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ローマ2760年の歴史を10分でおさらい

永遠の都2760年の歴史を10分で知る/後編 

 西ローマ帝国滅亡(476年)後のイタリア半島は、シチリアを含む南部をアラブやノルマンの支配下におかれ、ローマ以北はローマ法王庁直轄の教皇領や自治都市国家が群雄割拠する混沌とした状況となります。10世紀以降中世期にかけて、さまざまな民族と封建領主・諸侯による争いが繰り広げられたイタリア半島では、争いで荒廃した地方からの難民が、略奪を避けるために城壁に守られた集落に集まりました。マラリアの原因となる蚊を避けるため、丘の上や外敵の侵入を拒む難攻不落の崖の上に築かれた集落は、やがて都市へ、さらには自治権を持つ都市国家へと発展してゆきます。今もイタリア各地にそうした丘上都市が数多く見られます。
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【Photo】果実味豊かな白ワイン「Orvieto classico オルヴィエート・クラシコ」のブドウ畑の彼方、天然の要害となる崖の上に築かれた Orvieto オルヴィエート。ひときわ大きなイタリアンゴシックの Duomo ドゥオーモ(写真右)は1290年に着工、完成に300年を費やした

 イタリアンゴシックの傑作とされるドゥオーモで知られる"世界一美しい丘上都市"ことウンブリア州 Orvieto オルヴィエートや、エミリア・ロマーニャ州の中にある独立国家、切り立った岩山の上に築かれた San Marino サンマリノ共和国は、そうした丘上都市の典型です。

 そのような成立過程を持つ都市の中で、中世からルネッサンス期にかけての転換点となった15世紀、ヨーロッパでも有数の繁栄を謳歌したのがフィレンツェ共和国でした。金融業で財を成したメディチ家は、コジモ・デ・メディチからロレンツォ・デ・メディチの時代、実質的な町の支配者となります。新・プラトン主義【注1】の理想を掲げたメディチ家の庇護のもと、美術史上でも稀有な才能が集い、ルネサンスが花開いた Firenze フィレンツェ。
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【Photo】「ジョットの鐘楼」の階段414段を攻略する苦行の果てに拝めるフィレンツェのパノラマ。目の前にはブルネレスキが設計した Santa Maria del Fiore サンタ・マリア・デル・フィオーレの別名をもつドゥォーモの天蓋が迫る。鐘楼の登り口のチケット売り場には心臓に問題がある人は登らないように指示がされている

 美術愛好家のみならず世界中から多くの観光客を集める Galleria degli Uffizi ウフィッツィ美術館は、メディチ家が蒐集した膨大な数に及ぶ至高の美術品を収蔵します。Museo di San Marco サンマルコ美術館の階段の先には、大天使ガブリエルがマリアに神の子を宿したことを告げた瞬間の言葉が聞こえてくるかのような静謐な美しさをたたえたフラ・アンジェリコの「受胎告知」が。そしてティッツィアーノの肖像画の傑作「灰色の眼の男」は Galleria Palatina パラティーナ美術館の Sala di Marthe マルスの間であなたを待っています。
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【Photo】身廊にガリレオ【click!】・ミケランジェロ・マッキャベリ・ロッシーニらの墓があることでも知られるサンタ・クローチェ聖堂。内陣右側のバルデイ家礼拝堂にはジョットのフレスコ画「聖フランチェスコの生涯」が描かれている。回廊をめぐるとパッツィ家礼拝堂や付属美術館でロッビア一派による彩色テラコッタ、1966年にアルノ川が氾濫してひどく損傷した「チマブーエの十字架像」などの珠玉の至宝と出合える

 フランスの作家スタンダールが圧倒されたという Basillica di Santa Croce サンタ・クローチェ聖堂をはじめ、透視画法を駆使したマサッチョのフレスコ画「三位一体」が描かれた Basillica di Santa Maria Novella サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂などが立ち並ぶフィレンツェは、いまもなお宝石箱のように美しい街です。しかし、メディチ家が絶頂を迎えていた15世紀は、ヨーロッパ各地で陰惨な魔女狩りが盛んに行われていました。"花の都"フィレンツェも例外ではなく、権謀術数が渦巻く不安定な状況にありました。史上名高い「パッツィ家の陰謀」では、ロレンツォは難を逃れますが、ドゥオーモでのミサ中に弟ジュリアーノ・デ・メディチが暗殺されます(1478年)。修道士サヴォナローラは、メディチ独裁を糾弾して民衆の支持を獲得し、一度はメディチ家追放に成功します(1494年)。しかし厳格な教条主義による神政は次第に支持を失い、異端としてシニョーリア広場で火刑に処されました(1498年)。その時代、チェーザレ・ボルジアは、父であるローマ法王アレッサンドロ6世の権勢を背景に急速に領土を拡大。軍勢を率いてフィレンツェに迫りつつありました(1502-03年)。
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【Photo】夏にはパリオ(地区対抗の競馬)で町中が熱狂する Siena シエナの Piazza del Campo カンポ広場と市庁舎である Palazzo Pubblico プップブリコ宮。100m以上の高さを持つマンジャの塔からは、大パノラマが一望のもと

 フィレンツェ共和国と隣接するSienaシエナとの都市国家同士の領土争いは、ゲルマンによる神聖ローマ帝国成立(962年)後に起こったグエルフィ党(教皇派)とギベリン党(皇帝派)の争いの縮図でもありました。争いの舞台となった両都市の間に位置するChianti地区の銘酒キアンティ・クラシコのシンボル「Gallo Neroガッロ・ネロ」(=黒雄鶏)伝説【注2】や、シェークスピアが古都 Veronaヴェローナを舞台に創作した物語「ロメオとジュリエット」は、両派の対立を背景としており、その副産物といえましょう。

 一方で、地中海交易で栄えた港湾都市国家、VeneziaヴェネツィアやGenovaジェノヴァ、Pisaピサ、Amalfiアマルフィは互いに覇権を競うライバルであり続けたのです。都市国家の集合体であったイタリア半島には、こうしてルネッサンスを経て地方色豊かな文化が各地で醸成されました。質の高い文化遺産が国土にあまねく分散して残るイタリアの比類なき魅力は、こうした万華鏡のような多様性にあるのです。

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【Photo】ナポリ湾に浮かぶカプリ島が間近かに迫るソレントを過ぎ、紺碧のサレルノ湾に面した目のくらむような道を断崖沿いにしばらく進むと9世紀に築かれたアマルフィにたどり着く。現在は人口約1万人の街だが、海上交易で栄えた11世紀には7万もの人々が暮らした。東方からコーヒーやペルシャ絨毯をイタリアに伝えたのはアマルフィだったという。アラブの影響が強い建築様式のDuomoドゥオーモは、南イタリアの強烈な太陽のもとで、かつての栄華を物語る

 スペインやオーストリアによる支配を経て、ナポレオンがポエニ戦争におけるハンニバルに倣ってアルプスを越えてイタリア半島北部へ侵攻(1796年)すると、外国勢力を一掃しようという民族自立の機運が沸き起こりました。祖国の英雄として今も語り継がれるガリバルディが率いたリソルジメント(=イタリア統一運動)によって、サヴォイア家のヴィットリオ・エマヌエレ二世を初代国王に戴く君主制のイタリア王国がトリノを首都に成立(1861年)。これが第二次世界大戦後に成立した現体制のイタリア共和国の原型です。つまり、西ローマ帝国崩壊後1400年に及ぶ混沌とした時代を経てようやく国家として統一されたイタリア、言い換えればイタリアという概念そのものは、145年の歴史しか刻んでいない事を意味します。国家としての体制づくりはまだ途上にあるといってもよいでしょう。こうした歴史的背景が、郷土への強い帰属意識と結束を生み出し、生まれ育った地元を愛する精神風土と、処世術として「コネ」を優先する社会の仕組みを生む大きな要因となりました。

 古代ローマがいち早く属州としたアルプス以南、アペニン以北の地域はGallia Cisalpinaガリア・キサルピーナと呼ばれました【注3】。ポー川が貫流する肥沃な大地の最北西部にトリノは位置します。町の起源は、共和制ローマ時代に属州となったガリア全域のうち、帝政ローマ初代皇帝アウグスグストゥスが、ガリア・キサルピーナをローマ本国に編入して入植を進めたキリスト生誕の時代まで遡ります。11世紀以降、現在のフランス東部ローヌ・アルプ地域のサヴォワ地方から、スイス西部のフランス語圏、そしてピエモンテにかけてサヴォイア公国が成立。サヴォワ出身のサヴォイア家が統治した公国の首都がトリノとされたのが1563年。ローマ時代に築かれた碁盤の目状の町をベースにして、17世紀に整備されたトリノ旧市街は、地理的に近いフランスの雰囲気を漂わせているといわれます。サヴォイア公国・サルディーニャ王国・イタリア王国の首都としての誇り高き歴史を刻んだその町並みは、他のイタリアの都市とは異なる落ち着いた佇まいをみせていました。
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【Photo】ピエモンテロココ様式の傑作「ストゥピニージ宮殿」

 サヴォイア家が17~18世紀にかけて当代の著名な建築家に命じて各所に建てたバロック様式の王宮群は、宮廷文化華やかりし時代の息吹を今に伝えています。その中で最も華麗といわれるストゥピニージ宮殿は町の南端に、そしてサヴォイア家の霊廟があるスペルガ聖堂は、市街中心部から北東約10キロの丘陵の頂に建っています【注4】。イタリア到着の朝、トリノ上空で着陸態勢に入った機上から目にした光輝く雲海に浮かぶスペルガ聖堂は、「Belpaeseベルパエーゼ(=美しき国)」とイタリア人自身が故国を形容することに合点がゆく、神々しく美しい光景でした。取り出したカメラのファインダー越しに望むスペルガ聖堂のシルエットに "che Bella"(=なんてキレイなんだ)と、思わずつぶやく庄内系イタリア人なのでありました。
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【Photo】逆光の中、雲海に浮かんで見えた神々しいスペルガ聖堂

FilE9:「そしてトリノ」へつづく

【注1】芸術にも深い理解があったコジモ・デ・メディチは、「アッカデミア・プラトニカ(プラトン・アカデミー)」と呼ばれる文化サークルをフィレンツェ郊外のカレッジにあるメディチ家の別荘で主宰した。当代の詩人・画家・哲学者など当代の知識人が出入りしたそこでは、古代ギリシアの哲学者プラトンの著作研究を通して、美や神の愛などについて自由闊達な議論がなされたという。彼ら新・プラトン主義者によれば、現世は神の愛によって、神が理想とした範例を具現化したものであった。人間は神への愛、美への一途な愛(=「プラトニック・ラブ」の語源となった)を通して、神に近づくことができ、至福が訪れるとした。この「現実を謳歌せよ」という新・プラトン主義的な思想から、アッカデミアにも出入りしたボッティチェルリの「春」や「ヴィーナスの誕生」といった寓意的な作品が生まれた
    
【注2】フィレンツェとシエナは、50キロほど離れた両都市の間に広がるキアンティ地区の所有をめぐり、争っていた。1208年、その長年に渡る争いに決着をつけようと、勢力圏の境界線を、互いの町のニワトリが時の声を上げたら、おのおの騎士が馬で町を出発し、両者が出合った場所を境界に定めることにした。シエナ側が選んだのは良く肥えた白い雄鶏。フィレンツェは黒い雄鶏を選んだ。一計を案じたフィレンツェ側は雄鶏に餌を与えずにおいた。腹を空かせた雄鶏は、用意が整った騎士の持つ明かりを見るや一声「コケコッコー」。かたやシエナの雄鶏は日の出と共に鳴き声を上げた。そのため、馬上の両騎士が出会ったのは、シエナから10キロしか離れていないCastello di Fonterutoliフォンテルートリ要塞付近【click!】だった。以降、境界はそこと定められ、名醸地キアンティはフィレンツェの所有となった。
        
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【Photo】Chianti classico のブドウ畑と、かつてキアンティクラシコのボトルネックに貼られていたGallo Neroのマーク

1924年に33の生産者たちによって発足した「Consorzio del Marchio Storico-Chianti Classicoキアンティ・クラシコ原産地表示保護協会」はGallo Nero(黒雄鶏)をキアンティ・クラシコのシンボルと定めた。ところが1987年、協会が品質管理を目的とするキアンティ・クラシコ協会と、プロモーションが主目的の黒雄鶏協会に分かれた。後者に加盟しない優れた生産者も多かったため、イタリアワインの呼称と品質規定をD.O.C.G法に定められたキアンティ・クラシコの規定を満たすワインの中で黒雄鶏マークが貼られたものと、そうでないものが混在する状況が生まれた。こうした消費者に混乱を招く状況を打破するため、2005年5月に並立していた協会を「Consorzio del vino Chianti Classicoキアンティ・クラシコ協会」として統一し、デザインを変更した黒雄鶏【click!】が商標ラベルとして採用された。現在の加盟生産者数は600以上で、うち250軒は自社ラベルのワインをリリースしている

【注3】ラテン語で「アルプス山脈の手前側(cis-alpina)のガリア」という意味

【注4】 ストゥピニージ宮殿は、ヴィットリオ・アメデオ2世が建築家フィリポ・ユヴァーラに設計を依頼し1729年に完成した。広大な庭園に囲まれ、サン・タンドレラ(セント・アンドリュース)の十字架をかたどった構造【click!】を持つ。狩猟用の離宮にふさわしく屋根の中央にフランチェスコ・ラダッテ作の雄鹿のモニュメントを戴く。サヴォイア家の城の中では、最も華麗であり、ユヴァーラのロココ建築の傑作とされる。ユヴァーラは、1706年にスペイン継承戦争の際にフランス軍に包囲されながら、トリノ防衛に成功したサヴォイア家のヴィットリオ・アメデオ2世から、聖母マリアに献げる聖堂の設計も任された。着工から14年後の1731年、パンテオンのファサードとバロック様式の聖堂を融合させたとされるスペルガ聖堂の献堂式が執り行われた。ちなみに、幼少時代、胃腸が弱かったヴィットリオ・アメデオ2世のために考案されたのが、スティック状のパン「グリッシーニ」だったという
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