あるもの探しの旅

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2007/07/27

そしてトリノ

イタリアらしからぬ街・トリノ

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【Photo】トリノのシンボルMole Antonelliana モーレ・アントネッリアーナ

 Slow な国際イベント「テッラ・マードレ」と「サローネ・デル・グスト」に参加するため降り立った街トリノ。このイタリア第4の都市は95万の人口を擁します。人口が分散するヨーロッパの基準では、"大都市"の部類に入るでしょう。トリノ旧市街の中心にあるPiazza Castello カステッロ広場に面して建つ Duomo di San Giovanni Battista サン・ジョヴァンニ・バッティスタ大聖堂に磔死したキリストの遺骸を包んだと伝えられる聖骸布 Sindone が納められていることでも知られています。

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【Photo】屋上に周回テストコースがある巨大な FIAT の旧本社工場リンゴット。写真右の大きな建物がサローネ・デル・グストの会場となる「リンゴット・フィエーレ」。手前はリンゴット鉄道駅。巨大な赤いアーチの手前には、トリノ五輪で選手村となった施設 Villagio Olimpico ヴィラッジョ・オリンピコがある( Photo:Torino市webサイトより)

 自動車メーカー FIAT Autoフィアット・オートのほか、フェラーリ・アルファロメオ・マセラッティ・ランチアといった名門メーカーを傘下に納める FIAT フィアットLink to Websiteは、トリノに本部を構える自動車を中核とするイタリア最大の企業グループ。

 国内自動車生産台数の7割以上を占めるトリノは、イタリア自動車産業の中心都市というのが一般的なイメージかもしれません。FIAT の社名は Fabbrica Italiana Automobili Torino (トリノのイタリア自動車工場)の頭文字を並べたもの。Bayerische Motoren Werke (=バイエルンのエンジン工場)の頭文字を社名としたドイツ南部バイエルン州ミュンヘンが本社の BMW と同じですね。

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 長らく業績低迷が伝えられたFIATですが、ここにきて復活の兆しが。2005年に発売した Grane Punto グランデ・プントは、2006年の欧州27ヶ国での販売台数が対前年150%を記録して好調。創業100周年の'99年に導入した青地ベースの旧ロゴマークを赤地ベースに一新した2007年7月に往年の名車 500(チンクエチェント)を50年ぶりにリニューアルしました。最近ではBRICs諸国の自動車メーカーと積極的に業務提携するなど、攻勢に転じています。

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【Photo】2007年7月、トリノで発表された新型チンクエチェント。50年前に発売されて以降、これほど広くイタリアの人々に愛された車はないだろう。ノスタルジックな雰囲気をうまく融合させた新型は、グランデプントと並ぶ新生FIATの自信作(Photo:FIAT webサイトより)
FIAT・Alfa Romeo正規ディーラー「ideal 」サイトはこちら⇒ideal_hp.jpg 

 フェラーリやアルファロメオなどの車のデザイン・設計・生産を手掛ける「Pininfarina ピニンファリーナLink to WebSite、プロダクトデザインの巨匠ジウジアーロ率いる「Italdesign イタルデザインLink to Websiteなど自動車関連企業もトリノに本拠地を置きます。

 私たちが参加したサローネ・デル・グストの会場となった「Lingotto Fiere リンゴット・フィエーレ」は、FIAT の旧工場「Lingotto リンゴット」跡地を再開発した一角に作られた国際コンベンション施設です。1923年より稼動した FIAT の生産工場は、1階の部品加工から始まる流れ作業を各フロアで進め、螺旋状のスロープで完成ラインの5階まで上がってゆく画期的な構造で、屋上には全長1,100メートルに及ぶテスト走行コースを備えていました。1982年に閉鎖された旧工場跡は、現在1・2階が「8 Gallery オット・ギャラリー」という名の広大なショッピング・飲食(内容は...)・映画館などの複合施設に、3・4階はホテルに生まれ変わっています。

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【Photo】かつてはFIAT の生産ラインだったリンゴットのスロープ。複合商業施設「8 Gallely 」に生まれ変わった今は、ショッピングを楽しむ人々が行き交う。頭上を見上げると、ベルトコンベアを車の生産ラインに導入し、欧州で初めて流れ作業を実現させたスロープがらせん状に伸びていた

 2007年1月27日、オット・ギャラリー北側隣接地に欧州最大規模の食のテーマゾーンが誕生しました。その名も「Eataly Torino イータリ トリノ」。Eataly は、"Eat" と"Italy"の英語を掛け合わせた造語です。ここは質の高いイタリア食材を扱うオンラインショップ「Eatalyclicca quiが経営するイタリアを中心にEU各国の食品・飲料を取り揃えた食のテーマパークというべき施設です。スローフード協会もプランニングに参画したこの施設は、4年の準備期間を経て建設されました。ワイン醸造家によるセミナーや有名シェフによる調理講習会が定期的に行われて人気を博しているようです。その中には2007年3月に宮城・ローマ交流倶楽部が招聘して仙台でピエモンテ料理を紹介したステファーノ・パガニーニ氏も含まれています。

【Photo】2007年3月、仙台国際ホテルでピエモンテ料理を紹介した際のステファーノ・パガニーニ シェフ(下写真)。イタリア旅行情報で、信頼が高い「ツーリング・クラブ・イタリアーノ」2007年版が選ぶ「明日のトップシェフ四人」の一人に選ばれた26歳のパガニーニ氏は、ピエモンテ州クーネオ県Canaleカナーレにあるプチホテル兼リストランテ「Villa Tiboldi」で活躍中

stefanopaganini.jpg Eataly 一階には物販と飲食ゾーンに加え、ワイン製造について学んだり、食に関する数千冊の書籍を閲覧できるスペースなどもあります。物販ゾーンには野菜・果物・鮮魚・精肉などの生鮮品から、スローフード協会がプレジディオ指定しているものを含め、150種以上のイタリア各地の食肉加工品、200種のチーズなどの食材がずらり。

 二階はカクテル「マティーニ」のベースとなり、食前酒としても親しまれるリキュール Vermouth ヴェルモットの製造会社「CARPANO カルパーノ」の博物館になっています。Eataly の建つ場所は、もともとカルパーノ社の製造工場だったそうです。

 トリノの基幹産業である自動車の歴史を知りたければ、ポー川沿いの大通り Corso unità d'italia (=イタリア統一通り)に面して建つ Museo dell'Automobile Carlo Biscaretti di Ruffia トリノ自動車博物館へ。無機的な外観を持つ建物内部には約170台のイタリア国内外のレーシングカーや市販された美しいスタイリングを持つ新旧の名車が展示されています。イタリア自動車産業の歩みに触れられるそこには、巨匠ジウジアーロが、自身も傑作だと自負する Alfa Brera のコンセプトプロトタイプモデルが展示されていました。
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【Photo】市販モデルとは異なり、上に跳ね上がるガルウイングドアを装備した Alfa Brera のプロトタイプ

 私が一目惚れし、衝動買いしたこのアルファロメオのクーペBrera は、トリノ近郊4ヵ所に分散したピニンファリーナの施設のひとつトリノ北部のコムーネ San Giorgio Canavese サン・ジョルジョ・カナヴェーゼで生産されます。1960年に開館したトリノ自動車博物館は、展示内容をより充実させるため、私が訪れた翌'07年4月から改装のため約一年の休館に入るとのことでした。

 そのほか、トリノに拠点を持つ企業は、ベルモットの製造元「MARTINI e ROSSI マルティーニ・エ・ロッシLink to website〉(年齢確認の上閲覧可能)、スポーツウエアの「Kappa カッパLink to Website、詳しくは次回に譲りますが、チョコレートの老舗「Caffarel カファレルLink to Website〉など。

 Calcio (=サッカー)好きにとってトリノは、イタリア一部リーグセリエAで最多の27回、ヨーロッパ・チャンピオンズリーグ2回の優勝を果たした名門クラブ「Juventus ユベントス」の本拠地として知られます。日本でも大きく報道された審判買収スキャンダルのため、2006年シーズンは二部のセリエB に降格となり、同年 FIFA ワールドカップ・ドイツ大会でのアズーリ優勝の立役者、DFカンナバーロやDFザンブロッタが移籍してしまいました。一方でチームに残留した主力のFWデル・ピエーロやGKブッフォンらが格の違いを見せつけてシーズン優勝。来季セリエA への復帰を決めました。

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【Photo】トリノ中心部から北東の郊外、海抜670mの高台の頂きに建つスペルガ聖堂

 トリノにはもうひとつのクラブ「Torino F.C.」が存在します。前シーズン('06-'07)、4年ぶりにセリエAに復帰したこのチームには Tragedia di Superga (=スペルガの悲劇)として語り継がれる出来事がありました。5期連続の一部リーグ優勝という偉業達成を目前にした1949年5月4日、ポルトガル・リスボンで行われた親善試合からの帰途にあったトリノF.C.の選手を乗せた航空機が激しい雷雨に見舞われました。雨と霧で視界を遮られた飛行機は、17時05分、操縦を誤り、トリノ郊外の高台にあるスペルガ聖堂の外壁に墜落。選手18名と監督らスタッフ5名を含む乗員乗客31名全てが命を落としたのです。

 Grande Torino (=偉大なるトリノ)と呼ばれたチームは、控えとユース選手で何とかシーズン優勝を果たします。しかしイタリア代表アッズーリにも名を連ねる主力選手たちを失った痛手はあまりに大きく、その後はセリエB に転落、長い低迷の時代を経たのです。機上から雲間に浮かぶ姿を見せたスペルガ聖堂には、今も事故の犠牲者を悼む慰霊のモニュメント(下写真)が残ります。

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 興行用映画の撮影スタジオと「Itala Film イタラフィルム」などの映画制作会社が初めて作られたのもこの町。1930 年代、ムッソリーニが首都ローマに大規模な撮影施設 Cinecittà チネチッタを設立するまでは、トリノはイタリア映画産業の土台を支えていたそうです。現在はMuseo Nazionale del Cinema 国立映画博物館として使用されている「Mole Antonelliana モーレ・アントネッリアーナ」は、当初ユダヤ教の聖堂シナゴーグとして設計されました。尖塔は地上167mの高さに達し、1863年の建築開始当時は世界で最も高い建築物でした。高層建築物がないトリノでは、その特徴的な姿はひときわ目を引く町のシンボルとなっています。映画から派生した20世紀が生んだ映像メディア、テレビのイタリア国営放送RAIもトリノに本部を置きます。
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【Photo】老舗のカフェが軒を連ねるサンカルロ広場。取り囲む建物は一階がポルティーコ造りになっている

 もうひとつトリノの町並みで特徴的なのは Portico ポルティーコと呼ばれるアーケード。乾燥した晴天の日が多い地中海性気候のイタリアですが、アルプスが近いトリノ周辺は雲が発生しやすく、比較的雨が多いエリア。そのため、天候を気にせず街歩きができるよう、道路や広場に面した建物の一階部分が歩行者用のスペースとして確保されています。張り出し部分を支える柱状構造をもつ建物がトリノの旧市街に見かけられます。トリノ中央駅ポルタヌオーヴァ駅(下写真)から北に伸びるローマ通りや、その先のサンカルロ広場一帯は、ポルティーコで覆われたエリアです。

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 2006年2月には、第20回冬季五輪がトリノを主会場にピエモンテ各地で開催されたのは記憶に新しいところ。私たちが訪れた同年10月末でも、五輪のディスプレーが街角の随所に残されていました。心残りはテッラ・マードレの会場となったリンゴットから通りひとつを挟んだ至近距離にある Palavela パラヴェーラを時間がなくて訪れることができなかったこと。何故ならそこは、我が仙台で育った荒川静香選手が金メダルを獲得したフィギュアスケート競技の記念すべき舞台だったのですから。

"自動車の街トリノ"をメインにご紹介してきましたが、ここで一息。トリノのカフェに立ち寄りましょう。
と、いうことで次回はようやく食べ物の話題に戻ります。

「チョコレートの街 トリノ」へ続く
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2007/07/23

モノづくり大国

 小さな子どもがボロボロになっても肌身離さず持っているぬいぐるみのように、どんな人にもお気に入りのモノがあるはず。使いやすさを追求した便利なモノ、コンパクトで多機能なモノ、デザインが秀逸なモノ etc...。技術革新が進んだ現代では、インターネットや燃料電池車のように、ちょっと前には考えられなかったようなモノすら私たちは生み出しました。
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【Photo】イタリア・トスカーナ州Monteplcianoモンテプルチアーノで立ち寄ったBottega del Rame(=銅製品工房)「Mazzetti」三代目の Cesare Mazzetti チェーザレ・マツェッティさん(66歳)。父から受け継がれた銅の加工技術と職人の誇りは、製品ひとつずつに注ぎ込まれる

 ものづくりが大きく転換したのは、18世紀後半にイギリスで始まった産業革命から。省力化・効率化による利潤の拡大を至上命題として、19世紀から20世紀かけて人類の生産効率は飛躍的に向上しました。市場の拡大によって資本が巨大化し、やがて大企業の論理が国家戦略と同義語となってゆきます。新たな富を生み出す市場と資源・労働力の確保のために、アジア・アフリカ諸国は英・仏・露・独・蘭ら西欧諸国によって次々と植民地化されてゆきました。19世紀末、大英帝国は地球上の陸地面積の5分の2を植民地化するまでになり、空前の繁栄を謳歌しました。やがて訪れた20世紀は、モノの豊かさへのあくなき希求が、戦争や格差・環境悪化といった負の現象も生み出してきたことを私たちは知っています。

 広大な国土が世界一の生産高をもたらす小麦や大豆・トウモロコシなどの農産物と、木材・鉄鉱石・石炭・石油の豊富な国内資源をもとに"モノが豊かな社会"を出現させたのは、アメリカ合衆国でした。鉄鋼・自動車・航空機などの産業が牽引したその国の豊かさは、大量生産・大量消費に支えられていました。新大陸へと渡った欧州からの移民たちは、開拓者精神を尊び、新しいものに価値を見出してきたのです。そこには、長い伝統を持つ彼らのルーツ、旧大陸こと欧州に対するアンビバレント(二律背反)な心理が働いていたのかもしれません。

 今日、GDP国内総生産でみるとアメリカがダントツで世界第一位。以下、その半分以下の数値で日本・ドイツと続きます。ひとたびは焦土と化した国土から復興を遂げた日本の躍進の原動力は、優秀な人的資源でした。高い品質の Made in Japan 製品は、電器・精密機器・自動車の分野で、世界市場を席巻しました。 Made in Germany 製品も高級自動車や化学・薬品・機械・精密機器などの分野で確固たる地位を確立しています。

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【Photo】豚肉を蒸し焼きにする銅鍋。すべてチェーザレさんが打ち出して形成する。鍋には四本の脚が付いており、姿がユーモラス。後述のワインクーラーともども欲しかったが、がさばるしスーツケースが重くなりそうだったので断念。小ぶりな型抜きをふたつ買い求めた

 20世紀末、自由競争経済がグローバルな広がりを加速させると、企業は生産コストを抑えて収益を上げる必要に迫られます。製造業の多くはアジア各地へと生産拠点を移してゆきました。それによって高い品質を売りにしていた日本やドイツは、製造コストを抑えつつ品質を維持するという命題と国内産業の空洞化という難題にも直面したのです。その中で、中国は安価で豊富な労働力を提供してきました。13億を上回る人口を抱える中国は、市場としても将来性が高いため、欧米の企業を中心に進出が進んでいます。この改革解放のうねりの中で、中国は世界市場に台頭し始めました。最近では、一部の粗悪な製品の事例が Made in China 全体のブランドイメージを失墜させています。それでも21世紀半ばには、現在のアメリカによる一極支配が崩れ、成長著しいBRICs(ブラジル・ロシア・インド・中国)が世界経済の命運を左右するだろうと指摘する見方も存在します。

 産業革命以降のマシンとコンピュータを駆使したモノづくりは、劇的に私たちの生活の質を向上させました。インターネットの登場によるIT革命は、更なる生活変革をもたらそうとしています。こうしてモノづくりの歩みを概観した上で改めて思うのは、実は私たちが追い求めてきたのは、暮らしの質的充実ではなく、量的な拡大だったのではないかということ。豊かなモノへの希求が推し進めた自由競争は、明と暗の側面を生み出しました。

 スピードと効率を尊ぶ経済的な成長に対する信仰は、今もなお私たちに根深く巣食っています。ほどよい人間的な尺度(Human Scale)を越えた先には真っ暗な闇が待ち受けている気がしてなりません。私たちは、高度な科学技術が破綻する場面を幾度も目にしてきました。ふと気が付くと、物質的な繁栄を謳歌してきた人類は、温暖化や人口爆発による食料と水の不足など、存亡にかかわる地球規模の環境変化にさらされています。

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【Photo】チェーザレさんは4歳の時から、お父さんや兄と工房で銅細工を作り始めたという。62年の職人としての歴史を刻んだ分厚い手に触らせてもらったが、がっちりと固く力強かった

 「ヒューマン・スケール」は、建築やまちづくりで使われる用語です。人間の体の大きさに適合して過大でも過小でもないこと、人間にとっての心地よさを大切にすることを指します。IT万能のようにいわれますが、私たちが生きているのは、バーチャルな仮想世界ではありません。モノは人間が使うもの。ボタンひとつで地球を滅ぼすことが可能な時代だからこそ、モノ造りにもヒューマン・スケールな発想が必要だと思うのです。その人間には、視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚の五感が備わっています。人が使って心地良いモノは、人間が五感を駆使して生み出したものではないでしょうか。マスプロダクツではない人の手がかかったモノには、時としてファンタジーやインスピレーションという第六感も加わって、えもいわれぬ味わいが生まれます。

 ・視覚に訴える "フォルムが美しいこと"
 ・聴覚に訴える "妙なる響きを奏でること"
 ・触覚に訴える "肌触りが良いこと"
 ・味覚に訴える "美味しいこと"
 ・嗅覚に訴える "かぐわしさを放つこと"

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【Photo】歴史ある銘醸「Vino Nobile di Montepulciano ヴィーノ・ノビレ・ディ・モンテプルチアーノ」の産地で育った人ならではの自ら考案したという銅製ワインクーラーを手にするチェーザレさん。ローマ法王ヨハネ・パウロ二世にも銅細工を献上したことがあるという確かな技術は、ともに工房で働く息子さんに引き継がれている

 私は、この人類不変の価値観に沿ったモノつくりでは、イタリアこそが世界に冠たるモノ造り大国だと思っています。どこかしら人間臭さが感じられる Made in Italy 製品は、スペックだけでは語れない特別な魅力を醸し出します。それを支えるのは数多くのArtigiano アルティジャーノ(=職人)と、その域を超えMaestro マエストロ(=巨匠)と呼ぶにふさわしい誇り高き人たち。  いざ、麗しのモノ造りの国へ。

「水の都が生み出すヴェネツィアン・グラス」に続く 
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2007/07/15

ローマ2760年の歴史を10分でおさらい

永遠の都2760年の歴史を10分で知る/後編 

 西ローマ帝国滅亡(476年)後のイタリア半島は、シチリアを含む南部をアラブやノルマンの支配下におかれ、ローマ以北はローマ法王庁直轄の教皇領や自治都市国家が群雄割拠する混沌とした状況となります。10世紀以降中世期にかけて、さまざまな民族と封建領主・諸侯による争いが繰り広げられたイタリア半島では、争いで荒廃した地方からの難民が、略奪を避けるために城壁に守られた集落に集まりました。マラリアの原因となる蚊を避けるため、丘の上や外敵の侵入を拒む難攻不落の崖の上に築かれた集落は、やがて都市へ、さらには自治権を持つ都市国家へと発展してゆきます。今もイタリア各地にそうした丘上都市が数多く見られます。
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【Photo】果実味豊かな白ワイン「Orvieto classico オルヴィエート・クラシコ」のブドウ畑の彼方、天然の要害となる崖の上に築かれた Orvieto オルヴィエート。ひときわ大きなイタリアンゴシックの Duomo ドゥオーモ(写真右)は1290年に着工、完成に300年を費やした

 イタリアンゴシックの傑作とされるドゥオーモで知られる"世界一美しい丘上都市"ことウンブリア州 Orvieto オルヴィエートや、エミリア・ロマーニャ州の中にある独立国家、切り立った岩山の上に築かれた San Marino サンマリノ共和国は、そうした丘上都市の典型です。

 そのような成立過程を持つ都市の中で、中世からルネッサンス期にかけての転換点となった15世紀、ヨーロッパでも有数の繁栄を謳歌したのがフィレンツェ共和国でした。金融業で財を成したメディチ家は、コジモ・デ・メディチからロレンツォ・デ・メディチの時代、実質的な町の支配者となります。新・プラトン主義【注1】の理想を掲げたメディチ家の庇護のもと、美術史上でも稀有な才能が集い、ルネサンスが花開いた Firenze フィレンツェ。
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【Photo】「ジョットの鐘楼」の階段414段を攻略する苦行の果てに拝めるフィレンツェのパノラマ。目の前にはブルネレスキが設計した Santa Maria del Fiore サンタ・マリア・デル・フィオーレの別名をもつドゥォーモの天蓋が迫る。鐘楼の登り口のチケット売り場には心臓に問題がある人は登らないように指示がされている

 美術愛好家のみならず世界中から多くの観光客を集める Galleria degli Uffizi ウフィッツィ美術館は、メディチ家が蒐集した膨大な数に及ぶ至高の美術品を収蔵します。Museo di San Marco サンマルコ美術館の階段の先には、大天使ガブリエルがマリアに神の子を宿したことを告げた瞬間の言葉が聞こえてくるかのような静謐な美しさをたたえたフラ・アンジェリコの「受胎告知」が。そしてティッツィアーノの肖像画の傑作「灰色の眼の男」は Galleria Palatina パラティーナ美術館の Sala di Marthe マルスの間であなたを待っています。
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【Photo】身廊にガリレオ【click!】・ミケランジェロ・マッキャベリ・ロッシーニらの墓があることでも知られるサンタ・クローチェ聖堂。内陣右側のバルデイ家礼拝堂にはジョットのフレスコ画「聖フランチェスコの生涯」が描かれている。回廊をめぐるとパッツィ家礼拝堂や付属美術館でロッビア一派による彩色テラコッタ、1966年にアルノ川が氾濫してひどく損傷した「チマブーエの十字架像」などの珠玉の至宝と出合える

 フランスの作家スタンダールが圧倒されたという Basillica di Santa Croce サンタ・クローチェ聖堂をはじめ、透視画法を駆使したマサッチョのフレスコ画「三位一体」が描かれた Basillica di Santa Maria Novella サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂などが立ち並ぶフィレンツェは、いまもなお宝石箱のように美しい街です。しかし、メディチ家が絶頂を迎えていた15世紀は、ヨーロッパ各地で陰惨な魔女狩りが盛んに行われていました。"花の都"フィレンツェも例外ではなく、権謀術数が渦巻く不安定な状況にありました。史上名高い「パッツィ家の陰謀」では、ロレンツォは難を逃れますが、ドゥオーモでのミサ中に弟ジュリアーノ・デ・メディチが暗殺されます(1478年)。修道士サヴォナローラは、メディチ独裁を糾弾して民衆の支持を獲得し、一度はメディチ家追放に成功します(1494年)。しかし厳格な教条主義による神政は次第に支持を失い、異端としてシニョーリア広場で火刑に処されました(1498年)。その時代、チェーザレ・ボルジアは、父であるローマ法王アレッサンドロ6世の権勢を背景に急速に領土を拡大。軍勢を率いてフィレンツェに迫りつつありました(1502-03年)。
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【Photo】夏にはパリオ(地区対抗の競馬)で町中が熱狂する Siena シエナの Piazza del Campo カンポ広場と市庁舎である Palazzo Pubblico プップブリコ宮。100m以上の高さを持つマンジャの塔からは、大パノラマが一望のもと

 フィレンツェ共和国と隣接するSienaシエナとの都市国家同士の領土争いは、ゲルマンによる神聖ローマ帝国成立(962年)後に起こったグエルフィ党(教皇派)とギベリン党(皇帝派)の争いの縮図でもありました。争いの舞台となった両都市の間に位置するChianti地区の銘酒キアンティ・クラシコのシンボル「Gallo Neroガッロ・ネロ」(=黒雄鶏)伝説【注2】や、シェークスピアが古都 Veronaヴェローナを舞台に創作した物語「ロメオとジュリエット」は、両派の対立を背景としており、その副産物といえましょう。

 一方で、地中海交易で栄えた港湾都市国家、VeneziaヴェネツィアやGenovaジェノヴァ、Pisaピサ、Amalfiアマルフィは互いに覇権を競うライバルであり続けたのです。都市国家の集合体であったイタリア半島には、こうしてルネッサンスを経て地方色豊かな文化が各地で醸成されました。質の高い文化遺産が国土にあまねく分散して残るイタリアの比類なき魅力は、こうした万華鏡のような多様性にあるのです。

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【Photo】ナポリ湾に浮かぶカプリ島が間近かに迫るソレントを過ぎ、紺碧のサレルノ湾に面した目のくらむような道を断崖沿いにしばらく進むと9世紀に築かれたアマルフィにたどり着く。現在は人口約1万人の街だが、海上交易で栄えた11世紀には7万もの人々が暮らした。東方からコーヒーやペルシャ絨毯をイタリアに伝えたのはアマルフィだったという。アラブの影響が強い建築様式のDuomoドゥオーモは、南イタリアの強烈な太陽のもとで、かつての栄華を物語る

 スペインやオーストリアによる支配を経て、ナポレオンがポエニ戦争におけるハンニバルに倣ってアルプスを越えてイタリア半島北部へ侵攻(1796年)すると、外国勢力を一掃しようという民族自立の機運が沸き起こりました。祖国の英雄として今も語り継がれるガリバルディが率いたリソルジメント(=イタリア統一運動)によって、サヴォイア家のヴィットリオ・エマヌエレ二世を初代国王に戴く君主制のイタリア王国がトリノを首都に成立(1861年)。これが第二次世界大戦後に成立した現体制のイタリア共和国の原型です。つまり、西ローマ帝国崩壊後1400年に及ぶ混沌とした時代を経てようやく国家として統一されたイタリア、言い換えればイタリアという概念そのものは、145年の歴史しか刻んでいない事を意味します。国家としての体制づくりはまだ途上にあるといってもよいでしょう。こうした歴史的背景が、郷土への強い帰属意識と結束を生み出し、生まれ育った地元を愛する精神風土と、処世術として「コネ」を優先する社会の仕組みを生む大きな要因となりました。

 古代ローマがいち早く属州としたアルプス以南、アペニン以北の地域はGallia Cisalpinaガリア・キサルピーナと呼ばれました【注3】。ポー川が貫流する肥沃な大地の最北西部にトリノは位置します。町の起源は、共和制ローマ時代に属州となったガリア全域のうち、帝政ローマ初代皇帝アウグスグストゥスが、ガリア・キサルピーナをローマ本国に編入して入植を進めたキリスト生誕の時代まで遡ります。11世紀以降、現在のフランス東部ローヌ・アルプ地域のサヴォワ地方から、スイス西部のフランス語圏、そしてピエモンテにかけてサヴォイア公国が成立。サヴォワ出身のサヴォイア家が統治した公国の首都がトリノとされたのが1563年。ローマ時代に築かれた碁盤の目状の町をベースにして、17世紀に整備されたトリノ旧市街は、地理的に近いフランスの雰囲気を漂わせているといわれます。サヴォイア公国・サルディーニャ王国・イタリア王国の首都としての誇り高き歴史を刻んだその町並みは、他のイタリアの都市とは異なる落ち着いた佇まいをみせていました。
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【Photo】ピエモンテロココ様式の傑作「ストゥピニージ宮殿」

 サヴォイア家が17~18世紀にかけて当代の著名な建築家に命じて各所に建てたバロック様式の王宮群は、宮廷文化華やかりし時代の息吹を今に伝えています。その中で最も華麗といわれるストゥピニージ宮殿は町の南端に、そしてサヴォイア家の霊廟があるスペルガ聖堂は、市街中心部から北東約10キロの丘陵の頂に建っています【注4】。イタリア到着の朝、トリノ上空で着陸態勢に入った機上から目にした光輝く雲海に浮かぶスペルガ聖堂は、「Belpaeseベルパエーゼ(=美しき国)」とイタリア人自身が故国を形容することに合点がゆく、神々しく美しい光景でした。取り出したカメラのファインダー越しに望むスペルガ聖堂のシルエットに "che Bella"(=なんてキレイなんだ)と、思わずつぶやく庄内系イタリア人なのでありました。
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【Photo】逆光の中、雲海に浮かんで見えた神々しいスペルガ聖堂

FilE9:「そしてトリノ」へつづく

【注1】芸術にも深い理解があったコジモ・デ・メディチは、「アッカデミア・プラトニカ(プラトン・アカデミー)」と呼ばれる文化サークルをフィレンツェ郊外のカレッジにあるメディチ家の別荘で主宰した。当代の詩人・画家・哲学者など当代の知識人が出入りしたそこでは、古代ギリシアの哲学者プラトンの著作研究を通して、美や神の愛などについて自由闊達な議論がなされたという。彼ら新・プラトン主義者によれば、現世は神の愛によって、神が理想とした範例を具現化したものであった。人間は神への愛、美への一途な愛(=「プラトニック・ラブ」の語源となった)を通して、神に近づくことができ、至福が訪れるとした。この「現実を謳歌せよ」という新・プラトン主義的な思想から、アッカデミアにも出入りしたボッティチェルリの「春」や「ヴィーナスの誕生」といった寓意的な作品が生まれた
    
【注2】フィレンツェとシエナは、50キロほど離れた両都市の間に広がるキアンティ地区の所有をめぐり、争っていた。1208年、その長年に渡る争いに決着をつけようと、勢力圏の境界線を、互いの町のニワトリが時の声を上げたら、おのおの騎士が馬で町を出発し、両者が出合った場所を境界に定めることにした。シエナ側が選んだのは良く肥えた白い雄鶏。フィレンツェは黒い雄鶏を選んだ。一計を案じたフィレンツェ側は雄鶏に餌を与えずにおいた。腹を空かせた雄鶏は、用意が整った騎士の持つ明かりを見るや一声「コケコッコー」。かたやシエナの雄鶏は日の出と共に鳴き声を上げた。そのため、馬上の両騎士が出会ったのは、シエナから10キロしか離れていないCastello di Fonterutoliフォンテルートリ要塞付近【click!】だった。以降、境界はそこと定められ、名醸地キアンティはフィレンツェの所有となった。
        
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【Photo】Chianti classico のブドウ畑と、かつてキアンティクラシコのボトルネックに貼られていたGallo Neroのマーク

1924年に33の生産者たちによって発足した「Consorzio del Marchio Storico-Chianti Classicoキアンティ・クラシコ原産地表示保護協会」はGallo Nero(黒雄鶏)をキアンティ・クラシコのシンボルと定めた。ところが1987年、協会が品質管理を目的とするキアンティ・クラシコ協会と、プロモーションが主目的の黒雄鶏協会に分かれた。後者に加盟しない優れた生産者も多かったため、イタリアワインの呼称と品質規定をD.O.C.G法に定められたキアンティ・クラシコの規定を満たすワインの中で黒雄鶏マークが貼られたものと、そうでないものが混在する状況が生まれた。こうした消費者に混乱を招く状況を打破するため、2005年5月に並立していた協会を「Consorzio del vino Chianti Classicoキアンティ・クラシコ協会」として統一し、デザインを変更した黒雄鶏【click!】が商標ラベルとして採用された。現在の加盟生産者数は600以上で、うち250軒は自社ラベルのワインをリリースしている

【注3】ラテン語で「アルプス山脈の手前側(cis-alpina)のガリア」という意味

【注4】 ストゥピニージ宮殿は、ヴィットリオ・アメデオ2世が建築家フィリポ・ユヴァーラに設計を依頼し1729年に完成した。広大な庭園に囲まれ、サン・タンドレラ(セント・アンドリュース)の十字架をかたどった構造【click!】を持つ。狩猟用の離宮にふさわしく屋根の中央にフランチェスコ・ラダッテ作の雄鹿のモニュメントを戴く。サヴォイア家の城の中では、最も華麗であり、ユヴァーラのロココ建築の傑作とされる。ユヴァーラは、1706年にスペイン継承戦争の際にフランス軍に包囲されながら、トリノ防衛に成功したサヴォイア家のヴィットリオ・アメデオ2世から、聖母マリアに献げる聖堂の設計も任された。着工から14年後の1731年、パンテオンのファサードとバロック様式の聖堂を融合させたとされるスペルガ聖堂の献堂式が執り行われた。ちなみに、幼少時代、胃腸が弱かったヴィットリオ・アメデオ2世のために考案されたのが、スティック状のパン「グリッシーニ」だったという
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2007/07/12

ローマ2760年の歴史を10分でおさらい

「永遠の都2760年の歴史を10分で知る/前編」

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PHOTO】中部イタリア・ウンブリア州、聖フランチェスコの故郷 Assisi アッシジで。ウンブリア平原を見渡す聖キアラ聖堂前の広場からは、敬虔な祈りの街に点在する教会のカンパニーレが望める。中央はS.Maria Maggioreサンタマリアマッジョーレ教会

 イタリア人が郷土に抱く愛着は、日本人の感覚では考えられないほど強いものがあります。私たちがピエモンテで滞在したアグリツーリズモ Rupestr のオーナー・Giorgio もそうでした。イタリア人に顕著な「地元が一番!」というこの性向は、Campanilismo カンパニリズモという言葉で表現されます。郷土愛を意味するこの言葉の語源は Campanile カンパニーレ(=鐘楼)であるといわれています。コンスタンティヌスのミラノ勅令(313年)によってキリスト教が公認されて以来、いかなる時代にあってもキリスト教はイタリアの人々を束ねる精神的支柱であり続けました。国民の97%がカトリック教徒であるイタリアには、集落・地区ごとに教会が存在します。生まれて間もなくそこで洗礼を受け、一日の始まりや休日の礼拝のため教会に足を運ぶ彼らにとって、教会は自分の帰属元の象徴です。遠方から望む鐘楼は故郷のランドマークでもあります。その強烈なカンパニリズモをもたらした背景をひも解くと・・・
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【PHOTO】地元のピエモンテーゼが世界一美しいと自慢するブドウ畑の風景が広がるピエモンテ州の名醸地Barbarescoバルバレスコで。丘の高みにあるバルバレスコ村のカンパニーレが見渡す限りブドウ畑が広がる丘陵地のアクセントになっていた

 ユリウス・カエサルとアウグストゥスが樹立したパクス・ロマーナのもと、綿々と続くヨーロッパ文明の礎を築いた古代ローマ帝国。紀元100年以降の五賢帝時代には、地中海沿岸のアフリカ大陸とエルベ川・ライン川以西のヨーロッパ全土、更に黒海沿岸からティグリス川を越え、カスピ海・ペルシア湾に及ぶ人類史上類を見ない広大な地域を、ローマ帝国は勢力圏としました。古代ローマ人が築いた高度な土木建築技術と天賦の造形感覚の賜物であるさまざまな建造物は、今もヨーロッパ各地と地中海世界に残ります。私たちは二千年以上の時を経た今日、見事な様式美を持つ人類の遺産として、それらと対峙します。
 
 たとえばサイフォンの原理を使った緻密な計算に基づく三層構造を持つ Pont du Gard ポン・デュ・ガール【click!】(フランス)や Segovia セゴビア【click!】(スペイン)水道橋の威容しかり。【注1】 水源のアペニン山脈付近からローマまで、衛生を考慮して可能な限り地下を通して造られた11もの水路は、最も長いマルキア水道で90km以上に及びます。ローマ市の上水道は、今も建設当時の設備をそのまま使用しているのは有名な話。ローマ市内各所にある噴水の水源もそう。スペイン広場の中央にある Fontana della Barcaccia 船の噴水【click !】は、バロック彫刻の巨匠ベルニーニが1627年に手がけました。この水は白ワインの産地として知られるローマ南部郊外の Frascati フラスカーティから引かれている「ヴィルゴ水道(Aqua Virgo)」のものです。その美味しさはローマっ子も太鼓判を押す美味しさ。海外ではミネラルウォーターを買う場合が多いかと思いますが、ローマを訪れた方はぜひお試しあれ。
 ちなみに、このヴィルゴ水道の終点が、かのFontana di Trevi トレヴィの泉だというのが、ローマの泉に関するトリビアの泉・・・お粗末。
 
 広大な領地の統治には、強力な軍団と兵糧の迅速な移動が不可欠でした。それを可能にした街道網は、"世界の首都"ローマを基点に領地一円で整備されました。軍事目的以外に入植都市を含む域内交流の動脈として活用され、アッピア、アウレリア、エミリアなどの幹線だけで8万キロ、延べ30万キロ・地球8周分にも及ぶ諸街道の石畳には、往来した馬車が残した轍の跡が残り、二千年の時の流れを感じさせます。
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【PHOTO】石畳に轍が刻まれたアッピア街道。どれほどの人がここを行き来したのだろう

 まずはミケランジェロが設計した幾何学模様が施されたカンピドリオ広場に面して現在のローマ市庁舎が建つカンピドリオの丘から、"永遠の都"ローマの歴史をたどる旅を始めましょう。伝承では、狼に育てられた双子【click !】のロムルスとレムスの兄ロムルスが諍(いさか)いによって弟レムスを殺害後、紀元前753年に王位に就いたことが都市ローマの起源とされています。市庁舎を裏手に回ってカンピドリオの高台に立ち、古代ローマ時代に政治の中枢であったフォロ・ロマーノを目にする時、人類の歴史上、他に例を見ない空前の大帝国を築いたイタリア人の祖先が成し遂げた偉業に思いを馳せずにはいられません。
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【PHOTO】カンピドリオの丘、ローマ市庁舎裏手からのフォロ・ロマーノ

 17世紀のフランスの詩人ラ・フォンテーヌの「すべての道はローマに通ず」という有名な言葉は、張り巡らされたローマの街道網を単に意味するのではありません。手段は違っても目的は同じことの例えでも使われます。ローマは異民族の被征服者を蹂躙し駆逐するのではなく、ローマ退役兵の入植による民族同化を進めました。帝政ローマ第二代皇帝ティベリウスは、財政再建のために属州のガリア(現在のフランス)など異民族に対する増税を主張する元老院議員たちに向かって、属州民を羊にたとえて「殺して肉を食べる対象ではなく、毛を刈り取る対象」と考えるべきだ、と喝破したそうです。自国と圏域の安定という最終目的のためには英知をもって常に柔軟であったローマ人の統治手法がその繁栄を支えたのです。

 それでも盛者必衰は歴史の常。第二次ポエニ戦争(BC219~201)のカンネの会戦(BC216)で7万に及ぶ全軍の兵を失う惨敗を喫するなど、ローマが幾度も煮え湯を飲まされた仇敵カルタゴ。ローマ救国の英雄「小スキピオ」ことプブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌス・アフリカヌス(⇒何と長い名前!)は、第三次ポエニ戦争(BC149~146)で名将ハンニバルが率いた仇敵を滅亡に追い込みました。積年の恨みを晴らす徹底的な殺戮と破壊によって灰燼に帰そうとするフェニキア人の都を前にして、小スキピオは感慨を込めてこう語ったと伝えられています―「今われわれは、かつては栄華を誇った帝国の滅亡という、大いなる瞬間に立ち会っている。だが、今私の胸を占めているのは、勝者の喜びではない。いつかは我がローマも、これと同じ時を迎えるであろうという哀切なのだ。」 (塩野七生著「ローマ人の物語」〈新潮社刊〉より引用)

 壮麗な神殿や建築が建ち並んでいた往時の面影を留めずに廃墟となったフォロ・ロマーノや野良猫の棲み家となったコロッセオ。こうしたローマ人が築いた遺跡は世界中から訪れる観光客で溢れかえります。かつては世界の首都といわれた廃墟を、Tシャツ姿で闊歩する現代の観光客の姿に、キケロや小カトーなどの元老院議員がトーガ姿で歩く姿を重ねてみる対比も一興。それには"永遠の都"が暮れなずむ黄昏(たそがれ)時が一番似合うと感じるのは感傷に過ぎるでしょうか。

「永遠の都2000年の歴史を10分で知る/後編」に続く

【注1】古代ローマは租税や兵役を課す代償として、領土一円にさまざまなインフラ整備を行った。ローマの繁栄は卓越した土木技術が支えていた側面もある。当時は日よけの天蓋で覆われていたというドーム球場さながらの巨大な闘技場「コロッセオ」は、地下から猛獣や剣闘士が登場する昇降機すら備えていた。ゲルマニア平定のため、川幅が広く水量も多いライン河に木製の橋を短期間に架けてしまう技術しかり、雨天でも移動ができるよう排水性を確保して石畳で舗装されたローマ街道しかり。わけても1キロ区間で34センチの傾斜を保つよう設計されたローマ水道は、その最たるもの
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2007/07/11

La Strada per Torino~トリノへの道

類いまれなイタリアの魅力

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【PHOTO】トスカーナ州南部 Pienza ピエンツァ郊外 Val d'Orcia オルチア渓谷【click !】で。粘土質の不毛の大地を耕作地に変えるため、この地の人々は何世紀にも渡って土壌改良を続けてきた。雲間から降り注ぐ柔らかな朝の光の粒子に影絵のように浮かび上がる礼拝堂。自然と人の営為がほんのひととき魅せてくれた忘れ得ぬ光景


 まずは思いつくままイタリアの魅力を挙げてみましょう。

 陽光溢れる美しい自然と神々の仕業としか思えぬ息をのむ風景。
 国内はもちろん欧州と地中海世界一円に広がる数々のローマ遺跡。
 先住民族エトルリア人以来、あまたの天才を輩出してきた至高の芸術。
 ギリシャの様式美を規範としながらも独自の発展を遂げた建造物。
 マエストロの誇りと天賦の造形感覚の賜物である珠玉の工芸品類。
 モードに敏感な人々を魅了し、激しく物欲を刺激する Made in Italy 製品。
 伝統と革新の技が融合し無類の美しさと心地よさをもたらす工業デザイン製品。
 恵まれた気候風土と伝統を重んじる気質が生み出す美味しい食事やヴィーノ・・・。

 あなたが魂を揺り動かす情熱的なイタリアオペラを聴きたければ、世界屈指の歌劇場ミラノのスカラ座やボローニャ歌劇場へ。それが7~9月ならば古代ローマの闘技場 Arena di Verona で屋外オペラが上演されるヴェローナが最高の舞台となるでしょう。官能的なイタリア車の真髄に触れたければ、Ferrari フェラーリの聖地 Modena モデナ近郊の Maranello マラネロへ。お好きなイタリア映画の舞台を訪れたければ、シチリアやヴェネツィアなどを訪れるもよし。アルペンスキーの本場アルプスやドロミテには、素晴らしい絶景も待っています。2006FIFAサッカーW杯で頂点に立ったイタリア代表メンバーの試合を観戦したければ、スタンドで贔屓チームを応援する Tifoso (ティフォーゾ=イタリアの熱狂的なサッカーファンの通称) に混じって CALCIO (=サッカー)に熱狂するもよし。本場のピッツァを食べたいのなら、プルチネラと呼ばれる白い道化の看板を掲げるナポリのピッツェリアで、釜に一番近い席に陣取ればOK。イタリア語が少し話せるのなら、"人生の達人"イタリアの人々の味わい深い生きざまに触れるのもいいでしょう。

 初めて訪れた人から私のようなマニアに至るまで、オールマイティに満足させてくれる懐の深さがイタリアにはあるのです。それは西洋文明の源泉として長い歴史のなかで積みあげられてきた遺産の重層があってこそ。ユネスコの世界遺産登録数が最も多い国は42件のイタリア。そのうち41件は文化遺産です。(2007年6月末現在。2位はスペインの40件) 人類が欧州で積み上げてきた英知は、イタリアの大地のみならず、ローマ人が統治した地中海世界一円にその記憶の痕跡を残しています。(注1)

これほど多岐に渡るジャンルにおいて類い稀な魅力を放つ国がほかにあるでしょうか?

 古来、イタリアはその地を訪れた多くの旅行者を虜にしてきました。冬は暗い雲が立ち込める日が続くアルプス以北のヨーロッパ諸国の人々にとって、年間を通して陽光に包まれるイタリアは、憧れの国だったのです。ドイツの詩人ゲーテが「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」で"ミニョンの歌"としてイタリア出身の少女に語らせた一節は、端的にゲーテのイタリアへの憧憬を吐露したものです。

  君よ知るや南の国  レモンの花咲き
  緑濃き葉陰には黄金のオレンジたわわに実り
  青き空より、やわらかき南の風

 ゲーテやスタンダールらを引き合いに出すまでもなく、イタリアは今も数多くの世界中の人々を魅了してやみません。"永遠の都" Roma ローマや"水の都" Venezia ヴェネツィア、"花の都" Firenze フィレンツェのみならず、「ナポリを見て死ね」と称えられる美港 Napoli ナポリや、糸杉の並木が美しいトスカーナの牧歌的な丘陵など、地域ごとに特色あるその魅力は、北から南まで国内各地に満遍なく存在します。この点もイタリアならではの強みでしょう。

 2006年冬季五輪の開催地として一躍世界の注目を浴びた都市 Torino トリノは、国内で4番目の人口を抱える大都市。それでいて、これまでトリノはどちらかと言えば比較的地味な存在だったといわざるを得ないでしょう。その理由は、私が車で街の中を走って感じたトリノの第一印象と符号する理由によるものだと考えます。

・・・「この街、なんかイタリアらしくないなぁ」。

 トリノ中心部の佇まいは、あくまでもシックでエレガント。その落ち着いた街並みは、むしろ隣接するフランスに雰囲気が似ているとさえいわれます。バロックやロココ様式で建てられた王宮群もそう。クラシックでスノッブな雰囲気が漂うカフェもそう。晩秋から冬にかけては霧のヴェールに閉ざされることもしばしばで、そんな時期にトリノを訪れると陰鬱な街という印象すら抱きかねないのでは? どうやらイタリア好きの琴線に触れる"イタリアらしさ"とは異なる個性が"トリノらしさ"であるのかもしれません。ゆえに根っからのイタリア好きの私には、トリノの街は正直に言って異郷にすら映りました。その理由は、トリノがサヴォイア家の遺香を色濃く漂わせる街だったからなのです。


(注1)ブリタニア(現イギリス)ハドリアヌスの長城、ゲルマニア(同ドイツ)トリアーのポルタ・ニグラなどのローマ遺跡、ガリア(同フランス)の水道橋ポン・デュ・ガールとアルルやオランジュのローマ遺跡、パルミラ(同シリア)、ドゥガ(同チュニジア)、ティムガッド(同アルジェリア)タラゴナ、ルーゴの城壁(同スペイン)などは、当時の属領にローマ人が遺したユネスコの世界遺産である。さらに入殖した退役兵によって広く属領へと伝播したのが、ブドウ栽培であったことを考え合わせると、ローマが果たした功績は計り知れない

「ローマ2760年の歴史を10分でおさらい」 (→ちょっと無謀なんじゃ・・・) に続く
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2007/07/05

庄内系転生伝説 第二章 

アル・ケッチァーノ、そして庄内発見伝
河北ALPHA取材の舞台裏

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【Photo】日本海に没する夕陽。鶴岡市由良海岸にて

 私が仙台から山形へ"通勤"していた2003年(平成15年)、東北の太平洋側は記録的な冷害に見舞われました。7月から8月にかけてオホーツク海高気圧が優勢であったこの年、「やませ」と呼ばれる北東の海風が東北の太平洋側に吹き付けました。この湿気を帯びた冷たい風が、障壁となる奥羽山脈に遮られると、山の東側に雨雲が発生します。その雨雲は、そぼ降るシトシト雨と深刻な日照不足に起因する肌寒さを東北の太平洋側にもたらします。
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【Photo】「やませ」が吹いた7月のある日、宮城県側には雨雲がどんよりと垂れ込み、冷たい霧雨が降り続く。山形自動車道・笹谷ICから庄内へと向かう途中地点で撮影
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【Photo】宮城-山形県境の山形自動車道 笹谷トンネル。山形側出口からは眩しい陽光がこぼれ、劇的に天気が変わる

 この年、7月の仙台の日照時間は平年の1/3以下、平均気温は18.4度と観測史上最低を記録。気象庁は8月初旬にいったん発表した東北の梅雨明けを、その後も続いた天候不順のため、結局9月になって「梅雨明けを特定し得なかった」と訂正しました。

 東北の太平洋側は、この年、夏を忘れてしまったのです。

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【Photo】夏の日差しが降り注ぐ山形自動車道 山形蔵王ICからみた宮城県との県境の山には、北東の冷たい風によって雨雲が発生している
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【Photo】山形自動車道 寒河江SA付近から。奥羽山脈には延々と雨雲のヴェールがかかる。上記4枚の写真は、やませの影響で一変する天候を宮城~山形を車で移動しながら撮影したもの

 そんな中、私は宮城・山形県境を越えて山形へと通勤していました。太陽が全く顔を見せない太平洋側と違って、奥羽山脈によって雨雲が遮られる山形県側には、まぶしい夏の太陽が照りつけていました。かたや、冷たい雨に濡れる青立ちの穂波が続く宮城県側の惨状は目を覆いたくなるほど。そのように笹谷峠・関山峠・鍋越峠・二井宿峠など、県境を越えると、天候が劇的に変化するさまを、毎日のように目の当たりにしていました。山をひとつ隔てるだけで、かくも天候が変わるものかと私は驚きを禁じえませんでした。かの川端康成であれば、そのありさまを「県境の長い笹谷トンネルを抜けると南国であった。昼の空が青くなった。」とでも表現したのでしょうか。【注1】

Puglia otranto.jpg【photo】日がな一日をダラダラと海辺で過ごすイタリア式極楽ヴァカンス。海が美しい南イタリアPuglia プーリア州otrantoオートラントにて

 イタリア人は夏のバカンスシーズンになると、こぞって陽光溢れる海辺を目指します。DNAに残る前世の記憶がそうさせるのか、深刻な日光欠乏症に陥っていた私は、ギラギラした夏の日差しと、輝く海辺に飢えていました。そのため、週末もおのずとまばゆい太陽のもと、青い海が広がる庄内へと足が向くのでした。その名の通り、山形県は起伏の多い地形によって、最上・村山・置賜・庄内の四つのエリアに分かれます。四方を山々に囲まれた風光明媚な内陸各地の変化に富んだ風景も魅力的でしたが、日本海に向けて開かれた庄内の風土と、そこに暮らすラテン気質のおおらかな人々に、より惹かれたのは必然の結果だったのかもしれません。

 抜けるような青空のもとに広がるのは、連山を従えてどっしりと構える霊峰・月山と、すらりとした姿が対照的な秀峰・鳥海山を背景に、青く輝く田んぼが広がる瑞穂の国の原風景。そして、澄み切った青空を一面の茜色から深紅に変えてゆきながら日本海に沈みゆく夕陽の表情豊かな様相でした。ゆったりとした時間が流れ、優しい空気感が漂う庄内の魅力と、肥沃な大地と日本海がもたらす生命力に満ちた旬の恵みから、私は元気と活力をもらっていました。

 こうして庄内への距離感は一気に短縮していったのです。

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【Photo】庄内での仕事を終え「仙台に戻る前に、軽く腹ごしらえでも」と立ち寄ったアル・ケッチァーノ前で。車を降りると西の空が茜色と亜麻色が入り混じる残照に輝いていた。夏の庄内の夕焼けは息を呑むほど美しい。長距離運転で疲れたカラダを生き返らせる食事の後、再び 140キロ以上離れた自宅へ戻った。そんなタフな日々を送っていた翌年の冬、この看板は庄内特有の猛烈な季節風で倒壊してしまった

 5月にたまたま立ち寄って以来、アル・ケッチァーノで口にする庄内産の食材は、どれも生命力に溢れ、不思議な活力を与えてくれるものでした。3枚の黒板に列記される多彩な食材。それを提供する生産者と奥田シェフの人的ネットワークは、いかに作られているのか? それらは、どんな人たちが、どんなところで作っているのか? という興味が店に通いつめるうち、だんだんと湧いてきました。

 懐が深いその地の魅力に触れた私は、その年の9月末に発行予定だった月刊情報誌「河北ALPHA」の特集「秋色小旅行」《Link to PDF 》で取り上げる山形エリアの情報を庄内に的を絞りました。前述の通り山形内陸地方から仙台に向けて発信される情報は、仙台の百貨店が催す山形物産展を見ても明らかなように、蕎麦・果物・玉こんにゃく・漬物ばかり。変わりダネといっても、モノは試しと一度だけ食べて以降、二度と口にしていない氷が浮いた「冷やしラーメン」や鶏モツが入った「とりもつラーメン」程度。そういったパターン化された情報に私は食傷気味でした。それと比べて、遥かに多種多彩ぶりが窺える庄内の食事情は、いかにも魅力的に映ったのです。ましてや仙台人はその事実をほとんど知りません。日本海と豊かな山々に挟まれたそこには、未知の食材が埋もれているようでした。

tasogareseibei.jpg【photo】山田洋二監督の映画「たそがれ清兵衛」〈予告編〉より

 酒井家が治めた城下町鶴岡の落ち着いた佇まい、北前船交易で栄えた湊町酒田の粋、出羽三山の山岳信仰が遺した独自の文化。この土地には人を包み込むような優しさと、奥ゆかしい魅力があるのに、仙台の人々はそれをほとんど知らない。山形県と一口に言うもののも、山形県下をくまなく回るうちに、庄内と内陸では全く人々の気質や培われてきた文化が違うことを、肌で感じていました。今でこそ鶴岡出身の作家・藤沢周平の再評価で衆目を集める庄内ですが、その頃は映画「たそがれ清兵衛」が前年末に公開されたばかり。相変わらず仙台からは月山の手前しか視野に入っていなかったのです。

 万人をあまねく惹きつけるのは美味しい食べ物。そこで「豊饒なる食の里・庄内」をテーマにした取材を "庄内の食の語り部" として最適任であろうアル・ケッチァーノの奥田シェフに申し入れました。

 8月初旬の爽やかに晴れ渡った朝、店の前で待ち合わせをした奥田シェフと合流しました。そこからは、シェフの自家用車に乗り換えての移動です。ふと後部座席に目をやると、泥だらけの長靴やら、野菜の切れ端が入ったダンボールなどが雑然と転がっています。その様子に一瞬たじろいだものの、そこは見て見ぬフリ。カメラを手に助手席に潜り込みました。

 すぐに「仕入れをしながらご案内します」というシェフの話が始まりました。「ボクは月山と心が通うんです。念を送れば雨雲だって晴らしてもらえるんですよ」。うーむ。霊峰月山と交信するとは、修験道の徳を積んだ聖者か天狗の仕業。にわかには信じ難い話を真顔で語る運転席の天狗シェフは、鼻高々どころか至って低姿勢でした。その言葉通り、シェフに取材の段取りを取ってもらった訪問先では、たとえ小雨混じりの天気でも、そこに到着すると何故か雨が上がり、薄日すら射すことが続いたのです。それに味をしめた私もすっかり増長して、「私がそちらに行く時は、月山にお願いして晴らしておいて下さい」などと、電話でお願いするようになっていました。するとシェフは、その都度いつもの脱力系な鼻に抜ける声で一言、「やっときまーす」。(⇒「晴れるよう月山に念を送っておきます」という意味だと思われるが、定かではない)

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【Photo】開店当初からの固い信頼関係で結ばれていた奥田シェフと今野恵子さん(撮影:2003年8月)

 まず案内された先は羽黒町(現鶴岡市羽黒町)黒瀬の契約農家、今野恵子さんの畑でした。今野さんは、奥田シェフが独立した平成12年当初から、毎月定額を支払い、無農薬で野菜の生産を委託している生産者です。今野さんの畑は土壌や水分が異なるという四箇所に分散していました。空のダンボール箱を手に畑に入ってゆくシェフが、朝露に濡れた雑草をかき分けるたびにバッタや蛙がピョンピョン。シェフは摘んだ野菜をそのまま口に含みながら、無造作に私にも差し出します。仙台育ちの私は、畑から採ったばかりの野菜を洗いもせずに食べたことなど、それまでありませんでした。「天候によって味が変わるので、毎朝こうやって味見しています」。雨降りの日には優しい味に、好天続きだと、やんちゃな強い味になるのだそう。いくら無農薬栽培とはいえ、赤ん坊のように何でも口に運ぶシェフには驚きを禁じえません。見よう見まねでモグモグする私の隣で、彼は的確に野菜の味の微妙なニュアンスを言い当ててみせました。・・・驚くべき味覚能力。これなら料理人としては鬼に金棒。いや、天狗に金棒か? 

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【Photo】仕入れ(?)中の奥田シェフの真剣な表情。今野さんの畑の脇にある草むらで何やら物色中。近寄ってみると自生するアサツキ(⇒当然仕入れ原価ゼロ!)を採っていた(撮影:2003年8月)

 「オンエアを見てね」という電話が本人からくる以上、番組の感想を伝えるためにチェックせざるをえない奥田シェフを紹介する後発のテレビ番組では、多くの場合、いかにもテレビ受けしそうなモグモグシーンを取り上げているのには笑ってしまいます。最初にに私が驚いたのと同様、取材クルーにとっては、よほどインパクトがあるのでしょう。そうしたテレビや雑誌の取材要請が増えた最近は、当時は何もなかった今野さんの畑のひとつに al.chè-cciano の看板が立つまでになりました。
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 今野さんの畑で野菜を味見しながら組み立ててゆくその日のメニューで、確保できなかった野菜や山菜などを補充するという産直「あねちゃの店」は、同町狩谷野目にある四つ目の畑から車でわずか25秒の至近距離にありました。羽黒山に向かって車で走っている場合は、手書きのヘタウマな看板が掲げられたトタン張り外装というこの店は、ともすると見過ごしてしまいそう。店内に足を踏み入れると、そこは近郊の農家が持ち寄る農薬や化学肥料の力に頼らない露地もの夏野菜であふれ返っています。朝採りの新鮮な葉物が一袋80円、庄内砂丘で栽培されるマスクメロンのなかで、曲がっている、ちょっとしたキズが付いているというだけの一方的な流通・小売サイドの論理で「規格外」という烙印を押された形が不揃いなマスクメロンが4~5個入って一袋800円などなど。
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【Photo】あねちゃの店。野菜の調理法など、判らないことは、何でも店番の"あねちゃ"に聞いてみよう

 民田ナス・沖田ナス・だだちゃ豆などの個性的な夏野菜が所狭しと置かれた店内を物色していると、今野恵子さんの名が付いた野菜も並んでいます。それを買い求めようとすると、先ほど畑でお別れしたばかりのご本人が野菜を手に登場したではありませんか。これぞ産直!!「お代は要らないから持っていって」と仰る今野さん。「(すぐ生えてくる)雑草とのイタチごっこなのよ、今の時期は」と、つい先ほど畑で語られた今野さんの誠実で手間のかかるお仕事振りを見てきた以上、対価をお支払いしないわけにはゆきません。固辞する欲の無い今野さんを傍らに支払った飛びっきり新鮮な葉物二把の代金は160円。申し訳ないような値段でした。

 現在では、仙台在住の私でも「いつもどーもー」と声を掛けられる常連となったこの店。旬には、栽培ものだけでなく、周辺の山が豊かな証(あかし)といえる山採りのさまざまな山菜やキノコが持ち込まれます。山アスパラとも呼ばれる「しおで」【注2】や、天然ものの珍しいキノコも店頭に並ぶこの店のオーナー佐藤典子さんは、シェフにとって知恵袋のような存在です。「あねちゃ」から教えてもらう素材の使い方と、伝統的な調理法も彼の創作イタリアンのヒントになっているようでした。

 店で野菜・山菜類の仕入れを終えて向かったのは、赤い大鳥居が道路を跨いで建つ羽黒山神社へと伸びる道。そこを運転しながらも、シェフの人を煙に巻くような話が続きました。

「(ご神域との境界に建つ)この大鳥居を越えると、土壌が柔らかくガラッと良くなって、作物の出来が違うんですよ」 ⇒〈以下、私の心の声〉ふ~ん、そうなのかぁ。
「この近くの名勝『玉川寺』の庭には、夜な夜な源氏蛍と平家蛍が交互に集まる木があります」 ⇒へぇ~。(眉に唾をつけながら)
「庄内にはミズの道や、野いちごの壁、野カンゾウの沢など、いろんな食材の秘境があるんです」 ⇒どんな秘境だか想像つかんわ!
「なんちゃってトスカーナの丘、なんちゃってアマルフィ海岸、なんちゃってロンバルディア平原だってあります」 ⇒(地名から風景の想像はつくものの)なんのことやら???
などなど。

 そんな奥田節が炸裂するなか、次はいかなる深みへと誘(いざな)われるのか判らぬまま、私は車に揺られていました。感覚をつかさどる右脳を全開にしてもなお???なシェフの話。その整理がつかないまま、霊験あらたかな月山へと車窓から視線を泳がせていました。この後に起こる奇跡のことなど露知らずに・・・。この後に起こったえっ~!!っというミラクルな展開は、いずれご披露します。


【注1】申すまでもなく川端康成の名作、「雪国」の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった」という書き出しを意識している

【注2】イタリア・ヴェネト州では、「Bruscandoliブルスカンドリ」の名で呼ばれ、リゾットで食べられることが多いが、作付け数を減らしており、幻の野菜となりつつある。写真は旧・朝日村(現・鶴岡市)越中山の進藤 亨さんが栽培するシオデ。進藤さんは奥田シェフから依頼されて、特産のヤマブドウを仕込んだ恐らくは日本で唯一の「アチェート・バルサミコ・トラディツィオナーレ」造りに協力している
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