あるもの探しの旅

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2007/06/24

命の水・牛渡川

 地球上に生命が誕生したのは、およそ35~38億年前のこと。その奇跡の舞台となったのは原始の海でした。以来、生命は栄枯盛衰を繰り返しながら地球という恵まれた環境のもとで進化を遂げました。それでも、進化の頂点に位置する人間ですら、水がなくては生きてはゆけません。

 この世に生を受けたばかりの新生児は、体の組成の80%が水分です。成人ではその割合が60~70%となり、加齢と共に50%を割って、やがて人間は土に帰ります。水は生命の源であり、象徴なのです。そんな水と生命のつながりを示す象徴的な光景と出合える場所をご紹介しましょう。

  choukai.jpg【photo】出羽富士の異名をもつ秀峰・鳥海山は、暮らしを支える豊かな水をもたらしている

 秋田県境に近い庄内平野の最北端、山形県飽海郡遊佐町を流れる月光川(がっこうがわ)の支流のひとつが牛渡川(うしわたりがわ)です。全長4キロあまりの小さな川の眼前には万年雪を頂く鳥海山が聳えます。山頂付近の降水量が、年間20,000㎜と熱帯雨林帯に匹敵する鳥海山。北西から吹きすさぶ猛烈な冬の季節風によって南東側山頂付近の積雪量は、多い時で50mにも及びます。そうした大量の雨や雪がブナなどの広葉樹林帯の腐葉土を通して地中に滲み込んで、滋味豊かな伏流水となり、やがて地上に湧き出してくる湧水箇所が鳥海山周辺には数多くあります。

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【photo】山頂付近に雲がかかる鳥海山とその伏流水からなる牛渡川
 

 牛渡川の特異性は、水源が鳥海山の清冽な湧水であること、そして流域の川岸いたるところから伏流水が湧き出していることです。その水は、日本海で発生した水蒸気が雲となって鳥海山麓に降り注ぎ、数年から数十年をかけて地中で磨かれて地表に湧き出したものです。湧水だけでできている稀有な流れは、ほどなく月光川に合流して再び日本海へと流れてゆきます。水温は年間を通して10℃前後と一定のため、外気温が高い夏には川面から霧が発生して、木洩れ日を受けて林の中を流れる牛渡川は、より神秘的な表情を見せます。
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【photo】梅花藻の大群生が流れにゆらゆらと漂う牛渡川。水温が低いため夏には川霧が発生することが多い。湧水の町・遊佐ではこのような環境が人里のすぐ近くに保たれている

 山全体が水の濾過装置ともいえる鳥海山は、稜線が海岸線にまで伸びるため、湧水箇所は地上だけにとどまりません。遊佐町吹浦(ふくら)周辺の海辺や海中にもカルシウムやマグネシウム、ナトリウム、カリウムなどのミネラル成分を含む地下水が湧き出します。そのため、その海域はプランクトンが豊富で、吹浦周辺の岩礁に育つ岩ガキは、栄養価が高く、生で頂くプリップリなそれは、ミルキーなコクがあってとりわけ美味...おっと、話題がそれました。話を戻しましょう。

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【photo】乳白色の川霧に包まれた牛渡川のゆるやかな流れには、石菖藻と梅花藻が群生する

 牛渡川の中流域には梅花藻(バイカモ)が見られます。その大群生が見られるのは、鮭の人工孵化に取り組む同町箕輪地区の鮭漁業生産組合が運営する箕輪鮭孵化場のすぐ上流。梅花藻は水温15度前後の渓流や湧き水などの清らかな水環境のもとでしか生育しません。この沈水性の多年草は6月末から夏にかけて、エゴノキのような白い可憐な花を咲かせます。
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 【photo】川面に咲く梅花藻の花.。水があまりに透明なため、流れが緩やかな場所では、花が風に吹かれているかのような錯覚に陥る

 川辺に立って眺める流れは、水自体の存在を忘れさせるほど清らか。透明度の高さゆえ、流れにたゆたう梅花藻が風に吹かれて揺れているかのように錯覚するほどです。その藻の陰には、環境省が絶滅危惧種に指定しているハナカジカやカンキョウカジカなどの、極めて清らかな水にしか棲息しない淡水系のカジカが潜んでいます。

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 【photo】深閑とした森の中に現れる丸池。光の具合によって、色合いを変えるこの沼は、「丸池様」と地元では呼ばれている

 石菖藻が漂う緩やかな流れをたどってゆくと、鮭の供養塔が建つ箕輪鮭孵化場の採補場に辿り着きます。その裏手には「丸池様」と呼ばれ地元で信仰を集める池が原生林の中にひっそりと広がっています。水深が3.5mというエメラルドグリーンに輝くこの沼の水源も全て鳥海山の伏流水なのだとか。

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 【photo】鳥海山中腹のブナの古木。裾野にもたらされる湧水は豊かな山の恵みにほかならない 

 高度成長期に伐採された鳥海のブナ林を甦らせようと、NPO団体の人々が山の中腹でブナの植林が進めているのと同様、上流から流れてくる針葉樹の葉などが沈殿したり、雑藻が繁殖して水質が悪化しないように地区の皆さんが晩夏に川底の清掃をしています。その際にいったん藻が刈り取られるため、9月初旬にそこを訪れても、繁茂する梅花藻を見ることはできません。水の恵みの価値を知る人たちの地道な取り組みが、牛渡川のシンボルを守る一助となっているのです。

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 【photo】昼なお薄暗い杉林の間を静かに流れる牛渡川。川辺の岩の間からは絶え間なく水が湧いてくる

 杉林が鬱蒼と茂るさらに上流帯では、護岸工事がされていないため、あちこちの岸辺から水が湧き出ている様子を見ることができます。湧出口から出てくる水をペットボトルですくって口に含むと、ひんやりと冷たく口当たりの柔らかな軟水であることがわかります。非常にゆったりとした流れのため、水が湧き出す涼やかな音がそこからは聞こえてきます。さらに上流域に遡ると、鳥海ブルーラインに沿って岩場が続く沢へと姿を変えてゆきます。
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 【photo】春3月。「箕輪鮭孵化場」前の牛渡川には数万尾の鮭の稚魚が群れていた。彼らの中のほんの一握り、0.5%の鮭だけが生まれ故郷のこの川におよそ4年を経た後に戻ってくる

 3月から4月上旬にかけて鮭の稚魚が放流される時期、そして10月下旬から年明けにかけての遡上の季節、月光川水系の河川では生命のドラマが繰り広げられます。オホーツク海やベーリング海を回遊した後、誕生後4年あまりを経て日本沿岸に戻ってくる鮭。母なる川へ鮭たちが戻って来ることができるのは、水の匂いを記憶しているからだということが近年の研究で明らかになってきました。産卵のために上流まで遡上した鮭は、川底に作った産卵床に産卵・放精後、受精卵を守るようにそこへしばらく留まりますが、ほどなく力尽きて生涯を終えます。冷たい流れに漂う遺骸は、やがて誕生してくる稚魚たちが大海へと下ってゆく力を得るための餌となり、新たな生命へと受け継がれてゆきます。
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 【photo】鳥海山頂が雪を頂いた11月初旬。自然産卵を終え、命尽きた鮭の遺骸が月光川の浅瀬に漂っていた(写真右下)。背景は中腹まで雪で白くなっていた鳥海山の稜線。もうすぐ里にも雪が降る

 牛渡川は、水の循環という大いなる自然の摂理の中で生命が生かされているということ。命には限りがあるものの、世代を超えてやがて再生してゆくこと。そうした輪廻転生を繰り返してゆく命の営みの尊さを教えてくれるのです。

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2007/06/22

チンクエ・テッレは地の果てだった

絶景のヴェルナッツァからポルトヴェーネレへ

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【Photo】アップダウンと急カーブが連続する道を延々走り続けた挙句に、眼下に見えた絶海に浮かぶ孤島のような村ヴェルナッツァ。外敵に備えるため、海を睥睨する高台に物見の塔が築かれたのは11世紀のこと

 西から順番に、Monterosso al Mare モンテロッソ・アル・マーレ、Vernazza ヴェルナッツァ、Corniglia コルニーリア、Manarola マナローラ、Riomaggiore リオマッジョーレという世界遺産の5つの村の総称「Cinque Terre チンクエ・テッレ」。切り立った断崖にへばりつくかのように点在する五つの集落へのアクセスはもとより悪く、しかもそれらを直接結ぶ道路はありません。

 運行本数の少ない連絡船のほか、La Spezia ラ・スペツィアと Genova ジェノヴァ間を走る鉄道が5つの村を結ぶ最も便利な交通手段となります。(注)その地の人たちは、限られた空間を立体的に活用した4~5 階建ての密集した家に暮らしています。漁業で生計を立てるほかに、切り立った原生林を開墾し、最大斜度70度もの目のくらむような斜面と呼ぶよりも断崖の岩を砕いて石垣を積み上げ、さらに細かく砕いた岩を土に変えて段々畑に仕立ててブドウやオリーブなどを栽培してきました。

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【Photo】岩礁の上にあるコルニーリアには、集落の遥か高みにまでブドウ畑が広がる。平地や丘陵地において一般的なブドウ栽培に投下される労働時間は、年間で350時間前後。しかしこの地においては4倍以上の1,500時間を要するという。厳しい環境下でのブドウ栽培の苦労がしのばれる

 ひとたび嵐が襲えば、斜面を滝のように流れ落ちる雨水で、砂岩を積み上げただけの畑の土は容易に流されてしまいます。この地に暮らす人々が1,000年以上の時間をかけて自然を相手に繰り返してきたのは、気の遠くなるような忍耐と英知の歴史だったのです。苛酷な環境のもとで育まれた特異な文化と暮らしぶりは、そこが地理的に隔絶されていたがゆえ、今なお残されています。そのため、ユネスコはこの地域一帯を1997年に世界文化遺産に登録しました。それ以降、世界中から観光客が風光明媚なこの地を訪れるようになりました。

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【photo】ヴェルナッツァ近くの海沿いに迫ると、対向車との擦れ違いなど到底不可能な細いつづら折りの道が延々と続く。標高が高い斜面に植えられたオリーブの木の下には、オレンジ色のネットが敷かれて収穫を待つばかり。標高の低い斜面にはブドウが育つ。造営と維持に想像を絶する労苦を伴うであろう耕作地が青い海に向かって段々畑になって広がってゆく光景には感動すら覚える。過酷な生活環境を嫌って離村する農家が増えたことにより、手入れをする人手がなくなったために、打ち捨てられた畑も散見され、この地の厳しい現実が窺えた

 期待以上の素晴らしいランチとなったリストランテ「サン・ジョヴァンニ」で飲んだシャッケトラが、いかなる場所で作られているのかを実際に目にした時、何故にそれがスローフード協会によって、保護すべき食材「プレジーディオ」に指定されているのかを、ようやく理解できました。そしてデザートワインとしては期待通りでなかったという軽い失望を覚えた自分を恥じ入ったのです。何故なら、飲み手でしかない私が、味の優劣だけでシャッケトラの価値を断ずるのは、あまりに傲慢なのだと気付かされたからです。

 この地のブドウ生産者は、転落すれば命を落としかねない急峻で狭小な畑から限られた収量のブドウしか得ることができません。彼らは食後のひと時を少しでも豊かに演出するため、陰干しという自然の摂理に沿った手法によって、ブドウ果汁の水分を除き、自然が生み出す甘味のエッセンスだけを得ようとしたのです。その試みは、幾度となく繰り返された先人たちの試行錯誤の上に成り立っているはずなのでした。

io_vernazza2006.jpg【photo】ヴェルナッツァ到着時点で、この日のエネルギーの大方を使い果たし、カラータイマーが点滅したウルトラマンと同様、疲れ気味の表情を浮かべる筆者。カネッリへの帰路のなんと遠く感じたこと!!!!

 居住者以外の一般車両は、集落の手前で駐車予定時間を申告の上、代金を支払って駐車場に車を停め、海岸近くの狭い谷間にあるヴェルナッツァの集落まで1キロほどの緩やかな下りを徒歩での移動となります。断崖のわずかな狭隘な空間に築かれた集落内には、車を置くスペースすらありません。ヴェルナッツァ居住者の車が延々と片側に縦列駐車している道を私達が歩き始めた時、西の空に陽は傾き始めていました。

 キッチュな土産物屋やエノテカ、飲食店などが立ち並ぶメインストリート Via Roma (ローマ通り)を抜けると、海に面して開けたグリエルモ・マルコーニ広場に出ました。その時まさに落日が空を茜色に染めて水平線に没しようとしていました。波打ち際の思い思いの場所に陣取るさまざまな国籍を持つ人々に混じって眼前の絶景に見とれました。

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【Photo】しばし時を忘れたヴェルナッツァの夕暮れ

 ほどなく陽がすっかり沈んで家々の窓に明かりが灯り始めました。立体的に入り組んだ構造の迷路のような町をそぞろ歩きした後、絶景をしっかりと目に焼き付けた一同は、その場を去りがたい気持ちを抑え、暗くなった道を再び駐車場まで徒歩で移動。ガードレールすらない細い急坂を大きなワゴン車で登り始めた時、時刻は18時半を過ぎていました。途中の高台に車を停めてヘッドライトを消すと、私達の頭上には漆黒の空から降るかのように輝く満天の星々が現れました。数知れぬ星たちと連なるかのように遥か眼下できらめくヴェルナッツァの灯(ともしび)。西暦1000年頃に近郊の内陸地から入植が始まったこの世の果てのような隔絶された地でも、そこに暮らす人たちの日々の営みは繰り返されていました。潮騒すら届かない高みから見えた眼下の小さな灯りのひとつひとつが、かけがえの無い、いとおしいものに思えました。

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【Photo】緯度が高いイタリアでも10月末ともなると暗くなるのが早い。18時を過ぎて昼の賑わいが嘘のようにすっかり人気がなくなったヴェルナッツァのメインストリート「Via Roma」

 「戻るのが遅くなるから夕食は要らないとジョルジョに伝えて」と、Rupestr に先に戻っていた西川さんに携帯電話で連絡したものの、そこからがまた一仕事。口々に「遠かったけど、来た甲斐があったねー」と感動を語り合っていた後部座席の同乗メンバーたちは、急斜面ときついカーブのワインディングが連続する真っ暗な道を "GENOVA" と記された方向標識を頼りにひたすら先を急ぐ私のクイックなハンドル操作のもとで、ほどなく全員寡黙に。(要するに、車酔いさせちゃったのです。みんなゴメンナサイ)

 ナビゲーターとして孤軍奮闘の佐藤君の指示のもと、往路は正味4時間半を要したヴェルナッツァ-カネッリ間を、高速に乗ってからは時速160キロを維持してひたすら爆走。後に八巻編集長が雑誌「四季の味」で述べていたように、私たちはその時、住み慣れた我が家への家路を急ぐ心境になっていました。高速A26を降りて、一般道を地図上の町の名前を順にたどりながらしばらく進んだ先に"CANELLI "の街区表示を見たとき、「帰ってきたぜぃ!」とジョルジョに心の中で呼びかけました。やっとの思いで Rupestr に戻ったのが21時45分頃。3時間15分のノンストップの激走を終えた私は、戸口から迎えに出て来たジョルジョの前で、安堵のあまりへたり込んでしまいました。

 到着後、一息ついて間もなく始まったその夜の遅い夕食。ジョルジョはいつ戻るか判らない私達のために、イノシシの煮込みの入ったタヤリンやイノシシの煮込みと焼きポレンタなどの夕食を準備してくれていたのです。強行軍の日程をどうにかこなし、無事帰還したことをスプマンテで乾杯しました。ジョルジョが選んだのは、地元カネッリで1865年にイタリア初の本格製法による発泡酒メーカーとして創業した「GANCIAガンチア社」の創業者の名を冠した CARLO GANCIA 。昼食からしばらく時間が経過していたこと、そしてイタリアで再び爆走伝説? を打ち立てた心地よい疲労感も手続って、その夜の料理は、バルベーラ・ダスティと共にすんなり美味しく頂けました。

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【Photo】ジョルジョが用意してくれた心尽くしの夕食。ドロドロに疲れていたけど、ホントに美味しかった

【注】
先に日本へ戻るアル・ケッチァーノ一行と別れた10月31日、トリノから合流した友人とペルージャ在住の友人の3人で再びチンクエ・テッレを訪れた。車での移動に手間取った前回の教訓から、手前の町 Levanto レヴァントに車を置いて電車で向かった先は Manarola マナローラ。

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【Photo】Manarola マナローラ全景。ノーベル文学賞を受けたイタリアの詩人エウジェニオ・モンターレは、この集落を"鷹とカモメの巣"と表現した

そこから岩場に穿たれた遊歩道" Via dell'Amore ヴィア・デッラモ-レ"(=愛の小径)を徒歩で隣のチンクエ・テッレ東端の村 Riomaggiore リオマッジョーレに行こうというのだ。ペルージャ在住の友人は、以前ここを訪れた直後にダーリンTommy氏と出会ったそうな。既婚者の私や売約済?の友人はともかく、独身の友人は真剣そのもの。道すがら 「Bar dell'Amore バール・デッラモーレ(=愛のバール)」や、愛をテーマにした絵が一面に描かれたトンネルも登場する。善き伴侶を得るための通行料は3エウロ。関心のある方はどうぞ。

 トンネル区間が多いものの、途中 Monterosso al Mare モンテロッソ・アル・マーレ、Vernazza ヴェルナッツァ、Corniglia コルニーリアと、西から順に5つの村をたどる車窓から時折のぞく海はあくまでも美しい。車で訪れた前回の苦労が嘘のようにあっけなく目的地 Manarola マナローラに降り立った。さすがは5つの村の中で一番ブドウの生産量が多い村だけあって、駅の上に広がる急斜面には、ブドウの段々畑が広がっている。海を眺めながら遊歩道 Via dell'Amore を進むと所要時間30分ほどで、Riomaggioreリオマッジョーレに着く。

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【Photo】ドロボーが横行するイタリアでは珍しい自動販売機をポルトヴェーネレで発見。近寄ってみると、それはなんとペスト・ジェノヴェーゼの自販機だった。さすがはペストの本場!

その日、La Spezia ラ・スペツィア経由で、同じく世界遺産に登録されている小さな港町 Portovenere ポルトヴェーネレも車で訪れた。ジェノヴァ共和国がライバルのピサに備えるため、12世紀初頭、家々を海に向かって立ち並ぶ要塞のような構造に改造した。ハロウインの可愛らしい仮装をした子どもたちが駆け回るメインストリート via Giovanni Capellini ジョヴァンニ・カッペリーニ通りを進み、街の突端にある聖ピエトロ教会へ向かう途中、オリーブ製品の専門店 Olioteca Bansigo オッリオテカ・バンジーゴに立ち寄った。シーズンオフで翌週には休業に入るという店長は以前NHKの番組でも紹介された若い女性。大きなステンレスタンクに入った味が異なるオイルを3種類テイスティングさせてもらった。取材で来たと告げると、来訪者が足跡を記す壁面最上部右上に油性ペンでサインclicca quiさせてくれた

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【PHOTO】「貴方たちに出会えて良かった」という素敵な言葉をくれたオッリオテカ・バンジーゴでオーナーのマリアさんと

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オリーブ専門店「オッリオテカ・バンジーゴ」
住所: via Capellini, 95 19025 PORTOVENERE (SP)
URL: http://www.oliotecabansigo.it/
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2007/06/21

チンクエ・テッレの絶品シーフード

リストランテ サン・ジョヴァンニ@カサルッツァ・リグーレ

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【Photo】海岸線から少しアペニン山脈沿いに入った小さな街カサルッツァ・リグーレ。小高い山の先にはリグーリア湾が広がる

 高速A12を Chiavali キアヴァリで降り、陽光あふれる海岸線から若干内陸に入った Casarza Ligure カサルッツァ・リグーレという小さな町にあるリストランテ「San Giovanni サン・ジョヴァンニ」に着いたのは、11時すぎ。ここで、リグーリアの東端の都市 La Spezia ラ・スペツィアの先にある別のリストランテを予約していたジョルジョと西川さんとは、しばしのお別れです。そこからはガイド役不在のまま、半日を過ごすことになりました。実はこの日の昼食は、各 Guida(=レストラン評価本)において、東リビエラで随一の評価を受けるリストランテ「Ca'Peo」でとりたかったのですが、当時はシェフを務めるお母さんの体調が優れずに休業中。

 そこで、イタリアの料理評価本「l'Espresso」や「Accademia Italiana della Cucina」などで、魚料理が美味しいとの理由で評価が高い「San Giovanni サン・ジョヴァンニ」を、数軒の候補の中から、いわば"勘"で代役に立てました。ことの経緯はともかく、結果的にこの選択は大正解だったのです。帰国後、「サン・ジョヴァンニの料理が一番だった」と言うメンバーすらいたのですから。到着早々に見舞われた強烈な先制パンチさながらのピエモンテ料理に、すっかり根を上げた面々にとって、それは正に体が欲した料理だったのです。四方を海に囲まれた私たち日本人のDNAが、新鮮な魚介を切実に求めていました。
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【Photo】リストランテ「サン・ジョヴァンニ」の名前の由来となったサン・ジョヴァンニ・バティスタ教会は7世紀~8世紀に創建されたロマネスク様式。リストランテの裏庭から鐘楼が見える

 リストランテ「サン・ジョヴァンニ」は、小柄で気さくなお母さんのピヌッチャ・ノヴァロさんがシェフで、娘さんがフロア係という家族経営の店です。白い外壁が青い空に映えるその店の敷地には、オリーブやミモザが植えられています。ピヌッチャさんのお母さんだという、肝っ玉母さんといった風情で魚を抱えるジュゼッピーナさんの絵が掛けられた明るい店内は、いかにもリビエラの開放的な雰囲気を漂わせていました。
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【Photo】店のエントランスにて日伊のグランシェフ揃い踏み。奥田シェフとピヌッチャ・ノヴァロさん

 テーブルについた私たちは、「今日はアンティパストとプリモピアットを魚介系中心でいきましょう」と示し合わせた上で、胃腸を癒す料理のチョイスを奥田シェフにお任せしました。メニューと睨めっこのシェフの脇では、私がワインリストと睨めっこ。"料理とワインは一心同体"が信条の私が選んだのは、これから訪れるチンクエ・テッレの急斜面を段々畑に切り開いて栽培される地ブドウ、Boscoボスコ種を主体にVermentinoヴェルメンティーノ種、Albarolaアルバローラ種を混醸した辛口のDOC白ワイン、その名もずばり「Cinque Terreチンクエ・テッレ」。ものは試しと異なる生産者の2本をオーダーしました。そこから前日とはガラリと変わった地中海の幸あふれる饗宴が幕を開けたのです。

【以下、空腹時は閲覧をお勧めしないPhoto が続きます】
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 さっぱりした軽い酸味が心地よい「カタクチイワシのエスカベーチェ」と、ピンクペッパーがアクセントになった「茹でサーモンのサラダの盛り合わせ」(上写真)、優しい歯ごたえと上品な薄味で一同狂喜した「茹でイカのシンプルサラダ」(下写真)は軽くレモンを絞って。

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 「トマトのスライスに刻みルッコラ・マグロの燻製包み」(上写真)はサンダニエレの生ハムのように、まったりとした食感とスモークの香りが香ばしいマグロと、ルッコラやフレッシュトマトが口の中で渾然一体。これまた一同悶絶。からっと揚がったキツネ色の衣をまとって登場したのは、「小麦粉の詰め物をしたムール貝のフリット」(下写真)。小ぶりなムール貝の旨みが詰め物の小麦粉に滲み出て、素材のおいしさを増幅します。

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 揚げ物の次は口をさっぱりさせる「カタクチイワシと玉ネギ、レーズンのマリネ」(上写真)が登場。「殻付きムール貝のムース仕込みトマトソース煮込み」(下写真)と、7品いずれもが新鮮な素材の良さを引き出す伝統と革新の技が冴えるアンティパストばかり。

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 オーダーしたチンクエ・テッレDOC2種。最もブドウの生産量が多い集落とはいえ、Riomaggiore リオマッジョーレのブドウ生産組合のワインCosta de sèra di Riomaggiore'05は年産わずか4,000本。ふんわりと柔らかに香りが広がってイイ感じ。 対照的にキリリとしたTerre di Levanteは、チンクエ・テッレで集落が唯一海に面していないCorniglia コルニーリア産。典型的なリグーリア料理と地元の辛口ワイン「チンクエ・テッレ」が見事にピタピタと好相性を見せてくれました。隣りあう州同士でも、内陸のピエモンテと海に開かれたリグーリアでは、かくも劇的に料理の質が違うものかと実感させられます。

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 多彩なバリエーションでオーダーされたプリモピアットは、タジャスカ種のオイル特有の繊細なナッツ系の香りが活きた「バジルペーストとフレッシュトマト和え半生イカのポレンタ」(上写真)から、続々と運ばれてきました。素材の旨みが凝縮したコッテリとしたブロードの「イカのリゾット」(下写真)には、モチモチした歯応えのスペルト小麦Farroファッロ(注)が使われていました。

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 コクのある海の幸たっぷりのソース「スコーリオのリングイーネ」(上写真)、「イカスミ入りタリオリーニの魚介の軽いトマトソース」(下写真)

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 「ジェノヴェーゼ・ソースを軽くまとったイカのスパゲティ」(上写真)、「トロフィエのペスト・ジェノヴェーゼ風味」(下写真)と、平らげたプリモは全6品。いずれの皿も適度にメリハリが効きながらも、調和がとれたしつこくない味付け。疲れ気味の胃とカラダが一気に生き返りました。

幸福な余韻に浸るメンバーの心境を詠んで一句。「おいしさや、腹に染み入る 海の幸」

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 皿に山盛りで運ばれてきたのは摘みたての黒ブドウ(上写真)。ドルチェのティラミス(下写真)とレモンソルベには、スローフード協会からプレシディオ指定されているチンクエ・テッレ産の有名なデザートワイン、「Sciacchetrà シャッケトラ」を合わせたくなり、一杯だけグラスでオーダーしました。30年に及ぶ熟成も可能というシャッケトラは、DOCチンクエ・テッレに使用するブドウを陰干しして作られます。目のくらむような切り立った斜面で栽培される収量の少ないブドウ100キロから、わずか25リットルも作れないために、高価なデザートワインとなります。小さなワイングラスに注がれたシャッケトラを皆でちびちび回し飲みしましたが、似たような製法で作られる同価格帯の良質なヴィンサント・トスカーナと比較して、若干複雑味が足りず、線が細い印象でした。しかし、料理はどれも素晴らしく、充分に満足のゆくものでした。

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 「フルーツを食べたい」という女性陣のリクエストで、キウイ・バナナ・ラズベリーのマチェドニアと爽快な酸味のレモンソルベも追加。タイプは違えど二日続きの充実した昼食をカッフェと共に終えました。

 面倒見が良く気のおけないピヌッチャさんは、「ペスト・ジェノヴェーゼを本場リグーリアで手に入れよう」という私たちの買い物にまで付き合ってくれました。超ベテランのバリスタが渋~く切り盛りしている近所のバールでお礼のカッフェをピヌッチャさんに一杯ご馳走した後、チンクエ・テッレで最も風光明媚といわれるVernazzaヴェルナッツァに向かったのが15時頃。直線距離にして26キロほどの距離ですが、そこから先の長かったことといったら!地図を頼りに行程のほとんどを山中の曲がりくねった道を駆け抜けたため、つづら折りの道が続く尾根の高みから絶海に浮かぶ孤島さながらの佇まいのヴェルナッツァを目にするまで、およそ一時間半を要したのです。

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Ristorante San Giovanni
リストランテ サン・ジョヴァンニ
住所 Via Monsignor Podestà 1.CASARZA LIGURE (GE)
    HP なし/ TEL 0185-467244
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【注】
イタリアでは Farro と呼ばれる古代より人類が栽培してきた穀物がスペルト小麦。肥料や農薬の力を借りずとも、過酷な環境下での栽培にも耐える。反面、品種改良をされていない分、収量は少なく、殻が固く製粉に手間取るために栽培量を減らしてきた。小麦の栄養分の多くは、脱穀の際に取り除かれる殻や胚芽に存在する。しかしスペルト小麦は粒自体に栄養分が含まれるため、製粉後も栄養素が失われない。こうした長所が見直され、無農薬栽培に取り組む生産者たちによって再評価の機運が高まっている。そのまま Zuppa スープや Risotto リゾットにすると、プリプリした食感が楽しめる。栄養価が高いため、ファッロ100%で製麺したパスタの需要がイタリアで高まっている


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2007/06/20

海へ。リビエラを目指して

霧のベールを抜けるとリグーリアの輝く海だった

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【Photo】断崖沿いに五つの村が点在するチンクエ・テッレ。目のくらむような急斜面にブドウやオリーブの畑が開墾されている。そこに暮らす人たちのたゆまぬ努力と英知が、他所と隔絶されたこの地に特異な文化と景観をもたらしている

 イタリア到着初日から、15時30分過ぎまでたっぷりと楽しんだトリュフ尽くしの昼食が、一行のその夜の食欲を極度に減退させていました。そのため、宿泊先のRupestrルペストゥルでジョルジョが腕を振るったBollito mistoボッリート・ミストや Agnolotti in broodアニョロッティ・イン・ブロードといった、肉三昧のピエモンテ料理の夕食には、ほとんど口をつけずじまい。どれも優しい味付けの煮込み料理でしたが、ジョルジョには本当に申し訳ないことをしました。

 Rupestr常連の西川さんからは、肉を多用するピエモンテ料理は日本人には重いですよ、と事前に聞いていました。そのため、一週間のピエモンテ滞在中に新鮮な魚介料理が恋しくなるだろうと想定していたのです。ならば、滞在期間なかばにピエモンテの南隣に位置し、海に面したリグーリア州を訪れて海の幸で胃を休めるのが得策。ところが、テッラ・マードレの公式行事日程の都合で、リグーリア行きは到着翌日に設定せざるを得なかったのです。想定外だったのは、初日のトリュフ三昧ランチで、全員の胃がピエモンテ料理に根を上げたたこと。よって、結果的にはこのスケジュールが幸いしました。
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【Photo】周囲をブドウ畑に囲まれたアグリツーリズモ「ルペストゥル」の部屋から。北イタリア特有の濃霧の中にバルベーラ(写真手前・紅葉したブドウ)やモスカート(写真奥・葉が黄色がかった緑)など、ピエモンテ特産のブドウ畑が広がる

 長旅の疲れもあって、ぐっすりと熟睡した翌10月25日朝。ベッドから起き出して部屋の窓から外を眺めると、濃霧が立ち込めたブドウ畑が目の前に霞んで広がっていました。前夜はすっかり陽が落ちてから、カネッリの市街地をはずれ5キロあまり山道を登ってゆくRupestrまで、ジョルジョの先導のもと、真っ暗な細いくねくね道をビュンビュン飛ばしながら辿り着いたため、そこが周囲をブドウ畑に囲まれた場所である事が判らなかったのです。(注1)

 トリノとの間に広がるモンフェラート丘陵と、フランス国境のアルプスの山並みから伸びる尾根(=Langheランゲ)に挟まれたランゲ地区一帯は、北方のアルプスから吹き降ろす冷たい空気と、リグーリア湾からの暖かい湿気を帯びた風がぶつかって、秋から冬にかけてNebbiaネッビア(=濃霧)が頻繁に発生します。この地の代表的なブドウ品種Nebbioloネッビオーロは、ネッビアが発生する11月に熟することと、果皮にネッビアのような白い粉がふくことから名付けられたのだそう。

 甘いパンとカフェラッテのイタリア式朝食を済ませたメンバーが、この日向かう先は東リビエラ海岸沿いに位置するチンクエ・テッレ。リゾート地として有名なリビエラは、ジェノヴァを境にビーチリゾートとしての性格が強い西リビエラと、紺碧の地中海に切り立った断崖が続く風光明媚な東リビエラに分かれます。世界のセレブが集う高級リゾート地として知られるポルトフィーノの東側から、ポルトヴェーネレにかけての隔絶された一角に家屋が密集して張り付くMonterosso al Mare モンテロッソ・アル・マーレ, Vernazza ヴェルナッツァ, Corniglia コルニーリア, Manarola マナローラ, Riomaggiore リオマッジョーレの五つの集落が点在する特異な景観を持つエリアを総称して、Cinque Terre チンクエ・テッレ(=五つの土地)と呼ぶのです。カネッリからの移動時間は高速道路を利用して3時ほどとジョルジョから聞いていました。
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【Photo】ミラノやトリノといった工業都市を背後にもつジェノヴァは今も活気あふれる港町。歴史的建造物が建ち並ぶ旧市街は2006年に世界遺産に登録された

 朝霧が立ち込める牧草地が広がるニッツァ・モンフェラートから交通の要衝アレッサンドリアに向かい、そこから高速A26・通称Autostrada dei Trafoliアウトストラーダ・デイ・トラフォーリ(=トンネル〈Traforoの複数形〉の道)を通って、ランゲからアペニンの山並みに分け入りました。すると次第に霧のベールが取れ始め、リグーリア州に入ると、いかにもイタリアらしい太陽が顔を覗かせ始めました。その名の通り、いくつものトンネルを抜けた後に、抜けるような青空と輝く海が見えた瞬間、車内では歓声が上がりました。A10・通称Autostrada dei Fioriアウトストラーダ・デイ・フィオーリ(=花道!)経由で東リビエラ海岸に迫る山並みを縫うように走る高速A12・通称Autostrada Azzurraアウトストラーダ・アッズーラ(=青の道/ここでは「紺碧の道」と訳したいところ)に合流するそこは、コロンブス(イタリア語表記ではColomboコロンボ)やバイオリンの名手でもあった作曲家パガニーニの出身地として知られるジェノヴァ。かつてヴェネツィア・アマルフィ・ピサと並ぶ海洋国家として栄えた港町は、現在もイタリア最大の取扱高を持つ貿易港です。

 ジェノヴァ市街は、リグーリア湾に沿って延々34キロにも及びます。トンネルの多いA12を運転しながら、背後に迫る山の標高差を飲み込むように建てられた郊外の高低差のある特徴的な集合住宅や、荒涼とした山並みの岩肌に潅木が混じり、その緑がだんだんと濃くなってゆくさまを眺めているうち、山の色が変わってきたことに気付きました。

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【Photo】背後にすぐ山が迫るジェノヴァ郊外の斜面には、潅木に混じってオリーブの木が植えられ、バジリコ栽培用のビニールハウスも散見される

 銀色が混じったような淡い青緑の葉はオリーブ特有のものです。リグーリア州は、北海道最北の稚内と同じ北緯45度付近に位置する北イタリアの州ながら、一月の平均気温が摂氏10度前後と温暖な地域です。250kmに及ぶリグーリア湾の海岸線には暖流の北大西洋海流が流れており、さらにピエモンテ州との境界となるランゲ丘陵とエミリア・ロマーニャ州との境界となるアペニン山脈が北方からの冷気の侵入を阻みます。加えて年間を通して吹き付ける偏西風とシロッコが三日月形をしたこのエリアに温暖な地中海性気候の恩恵をもたらしているのです。

 とはいえ、内陸部を中心に山岳地が全体の7割近くを占める地勢のため、平地・丘陵地は川沿いや一部の海岸部に散見される程度。そのため、この地の人たちは山間地や丘陵の斜面を切り開いてオリーブの生産を続けてきました。その歴史は入植したギリシャ人やフェニキア人によるものを含めると、紀元前10世紀頃まで遡れるといわれています。日当たりの良い南側全体にオリーブの木が植えられた小高い山もあり、収穫に大型機械が使えないリグーリアの生産者の苦労が伺えました。(注2)私たちは、その最たる光景を、その日チンクエ・テッレで目にすることになります。イタリア全体のオリーブオイル産出量のほぼ半数を生産する最大のオリーブ生産地、南イタリアのプーリア州では、平坦な土地一面がオリーブ畑となっており、それがアドリア海の海岸線まで続いています。一方、リグーリア州のオリーブ生産地の様相は、オリーブ畑というよりもオリーブ山と形容したほうがふさわしいかもしれません。

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【Photo】山に穿たれたトンネルが続く高速A12沿いには、銀色がかった特有の青緑色の葉を持つオリーブの木が一面に植えられた山が続く

 リグーリアの山がちな地形は、イタリア最北西のアルプス山中に位置する小州、ヴァッレ・ダオスタ州に次いで少ないワイン生産量しかこの地にもたらしていません。それでも100種を超えるブドウ品種が丘陵地や断崖の狭小な斜面で育てられています。古来より海洋民族であったリグーリア人の食生活は魚介中心でした。よって、リグーリアでは白ワイン用品種が主力です。この地では数少ない肉を使った名物郷土料理、西リビエラのウサギの煮込みにも、白ワインがよく合います。やはり地方色豊かな料理とその地のワインは一心同体なのです。

 記録上では1,000種以上のブドウが作られてきたイタリアですが、19世紀末に全ヨーロッパのブドウが壊滅的被害を受けたフィロキセラ(ブドウ根アブラムシ)禍やオイディウム(ウドンコ病)などによって、劇的に品種数を減らしました。現在およそ400の品種が固有品種として確認されているブドウと同様に、オリーブも一説には500種ともいわれる品種がイタリア国内で栽培されています。ともに一国で栽培される品種数としては、イタリアは世界でも冠たる多様性を持つ国といってよいでしょう。こうした国から、生物多様性の重要性を訴えるスローフード運動が生まれたのも頷けます。

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【Photo】リグーリア特有の傾斜地に開墾した段々畑で栽培されるタジャスカ種のオリーブ

 リグーリア州特産のオリーブ品種といえば、Taggiascaタジャスカ種を挙げねばなりません。西リビエラの歌謡祭で有名な町サンレモの東7キロほどにTaggiaタッジャという町があります。10世紀ごろ、その町のベネディクト派修道師たちが植樹したのが名前の由来といわれるタジャスカ種は、現在もリグーリア州内だけで育てられます。小さな果粒に占める種の割合が大きいものの、その果肉をオイルに加工すると、スパイシーな苦味や青っぽさがない、やさしいフローラルな甘味とアフターにほのかなアーモンドの香りが特徴の繊細なオイルとなります。このオイルはリグーリア湾で揚がる新鮮な魚介の料理と絶妙な好相性を発揮します。

 そのオイルを使用する州都ジェノヴァの名がついたリグーリアの代表的なソース、Pesto Genovese ペスト・ジェノヴェーゼ(注3)は、手を合わせてねじった形のショートパスタ"Trofie トロフィエ"との組み合わせが定番。そのほか、加熱した魚介料理や、ボイルしたジャガイモ、そしてシンプルにリグーリア発祥のフォカッチャやパンにつけても美味しいサルサソースとなります。日本にも瓶入りの製品が輸入され、お馴染みのペスト・ジェノヴェーゼの主役バジリコは、かつてイタリア国内ではリグーリア州だけで栽培されていたハーブです。インド原産のこのハーブは、中世に小アジア経由でヨーロッパにもたらされ、温暖な地中海に面したリグーリアと南フランスのプロヴァンスで盛んに栽培されるようになりました。現在でもイタリア国内で最も栽培が盛んなリグーリア州におけるバジリコの作付面積は第二位のラッツィオ州の1.5倍にあたる400ha、年産170トンあまりに及びます。このうち120トンは、意外な事に温室で栽培されています。日本では寒さのため越冬できずに一年草扱いのバジルですが、元来はアルカリ性の土壌を好む多年草です。南イタリアのカンパーニャ州(州都・ナポリ)では路地栽培も可能ですが、日照量が多いリグーリア州でも、温暖な気候を好むバジリコを年間通して栽培するには、温室栽培が向くようです。車で移動中にも丘陵地の斜面にガラス張りやビニール張りの温室が点在するのを目にしました。
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【Photo】陽光あふれるハウスで栽培されるバジリコ・ジェノヴェーゼ


「絶品シーフードと絶景チンクエ・テッレ」に続く
 

【注1】
Rupestr到着後、ジョルジョは開口一番「Bravo! Alfista! (=ブラヴォー!アルファロメオ乗り)」と私に握手を求めてきた。日本で Alfa Breraに乗っていることをトリノ空港での待ち時間にジョルジョに話していたからだ。彼が運転しながらも同乗者との話に夢中になっている時(→イタリア人の習性である)以外は、容赦なくブンブン飛ばす彼のプジョーにぴたりとついて走る私を、こう褒め称えてくれたのだった。
しかし、ピエモンテ滞在中、ハンドルを握る私はこの霧に幾度も悩まされる事になった。イタリアの道路は、ロータリーや分岐点などの要所に必ずその先にある町の名前が記された標識が設置されているので、標識を頼って走れば道に迷う心配はほとんどない。しかし、視界が5メートルほどしか利かない濃霧の中を、夜間に標識を頼りに走るのは至難の業。そんな私には、地図と首っ引きでナビゲーターを務めてくれたアル・ケッチァーノの若手料理人・佐藤渓司君が心強い片腕となってくれた。全く利かない視界のために、緊張を強いられガチガチに凝り固まった肩や腰をプロはだしの達者なマッサージで揉みほぐしてくれたのは、同じく原田健二君。あまりの気持ちよさに、マッサージをされながらそのまま寝込むこともあったほど。改めてお二人には感謝の気持ちをお伝えしたい。「もっけだの。」

【注2】
1000年もの樹齢を持つオリーブの木をイタリア語では olivo または ulivo、オリーブの実は oliva または uliva と表記する。オリーブの食用における用途としては、果肉をプレスしてオイルをとる搾油用と、塩水やオイルに漬けて食用とする果肉加工用、そしてその兼用の品種に分かれる。南北に長いイタリア各地で、気候風土や地方ごとの料理に合うオリーブの品種が有史以来、営々と栽培されてきた。主な用途である Olio di Oliva オーリオ・ディ・オリーヴァ(略して Olio d'oliva オーリオ・ドリーヴァ。レストランでは単に Olio オーリオでも通じる)=オリーブオイルは、品種によって、色合いや風味が異なる。日本への輸入量が近年飛躍的に伸びている。オリーブオイルには、単一品種のものもあれば、数種の品種をブレンドした製品もあり、多種多様。植物性の油でも唯一果肉からもたらされるオリーブオイルは、農産物である以上、天候によって作柄が左右される上、搾油の仕方が味を左右する。

オリーブオイルはオイル100g中に含まれる多価不飽和脂肪酸成分であるオイレン酸の割合(遊離酸度)によってランクが国際的に規定されている。最高級のエキストラ・ヴァージン・オイルを名乗るには、酸度が0.8g以下と規定されている。オリーブの実は、枝から離れると、すぐに酸化が始まるので、あらかじめ落実したものは使わない。地面にネットを張った上で収穫を行うのは、落とした際にできる傷口から酸化するリスクや雑菌が入るのを防ぐため。機械による収穫では、枝ごと揺らして実を落とす。品質にこだわる生産者は、実に傷をつけぬよう枝から手摘みをする。収穫後いかに短時間で搾油工程に入るかが高品質のオイルを作る第一関門だ。エキストラ・ヴァージンの場合、長くとも48時間以内には搾油される。

次なる関門は搾油工程。最近の主流は、回転式の破砕機で収穫した実を短時間で砕いてペースト状にする方法。一方、花崗岩や御影石製の石臼で破砕してペースト状にする伝統的な方法では、作業中の温度上昇は抑えられるものの、破砕機に比べ時間を要するため、ペーストが空気に触れる時間が長くなりがち。さらに前者よりも作業効率が落ちるため、現在では少数派となりつつあるよう。破砕されたペーストは、かつてはドーナツ状の繊維に挟み、圧縮して搾油されたが、現在は衛生的な遠心分離機で水分とオイル、そして絞り滓に分ける方法が主流。収穫した実をペースト状に破砕した上で搾油する際、効率を上げるためにペーストを加熱するケースがある。その温度が高すぎると、酸度が上がると共にオイルの香りが失われてしまう。そのため、上質なエキストラ・ヴァージン・オイルでは、搾油温度を30℃以下に保つ「コールドプレス」と呼ばれる方法がとられる。

加熱により酸化しにくい上、善玉コレステロール値(HDL)を維持しつつ、悪玉コレステロール値(LHL)だけを下げるため、動脈硬化の予防に効果が高いオレイン酸(一価不飽和脂肪酸)の含有量が食用油の中でオリーブオイルが群を抜いて多い、という成分解析がされた近年では、健康的側面からもオリーブオイルは注目を集めている。

温暖な気候に適したオリーブのヨーロッパにおける栽培地の北限は、【File 4】グラッパの項目でご紹介したヴェネト州バッサーノ・デル・グラッパ(北緯45度36分)である。この町の北部を遮るアルプスとブレンダ川が、温暖なミクロクリマ(局地的気候)をもたらしている

【注3】
バジリコの葉・松の実・ニンニクを専用の大理石製すり鉢と木製のすりこぎ棒ですりつぶし、グラナ・パダーノとペコリーノ・サルドの2種のチーズを加えて、オイルでペースト状にして塩で味を調えるのがオリジナルレシピ。チーズはパルミジャーノ・レッジャーノで代用することもある。ただし、使用するオイルは刺激のある個性の強いものではなく、バジリコの香りを消さない繊細なタジャスカ種のオイルを使用したい。バジリコ(英名バジル)には、バジルブッシュやバジルシナモン、バジルグリークなど数種類ある。ペスト・ジェノヴェーゼ発祥の地ジェノヴァでは、同市西部の"Pra プラ地区"産の葉が幾分小ぶりなバジリコ・ジェノヴェーゼ種、それも葉をつけて2ヶ月以内の若葉が最良とされる。イタリア国内でも入手が難しいジェノヴェーゼ種ではなく、甘い香りが特徴のスイートバジルが使われることが多い。リグーリアでPestoといえば、ジェノヴェーゼを意味する


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2007/06/15

伝説のグラッパ職人、ロマーノ・レヴィ

天使のグラッパ職人は生き仏だった

 昼食にたっぷりと摂取したタルトゥフォ・ビアンコの残り香を全身から発するお大名様一行。次に目指したのは、カネッリからアルバへと西に向かう道を20キロほど進んだクーネオ県ネイヴェ。そこには知る人ぞ知るグラッパ職人であり、イタリアらしいファンタジックでハンドメイドなモノ作りの極みともいえるRomano Levi ロマーノ・レヴィさんのグラッパ蒸留所兼自宅があるのです。

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【Photo】アルプスを遠望するNeive ネイヴェの町

 カネッリと至近距離にある蒸留所への訪問は、私のたっての希望で組み込んだもの。車に乗り込む同行メンバーは一様に「誰それ? 」「何しに行くの? 」といった雰囲気でしたが、行く先を操るドライバーは私。先導するジョルジョについて「ムフフ・・伝説の人に逢わせてやるぜぃ」と、約束の4時に間に合うよう、はやる気持ちをおさえつつ道を急ぎました。ただ、1928年生まれと高齢のレヴィさんは最近体調が思わしくなく、ご本人にお会いできるかどうか、行ってみないと判らないよ、と事前にジョルジョからはクギを刺されていました。

Ciabot_Canale_Cisterna.jpg【Photo】Neive ネイヴェ近郊のブドウ畑にはCiabòt と呼ばれる農作業の間に休憩や雨宿りのための作業小屋があるのを見かける。こうしたランゲの丘の風景は、レヴィさんが描くラベルのモチーフとなっている

 ピエモンテ州はワインの銘醸地として有名ですが、とりわけクーネオ県は世界的に名高いバローロ、バルバレスコといったワインの有名産地を抱えます。ワインの醸造のため除梗され果粒となったブドウは、仕込みの途中で果皮や種を除かれます。このワイン醸造過程で不要になる残り滓を発酵・蒸留して作られるワインの副産物として世界各国で作られてきました。

coretto.jpg【Photo】希少なキアーナ牛の産地、トスカーナ州キアーナ渓谷の近くの街モンテプルチアーノのリストランテ「Borgo Buio Officina del Gustoボルゴ・ブイオ」にて。庄イタ+女性2人の両手に花の組み合わせで、やっとの思いで巨大なキアーナ牛のビステッカ(=ステーキ)を平らげた後のカッフェは、グラッパと共に登場。消化を助けるグラッパを入れた Espresso Coretto は、ビステッカ・アッラ・フィオレンティーノを食した後の定番

 こうしたいわゆる「滓(かす)取りブランデー」は、イタリアではGrappaグラッパ、フランスではEau de Vie de Marc オー・ド・ヴィー・ド・マール(Marc マールと略して呼ばれる方が多い)、スペインではAguardiente アグアルディエンテ、あるいはOrujo オルッホと呼ばれます。原料が安価に入手できるので、どちらかと言えば庶民の酒として親しまれてきたものです。

 温暖な地中海性気候のイタリアでも、北部の冬の冷え込みは相当のもの。かつて貧しい労働者たちは寒さをしのぐ手段として、また強壮剤がわりに、40度前後ものアルコール度数のグラッパをあおっていたようです。北イタリアの一般家庭では、コレット(エスプレッソにグラッパを加えたアレンジカッフェ)や、グラッパをストレートで飲みながら家族や友人同士の語らいを楽しむのが食後の習慣でした。さらに気管支炎や便秘、消毒薬や歯痛などの薬としてもグラッパは使われていたようです。

 古代ギリシャ人がエノトリア・テルス(=ワインの大地)と呼んだほど、ワインの栽培に適したイタリア。現在イタリアの全20州でワインは作られていますが、グラッパは北部イタリア各州、特にヴェネト州やピエモンテ州、フリウリ・ヴェネツィア・ジューリア州などの主要なワイン生産地でワイン醸造の副産物として、10世紀前後から製造・消費されてきました。

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【Photo】バッサーノ・デル・グラッパの町を流れるブレンダ川と、屋根のかかった木製の橋「ポンテ・ヴェッキオ」

 ルネッサンス期に蒸留技術が発展し、アルプスの麓に位置するヴェネト州北西部のバッサーノ・デル・グラッパ(=グラッパのバッサーノ)という町では、1601年に蒸留酒組合が設立されています。町を流れるブレンダ川にかかる屋根付きの木造橋ポンテ・ヴェッキオ周辺には、グラッパを取り扱う店が現在も多数立ち並びます。バッサーノ・デル・グラッパ近くにある山、モンテ・グラッパ(=グラッパ山)は、グラッパという酒名の由来ではないかという説もあります (注5)

近年、イタリア料理人気も手伝って、日本でもグラッパの名前は食後酒として広く知られるようになりました。ヴェネト州の州都ヴェネツィア特産の凝った意匠のボトルに入ったグラッパは仙台の酒販店でも見かけます。Sassicaia サッシカイアや Luce ルーチェといったトスカーナ州産の有名ワイナリー銘柄のグラッパが、実は北イタリアの蒸留所に原料が運ばれて製造されていることはあまり知られていません。

grappadiLuce.jpg【Photo】トスカーナの名門 Frescobaldi フレスコバルディとカリフォルニアの雄 Robert Mondavi ロバート・モンダビのジョイントで生まれたスーパートスカーナ「ルーチェ」。日本に初めて正規で輸入されたファーストヴィンテージの'95とバッサーノ・デル・グラッパ近郊のJacopo Poli ヤーコポ・ポリ蒸留所で造られるルーチェブランドのグラッパ

 イタリアにおいてグラッパの名が全土に浸透したのは20世紀に入ってから。それ以前はフランスと地理的に近いピエモンテ州では、ブランダBranda (=ブランデー)という呼び名が一般的だったようですし、ヴェネト州においても Graspa グラスパと呼ばれたりしていました。

 現在の欧州連合(EU)発足以前の1989年、欧州共同体(EC)体制化において、グラッパという名称がイタリア産の滓取りブランデーにのみに認められると法制化されて以降、呼称の統一が図られました。

 グラッパの原料となるワイン醸造の残り滓をイタリアでは「ヴィナッチャ」といいます。一定のクオリティを持つ製品化されたワインを蒸留して造るコニャックやアルマニャックなどのいわゆるブランデーとは異なり、素材そのものであるヴィナッチャ、特に果皮にはブドウ本来の香りが凝縮しているため、それを蒸留するグラッパは、素材となるブドウの持ち味や品質がダイレクトに蒸留後の味わいに反映されます。

grappaBerta.jpg【Photo】ニッツァ・モンフェラートにある至高の蒸留所Berta (ベルタ)。これはモスカート(マスカット)種のヴィナッチャから抽出したアルコール成分を、8年間樽で熟成させてからリリースする限定品

 ブドウ生産農家の自家蒸留も含めて、イタリアにおけるヴィナッチャを材料とする蒸留所は、20世紀初頭には二千軒ほどあったといいます。そのため、圧搾後の保管の良し悪しによって酒質にバラつきが出がちで、'80年代半ばまで、グラッパは安酒というイメージが国内では浸透していました。現在のように人気ワイナリーの名を冠したグラッパが作られることも、まして一流のリストランテの食後酒としてオンリストすることなど、想像すらできない状況だったのです。

 風光明媚なリゾート地コモ湖の北方、スイス国境に程近い山中の町、ロンバルディア州最北部に位置するソンドリオ県カンポドルチーノから、西隣のピエモンテ州でもブドウ栽培が盛んなランゲ地方のネイヴェに移り住んだセラフィーノ・レヴィは、駅近くの Via 20 Settembre (=9月20日通り)に面した一角で1925年にレヴィ・セラフィーノ蒸留所を興しました。

 ところが、彼は8年後の1933年に若くして他界。その当時7歳だった娘リディアと5歳の息子ロマーノを抱えた母テレジーナは、女手ひとつで夫が興した蒸留所を引き継ぐ決意をしたのです。

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【Photo】ネイヴェの街中にある高齢のレヴィさんと姉のリディアさんが2階で暮らす自宅兼蒸留所のレヴィ・セラフィーの蒸留所の庭にて。写真右手奥に建物をまわり込んだ場所が直火式蒸留施設となっている。

 第二次世界大戦下の1945年。遡ること2年前の1943年にイタリアは降伏文書に調印していましたが、ナチスドイツの支援を受けたムッソリーニは、ドイツの傀儡(かいらい)政権というべきイタリア社会共和国をロンバルディア州ガルダ湖畔で樹立。ローマ以北を支配下に治め、連合国側が支配する南イタリア諸州との間でイタリアは内戦状態にありました。

 そんな混迷した状況下の3月30日の朝、ニッツァ・モンフェラートとアルバを結ぶ鉄道施設を数機の爆撃機が襲撃しました。その際、ネイヴェにある小さな駅も爆撃を受けたのです。このとき姉リディアは教会に、ロマーノは地下のセラーに逃れて難を逃れました。この爆撃で8名のネイヴェ市民の命が失われました。その中にロマーノの母テレジーナが含まれていたのです。それはムッソリーニがパルチザンに捕らえられて処刑され、その二日後にヒトラーがベルリンで自殺し、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線が収拾するちょうどひと月前のことでした。

【Photo】屋根の上ではレヴィさんファンにとって永遠のアイドル? ドンナ・セルヴァティカ(直訳すると「野生の女性」→お転婆娘・じゃじゃ馬といったニュアンス)が踊る

yaneselva.jpg こうして高校を卒業したばかりのリディアと、高校在学中だったロマーノの二人だけが残されました。その当時、まだ19歳と17歳であった二人が生きてゆくための成り行きとして、蒸留所の釜にロマーノ少年が初めて火入れをしたのが1945年の秋。最初にロマーノが仕込んだヴィナッチャは、母が不慮の死を遂げる前年に遺したものでした。

 それまでは誰もグラッパの蒸留法をロマーノに教えたことはなかったといいます。爾来60年以上にわたって、レヴィさんはひたすらグラッパを作り続けているのです。姉のリディアさんが庭で摘んだミントやセージなどのハーブが入ったグラッパも作られてきましたが、80歳を迎えたリディアさんは最近病気がちのため、ハーブ入りのグラッパを見かけることは少なくなりました。

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【Photo】壁にはレヴィさんが好きだというフクロウのオブジェや、来訪した著名人の写真が飾られている。創業当初から周辺のカンティーナから秋に持ち込まれるヴィナッチャは、庭に掘られた深さ6mの貯蔵庫で保管され、天然の冷蔵庫で一冬を越す

 現在、グラッパ作りで主流なのは、スチームによる加熱方式。そのほか二重構造になった釜の間に熱湯を通して加熱する方法を取り入れている蒸留所もあります。沸点が100℃の水を使用したほうが、加熱温度が高すぎるとアルデヒドなどの悪臭成分が発生するヴィナッチャから、79℃以下で沸点に達するエチルアルコールを気化させて抽出する蒸留作業の温度管理がしやすいからです。

 かたやレヴィ・セラフィーノ蒸留所では、加水したヴィナッチャを加熱してアルコール成分を抽出するのは、創業当初から80年以上を経過した直火式のカルダイアと呼ばれる銅釜を含む蒸留装置。この蒸留装置を総称してアランビッコといいます。近所に暮らすジョルジョ・トーソさんが親子二代に渡ってアランビッコのメンテナンスを担当しています。

vinaccia_revi.jpg 【Photo】建物奥のヴィナッチャ保管場所で。アンジェロ・ガヤなどの近郊のカンティーナから、圧搾後3日以内で持ち込まれるヴィナッチャは黒いビニール袋に入っている。手前がアルコール抽出を終えたヴィナッチャで、抽出の際の燃料にまわされる。燃料の灰は、畑に撒かれ土壌改良に使われる

 ブドウの搾り滓を直火で加熱して蒸留酒を造っているのは、今日のイタリアでは唯一レヴィさんだけとなりました。自家消費用を除けば、世界でも例を見ないかもしれません。釜の熱源を両親から受け継いだ炎に頼ってきたレヴィさん。元気だった頃は朝4時に釜に火を入れ、永年の勘で温度管理を自らしていたそうです。

caldaia_revi.jpg【Photo】フクロウの小物がたくさん置かれていた作業場内部。奥のアランビッコから手前の樽にアルコールが移される

 ワインラヴァーの私が初めてロマーノ・レヴィさんを知ったのは、'90年代半ばに目に触れた雑誌の記事を通して。そこには風変わりなヘタウマ風の絵が手書きされたラベルのグラッパと、いかにもクセ者というオーラを放つレヴィさんの写真が載っていました。いわく作り手のもとを訪れないとグラッパを入手できないこと。ラベルが一枚ずつ手書きされること。機嫌が悪い時は会ってもくれず、会えたとしても譲ってくれるとは限らないこと、そこには電話すらないこと・・・・などが記されており、強烈な印象を残したことを記憶しています。(注6)

 レヴィさんの代名詞といえる手書きのラベルはグラッパ造りを始めて18年後の1963年から登場しています。著名なイタリアのワインジャーナリスト、故ルイジ・ヴェロネッリが、レヴィさんを「Grappaio Angelico (=天使のようなグラッパ職人)」と形容し、さらに1971年12月にイタリアの週刊誌 Epoca で紹介して以来、レヴィさんは生ける伝説となったのです。

UomoSelvatico.jpg【Photo】筆者所有のレヴィさんのグラッパより。右が Donna Selvatica ドンナ・セルヴァティカ。左はレヴィさん自身の投影だという Uomo Selvatico ウォモ・セルヴァティコ(「野生の男」の意)

 日々の出来事や印象的な出逢いを絵や詩で紡ぎあげるため、同じものが存在しないレヴィさんの手書きラベルをまとったグラッパには、世界中にファンがおり、プレミア価格で取引されます。日本での実勢価格は、700ml入り一本およそ2万円前後。熟成期間の長いリゼルバや、とりわけマニアに人気の高いキャラクター「Donna Selvatica ドンナ・セルヴァティカ」がラベルに登場するものとなると、一ケタ跳ね上がることも珍しくありません。

 ドンナ・セルヴァティカが誰なのか、前出の蒸留釜のメンテナンスを担当するトーソさんによって明かされています。学校まで歩いてブドウ畑を越えて通っていたレヴィさん。本稿の冒頭でご紹介したブドウ畑に点在するCiabòt と呼ばれる避難小屋の前で、朝に出逢った美しい女性がモデルなのだといいます。

 傘をさしたウォモ・セルヴァティコが、生涯独身を貫くレヴィさんなのだと仮にすれば、ファム・ファタールとの邂逅が目に浮かぶようです。

 私たちが立ち寄ったネイヴェ中心部のエノテカ(注7)では、店内の目立つ場所に鎮座したレヴィさん手書きラベルのグラッパが100エウロだったのに対し、同程度の熟成期間を経た同じような中身のグラッパでも、印刷ラベルのものは、30エウロと3倍以上の価格差がありました。

printedaquqavite.jpg【Photo】レヴィ・セラフィーノ蒸留所製の印刷ラベルのグラッパ「Acquavite di Vinaccia」。中身は同じでもプレミア価格となる手書きラベルのグラッパよりかなり割安。蒸留所で試飲用に置いてあったグラッパはこれだった

 かくするうちに、ネイヴェの町に辿り着いた一行。街の中心部の道端でジョルジョが運転するプジョーが停車しました。通りの斜め向かいには、イタリアワイン界のリーダー的存在として著名なアンジェロ・ガヤ氏と並んでバルバレスコの巨人と称されるブルーノ・ジャコーザ氏のカンティーナ(=ワイン醸造所)が何気にあるではありませんか。「おお、スゲぇ~」。

 ネイヴェはバルバレスコ村とすぐ目と鼻の先。そのためブドウ畑が広がるランゲ地区を車で走っていると、こうして有名カンティーナと突然出くわすことがあるのです。車を降りたジョルジョは、広い庭のある一軒の家の中に入ってゆきます。さまざまな草木が生い茂った庭には猫が2匹。紛れもなくこの古びた建物がロマーノさんの自宅兼蒸留所なのでした。

 建物の奥にはアルコール抽出が終わった固形のヴィナッチャがうず高く積まれた一角が。そこからは再発酵作用のため、湯気が上がっていました。蒸留釜の燃料はすべてこの使用済みのヴィナッチャを活用しています。燃やしたヴィナッチャの灰は、ブドウ農家に引き取られ肥料として活用されるといいます。

Fornenryou.jpg【Photo】使用済みのヴィナッチャ。水分を除くために木製の圧搾機(下写真左の木製の器具)にかけられた際につく縦縞模様がついているのがわかる

 私たちが訪れた10月末は、赤ワイン用ブドウ品種としては収穫時期が早いバルベーラ種やドルチェット種が仕込みを終え、そのヴィナッチャが周辺のカンティーナから持ち込まれる時期でした。11月に入ると、収穫が最晩秋となるネッビオーロ種が持ち込まれてきます。それらは黒いビニール袋に詰められた上、ひと冬を6mの深さがある貯蔵庫に埋められてから上から砂で覆われ、天然の冷蔵庫でじっくりと寝かせてから蒸留されます。

 かつては、アルネイス種やモスカート種など、白ワイン用のブドウのヴィナッチャも使用したそうですが、蒸留前に一次発酵させる必要があるため、現在では主に赤ワイン用ブドウを使用しているそうです(注8)

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【Photo】(左写真)作業中のファブリッツィオさん(上)とブルーノさん(下)/(右写真)カルダイアで煮沸されるヴィナッチャ。アルコールを帯びた蒸気が銅製の管を伝って抽出される。抽出を終え、カルダイアから取り出されたばかりのヴィナッチャ(下写真)。水分を圧搾して乾燥後、燃料となる

 作業場ではレヴィさんのアシスタントを勤めるブルーノさんとファブリッツィオさんが働いていました。蒸留作業が終盤にさしかかり、蒸留釜の蓋が外されています。ファブリッツィオさんに促され、ハシゴに登って中を覗くと、釜の中でヴィナッチャがグツグツ沸騰しています。

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 ヴィナッチャに含まれる水分とアルコールの二つの揮発成分は加熱によって水蒸気となりますが、エチルアルコールの沸点のほうが水のそれよりも低いため、ヴィナッチャに含まれるアルコール成分の抽出という蒸留の目的は、煮沸工程の前半で果たされます。

 アルコールが気化した蒸気を再び純度の高いアルコールとして液化させるために、冷却装置である銅製のパイプと蒸留塔で液化し、そこから直接パイプで樽に移された後、2年間以上に渡って熟成されます。樽の素材がトネリコとクリ材の場合は透明に、アカシアとオーク材の場合はコハク色に、材質の成分が滲み出て仕上がるそうです。最終的にそれらは混ぜあわされてアルコール度数が50~60度になるよう加水の上、瓶詰めされます。

 「わしゃ、一種類のグラッパしか作っとらんよ」と煙に巻くレヴィさんですが、調合の度合いによって、味わいはさまざま。気の良さそうなブルーノさんに勧められて、ほのかに琥珀色を帯びたグラッパを試飲していると、ジョルジョが駆け足でやってきました。数名に分かれてレヴィさんと挨拶ができるそうです。やって来てよかった!その日は天気も良く、10月下旬の北イタリアとしては、暖かだったので、レヴィさんの体調が良かったのでしょう。

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【Photo】頸椎を痛めた首を持ち上げるレヴィさんと同じポーズで記念撮影に興じるアル・ケッチァーノ奥田政行シェフ。窓際に幾重にも張られたクモの巣は埃だらけ

 敷地に入ってすぐ左手にある木の扉を開けて、裸電球の照明がぶら下がった雑然とした部屋に通されました。そこはレヴィさんが天使と交信しながらラベルを描くアトリエなのでした。壁一面に世界中から訪れる訪問者と撮られた写真や、いろいろな絵が掛けられています。西洋では知恵のシンボルといわれ、レヴィさんも好きだというさまざまなフクロウの小物が部屋中に置かれています。ファンの間では有名な? 蚊が捕れるからとそのままにしている幾重にも張られたクモの巣は埃だらけ。そこには何やら虫が引っかかっています。

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【Photo】具合が悪いレヴィさんの首に気を送るエスパー奥田。気持ちよさげな表情を浮かべるレヴィさん。エスパーとしての手腕は未知数ながら、首に気を送る筆者。(たぶん)気持ちよさげな表情を浮かべるレヴィさん。

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 窓際の机の前で手を広げ、歓迎の意を表すように穏やかな笑みを浮かべたロマーノ・レヴィさんが私の目の前にいました。椅子に座った姿は、あたかも前ローマ法王・故ヨハネ・パウロ二世のよう。友人の醸造家、ロマーノ・ドリオッティ氏を通して訪問の仲介をしてくれたのだというジョルジョが、私達を順番に紹介します。

 レヴィさんは両手で頭を持ち上げる仕草をしながら、こんな格好で申し訳ないと開口一番。頚椎を傷めて首を固定するバンドを頭に巻いていないと、頭が上がらないそうで、そのような状態にもかかわらず面会の時間を割いてくれたレヴィさんの優しさに打たれました。

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【Photo】それぞれ頂いたオリジナルラベルのグラッパを手に。手前より筆者、奥田シェフ、西川さん、ジョルジョ。シェフからのお土産・アル・ケッチァーノの純米吟醸酒「水酒蘭(ミシュラン)」を手にするレヴィさん

 ささやかな御礼代わりになればと、「レヴィさんの首が楽になるよう、気を送ってあげて」と、実はエスパーな奥田シェフに耳打ちしました。シェフが左手をレヴィさんの首に当てると、「Bene, Bene(≒あ゙~、気持ちいい)」とつぶやき、気持ちよさげ。奥田シェフほどの超能力は持ち合わせていない私もレヴィさんの首に気を送っていると、おもむろにジョルジョが私にグラッパを一本差し出しました。

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 そのボトルには、震えた字でRomano Levi 2006と直筆サインがなされ、なんとKimura と私の苗字が書かれたドンナ・セルバティカのびっくり顔のラベルが貼られていたのです(上写真)。予期せぬ展開にその瞬間、ワーオ!と思わず声を上げてしまいました。世界で一つだけしか存在しないこのラベルに描かれたセルバティカちゃんと同じような顔だったことでしょう。

 奥田シェフと西川さんにも名前入りでドンナ・セルバティカの別バリエーションで用意されていました。最近は体調が悪くて、ほとんどラベルの絵が描けないと聞いていたのですが、事前にジョルジョが手を回してくれていたのです。ありがとうレヴィさん。ありがとうジョルジョ。アトリエを出がけにお土産にと、レヴィさんの絵の焼印が押されたコルクも頂きました。

okuda2.jpg 限られた時間での出会いでしたが、えもいわれぬ包容力をたたえたレヴィさんとのまさに一期一会の時間は、メンバー全員の胸に深く刻まれた様子でした。前述の理由で手書きのグラッパは非常に量が限られてきているため、ジョルジョが手配できたグラッパは、この日訪れたメンバーのうちでも3人分だけ。しかもその3本はプレミアなしの値段でした。

 後日談で、帰路のパリ空港で、荷物整理のために奥田シェフがスーツケースから取り出したラベルに OKUDA と描かれたグラッパを見咎めたのが、同行した雑誌「四季の味」八巻編集長。「何それ?OKUDA って書いてあるじゃない!! 」と八巻さんから詰問されたシェフは、答えに窮してその場を逃げ出したとか。

 それを知ったジョルジョが、改めて八巻マンマ用のグラッパを頼もうとしたものの、私たちの訪問から間もなくレヴィさんが体調を崩して入院してしまったことを西川さんから聞きました。一日も早い回復を祈っていたこちらの願いが通じたのか、年明けの2007年1月には退院し、八巻さんとジョルジョのグラッパのラベルも描いてもらえました。同年3月に日本を訪れたジョルジョによって、そのグラッパは八巻さんに手渡されたようです。家宝にせねば。ね、八巻さん。

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【Photo】レヴィさんから贈られたボトルのバックラベル。加水してアルコール度数を51%に調整しており、「アクアヴィーテ・ディ・ヴィナッチャ」(「ヴィナッチャの生命の水」の意)と表記される

 生産手段の工業化は一定の品質を、そして技術革新はめまぐるしいモデルチェンジをもたらします。目先の新しさを追い求めるモノは、えてしてすぐに忘れ去られてしまいがち。私たちの身の回りは、そんなモノで溢れかえっています。しかし、そこには作り手の思いや顔はなかなか見えてきません。かつて優れた品質で世界を席巻した MADE IN JAPAN 製品も、グローバル化の波を受け、海外に生産拠点を移さざるを得なくなり、もともとの「売り」だった品質の低下を招いているケースも見受けられます。

 そんなマスプロダクツの論理や目先の流行とは縁のないところで、レヴィさんは昔ながらのやり方で世界にひとつだけのグラッパを造り続けてきました。伝説の人と会うために今日もネイヴェの古びた屋敷を訪れる人たちは後を絶ちません。レヴィさんから頂いたグラッパの世界にひとつだけの味わい深いラベルを眺めながら、その作り手が歩んだ80年の人生と重ね合わせ、時流に流されないレヴィさんの飄々とした生き方が世界中のファンを惹きつけてやまないのだ。と納得したのでした。

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【Photo】「天使のようなグラッパ職人」と言われる伝説の人から頂いたコルクには、レヴィさんの楽しげな絵が刻印されていた

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【注5】ほかに Grappa グラッパの語源の説として、ブドウの房を意味する Grappolo グラッポロ、果梗を意味する Graspo グラスポなどがあるが、いずれも決め手に欠ける。

【注6】そうして近郊の酒販店や酒商もレヴィさんのグラッパを入手している。彼らが上乗せする転売差益を支払いさえすれば、家を訪問せずとも入手は可能。レヴィさんイコール手書きラベルと日本では短絡的に紹介されているが、実は Acquavite di vinaccia (アックアヴィテ・ディ・ヴィナッチャ)と印刷されたラベルの「レヴィ・セラフィーノ」ブランドのグラッパも一部市場に出回っている。高齢のレヴィさんがこなせる量は限られるので、手書きラベルのグラッパの希少性は増すばかりだ。そのため、2004年の12月からは、ラベル作成を年下の友人であるマウリッツィオさんが時々手伝っているという。二人が共同作業をしたボトルには、ROMANO E MAURIZIO と記されている

【注7】酒販店のこと。私たちが訪れた「エノテカ・デル・ボルゴ・ディ・ネイヴェ」は、ワインの聖地ランゲだけあり、ざっと見たところ商品構成は地元産の赤ワイン85%、同白ワイン10%、グラッパ3%、その他2%と著しく偏っていた。こうした「地元が一番!」という、いかにもイタリアらしいスタンスに好感が持てた。
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【Photo】NEIVEの町 Via 20 Settembre に面した Enoteca del Borgo di Neive。外壁のドンナ・セルヴァティカの絵(下写真)に惹かれて店に寄った。この通りの先にレヴィさんの蒸留所がある
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 それにしてもオーナーが店の奥から切り出してきた生ソーセージ「サルシッチャ」と共にワイン数本を早朝から試飲したが、バランスの取れた気高さを感じさせる自家製バルバレスコの美味しかったこと!日本には入ってきていない銘柄だったが、ピエモンテにはこうした規模の小さなつくり手が多い。ジョルジョに言わせると規模の大きなカンティーナよりも小さなところのほうがワインの品質がいいぞ!とのこと。確かに自分の目が届く範囲でブドウを手塩にかけて育て、自家醸造する作り手のほうが信頼は置けるので、真実の一面を突いている

【注8】白ワインは、醸造過程で果粒を破砕して圧力を加えて流れ出たモスト(果汁)がアルコール発酵する前に果皮や種が取り除かれるため、色素がモストに移らない。よって、取り除かれたばかりの白ワイン用ブドウの果皮や種はアルコール発酵していない状態にある。よって、白ワイン用ブドウ品種のヴィナッチャからアルコール抽出するためには、事前に発酵させる必要がある。一方、赤ワインは果皮や種を含んだ状態でモストをアルコール発酵させるため、果皮の色素がモストに移って赤ワイン特有の色合いを呈する。グラッパの蒸留所に持ち込まれたヴィナッチャは、カンティーナの管理下ですでに発酵過程を終えているのである。素材の状態が品質の鍵を握るグラッパゆえ、傷みやすい白ワイン用ブドウのヴィナッチャを使用する場合は、その発酵にも神経を払う必要がある。

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2007/06/14

女性酒応援団を応援しよう

旨し食の伴侶に旨し酒あり。

食中酒は食事の楽しさを倍増させてくれます。
イタリアやフランス、中国、そして日本。これら世界に冠たる食文化を持つ国で
ワインや紹興酒・日本酒などの食中酒文化が発達した背景には、
単に空腹を満たすだけではなく、「食事を楽みたい」という人間の英知の積極的な関与がありました。

このほど、宮城県内で日本酒造りに携わっている女性や愛好家らによる
「みやぎの酒女性応援団」が発足するというので、友人からの誘いで、
その応援団の応援に(?)駆けつけました。
とはいえ、開始時間にすっかり遅れてしまったので、そそくさと空いていた
席に潜り込み、隣席の方にあたふたと名刺を差し出すと・・・あれ?
なぁーんだ、食Web研究所の「3人ごはんBlog」の常連客でとしても活躍中
の福田沙織さんじゃありませんか?
ハハハ・・・フードライター同士、行動パターンがどこかで被ってくるんですね。

会の設立趣旨や「酒と食の地産地消」を推し進めるための活動を繰り広げる
という方針の説明は、とうに終わったみたい。
そのため、私にとっては、ただの異業種交流会となった次第。しかも女性だらけ
L(@^▽^@)

素材の味を活かす繊細な味付けがされる日本食には、やはり日本酒が
ピタピタと合います。宮城の郷土の味の再発見。まさに「あるもん探し」。
これからの活動に期待したいですね。

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【PHOTO】蔵の酒を手にする蔵元三人娘(⇒勝手に命名)。
写真右から、㈱佐浦 内海 尚子さん、はさまや酒造店 泉 薫子さん、まるや天賞㈱ 蕪城 文子さん

同会の発起人・浅野酒店店主、浅野康城さんや、会の座長に選ばれた
外崎浩子県議らと連れ立っての飲み直しは、行きつけのEnoteca il Circoloへ。

日本酒応援団の締めだというのに、最後はイタリアワインとなるのだった・・・

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2007/06/11

白トリュフの魔力

 2006年秋のイタリア訪問のきっかけは、Slow Food協会が主催した「テッラ・マードレ2006」に料理人として招聘された山形県鶴岡市にある庄内ベジ・イタリアン「アル・ケッチァーノ」の奥田 政行シェフに「取材を兼ねてどうです、今回も一緒に? 」と誘われたから。というのは表向きで、アッシー君としての実績をシェフに見込まれたからに他なりません。

 詳細は機会を改めてご紹介しますが、2003年に奥田シェフがイタリア・マルケ州のオーガニックフェスティバルに招かれて料理を提供した際もイタリアに同行した私。宿泊先だった教会の神父が所有するワゴン車のキーを突然預けられ、食材の仕入れはもちろん、伝統食材の生産現場見学のために遥かモデナやパルマまで車で延べ数千キロを駆け回ったのですから。

 時として上がる同乗者の悲鳴をよそに、一向にスローにならない私の運転を評して「ジェットコースターみたいだ」と、つぶやいたのは同店の青柳マネージャー。(^0^;)お得意のスローとはいえない速さ(注1)で、スローフード協会の公式行事以外にも、ピエモンテ州ほかイタリア各地を今回も駆け巡りました。

◆「禁断の白トリュフ」

 2006年10月24日早朝4時過ぎのパリ・シャルル・ド・ゴール空港ターミナル。搭乗したエールフランスの空港職員の勘違いでトランジットの待ち時間に通されたのは、ビジネスクラス専用のサロンでした。そこに用意された飲み物やお菓子にあらかた手を付け、(「お土産~♪」と言ってマドレーヌを鷲づかみにしたのは、どこのシェフでしたっけ?)予期せず優雅なひとときを過ごしました。広大な空港をトリノまでの乗り継ぎ便の搭乗ゲートまで移動した後、朝7時30分とはいえ、まだ真っ暗なパリを離陸。朝焼けに染まるアルプス上空を越え、ほどなく霧の間に滑走路が垣間見えてきたトリノ空港に着陸したのが、定刻の8時45分でした。

Aeroporto.jpg.jpg【PHOTO】秋のトリノ周辺は霧が立ち込める事が多い。機上から垣間見たトリノ市街。万年雪を頂くアルプスがすぐ間近かに迫る

 そこで私たちを飛び切りの笑顔で出迎えてくれたのは、ピエモンテでの宿泊先となったアグリツーリズモ「Rupestr(ルペストゥル)」のオーナー、Giorgio Cirio ジョルジョ・チリオ氏。同年3月に奥田シェフの店で会って以来の再会です。いざ、予約していたレンタカーをピックアップして出発進行!と思ったものの、空港でローマから合流する予定だった私の友人が、機材故障のため到着が大幅に遅れるトラブルが発生。"ハプニングも旅の醍醐味"というプラス思考で空港を2時間あまり散策した後、巨大なFIATのワゴン車にスーツケースをぎゅうぎゅう詰めにして、ジョルジョが運転するプジョーの先導のもと、トリノ市内を経由してからモンフェラート丘陵の間を走る高速A21をスプマンテの産地として有名なアスティの手前まで疾走。アスティ県にある90キロほど南東にある町、カネッリに向かいました。

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【PHOTO】トリノからアスティへと向かう高速A21を激走するジョルジョの年季の入ったプジョー306。イタリアの高速道路における一番左側の車線は追越し車線である。定員一杯でスーツケースまで満載したジャッポネーゼが運転する車を先導しながらも、ジョルジョは終始ビュンビュン飛ばすのだった。(後部座席から青柳店長が激写)

 今回のツアーの同行メンバーは、奥田シェフほか青柳 孝フロアマネージャーと佳子夫人、同店の若手料理人・佐藤 渓治君と原田 健治君のアル・ケッチァーノ関係者5人。そしてRupestrの常連で仲介の労と通訳をお願いした盛岡在住の税理士・西川 温子さん、私と同じく奥田シェフに誘われて参加した料理雑誌「四季の味」の八巻 元子編集長と、私の友人を含めて車の定員いっぱいの総勢9名での移動となりました。

 スタートが遅れたため、途中で立ち寄る予定だったサレジオ会の創設者でカトリックの聖人ドン・ボスコゆかりの地、Castelnuovo Don Bosco カステルヌオーヴォ・ドン・ボスコへは後日立ち寄ることに変更。"まずは腹ごしらえ"と、メンバーが向かったのは、イタリアの各Guida(=レストラン評価本)での高評価はもちろん、イタリアのレストランには点が辛いといわれるミシュランのレッドガイドでも一つ星を獲得しているカネッリのリストランテ「SAN MARCO サン・マルコ」。奥様のマリウッチャさんがシェフ、ご主人のピエール・カルロさんがソムリエ兼フロアマネージャーというフェレッロ家による経営スタイルは、家族の結びつきが強いイタリアのリストランテではよくある形態です。人口一万人ほどのカネッリの町にあるこのリストランテでも、二人の日本人がその日は厨房で働いていました。ワインに目がない私が事前にWebサイトでチェックして「ココで食べたい!」と一目ぼれしたのは、地元ピエモンテ産ワインがズラリと並んだ地階のセラールーム「La Tavernetta」。その部屋を予約してもらうようジョルジョにお願いしてあったので、私たちが通されたのは、まさにその部屋の大きなテーブルでした。

      cuccina.jpg【PHOTO】この日SAN MARCO の厨房には、外国人のための教育研修機関「ICIF」でイタリア料理を学ぶ二人の日本人スタッフがいた

tavernetta.jpg【PHOTO】ピエモンテ州ランゲ地区の名醸ワインがズラリ。SAN MARCO のセラールーム「La Tavernetta」でゴキゲンなジョルジョと奥田シェフ

 テーブルには、一般的なスティック状のものと、薄く延ばした細長い形状の自家製だというグリシーニや大きなポルチーニ茸や野菜類が美しくセッティングされ食欲をそそります。

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【PHOTO】テーブル上のディスプレー。白い野菜がカルド・ゴッボ・ディ・ニッツァ・モンフェラート(上写真)自家製グリッシーニ2種類。グリッシーニ発祥の地はトリノだそうな(下写真)

 まずは、ジョルジョがチョイスしたカネッリにあるカンティーナ(=ワインの醸造元)CONTRATTOの辛口スプマンテで、彼の「カンパーイ」の流暢な日本語の発声のもと旅の無事を祈って乾杯。

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【PHOTO】CONTRATTOSPUMANTE'02は、長雨による厳しいヴィンテージを反映してか、残念ながら泡立ちや複雑味、奥行きがいまひとつ。かつてこのカンティーナの醸造責任者を務めた経歴のあるジョルジョも物足りなさ気だった

 予約したお任せコースは、フェンネル(=ういきょう)のクリームとフォアグラ、ジャガイモと自家製ソーセージ、豚の頬皮のサラミ・ポレンタ(注2)挟みフリットなどの5品のアンティパスト(前菜)で始まりました。

antipasti.jpg【PHOTO】動物性脂肪を多用するピエモンテ料理にしては比較的軽めの味付けから。アンティパストは大皿で登場

 そこに先ほどまで厨房にいた日本人スタッフの中村さんが、小学生の握りこぶし大ほどの大ぶりなタルトゥフォ・ビアンコ(=白トリュフ)を皿に6個ほど載せて登場。すると、えもいわれぬトリュフの芳香が部屋中に漂い始めました。いわく「グラム単位の計り売りになります。いかがされますか?」。

 野暮な質問はやめてくれ~。据え膳食わぬは何とやら。魅惑的な匂いをかがされたワンコ同然の私たちは、ピエモンテが誇る超・高級食材、白トリュフの産地に、しかも旬の真っ盛りに日本からわざわざ来ているのですから、頼まないはずがありません。きちんとグラム単価の説明を受けたかどうかは、視線がトリュフに集中するあまり記憶が定かではありません。それでも極めて高価な食材である事は充分知っているつもりで、メンバー相談の上オーダーしました。

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【PHOTO】トリュフを手に登場した日本人スタッフ中村君。私たちの視線は皿の上に釘付け

 テーブルにもディスプレーされている野菜「Cardo Gobbo di Nizza カルド・ゴッボ・ディ・ニッツァ」は、カネッリの北東8キロほどにあるNizza Monferratoニッツァ・モンフェラート周辺の砂の多い土壌で作られるアザミの一種。生育途中で一ヶ月ほど茎の部分を土中に埋めて白化させる伝統的な栽培法でスローフード協会からプレジディオ指定を受けています。

contartufo.jpg【PHOTO】ポルチーニのトルティーナ・フォンドュータソースと温製カルド・ゴッボ・ディ・ニッツァ

 そのカルド・ゴッボ・ディ・ニッツァを温製の付け合せにした「ポルチーニのトルティーナ・フォンデュータソース」には、シェフのマリウッチャさんが登場し、専用のおろし具で白トリュフをおろし始めました。その途端、先ほどまで部屋の中に漂っていた芳香が一段と強く立ちこめはじめたのです。

            mauriccia.jpg【PHOTO】あっけにとられている私たちにの脇に立ち、白トリュフをたっぷりとスライスするシェフのマウリッチャ・フェレッロさん

 白トリュフの最大の魅力である馥郁たる香りは、黒トリュフとは比べ物にならないほど強く、取引価格もイタリア産黒トリュフの3倍以上はします。その芳香は収穫された後、時間の経過と共に水分ともども失われてゆきます。日本に空輸された白トリュフをリゾットで食べたことがありますが、その時に感激した香りすら、比較にならないほど嗅覚を強く刺激する心地よい香りです。あわせるワインはジョルジョにお任せで、バローロやバルバレスコにも使われるピエモンテの代表的なブドウ品種、ネッビオーロをABBONAという作り手が仕込んだミディアムボディのNEBBIORO D'ALBA BRICCO BARONE'03

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【PHOTO】NEBBIORO D'ALBA BRICCO BARONE '03ネッビオーロ・ダルバ / ブリッコ・バローネ'03

 そこから、豪奢な白トリュフの饗宴が始まりました。まずは、持ち味の繊細極まりない肉質は地元で味わう生食でこそわかるという、これまたプレジディオ指定を受けたピエモンテ牛のタタキ料理「カルネ・クルーダ」。

carnecruda.jpg【PHOTO】ピエモンテ牛のタタキ「カルネ・クルーダ」

 次にピエモンテ州の伝統的パスタ、ピエモンテ訛りで「タヤリン」と呼ばれる小麦と卵黄で作る手打ち細麺パスタ「タリオリーニ」、肉やチーズ・野菜を詰め物にするキョウザのような形のラザニア「アニョロッティ・ダル・プリン」。

tayarin.jpg【PHOTO】タヤリンとアニョロッティ・ダル・プリン

 そしてピエモンテでもフランス国境に近い標高1,800メートルに位置するアルプス山中の村、クーネオ県カステルマーニョの澄んだ空気のもとで2年の熟成を経て作られる希少価値の高いチーズ「カステルマーニョ」をからめたニョッキ。

gnocci.jpg【PHOTO】 カステルマーニョチーズ風味のニョッキ

 これらの皿には、料理を覆いつくさんばかりのトリュフが贅沢にすりおろされました。料理自体の香りと味わいが、トリュフの放つフェロモンたっぷりの芳香によって増幅され、妙なる響きを口から鼻腔にかけて奏でるさまは、今でも鮮烈に記憶しています。かつては媚薬としても珍重され、今日でも世界の食通が鵜の目鷹の目で追い求めるアルバ産白トリュフ。料理の画像だけで、あの香りを皆さんにご紹介できないのが、返す返すも残念

 私たちが訪れた直後の2006年11月、アルバで行われたオークションで、香港の実業家が慈善団体へ寄付をするため自身が主催したチャリティディナー用に3個あわせて1.5キログラムになる大きな白トリュフを12万5千ユーロ(=約1,900万円)で落札したといいます。そんな白トリュフの魔力に魅入られた一行は、トリュフをすりおろすスライサーの手をせわしなく動かすカメリエーレ(=給仕)にSTOPをかける理性を、その時すでに失っていました。

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【PHOTO】仔ヒツジのリブロース・バローロソース

 メインディッシュ「仔ヒツジのリブロース・バローロソース」には、ピエモンテらしいしっかりとした味付けに負けないフルボディのワインが、ソムリエによってデキャンタージュされてサーブされました。バローロ・ボーイズ(注3)と呼ばれる優れた新世代の作り手PAOLO SCAVINOBAROLO'01は、'96年から6年間も連続したピエモンテのグレートヴィンテージ最後の年。さすがは秀逸な造り手の優良年だけあって、味わいの構成バランスが取れた良くできた印象のワインでした。

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【PHOTO】PAOLO SCAVINOパオロ・スカヴィーノのBAROLO'01。評価の高い畑指定のクリュものではないバローロでもさすがの味わい

 幸福な充足感に浸る私たちに、アスティ県の南端ランゲ地区ロッカヴェラーノで作られるプレシディオの山羊乳チーズ、「ロビオーラ・ディ・ロッカヴェラーノ」とアルバ産の「ロビオーラ・ディ・アルバ」が運ばれてきました。前者は熟成が進み山羊乳特有の酸味が薄れた香りが強いもの。後者は牛乳も混ぜたフレッシュなタイプで、熟成の度合いによって同じシェーブルチーズでも印象が全く異なりました。

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【PHOTO】(上写真/右側から)ロビオーラ・ディ・ ロッカベラーノとロビオーラ・ディ・アルバ(下写真)メレンゲほかピエモンテの焼き菓子数種

 この後に続いたドルチェは、ドライフルーツやナッツ類が入ったヌガー菓子「トローネ」とチョコレート、シチリアのマルサラ酒を使ったピエモンテ発祥のカスタード「ザバイオーネ」が添えられたクレームブリュレ、メレンゲと素朴な焼き菓子が美しく盛られた3皿。

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【PHOTO】(上写真)トローネとトリュフチョコ(下写真)クレームブリュレ・ザバイオーネソース

 強烈な芳香を放つ白トリュフを使ったフルコースをたっぷりと頂いたため、胃の物理的要因もさることながら、心因的な充足感から、ドルチェを口に運ぶのを躊躇するメンバーがほとんど。バローロの生産者として名高いMICHELE CHIARLOの食後酒「バローロ・キナート」(注4)で胃をすっきりさせ、何とかドルチェもほぼ完食しました。トリノまでの空路、2度提供された機内食の内容に閉口していた私たちは、イタリア到着早々、何とも贅沢極まりない食事よって、長いフライトの疲れを一気に回復したのでした。

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【PHOTO】MICHELE CHIARLOミケーレ・キアルロのBAROLO CHINATOバローロ・キナートは食後に楽しむDigestivoディジェスティーヴォ(食後酒)

 締めくくりのエスプレッソで豪奢なフルコースの余韻に浸っていると、食事の途中で用事のため中座していたジョルジョが戻ってきました。最初の見学先となる伝説のグラッパ職人ロマーノ・レヴィさんのもとを訪れる約束の時間が迫っていたのです。精算をお願いした伝票を見ると、料理代金が500エウロ(イタリアでは「ユーロ」を「エウロ」と発音します)、ワイン3種類5本で184エウロ、カフェ20エウロ、ミネラルウォーター18エウロ、タルトゥフォ218グラム×単価3.6エウロ=784.80エウロで、しめて1,506エウロ。出発時の為替レートは1エウロ=約153円だったので、23万円余りということになります。電卓をたたきながらも、にわかに一人当たり2万3千円という数字を信じられません。イタリア人が手書きした数字は独特のクセがあり、日本人には読みにくいため、ジョルジョに念のため確認しましたが、残念ながら間違いありません。ガ・ガ・ガーン ( ̄ロ ̄lll)・・・

 おいしい料理の後の幸福なマッタリモードに浸っていた私たちは、その時初めてトリュフの魔力に気付いたのです。西川さんには「到着早々のランチだから軽めに」とお願いし、ジョルジョもPiccolo Pranzo(=軽い昼食)と予約したのに、友人であるジョルジョの予約だったため、どうやら店側が品数をサービスしてくれたようです。☆付きリストランテの質の高い料理内容からして、料理の代金は安いくらいだったと、後にジョルジョは言っていたそう。想定外だったのは、事情通のジョルジョが不在にしている間、スライサーでトリュフを惜しげもなく振舞うカメリエーレに誰もストップをかけることなく、トリュフだけで12万円あまりが私たちのお腹にいつしか吸い込まれていったこと。(TT)/~~ 代金をクレジットカードでまとめて支払った私の友人は、到着初日の昼食で、早くも利用限度額を意識せざるを得なくなってしまい、なんとも気の毒でした。

 日本人が思い描くイタリア料理は、オリーブオイルやトマトソースで味付けされた魚介中心の南イタリアの食事かもしれません。しかし、フランスと地理的に近く、内陸に位置するピエモンテの料理は、肉食が中心で味付けに動物性の脂やバターを使用するため、ともすると重く感じられると聞いていました。SAN MARCOで出されたのは、まごう事なきピエモンテ料理。それでも女性シェフらしい細やかさと、サヴォイア王朝の都だった歴史を持つトリノの洗練された文化の影響からか、洗練された味付けが印象的でした。

リストランテ サン・マルコ
 * 住所:Via Alba 136 14053 CANELLI(AT)
 * URL:www.sanmarcoristorante.it

【注1】 イタリアの一般道における制限速度は、市街地が時速50キロ、郊外で90キロ、高速は130キロと法律で決められている。しかしその実態は・・・高齢ドライバーを除く大方のイタリア人は、市街地を出れば、そこはサーキット場と考えている。郊外の一般道における巡航速度は130キロを下回ることは稀。日本のように60キロほどで走ろうものならビュンビュン追い越されるはずだ。郊外の交差点は、ほとんどが合理的なロータリーになっており、信号機だらけの日本のように、ストップ&ゴーで燃費を悪化させる弊害はない。もっとも信号があってもローマ以南では、信号を守るドライバーのほうが珍しいかもしれない。それでいて暗黙のルールは存在し、運転の上手なドライバーも多いため、とてもスムーズに走れる(と、思う)。「WHEN IN ROME , DO AS THE ROMANS DO = 郷に入っては、郷に従え」が身上の私は、イタリア式の流儀にのっとって走っただけである。(・・・って開き直りだろうか?)

【注2】トウモロコシの粉を水で溶いて弱火にかけ、40分から1時間以上(事情通によれば、本人が納得するまでらしい)、ひたすらかき混ぜてトロトロになるまで煮込む北イタリアの伝統的な家庭料理。パイオーロと呼ばれるポレンタ専用の銅製の鍋もある。北イタリア各地で、さまざまに味付けがされ、特に小麦の栽培が困難な土地のやせた山間地でよく食べられる。最近は時間がかかる本来のものではなく、3分ほどで出来上がるインスタント製品も出回っている。
 
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2005年3月に庄内を訪れたイタリア・マルケ州アルチェヴィアのSindaco(=町長)シルヴィオ・プルガトーリ氏ら訪問団のメンバーの一人アルフィエーロ・ヴェルディーニ氏から贈られた年季もののパイオーロ

【注3】名醸地ピエモンテでは、1980年代初頭までは、大手の酒商がワインの販売権を独占しており、「ワインの王」バローロや「ワインの女王」バルバレスコにおいても、ブドウ生産者が栽培から醸造まで一貫して行う「生産者元詰め」は、ジャコモ・コンテルノやバルトロ・マスカレッロなどの20軒ほどの事例を除いて行われていなかった。酒商によって買い叩かれたブドウ生産者は、いきおい多産に走り、ブドウとワインの品質低下を招いた。そのような状況を打破するべく、'80年代中頃にブルゴーニュのような畑の区画指定「クリュ」の概念や、ブドウの少量生産、バリックによる熟成といった手法を導入した次世代が登場した。彼らが生み出したバローロやバルバレスコは、ブドウ生産地として本来恵まれた土地であったピエモンテの世界的名声を一気に回復させた。それら新たな手法でワイン元詰め生産を行ったピエモンテの生産者第二世代の総称が「バローロ・ボーイズ」

【注4】ほぼピエモンテ州内のみで食後酒として飲まれるほろ苦く甘い酒。南米アンデス原産のキナの木の樹皮に含まれるキニーネというマラリアの特効薬となる成分や数種類のハーブやスパイスをブドウ果汁由来のアルコールに溶かし込み、バローロを加え補糖したデザートワイン。作り手によって味はさまざま。

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2007/06/08

Salone del Gustoサローネ・デル・グスト体感レポート

◆File2:スローフード運動の理念を体現した「サローネ・デル・グスト」

Salone_logo.jpg テッラ・マードレの会場「オーバル」に隣接する広大な「リンゴット」国際展示場では、「Salone del Gusto サローネ・デル・グスト(=「味のサロン」の意)」が催されました。10回目を迎えた当イベントのスローガンは、「GOOD,CLEAN,FAIR (=おいしく、きれいで、正しい)」

 こちらは、20ユーロの入場チケットを購入すれば、一般参加者も入場可能です。幕張メッセで開催される日本最大の食の見本市「FOODEX JAPAN」の出展ブース数はサローネより多いものの、あくまで業者向けの商談の場・見本市の性格が強いもの。一方、スローフード協会は、サローネを広く一般消費者に門戸を開放しています。

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【Photo】広大なサローネ・デル・グストの会場。世界各国の個性ある伝統食品が並ぶ "Slowfood archives"
  
 かようにサローネ・デル・グストは単なる食の見本市ではなく、スローフード運動が目指す生物多様性のあり方と、味覚・環境・社会的公正さを備えた質の高い健康な食の世界を、訪れた人が多面的に体感できる場なのでした。事実、初開催となった10年前は、食品メーカーや小売店などの商工業者出展の割合が75%だったのに対し、第一次産業に携わる人々の出展が25%の割合だったものが、今回はその割合が生産者出展75%・商工業者出展25%に逆転していたのです。

ViaDolci.jpg【Photo】来場者でごった返すサローネ会場。甘党にはたまらない菓子類がずらりのVia dei Dolci (=お菓子通り)。チョコレート作りが盛んなトリノの老舗 Venchi ほか、ほとんど全てのブースで試食が可能。生き方そのものがDolce vita (=甘い生活)なイタリア人が作るドルチェだけに、さすがに美味 "Slowfood archives"

 そこでは開場時間の11時から23時までの間、胃袋と気力が続く限り、食の五大陸一周旅行を堪能できるのです。ワインやオイル、チーズや食肉加工品、トリノ名産のチョコレートなどイタリアを代表する伝統的産品の300あまりのブースや、世界各国の特色ある食品が広大な会場にぎっしりと並び、一日で会場のすべてを食べつくし、学ぶことなど、とても不可能なスケールです。

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【Photo】イタリア・トスカーナ州アレッツオ県のアルノ川沿いのヴァルダルノ地方で作られるプレジディオ指定された独特の製法によるパンチェッタ「Valdarno Tarese」のブース

 「Ark アルカ(味の箱舟)」認定産品のなかでも、特に重要で良質な食材はスローフード協会から「Presidio プレジディオ」(=庇護・防衛の意)指定を受けます。私が訪れた2006年大会からは、個性豊かなプレジディオが、大陸別に展開するブースが300ほど設けられました。そこにはスウェーデンのトナカイの干肉や、チベット高地で飼育されるヤクの乳のチーズなどの、さまざまな国籍の生産者がおり、いわば異文化と触れ合う坩堝(るつぼ)さながらの様相を呈していました。

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【photo】パスタ製造が盛んなアブルッツォ州の小麦粉挽き職人のパスタワークショップには、同州のみならず、イタリアを代表するワイン醸造家、ジャンニ・マシャレッリ氏も登場、講座に華を添えた

  特色ある世界中の伝統食品・飲料に関するワークショップが会期中に行われ、そこでは英語の同時通訳による生産者自身や生産組合などの関係者らの解説を聞きながら、試食・試飲ができました。私が参加したのは、ふたつの講座。まずはイタリア中南部アブルッツォ州の小麦粉挽き職人ニコラ・ディ・ラッロ氏が、小麦粉を手ごねして作るパスタ「マッケローニ・アッラ・ムニャイア」 (注1)の製造過程を実演し、打ち立てのパスタを試食するというもの。

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【Photo】小麦粉挽き職人ニコラ・ディ・ラッロ氏による「マッケローニ・アッラ・ムニャイア」作りの実演。熟練のラッロ氏の手つきは日本人からみれば"うどん打ち"そのもの

 コシのある麺にトマトソースが軽めに絡めてあり、小麦の香りが活きた仕上がり。アブルッツォならではの素朴なパスタと共に出されたのは、2006年に亡くなった伝説的なワイン生産者、エドアルド・ヴァレンティーニ氏亡き後、同州のリーダーと目される著名な醸造家ジャンニ・マシャレッリ氏の赤ワインでした。ワインと共に登場したのが、アブルッツォのみならずイタリアでも屈指の醸造家、ジャンニ・マシャレッリご本人でした。イタリア人らしいビシっとしたスーツ姿の同氏の登場は事前のリリースには一切記載されておらず、私にとってはうれしい誤算です。

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【Photo】 日本人にとっての醤油味のように、イタリア人の味覚において最もベーシックな味付けとなるトマトソースによるシンプルな味付けでパスタを味わった。醤油とダシで頂く讃岐うどんと同じく、パスタのコシと小麦の香りが際立った「マッケローニ・アッラ・ムニャイア」

 フレンチオークのバリック樽100% (注2) でモンテプルチアーノ種のブドウを36カ月間長期熟成をさせるフルボディのD.O.C.赤ワインMarina Cvetic Montepulciano d'Abruzzo'03。マシャレッリ氏がアブルッツオ州キエーティ県マルッチーナに1978年から所有していたブドウ畑に新たに興したマリーナ夫人の名前を付けた醸造所、Azienda agricola Marina Cveticからの初リリースとなるモンテプルチアーノ種100%で仕込んだI.G.T.赤ワインRosso colli Aprutini ISKRA'03の2種類が用意されました。

 前者はプルーンのような上品な香りでクラシックな造り。エレガントさも持ち合わせています。スロベニア語で"閃光"や"きらめき"を意味するという後者は、よりバリックが効いたモダンでインパクト重視な味わい。タイプは違えど、フルボディでいずれも極めて魅力的。醸造家ご本人の解説を聞きながら試飲できるとは願ってもない機会。 ん~、至福のひととき。

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【Photo】Marina Cvetic Montepulciano d'Abruzzo'03Rosso colli Aprutini I.G.T ISKRA'03。記録的な夏の灼熱がイタリアを覆った年ながら、アドリア海沿岸のマルケ州とアブルッツオ州はブドウの作柄に恵まれた。輪郭を際立たせるイタリアらしい酸味もあり、さすがはマシャレリと唸らせる出来。スローフード協会が発行するワイン評価本「Vini d'Italia 2007・通称Gambero Rosso ガンベロ・ロッソ」で、前者は最高評価のTre bicchierri トレ・ビッキエリと、コストパフォーマンスに優れたワインに与えられるアスタリスクマークを共に獲得。後者はファーストヴィンテージながら、次点に当たるDue bicchierri ドゥエ・ビッキエリの評価をされた

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【Photo】ジャンニ・マシャレッリ氏と。マシャレリのトップキュベ "Villa Gemma"の'97年産は、「Vini d'Italia 2001」に掲載された全イタリアワイン12,000本あまりの頂点"ワイン・オブ・ジ・イヤー"に選ばれた。「Villa Gemma'97を持っていますよ」と、この稀代の醸造家に伝えると、トークセミナー中の近寄りがたい雰囲気を漂わせる鋭い眼光のエネルギッシュな表情から一変、破顔一笑のもと親しげに写真に納まってくれた。これが2年後の8月に急逝したジャンニとの最後の一枚となろうとは・・・

 もうひとつのワークショップは、エミリア・ロマーニャ州パルマ北東40キロのポー川沿いにあるジベッロ村で作られるプレジディオ指定の生ハム「Culatello di Zibello クラテッロ」 (注3) 。有名なパルマ産プロシュット(=生ハム)が年産900万本なのに対し、クラテッロがわずか年産5万本なのは、豚の尻から脛にかけてのごく限られた部位しか使用せず、しかも冬場にポー川の発する霧が肉の熟成に欠かせない要素になるという完全手作りなるがゆえ。需要が増えた最近は、輸出向けに本来の部位以外の肉を使用し、製造過程で一部機械を使用する製品も出回っているといいます。

 今回クラテッロ協会マッシモ・スピガローリ会長の解説で12カ月、20カ月、24カ月、36カ月の熟成期間別に試食に出されたのは、会長自身の加工場で製造された間違うことなき伝統的製法による逸品。ここでは北イタリアのトレンティーノ・アルト・アディジェ州産の辛口発泡ワイン「スプマンテ」が5種類出されました。

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【Photo】クラテッロ協会加盟の製品に張られるラベルを掲げる男性の左側がクラテッロ協会マッシモ・スピガローリ会長

 熟成期間が長いほど肉に乳酸系の発酵臭が加わり、味わいに複雑さと深みが増してゆくのがよく分かります。特に36カ月熟成を経たものは、地元エミリア・ロマーニャでも希少。かつて冷蔵技術がなかった時代、ヨーロッパの食肉加工文化は必要に迫られて発達した側面もあります。長い伝統が培ったイタリアの食肉加工技術は、イタリア屈指の美食の里といわれるエミリア・ロマーニャ州で、独自の発展を遂げたのです。ジベッロ村の自然環境を活かす人智が生み出したクラテッロの深い味わいには唸らされました。

12mesie20mesi.jpg【Photo】フレッシュ感が残る12ヶ月熟成(左) 味に幾分深みが出る20ヶ月熟成(右)

24mesie36mesi.jpg【Photo】24ヶ月熟成は更に複雑味が増す(左) 色合いが変化し、乳酸系の発酵感が強い36ヶ月熟成は全く別物。至高の味となる(右)

 そのワークショップ会場で出会ったのが、神奈川出身の茂垣綾介さん(25歳)。2003年春に渡伊し、料理修行からサラミなど肉の加工に転進したのが一年前。スピガローリ会長が経営する会社では半年ほどクラテッロ作りを学んでいるといいます。イタリアのリストランテでは、実に多くの日本人が料理修行のために働いていますが、彼は異色といってよいでしょう。

mogaki.jpg【Photo】サローネ会場で修行先のクラテッロを手にする茂垣 綾介氏。隣りは公式行事がなく、この日はリラックスモードで会場を回っていたアラン・デュカス御大。そこはさすがにプレス慣れしたもので、しっかりとカメラ目線でポーズをとってくれた。世界のトップフレンチシェフは実に如才がないのだった

 日本からはサローネ・デル・グストに築地の寿司店「寿司岩」がブース出店していたほか、「テアトロ・デル・グスト(=味覚の劇場)」と銘打たれた催しでは、江戸前握りの実演も。京都吉兆の徳岡邦夫総料理長は、湯葉と胡麻豆腐を使った懐石料理を紹介していました。世界中の有名シェフの調理の様子が間近に見られ、試食もできるこの催事のチケットは全てあっという間に売り切れたようです。

 昭和40年代から古酒を手がけてきた岐阜の蔵元「達磨正宗」の昭和54年産の古酒と鮎の熟れ寿司の組み合わせを試みるという日本人にとってもマニアックな?ワークショップや、静岡産有機栽培緑茶と和菓子のワークショップもあり、日本の食文化にスポットライトが当てられる局面もありました。

 メイン会場の州都トリノを離れたピエモンテ各地では「Gli Appuntamenti a Tavola(=食卓へのいざない)」という28ものディナーが催されました。ピエモンテ州が誇る高級食材・白トリュフの産地、クーネオ県アルバや、バローロ・バルバレスコといった名醸地のブドウ畑が広がるランゲ地方のリストランテや歴史的建造物を会場に、世界各国から選ばれた料理人が、伝統料理を振舞いました。ホスト国イタリアからも、アマルフィ近郊の名店「ドン・アルフォンソ1890」ほか各種Guida(=レストラン評価本)で高い評価を受けるシェフたちが腕を振るったのは申すまでもありません。

 主だったサローネ・デル・グストの催しをざっとご紹介しましたが、食いしん坊な私には、体と胃袋が幾つあっても足りない5日間でした。

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【注1】
アドリア海に面したアブルッツォ州では、パスタ製造が盛ん。日本でも有名なDE CECCO(イタリアでは「デ・チェッコ」と発音)やDue Pastori(ドゥエ・パストゥーリ)が本拠地を構える。こうした乾麺のほか、アブルッツォ州では、「マッケローニ・アッラ・キタッラ」という伝統的な手打ちパスタが有名。Chitarraとはイタリア語でギターのこと。弦を張った専用の道具(下写真)で生地を押し切るため、麺が四角い。

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ちなみにワークショップでラッロ氏が作ったマッケローニ・アッラ・ムニャイアは、同州南部に伝わる類似のパスタで、生地に使用したのは、デュラム小麦ではなく普通の小麦だった

【注2】
ワインの醸造過程において、ボリュームと風味付けのために樫(オーク)材の樽を使用する。一般に225リットル容量のものをバリックと呼ぶ。ワイン醸造用バリックの主な産地、アリエやトロンセなどフランス産のものは、タンニンなどのエキス成分を多く含む。一方アメリカ産のバリックは木の香りが強い。よって、カリフォルニアワインは樽香が一般に強くなる。形成過程で内側を火であぶるため、その焙煎具合もワインの仕上がりを左右する。ローストが強いと焦げた香りがワインにつく。新樽は成分が強く、一回使用した樽は、樽由来の成分が幾分穏やかになる。よって、生産者は樽の産地やロースト具合、熟成期間をいろいろと組み合わせてワインを作り出す。「新樽100%」とは、全て新樽を使用して仕込んだということ

【Photo】クラテッロ協会による審査を受けたブロック製品にのみ付けることが許されるタグ。流通市場では、ほぼパック詰めのスライス製品に限定される日本では望むべくもないが、これが本物の証

curatello.jpg【注3】
パルマやサンダニエレ産の生ハムは豚のモモからスネにかけての骨付き肉から作られる。かたやクラテッロは、骨抜きにした豚肉の尻(Culo=クーロ)からモモにかけての最上の部位のみを使用する。完成品で3キロあまりの重量しかできないクラテッロは、一本9キロ前後のパルマ産生ハムとほぼ同額。つまり3倍の値がつく。伝統的製法では、脂肪を削ぎ落とした豚肉を岩塩・コショウ・ガーリックパウダーなどで下処理。三日間の冷蔵後、細心の注意を払って再び塩を加え、白ワインで表面をさらす。これら一連の作業を終えてから、洗浄処理した膀胱に詰めた上で、ひもで網目に縛って円筒状に成形する。それを10ヶ月以上、湿度がこもったロフトと地階で自然熟成させる。

こうした製法のため、熟成過程で劣化する場合もあり、一級品はより希少性が高まる。EU統合により、画一的な衛生管理が求める動きもあり、本来のクラテッロに出会ことが困難になりつつある

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Terra Madre テッラ・マードレ」に参加して

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スローフードの祭典「テッラ・マードレ」

 食の均一化がもたらす弊害に警鐘を鳴らしたスローフード運動発祥の地がイタリア北部ピエモンテ州。その州都Torino トリノを主会場として、2006年10月末に開催された食の国際イベント「Terra Madre テッラ・マードレ(=「母なる大地」の意)」。

 グローバル化と均一化が進む世界の潮流に抗うかのように、個々の伝統に根ざした質の高い食を通じた人々の新たなネットワーク作りを模索したこのイベントには、協会が指定する「アルカ(=味の箱舟)」 (注1)登録生産者に加え、今回初めて料理人と学術研究者らが招聘され、東北からも関係者が多数参加しました。

 テッラ・マードレと同時開催されたのは、スローフード運動が目指す食の世界を体感できる「Salone del Gustoサローネ・デル・グスト(=「味のサロン」の意)」。主催は2006年が創立20周年に当たったスローフード協会です。五日間の会期中に両イベントを延べ19万人以上が訪れたといいます。幕張メッセで行われる日本最大の食の見本市「FOODEX JAPAN」の2006年における来場者は、四日間で9万5千人あまり。スローフード運動が、いまや地球規模で広がりをみせていることを物語る数字といえるでしょう。

 美食の国イタリアが誇る味の数々を求めて、実りの季節を迎えたピエモンテ州とその周辺各地を、イタリア人顔負けの"爆走系"に変身した庄内系イタリア人が訪れました。思い出すだにヨダレがじ~んわりな突撃レポートをタント・マンジャーレ(=たんと召し上がれ)。

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【photo】テッラ・マードレの会場となったリンゴット・オーバルを埋めるさまざまな国籍の人・人・人... <clicca qui> ここはトリノ冬季五輪のスピードスケート競技会場となった


◆食の新たなネットワーク作りを模索した「テッラ・マードレ」

 テッラ・マードレ2006に参加したのは、世界150カ国から1,600の生産団体・5,000人の生産者、1,000人の料理人、400人の大学研究者ら。(初の開催だった2004年の前回は、130カ国1,200の生産団体・5,000人の生産者が参加。)開会式は、トリノ冬季五輪のスピードスケート競技会場となった同市内リンゴット内の見本市会場「オーバル」で、イタリア共和国ナポリターノ大統領列席のもと、2006年10月26日に行われました。

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【photo】開会式に駆けつけたナポリターノ伊大統領 "slowfood archives"

 広大な会場内に国名のアナウンスが続くなか、国旗を掲げ民族色豊かな衣装で続々と登場する五つの大陸から集った生産者たち。その様子はテレビで観た冬季五輪の開会式さながら。各国の風土・伝統が育んだ多様な食文化を駆逐する食のグローバル化を阻止しようというスローフード運動が、世界規模で広範な支持を受けていることを実感させられます。恐らくは自分が生まれ育った土地から離れたことすらないであろう第三世界からの参加者も数多く見受けられました。

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【photo】世界中から生産者が集った開会式のオープニング "slowfood archives"

 急速な工業化・効率優先主義が招いた食のグローバル化・味の均一化に対して、スローフード運動が掲げる「地域の伝統に根ざした個性豊かな生物多様性を守る」という理想を雄弁に語る幕開けといえましょう。

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【photo】国際色豊かなテッラ・マードレの会場「オーバル」前で

 冒頭挨拶に立ったスローフード協会カルロ・ペトリーニ会長は、生産者・知識人・料理人が立場を超えてお互いを認め合い、同じ目線で消費者との新たな関係を築くように会場を埋めた参加者に訴えました。そして質の高い食に携わる人たちが異業種とつながりを持つことによって、より良い食に関する情報が発信され、やがて地球の生態系に好影響を及ぼすよう期待を表明しました。

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【photo】新たな食のコミュニティ作りを訴えるスローフード協会カルロ・ペトリーニ会長 "slowfood archives"

 テッラ・マードレ会期中、大学の研究者による集会や国・地域ごとの集会が催されました。日本をテーマにした地域集会では、日本茶の紹介がされていました。また、農業・水産業におけるアグロエコロジーやGM(遺伝子組み換え)食品に関する各種テーマごとの分科会、さらに「アルカ」指定産物の生産者による各種分科会などのさまざまな公式行事が行われました。

 地域に順応した環境負荷が少ない牧畜に関する分科会に東北から参加し、日本短角種の飼育事例発表を行った合砂 哲士(あいしゃ さとし)さん(19)=岩手県岩泉町=は、「短角種同様、絶滅の危機にある希少な牛を飼育するカメルーンやスコットランドなどの生産者と意見交換し、良い励みになった」といいます。 

 余目ネギを生産する関内 清一さん(59)=仙台市宮城野区=も「希少種の保存に意欲的な生産者同士が国境を越えて出会えたことが収穫だった」と参加の意義を振り返ります。生産者らの滞在先となったのは、冬季五輪の選手村となった施設。関内さんらは、トリノ滞在中にピエモンテのネギ生産農家を訪問し、Porro(ポッロ=ポロネギ)生産の様子を見学したそうです。訪問先の農家では、ネギ畑の中に即席のテーブルをしつらえて、地元のワインと心づくしの料理で歓待してくれたのだとか。

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【photo】ファストフード大国アメリカの食意識を変えたといわれるカリフォルニア・キュイジーヌの祖「シェ・パニース」のアリス・ウオーターズ "slowfood archives"

 今大会における生産者と並ぶもう一方の主役は、世界中から集まった1,000人の料理人でした。その中には、料理雑誌やテレビなどのさまざまなメディアに登場する有名な料理人も含まれます。日本からは、スローフード協会の末端組織にあたる「コンヴィヴィウム」から推薦され、協会本部が最終的に選抜した11人の料理人が招聘されました。

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【photo】テッラ・マードレ開会式に参加した日本の料理人の中から。右から鶴岡市「アル・ケッチァーノ」奥田政行シェフ、京都「吉兆」徳岡邦夫料理長、パリにある日本料理店で腕を奮う山形出身の女性料理人、宮城「ふみえはらはん」渋谷文枝さん

 彼らが一同に会した席上、フランスのレストラン評価本「ミシュラン」の星をもっとも多く獲得している著名な料理人アラン・デュカス氏は、食のオピニオンリーダーである料理人が固有の文化を反映した郷土料理を伝承する必要性を述べました。

 現在、世界で最も予約が困難だといわれるスペインの人気レストラン「エル・ブジ」のシェフ、フェラン・アドリア氏の「西欧の価値観に基づく料理を模倣する時代は終わった。皆さんは自身の多様性を誇りにして良い」とのスピーチに、会場は喝采に包まれました。

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【photo】エル・ブジのフェラン・アドリアは一段と大きな拍手で迎えられた

 農家レストラン「ふみえはらはん」の渋谷文枝さん(59)=宮城県加美町=は、「バイオ技術によって耐病性や収穫効率を上げる一方で、採種不能にしたため、毎年農業生産者に種子の購入を強いる "F1種子" の販売権を巨大資本が独占している現状に、改めて自然な農業のあり方でもある自家採種の大切さを痛感した」といいます。インドの経済学・物理学者のバンダーナ・シーバ女史は、綿花のF1種子販売権を独占する米国系多国籍化学メーカーM社に負債を抱えたインドの農業生産者が、数千人単位で毎年自殺に追いやられている現状を閉会式のスピーチで報告したのです。

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【photo】生産者に種子の選択の自由を与えよ!と訴えるバンダーナ・シーバ女史のスピーチに、会場はスタンディング・オベ-ションと鳴り止まない拍手に包まれた"slowfood archives"

 庄内ベジ・イタリアン「アル・ケッチァーノ」の奥田政行さん(37)=鶴岡市=は、「効率優先の風潮の中で失われた人間同士の食を通じた結びつきが、東北にはまだ残っている。関係性を重んじるスローフードの精神が息付いている東北から、大切なものは何かを、今まで通り発信してゆきたい」と抱負を語りました。

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【photo】世界中からテッラ・マードレに集った1,000人の料理人たちが、再会を誓ったファイナルセレモニー。高く放り投げたのは、協会から贈られた調理帽
 
 閉会式でジャーナリスト枠で参加した私を含む参加者全員に配布されたのは、世界中から選ばれた1,600ものプレジディオに指定された食材を紹介した冊子。その名もズバリ「Terra Madre 2006」。生物多様性と個性ある食文化の縮図ともいうべき760ページあまりの分厚いこの一冊には、各プレジディオ生産団体のプロフィールや連絡先などが記載されています。

 その冊子を手に「ここに集った皆が、帰国後も連絡を取り合おう」と、生産者・料理人・研究者・マスメディアらのネットワーク構築の意義をアピールして締めくくったペトリーニ会長の演出が印象的でした。

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【photo】閉会式で連帯の必要性をアピールするカルロ・ペトリーニ会長 "slowfood archives"


【注1】
「味の箱船」とは?
◆生産や流通の過程で効率を優先する近年の考え方、あるいは過度な衛生管理規定によって、伝統的な製法で作られる個性的で安全な食品の多くが、消滅の危機にある。スローフード協会は、それらの食品を「味の箱船」に指定して、保護に乗り出した

スローフード協会が規定した登録基準および禁止事項は以下の通り
●登録基準1:その生産物が、特別においしいこと
     (この場合の「おいしい」とは、その土地の習慣や伝統を基準にする)
●登録基準2:その生産物が、ある特定の集団の記憶と結びついており、相当程度の年月、その土地に存在 した植動物の種であること。また、その土地の原材料が使われた加工・発酵食品であるか、地域外からの原料であっても、その地域の伝統的製法で作られること。(この場合の「記憶」や「年月」は、現地の歴史に照合して判断する)
●登録基準3:その地域との環境・社会経済・歴史的なつながりがあること。
●登録基準4:小規模な生産者による、限られた生産量であること。
●登録基準5:現在、または将来的に消滅の危機にあること。

▲禁止事項1:遺伝子組み替えではないこと、遺伝子組み換え食品が生産の一部にも一切、関与していないこと。
▲禁止事項2:トレードマークや商業的ブランド名がついてない生産物であること。
▲禁止事項3:選定後も、スローフード協会のロゴやかたつむりマークを、直接、食品に掲載しない。

2005年12月にスローフードジャパンが認定した日本の「味の箱船」9品目のうち、6品目が東北から選ばれた。その6品目は以下の通り。
 「日本短角種」「安家地ダイコン」(岩手)
 「花作ダイコン」「米沢雪菜」(山形)
 「余目ネギ」「長面の焼きハゼ」(宮城)


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2007/06/05

藤沢周平の故郷の味

藤沢カブ @鶴岡市湯田川

 作家・藤沢周平のペンネームの由来となった鶴岡市藤沢地区。信仰の山・金峰山(きんぼうさん)の西側、湯田川温泉のすぐ南東にある集落です。その周辺の山中で在来野菜「藤沢カブ」が作られています。鶴岡でも酒造りが盛んな大山地区にある漬物の老舗「本長」がこの藤沢カブを通年商品のたまり漬や季節限定の甘酢漬で売り出しています。
 
 鶴岡市(旧温海町)の一霞(ひとかすみ)地区周辺の山中で栽培される在来野菜「温海カブ」と比べて、幾分辛味が強い藤沢カブは、葉をつけたまま味噌と酒粕で味付けされて煮込む「蛸汁」(形状が名前の由来だろう)や漬物に加工されて、地元で食されてきました。その甘酢漬けは、発酵食品つながりでしっかりとした赤ワインと最高のアッビナメント(マリアージュ)をしてみせます。

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【PHOTO】イタリア・トスカーナ州Castellina in Chianti カステリーナ・イン・キアンティのCastello di Fonterutoli カステッロ・ディ・フォンテルートリの上質な赤ワイン「Siepi シエーピ」と見事な相性を発揮する藤沢カブの甘酢漬
 
 畑でもぎたてをかぶり付くと、すがすがしい辛味と微かな甘味が交差するこの細長いカブを現在栽培するのは、藤沢地区に暮らす後藤勝利(まさとし)さん(65歳)と清子さんご夫妻らのわずかな農家だけ。

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【Photo】2004年(平成16)の秋、鶴岡市の南東部に位置する金峰山の麓に切り開いた畑で、仙台からバスで見学に訪れた「ikuのイタリア料理教室」一行を出迎えた後藤さんご夫妻

 かつて羽黒町(現・鶴岡市羽黒町)手向(とうげ)地区でも同様のカブが栽培されていたため、「手向カブ」と呼ばれていたこのカブは、昭和30年代後半までは同地区で盛んに栽培されていました。ところが、ヒゲ根が増える連作障害が出やすいために、栽培地を毎年変えなくては商品価値が下がる上、急斜面での危険な作業となるため、地区の高齢化も手伝って年を追うごとに生産者が減っていったのです。そして昭和60年を過ぎる頃には渡会美代子さんただ一人が手がけるだけとなっていました。

 1988年(平成元年)、60代半ばを過ぎた渡会さんが " 先祖から受け継いできたこのタネを絶やさないで " と盃一杯分ほどの自家採種した種を後藤さんの奥様に託されたのだそう。以来後藤さんご夫妻は、温海カブを栽培する山の一角でこのカブを大切に育ててきたのです。もはや手向地区では絶滅したといわれる今、ご夫妻の努力で復活を遂げつつあるこの在来種は、地区の名前をつけた「藤沢カブ」と呼ばれています。

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【Photo】収穫したての「藤沢カブ」。カブとはいえ、形状は細長い。葉を含まない根の部分の長さは15cmほど。

 水捌けの良い山の斜面での栽培に向くため、森林維持のために計画伐採される山の区画探しから毎年作業は始まります。

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【Photo】2006年(平成18年)に藤沢カブの栽培をした区画の火入れ前日の様子。火を放たない山との境界は、延焼を防ぐために落ち葉を取り除き、下草を刈るなど丁寧な前処理がされる

 お盆前後の酷暑の時期、まだ薄暗いうちに火が放たれます。日の出を過ぎる頃まで、周囲の樹木に放水しながら付きっきりの作業は、深山の急斜面で火を扱うゆえ、細心の注意を要します。

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【Photo】一気に炎が燃え広がらぬよう、周囲の低木や枝が刈り取られた斜面の上部からまずは火が放たれる

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【Photo】まだ夜が明けきらぬうちに始まる焼畑作業。7~8人が分散して火勢を見守る中、徐々に炎が下方向に広がってくる

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【Photo】炎には後藤さんの目が常に注がれ、必要に応じて周辺の樹木に放水の指示がされる

 火がまだ燻っているうちに種が撒かれ、10月末から収穫が始まります。毎年区画を変えるため、急斜面ゆえの命綱張りや、年によっては収穫したカブの搬出に使うロープウェー作りなどのインフラ作りを、すべて最初からやり直さなくてはなりません。

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【Photo】山道脇にしつらえられた搬出用ロープウェー。深い谷を越えた向こうに見える木が伐採された小山は、アル・ケッチァーノ奥田シェフが初めて藤沢カブと出合った年の2003年(平成15)秋に、案内された焼畑だった場所。後藤さんが収穫後に植林した苗木と、自然の回復力によって緑が戻りつつある(撮影:2004年夏)

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【Photo】収穫したカブは空中を通って運ばれていく(撮影:2003年11月3日)

 まだ薄暗い早朝、親類縁者総出で斜面に火入れをする後藤さんに、傍目にも大変な手間をかけカブを受け継ぐ苦労話を伺おうとすると、「苦労だなんてとんでもない。楽しみでこの仕事をしております」と実に柔和な笑顔で応じられました。「このカブラがめごくての(「かわいくて」の庄内弁)」とも。そう語る後藤さんの傍らでは、孫のほのかちゃん(10歳)が「夏休みの自由研究にするんだ」と作業の様子を見守ります。

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【Photo】小学校4年生の夏休みの自由研究テーマはズバリ「藤沢カブ」だというお孫さんの後藤ほのかちゃん。ほのかちゃんと後藤さんは、後に絵本作家のつちだよしはる氏によって、絵本化された

 初めて後藤さんの畑を訪れたのは、私が山形を担当していた2003年(平成15年)の秋。山登りさながらの急斜面に張られたロープを伝って辿り着いた小山の頂きに開けたカブ畑で遊んでいたのが彼女でした。

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【Photo】谷を越え山道を徒歩10分弱。後藤さんのもとに案内してくれたアル・ケッチァーノの奥田シェフ一家と、カブが育つ急斜面に張られたロープを伝って畑へ向かう

 収穫したての藤沢カブに噛り付くほのかちゃんの姿は、私に強い印象を残しました。じいちゃん・ばあちゃんの仕事ぶりをこうして目にしながら、次の世代へとこの稀少なカブは受け継がれてゆくのだ。抜けるような青空の下、山中に広がる藤沢カブの畑で、象徴的な光景に出合った私はそう確信したのです。

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【Photo】服で土を2、3度ぬぐっただけの藤沢カブにかじりつく後藤ほのかちゃん(当時6歳)

 アブラナ科に属するカブは、4月末から5月にかけて、菜の花のような黄色い花を一斉に咲かせます。翌年に栽培するカブの採種のため、収穫しなかったカブたちが花をつけるのです。この時期に一霞地区を訪れると、山の斜面のところどころに黄色い温海カブの花が咲いているのを目にします。

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【Photo】眼下に庄内平野を望む金峰山中に突如開けた菜の花畑。深山での予期せぬ展開に息をのんだ

 2005年(平成17)の春、後藤さんに教えていただいた美味しい湧き水を汲むために金峰山中に車で分け入りました。そこで後藤さんの藤沢カブの畑が、一面の菜の花畑に化している光景と偶然に遭遇しました。うららかな春の日差しのもと、田園風景を背景に広がる菜の花畑の光景は、あたかも極楽浄土のよう。

 その感動を再び味わいたくて翌年春、栽培区画を移動した藤沢カブの畑を訪れました。記録的な豪雪だった冬と、春先の寒さの影響で開花が幾分遅れ気味のようでしたが、深山の急斜面で人知れず広がり始めた黄色い可憐な花々に心和んだのでした。

 食してよし、愛でてよし。ありがとう、後藤さん。

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【Photo】自家採種のために残したカブが黄色い花をつけ、厳しかった冬の終わりと春の訪れを告げていた
▼藤沢カブの漬物に関する問い合わせは・・・つけもの処「本長」 ☎0235(33)2023
http://www.k-honcho.co.jp


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2007/06/04

余は如何にして「庄内んめもの教徒」になりしか

2003年、アル・ケッチァーノとの出会い

 al.chè-ccianoという名のその店。鼻腔をくすぐる心地よい食材の香りが漂うエントランスを抜けて店内に足を踏み入れたのがちょうど正午過ぎ。女性客で混み合うなかを席に通され、手渡されたランチのグランドメニューをざっと眺めました。ふむふむ・・・飾らない店の外見にそぐわず、なかなかメニューは本格的。「おおっ、これはめっけもんだわい!」と、思いつつ壁に掛かる黒板に何気なく視線を向けました。

 「な・なんだ?この世界は」。

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【Photo】今ではすっかり有名になったアル・ケッチァーノの黒板。この日の調達品数は、まだ少ないほう。毎朝書き直されるこの黒板メニューの他に、定番のグランドメニューも存在するのだから

 庄内産の未知の食材がいくつも列記された三枚の黒板は圧倒的な迫力で目に飛び込んできました。チョークの手描き文字で書かれた山海の幸の数々。豊富な地場産メニューに気おされながら、その日オーダーしたのは、存在感溢れる黒板にずらりと並ぶ当時の自分には全く馴染みのないputtanesca.jpg地場・庄内産の素材を使ったパスタメニューからではなく、グランドメニューにあったオーセンティックなパスタ料理「プッタネスカ」でした。前菜として登場した白身魚のカルパッチョと、藤島町井上農場産フレッシュトマトを使ったプッタネスカのみずみずしい味付けが、とても魅力的だったのをありありと記憶しています。ドルチェメニューにナポリの伝統菓子「Baba(バッバ)」があるのを認め、追加でオーダー。化粧役となるラム酒の香りでごまかさず、良質な卵を使っているのであろう、しっとりとしたスポンジ生地の濃厚な味わいが口腔を幸せな気持ちで満たしてくれます。初の庄内遠征で立ち寄ったその店は、それまでの経験則で培った「食指が動く店、食べに行きたい店」の判断基準では推し量れない、明らかに異質な強い印象を残しました。

【Photo】2003年、私が庄内系に変身するきっかけとなった一皿、アル・ケッチァーノの「スパゲッティ・アッラ・プッタネスカ」。半端ではない素材の素晴らしさとそれを引き出す確かな技。こうしたオーセンティックなパスタ料理を食べると、この店の凄さが確認できるはず

 そのため、「面白いイタリアンを庄内で見つけたよ」と、家族を伴ってその週末のランチタイムにさっそく再訪したほどです。満ち足りた美味しい食事の後、エスプレッソを運んできたフロアマネージャーの青柳店長に、仙台はもちろんのこと、東京でもなかなか出逢えない味だというニュアンスで料理の感想をお伝えすると、店長は「ウチは夜にお越しいただかないと・・・」と耳打ちされました。ならば仰せの通りにと、初めての庄内一泊出張にかこつけて、当時仕事でお世話になっていたSさんを誘って、妙に気になる店「アル・ケッチァーノ」を夜に訪れたのは、それから間もなくのことでした。

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【Photo】羽黒町(現鶴岡市羽黒町)花沢ファーム・丸山光平さんが飼育する仔羊のカルパッチョ。穀類・稲藁など飼料に工夫を加え、特有のクセがない肉質に仕上がる

 「だだちゃ豆が大好きな仔羊のカルパッチョ」、「月山筍とパルマハムのフリット・タイムの樹氷塩添え」で始まったその晩のアラカルト。一皿ごとに素材の確かさと、みなぎるイマジネーションに私は魅了されていきました。
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【Photo】月山筍とパルマハムのフリット。柔らかなネマガリタケの食感と香りが、サクサクと香ばしい衣をまとったパルマハムの塩味と口の中で渾然一体になる一品。春先に食べたくなる定番メニュー

 メインディッシュ「米沢牛のタリアータ朝日村の山ブドウ・ヴィンコットソース」は、コックコート姿の三十代前半と思われる男性が席に運んできました。いわく、「皿の半分は飲んで頂いているバローロに合うよう味付けを変えました」。料理とワインの相性にこだわる食いしん坊の琴線に触れる心憎い演出です。少し鼻にかかった彼のほんわかとした口調は、少年のように屈託がありません。さっと踵を返して厨房に戻る後ろ姿を目で追いながら、同席のSさんに「今の人、シェフだと思います?」と尋ねました。それまでに出てきた料理から察するに、素材や調理法にこれほどのこだわりを持つ料理人は、さぞ気難しい人だろうと思ったからです。Sさんも察しかねたようで、首をかしげながら「どうかなぁ・・・」。

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【Photo】米沢牛のタリアータ朝日村の山ブドウ・ヴィンコットソース

 絶妙な火加減の香ばしいタリアータが、ヴィンコットソースと渾然一体となって米沢牛の肉汁とグワングワン共鳴し合い、私を悶絶させた挙句に忘我の境地へと誘(いざな)ってくれました。心身ともに満ち足りた食事の締めにエスプレッソを飲んでいると、再び私たちの席に挨拶に現れた彼の胸には" Chef "の縫い込みが。「奥田と申します」と名刺を差し出す彼に、なぜ米沢牛のタリアータの味付けを即席で変えたのか尋ねました。すると、私のオーダーを厨房で受けて、その組み立てから察するに、かなり食べ慣れた人だと思ったから、と理由を明かしてくれました。

 それから初対面の私たちに向かって、店で使っている多彩極まりない庄内の食材の素晴らしさを地勢的・歴史的要因を織り交ぜ、例のソフトな口調で、それでいて熱く語るのでした。興味深い話を聞きながら、私は金鉱脈を掘り当てた西部開拓者のような心境になってゆきました。

 幾度もたどった村山そば街道の先、古道「六十里越街道」を抜けた月山の先には、内陸とは全く異質でとてつもなく表情豊かな食の平原が広がっている! 

 私は初の庄内遠征で、願ってもない食の道先案内人と出会ったのです。余談ですが、この夜奥田シェフは、店の入口に湧く「イイデヴァの泉」の水の味をハンドパワーで変えてみせる奇蹟まで私たちの目の前で披露してくれました。水を口に含んで目を丸くする私たちを前にして、「ヘヘヘ・・・」と細い目をさらに細めてほくそ笑むエスパーなスーパーシェフ。こうして聖水イイデヴァの水による洗礼を受けたイタリアかぶれの「イタリア系ジャッポネーゼ」は、「庄内系イタリア人」へと生まれかわったのです。傍目には、この夜のありさまはキリストが初めて奇蹟を行ったという、ガリラヤのカナの婚礼さながらだったことでしょう。

 もっともこの「庄内んめもの教」の教祖は、キリストのように水を私が大好きなワインには変えてくれませんでしたが・・・。


庄内系転生伝説 第二章 
 【河北ALPHA取材の舞台裏 】に続く


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2007/06/03

庄内系転生伝説 プロローグ

庄内系イタリア人の物語

 前世はイタリア人で仙台生まれ仙台育ちの私が、何故に庄内系を名乗るのか。
2003年春、山形県庄内地方にある一軒のレストランとの偶然の出会いから始まった「庄内系イタリア人の物語」の始まり、はじまり~。
 なお、当「庄内系イタリア人の物語」は作家・塩野七生氏の大作、「ローマ人の物語」に対抗する意図は微塵もないことをあらかじめお断りしておきます (爆)。

※当「庄内系イタリア人の物語」は、「奇蹟のテーブル」刊行委員会刊「奇蹟のテーブル」に寄稿した「月山が遣わしたシェフは『水の精』」に加筆修正したものです。

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【プロローグ】 犬も歩けばアルケに当たる

仙台と山形内陸、特に境界を接する村山地方との交流は、近年目を見張るものがあります。国内で唯一、県庁所在地が隣り合う仙台市と山形市とを結ぶ都市間バス本数は、1日あたり平日80往復・土日60往復。

sobakido.jpg 仙台からは観光目的に、山形からは買い物にと、相互に行き来が活発です。山形側から仙台に発信される観光情報は「温泉」「そば店」「果物」「玉こんにゃく」などに概ね集約できましょう。その結果、村山エリアにある仙台からの観光客を主たるターゲットにした「そば街道」の店には、そば通を自認する宮城・仙台ナンバーの車が押し寄せます。

 後に述べる通り、山形に転任した折に、やがて気がついたことが、実は地元の方たちは大のラーメン好きであること。一人当たりの中華ソバの年間消費量が日本一の山形県では、観光化されていない地元の人たちが足を運ぶような蕎麦屋では、ラーメンメニューが必ずあり、蕎麦屋でラーメンをすすっている姿に驚いたものです。

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【PHOTO】一人あたりのラーメン年間消費日本一が山形県。盆地特有の酷暑の産物が、山形内陸発祥の「冷やしラーメン」。この画像からは判別が難しいが、丼までがひんやりと冷たい。全国区となった仙台発祥の「冷やし中華」にはあらず

 山形の人たちの密かな誇りでもあった日本の最高気温(40.8℃。2007年、岐阜の多治見が記録更新)を記録するような盆地性の気候により、酷暑に見舞われる盛夏でもラーメンを食べたい内陸の人は「冷やしラーメン」なるものまで生み出してしまうのですから。サクランボ狩りのシーズンには、仙台と村山地域を結ぶ国道48号線は大渋滞。かく申す私も、かつては蕎麦屋のハシゴをして、山形蔵王など内陸の温泉地に向かうお決まりの観光コースを幾度も辿っていました。

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【PHOTO】月山と鳥海山に挟まれた表情豊かな地勢の庄内平野。四季折々、多彩な山海の幸に恵まれた豊饒の里

 2003年(平成15年)4月、勤務先が営業所を山形市に開設、私が初代所長として赴任しました。長年に渡って山形で営業活動を行っていた前任のYさんが急逝したのが3月初旬。そこで急遽、私が山形の顧客を引き継ぐことになったのです。定年後も嘱託として76歳まで現役を続けられた大先輩は、何ら引継ぎ資料を残さなかったため、当初は全くの暗中模索状態。取引先の担当者名はもちろん、それまでの取引内容すらわからない中での船出でした。

 山形県全域をカバーする移動手段は、会社が急遽調達したスバル・インプレッサ・スポーツワゴン1.5i-S 4WD。9月までの半年は自宅のある仙台から奥羽山脈を越えて山形市内の営業所までの通いだったため、当初はカーナビを頼りに最上・村山・置賜の内陸各地を回るのが精一杯。営業所の売上はさておき、車の走行距離だけはうなぎ登り(⇒この営業車で年間65,000キロ以上を走破した)。そのため、月山の先にある庄内地方は遥か遠い地に感じられました。重い腰を上げ、初めて業務として庄内を訪れたのは、風に暖かさが増す5月上旬のうららかな陽気の日のことでした。

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【PHOTO】5月上旬。月山道路から湯殿山へのルート。新緑と残雪のコントラストがまばゆいブナの原生林

 かつて、東北で一番おいしいフランス料理店と評判だった酒田の「ル・ポットフー」で庄内浜の魚介に舌鼓をうち、土門拳記念館で酒田出身の写真家・土門拳の古寺巡礼などの名作と出合うことなどを目的に、1986年(昭和58年)頃から幾度か庄内を訪れて以来、その日は6年ぶりの月山越えでした。山形市の出身だった前任者は、内陸だけを営業エリアとしており、庄内地域には顧客を抱えていませんでした。そのため、その日はいわば新規開拓に向けた"市場視察"の趣きであったのです。

 雪解け水で増水した寒河江川が流れる西川町を過ぎると、国道112号線「月山道路」の車窓からの風景は、残雪とブナの新緑がコントラストを描く山岳地帯のそれへと変わってきます。仙台人が抱く「山形=そばどころ」というステレオタイプな刷り込みがされていたため、「昼ごはんは麦切りを食べよう~♪」などと考えながら、朝日村を過ぎ、櫛引町まで走って来ると、5月の薫風を受けて舞い踊るイタリア国旗が目に飛び込んできたのです。

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【PHOTO】残雪を頂く月山山麓に広がるブナの原生林が、滋味あふれる雪解け水を庄内の地にもたらす。五月晴れのもと、田植えを終えたばかりの田園風景がやさしくほほ笑みかける

 自他共に認めるイタリア好きで、前世はイタリア人だったに違いない私。帰巣本能の赴くまま何度か訪れたイタリアで出合った地方色豊かな料理やワインを通してはもちろん、平成2年から6年間を過ごした東京では、イタ飯ブームのさなか、次々とレベルの高いイタリアンレストランが誕生していて、舌の訓練はそれなりに積んで来たつもり。

 そんな口うるさい前世イタリア人を満足させるイタリアンの店が当時の仙台周辺では数少なかったため、塩竃「ペッシェカーネ」や涌谷「トラットリア・マルコポーロ」(ともに現在は閉店)はおろか、フィレンツェに本店がある高級リストランテ「エノテカ・ピンキオーリ」東京店(こちらも閉店)へは、本店そのままのエレガントなイタリアの雰囲気に浸れるため、仙台に戻ってからも毎年訪れていました。

 一方、自宅で楽しむワインは、ミラノの食料品店PECKやイタリア各地のエノテーカなど、主にイタリア本国のネットショプを通して調達していました。ワインとの付き合いの歴史が浅いためか、マーケティングに長けたフランスの、しかもグランヴァンばかりが偏重されてきた日本。近年に至るまで国際市場など眼中になく、国内消費が主だったイタリアワインの市場規模は、もともと小さなものでした。

 一部の高級ワインに引きずられる形で近年価格が高騰するトスカーナ州産を除き、価格と酒質のバランスがとれ、自宅の食卓でも良き伴侶となるイタリアワイン。当時は日本円の対ユーロ為替レートが良く、日本では入手が難しい高価なレアものですら、送料を負担してでも納得の行く価格で手に入りました。

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【PHOTO】2003年当時に撮影した画像データがPCもろとも消滅したため、数少ない懐かしの秘蔵写真から。il.chè-cciano 改装前の外観。こんなベタなロケーションの敷地内にal.chè-cciano は人知れず存在していた。よくぞ見つけたり(笑)

 そんな酔狂な前世イタリア人には、櫛引町が「黒川能」の里であり、横綱柏戸の出身地であることぐらいしか予備知識はありません。そこで予期せぬイタリア国旗を見た途端、それまで頭を占めていた名物「麦切り」が、「デュラム小麦のパスタ」へと瞬時に変身したのです。なにせイタリアンは私の主食なのですから。根っからイタリア好きの自分は、イタリア~ンな質の高い香りを発するものには、トリュフ犬のように嗅覚が反応します。

 時刻はちょうど昼過ぎ。"ここ掘れワンワン"と、引き寄せられるように国道112号線に面した小川沿いに建つその店の前に車を停めました。「地場イタリアン」と記された風変わりな立て看板と「al.chè-cciano」という店名の意味が判らぬまま、さして期待もせずにその店の黄色い扉を開けたのです。
 
 それは不思議な運命に導かれ、庄内系へとメタモルフォーゼする扉を開けた瞬間でもありました。

「余は如何にして『庄内んめもの教徒』になりしか」につづく

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2007/06/01

こんな私ですがよろしくお願いします

庄内系イタリア人

Piacere,mi chiamo Carlo Chimura.
ハジメマシテ, ワタシハ カルロ キムーラ ト モウシマス。

gr_070109.jpg 所持するPassaportoパッサポルト(=旅券)の国籍はGiapponeジャッポーネ。そこに記載される戸籍上の氏名は、木村 浩人 Hiroto Kimura

 イタリア語では単語の頭にある〝H〟は発音せず〝イロト キムラ〟となること。同じく〝K〟で始まる単語は存在せず、キ音は〝Chi〟と綴るため、違和感を自身拭いきれない。そのためイタリア人に対しては、ヴェネツィア出身のイタリア人女性から授かったCarloと名乗り、冒頭のような自己紹介をする。かかる事実からも脳細胞の99%はイタリア人の組成と推察される。

 前世では北イタリア在住だったようで、水田が広がる穀倉地帯ロンバルディア平原のように広大な庄内平野や大崎耕土で産するRiso(お米)を食する。そのポリシーはパスタ同様あくまでも炊きたてのアルデンテ。ゆえに柔らかなお粥にはいまひとつ馴染めない。

 主食はmolt buonoなイタリアンに加え、健康食としてイタリアでも注目を集める日本食。Vinoヴィーノがないと食事が喉を通らない特異体質でもある。体内を流れるO型の血液はイタリアワインの主力品種"サンジョヴェーゼ"の香りが漂う。自宅セラーには消費≦補給ゆえ、常時300本を越えるイタリアワインと若干数の他国産ワインが眠っている。

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 根っからのラテン系ゆえに、手をかけた美味しいものやCOOLな巧の結晶、そしてその作り手との出会いを大切にしている。嗅覚が働いた先には、衝動ジャケ買いしたRubino rossoAlfa Brera 2.2JTS‐skywindowを駆ってすっ飛んで行くも、雨天時に頻発するエンジントラブルの多さゆえ、3年を待たずに放出を決意。次なる移動の足は180°方向転換、故障知らずな燃費世界一のハイブリッドカーを調達。なれど刺激の無さゆえの違和感は禁じ得ず、後継モデルのアバンギャルドな造形に失望。現在はSoul Red カラーの広島製アルファロメオに宗旨変え。

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 来日したイタリア人がよく口にする都市部でやたらと信号機が多い日本の公道上は別として、その走りはレーサーまがいのドライバーが跋扈するイタリアの高速道路や、殺気立った車がひしめくローマ市内を走らせても、彼らにまったく引けを取らない。

 それは "Quando sei a Roma, vivi come i romani "= When in Rome, do as the Romans do = 郷に入っては、郷に従え)が身上ゆえ。

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 勤務する河北新報社までの通勤や勤務中の移動には、チェレステをあしらったantraciteカラーのBianchi Impulsoを愛用。食の趣好同様に Ciclista(チクリスタ=サイクリスト)としてロハスな一面もうかがわせるかと思いきや、自転車大国イタリア各地を転戦する世界最高峰自転車ロードレースのひとつGiro d'Italiaジロ・ディタリア(⇒)clicca qui〉出場を目指せ!!とばかりに、その移動速度たるや、目にも止まらぬ電光石火だったりして。

 爆走系かと思いきや、伝統が培ったアルティジャーノ(職人技)が生み出す珠玉の手工芸品をこよなく愛し、バロック音楽やイタリア歌曲などの古典芸術にも親しむ。

 草花と小鳥が戯れるLampasso柄のカーテンを閉ざす雨の日曜の夜は、DeLonghiのエスプレッソマシンで淹れたカッフェ、そしてヴィヴァルディやアルビノーニのBGMとともに、塩野七生の「海の都の物語」で故国を偲ぶ。

 その部屋を照らす柔らかな明かりはヴェネツィア・ムラーノ島のマエストロが手がけたシャンデリアのもの。壁にはリナシメント様式の衣装に身を包んだ男女の姿が描かれたデルータ焼きのペア絵皿が下がり、稀少なフィレンツェ共和国以来の伝統を誇る貴石モザイク画すらそこには存在する。

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 フィレンツェのボッテーガで織り込まれた金糸を交えたブロッカート織が組み合わされたパッチワークのVelluto(ビロード)クッションに身を任せるソファーには、ブラーノ島のノンナが手編みしたヴェネツィアンレースが掛かる。そこは「カナル・グランデ」に面したPalazzoかしらん。ここは何処? 私は誰・・・?

 トルネードHIDEO NOMOL.A.Dogersで活躍した当時、女房役の捕手だったイタリア系アメリカ人メジャーリーガーMIKE PIAZZAがいかに偉大だろうと、周囲が侍ジャパンの応援に熱を上げるWBCにイタリア代表チームが出場しようと、Calcioの国イタリアではマイナースポーツに過ぎないベースボールには関心薄。 

 唯一応援に熱が入るのは、DNAに刻まれた愛国心をくすぐるAZZURI。お宝は2002FIFAワールドカップの折に仙台でキャンプを張った代表チームに所属したバロンドール、カンナバーロやネスタらから貰ったサイン。国際試合前のイタリア国歌に、つい心は昂ってしまう。行け!我が思いよアドリア海へ。黄金の翼に乗って。(⇒BGMG・Verdi「ナブッコ」からイタリア第二の国歌こと「Va Pensiero」ね)
  
 現世では仙台生まれの伊達者のはずが、「んめもの」(=おいしいもの)の宝庫こと山形県庄内地方を筆頭に、東北各地で目撃証言が寄せられている。 さて、次はどちらへご一緒します?

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