あるもの探しの旅

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2007/09/30

アグリツーリズモRupestrとの出逢い

トリノからカネッリへ。そこは世界の中心だった

 Agricultura アグリカルトゥーラ(=農業)と Tourismo トゥーリズモ(=観光)の合成語「Agritourismo アグリツーリズモ(=農家民宿)」というイタリアで誕生した宿泊施設の形態は、日本でもすっかりお馴染みになりました。農業と共に観光業が大きな国の収入源となっているイタリア。"国益のために結束して"という大同団結が苦手な国民性が災いしてか、やることがてんでバラバラ。中部以南は冬でも温暖な気候に恵まれ、ユネスコが指定した世界遺産登録数が世界一という歴史・文化遺産などの観光資源には事欠かさないにもかかわらず、それを生かしているとは到底言えません。

 公共交通機関はストライキばかりしているし、観光地として人気が高い都市以外のお店は、休み時間がやたらと長い。そのため、国外からの観光客受け入れ数では、世界第四位に甘んじています。世界一のフランスや二位のスペインなど、プロモーションに長けた国の後塵を拝しているのが現状なのです。そんな国イタリアで、ホスピタリティ(=もてなしの心)の塊が服を着て走り回っている(→歩くのではない)ような一人のイタリア人と出会いました。

 「BUON GIORGIO !ブォン・ジョルジョ!」これがアグリツーリズモ兼リストランテRupestr ルペストゥル」のオーナー、Giorgio Cirio ジョルジョ・チリオ氏と誕生日が1日違いの庄内系イタリア人が交わす朝の怪しい挨拶。ジョルジョも私のこのギャグを気に入ってくれたようで、BUON GIORNO ブォン・ジョルノではなく、ブォン・ジョルジョ! 立派な・善良なジョルジョ)と、ゴキゲンな笑顔で返してくれました。

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【photo】絶品シーフードをたっぷりと堪能したチンクエ・テッレから、爆走の挙句やっとの思いで Rupestr に戻った夜、ジョルジョは夕食を用意して待っていてくれた。「Prego プレーゴ(=どうぞ)」という一言と、その頭のように光り輝く笑顔、そして優しい味付けの心のこもったジョルジョの手料理に疲れが吹き飛んだ。左は心強いナビゲーターとしても活躍してくれたアル・ケッチァーノの若手料理人 佐藤 渓治君

 Terra Madre に招聘されたアル・ケッチァーノ奥田シェフらと共に、トリノからスタートした2006年秋のイタリア訪問。皆で足を運んだリグーリアや後に訪れるトスカーナ、エミリア・ロマーニャなど行く先々で印象に残る多くの出逢いがありました。わけても、私たちのピエモンテでの滞在先となった Asti アスティ県カネッリ郊外の高台 Piancanelli ピアンカネッリに位置するルペストゥルのオーナー、ジョルジョとの出会いを忘れるわけにはゆきません。

 9月から10月にかけては、Rupestr を取り囲む自身のブドウ畑の収穫に追われる多忙な時期。にもかかわらず、私たち一行がイタリア到着早々に豪勢な食事をした CanelliSan Marco Link to Back Number など、リストランテの予約と、ロマーノ・レヴィさんほか、ピエモンテを代表する名醸地 Barbaresco バルバレスコのみならずイタリアワイン界の巨人と目される Angelo Gaja アンジェロ・ガヤや、オーナーのジョルジョ・リベッティ氏も Rupestr を時折ジョルジョのもとを食事に訪れるというLa Spinetta ラ・スピネッタ、Baroloバローロの Luciano Sandrone ルチアーノ・サンドローネといった有名どころのカンティーナ(=ワイン醸造所)など、こちらが希望する訪問先へのセッティングは、全てジョルジョが事前に済ませてくれました。

 Rupestr の常連で盛岡在住の税理士 西川 温子さんを通して、同年8月頃から希望する訪問先を伝えていましたが、その当時は顔が広いジョルジョでも、ロマーノ・レヴィさんとは直接面識が無かったようです。後に知ったのですが、Positive Thinking で常に前向きなジョルジョは、レヴィさんが自身のグラッパ以外に唯一エチケッタのイラストを描いたスプマンテを造る優良カンティーナ「Caudorina カウドリーナ」のオーナー、彼の友人でもあるロマーノ・ドリオッティ氏にレヴィさんとの仲介を頼んでくれていました。偶然にもこの作り手の Asti Supmante は、かねてより私の愛飲アイテムのひとつでした。

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【photo】ブドウ畑に囲まれた Rupestr がエチケッタに描かれた大きなワインボトルが目を引く Rupestr のダイニングルームで。右端が Donna Selvatica が印刷されたエチケッタがチャーミングなロマーノ・ドリオッティ氏の Asti Supmante

 奥田シェフが Rupestr 滞在中、ジョルジョに頼まれて料理を振舞ったガラディナーが催されました。ジョルジョはドリオッティさんをその席に招いていました。私は不覚にもその人とは知らずに、ドリオッティ氏に奥田シェフが作った料理の感想をインタビューしていたのです。人と人はどこかで不思議な縁で繋がっているのですね。イタリアには人同士の繋がりを大切にする風土が色濃く残っており、それは時として偶然を必然に変えてくれます。

 こちらの希望を汲み取りながらも、"おらが地元のコレを食べさせたい、あそこも見せたい"というジョルジョの郷土愛に満ちたオススメの訪問先が、日程の中には必ず織り込まれていました。彼の人的ネットワークをフル活用した先に私達を案内をしながら、「俺の地元は凄いだろ」と顔に書いてあるジョルジョが、私たちと一緒に写真に納まる時は自分がいつも真ん中。「カネッリは Centro del Mondo=世界の中心」が口癖の陽気で気さくなPiemontese ピエモンテーゼ(⇒寡黙で物静かな人が多いピエモンテ人としては、極めて珍種と言ってよい)、ジョルジョのホスピタリティ溢れるお国自慢は、決して"井の中の蛙"的なものではありません。

 魅力ある地方文化が国土にあまねく醸成され、今もそこに息付く「地方が元気な国」イタリアだからこそ、なせる業でもありました。大都市にばかり国家資本が投入される一極集中型で、劇場型政治を地で行く小泉首相が声高に叫ぶ"改革"の美名のもとで地方が切り捨てられているこの国に暮らしていると、両国の違いを痛感させられます。

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【photo】行動を共にしたメンバーと別れ、リグーリア・トスカーナを目指し出発する朝。世界の中心・カネッリで素晴らしい人の輪に囲まれているジョルジョは、最後まで写真の中心に納まるのだった...

疲れた表情をしたそこのあなた、元気をもらいに行きませんか? 誇り高きピエモンテの語り部、ジョルジョのアグリツーリズモへ。

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2007/09/28

平田の赤ねぎ

 江戸幕府の御用商人・河村瑞賢によって開かれた西回り航路の北の基点として、最上川交易の集積地であった湊町・酒田。1893年(明治26)の稼動以来、114年を経た今も庄内米を備蓄する山居倉庫の黒い板壁と、冬の季節風や西日を遮るため明治期に植えられた欅並木が、季節ごと美しいコントラストを見せます。井原西鶴の日本永代蔵で日本海側随一と称えられた酒田の繁栄を支えた商家「三十六人衆」のうち、現存する旧鐙屋(あぶみや)や本間家旧本邸の豪奢な佇まいに、活気に満ちた往時の面影が偲ばれます。

Sankyo_Souko.jpg【Photo】緑したたるケヤキ並木が美しい初夏の山居倉庫

 酒田のみならず、山形県を貫流する最上川沿いには北前船交易の遺産が残ります。小鵜飼舟や一回り大きい艜(ひらた)舟といった小舟で最上川河口の酒田まで運ばれた物資は、そこで大きな千石船に積み替えられ、海路上方へと運ばれてゆきました。江戸期より重要な交易品だった紅花の産地・山形内陸の河北町谷地(やち)には、享保雛や古今雛などの雛人形が、江戸期から明治にかけて紅花商人たちによって上方からもたらされました。これらの雛飾りは、旧暦のひな祭り(4月2日・3日)に公開されています。

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【Photo】享保10年に創業した庄内町の造り酒屋「鯉川酒造」所蔵の江戸末期の雛飾り二対。11代目当主佐藤一良社長のご好意で見せていただいた天保雛cliccca qui と古今雛clicca qui (一般非公開)

 近年では最上川沿いの山形県内各地で、今に残る雛飾りを公開するようになりました。最上川河口に位置する酒田や近郊の鶴岡など、庄内地方でも「庄内ひな街道」と称してその地に伝わる雛人形を春先に公開しています。商家や武家で母から娘へと大切に受け継がれてきた艶(あで)やかな雛人形は、洗練された上方文化の粋を物語る見事なものです。

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【Photo】同上所蔵 甲冑姿の神功皇后(右)と皇后の子・後の応神天皇を抱く武内宿禰(左)(一般非公開)

 江戸末期、酒田から最上川を遡った小鵜飼船が最初に立ち寄る宿場だったのが山形県飽海郡平田町(現 酒田市)飛鳥地区でした。この地で一夜を明かした船頭と商人らは、次の宿場となる川上にある戸沢村 草薙温泉を目指して最上川を再び上って行ったといいます。現在では護岸工事で堤防が築かれたために、当時の船着場の面影はありませんが、集落の名の由来となったと推察される飛鳥神社【注1】 がある現在の集落付近まで当時は最上川が蛇行していました。もとより日本三急流のひとつ最上川のこと。雨による増水はもちろんのこと、日照りによる渇水などで船の航行が困難となることも稀ではなかったはずです。地元の言い伝えによれば、上方よりこの地を訪れた商人が何らかの理由で飛鳥に足止めをくい、その際に美味しい湧き水でもてなされたお礼に、とあるネギの種を置いてゆきました。その種は、最上川北側の水捌けのよい砂を含む肥沃な堆積土壌の飛鳥の地で適応し、川下の砂越地区や西隣の楢橋地区でも代々伝えられてゆきます。

mtchokai.jpg【Photo】堆積土壌の飛鳥地区は水捌けが良く、栽培が難しい赤ねぎの栽培に適しており、休耕田を転用した赤ねぎの畑が広がる。地名の由来となった飛鳥神社は写真右手奥にある。彼方に聳えるのは鳥海山

 それが今回の物語の主役、在来野菜「平田赤ねぎ」です。茎が根本から枝分かれ(=分けつ)しない形状の一本葱で、土寄せをする土中の葉鞘部が鮮やかな赤紫色を呈するのが特徴。強い芳香を放つ平田赤ねぎは、そのまま刻むとシャキシャキとした強いネギ特有の辛味を伴います。加熱すると一転、糖度が 5.9度から 8.1度に上昇、まったりとした甘みが加わります。よって、薬味や鍋料理に使用すると素材の持ち味が活きるネギといえましょう。山形大学農学部 五十嵐 喜治教授の分析によって、赤色部分にアントシアニンやポリフェノールを含むことが判明しています。また、通常の長ネギに比べてビタミンCの含有量が多く、風邪の薬用としても重宝されてきました。

shouhin.jpg【Photo】豊富なアントシアニンによって、茎が赤紫色を呈する平田名産の赤ねぎ。平田赤ねぎ生産組合から出荷されるこの鮮度保持フィルムのパッケージには、赤ねぎの由来が記されている

 通常の長ネギは栽培に要する期間が 6ヵ月(180日間)なのに対し、この赤葱は、収穫までに倍以上の14ヵ月もの長い時間を要します。伝統的な栽培法では、8月から 9月かけて畑に播種(はしゅ)をした後、発芽後の仮植えを経て一年後の夏に分けつした個体を除いて土寄せをして定植。里に雪の便りが届き始める11月から 12月にかけてが収穫の最盛期となります。それだけ手間がかかる露地栽培の赤葱には天候によるリスクが伴うのです。赤葱が栽培される旧平田町の最上川沿いは冬季間、時として猛烈な北西の季節風が吹きつける地域。2005年12月25日に発生したJR羽越線の脱線事故現場は、赤葱の畑が広がる最上川の河川敷とすぐ目と鼻の先にあります。5人の尊い命が失われたあの痛ましい事故の原因は局地的な突風だったといわれている通り、遮蔽物の無い最上川沿いは季節風の通り道となります。この強烈な風に庄内地域特有の霰(あられ)が混じったり、冬場に多く発生する雷と共に雹(ひょう)が降ると、柔らかな葉の部分に黒班ができてしまい、商品価値が失われてしまいます。そのため、食味は優れているものの、ごく最近までは一部の農家の畑で自家用として細々と栽培されてきたに過ぎませんでした。

sig_goto.jpg【Photo】畑で赤葱の説明をして下さった後藤 博 平田赤ねぎ生産組合長

 そんな状況に変化をもたらしたのが、7年前に設立された農産物直売所「めんたま畑」の登場でした。厳冬期を除けば、四季おりおりに多彩な産物に恵まれた庄内地方は、地産地消が盛ん。いわば個性豊かな産直施設の激戦区です。当時、平田町地産地消推進協議会会長だった同町農林課長 前田 茂実 氏(55)が「特色ある農作物を商品化できないか」と相談したのが、県立庄内農業高校の 2年先輩で親しくしていた飛鳥地区の篤農家 後藤 博さん(57)でした。後藤さんはそれまでも河川敷に広がる田んぼの一角にある畑で自家用の赤葱を栽培していました。それまでは転作地で大豆の栽培もしてきましたが、連作障害が出やすく新たな転作作物を模索していた時期でもあったといいます。何とか伝統ある赤葱を特産化できないかと考えた後藤さんは、赤葱の特徴である鮮やかな赤色と太さを備えた葱の種を分けてくれるよう、周辺の農家を一軒ずつ回ったのです。庄内地方は自家採種が盛んな土地柄でしたが、もとより収量が少ない赤葱の種は思うように集まりませんでした。どうにか集まった種で10a ほどの作付けをし、特産化に向けた挑戦を始めました。

saishu.jpg【Photo】今年7月初旬に訪れた後藤さんの畑では、採種用の赤葱のネギ坊主が風に吹かれていた

 まず県の出先機関である庄内酒田農業技術普及課と共に取り組んだのが、およそ14ヶ月を要していた栽培期間の短縮でした。国内で他に赤葱が栽培されている生産地として知られているのは茨城と広島の 2ヶ所のみ。栽培法の研究のために、そのひとつ茨城県東茨城郡桂村(現 城里町)を訪れたりもしました。そこで実践していたのが育苗用のセルトレイに播種してハウス内で栽培する手法だったといいます。この栽培法を取り入れることによって、厳冬期の 2月から 3月にかけて播種した後、仮植えをせずに 4月から 5月にかけて定植。10月以降 12月末に畑が根雪で覆われるまで続く収穫期までの所要期間を およそ 9ヶ月に短縮することができました。しかし、栽培を始めた 2000年から 2002年にかけては、思うような太さに生育しない個体が多く、収量もごくわずか。地元の秋祭りなどで売り出すのがやっとだったといいます。赤葱の命とも言うべき赤の発色が悪く、全く色付かないものも全体の 1割ほど発生。そのため、苦労して育てたネギの大方をトラクターで潰さざるを得なかったのです。

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【Photo】定植後 間もない赤葱。丈は15cmから20cmほど

 そもそも平田の赤ねぎは、「仙台曲がり葱」同様、斜めにネギを定植させる栽培法だったため、湾曲した形状をしていました。めんたま畑では、そうした在来種の姿を伝える「曲がり赤ねぎ」を主に地元向けに扱っています。一方、首都圏などに赤葱を出荷しようとしていた後藤さんらは、大方の流通・小売サイドの「曲がったネギは扱えない」という要請に応えるため、畝(うね)を高く盛り上げて根から茎までを土で覆って、葱の形状をまっすぐにする工夫を加えたのです。更に個別に袋詰めをして、野菜の見栄えを気にする消費者心理に巧み訴えてゆきます。こうして試行錯誤を繰り返しながらも、徐々に手ごたえを感じ始めていた2003年春、赤葱の特産化に向けた町主催の説明会が行われました。後藤さんは、この日集まった平田町一円の農家 12戸と共に、栽培法や販路の確立に向けて「平田赤ねぎ生産組合」を発足させました。世話役だった後藤さんが組合長に推挙されます。それから、以前は大豆を育てていた圃場 30 aで赤葱栽培が本格稼動し始めたのです。そのころ開設 3年目を迎えていた「めんたま畑」組合加盟の生産者 10戸も赤葱栽培に本腰を入れて取り組み始めていました。

brushup.jpg【Photo】収穫の最盛期、畑の近くにある作業場では陽が落ちてもは作業続く。持ち込まれた赤ねぎは一本ずつタオルで磨き上げられた上で、鮮度保持フィルムに包まれ出荷される

 優良種の選抜による改良を加えるなど、関係者の熱意は徐々に実を結んでゆきます。出荷先の首都圏では、平田赤ねぎの優れた食味は市場関係者の高い評価を受けます。通常の長ネギの 3倍近い高値で取引されるにもかかわらず、一度口にした消費者は、必ずリピーターになってくれたといいます(何を隠そう、私もそんな平田赤ねぎファンの一人)。生産者たちにそうした確かな反響が届き始め、2004年に 1.5ha、翌年は 2.5ha、そして昨年は 3haと、作付け面積を徐々に広げてゆきます。柔らかな赤葱を傷付けないよう、収穫の際に必ず手で泥を落とした上で薄皮を風圧で吹き飛ばし、仕上げにタオルでやさしく磨き上げるなど、厳格な品質管理を徹底してきた生産者にとって、作付面積が増えるということは、栽培環境の多様化を意味します。平田赤ねぎの栽培には、地中深くまで水捌けが良い堆積土壌が向いていることが、これまでの経験から明らかになってきました。

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【Photo】更なる品質の向上を図るべく 2006年から組合で始めた交配用ハウス内での赤ねぎ栽培。その管理は組合員からの信頼が厚い後藤さんが任されている

 そのため平田赤ねぎ生産組合では、昨年から平田赤ねぎの特徴を備えた、いわば純血種の平田赤ねぎを再現・普及させようとする試みを始めました。露地栽培では避けられない受粉時の交雑を避けるため、外部と遮断した環境のビニールハウス内で採種用の赤ネギを栽培するのです。先日、実験中のハウスを後藤さんにご案内いただきました。2年目を迎えた今年は、栽培するサンプルの間隔を広げるなど、山形大学農学部 江頭 宏昌准教授の助言を仰ぎながら、葉鞘部の太さと鮮やかな発色を兼ね備えた個体を絞りつつあるとのことでした。そうして固体ごとの特徴を見極め、食味の良い優良種を厳しく選抜しようというのです。加えて強い季節風と地吹雪で飛ばされる霰(あられ)を遮るために、赤葱の栽培期間中、西側の畑に丈が高いトウモロコシを植えた区画を設け、更なる品質の向上を図るとのこと。 7年前、地域をあげて地元農業活性化の切り札にしようと歩み出した平田赤ねぎは、いまだ改良の道半ばにあるようです。

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【Photo】 ある日の我が家の平田赤ねぎ活用簡単メニュー「最強庄内産食材揃い踏み・無敵の豚しゃぶ」 
◆材料:平田産赤ねぎ適量 / 鶴岡市藤島地区 井上農場産 寒い時期が最高に美味しい噛むと畑の水が溢れ出す驚きの小松菜 適量 / 鶴岡市羽黒町産 上品な脂身とキメ細やかな肉質が魅力の山伏豚のバラ肉しゃぶ用薄切り(→しかもアクが出ない!) 適量 ◆つけダレ:しょうゆ / ゴマ油 / ダシ汁 / ニンニクとショウガのみじん切り各適量 ◆お湯 :庄内で汲んだ軟水系の湧き水 ⇒ これより美味しい豚しゃぶがあったら私までご一報を

 産直施設 めんたま畑では、今や赤葱は食味の良さから晩秋から冬場にかけての人気商品として定着しています。県外を含めた市場での高い評価を支える背景には、形状や傷の有無などについて組合が自主的に定めた厳しい出荷基準があります。その際にはじかれた赤葱を有効活用しようと、うどんや煎餅に練りこんだり、甘酢漬けなどの加工品として新たな需要の掘り起こしにも取り組んでいます。2004年から後藤さんが届ける赤葱を使った創作料理を提供している鶴岡市のイタリアンレストラン「アル・ケッチァーノ」のオーナーシェフ奥田 政行さん監修のもと、和洋問わず幅広い料理に活用可能な調味料「赤ねぎROSSO(ロッソ)」の本格販売にもこの秋から取り組むなど、生産者・県・地元自治体・学術研究者・料理人らが一体となって、消費拡大と一層のブランド化を後押ししています。
  
akanegirosso.jpg【Photo】この秋から本格的に販売される万能調味料「赤ねぎROSSO」。ROSSO ロッソ=伊語で「赤」の意。ラベルデザインは鶴岡出身の絵本作家土田義晴氏。平田赤ねぎの旬以外に上記「無敵の豚しゃぶ」をする場合のコク出しにも最適! 130g入り一個840円(税込)

 そんな平田の赤ねぎに心強い後継者が現れました。後藤さんの後輩に当たる庄内農業高校の農業専攻科を今年の春修了した高橋直希さん(21)が、平田赤ねぎ生産組合の仲間に加わったのです。農業後継者の不足は日本の農業生産現場が抱える共通の悩み。高橋さんは、在学中必須の実地研修を自宅のある飛鳥地区で赤葱作りに取り組む後藤さんのもとで12回にわたって受けたといいます。そこで意欲的に生産に取り組む後藤さんたちの姿を見て、自身その輪の中に入って勉強しながらこの道に進もうと思ったのだそう。組合が借りている転作田の一角、30aで高橋さんの赤ねぎ作りが始まっています。

hirataakanegi.jpg【Photo】どうです、この堂々とした千両役者ぶり。生産者や関係者の熱意と創意工夫によって、優良種の選抜が進み、特産化に向けた取り組みを始めて6年を経た昨シーズン。このように見事な赤ねぎが作られるまでになった。鮮やかな緑・白・赤からなるイタリア国旗を連想させるこの配色。前世イタリア人の私にとって非常に親しみが沸くのは当たり前!?

 陽が傾き始めた畑からの去り際、川沿いの堤防の上に立ってみました。背後には滔々(とうとう)とした最上川がキラキラと輝きながら流れてゆきます。目の前には赤葱の緑のじゅうたんが一面に広がります。紅花を積んだ船が往き来した最上川がもたらした一握りの種がこの地で芽吹いてから幾星霜。地元だけで愛されてきた紅差す葱は、今新たな輝きを放ち始めています。その葱が経てきた気の遠くなるような歩みと、厳しい自然の中で代々それを受け継いできた人たちの思いにしばし思いを馳せたのでした。
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【Photo】枯れススキが風に揺れる堤防の上で。左手には最上川が静かに流れてゆく。収穫を待つ赤ねぎの畑が乳白色の靄(もや)に霞んで見えた

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ひらた農産物直売所 めんたま畑 
  山形県酒田市飛鳥字堂之後83-3 TEL:0234-61-7200
  http://bananan.net/mentama/web/

ひらた悠々の杜 アイアイひらた 直売所 (※平田赤ねぎ生産組合 商品取り扱い)
  山形県酒田市山楯字南山32-4 TEL:0234-61-7520
  http://www.aiaihirata.co.jp/top.html
  
平田赤ねぎ生産組合
  【問い合わせ先】庄内みどり農業協同組合 酒田園芸センター TEL0234-23-4124
  http://ja.midorinet.or.jp/
  アドレス toshikazu@ja.midorinet.or.jp

【注1】大和国高市郡(現 奈良県高市郡明日香村大字飛鳥)の飛鳥坐(あすかにます)神社を分詞、8世紀に現在の社殿が建つ地に勧請したのが起源とされる。興味深いことに、奈良県明日香村には「平田」という地名が存在する。彼の地を訪れたことがある後藤さんによれば、飛鳥坐神社の四祭神のうち、三つまでが平田の飛鳥神社と同じだったという。また、奈良県明日香地方では明治初期までは赤葱が作られていたという資料が存在する。これは、当時から奈良と平田地区との間に何らかの交流があった証拠ではないか?というのだ。だとすれば、北前船の時代よりも遥か以前から平田地区で赤ねぎが育てられていた可能性も出てくる。 さて真相は?

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2007/09/11

甘~い生活の始まり

これぞDOLCE VITA 甘い生活

 イタリアの朝は、甘美に始まります。

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【photo】ピエモンテ州 Canelli カネッリ郊外のアグリツーリズモ(=農家民宿) Rupestr ルペストゥルの朝ごはん

 ダイニングテーブルの上に用意されるのは、Rupestr オーナーお手製のサクサクしたビスケット類が山盛り。加えて自家製のサクランボ・モモ・イチジク・マルメロなどの Marmellata マルメラータ(=ジャム)が添えられます。これは「ごはん」というより、日本人の感覚で表現すると、ほとんど「3時のおやつ」(爆)。

 朝から元気全開のオーナー、ジョルジョ・チリオ氏が大きな声で「Buongiorno!」の挨拶とともに大きめのコーヒーカップでカフェラッテをサーブしてくれます。その温かなカフェラッテに入れるのは、レモンの絵が手描きされたシュガーポットの砂糖をスプーンで2杯。

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 ひんやりとした秋の空気が心地良いピエモンテの朝。窓の外は乳白色の朝もやに包まれた Rupestr の色付いたブドウ畑。北の彼方にはヨーロッパアルプスの白い山並み。日常の喧騒とかけ離れたゆったりとした時間が流れてゆきます。 あぁ、シ・ア・ワ・セ。

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2007/09/10

アモーレ・カンターレ・マンジャーレ?

異議あり!! ニッポン人のイタリア人観

アモーレ・カンターレ・マンジャーレの国」。イタリアという国を形容するお馴染みのこの言い回し。ひょっとして鵜呑みにしていませんか?

 日本で発行されるイタリア観光のガイドブックには必ず「イタリアはアモーレ・カンターレ・マンジャーレの国」と記載されている。よって大方の日本人は、イタリア人が常に恋愛にうつつを抜かし、陽気に「オオ・ソレ・ミオ」を歌い、食べることが生き甲斐だと思い込んでいる ― と当事者であるイタリアでは半ば呆れたニュアンスで紹介されていることは、日本では全く知られていません。

napoliamore.jpg【PHOTO】ヴェズービオ火山とナポリ湾、そしてNapoli ナポリ市街を一望する「 Posillipo ポジリポの丘」で。"ナポリを見て死ね"といわれる絶景に見とれていると、目の前の広場では美しい風景そっちのけで延々とカップルが熱く抱擁中

 確かに南イタリアの有名な観光地カプリ島にある「青の洞窟」を訪れた際、乗り込んだ手漕ぎボートの60歳はとうに越えていると思われる船頭は、私の目の前で「Beautiful, I love you」と私の妻をずっと口説いていたし(苦笑)、歴史上名高いプレイボーイの代名詞 G・カサノバはヴェネツィア出身、チョイ悪オヤジの代名詞 P・ジローラモはナポリ出身です。菰(こも)被りのワインを飲みながらワイワイ鼻歌交じりで楽しく食事に興じるイタリア人という日本人が思い描くイメージは間違っているのでしょうか。 
 
 今年2007年が没後30年にあたる名ソプラノ、マリア・カラスが幾度も演じたプッチーニのオペラ「Tosca トスカ」第二幕でトスカが歌うアリア「Vissi d'arte,vissi d'amore 」の邦題「歌に生き、恋に生き」を連想させる「Amore 愛して、Cantare 歌って、Mangiare 食べて」というステレオタイプな日本特有のイタリアへの先入観。私見ですが、この背景には、働き者で生真面目な日本人のイタリアへの憧憬とその裏返しの感情が入り混じっているように思われます。

 この言葉が本国を含めて万国共通の言い回しなのか。いつどういう形で日本で使われるようになったのかを、前世イタリア人の名誉にかけて?在東京イタリア大使館の文化部が主宰する「イタリア文化会館」に問い合わせました。数日後に戻ってきた回答によると、本国イタリアやその他の国では全く使用されず日本に特有の表現であること。このフレーズに関する資料が存在せず(⇒当然だろう)、語源は不明であるが、推測では日本の観光業界が発信元ではないか?とのことでした。「え~? ウッソー!」と思われた方は、検索エンジンで "Amore Cantare Mangiare" とイタリア語表記で入力した上で、このフレーズを並列で扱っているWebサイトを探してみて下さい。この言い回しが、日本語のサイトに限定されることがお判り頂けるはずです。

 新興国アメリカの黒船来訪により鎖国を解き、急速な近代国家建設を推進した明治初頭。日本は憲法や軍隊・教育制度など国家の基盤造りの規範をプロイセンやイギリス・フランスに求めました。その準備のため1871年からおよそ2年をかけて西欧諸国を視察した岩倉使節団は、25日間イタリア各地にも滞在しています。東洋から訪れた一行に対し、権威ぶらないイタリア人と美術工芸品の素晴らしさと出会いつつ、ローマを訪れた一行は、西欧文化の源泉がそこにあることを見抜いています。しかし1861年に統一国家となったばかりのイタリアは、社会体制の未整備ゆえに近代国家を目指した当時の日本の指導層にとって、規範とすべき国から外れたのです。その後1990年代になって、ようやくイタリアの魅力が広く日本で注目されるまでには、長い時間を要すことになります。

 ここで興味深いデータをご紹介しましょう。社会経済生産性本部が'06年12月に発表した「労働生産性の国際比較2006年版」によれば、イタリアの2004年の名目国内総生産(GDP)と労働生産性(単位時間あたりの労働がどれだけの価値を生んだかの指数)は、どちらも世界第7位。ちなみに日本はそれぞれ2位と19位。関連データで、年間労働時間を比較すると、日本が1812時間、イタリアは1482時間。数値上では労働時間が短いイタリアのほうが、日本より生産性が高いということです。実際、イタリア人の朝は早く、特に午前中の彼らの仕事への集中ぶりには目を見張るものがあります。デザイン性、希少性など付加価値が高い MADE IN ITALY 製品を生み出すイタリアの面目躍如といったところでしょう。

 かたや有給休暇など眼中になく、責任感が強い企業戦士が残業に精を出す脇で、同僚に気兼ねしてかズルズルと会社に居残るオンとオフが曖昧な国。かたや年間最大のイベントというべき夏の Vacanza バカンスで、一カ月近く(⇒最近都市部ではヴァカンツァが短縮傾向にあり、せいぜい2~3週間だというが、それでも長い!)海辺に滞在し日焼けに精を出すため【注1】、一生懸命仕事をするオンとオフの切り替えがはっきりした国。

bologna-spacca.jpg 【PHOTO】美食の都として名高い Bologna ボローニャ。町の中心 Piazza Maggiore マッジョーレ広場の東側の露地には、生鮮品から食肉加工品・チーズ・トルテリーニなどのパスタ類に至るまで、この町の胃袋とも言うべき食料品店やトラットリアなどが立ち並ぶ

 たとえば...仕事の後も会社の同僚と居酒屋や焼き鳥屋になだれ込み、ネクタイを鉢巻にしてしたたか酔いつぶれるまで焼酎を傾けつつ、酒席は無礼講とばかり会社や上司の悪口を並び立てるのがストレス発散。お互いに次の日には何を言ったか記憶を定かにせぬよう、いわば「酔った者勝ち」が人間関係円満のコツ?という日本。そして一方は、仕事の後は気のおけぬ友人や家族と一緒の時間をトラットリアやオステリアでVinoヴィーノを傾けつつ、悲喜こもごもの日常の出来事や、いい加減なお役所仕事の悪口など、てんでに並び立てるのがストレス発散。お互いに自分の話に夢中になるので酒に飲まれることはないが、相手の話はロクに聞いていないので、話にも飲まれない。いわば「言った者勝ち」が人間関係円満のコツ?というイタリア。
 
 いささかシニカルな表現になってしまいましたが、社会制度や文化の違いといえばそれまででしょうか。いずれにしても今日から短絡的にイタリア人をアモーレ・カンターレ・マンジャーレの色眼鏡でひと括りにするのはやめましょうね。


【注1】紫外線が肌に与えるダメージが知られるようになり、イタリア国営放送 RAI で UV ケアの必要性を紹介するようになった近年でも、小麦色の肌はイタリア人のステータスであることに変わりは無い。強い日差しが降り注ぐビーチで真っ黒に日焼けすることが、余裕のある暮らしぶりを物語る証なのだ。それが女性の場合でもヴァカンツァ明けのイタリア人同士の話題は、いかに相手の日焼けした肌を褒めるかから始まる。その次は留守中に空き巣に入られた話かもしれないのがイタリアらしいところ

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2007/09/02

Bar バール

「Bar バー」じゃないのよ「Bar バール」は

 わが国のコーヒー消費量は'80年代に緑茶を追い抜き、現在も増加を続けています。一方でオーナーの個性を反映した個人経営の喫茶店は、'81年をピークに徐々に姿を消してゆきました。これは低価格のコーヒーを提供する全国チェーンが増えていった時期と符合します。

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【Photo】イタリアの街角に溶け込むBARの看板

 米国シアトルで'71年に創業以来、北米以外では初の海外進出を果たしたスターバックスが、東京銀座に日本一号店を開店したのが'96年。以降、通称「スタバ」は瞬く間に日本中に広まり、昨年日本国内の店舗数が600軒を突破しました。スターバックスの急成長は、現会長兼最高国際戦略責任者のハワード・シュルツ氏が、出張先のミラノで立ち寄った Bar バールがヒントになっています。そこで出されたエスプレッソに代表されるイタリアのコーヒー文化に感銘を受けたシュルツ氏は、'84年にバールスタイルを取り入れた店舗をシアトルに開業させています。

ipa_tazza.jpg【Photo】Milano の陶器メーカー「ipa」がスタバとコラボしたイタリアの都市シリーズのデミタスカップ ROMA AMOR(=イタリア語の回文でローマ・愛 の意。ローマは愛の街だった?)とVENEZIA。【clicca qui】。肉厚で重みがあり、家庭用のエスプレッソ・マシーンでカッフェを抽出する際に重宝する

 スターバックスが米国で産声を上げた年、同じく北米大陸以外への初展開となった一号店を東京銀座にオープンさせたのが、マクドナルドです。世界を席巻するマクドナルドとスターバックスが最初に海外への足がかりとしたのが日本だったことは象徴的です。農業大国でもあるアメリカ食産業のグローバル戦略を、日本は積極的に受け入れてきたのです。増殖著しいスターバックスですが、手本とした本家本元のイタリアには、いまだ上陸を果たしていません。日本同様にアメリカ文化に対しては比較的寛容なイタリア人ですが、自国の食文化については非常に保守的。節操のない日本とは好対照に映ります。

 いまなおスターバックスが進出していないイタリアのコーヒー文化は、Barバールを抜きには語れません。イタリア全土のバールはおよそ16万軒といわれます。そこかしこにある"Bar"の看板を見て「なーんだ、飲み屋ばっかりじゃないか」なんて思っちゃいけません。スペルは同じでも、イタリアのそれは日本で言うところのBar=バーとは全く趣を異にします。そこは甘いパンとカップチーノのイタリア式朝食の場として、仕事の息抜きの場として、イタリア人が大好きなおしゃべりに興じる情報交換の場として、馴染みのバールはイタリア人の一日に欠かせない存在です。

signromabar.jpg【Photo】イタリア人の生活にBARは欠かせない存在

 旅行者にとっては、トイレを借りたり、ミネラルウォーターをテイクアウトする際にもバールは重宝します。レストランの形態同様、一口にバールといってもさまざま。パニーニなどの軽食を出す店もあれば、しっかりとした食事(⇒作り置き惣菜の場合が多い)を取れる店、Gelateria ジェラテリア(=ジェラート店)や Pasticceria パスティチェリア(=ケーキ店)を兼ねるバールもあります。日中に出される飲み物がコーヒー類だけでも、夕方以降はアルコールも扱うケースが多いようです。皮肉なことに日本ではスターバックスの出店によってその名が認知されつつある「バリスタ」とは、バールでエスプレッソマシンを操作する店員 「Barista 」から名付けられたものです。本家筋のイタリアでは、カクテルなどのアルコールを扱える職能も上記の理由でバリスタに求められます。

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 イタリア人に言わせると、カラメルを加えたりするアレンジカフェを得意とするシアトル系カフェのエスプレッソは、まがい物となります。日本にいながらイタリアに近い雰囲気やメニューをお望みなら、美食の街ボローニャで誕生した「Segafredo Zanetti セガフレード・ザネッティ【clicca qui】」はいかがでしょう。同社は本国イタリアをはじめ、ヨーロッパ諸国・北米・南米各国のほか東京周辺でコーヒーショップを展開中です。トリノに本社を構えるイタリア最大のシェアを持つコーヒーブランド「LAVAZZA ラヴァッツァ」や「illy イリー」も東京には進出しているので、シアトル系カフェとの違いを確かめるのも一興。しかし、それらもBanco バンコ(=カウンター)で立ち飲みするのが主流のイタリアのバールとは雰囲気が違うことも確かです。

 エスプレッソとは似て非なるコーヒーの氾濫に危機感を募らせたイタリア国内のコーヒー豆や関連機材の製造業者・組合らが、イタリアで飲まれているスタイルのエスプレッソの保護と啓蒙を目的として「Istituto Nazionale Espresso Italiano イタリア・エスプレッソ協会」を1998年に設立しました。協会では一定の技能を備えたバリスタの認証制度や国内外での講習会などを実施しています。こうした自国の伝統を墨守しようというイタリア人の気概が世界に冠たるイタリアの食文化を支えているのです。エスプレッソ同様に世界中に広まったピッツァ発祥の地ナポリで1984年に発足した「Associazione Verace Pizza Napoletana 真のナポリピッツァ協会」しかり。ローマのスぺイン広場にマクドナルドのイタリア第一号店がオープンしようとした1986年、イタリア上陸を阻止しようとピエモンテ州 Bra ブラで発足したスローフード協会誕生の経緯もまたしかり。どうやらスターバックスのイタリア上陸作戦は容易ではなさそうです。

barista-doro.jpg【Photo】Cassaで支払いを済ませた客が持ってくるレシートをさっと一瞥、湯煎したカップに鮮やかなマシン操作でカッフェを淹れる Tazza d'Oro のクールなバリスタ

 オーナーのオヤジさんやお姉さんが一切を切り盛りしているバールもありますが、大きな町のバールでは、まず Cassa (=レジ)で注文・先払いするのがイタリア式。レシートをBanco に持って行くと、バリスタが手際よくコーヒーを淹れてくれます。イタリアでは単に「カッフェ」とバリスタにオーダーすれば、エスプレッソが出てきます。」 【注1】都市部のバールでは、立ち飲みが普通。テーブル席があるバールもありますが、大方の場合、値段は立ち飲みよりも高く設定されています。ただし地方のバールでは必ずしもそうとは限りません。

 多様性の国イタリアでは、バールで飲むエスプレッソの味にも地域性が表れます。北部では豆の焙煎が南部に比べると浅く、4~5口で飲み干せる量。それが南へ向かうにつれて量が少なくなり、ナポリ以南では厚めのカップの底に申し訳程度に入っているかのよう。焙煎がぐっと深くなる上、凝縮度も増してゆくのがわかります。少なくともスプーン2杯は砂糖を加えてカッフェを攪拌し、ちびちびとではなくクイッと飲み干すのがイタリア式の粋な飲み方。私も本格的なエスプレッソには必ず砂糖を入れるようにしています。そのほうが苦味に柔らかさが加わり、美味しくカッフェを飲むことができます。

【Photo】Pantheon パンテオン(写真奥)がある Piazza della Rotonda ロトンダ広場から少し陰に入ったところにあるTazza d'Oroタッツァ・ドーロ

pantheonecaffe.jpg  私がイタリアで飲んだ数あるカッフェの中で最も感動したのは、ローマのパンテオン近くにあるバール「Tazza d'Oro タッツァ・ドーロ」のエスプレッソとカプチーノでした。 【注2】天才画家ラファエロや初代イタリア国王ヴィットリオ・エマヌエレ二世の墓所でもあるパンテオン。建築史の奇蹟といわれるローマ時代の遺構そのままのクーポラに穿たれた天窓から光射す静謐な空間を味わうため、観光客でごった返す前を狙って早朝に訪れたパンテオンの扉は未だ閉ざされたまま。係員に確認した入場開始時刻の8 時半まで時間を過ごすために立ち寄ったのが Tazza d'Oro でした。8 時前というのに、すでにBanco では常連と思しき数名が、カッフェを飲みながら思い思いの時間を過ごしています。

caffetazzadoro.jpg  湯煎したデミタスカップで出されたエスプレッソは、表面を厚い褐色のクレマ(泡)で覆われ、キメの細かなクレマの上にグラニュー糖を加えても一向に沈む気配を見せません。おぉ、さすがはローマ一との呼び声高い店のカッフェ。芳醇なエスプレッソの香りを閉じ込める見事なバリスタの技です。深煎り豆特有の甘味と雑味のない苦さの絶妙なマッチングが華やかなアロマとあいまって、口腔から鼻を豊かに満たしてゆきます。そのあまりの美味しさに、パンテオンを訪れた後、再びカプチーノを飲みに立ち寄った次第。

cappucino-doro.jpg 「また来たのか」と顔に書いてあるバリスタが鮮やかな手つきでいれたふんわりとしたフォームドミルクと絶品エスプレッソが織り成すカプチーノには再びやられました。ここはオススメです。パンテオンの目の前という場所柄、私のような観光客も見かけますが、地元ローマっ子がふらっと立ち寄り、新聞を読みながらさっと一杯引っかけて店を後にしてゆきます。自家焙煎のコーヒー豆にも定評があり、自宅で楽しむために豆を買い求める客も多い名店です。私も土産用に豆を買い求めたのは申すまでもありません。

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Tazza d'Oro タッツァ・ドーロ
  Via degli Orfani, 84 (Pantheon) - 00186 Roma
  http://www.tazzadorocoffeeshop.com/

【注1】カプチーノは朝しか飲まない。食後の一杯はエスプレッソに限る。これがイタリア人の常識。観光客が多い大都市ではそうでもないが、小さな町のトラットリアやバールで食後や昼時間帯以降にカップチーノを頼むとカメリエーレやバリスタに変な顔をされるかも?

【注2】Tazza d'Oro のカッフェに感銘を受け、バリスタを志したというのが仙台市泉区桂にあるカフェ兼自家焙煎コーヒー豆店「Bal Musette バル ミュゼット」のオーナー川口千秋氏。Tazza d'Oro と 同じ "La Casa del Caffé"(=カッフェの館)を名乗る川口氏の店。エスプレッソとカップチーノ用スチームに専用の加熱機能を備えた"ダブルボイラー方式"を採用するフィレンツェ製の至高のエスプレッソ・マシン「La Marzocco ラ・マルゾッコ」を操作して、とろけるようなフォームドミルクで覆われたコクのあるカップチーノ(テーブル着席料金¥500 /Banco立ち飲み料金¥320)を飲ませてくれる
       sig.kawaguchi.jpg tazzart.jpg
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Bal Musette バル ミュゼット
  仙台市泉区桂 4-5-2 TEL&FAX 022(371)7888
  11:00~22:00(日祝~19:00)木曜定休
  URL:http://www.bal-musette.com/index.html

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