あるもの探しの旅

« La Strada per Torino~トリノへの道 | メイン | ローマ2760年の歴史を10分でおさらい »

ローマ2760年の歴史を10分でおさらい

「永遠の都2760年の歴史を10分で知る/前編」

2003.Ottobre2-14.jpg
PHOTO】中部イタリア・ウンブリア州、聖フランチェスコの故郷 Assisi アッシジで。ウンブリア平原を見渡す聖キアラ聖堂前の広場からは、敬虔な祈りの街に点在する教会のカンパニーレが望める。中央はS.Maria Maggioreサンタマリアマッジョーレ教会

 イタリア人が郷土に抱く愛着は、日本人の感覚では考えられないほど強いものがあります。私たちがピエモンテで滞在したアグリツーリズモ Rupestr のオーナー・Giorgio もそうでした。イタリア人に顕著な「地元が一番!」というこの性向は、Campanilismo カンパニリズモという言葉で表現されます。郷土愛を意味するこの言葉の語源は Campanile カンパニーレ(=鐘楼)であるといわれています。コンスタンティヌスのミラノ勅令(313年)によってキリスト教が公認されて以来、いかなる時代にあってもキリスト教はイタリアの人々を束ねる精神的支柱であり続けました。国民の97%がカトリック教徒であるイタリアには、集落・地区ごとに教会が存在します。生まれて間もなくそこで洗礼を受け、一日の始まりや休日の礼拝のため教会に足を運ぶ彼らにとって、教会は自分の帰属元の象徴です。遠方から望む鐘楼は故郷のランドマークでもあります。その強烈なカンパニリズモをもたらした背景をひも解くと・・・
Barbaresco3.jpg
【PHOTO】地元のピエモンテーゼが世界一美しいと自慢するブドウ畑の風景が広がるピエモンテ州の名醸地Barbarescoバルバレスコで。丘の高みにあるバルバレスコ村のカンパニーレが見渡す限りブドウ畑が広がる丘陵地のアクセントになっていた

 ユリウス・カエサルとアウグストゥスが樹立したパクス・ロマーナのもと、綿々と続くヨーロッパ文明の礎を築いた古代ローマ帝国。紀元100年以降の五賢帝時代には、地中海沿岸のアフリカ大陸とエルベ川・ライン川以西のヨーロッパ全土、更に黒海沿岸からティグリス川を越え、カスピ海・ペルシア湾に及ぶ人類史上類を見ない広大な地域を、ローマ帝国は勢力圏としました。古代ローマ人が築いた高度な土木建築技術と天賦の造形感覚の賜物であるさまざまな建造物は、今もヨーロッパ各地と地中海世界に残ります。私たちは二千年以上の時を経た今日、見事な様式美を持つ人類の遺産として、それらと対峙します。
 
 たとえばサイフォンの原理を使った緻密な計算に基づく三層構造を持つ Pont du Gard ポン・デュ・ガール【click!】(フランス)や Segovia セゴビア【click!】(スペイン)水道橋の威容しかり。【注1】 水源のアペニン山脈付近からローマまで、衛生を考慮して可能な限り地下を通して造られた11もの水路は、最も長いマルキア水道で90km以上に及びます。ローマ市の上水道は、今も建設当時の設備をそのまま使用しているのは有名な話。ローマ市内各所にある噴水の水源もそう。スペイン広場の中央にある Fontana della Barcaccia 船の噴水【click !】は、バロック彫刻の巨匠ベルニーニが1627年に手がけました。この水は白ワインの産地として知られるローマ南部郊外の Frascati フラスカーティから引かれている「ヴィルゴ水道(Aqua Virgo)」のものです。その美味しさはローマっ子も太鼓判を押す美味しさ。海外ではミネラルウォーターを買う場合が多いかと思いますが、ローマを訪れた方はぜひお試しあれ。
 ちなみに、このヴィルゴ水道の終点が、かのFontana di Trevi トレヴィの泉だというのが、ローマの泉に関するトリビアの泉・・・お粗末。
 
 広大な領地の統治には、強力な軍団と兵糧の迅速な移動が不可欠でした。それを可能にした街道網は、"世界の首都"ローマを基点に領地一円で整備されました。軍事目的以外に入植都市を含む域内交流の動脈として活用され、アッピア、アウレリア、エミリアなどの幹線だけで8万キロ、延べ30万キロ・地球8周分にも及ぶ諸街道の石畳には、往来した馬車が残した轍の跡が残り、二千年の時の流れを感じさせます。
appia.jpg
【PHOTO】石畳に轍が刻まれたアッピア街道。どれほどの人がここを行き来したのだろう

 まずはミケランジェロが設計した幾何学模様が施されたカンピドリオ広場に面して現在のローマ市庁舎が建つカンピドリオの丘から、"永遠の都"ローマの歴史をたどる旅を始めましょう。伝承では、狼に育てられた双子【click !】のロムルスとレムスの兄ロムルスが諍(いさか)いによって弟レムスを殺害後、紀元前753年に王位に就いたことが都市ローマの起源とされています。市庁舎を裏手に回ってカンピドリオの高台に立ち、古代ローマ時代に政治の中枢であったフォロ・ロマーノを目にする時、人類の歴史上、他に例を見ない空前の大帝国を築いたイタリア人の祖先が成し遂げた偉業に思いを馳せずにはいられません。
Fororomano.jpg
【PHOTO】カンピドリオの丘、ローマ市庁舎裏手からのフォロ・ロマーノ

 17世紀のフランスの詩人ラ・フォンテーヌの「すべての道はローマに通ず」という有名な言葉は、張り巡らされたローマの街道網を単に意味するのではありません。手段は違っても目的は同じことの例えでも使われます。ローマは異民族の被征服者を蹂躙し駆逐するのではなく、ローマ退役兵の入植による民族同化を進めました。帝政ローマ第二代皇帝ティベリウスは、財政再建のために属州のガリア(現在のフランス)など異民族に対する増税を主張する元老院議員たちに向かって、属州民を羊にたとえて「殺して肉を食べる対象ではなく、毛を刈り取る対象」と考えるべきだ、と喝破したそうです。自国と圏域の安定という最終目的のためには英知をもって常に柔軟であったローマ人の統治手法がその繁栄を支えたのです。

 それでも盛者必衰は歴史の常。第二次ポエニ戦争(BC219~201)のカンネの会戦(BC216)で7万に及ぶ全軍の兵を失う惨敗を喫するなど、ローマが幾度も煮え湯を飲まされた仇敵カルタゴ。ローマ救国の英雄「小スキピオ」ことプブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌス・アフリカヌス(⇒何と長い名前!)は、第三次ポエニ戦争(BC149~146)で名将ハンニバルが率いた仇敵を滅亡に追い込みました。積年の恨みを晴らす徹底的な殺戮と破壊によって灰燼に帰そうとするフェニキア人の都を前にして、小スキピオは感慨を込めてこう語ったと伝えられています―「今われわれは、かつては栄華を誇った帝国の滅亡という、大いなる瞬間に立ち会っている。だが、今私の胸を占めているのは、勝者の喜びではない。いつかは我がローマも、これと同じ時を迎えるであろうという哀切なのだ。」 (塩野七生著「ローマ人の物語」〈新潮社刊〉より引用)

 壮麗な神殿や建築が建ち並んでいた往時の面影を留めずに廃墟となったフォロ・ロマーノや野良猫の棲み家となったコロッセオ。こうしたローマ人が築いた遺跡は世界中から訪れる観光客で溢れかえります。かつては世界の首都といわれた廃墟を、Tシャツ姿で闊歩する現代の観光客の姿に、キケロや小カトーなどの元老院議員がトーガ姿で歩く姿を重ねてみる対比も一興。それには"永遠の都"が暮れなずむ黄昏(たそがれ)時が一番似合うと感じるのは感傷に過ぎるでしょうか。

「永遠の都2000年の歴史を10分で知る/後編」に続く

【注1】古代ローマは租税や兵役を課す代償として、領土一円にさまざまなインフラ整備を行った。ローマの繁栄は卓越した土木技術が支えていた側面もある。当時は日よけの天蓋で覆われていたというドーム球場さながらの巨大な闘技場「コロッセオ」は、地下から猛獣や剣闘士が登場する昇降機すら備えていた。ゲルマニア平定のため、川幅が広く水量も多いライン河に木製の橋を短期間に架けてしまう技術しかり、雨天でも移動ができるよう排水性を確保して石畳で舗装されたローマ街道しかり。わけても1キロ区間で34センチの傾斜を保つよう設計されたローマ水道は、その最たるもの
baner_decobanner.gif


 

コメント

とてもよくローマのことが分かって
楽しかったです!

▼愛麗さん

こんにちは。
 ローマ建国以来2760年の歴史をわずか10分の分量にまとめることなど、ローマ人が成し遂げた偉業に対して失礼千万ですし、無理なことは承知の上で半ば強引にまとめました。

 ここではほんの一部しかご紹介できなかったローマの街には、まだまだ魅力がたくさんあります。ぜひご自身でローマの奥深さに触れてみてくださいね。

Luglio 2018
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

archive.gif

Copyright © KAHOKU SHIMPO PUBLISHING CO.