリア湖水地方までワーグナーをBGMに旅をした記憶は、今も色褪せることがありません。

Ludwig_II_Bayern.jpg 1864年3月、バイエルン王国第3代国王の父マクシミリアン2世が急逝、神父への告解を終えたヘルムート・バーガー演じる18歳の新国王が、緊張した面持ちで臨んだ戴冠式の場面で映画は幕を開けます。

 ドイツ統一を目論むビスマルク率いるプロイセン王国と対峙する困難な局面にあったバイエルン王国の政務は二の次。191cmの長身でギリシャ彫刻にたとえられるほど当時の王族では目立って美しい容貌の持ち主だった若き王は、15歳で楽劇「ローエングリン」を観てからというもの、ワーグナーに心酔していました。

【photo】29歳のルートヴィヒⅡ世(1874年)

 1864年5月、潜伏先のシュツットガルトに宮中秘書官を遣わし、パトロンとなることを申し出ます。浪費癖から多額の債務を抱えて債権者から追われ、各地を転々とする流浪の身であったワーグナーの借金を肩代わりして身柄を保護します。
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【photo】16歳でオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に嫁いだエリーザベト皇后(1837-1898)。皇后に淡い思いを寄せるルートヴィヒは8歳年少の従弟にあたり、孤独な王の数少ない理解者だった。皇太子ルドルフが情死して以降、無政府主義のイタリア人に暗殺されるまで黒の服装で通した

 傲慢で金銭感覚が欠如していた上、指揮者ハンス・フォン・ビューロー夫人コジマとの内縁関係が表面化するに及び、王との蜜月は1年半で終わります。ワーグナーはミュンヘン追放後もルートヴィヒに資金援助を乞い、相互の文通はワーグナーがヴェネツィアで客死するまで続きました。

 1865年6月、台本の完成から6年を経てなお上演できずにいた楽劇「トリスタンとイゾルデ」が国費で初演にこぎつけます。台本を執筆中だった楽劇「ニーベルングの指輪」上演に向け、1873年にバイロイト祝祭劇場の建造に着手。

 第1部「ラインの黄金」から第4部「神々の黄昏」まで全4作からなる長大なニーベルングの指輪や楽劇「パルジファル」は、ルートヴィヒⅡ世の庇護なくしては完成を見なかったでしょう。

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 閣僚など王の周囲から不興を買ったワーグナーの庇護にも増してルートヴィヒⅡ世が情熱を傾けたのは、ノイシュヴァンシュタインだけで当初見積もりの倍近い620万マルクの資金を注ぎ込んだ築城でした。

 ローエングリンやタンホイザーに登場するゲルマン英雄伝説を具現化した耽美世界を現出せしめんと、ノイシュヴァンシュタイン上画像 1869年着工)を皮切りに、リンダーホーフ中画像 1870年着工)、ヘーレンキームゼー下画像 1878年着工)の3つの城を築城する莫大な費用で王室の財政は逼迫。

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 ノイシュヴァンシュタインやヘーレンキームゼー建設費用捻出のため、すでに1,400万マルクの債務を負っていた1886年初頭、ルートヴィヒⅡ世は4箇所目となるファルケンシュタイン築城を夢想していました。そこで600万マルクの新たな歳出を諮るも議会で否決されてしまいます。王の生前に建設が唯一完了したのは、規模が小さなリンダーホーフだけでした。

 バブル期に日本語の標識が立った観光ルート「Romantische Straße ロマンチック街道」の終着地で、TDLシンデレラ城のモデルとして日本でも有名なノイシュヴァンシュタインは居城としての機能は整うも一部未完となります。

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 ルートヴィヒⅡ世が1874年にヴェルサイユ宮殿を訪れた4年後に着工、王の存命中に完成した「鏡の回廊」ほか、世界最大のマイセン製シャンデリアや昇降格納式テーブルを備えたダイニングルーム、ルイ14世のそれより遥かに豪華な寝室、ヴェルサイユ宮殿「大使の階段」を規範としつつも、色大理石と採光目的のガラス屋根の恩恵で明るい印象を受ける大階段室など、計画の1/4ほどが完成したに過ぎないヘーレンキームゼーは、王の没後間もなく国有化されました。

 王の隠遁の場となったノイシュヴァンシュタインで昼夜逆転の生活を送り、政治に関与せず国の舵取りを放棄したとして、老獪なビスマルクと通じた臣下ホルンシュタイン伯爵らの企てでパラノイア(偏執病)による精神錯乱の烙印を押されます。逆臣たちの手を逃れるべくチロル亡命の段取りをつけた忠臣デュルクハイム侍従武官の助言にも耳を貸そうとはせず、毒薬を用立てるよう命じるのでした。

kutsche-ludwig-nahat.jpg【photo】1880年に描かれた月夜に興じるルートヴィヒⅡ世。王が生まれたニンフェンブルグ城「馬車博物館」の展示より。王は夜陰に紛れて外出する姿をしばしば村人に目撃された。映画Ludwigでは、乗馬を好んだ王妃エリーザベトと月の光が照らす山野を巡り、リンダーホーフに招待した俳優ヨーゼフ・カインツにヴィクトル・ユーゴーやシラーの戯曲を朗唱させて悦に入り豪華な褒美を与える。カインツを伴って馬橇(そり)で雪原を駆け、(☞ タンホイザー第3幕「夕星(ゆうずつ)の歌」に乗せ、スローモーションで馬が雪原を駆ける場面の美しさといったら!!)、小型蒸気船トリスタン船上でも演じ続けるよう命じる王の機嫌取りに倦み果てたカインツは、際限のない王の要求を拒否。落胆した王はカインツと訣別する ©München, Bayerische Verwaltung der Staatlichen Schlösser, Gärten und Seen Bildquelle: Kunsthistorisches Museum

 身に迫る危険を察知していたルートヴィヒでしたが、1886年6月12日、ノイシュヴァンシュタインの塔に籠城しようとした矢先に拘束されます。王位を剥奪されたルートヴィヒは、王家の夏の離宮として使われていたミュンヘンに近いベルク城へと移送。監視下に置かれた翌13日の夜、散策に出たまま戻らず、精神科医グッデン博士とともにシュタルンベルク湖で溺死体で発見されます。

venusgrotta-Linderhof_lohengrin.jpg【photo】小編成による楽団がワーグナーの楽劇ローエングリンの一節を繰り返し奏でる中、少年期に憧れた白鳥の騎士ローエングリンの銀色に輝く衣装に身を包んだ21歳のルートヴィヒⅡ世を乗せたトリガイを象った金色の小舟がリンダーホーフの人工池に漂う。当時、プロイセンとオーストリア主導による連合軍が衝突した普墺戦争(1866)が勃発。バイエルン王国はオーストリア側について参戦。4年後の普仏戦争(1870)でもルートヴィヒの弟オットー皇子は最前線で闘った後遺症で精神に異常を来たした。オーストリア連合側の敗戦による賠償責任をバイエルンが軽減されたのは、国王が戦いに全く加担しなかったことが、結果としてメッテルニヒの温情的な処置につながったといわれる

 映画では、雨の中を夜の散策に出るルートヴィヒがグッデン博士に夜や月の神秘性こそが理性の証であると話し掛けた後、こう言葉を締めくくります。

「私は謎なのだ。謎のままでいたい。永遠に。他人のみならず自分自身にとっても。」

Herrenchimsee-ball-room.jpg【photo】ミュンヘンからザルツブルグに向かって南東約60km。湖水地方のキーム湖に浮かぶ島に造営されるも、王の死により建造が中止された3つ目の城ヘーレンキームゼー。ブルボン王朝の絶頂期に君臨した太陽王ルイ14世が建造したヴェルサイユ宮殿を手本にフランス式庭園と城郭を目指して1878年に着工。宮殿1階西側全てを占める「Spiegelgalerie鏡の回廊」は全長98mでヴェルサイユの73mを上回る。壁面の鏡17枚に映し出されるのは、44台の燭台とシャンデリア33基に灯される1848本のローソクの明かり。映画ルートヴィヒでは、ロミー・シュナイダーが演じたオーストリア皇妃エリーザベトが侍女役のフェレンツィ伯爵夫人を伴ってリンダーホーフとヘーレンキームゼーを優雅な身のこなしで見て回り、鏡の回廊の桁外れなスケールに呆れて笑い出す声がホールに響き渡るシーン(下動画 6:10過ぎ)がここで撮影された

 王は生前、3つの城は死後取り壊すよう側近に命じていましたが、その願いが実現することはありませんでした。

 独創的なトリスタン和音に象徴される官能に訴える響きを有するワーグナーの楽劇が上演される音楽祭が毎年開催されるバイロイト祝祭劇場を含め、ルートヴィヒⅡ世が遺した遺産は、20世紀以降のバイエルン州にとっては、莫大な歳入をもたらす大切な観光資源となっています。

 そんな皮肉な事実をルートヴィヒⅡ世は知る由もありません。

starnbergsee_ludwig_foundedpoint.jpg【photo】ルートヴィヒⅡ世と精神科医フォン・グッデン博士が遺体で発見された地点に立つ十字架。映画ルートヴィヒのシナリオは、王が何者かによって銃で暗殺され、シュタルンベルク湖に遺棄されたのが真相だとする従僕の会話で終わっている。そこで王が着用していた上着やシャツなどの証拠隠滅から漏れた外套に銃弾が残した穴が示される。断定的な表現を避けた映画では、湖から引き揚げられた遺骸の前に駆け付けたホルンシュタイン伯爵が「王が博士を殺害した後、自害した」と告げ、城に遺体を運ぶよう指示。横たわる王の横顔のアップで結ばれる

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 国王を籠絡したとしてミュンヘンを1865年12月に追放されたワーグナーが、1858年頃に作曲した原曲をシチリア・パレルモで死の前年に完成させたピアノ曲「Elegy エレジー(悲歌)WWV93。ルキーノ・ヴィスコンティの祖父グイードが才能を見出したアルトゥーロ・トスカニーニが1931年にバイロイトで楽劇パルジファルを指揮した際、ワーグナーの娘エヴァからトスカニーニに譜面が贈られます。

 世に出ることなく未刊行のまま眠っていた13小節からなるワーグナー最晩年に完成したピアノ曲の楽譜を入手したヴィスコンティは、自らの映画や舞台で音楽を担当してきたフランコ・マンニーノにオーケストラ用の編曲を依頼します。

 オリジナルのピアノ曲とマンニーノ指揮によるサンタ・チチェリア国立音楽院管弦楽団の哀感漂う演奏が映画ルートヴィヒで使用されました。それが世界初演であったことがエンドロールの直前、降りしきる雨の中、瞼を閉じ、口を半開きで横たわる遺骸となったルートヴィヒの横顔が大写しで静止するラストで紹介され、静かな感動を呼びました。

 現実に圧し潰されてゆくルートヴィヒⅡ世への共感と哀惜の情を抱いていたに相違ないヴィスコンティ。ラストシーンで流れるエレジーには非業の最期を遂げた王の鎮魂を祈る葬送曲としての意味合いが賦与されているように思えてなりません。

 後期ロマン派の楽曲を多用したヴィスコンティ後半生の作品の中でも、映画ルートヴィヒは、夢の世界に生きた孤独なルートヴィヒⅡ世の心象風景をワーグナーの楽曲と融合させ見事に描き切っています。

 美食家で甘い食べ物を好んだ王は30代半ばから太り始め、虫歯が進行。その痛みに苛まれていました。ヘルムート・バーガーは鬼気迫る演技で変貌著しいルートヴィヒを演じ切り、米国のアカデミー賞にあたるイタリア映画界で最高の栄誉である1973年度「David di Donatello ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞」特別賞の栄に浴しています。

josef_kainz-ludwig.jpg【photo】夕食を終えたテーブルに着いたまま、リンダーホーフに招いた俳優ヨーゼフ・カインツが朗唱するシラーの戯曲「ヴィルヘルム・テル」に恍惚として聞き入るルートヴィヒ。「お前が演じるヴィルヘルム・テルの足跡を辿ってスイスへ行こう。そしてイタリアに。そう、イタリアには是非」と王は夢見心地。忠節な真の友人をやっと見出したとして、「朝日に輝く山々、穢れのない真の王国を見せよう」と疲労が滲むカインツに馬橇への同行を求める

 オールロケによる舞台装置の素晴らしさは言うに及ばず、「ベニスに死す」で前年の英国アカデミー衣裳デザイン賞を受賞するなど、多くのヴィスコンティ映画で衣裳デザインを担当したピエロ・トージの素晴らしい仕事も見逃せません。特に撮影当時34歳で美貌のエリーザベト皇后を演じたロミー・シュナイダー下画像右の気品に満ちた香り立つような美しさが際立ちますが、それは衣裳に負うところが少なくありません。

 1955年に「Ludwig Ⅱ- Glanz und Elend eines Königs(邦題:ルートヴィヒⅡ世-ある王の栄光と没落)」が、2012年には「Ludwig(邦題:ルートヴィヒ)」がドイツで製作・公開されています。

 60年以上前の映画ゆえ、ストーリー展開が古色蒼然としているのは致し方ないにしても、故・加藤剛似の主演オットー・ウィルヘルム・フィッシャーの演技は悲劇性が希薄で、むしろ映画「パリ・テキサス」や「テス」に出演したナスターシャ・キンスキーの父クラウス・キンスキー演じる弟オットー王子が精神に異常をきたす怪演ぶりに目が奪われがち。エリーザベト皇妃など女性陣の衣装が全体に垢抜けしないのは、ドイツらしいかも(笑)。

 リヒャルト・ワーグナー生誕200年の'12年に公開された後者に至っては、ルートヴィヒ役の新人俳優は線がか細く、バイエルン王としての品格に欠け、役者としての力量不足は明らか。物語の舞台や登場人物が同じだけに余計に粗が目立ちます。芸術性が高いヴィスコンティとの落差の大きさは如何ともしがたいのでした。

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 1972年1月31日、氷点下7℃のバート・イシュイルでクランクイン。4月14日ミュンヘン王宮まで続く厳冬期から春先まで行われたロケ撮影の3か月後、脳血栓の発作を起こし入院。一命はとりとめるも左半身の麻痺が後遺症で残り、母方が所有するコモ湖畔チェルノッビオの別荘で療養します。歩行訓練などリハビリの傍ら、編集作業に自ら当たり4時間半の長尺に仕上げます。

 文字通りヴィスコンティが心血を注いだ大作でしたが、伊・仏・西独3国からなる製作会社と配給元MGMの契約では上映時間が3時間以内とされていました。やむなくヴィスコンティ監修のもと3時間5分に再編集。劇場初公開時は第三者によって2時間に短縮されたのです。

Romy-Schneider_neuschvin.jpg【photo】前触れもなくノイシュヴァンシュタイン城を訪れたエリザベート皇妃に対し、居室の窓から様子を窺っていたルートヴィヒは病気を理由に会わないことを取り乱した様子で従僕に告げる。滞在中は城を自由に使って構わないという王からの伝言を従僕から伝えられるも皇妃は入城することなく帰路に就く。ヴェール姿のエリーザベトが馬車に揺られて物思いに沈む憂いを帯びた横顔にオーバーラップして皇妃の名を繰り返すルートヴィヒの悲痛なむせび泣きが空虚に響く

 半身不随の体を押して取り組んだのが、ローマで一人暮らしをする老教授と上階を借りた家族に降りかかる悲劇を描いた「家族の肖像」(1974年)、そして妻と愛人との間で揺れ動くエゴイストの貴族が嬰児殺しに手を染めて破滅してゆく「イノセント」(1976年)撮影中に右足を骨折。次第に体力が衰えてゆく中、車椅子で仕事を続けます。
 
 イノセントの編集作業が続いていた1976年3月17日の夕刻、ヴィスコンティはブラームス交響曲2番を繰り返し聞いていました。ヴィスコンティが手掛けた映画や舞台で音楽を担当し、パレルモ貴族の血を引くフランコ・マンニーノに嫁いだ妹ウベルタに「もう十分だ」告げると、やがて静かに息を引き取りました。 

 映画ルートヴィヒは、21億5千万リラ(当時の為替レート換算で11億2千万円)に膨らんだ巨額の製作費が負担となった製作会社の倒産で散逸したフィルムを第二次大戦終結直後から「無防備都市」や「自転車泥棒」ほかヴィスコンティ作品で脚本を担当したスーゾ・チェッキ・ダミーコが中心になり復元。庄イタが初めて観たバージョンはヴィスコンティの意図に沿って再構築されたものでした。

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 映画Ludwigで初めてヴィスコンティ作品に接した頃、小学館からルートヴィヒⅡ世やヴィスコンティの足跡を追った篠山紀信氏の写真集が立て続けに発売されました。

 没後6年を経た1982年には当時まだ健在だったヴィスコンティと接した人々の貴重な証言や秘蔵資料を織り交ぜた「ヴィスコンティの遺香」が、その翌年にはルートヴィヒが遺した城を映画と同じ冬に撮影した写真集「王の夢・ルートヴィヒ Ⅱ世」が刊行されています。

 この2冊は、ヴィスコンティ自身の手で3時間に編集された「ルートヴィヒ 神々の黄昏」が日本で初めて1980年に劇場公開されるや巻き起こったヴィスコンティブームの中で企画・出版されたものです。

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 さらに写真集の刊行に合わせ、ラフォーレミュージアム赤坂を会場に、3枚の巨大スクリーン「Shinorama(シノラマ)」を使用した音楽と映像の複合によるインスタレーション展示が行われました。

 縁あって大学のサークルメンバーで会場運営のアルバイトとして連日携わったのが、篠山紀信劇場「ヴィスコンティの遺香~王の夢・ルードヴィッヒⅡ世」だったのです。

 高貴で(幼児性と紙一重なほど)純粋なルートヴィヒの精神性を示す3つの城とバイエルンの山並みを映画と同じ冬に撮影し、2冊の写真集に収められた映像がワーグナーの楽曲や映画「家族の肖像」の挿入歌イヴァ・ザニッキ「Testarda io (邦題:心遥かに)」などに乗せ、会場の幅いっぱいに映し出されます。
 

 楽劇ワルキューレ第3幕のラストで神々の長ヴォータンが朗々とバリトンで歌い上げる一節(上動画)とともに、スクリーンの前にバイエルン公国の国旗が掲揚されると巨大なファンが回り、風を受けて白地に菱形スカイブルー柄の旗がたなびき、エンディングを迎えるという趣向でした。

 生誕100年にあたった2007年、「ヴィスコンティの遺香」が復刊した折にイタリア文化会館で収録作品の写真展が開催されました。庄イタがラフォーレミュージアム赤坂に連日通い詰め、オープニングから終了まで張り付いたプログラムは大判の3連スクリーンで音楽と映像がシンクロ。ほとんど映画を観る感覚に近かったように思います。

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 当時、都内各所のラフォーレミュージアムでは企画会社「ツルモトルーム」がプロデュースする意欲的なアート関連イベントを開催していました。学業よりも優先して携わった催事から主だったものを列記すると...。

 前年公開の映画「ブレードランナー」でアートディレクターに抜擢されたシド・ミード「21世紀のカー・デザイン展」、米国の女性写真家シンディ・シャーマンのセルフポートレート展(原宿)、ロキシー・ミュージックのオリジナルメンバーでアンビエントミュージックの祖といわれたブライアン・イーノ「ビデオアートと環境音楽の世界」、ローリー・アンダーソン 「Mister Hartbrake」パフォーマンスライブ(赤坂)、ISSEI MIYAKE Spectacle Body Works(飯倉)などなど。

 いずれも先鋭的な催事ばかり。高低差をつけた薄暗い会場各所に縦置きされた36台のモニターに映し出されるスローモーション映像の一部は、Thursday afternoonと題して後に発売されました。ゆったりと薄闇にたゆとう調べや虫の鳴き声が流れるビデオインスタレーションの会期中、赤坂に毎日顔を見せていた初来日のブライアン・イーノに頂いたサイン入りのリーフレットは家宝となりました。

 何体ものマネキンが立体的に配置された会場に大都会の夜景やフィリップ・グラスのコヤニスカッティなどのBGMが流れるISSEI MIYAKE Spectacle Body Worksには、三宅一生氏は当然のこと山本寛斎氏、YMOの3人、トーキング・ヘッズのデヴィッド・バーンも来場。ブライアン・イーノをプロデューサーに迎え、アフリカンビートとロックを融合した傑作「Remain in Light」を発表していたバーン氏の手荷物を受付にいた庄イタが預かり、言葉を交わしたのは忘れえぬ思い出です。

 「ヴィスコンティの遺香~王の夢・ルードヴィヒⅡ世」会期中には篠山紀信氏が奥様と連れ立って来場。芸能界を引退後に篠山氏とご結婚されて以降は、当時メディアに出ることがなかった南沙織さんとお目にかかることが出来たのは、得がたい経験でした。

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 ミーハー路線に転落した話を本筋に戻すべく〈後編〉では版権の関係から日本国内では最後となる上映が行われる映画「山猫4K修復版」について語ります。

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投稿者 vam : 22:57 | カテゴリー : Libro e Cinema, Arti ,Musica 書籍と映画, 芸術, 音楽

2019/02/11

4Kで蘇った絢爛たる歴史絵巻 〈前編〉

Il Gattopardo 山猫 4K修復版」上映によせて
ミラノ公国の礎を築いたヴィスコンティ家


 首都ローマに次ぐ国内では2番目にあたる130万の人口を擁する北イタリア最大の都市ミラノ。市内各所で新作の展示会やショーが行われる「ミラノファッションウィーク」、世界最大級の国際家具見本市「ミラノサローネ」など世界を牽引するデザイン分野をはじめ、商工業や金融の中心でもあります。

 (蛇足ながら)相互に商工業が栄え、長い歴史を有し、独自の文化を築いた都市同士という共通点から、大阪市とミラノ市は1981年に姉妹都市となっています。

donna_roiya-g.lombardi.jpg【Photo】゛G. Lombardi 1957〟のサインが入ったミラノのドゥオーモの尖塔群を描いた絵画。イタリア商船や進駐軍キャンプのコックから身を転じ、旧外国人居留地で1952年に創業した神戸で最も歴史あるイタリア料理店「ドンナロイヤ」創業者のジュゼッペ・ドンナロイヤが購入。阪神淡路大震災で被災し加納町に店舗を移転した現在も壁を飾る。伝統の味を伝える厨房を預かる渡辺シェフと接客担当のマダムと共に、時流に流されない店の変遷を見守ってきた

 インパクト重視な大阪のおばちゃんのヒョウ柄ファッションは、世界をリードするモード発信地の街を行き交うミラネーゼとは大きく違います。同じヒョウ柄使いでも神戸元町旧居留地近辺で目にするそれとは雲泥の差。...ま、姉妹都市の縁に免じ、細かいことは不問に付しましょう。

 その発祥は紀元前600年頃。アルプス以北からロンバルディア平原へと移住したケルト人によって築かれた居留地で〝平原の真ん中〟を意味するMediolanumという呼称が簡略化、Milanoとなったようです。

Milano_castello_sforzesco_natale.jpg【Photo】電飾がダンテ通りを彩るクリスマスシーズンのミラノ。14世紀半ばにミラノ僭主ガレアッツォ2世・ヴィスコンティが居城として着工し、ヴィスコンティ家の傭兵だったスフォルツァ家に権力の座が移って後に要塞化された「Castello Sforzesco スフォルツェスコ城」前のロータリーに建つ祖国統一を成し遂げた英雄ガリバルディ像

 第二次ポエニ戦争(BC219~BC201)直前に共和制ローマの支配下となってからは、アルプス越えの通商拠点として発展。フン族による破壊と再興を経て13世紀後半から15世紀中葉にかけて公国となった自治都市ミラノを統治する僭主を14代に渡って輩出した貴族がヴィスコンティ(Visconti)家です。

biscione-castello-sforza&alfaromeo.jpg【Photo】スフォルツェスコ城中庭壁面に残るヴィスコンティ家の紋章であるサラセン人を飲み込む大蛇「Biscioneビショーネ」とミラノ公国のシンボル聖ゲオルギウス赤十字が組み合わされた意匠はミラノ発祥の自動車メーカー「アルファロメオ」に受け継がれている

 家名は12世紀半ばに授かった副伯(vis-conte)に由来し、ラテン語でvice comitisは伯爵の代理人を意味するので、代官的な地位にあったことが推測されます。僭主(Signore シニョーレ)とは、王族の出ではなくとも行政権や裁判権を行使する座に就いた者を指し、覇権を競うコムーネ(都市国家)との闘いや他国との婚姻政策により権力を確固たるものとしました。

 580年の時を要して1965年に完成したミラノのシンボルといえる世界最大のゴシック建築ドゥオーモ下画像の建造に1386年に着手したのが、ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ(1351-1402)。

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 当時、ボヘミア・ドイツ・オーストリア・スイス・フランドル・イタリア北部・フランス東部までの広大な地域に領土を広げた神聖ローマ帝国皇帝から1395年にミラノ公の爵位を授かります。

 親兄弟間ですら骨肉相食み、ボルジア家の例を挙げるまでもなく権謀術数渦巻くこの時代。ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティは他の都市国家との戦いに明け暮れ、急速に領地を拡大。自らを〝カエサルの再来〟と称したほど権勢の絶頂期を迎えます。

Massima_espansione_Viscontea.jpg【Photo】ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティが版図を広げたミラノ公国最盛期の領地(1402年・グリーン)。現在はスイス領のクール司教領と神聖ローマ帝国邦領のトレント司教領(薄黄)、ヴェネツィア共和国(水色)、ジェノヴァ共和国(薄緑)、サヴォイア王国(青)やモンフェラート侯国(グレー)と境を接し、南はローマ法王領(黄)近くに及んだ。侵攻したピサ・シエナ・ボローニャを手中に収め、寡頭政下のフィレンツェ共和国を脅かしたが、ジャン・ガレアッツォがペストで没した後は縮小した

 ジャン・ガレアッツォの次男フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティは直系の嫡子を残さずに没し、直系のミラノ公はそこで途絶えます。フィリッポ・マリーア庶出の娘ビアンカの夫として傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァが代わってミラノ公となって以降、フランス、スペイン、オーストリア、ナポレオン支配の時代を経てもミラノ屈指の名家の血筋は絶えることがありませんでした。

 ミラノ領主マッテオ1世(1250-1322)の弟ウベルトを始祖とする分家筋にあたる一族は、18世紀にミラノ郊外のVimodorone ヴィモドローネを侯爵領として獲得。イタリアに侵攻した皇帝ナポレオン・ボナパルト軍に兵站を提供した功績から1813年にモドローネ侯爵の爵位を与えられています。

guido visconti di modrone.jpg【Photo】1910年頃に撮影されたヴィスコンティ伯爵一家。(左から)長男グイード、父ジュゼッペ、長女アンナ、母カルラ、四男エドアルド、三男ルキーノ、次男ルイージ。当時の貴族は6歳ごろまで男児も女児のような恰好をしていた

 1898年、地方の歌劇場でのキャリアしかなかった弱冠31歳のトスカニーニをスカラ座の芸術監督に抜擢、20世紀前半を代表する世界的指揮者となるきっかけを作ったのは、繊維業で成功して財を成し、上院議員から身を転じて1898年からスカラ座の運営を任されたグイード・ヴィスコンティ・ディ・モドローネ伯爵(1838-1902)。

 その息子ジュゼッペ・ヴィスコンティ・ディ・モドローネ(1879-1941)は、ミラノを本拠地とする名門クラブ「F.C.インテルナツィオナーレ・ミラノ」の旗揚げを後押し、後に会長に就任するなどした起業家・慈善事業家で、超高級ホテルVilla d'Esteがあるコモ湖畔の街チェルノッビオで製薬会社を営むエルバ家の令嬢カルラと1900年に結ばれます。

 その三男として生まれたのが、映画監督、演劇・オペラなどの舞台芸術家として輝かしい足跡を残し、庄イタが畏敬の念を抱く巨匠ルキーノ・ヴィスコンティ・ディ・モドローネ(1906-1976)です。

Palazzo-Visconti-Milano.jpg【Photo】ルキーノ・ヴィスコンティの生家であるPalazzoBolagnosVisconti di Modroneは、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの依頼により「最後の晩餐」を残したレオナルド・ダ・ヴィンチ像が立つスカラ座広場から徒歩10分。Cino del Duca 通りに面した正面入口からエレガントな曲線を描くリバティ様式の鉄製ゲートを入った中庭。1959年にルキーノの弟である四男エドアルドが不動産管理会社に売却したが、内部はヴィスコンティ家の人々が暮らした当時そのままに保たれている

 日曜日の午後、子供たちを伴って出かけたヴィスコンティ家専用の桟敷席(オーケストラボックス左側4番)があったスカラ座からほど近いCino del Duca通りに面して建つのが、PalazzoBolagnosVisconti di Modrone。17世紀初頭にジュゼッペ・ボラニョス伯爵の邸宅として建造され、幾度か所有者が変わった後、1840年からヴィスコンティ一族が暮らしました。

 モドローネ公ジュゼッペ・ヴィスコンティ伯爵は1907年から名家にふさわしい間取りと内外装の増改築に取り掛かります。

Palazzo-Visconti_modrone.jpg【Photo】現在は人手に渡ったPalazzoBolagnosVisconti di Modroneの床にモザイクが残るヴィスコンティ家の紋章Biscioneビショーネ。広くイスラム教徒を指すサラセン人を飲み込む大蛇を図柄としたことから、遠い祖先は十字軍に参加した騎士であったことが推測される

 中庭を有する三層の邸宅で最も印象的なのがバロック様式の凝った装飾が施されたボールルーム下画像。そこでは毎週のように映画「山猫」を地で行くような舞踏会や、演劇好きの伯爵が主宰する演劇鑑賞会、さらにはチェロの練習を登校前2時間の日課にしていたルキーノを含め、ヴィスコンティ家の子どもたちの楽器演奏会が催されていたのだといいます。

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 家族一人ごと専属で食事の世話をするメイドやウエイター、お抱えの料理人・服飾係・庭師ほか、広大な屋敷の窓の開閉専門の従僕など、常時20人は下らない使用人に囲まれた屋敷と夏と冬に過ごすコモ湖畔やイスキア島などに所有する別荘とを行き来する環境でルキーノは育ちしました。

ballo-bolagnos-1901.jpg【Photo】ルキーノが3歳になった1909年、PalazzoBolagnosVisconti di Modroneのボールルームで催された舞踏会の様子を収めた貴重な写真。映画の撮影当時、50代半ばに差し掛かっていたルキーノ・ヴィスコンティが、自己を作中の登場人物(サリーナ侯爵)に投影した唯一の映画といわれる「山猫」を見直すと、映画のクライマックスとなる舞踏会の華やかな雰囲気そのものであることに改めて気づかされる

 10代半ばを過ぎ、青年期に差し掛かると反骨精神が目覚めたのか、一度ならず家出を経験。この頃から芝居好きの父が旗揚げした劇団の手伝いで舞台に興味を持つ一方、1926年から兵役に就き、ピエモンテ州Scuola di Cavalleria di Pinerolo ピネローロ乗馬学校で騎兵訓練を受けた経験から情熱を注いだのが、ミラノ郊外サン・シーロに所有する厩舎「Scuderia Luchino Visconti」所属の合計20頭の競走馬の飼育。1942年に厩舎を手放すまで幾多のレースで勝利を重ねました。

luchino-cavallo.jpg【Photo】サンシーロ競馬場で開催されるイタリア春競馬の総決算Gran Premio di Milano(ミラノ大賞典)優勝馬となったSanzioサンツィオほか、1932年に出走した81レース中28勝の強さを誇ったのが、ルキーノ・ヴィスコンティ厩舎。サンツィオと若き日のルキーノ・ヴィスコンティ(写真右

 1936年、旅行先のパリで出入りしたサロンで詩人ジャン・コクトーやココ・シャネルらと知己を得ます。シャネルの紹介で映画監督ジャン・ルノワールの「トニ」を端緒に「ピクニック(原題:Une Partie de Campagne )」(1936)で助監督として参画したのが、天職となる映画人としての出発点となります。

 詩的な映像が秀逸なこの映画は、モーパッサンの短編小説「野遊び」を原作に、思想家ジョルジュ・バタイユの妻シルヴィア・バタイユ演じるヒロインが、婚約中に家族で出かけたピクニックで出逢った青年に感情の赴くまま惹かれてゆくというストーリー。

 道徳や理性では制御がきかない人間性の謳歌とでもいうべきルノアール作品から少なからず影響を受けたことは、後年ヴィスコンティが語っています。

 ルノアールから仏語訳版を託されたジェームズ・M・ケインの同名小説に着想を得た抗(あらが)いがたい男女の業(ごう)を描いた初監督作「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1942)から、搾取される貧しいシチリア漁民の悲哀への共感を滲ませた「揺れる大地」(1948)、南イタリアからミラノに移住した家族の崩壊を通して南北格差を浮き彫りにした「若者のすべて」(1960)までは、不条理な社会の実相を描くネオレアリズモ運動と軌を一にする作風でした。

Rocco&i-suoi_fraterri-Duomo.jpg【Photo】ミラノのドゥオーモ屋上における映画「若者のすべて」撮影の模様。次男ロッコ役のアラン・ドロン(右から2番目)と恋人ナディア役アニー・ジラルド(同3番目)とカメラの隣で手ぶりを交えて指示を出すヴィスコンティ(左端)

 後半生においては、抗いがたい時代のうねりや運命、甘美な官能の極致としての死など退廃的なテーマを追求してゆく転機となったのが、シチリア貴族の末裔ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ晩年の著作を映画化した「Il Gattopardo 山猫」(1963)です。

 山猫は、ヴィスコンティ映画の中でも、庄イタが偏愛する作品のひとつゆえ「Principe di Salina サリーナ公爵 ~ 山猫の世界を体感するピュアカシミアコート(2015.12拙稿参照)の中で詳しく取り上げています。

【Movie】ヴィスコンティとの共同作業を30年以上も携わったフランコ・マンニーノ(1924-2005)作曲の遺作「イノセント」のテーマ曲に乗せ、ヴィスコンティ本人、兄ルイジの息子ジャンマリア、姉アンナの娘メラルダといった血縁者に加え、助監督を務めた映画監督のフランコ・ゼフィレッリらが登場。名家に生まれ育った生い立ちが紹介されるほか、ミラノのドゥオーモ屋上でのシーンが印象的な「若者のすべて」ほか、「地獄に堕ちた勇者ども」「ベニスに死す」「ルートヴィヒ」などの映像を織り交ぜ、英語かつ約60分の長尺ながら興味深い内容

 生前から語り尽くされた感がある巨匠ヴィスコンティ、そして第16回カンヌ国際映画祭でパルム・ドール賞に輝いた山猫ではありますが、新たな発見が必ずや得られるはずの鮮明で精細な4K修復版が3月から日本国内では最後となる上映が行われることになりました。

 本稿〈後編〉のアップ前にアーカイブ・Dicembre 2015「Principe di Salina サリーナ公爵 ~ 山猫の世界を体感するピュアカシミアコート」を再読され、バート・ランカスターの名演が光る山猫について予習・復習を怠りなきよう願います。

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投稿者 vam : 06:43 | カテゴリー : Libro e Cinema, Arti ,Musica 書籍と映画, 芸術, 音楽

2019/01/23

未体験食感チョコレート 

カカオ豆のルーツ・古代アステカ伝承
チョコラート・ディ・モディカ


 つい先日、NHK土曜朝の番組「チコちゃんに叱られる!」で衝撃的な再放送がありました。

Surprised_Monkey.jpg それは〝大人が年齢を重ねるにつれ、時間の流れを早く感じる理由は、生活にトキメキがなくなるから〟という内容。

 例えば、発見や驚きの連続だった幼児期から10代半ばを過ぎ、人生経験が増す19歳を過ぎる頃から、食事をするにしても、子どもの頃のような新鮮な喜びや感動を感じなくなり、時間の密度感が希薄になってゆくのだといいます。

 確かにその通りかも...。

 しかも昨年7月のオンエアということは、この半年間、生活態度を改めることなく無為に過ごしてきたということ。オー・マイ・ガーっ!!!!

zoolozy-gorilla.jpg【Photo】マウンテンゴリラチョコ(税込972円)。贈る相手が似ている場合は避けた方が賢明

 こと命と健康を支える食に関しては、食の都・庄内でキラ星のごとき匠たちとの得がたいご縁を頂いた2003年(平成15)以降、皿の中だけではなく、360°のパノラマビューの視野を持つよう心掛けてきたつもり。

 とはいえ時の流れが加速度的に早まっているのは紛れもない事実。胸に手を当てて思い起こせば、昨年12月12日、一昨年に続いて足を運んだ「神戸ルミナリエ」はつい先日のことのよう。

 クリスマス商戦で華やいでいた街は、一夜にしてお正月モードへと舞台転換。早いもので松の内が明けた現在はクリアランス & バレンタイン商戦に突入しています。

 この季節、百貨店で催されるチョコレートイベントに殺到する女性たちの熱気と迫力には圧倒されるものがあります。庄イタの場合、たまたま迷い込んでしまったランジェリー売り場の次に肩身が狭い思いをするかもしれません(笑)。

catalogi_st.valentino-departmentstore.jpg【Photo】バレンタイン商戦に向け、在阪の百貨店は趣向を凝らした取り扱い商品カタログを作成。大阪万博開催決定にあやかったか「チョコレート博覧会」と銘打つのが阪急百貨店梅田本店。300近いブランドを取り揃え、カタログというよりは、もはや分厚い読み物画像左下。各店ごと個性を打ち出してしのぎを削る

 昨年、女性を対象に実施されたアンケートでは、3/4近くがバレンタインデーにチョコレートを購入すると回答。うち自分用に購入するマイチョコが最多。以下義理チョコ、本命チョコと続きます。同性の友人に贈る友チョコ、男性が女性に贈る逆チョコも含め、平成最後のバレンタインデーは、ますます多様化しているようです。

 いずれにせよ、バレンタインデーにトキめいた思春期の甘酸っぱくもほろ苦い記憶を手繰り寄せ、初々しい10代の感受性を取り戻せるかは甚だ心もとない限り。「ボーッと生きてんじゃねーよ!」とチコちゃんに叱られないよう、自戒の念を新たにした庄イタなのでした。

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 ここからはチョコレートにまつわるお話にしばしお付き合いください。

 時はコンスタンティヌス1世が313年に発布した「ミラノ勅令」により、信教の自由が保障される以前の軍人治世による帝政ローマ時代。

 キリスト教徒の娘セラピアと恋に落ちたローマ軍の百人隊長サビーノとの婚礼に立ち会ったのが、西暦197年から現在のウンブリア州最南端Terni テルニで初代司教となったValentinoヴァレンティノでした。

San-Valentino-staind-glass-basilica-terni.jpg【Photo】ウンブリア州テルニの聖バレンティノ聖堂内陣のファサード側に設けられたステンドグラス。殉教後テルニの守護聖人となった司教バレンティノが、セラピアとサビーノの婚礼を執り行う様子が表現される

 反旗を翻したガリアやパルミラを平定し、最強を誇ったローマ軍は、士気低下を避けるため、兵士の服務中の結婚は許されていませんでした。多神教を奉じるローマ皇帝アウレリアヌスは、異教であるキリスト教徒を迫害しており、禁制を破ったヴァレンティノを捕らえローマに連行、273年2月14日に処刑します。

 没後列聖されたヴァレンティノは、恋人たちの守護聖人St.Varentino da Terniとして崇められるようになります。聖人の故郷テルニには、4世紀まで起源が遡り、1618年にバロック様式で再建された「Basilica di San Valentino 聖ヴァレンティノ聖堂」(下画像)が建ち、聖人はそこで永遠の眠りについています。

 聖ヴァレンティノが殉教した2月14日は、本家イタリアでは聖人ゆかりの赤いバラを男性から女性に贈る日で、レストランはカップルで賑わいます。

 隣人愛を根本倫理とするキリストの教えに殉じた受難の日2/14が、たとえ義理チョコであっても人間関係の潤滑油の役割を果たしていることは、聖ヴァレンティノとてあながちまんざらでもないのでは、と思いますが、いかがでしょうか。

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 悠久の時は流れ、話の舞台は激動の20世紀に移ります。1917年のロシア革命による君主制崩壊と内線勃発により、ロマノフ王朝の宮廷菓子職人だったマカロフ・ゴンチャロフは韓国を経由し日本に亡命。1923年(大正12)に神戸・北野で菓子店「ゴンチャロフ」を開店します。

 その翌年、同じく貿易商と雑貨店を営むフョードル・ドミトリエヴィチ・モロゾフもロシア革命を主導したレーニンの出身地であることから没後はレーニンの姓にちなんだウリヤーノフスクと改名した故郷シンビルスク郊外の家を追われます。

 一家は白系ロシア人が築いた中国黒竜江省の都市ハルビンに逃れて6年を過ごし、苦難続きだったシアトルでの数カ月を経て神戸に移住。試行錯誤を経て神戸・北野異人館通りと旧居留地とを結ぶ通称トアロードで洋菓子店「Confectionery F. MOROZOFF モロゾフ」を開店したのが1926年(大正15)。 

varentine_morozoff.jpg 開店当初は、片言の日本語しか話さぬ母ダーリヤが接客を担当。ロシアとは事情が異なる神戸の夏の暑さのもとで、雇ったロシア人職人もチョコレート作りに悪戦苦闘。

 ハイカラ好みの神戸でエキゾチックなチョコレートは徐々に受け入れられ、明治屋神戸店ほか三越や大丸にも販路を拡大。事業拡大のため神戸の経済人の出資により「神戸モロゾフ製菓株式会社」として1935年6月に再出発。

 その翌年、2/14聖ヴァレンタインの日にチョコレートを贈る提案をしたのが、日本におけるバレンタインデーの端緒とされます。

 開店当初よりフョードルの長男ワレンティン・フョードロヴィチ・モロゾフも菓子職人として働く中、日本人共同経営者と訴訟沙汰となった結果、モロゾフ父子はモロゾフの商号使用を禁じられ、チョコレートの製造販売権を剥奪されます。

casa-morozoff.jpg【Photo】ワレンティンが神戸で暮らすようになってから、ハルビン時代に出逢った女性と十数年ぶりにハルビンで再会。家庭を築いてからもモロゾフ一家が暮らした神戸市中央区北野町の増田家住宅(旧モロゾフ邸)。白壁にピンクの鎧窓が菓子職人一家らしい優しい印象を与える。登録有形文化財

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 父が菓子製造の第一線からを退き、2代目ワレンティンの名を英語読みした「バレンタイン製菓店」と改称した1941年、日中戦争の長期化と太平洋戦争の開戦による製菓材料の枯渇で店を休業。神戸郊外の大池での不自由な疎開生活を強いられる中、母を亡くします。

 戦況が悪化した1945年の神戸空襲により店舗は灰燼に帰します。戦後の物不足の中「コスモポリタン製菓」として三宮の高架下仮設店舗で再出発。1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災で三宮本店が被災。震災を乗り越えた2000年以降は高級チョコレート市場の競争激化により業績が悪化してゆきます。

 ロシア革命で故国を失う苦難の道を歩んだ亡命者の父子、日本人に本格的なチョコレートを初めて紹介したフョードル・ドミトリエヴィチ・モロゾフは1971年に、息子ワレンティン・フョードロヴィチ・モロゾフは1999年に神戸で亡くなります。初代フョードルの孫ワレンティン・ワレンティノヴィチ・モロゾフは、2006年に自主廃業を決断しました。

 祖国を亡くした亡命者という不自由な立場ゆえの偏見や裏切りに等しい仕打ちを受けながら、永住の地と定めた神戸で波乱に満ちた生涯を終えた父と子。実直な生き方を貫き〝地の塩〟たらんと欲したモロゾフ親子は、神戸市立外国人墓地で日本の土に還ったのです。

cipresso-morozoff.jpg【Photo】旧モロゾフ邸の庭には糸杉が二本。神戸ポートアイランドにあったコスモポリタン製菓本社屋前にも糸杉があった。ヨーロッパ世界で糸杉は亡者の象徴として墓地に植えられる一方、永遠の生命を宿す樹として尊ばれる。寄り添うような2本の糸杉がフョードルとワレンティン親子の姿と重なって見えた

 バレンタインデーを日本に根付かせた功労者が、聖ヴァレンティノのロシア語読みであるワレンティンだったというのは偶然にせよ、何やら運命的なものを感じてしまいます。

 数奇な運命をたどったモロゾフ一族のビタースイートな物語は、川又一秀氏の著作「大正十五年の聖バレンタイン~日本でチョコレートをつくったV・F・モロゾフ物語」(1984年 PHP研究所刊)に詳しいので、ご一読をお勧めします。

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 みんなを笑顔にするチョコレートやココアの主原料となるカカオ豆は中米から南米大陸にかけての地域が原産。

 中米でマヤ王朝が繁栄した15~16世紀。アステカでは、当時貴重品だったカカオ豆を原料とする飲料で、紀元前までその起源が遡る「ショコラトル」を口にすることができたのは王侯貴族や戦士といった一部の階層に限られていたといいます。

aztec_cacao_warrier.jpg【Photo】焙煎したカカオ豆を臼で砕き、アステカの主食トウモロコシ粉や唐辛子などの香辛料を加えて加水した「xocolatl ショラトル」。チョコレートは野戦食として高カロリーであるばかりでなく、主成分のカカオには覚醒作用や血管拡張効果がある成分が含まれるため、16世紀アステカのみならず20世紀に入ってからも米軍兵士に軍需品として支給された

 ヨーロッパでは紀元前からユーラシアとして地続きの西アジアからインド、地中海を挟んだアフリカ大陸の存在は知られていました。

 15世紀にイベリア半島北東部のみならず、中部イタリア以南のナポリ王国からシチリア・サルデーニャ・コルシカ島まで版図を拡げたのが、アラゴン王国とカスティーリャ王国との連合体として成立するスペイン王国です。

 海洋国家ヴェネツィア共和国にとって交易上のライバルだったジェノヴァ共和国出身とされるクリストフォロ・コロンボ(英語名:クリストファー・コロンブス)は、1492年から1502年まで4回に及んだ航海において、勘違いから「西インド諸島」と名付けたバハマやキューバ、ジャマイカ、ヴェネズエラ、ニカラグアといった中南米大陸の一部に到達。

Cantino_planisphere_1502.jpg【Photo】西暦1500年4月、リスボンから海路インドを目指したポルトガルの探検家ペドロ・アルヴァレス・カブラルはブラジルに漂着。その一部を含む大航海時代初期にヨーロッパ人が認識していた世界が描き込まれた海図(部分)。イタリア・フェッラーラ公エルコレ1世・デステの配下だったアルベルト・カンティーノが1502年にリスボンで入手。現存する最も初期に製作された地図のひとつ。イタリア・モデナ「エステンセ大学図書館」所蔵

 ヴェネツィアが富を独占していた地中海交易に対抗すべく、西回りのインド航路を開拓するよう命を受けた副産物として、大西洋の西方に陸地があることが初めてあまねく知られます。

 本来の目的であったアフリカ大陸最南端の喜望峰を迂回するインド航路の発見は、1497年にリスボンを出帆したポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマにより成し遂げられます。

 このように大航海時代を迎えていたヨーロッパ社会の西端に位置するスペインやポルトガル王国からは、黄金や奴隷狩りを目的にエルナン・コルテスやフランシスコ・ピサロら、数々の蛮行を働いた悪名高きConquistador(コンンキスタドール=征服者)たちが中米や南米大陸を目指しました。

Pietro_Longhi_La_cioccolata_del_mattino_1775-1780.jpg【Photo】東地中海を舞台とする交易で栄えたヴェネツィア共和国。〝アドリア海の女王〟と称された共和国が終焉を迎えたのが18世紀末。覇権を拡大するオーストリア帝国やナポレオンの足音が迫り、凋落の予兆が忍び寄る爛熟時代のヴェネツィア風俗を描いたピエトロ・ロンギ「朝のチョコラータ」(部分・1775~1780 / Ca' Rezzonico カ・レッツォーニコ「18世紀ヴェネツィア美術館」所蔵)

 そんな中でチョコレートの原型となる飲み物がヨーロッパにもたらされます。スペインやポルトガルの王族に続いてその恩恵に浴したのがカトリックの総本山バチカンを擁するイタリアでした。

 17世紀末から18世紀にかけてサヴォイア王国の首都で、1861年のイタリア王国統一後も1865年まで首都だったのがトリノです。現在はピエモンテ州の州都であるトリノで花開き、スイス・ベルギー・フランスの大衆へと広がったチョコレート文化に関しては、トリノ訪問翌年の2007年8月にまとめた拙稿「チョコレートの街 トリノ」を参照願います。

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 地中海の中心に位置し〝文明の交差点〟と称されるシチリア島は15世紀にはスペイン領でした。18世紀の幕開けまで続いたスペイン統治時代、シチリアにもたらされたのが「Cioccolato di Modica チョコラート・ディ・モディカ」。アステカで珍重されたカカオ豆の伝来当時のレシピで作られ、私たちが口にするチョコレートの原型を今に伝えます。

 チョコラート・ディ・モディカは、カカオバターを取り除いて発酵後に焙煎したカカオマスとブラウンシュガーだけで作ります。カカオ豆由来の脂肪分は融点に達するも、粗糖が溶け切らない42℃~45℃以下の低温で混ぜ合わせ、型に流し込んで成形したもの。

bonajuto-cioccolato-modica.jpg【Photo】現存するシチリア最古のチョコラート・ディ・モディカの作り手である「Bonajuto ボナイユート」のカカオ豆70%「Cioccolato Settanta %」のザラザラした断面には、溶け切らない粗糖の粒子が見て取れる

 その〝ガリッ、ジャリッ〟とした食感は、馴染み深い一般的なチョコレートや、トリノで発明されたジャンドゥーヤのより滑らかな口当たりとは印象が大きく異なります。

 19世紀になって産業革命の中心地だったイギリスで抽出法が編み出されたカカオバター成分を練り込んで固形化に成功したことで、チョコレートは滑らかな口どけを獲得。大きな転換点を迎えて今日に至ります。

 後述する理由から、昨秋から冬にかけて購入したのが、共にシチリア州南部ラグーザ県のチョコレートの街として知られるモディカにあるチョコレート工房「Bonajuto ボナイユート」製「チョコラート・セッタンタ%」下画像左と「Luchino ルキーノ」製「ピスタッキオ・ディ・シチリア・ビオ」下画像右の2種。

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 パッケージのサイズは異なりますが、どちらも50g容量。地元モディカでは€2.9(約362円)~€3.2(約400円)ほどで入手できます。

 1880年創業でシチリア最古参だというボナイユート店頭では、一説では300種類の味がするというカカオ豆の苦味しかほぼ感じない(笑)100%ほか、90%・80%や唐辛子入り・レモン風味など、シチリア伝統のモディカチョコの試食ができるので、好みの味を見つけることができるはず。

 庄イタは程よいカカオ感を味わえる70%がお気に入り。

 ボナイユートの製品は、神戸市東灘区岡本の輸入食材店「PORCO BACIO ポルコ・バッチョ」で取り扱います。(税込864円)
 
luchino-modica-pistacchio.jpg【Photo】JASやICEAの有機認証を得ている「Luchino ルキーノ」の「Cioccolato di Modica Biologico」シリーズのピスタッキオ風味(税込918円)

 ペルー産のオーガニックカカオと相性が良い有機ピスタッキオ(=ピスタチオ)風味のチョコラート・ディ・モディカを見つけたのが、白トリュフオイルの項でもご紹介したJR大阪駅構内の大型商業モール「ルクア大阪」B2F「キッチン&マーケット ルクア大阪店」と京都市中京区東洞院通「京都八百一本館」2F「Pantry」。

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 過去に一度だけ食べたことがあったチョコラート・ディ・モディカを、何故に急に思い立って立て続けに購入したのか。種明かしをしましょう。

 転勤に伴う住まい探しのため、2泊3日の日程で大阪市内に宿泊した2017年3月某日の夜。訪れたのがホテルから徒歩圏の西区京町堀にあるシチリア料理店「Cuccagna クッカーニャ」でした。

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 実は、同じビルのワンフロア上には転勤前にも訪れたことがあるマルケ料理店「Osteria la Ciccerchia オステリア・ラ・チチェルキア」があります。その日は予約できず、いわばマルケ州からシチリアに行き先を変更した格好。

 ところがどっこい。そこは魚介系を中心にシチリアらしい味付けを肩肘張らず楽しめ、気持ちの良い接客ぶりを含めて好感が持てるお店だったのです。良い店を嗅ぎ当てる庄イタの動物的な嗅覚は、前項で述べたように前々世はトリュフ犬だったかもしれないと妄想を巡らす根拠の一つなのです。

 思わぬ怪我の功名で出合ったクッカーニャでしたが、昨年10月、大阪府豊中市の緑地公園駅近くに移転。
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 新天地でご活躍中の今木宏彰シェフの片腕だった谷後斉シェフが、移転前のクッカーニャを引き継ぐ形で「Torattoria Aria トラットリア・アリア」を昨年9月にオープンしました上画像

【Photo】パレルモの星付きリストランテ「Bye bye Blues」でも料理の腕を磨いただけでなく、ソムリエとイタリア政府公認バリスタの資格も有する谷後斉シェフ。昼は食後にラ・マルゾッコで淹れるエスプレッソをお願いするのが常の庄イタが、気まぐれからシェケラートを所望すると、鮮やかな手つきでシェーカーを振りだした

 ある日のランチコースで前菜3品に続いて登場したのが、シチリア島東部カターニャ県ブロンテ産ピスタッキオソース & モディカチョコ風味のパスタ料理でした。

 パウダー状にしたモディカチョコが、相性の良いピスタッキオと絡み合い味に深みを添えるこの一皿。もともとは今木シェフのスペチャリテだったのだそう。夜に伺った際はマッケローニタイプのショートパスタで、粒状のピスタッキオもトッピングされてきました下画像

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 チョコとピスタチオは鉄板の組み合わせ。これはハマってしまいました。その衝動を抑えるため、チョコラート・ディ・モディカを調達したのです。

 ピスタチオ風味といえば日本ではジェラートやスイーツでおなじみかと思います。産地のカターニャ周辺ではバリエーション豊富なシチリア風Crochetta クロケッタ(=コロッケ)「Aranchino アランチーノ」の具としてや、ペースト状にしてパスタソースとしても活用されます。

 エトナ火山の西方に広がる火山性土壌で育つブロンテ産ピスタッキオの生産量は年間3,500~2,500トンほど。これは全世界の1%にも満たない数字にすぎません。

※ 再生時音楽が流れます

 それでも日本円換算で25億円もの経済効果を人口2万人足らずのブロンテ村にもたらし、色合いから「Oro Verde (=Golden Green)」とも呼ばれるブロンテ産ピスタッキオが、品質において世界の頂点にあることは、事情通の間では周知の事実。

 熟すると白っぽくなる殻で外側を覆われ、ピーナッツのように赤味がかった薄皮に包まれた淡く鮮やかなグリーンの実は目にも鮮やか。 

 9月に入ると一斉に始まる収穫は2年に一度。今年2019年は収穫年に当たっています。

 あぁ、行きたいなぁ...シチリア。

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Trattoria Ariaトラットリア・アリア

Trattoria ARIA.jpg・住:大阪市西区京町堀2丁目3-4 サンヤマトビル2F
・Phone:06-6131-5440
・営:12:00~14:30 18:00~23:00 水曜定休・月一回不定休あり
・URL: https://www.facebook.com/Trattoria.ARIA.osaka/

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投稿者 vam : 07:49 | カテゴリー : Cuccina Italiana

2019/01/01

普段使い版 白いダイヤモンド

 Felice anno nuovo a tutti!
 皆さま新年おめでとうございます。
 
 2007年(平成19)に始動した「Viaggio al Mondo~あるもん探しの旅」。
早いもので12年目を迎え、平成最後の年となる2019年で干支も一巡。イノシシの如く今年も駆け巡ります。ご愛顧のほどよろしくお願いします。

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お手軽な朝のプチ贅沢


 〝白いダイヤモンド〟ことイタリア・ピエモンテ州産の白トリュフは、昨シーズン当初不作で100g当たりの取引き相場は€300(37,500円)でしたが、今季は€150~€170(18,750円~21,250円)で推移。昨季の半値ほどといっても、気軽に口にできる代物ではない高級食材に変わりはありません。

giuliano_tartufi-ring.jpg 前回・前々回と2回続きでそれなりの出費を伴う白トリュフまみれ & 銘酒オンパレードの内容となりました。〝白トリュフなど自分には縁遠い話だ〟と、鼻白んだ方がおいでかもしれません。

 そこで今回は庄イタが普段使いしており、1,000円+αで家庭料理に白トリュフのリッチな香りを添えるお手頃な食材をご紹介しましょう。

 毎朝のシンプルなスクランンブルエッグや半熟目玉焼きが一変、プチゴージャスな気分が味わえる一品に変身するはずです。

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Cane-Lagotto-Romagno.jpg 毎年9月21日の白トリュフ収穫解禁から、最盛期の10月から11月にかけては気もそぞろ。巷(ちまた)から届く白トリュフシーズン到来を告げるお誘いに「パブロフの犬」状態になる庄イタ。

 かくも庄イタが白トリュフの香りに敏感なのは、前世ではピエモンテの森でポプラ・ナラ・オークなど照葉樹の周辺を嗅ぎまわるトリュフ犬だったからなのかも。

【Photo】黒い瞳がキュートなトイプードルにはルックスで一歩引けを取るも、性格は社交的で主人に忠実。穴掘りが好きで鼻が利くイタリア原産の「ラゴット・ロマニョーロ」はトリュフハントにピッタリな犬種のひとつ。庄イタの前世はこんな感じ?

 地中深くに潜む白トリュフの香りを探知するや、高ぶる感情そのままに尻尾を激しく振り、前足で〝ココ掘れワンワン〟。収穫の手柄はご主人様に譲り、芳香を漂わせる白いダイヤモンドを地中から見つける度、褒めちぎられ、ご褒美のビスケットにありつけた遠い過去の習性がDNAに深く刻まれているのでしょう。

 日本ではトリュフハントはブタが行うという俗説がまかり通っていますが、それは遥か遠い中世・ルネッサンス期から第二次大戦前のイタリア、ないしはフランスのごく一部に限った話。現在は図体が大きく気性が荒いブタよりもずっと飼いやすく、主人に従順な賢い犬がトリュフ探しに欠くことができない存在の首座に就いています。

Perigord-cochon-truffe.jpg【Photo】フランス中西部ペリゴール地方で19世紀に行われていた黒トリュフハントを撮影したアンティーク・ポストカード。庄イタにとっては言葉すら聞き取れずシンパシーを感じない縁遠い国ゆえ、前世がトリュフ豚だった(!!)などという悪夢のような話は2000%ない。Comment allez-vous? désolé mais.

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 霊長目ヒト科へと転生した現世はさておき(ワンコだったかもしれない)前世では職務に忠実だったためか、獲物の香りは定期的に嗅いでおかないと、どうも落ち着きません。

 さりとて欲求の赴くまま、シーズンを通して本物の白トリュフを常食しようものなら、あっという間に破産してしまいます。

 現実的な解決策としては、代用品にお出まし願うしかありません。〝芸能人は歯が命by Apagard〟ならば〝白トリュフは香りが命〟。
 
tuber-magnatium-pico-pescerosso2018.jpg 北部ピエモンテ州クーネオ県アルバで1928年から開催され、今季で88回目を迎えた白トリュフ見本市ほど歴史が長く、また大規模ではありませんが、マルケ州、トスカーナ州、エミリア・ロマーニャ州などの中部から、ラツィオ州、モリーゼ州などの南部まで白トリュフ祭りが催されており、その産地はイタリア各地に及びます。

 乾燥を防ぐドーム型ガラス容器を開け放つや否や、擦り下ろす前から部屋中に香りが拡散するのがアルバを頂点とする白トリュフの凄さ。

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 アルバのトリュフ専門店「Tartufi Ponzio タルトゥフィ・ポンツィオ」で購入した10月中旬の最も出来が良い時季のアルバ産白トリュフを99%使用したという瓶入りのペースト上画像は、ごく少量でも十分な香りの密度といい、開封後4ヵ月ほどで使い切るまで衰えない持続性といい、実に素晴らしい品質でした。

 強いて欠点を探せば、希少価値の高さゆえ、30g容量で€85(≒ 10,625円)と値が張ること。そして日本では入手困難であることでしょう。

※ 再生時に音声が流れます

 多彩なイタリア製品を取り揃え、阪急百貨店梅田本店で秋に催された「イタリアフェア2018」は、北イタリアがテーマでした。イートインの呼び物は1日限定100食の「アルバ産白トリュフ風味のタヤリン」。一皿6,480円という値付けに尻込みされた方も少なくなかったのでは?

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 Viaggio al Mondo~あるもん探しの旅「プロフィール」をご覧いただければ明らかなように、ライフスタイル自体がイタリアナイズされている庄イタ。たとえ毎年アルバには行けずとも、あるいは年に1回の百貨店催事ではなくとも、常備品の調達ルートは確保してあります。

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 幸いなことに現代のテクノロジーをもってすれば、白トリュフに限りなく近い香りを化学的に再現することは可能です。高嶺の花をぐっと身近に引き寄せる〝リーズナブル版白いダイヤモンド作戦〟で使用するツールこそが、香り付けされたオイル、塩、ペースト、バターなど。

ori-di-langha-sale.jpg 日本でいう〝香りマツタケ、味シメジ〟をイタリアに置き換えれば〝香り白トリュフ、味ポルチーニ〟となります。

 そう、いわく言い難い圧倒的で濃密な香りこそが、多くの人を魅了してやまない白トリュフ最大の魅力。

 そこで用立てたのが、白トリュフ塩「Sale con Tartufo Bianco サーレ・コン・タルトゥフォ・ビアンコ」。

 勤務先近くのモンテ物産アンテナショップ「Pico ピーコ」半期に一度のセールでお安く購入しましたが、通常は1,500円前後の実勢価格で入手可能です。

 地中海に面したフランス・ブルターニュ地方ゲランド産の海塩に、フリーズドライ加工したアルバ産白トリュフ(Tuber magnatum Pico)1.5%相当を混ぜ込み、白トリュフ特有の香気成分である2,4-ジチアペンタンなどの香料を加えた製品です。

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 製造元の「Ori di Langa オーリ・ディ・ランガ」は、アルバ市街地からタナロ川を越えて北西へ5kmほどのピオベジ・ダルバで1980年に創業したトリュフ専門の食品加工業者。

ori-di-langa-sale3.jpg フリーズドライを施しているため、白トリュフは0.3%の重量しかありませんが、素材の持ち味を増幅させる香料の恩恵もあり、瓶の蓋をきつく締めていても漏れ出てくる強烈な白トリュフの香気は、香り付けという目的を達するには充分。

 塩ゆえ摂取量には気を使いますが、スクランブルエッグなら一つまみから二つまみ程度振りかければOK。30g容量とコンパクトなため〝マイ塩〟的に外食する時にも活躍してくれます。

 パッケージには開封から1カ月以内で食べきるよう指示がありますが、実際には数カ月間は香りが飛ぶことなく使えます。 

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 かたや拙宅の最寄りである阪急電鉄神戸線夙川(しゅくがわ)駅構内の食料品店「成城石井」で購入したのが「Sale al Tartufo サーレ・アル・タルトゥフォ」(50g/税込1,500円)。

 こちらは地中海の真ん中に浮かぶサルデーニャ島産の天日海塩を220℃で高温焼成。マグネシウム由来のえぐみが無い塩味にイタリア中部マルケ州ペーザロ・エ・ウルビーノ県Acqalagnaアクアラーニャ産のトリュフ風味が重なります。

sale-al-tartufo2.jpg 四方を海に囲まれたサルデーニャ州は、トラパニを擁するシチリア州と並んで製塩業が盛ん。

 そしてアペニン山脈の山懐に抱かれたアクアラーニャは、中部イタリア地域においてはアルバに引けを取らぬ白トリュフの一大集積地です。

 採取量の減少傾向も手伝って高値を呼ぶアルバ産白トリュフ。秋を迎える頃になると深い霧に包まれるランゲの森で採取されるはずが、5m先すら見通せない霧の先はアクアラーニャの森に繋がっているケースもあるというまことしやかな噂も。

 製造元のイタリア食品輸入業者「アーバ・アンド・イデア」によれば、香料は使用しているものの、開封後は長期保存せず使い切ってほしいとのこと。

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 白トリュフのお手頃な代用品として庄イタお薦めの筆頭格が、エキストラヴァージンオリーブオイル+乾燥白トリュフ+香料の三位一体が生み出す高貴な香りが長く持続する実用性の高い白トリュフフレーバーオイルです。

giuliano-tartufi-olio.jpg コチラは靭(うつぼ)公園近くのイタリア食材専門店「Officina del Gusto オフィチーナ・デル・グスト」でお勧め頂きました。

 昨年4月、JR大阪駅構内北側の大型商業モール「ルクア大阪」B2Fに出現したイタリア食材やドルチェ、飲食コーナーが豊富に揃う「キッチン&マーケット ルクア大阪店」でも取り扱いがあります。

 イタリア中部ウンブリア州ペルージャ県ピエトラルンガで1991年に創業した「Giuliano Tartufi ジュリアーノ・タルトゥフィ」製で、100mℓ容量の1本がオフィチーナ・デル・グストでは1,300円台とお手頃プライス。

※ 再生時に音声が流れます

Cuore verde d'Italia(イタリアの緑の心臓)〟と呼ばれるウンブリア州は良質なオリーブオイルの産地。黒だけでなく白トリュフも採れるピエトラルンガでは、毎年10月にジュリアーノ・タルトゥフィもブース出展する「Mostra Mercato del Tartufo e della Patata Bianca(=トリュフとジャガイモ見本市)」が催されます。

 使い勝手の良いこの白トリュフフレーバーオイル。オイルにしろ、バターにしろ、さまざまな商品を試してきた中では最後まで香りが飛ばないため、目的に適った商品といえます。

 このオイルと白トリュフ塩さえあれば、盛り付けの最後にさっとひと掛けするだけで効果絶大なのです。

 実証実験のため〝みんなでトリュフ放題〟なる企画を実施中の芦屋市にある某ファミレスチェーンGに初潜入を試みました。

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 白トリュフオイルを使用しているというトリュフクリームスープを注文しましたが、〝放題〟と呼ぶには、白トリュフの香りが物足りなさすぎ(笑)。

 税抜299円というお手頃価格から予想はしていましたが、読み通りの展開でした。そこで懐から取り出したのが、念のため持参した必殺ジュリアーノ・タルトゥフィ製の白トリュフオイル。上左画像 さっと一振りするだけで、触れ込み通り芳醇な白トリュフが香るキノコスープに劇的に変身!上右画像

2006_alba-fiera-tartufo.jpg アルバの白トリュフ見本市会場で食べたこのフレッシュ白トリュフたっぷりな目玉焼き上画像そのままのイメージに毎朝の一皿を変身させることだって簡単にできちゃうのですよ。

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投稿者 vam : 00:30 | カテゴリー : Cuccina Italiana

2018/12/22

祝・解禁!白いダイヤモンド 【後編】

Shine on you crazy White Diamond [ part.2 ]
 

 白いダイヤモンドことアルバ産白トリュフに相応しい2本、バローロに本拠を置くViettiD.O.C.G.バルバレスコ'89、バルバレスコに本拠を置くGaja の表記上はD.O.C.でも実体はD.O.C.G.バローロ'96という極上の変化球を仕込んで臨んだ東心斎橋「Pesce Rosso」での一夜を振り返りましょう。

 事前にK氏と庄イタが持ち込んだワインの素性をソムリエの小田浩司マネージャーから聞き出していたH氏は「二人が思いっきりハードルを上げたので」と苦笑い。そりゃそうです。世界で最も高価な食材に釣り合うそれなりのワインを用意したのですから。

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 遥か高みへと昇り詰めるであろう2本目・3本目に至る流れを考え、H氏がスターターに選んだシャンパーニュは「Bollinger ボランジェ」。「Krug クリュッグ」などと共に英国王室御用達の栄に浴する6軒の造り手の一角を占めます。その特級銘柄にあたる「R.D. 2002 Extra Brut エール・デ '02 エクストラ・ブリュット」で乾杯。

 H氏がお好きな映画「007」の原作者イアン・フレミングが1956年に発表した「Diamonds are Forever(ダイヤモンドは永遠に)」にボランジェの名が初めて登場しています。映画化8作目の「Live and Let Die(死ぬのは奴らだ)」('73年公開)では脇役的な扱いでしたが、シリーズ11作目「Moonraker(ムーンレイカー)」('79年公開)においてボランジェとのプロモーションタイアップ契約が成立。映画冒頭からブランド名入りワインクーラーが映し出されました。
 Moonraker-bollinger.jpg 10作目「The Spy Who Loved Me(私を愛したスパイ)」('77年公開)まではタイアップ先だったドン・ペリニョンばかりを飲んでいたジェームス・ボンド。流した浮名は数知れぬボンドですが、ことシャンパーニュに関してはボランジェ一筋へと宗旨替えしています。

 新作が公開されるごと話題に事欠かない007MI6(英国秘密情報部)秘密兵器開発主任Qがスパイ仕様の特装を施したアストンマーティンDB5などの歴代ボンドカーをはじめ、今や日本円換算で10億円を超すといわれるタイアップ契約と引き換えにボランジェは作中での寡占状況を維持しています。
 007bollinger.jpg【Photo】映画007とボランジェのタイアップ商品例。拳銃のサイレンサーをかたどった専用ケース入りタイアップボトルの「ボランジェ2002BRUT」。ダイヤル式のロックを開錠する番号は「007」。バレバレである(上画像) 現時点でのシリーズ最新作「スペクター」で6代目ボンド、ダニエル・クレイグが着用したオメガ・シーマスター300(下画像
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 007最新作「Spector スペクター」でジェームス・ボンドが着用したオメガ・シーマスター300 &ストラップを愛用しておいでで、実はMI6の諜報部員かもしれないH氏も購入したという007パッケージのシャンパーニュをリリースするなど、前々回サンドバッグ状態にしたボージョレ・ヌーボーほどではありませんが、商魂たくましい一面もボランジェは持ち合わせているようです。

 話はさらに本筋から脱線しますが、10作目でも殺し屋として登場、公開済みの全24作を通して敵役としては唯一の連続出演を果たしたのが鋼鉄の歯を持つ大男ジョーズです。これ見よがしにラベルを撮影カメラに向けたボランジェR.D.を自慢の光り輝く前歯で抜栓、本来は無重力ゆえ空間に液体が漂うはずの宇宙船内で地球上と何ら変わらぬさまで恋人ドリーとグラスを交わします。

 ジェームス・ボンドのお気に入りという設定はまだしも、ジョーズまでもというオチがブランドイメージ向上に寄与したかどうかは微妙なところかと。

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 2002年はシャンパーニュ地方の当たり年。ピノ・ノワールをベースに出来が良かったシャルドネを例年より多めの比率で混醸、R.D.は瓶内二次発酵によって生じる澱を取り除く作業を11年もの長きに渡って行わず、出荷直前の2013年9月に澱抜きが行われています。

 R.D.とは、Récemment Dégorgé(=「最近澱抜きした」の意)の略で、良作年'02vinは、イタドリや栗のハチミツ、ドライフルーツのような芳醇な複雑味が特徴。それでいて、オールドヴィンテージシャンパーニュにしてはフレッシュさも持ち合わせています。「うーむ、コレは美味しい。」

 英国生まれで駐日英国大使館発行のパスポートを所持するH氏。フィッシュ&チップスからローストビーフまでドライな泡もので通す英国紳士と相通じるアルコールの嗜好から察するに、ロンドンで授かった産湯はご自宅に常備しておいでだというMoët & Chandonに加え、締めの定番The Macallanと「007カジノ・ロワイヤル」でボンドが注文するカクテル「ヴェスパー・マティーニ」のベースとなるGordon'sというシャンパーニュ&スコッチウイスキー&ジンの3種混合だったはず。

 そんな妄想を巡らしながら、2皿目まではR.D.'02vinで通しました。

prosciutto-cavallo.jpg・1皿目:ピエモンテ産馬肉の生ハム パルミジャーノチーズ
     with ボランジェR.D.2002上画像

 店に預けておいたバルバレスコ'89と実質的にバローロなランゲ・スペルス'96が開くよう、1皿目の登場時点で珠玉のネッビオーロ2本をアイドリング状態に移し、白トリュフの饗宴は幕を開けたのです。
 

hariica-akakabu-beats.jpg・2皿目:紀州産ハリイカと赤カブ ビーツのピューレ上画像

☞ 暑く乾燥した夏から収穫期まで理想的な条件下で傑出したワインが造られてから29年。一口目から血統の良さを示し、本領発揮のVietti Barbaresco Masseria '89が登場下画像

vietti-barbaresco89.jpg「まさにエレガント!! グラスのエッジがレンガ色からオレンジ色に変化していることから察することができる熟成が進んだネッビオーロの上品な深みが素晴らしい。」


gamberorosso&celeriac.jpg・3皿目:赤海老とセロリアック 秋トリュフの香り上画像


pesce_rosso2018.11.13.jpg 白トリュフ教の敬虔な信者である迷える子羊・庄イタに秘蹟を授けるべく、聖地アルバ産の聖体白トリュフと典礼聖具スライサーを手に厳かな聖体拝受の儀式を執り行う司祭役の小田マネージャーがカウンター席へと降臨上画像

luce-nord-tartufi3.jpg・4皿目:1年熟成のキタアカリ 半熟卵のせ + アルバ産白トリュフ
     with ヴィエッティ バルバレスコ・マッセリア'89上画像


Tagliolini-porcini-freschi.jpg・5皿目:フレッシュポルチーニのタリオリーニ上画像


 瞑目してVietti Barbaresco '89の余韻に浸っているところに6皿目のリゾットが運ばれてくると、聖体白トリュフと聖具スライサーを携えて小田マネージャーが再降臨下画像

Oda-mng-risotto-tartufi.jpg 
☞ 若々しいガーネットの色合い、グラスの中に幾筋も現れる通称「ワインの涙」がピークを過ぎた枯れたワインでは低下する粘性が今なお高く、ポテンシャルの目安となるアルコール度数の高さも示すGaja Langhe Sperss '96(下右側)。遥か高みの頂は遠い先にある熟成途上にある千両役者がここで加勢。

 「ガヤらしい高い完成度。均整がとれた瑕疵のない異次元のハーモニー。
  す... 素晴らしい!!

 最後の晩餐で十二使徒に対してキリストが発した〝これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯...〟という有名な一節を小田神父様マネージャー様がここで囁けば、庄イタは6皿目で被昇天したかもしれません。

risotto-tartufissimi.jpg・6皿目:白トリュフが覆いつくすリゾット
      with ヴィエッティ バルバレスコ・マッセリア'89(左)
        ガヤ ランゲ・スペルス'96(右)上画像


 二枚重ねのパスタ生地の間に肉などの詰め物をし、セージバターソースで食するラヴィオリ風のピエモンテ料理「アニョロッティ・ダル・プリン」。ライブ感いっぱいのカウンター席から撮影したオープンキッチンで山中シェフが手で成形する様子をどうぞご覧ください。


 
 またしても白トリュフまみれとなったアニョロッティ。ナイフを入れると、トローリと溢れ出てくる卵黄が白トリュフと鉄板の組み合わせを演出する仕掛け下右画像

agnorottiPesceRosso2018.11.13.jpg agnorottiPesceRossoⅡ2018.11.13.jpg

・7皿目:卵黄のアニョロッティ+ 白トリュフ
     with ヴィエッティ バルバレスコ・マッセリア'89上左画像


Wagyu-borritoBarbaresco.jpg・8皿目:バルバレスコで煮込んだ和牛とタルティーヴォ
     with ガヤ ランゲ・スペルス'96上画像

 ☞「...なんも言えね。」(北島康介風に)


 時が過ぎるのを忘れて満ち足りた時間に身を委ねるとは、まさにこういうひと時を指すのでしょうか。

 庄イタはデザートのモンテビアンコ(モンブラン)に移行する局面でしたが、ドルチェ抜きで〆にグラッパを所望したK氏。

BertaAnniversario70Riserva.jpg ほどなく木箱入りで静々と登場したのが、イタリア国内で初めてバリック熟成を導入した至高のグラッパを造る「Berta ベルタ」が創立70周年を記念し、ファーストヴィンテージの'82年を含む10のヴィンテージを特別ブレンドで仕上げた限定バージョンの「Riserva 70 anni リセルヴァ・セッタンタ・アンニ」。

 存在自体は知っていたこのグラッパ。4名で飲み干したボトル5本の画像を【前編】でご紹介した10月半ばにほぼ同じ顔ぶれで催した豪華ラインナップを取り揃えたワイン会当日、初めて実物を拝ませてもらっていました。その会場となった四天王寺前夕日ヶ丘にあるレストラン併設のワインショップに鎮座していたものの、5万円を超す価格にワナワナとたじろぎ、ため息とともにその前を立ち去ったのでした。

Berta70anni-tartufo-bianco.jpg

 Bertaは、この夜の2本目として開けたヴィエッティを含むAsti アスティ県の造り手が、自社畑で栽培するブドウ品種「Barberaバルベーラ」を互いに持ち寄り、その究極の姿を示そうと取り組んだ「Hastaeハスタエ」の参加メンバー。浪花食い道楽三人衆が集った初回のワイン会における主役は、共同プロジェクトの成果として世に出た「Quorum '99」でしたし、前回「Ai Suma '00」を開けた「Braida ブライダ」もプロジェクトに名を連ねていました。

 そんな縁を感じつつ、庄イタもグラス1杯だけ所望。

montebianco&berta.jpg

・9皿目:モンテビアンコ
     with ベルタ グラッパ・リセルヴァ・セッタンタ・アンニ
       特製白トリュフ風味上画像

 ☞「...(TT)」(前言を絞り出した後、感極まった北島康介風に)

 日本に数本しか入荷しなかったというずっしりと重い1,500mℓ容量マグナムボトルから大ぶりなグラスに注がれた琥珀色の液体には、なんとピエモンテ式に惜しげもなくアルバ産白トリュフがスライスされてゆきます。それは豪奢な白トリュフの饗宴を締めくくるにふさわしい1杯となりました。

wine-bottles.jpg 郷里ピエモンテの秋の恵みに存分に浸った帰路。ピエモンテで言えば、D.O.C.G.ドリアーニで使われるドルチェット種のような濃厚なワインカラーの阪急電車に揺られながらAirpodsで聞いていたのが、白トリュフのWhiteを挟み込んで今回の副題とした英国の偉大なロックバンド「ピンク・フロイド」が1977年に発表したアルバム「Wish You Were Here(邦題:炎~あなたがここにいてほしい)」のオープニングと最後を飾る大曲「Shine on you crazy diamond」。

Pompei-anfiteatro.png 紀元前1世紀前半に造営され、最大2万人を収容したというイタリア・ポンペイ遺跡「Anfiteatro 円形闘技場」上画像で1971年10月に行われた伝説的な無観客ライブ演奏から45年を経た2016年7月、バンドでギタリストだったデイヴ・ギルモアが再びポンペイ遺跡でこの曲を演奏しています。

 庄イタが恋い焦がれる白トリュフ。そのクレイジーなまでのファナティックさは、前世がピエモンテ人ではなく、ピエモンテのトリュフ犬だったからなのかもしれません。

 女性にとって永遠の憧れは光輝くダイヤモンドといわれますが、庄イタにとっての憧れの筆頭格であるアルバ産白トリュフにShine on you crazy diamondを捧げます。 

 思考や記憶を司る大脳皮質と海馬に深く刻まれた白いダイヤモンドの妙なる香りは、庄イタの中で決して色褪せることはありません。

 なぜなら〝ダイヤモンドは永遠の輝き (by "De Beers")〟ですから。

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PESCE ROSSO ペッシェロッソ

・住:大阪市中央区東心斎橋1丁目3-18
・Phone:06-6241-0030
・営:17:00~00:30(22時以降はワインバーとしての利用も可)
・URL: http://pesce-rosso.com/
・アルバ産白トリュフ祭り2018
  15,000円(トリュフ料理2品)18,000円(同3品)20,000円(同4品)
  通常コースに+5,000円で白トリュフ使用の一皿に変更可
 
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投稿者 vam : 01:42 | カテゴリー : Cuccina Italiana/| カテゴリー : Vino ヴィーノ/| カテゴリー : ・Fuori Tohoku 圏外遠征

2018/12/15

祝・解禁!白いダイヤモンド 【前編】

Shine on you crazy White Diamond [ part.1 ]


 重量あたりの単価が最も高価な食べ物であることから「白いダイヤモンド」とも称されるイタリア・ピエモンテ州クーネオ県アルバ産白トリュフ。妙なる忘れがたい香りが記憶中枢に刻まれた者は、その甘美な誘惑から逃れることなど到底できません。

Lamellata.jpg

 1920年代、未踏峰であったエベレストに挑む理由をニューヨークタイムズ紙の記者に問われた英国の登山家ジョージ・マロリーが〝Because it's there.(そこにエベレストがあるから)〟と答えた逸話はあまりに有名です。

 白トリュフに執着する理由を問われたならば、即座に〝そこに白トリュフがあるから〟と前世ピエモンテ人の庄イタは答えるはず。

tajarin_agnrotti@sammarco.canelli.jpg【Photo】庄イタ史上最も贅沢なランチコース@ピエモンテより。「アルバ産白トリュフまみれのタヤリン(左)とアニョロッティ・ダル・プリン(右)」

 世界各国から美食家が集う「Fiera Internazionale Tartufo Bianco d'Alba(アルバ国際白トリュフ見本市)」が開催される10月初旬から11月末にかけては、トスカーナ州やエミリア・ロマーニャ州などイタリア北部から中部にかけての産地でトリュフ祭りが開催されます。

fiera-tartufo-bianco@alba.jpg【Photo】一部の黒トリュフのように人工栽培法が確立されていない白トリュフは、収穫の多寡や時季などによって相場が変化。昨年は100gあたり€700の値付けがなされ、収穫期に雨が多かった今シーズンは€290で入手できたという。毎年秋にアルバで開催される白トリュフ見本市の会場では、素性が明らかな白トリュフ一個ごと強弱が異なる香りを確認でき、買い手と売り手側のトリュフハンターは丁々発止のやり取りを繰り広げる

 アルバ産白トリュフ(Tuber magnatium pico)は、あらゆるトリュフの頂点に君臨するトップブランド。それなりの出費は伴うのは覚悟の上で、むせ返るような白トリュフの濃密なる洗礼をアルバ近郊で受けられんことを確信をもってお勧めします。

〝こんな驚天動地の物体がこの世には存在していたのか...〟フランス料理で珍重されるペリゴール地方産黒トリュフ(ごとき)を有難がっていた方でも、それまでの価値観がガラガラと音を立てて瓦解。驚愕されること請け合いです。

※ 再生時に音楽が流れます

 白トリュフは訓練された優秀なトリュフ犬が鋭敏な嗅覚で地中深くから掘り出した瞬間から、水分と共に香りが徐々に失われる運命にあります。希少性は言わずもがな、その儚さゆえ、尊さはいやが応にも増すというもの。

 深い霧のヴェールにランゲの森が包まれる季節を迎える頃。具体的には毎年9月21日の解禁日から翌年1月31日までの白トリュフを採取できる期間に「Trifulau(トリュフラウ)」と称されるハンターが人目を忍んで採取したばかりの上物を現地で食するのが理想。なれど、それは自由になる時間と懐具合に余裕がある方に限られます。

Fiera-del-Tartufo2018.jpg

 悲しいかな、どちらをとっても余裕がない大人の事情から、ピエモンテから飛来するコウノトリが運んでくる白トリュフで留飲を下げているここ数年。

 並み居る黒トリュフでは到底太刀打ちできない濃密な魅惑の香りを今年も堪能することができました。

wine-bottles.jpg

 昨年に引き続き、その舞台となったのは、東アジアを中心とするインバウンドで活況を呈する大阪ミナミの喧騒を離れた一角にあるスタイリッシュなイタリアン「Pesche Rosso ペッシェ・ロッソ」。

PesceRosso.jpg【Photo】契約満了で退社するアルバイト社員の慰労会をPesche Rossoで行った某日。店名が意味する金魚が泳ぐ水槽がエントランスに設けられた店の前で同僚に撮影してもらったツーショット

 現地で食するには及ばないまでも入荷したての白トリュフを狙ったため、ペッシェロッソに予約を入れたのは今年のアルバ産白トリュフ祭りの初日である11月13日(火)の宵でした。

pesce-rosso-postcard.jpg

 2度に及んだ訪店でアルドとジャコモのコンテルノ兄弟頂上バローロ対決を演出した昨年と同様、浪花食い道楽三人衆でエントリーした今年も飲み頃を迎えているであろうヴィーノ・ロッソをセラーから物色。コンディションを整えるため、抜栓する10日以上前に店に預けることにしました。

 ご一緒したH氏は泡もの専科で、もうお一人のK氏は庄イタと同じ筋金入りのイタリアワインラヴァー。白トリュフがお題の今回とほぼ同じ顔ぶれで、過剰在庫を減らすためのワイン会を催してきました。

お好みワイン.jpg 初回メンバー.jpg

 大阪情緒溢れる〝粉もん&焼きそばとイタリアワインの相性を知る会@新福島〟では、庄イタが醸造所を訪れた年の「Percarlo ペルカルロ'03」とレア物「Quorumクオラム'99」、K氏はトスカーナ版バタールモンラッシェこと「Batàr バタール'12」、H氏は「BollingerボランジェN.V.」を持ち込み。

 バルベーラの逸品「Ai Sumaアイ・スーマ'00」を持参したK氏のアジトで催した〝ワインショップ直営フレンチとイタリアワイン会@四天王寺前夕日ヶ丘〟。H氏セレクトの「Taittinger Nocturneテタンジェ・ノクターン」でスタート。オーナーソムリエール秘蔵のカリフォルニア・サンタバーバラ地区の造り手オーボンクリマ「Hildegardヒルデガルド'03」を挟んでイタリア全土が空前のグレートヴィンテージに沸いた'97年vin庄イタコレクションから、カベルネ・ソーヴィニョン主体だった「Paleoパレオ'97」と珠玉のデザートワイン「Recinaioレチナイオ'97」の2本をチョイス。

@wassy's.jpg

 かように料理の傾向は定まらずとも〝泡もの+イタリアワインの多様性を味わう〟という軸はいささかもブレません。

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 今回、K氏からはBaroloに醸造所があり、1961年からクリュの概念を取り入れた造り手「Vietti ヴィエッティ」が唯一バローロ域外のネイヴェに所有する畑の収穫時点で樹齢30年ほどだったネッビオーロを仕込んだ「Barbaresco Masseria バルバレスコ・マッセリア'89下左を事前に持ち込む旨のメールを頂いていました。

 1989年は80年代を代表するグレートヴィンテージ。一般にバルバレスコはバローロほどではないにせよ、若いうちは渋味と感じるタンニンが強い傾向にあります。収穫から30年近く熟成を重ねてタンニンが和らぎ、飲み頃に差し掛かっているはず。まさに白トリュフ料理にふさわしい正鵠を射た選択です。定石を踏んだ先手を見極めた上で、後手の庄イタはタイプが異なる1本を供出することにしました。

 数本の候補の中から白羽の矢を立てた造り手は、イタリアワイン界に偉大な足跡を残してきた「Angelo Gaja アンジェロ・ガヤ」。選んだのはピエモンテでは長期熟成型のワインが造られた優良年の「Langhe Sperss ランゲ・スペルス'96下中央

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 呼称こそイタリアワイン法では2番目の「D.O.C.Langhe ランゲ」ですが、その中身は最上位「D.O.C.G.Barolo バローロ」エリアでも最も傑出したバローロを産出する「Serrarunga d'Alba セッラルンガ・ダルバ」地区で1988年に購入した自社畑Sperssで1996年に収穫された長熟型の高貴品種「Nebbioloネッビオーロ」をバローロの規定に沿って仕込んだ紛れもない偉大なバローロです。

 ネッビオーロから造られる銘酒「Barolo バローロ」と「Barbaresco バルバレスコ」は、ピエモンテが誇る両雄。なかでもガヤは、ピエモンテのみならず、イタリア屈指の壮麗で完成度が高いワイン群を造り続けてきました。

 大きな白抜き文字でGAJAと記されたエチケッタで知られ、凡庸であることが許されないこの名門醸造所は、アルバにほど近いバルバレスコ村の中心部にあります。

cantina_GAJA_2006_10.jpg【Photo】バルバレスコ村にある「Azienda Agricola GAJA」。醸造所ゲート脇の壁面には家名が浮き彫りされたプレートが架かる。畏敬の念を抱く偉大な造り手に対し、手放しで称賛の意を表する庄イタ

 '96年は品質向上のために一切の妥協を排除してきたガヤにとっての一大転機となった年。当時、個性が明確な単一畑(クリュ)がもてはやされ、畑の個性を組み合わせて一つの味に仕上げるD.O.C.G.バルバレスコをともすると軽視する風潮がありました。そこに反旗を翻したのがアンジェロ・ガヤでした。

 高値で取引される「Sori San Lorenzoソリ・サンロレンツォ」や「Sori Tildin ソリ・ティルディン」など、ブルゴーニュのグランクリュに相当するバルバレスコ、そしてD.O.C.G.バローロのエリアに所有するピエモンテ方言でノスタルジーを意味するのだという「Sperss」と「Conteisa コンテイーサ」については「D.O.C.Langhe ランゲ」にすべて格下げ。唯一のD.O.C.G.をバルバレスコ一本としたのです。

Barbaresco- Masseria89sperss96.jpg【Photo】バルバレスコ・マッセリア'89(左)とランゲ・スペルス'96(右)の色合い比較。いずれも高貴品種ネッビオーロでありながら、熟成するに従ってレンガ色へと変化する度合いの違いが見て取れる通りの味わい。綺麗に熟成したバルバレスコのエレガントさが際立つヴィエッティ'89。一方のガヤ'96はタンニンの収斂性は影を潜めるも、まだまだ力強さが漲る。綻びなど微塵も見せずに高い次元でさまざまなニュアンスが調和する

 17世紀にスペイン・カタルーニャ地方から移住した一族で、醸造家としては4代目となる当主アンジェロ・ガヤは、1960年にアルバ国立醸造学校を卒業。翌'61年から父ジョヴァンニのもとで醸造家としての道を歩み始めます。

 近郊の生産者からの買いブドウの併用を止め、全面的な自家栽培への切り替えを断行。質より量の考え方が蔓延していた当時のピエモンテにあって、収量を大幅に抑制します。若いうちは渋味と感じる強靭なタンニンが特徴のネッビオーロのため、イタリアにおける導入の先駆けとなったバリック樽を使用するなど、1960年代に数々の改革を実践してゆきます。

 ブドウの選別や樽材、ボルドー一級シャトーのそれよりも長いコルクに至るまで徹底した品質向上を図る一方、グランクリュにあたる「Costa Russi コスタ・ルッシ」ほか、プルミエクリュ的な「Fasetファセット」を含むD.O.C.G.バルバレスコの一等地14か所の畑を徐々に買い増し。1970年代後半には数々の改革が結果を生み、イタリアのみならず押しも押されぬワイン造りの第一人者となります。

※ 再生時に音声が流れます


 5代目として主に国外市場を担当する長女ガイア、国内を受け持つ次女ロザーナ、そして'16年に大学を卒業した長男ジョヴァンニが稼業を受け継いだ今も、1940年生まれで今年78歳となったアンジェロは第一線で精力的に活動しています。

wine-bottles.jpg 
 こうしてバローロに本拠を置くVietti のバルバレスコ、バルバレスコに本拠を置くGaja のバローロという変化球を仕込んで臨んだ白トリュフの饗宴で供された料理の数々を【後編】では振り返ります。空腹時の閲覧は刺激が強いですが、(前回同様に)乞うご期待 ❣❣


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投稿者 vam : 02:09 | カテゴリー : Cuccina Italiana/| カテゴリー : Vino ヴィーノ


「庄内系イタリア人」こと
木村 浩人

外見と所持するパスポートの国籍は日本人。なれど脳細胞はイタリア人。≫詳細

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