あるもの探しの旅

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2008/03/30

春の雪

「わた雪」は春の淡雪さながら

 東京ではソメイヨシノが満開だという便りが伝わる弥生3月も残すところあと僅かとなりました。とはいえ仙台では冬の名残りの寒い日がここ数日続いています。そんな三寒四温の季節にふさわしい酒を頂きました。

 旧奥州街道を仙台から北に向かって二つ目の宿場町が「富谷宿」。1618年(元和4年)の開宿以降、宿場町の事務・治安管理を任された町役人「検断」を代々勤めたのが内ヶ崎家です。1661年(寛文元年)に内ヶ崎作右衛門が創業したのが「内ヶ崎酒造店」。今年で347年目を迎える宮城県内随一の長い歴史を刻む蔵元です。本家筋の儀左衛門は代々造り酒屋を営んできました。

uchigasakiwatayuki.jpg 

 酒の仕込みが行われる季節限定でほんの僅かの本数だけ作られている酒が純米吟醸 鳳陽「わた雪」です。"作られている"と言ってはみたものの、正確には、この酒は作ろうという意図のもとで確実に醸せる酒ではありません。吟醸クラス以上の高級酒用に磨いた酒米を仕込んだ醪(もろみ)を酒粕と酒に分離させる上槽の際、槽(ふね)で搾ったばかりの新酒にはわずかに濁り成分が含まれます。酵母が分解した米と酵母の残滓からなる澱(おり)は、やがてタンク内に沈殿してゆきます。澱の量は搾ってみなければわからず、ほとんどオリが出ない場合もあるのだといいます。そのため、もともと希少な吟醸用タンクから四合瓶で10本もとれないことがほとんどで、極めて希少な酒といえるでしょう。

 今回は、蔵元の妹・内ヶ崎みちさんのご好意で、希少な酒を2本確保できました。バックラベルには精米率45%とあるので、大吟醸クラスの醪から搾ったものです。一本は"袖の下"として店に寄贈した上で、美味しい料理と共にせっかくの美酒を楽しもうと友人と画策。そんなワガママを聞いてくれたのが、仙台のイタリアン「Francesca フランチェスカ」のオーナー鳥山さんでした。パスタとピッツァだけではない良質なイタリア料理の真髄を豊富なラインナップのワインと共に提供していた「Vino il Salotto ヴィーノ・イル・サロット」を一旦閉店。充電期間を経て昨年10月に開店したフランチェスカでは、仙台から青森・津軽までのおよそ310km もの移動を全く厭わせない本場と見まごう完成度のFormaggio(=チーズ)やProsciutto(=生ハム)をはじめとする絶品の"自給自足イタリアン"を食べさせてくれる弘前の「Osteria Enoteca Da Sasino オステリア・エノテカ・ダ・サスィーノ」笹森シェフのもとで修行した原田シェフが腕を揮っています。

 魚介中心に料理はお任せ。繊細な味付けのイタリア料理と鳳陽 わた雪を共に楽しみました。蔵元では、わた雪を「うすにごり」と規定していますが、ワインクーラーで冷やしたわた雪の瓶を静かに揺らしてみると、にごりが思いのほか強いように映ります。火入れ前で酵母が生きているため、watayukibiccheri.jpg 瓶詰め後10日以内に飲み切らなければならないという点も春の淡雪を連想させますね。口に含むと、まず軽く炭酸ガスを感じます。大吟醸もろみの繊細な透き通った甘さが口腔に広がり、ピチピチとした発泡感とともに心地よい余韻を残します。それが消え行くさまは、まさしく春の雪。

 その夜、自宅に持ち帰ったグラス一杯分のわた雪を飲み直しました。日持ちがしない淡雪のような酒だけに、早く飲み切ったほうが良いはずと、ほろ酔いの頭で考えたからです。ヴェネツィアン・グラスの明かりにわた雪をかざしながら改めて一口。
「うまっ!」と、思わずつぶやくのでした。


純米吟醸 鳳陽「わた雪」 
※期間限定・電話注文のみ
問:合資会社 内ヶ崎酒造店 TEL022-358-2026

  http://uchigasaki.com/H20feb.html

 

 

2008/03/23

グレートヴィンテージ・1990年のキアンティ

Castello di Ama の希少なクリュワイン

 無類の旨さとコストパフォーマンスを兼ね備えた庄内・羽黒産「山伏豚」を使った自家製ラグーソースのラザニアを作った週末。"そろそろ飲み頃かな?"とワインセラーから取り出したのがCastello di Ama カステッロ・ディ・アーマ Chianti Classico Vigneto Bellavista キアンティ・クラシコ・ヴィネート・ベッラヴィスタ1990。中部イタリア・トスカーナ州キアンティ・クラシコ地区南東部「Gaiole in Chianti ガイオーレ・イン・キアンティ」産のヴィーノです。1990年はヨーロッパ全域で気候に恵まれ、健全なブドウが収穫されて素晴らしいワインが生まれた年。そのため、世のワインラヴァーたちにとっては、期待度の高いヴィンテージでもあります。

autumnoama.jpg【Photo】標高600m前後の照葉樹が生い茂る丘陵「Collioコッリオ」に覆われたキアンティ・クラシコ南部。その一角の高台にあるCastello di Amaからの眺め。収穫を待つ黄金色のブドウと青緑のオリーブのBellavista(=美しい眺め)


 世界中で最も名が知られたイタリアワインといえば、中部トスカーナ州のChianti キアンティか北イタリア・ピエモンテ州のBarolo バローロを挙げる方が多いかと思われます。多産な白ワインSoave ソアーヴェとともに日本に最も早く紹介されたイタリアワインのひとつが、トウモロコシの皮から作った菰(こも)被りのフィアスコボトルに入ったキアンティでした。1865年にガラス職人のPaolo Caprai パオロ・カプライが生み出したフィアスコボトルをワインにいち早く使用したのは、Adolfo Laborel Melini アドルフォ・ラボレル・メリーニ(1848-1920)が創業したカンティーナ「Melini メリーニ」です。輸送に適したフィアスコボトルで一世を風靡した素朴なキアンティも、今では菰を藁づと状に被せる職人が少なくなったため、観光地の土産物店以外では、イタリアでもほとんど見ることが無くなりました。品質向上の足かせとなっていた「白ブドウを混醸しても良い」という旧時代的な法規が2006年産から撤廃される以前から、villaama.jpgトスカーナ原産とされる「Sangiovese サンジョヴェーゼ」や「Canaiolo カナイオーロ」といった黒ブドウだけで作るしっかりとした体躯を備えたキアンティを作っていた生産者が存在しました。

【Photo】平均海抜480mの丘陵に広がるCastello di Ama のブドウ畑は粘土質と石灰岩・泥炭岩からなる

 一口にキアンティと言っても、リリース時点で1,000円前後の若飲みに向いた軽いものから、1万5,000円以上する長熟タイプのヴィーノまで、酒質はさまざま。その産地 は州北西側のティレニア海に近い平坦なPisa ピサの南「colli Pisane コッリ・ピサーネ」から、フィレンツェの南東側で主にエレガントなタイプのヴィーノを産する「colli Fiorentini コッリ・フィオレンティーニ」と、その北東側アペニン山脈が迫る標高が高い「Rufina ルフィーナ」を経由してArezzo アレッツォの西「colli Aretini コッリ・アレティーニ」、さらに南部Siena シエナ・Montalcino モンタルチーノ・San Gimignano サン・ジミニャーノ周辺の「colli Senesi コッリ・セネージ」などの広大なエリアが含まれます。さらに作り手によっては、26ヶ月以上という長い法定熟成期間を経てリリースする「Riserva リゼルヴァ」を作っており、ヴィンテージによっては20年以上の長期熟成に耐える偉大なヴィーノとなります。
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【Photo】13世紀の建造とされるCastello di Ama のセラーには、仏アリエ産やスロヴェニア産のバリック樽が整然と並ぶ。Chianti Classico Vigneto Bellavista は新樽80%、前年使用した樽を20%の割合で14ヶ月熟成。良年のみの生産

 生産者数が多いだけに多種多様なキアンティにあって、優れた品質のヴィーノを産出することで知られるのが、キアンティ地方の中心部にあたる「Chianti Classico キアンティ・クラシコ」です。樫や栗などの照葉樹が生い茂る標高600m前後の「Collioコッリオ」と呼ばれる丘陵に覆われた「Monti del Chianti(=『キアンティの山々』の意)」西側の内陸一帯およそ7万haがキアンティ・クラシコの産出地となります。北から「Greve in Chianti グレーヴェ・イン・キアンティ」、「Radda in Chianti ラッダ・イン・キアンティ」、「Castellina in Chianti カステッリーナ・イン・キアンティ」、「Gaiole in Chianti ガイオーレ・イン・キアンティ」などに産地が分かれています。これらの銘醸地を訪れると、思いのほか山間地にブドウ畑が広がっていることに軽い驚きを覚えるかもしれません。周辺の野山には野生のCinghiale(=イノシシ)が数多くCINGHIALE.jpg棲息しており、プロシュットに加工されたり、パスタ料理のラグーに使用されたりします。キアンティ・クラシコはそうしたトスカーナ料理と抜群の相性を発揮します。ほとんどが足の便が悪い立地となるカンティーナ(=醸造元)巡りには、何といっても小回りが利く車が一番です。これらのクラシコゾーン以外では、Chianti Rufina で長期熟成に耐える赤ワインが作られています。

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【上Photo】トウモロコシをくわえたイノシシが店頭に立つ土産物屋にはフィアスコボトルのヴィーノがズラリ。Chianti colli Senesi キアンティ・コッリ・セネージに含まれるSan Gimignano サン・ジミニャーノで

【右Photo】Bellavista の区画最上部3.8haほどの一角で栽培されるCastello di Ama のメルロ。1982年に栽培を始めたメルロは、畑(クリュ)指定のキアンティ「La Casuccia ラ・カズッチャ」とクリュ指定ではないキアンティ・クラシコにブレンドされる以外の最良のものが、カルトワイン「Vigna l'Apparita」としてリリースされる

 クラシコゾーンの南に位置するガイオーレ・イン・キアンティは、一般にボディのしっかりしたワインに仕上がります。以前にご紹介した「Capannelle カパネッレ」や「San Giusto a Rentennano サン・ジュースト・ア・レンテナーノ」に加え、「Barone Ricasoli バローネ・リカソリ」、「Badia a Coltibuono バーディア・ア・コルティブオーノ」、「Riecine リエチーネ」などの優良生産者がひしめく地域です。そのひとつが今回開けたChianti Classico Vigneto Bellavista を生産する「Castello di Ama カステッロ・ディ・アーマ」です。1972年、当時は住む人もなく荒廃しきったAma 村に4人のローマ在住の実業家が200haの土地を購入しました。ボルドーのシャトー・ムートン・ロートシルトで醸造責任者を務めたパトリック・レオンを迎え入れ、ブドウとオリーブの栽培を始めたのがカンティーナの始まりです。1982年、二代目エノロゴとしてスカウトされたMarco Pallanti マルコ・パッランティの手腕が世のワインラヴァーを驚かせたのが、'91年に行われたブラインド・テイスティングで、メルロー100%からなる「Vigna l'Apparita ヴィーニャ・ラッパリータ」'87(→オフヴィンテージである)が、ボルドーの最高峰メルロー「ch Petrus シャトー・ペトリュス」の優良ヴィンテージ'88を破ったことでした。後にトスカーナでは、他の作り手が「Redigaffi レディガッフィ」pallantielorenza.jpgや「Masseto マッセト」、「Messorio メッソリオ」といったモンスターメルローを排出することになりますが、カステッロ・ディ・アーマでは、主力のキアンティ・クラシコを補完する品種として植えたに過ぎないといいます。

【Photo】Castello di Ama のエノロゴ、マルコ・パッランティ氏とカンティーナのオーナーの一人で妻のロレンツァ。パッランティ氏は2003年「ガンベロ・ロッソ」の最優秀エノロゴに選ばれ、'06年からはキアンティ・クラシコ協会の第12代会長に就任した

 イタリアの名醸地でも、北のピエモンテではブルゴーニュ同様、畑の区画ごとの特徴を表現した「クリュ」(イタリア語では「Sottozona ソットゾーナ」、ピエモンテ方言で「sorì ソリ」と言う。かのGAJAの名高い畑指定バルバレスコ、sori San Lorenzo,sori Tildin の名に使われている)の概念に基づく畑の名前が付いたバローロやバルバレスコが数多く造られています。しかし、トスカーナを代表する産地のキアンティ・クラシコでは、そういったクリュの名前が付いたワインは前出のMelini が先駆けとされますが、あまり造られていません。カステッロ・ディ・アーマでは、一般的なRiservaは生産せず、作柄の良い年にのみ「Bellavista」と「La Casuccia」のクリュワインを造っています。これはかつて法定熟成期間が36ヶ月とされたRiserva の長い樽熟期間によって、ブドウの個性が失われてしまうリスクを嫌ってのことだそう。多くの場合、同じ生産者でも品質の良いブドウはRiservaとなるか、カベルネ・ソーヴィニョンやメルローなどの国際品種と呼ばれるブドウの混醸比率を高めたり、自由な発想による醸造法を取り入れて国際市場で高い評価を得た「スーパー・トスカーナ」としてリリースされました。70年代に始まった「Tignanello」や「Sassicaia」の成功がその動きを決定付けたのです。確かにそういった一連のワインの登場は、ワイン産地としてのトスカーナの名声を押し上げるのに一役買ったのは事実。しかしCastello di Amaは、カルトワインのVigna l'Apparita を看板にするのではなく、あくまでもトスカーナの風土と伝統に沿ったワインに活路を求めてゆきました。
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【Photo】9612本目の瓶詰ロットであることを表す刻印がなされたChianti Classico Vigneto Bellavista '90 のエチケッタ。DOCG名のChianti classico よりも作り手の名前Castello di Ama と畑の名前が大きく記され、作り手の誇りと自信が伺える

 かつては「Vigneto San Lorenzo サン・ロレンツォ」と「Beltinga ベルティンガ」の二つのクリュワインを造っていたカステッロ・ディ・アーマでは、その区画のサンジョヴェーゼの樹齢が上がってきた'90年にレギュラークラスのChianti classico の醸造用にそのブドウを使うため、後者ふたつのクリュを廃止しました。その結果、サンジョヴェーゼ種にマルヴァジア・ネロ種を15%ブレンドし、スパイシーで収斂性が強い良質なタンニンを備えた「Bellavista ベッラヴィスタ」('78年初リリース)と、メルローを15%ブレンドして鉄分と共に柔らかさを備えた「La Casuccia カズッチャ」('85年初リリース)の二つにクリュを絞りました。bellavistabicherre.jpgその背景には、同じサンジョヴェーゼのクローン種サンジョヴェーゼ・グロッソ(ブルネッロ)種から醸す「Brunello di Montalcino ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」と並んでトスカーナを代表する赤ワイン、キアンティ・クラシコの底上げを図るというアーマの思いがあったのです。その決断から9年を経た'99年産のキアンティ・クラシコが、ガンベロ・ロッソで最高評価のトレ・ヴィッキエーリを獲得したのです。

【Photo】グラスのエッジに熟成による明るさが見て取れるが主調は濃いガーネット。エキス由来の粘性もまだ高いベッラヴィスタ'90

 5年ほど前に飲んだベッラヴィスタ'93に比べてヴィンテージに恵まれた'90もさすがに収穫後18年を経て、抜栓直後から香りが立ちはじめますが、本領発揮は1時間近く経って香りが開いてから。ビシっと目が詰まった密度の高さと高貴さを兼ね備えた充分なボリューム。熟成により丸みを帯びたタンニンが心地よく感じられます。湿った落ち葉や微かな動物香などの複雑味も文句なし。サンジョヴェーゼの美点である果実由来の活き活きとした酸味が芯にしっかりと感じられます。熟成のピークに差し掛かりつつあるものの、まだ10年以上は熟成による向上を維持しそう。抜栓後、バキュバンをして数日に分けて飲みましたが、2-3日後が最もシルキーかつ高い次元で味わいのバランスの良さが感じられ、さすがというポテンシャルの高さを見せてくれました。

 このベッラヴィスタ、1995年からは極端に生産本数を絞り、価格もリリース時点での小売価格が15,000円以上と跳ね上がってしまいました。5,000本程度が良年のみの生産ということもあり、レア度は増すばかり。既にミラノのPECKで入手済みの'97年以降は、'99年・'01年・'04年と生産され'06年も生産予定とのこと。いずれもトスカーナのグレートヴィンテージ。今のうちに一本入手して、何年か後に至高のキアンティ体験をしてみてはいかがですか?

2008/03/16

佐藤 久一さんのこと 〈前編〉

世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男の物語

 映画館「グリーンハウス」。フランス風郷土料理「レストラン欅」。フランス料理店「ル・ポットフー」。
 これらは一人の男が日本海に面した湊町・山形県酒田市を舞台に追い求めた夢の軌跡。世の中の大勢の人から喜んでもらえる仕事をしたい。そんな幼い頃から抱いていた夢を形にするためには決して妥協することをしなかった男。やがて彼は夢と現実のはざまで運命に翻弄され無残に押し潰されてゆく・・・。一度ならず二度までも夢を形にして、人々の賞賛を受けた男の名は佐藤 久一さとう きゅういち・1930~1997)。没後10年を経て、この伝説の男が遺した業績に光を当てる伝記「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか」(岡田 芳郎著)がこのほど講談社より出版されました。
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【PHOTO】良い魚が手に入ると、きまってご機嫌だったという佐藤 久一。庄内浜に春を告げるサクラマスを手に「ル・ポットフー」で<写真協力:コマツ・コーポレーション>

 映画が庶民の娯楽の花形だった1950年代。萩 昌弘や小森 和子などの著名な映画評論家を魅了し、淀川 長治に"世界一"と賞賛せしめた映画館。それが山形県酒田市にあった「グリーンハウス」でした。久一は、1930年(昭和5年)1月に酒田で造り酒屋「金久酒造」《注》を営む名家に長男として生まれます。日本大学芸術学部に在学中、父・久吉は買収したダンスホールを改装した500席ほどの洋画専門館グリーンハウスの運営を久一に打診します。 大学を中退して酒田へ戻った彼は、20歳の誕生日に支配人に就任、青年らしい一途さで仕事に打ち込んでゆくのです。

 敗戦の混乱から抜け出そうと必死にもがいていた当時の日本人にとって、アメリカ映画は単なる娯楽ではなく、豊かな暮らしやロマンチックな恋物語への憧れを掻き立てるものでした。まだ全国でも珍しかった回転ドアや蝶ネクタイと白手袋で正装した案内係を配置、夢を見る場にふさわしい非日常空間へとグリーンハウスを改装します。館内に定員10名のミニシアターを設け、個室での誰気がねのない映画鑑賞を可能にします。シネコンの原型といえる複数スクリーンと観賞用の個室は、日本中のどの映画館にも当時は無かった施設でした。あわせて人々を惹きつける独創的なイベントや企画を数多く実施、その映画館を自ら思い描いた理想の姿に変貌させてゆきました。

 1958年(昭和33年)5月に発行されたグリーンハウスの情報誌「グリーンイヤーズ」300回記念号に、当時の久一の心情が余すところ無く語られています。筆者の岡田氏が感嘆する通り、このとき久一は弱冠28歳。不世出の男が若くして残したこのマニフェストは、久一が長じてからの歩みを暗示するものなので、少々長くなりますが引用しておきます。

 「私は幼い頃から一つの夢を抱いていた。"何かひとつ世の中の大勢の人から喜んで貰(もら)える仕事をしたい"と・・・。  幸せは決して自分ひとりだけのものではない。世の中のみんなが幸せになることが自分自身を幸せにするものだと考えていた。  私はいつか大人になり自分の能力の限界が解ってきた。そして私は幼い頃から持ち続けたこのささやかな希(ねが)いを映画を通じて具現したいとこの仕事にぶつかった。だから映画の仕事は私にとって生き甲斐ともいえるものだ。  生きることの悩み、苦しみ、悲しみ、そして喜びなどの一切の縮図が映画館の中に繰り広げられる。このような映画の内容から例えどんなささやかでも、みんなが幸せになるための種子を摘みとって頂ければ私達の喜びはこれに過ぎるものはない。  私は映画が皆さんから強い共感を得られた時ほど幸福なことはない。 私はこの幸福を味わいたいためにもよりよい映画を、そしてよりよい環境を創り出す仕事に今後も全力を尽くして行きたいと思っている。
 緑館(りょくかん)支配人」

 1960年6月、グリーンハウスでアラン・ドロンが主演したルネ・クレマン監督の話題作「太陽がいっぱい」が東京日比谷スカラ座と同時封切り公開されます。映画フィルムのプリント本数が限られていたGreenHouse.jpg当時、東京のロードショウ館と地方の小映画館が話題作を同時上映することなど到底あり得ませんでした。久一の卓越した手腕がなせるそうした事例が、それ以降増えてゆきます。酒田市民は、そんな映画館グリーンハウスを誇りに思い、心から愛していました。

【PHOTO】酒田市民の誇りだった映画館「グリーンハウス」(写真協力:酒田市資料館)

 そのように順風満帆だったグリーンハウス支配人の座を突如打ち捨て、妻を残し一人の女性を伴って久一が東京へと向かったのは34歳のとき。そうした彼の私生活は生涯清算されることはありませんでした。その頃、すでに東京でもグリーンハウスの名前は知られていました。酒田での実績を買われ、彼は誕生間もない日生劇場の企画運営を嘱望され、採用されます。"芝居の生の迫力が伝わる劇場を郷里に造る"という新たな夢の実現に向け、映画といういわば虚構の世界から、生身の役者が演じる演劇という実在の世界に久一の関心が移っていたのです。後に佐藤 久一が「食」の世界で新たな伝説を生み出す契機は、採用一年後の食堂課への配置転換でした。劇場のレストラン「アクトレス」で使用する食材の買い付けを担当した久一は、自分の裁量に全てが任される食材の目利きの仕事に自らの新たな適性を見出します。二年後、久一は当時酒田市議会議長の要職にあった父から、酒田市中心部に建築中の「酒田市産業会館」地階に造る本格的洋食レストランの立ち上げを任されます。地元財界関係者らが出資する運営会社「荘内振興」が同時に創設されました。
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【PHOTO】庄内産食材を用いたフランス風郷土料理という新たなジャンルを確立させた立役者、太田 政宏シェフ。地元の調理師学校での講師を長年務める傍ら、調理技術向上を目的とする庄内DEC(Development European Food Creation)クラブ会長、食の都庄内親善大使としても活躍中

 アクトレスで働いていた腕の立つ若い料理人やサービススタッフらを引き連れて酒田へと戻った久一は、1967年11月に竣工した産業会館地階にオープンした「レストラン欅」の取締役支配人となります。そこで久一と「フランス風郷土料理」と呼ばれる新たなジャンルの創作料理をのちに作り上げてゆくのが、「ル・ポットフー」の黄金期を築き、現在もレストラン欅の総料理長として陣頭指揮にあたっている太田 政宏氏です。1943年(昭和18年)横浜に生まれた太田氏は、東京ステーションホテル、東京会館を経てアクトレスで久一と出会います。当初は商用客相手に明確な方向性を打ち出せずにいた欅の転機は1972年に訪れます。大阪の辻調理師学校が催したポール・ボキューズ、ジャン・トロワグロら3名の著名なフランス人シェフによる公開技術講座へ参加、彼らの軽やかで深みのある味付けに衝撃を受けます。当時、伝統的なフランス料理界に新風を起こしていたヌーヴェル・キュイジーヌの祖との出会いによって、二人は常識に囚われず素材と向き合うことの大切さに気付かされるのです。鮮度が高い日本海の魚介をはじめとする庄内産食材の数々。その質と種類はボキューズが店を構えるフランスを代表する食の都リヨンに勝るとも劣らないものでした。

【PHOTO】2008年3月末に「世界一の映画館と日本一のフランス料理店・・・」の著者、岡田 芳郎氏が酒田で行われた講演会に持参して紹介したTV番組のVTRより。取材で「ル・ポットフー」を訪れたレポーターに料理をサーブするコックコート姿の佐藤 久一。太田シェフはスクリーンを眺めて「不器用な人でしょ?」とコメント(笑)

 辻調理師学校の講習会場でコックコート姿で指揮を執る辻 静雄の堂々たる振る舞いに感銘を受けた久一は、以降コックコートに身を包むようになります。酒田市街中心部にある「清水屋デパート」からの出店要請を受ける形で新たなフランス家庭料理を提供しようと「ル・ポットフー」を開店させたのが1973年9月。すでに固定客を掴んでいた欅の運営は日生劇場以来の事業パートナー、小林 元雄(あさお)氏に一任します。太田シェフの手によるグラタンとスープを柱とする親しみやすいメニューは、当時はまだ本格的なフランス料理に馴染みが薄かった女性客の評判を呼びます。予約制の本格的な料理を提供する夜間営業を開始した後の1974年10月、作家の開高 健が店を訪れます。「ウズラの網焼き」「トマト入り牛センマイのグラタン」「ガサエビのマリニエール」・・・・。食に関する造詣が深い開高がそこで出合ったのは開高の表現によれば "生まれて初めて食べる素晴らしいフランス料理" でした。その噂を聞きつけたのが作家の丸谷 才一です。鶴岡出身の丸谷には、隣町の酒田にそんなフレンチがあるとはにわかには信じられなかったのです。文藝春秋に食のエッセーを連載中だった丸谷は、さっそくル・ポットフーへと足を運びます。「蕎麦粉のクレープとキャビアの前菜」「アカエイの黒バター掛け」「赤川寄りの砂丘で獲れたキジのパテ」・・・・。丸谷はその日食べたコースを評して、文藝春秋に "裏日本随一のフランス料理" と記します。

こうしてル・ポットフー伝説は生まれてゆくのです。

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【PHOTO】 太田 政宏シェフが編み出した「ガサエビのマリニエール」。絶品。レストラン欅にて

 私がまだ学生だった1984年、「東北で一番おいしいフランス料理店が酒田にある」という評判を聞き、仙台に帰省した折に訪れたル・ポットフー(《後編》で登場する「酒田東急イン」に移転後の店)で印象深かったのは、なんといっても魚介料理の美味しさでした。中でも「手で召し上がって下さい」と出された「ガサエビのマリニエール」の印象は鮮烈でした。口腔を満たすスープの濃厚なエビのコク。それでいて軽やかで澄み切った味わい。身がとろけるようで甘味のあるガサエビを、柔らかな殻ごとガブっと丸かじり・・・。バイト代を工面してたまに行っていた東京のフレンチとは、一味も二味も違う本格的な料理を手頃な値段で楽しめるその店と、酒田出身の写真家 土門 拳のマスタープリントを展示する土門拳記念館を気に入った私は、以降何度か酒田に足を運ぶことになります。その土門 拳も郷土の酒田に戻ると、ル・ポットフーを訪れることを殊のほか楽しみにしていたそうです。

 私が庄内系に変異する素地は、こうして当時から作られていたのかもしれません。


佐藤 久一さんのこと 〈後編〉
「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男は
なぜ忘れ去られたのか」に続く


《注》佐藤 久一は「金久酒造」の跡取りである父・久吉と母・智恵の間に1930年に誕生した。当時、家業の経営は、久吉の義父に当たる三五郎が当たっていた。久吉が5歳の時に父の岩吉が急死し、母の芳(よし)が番頭の三五郎と再婚したためである。三五郎は、義理の息子夫妻の間に生まれた久一をたいそう可愛がり、酒の銘柄を皆に愛され喜ばれるようにと「金久(きんきゅう)」から「初孫」へと変えた。つまり、銘酒「初孫」の孫とは佐藤 久一その人を指すのである。ちなみに社名が金久酒造から初孫酒造に変更されたのは1960年のこと。現在は社名を「東北銘醸㈱」として「初孫」銘柄の酒を造り続けている


 

2008/03/06

うまさにひっくり返る「カッフェ・ナポレターナ」

先週月曜日に自宅のパソコンが故障したため、更新が滞ってしまいました。ハードディスクを交換して処理が早くなったPCの作動のように、ブログの更新もサクサクと行きたいところですが、さて??

薫り高きナポリ式コーヒーポット「Napoletana」

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【PHOTO】南イタリア出身の建築家Riccardo Dalisi の見事な造型感覚が発揮されたALESSI のナポレターナ

 仕事を始める朝と、3 時のブレイクタイムにカッフェを注入しないと何か物足りない・・・。イタリア在住だった前世の記憶がそう思わせるのに相違ありません。そこで欠かせないのがナポリ式コーヒーポット「Napoletana ナポレターナ」です。ナポリ発祥とされるこのカフェティエッラはドリップによってカッフェを淹れるもので、蒸気圧を利用する「マキネッタ」とはカッフェの抽出法が異なります。このナポレターナ、器具の構造は至ってシンプル。その形状といい、抽出の所作といい、なかなか味わい深いものがあります。加えてナポレターナで淹れたカッフェもまた味わい深く、薫り高いものとなります。

 前回この「Caffè カッフェ」のコーナーでご紹介した著名なイタリアンキッチン用品ブランド ALESSI アレッシからナポレターナが発売されたのが1987年。イタリア南部バジリカータ州Potenza ポテンツァ生まれの建築家 Riccardo Dalisi リッカルド・ダリージは、このカフェティエッラの設計開発に9年もの歳月をかけました。ALESSI の豊富なラインナップの中でも、これは最長の期間だといいます。ALESSI 唯一のナポレターナとなるこの製品は、本体が鏡面仕上げを施された18-10ステンレス、取っ手にはクルミ材が用いられています。イタリア本国でも6カップ用が €274( €1=156円換算で42,700円)、日本国内価格が54,000円(税別)という価格にすっかり怖気付いた私が愛用しているのは、ピエモンテ州トリノの北9kmにある Collegnoコッレーニョという人口5万人ほどの町で 1946年に創業したILSA社製のクラシックなナポレターナです。

iLSA-diamante.jpg現在でこそ広くイタリアの家庭で使われるマキネッタが登場する1950年代までは、このナポレターナが一般的でした。同社が初めて製品として売り出したのも、ナポレターナだったのです。

【PHOTO】私の初代ILSA社製ナポレターナ「Diamante」1-2カップ用(右)。上下同じ形状をしていたベークライトの取っ手は、ボイラー部の一部を焦がして焼失。さらに本体との接合部からの水漏れが顕著になり、現役引退を決意。会社で使用している「Liscia」1-2カップ用と同型3カップ用(下)は自宅で使用する3代目

 1-2カップ用から、3・6・9・12カップ用の各サイズが揃う中で、会社で愛用していたのは表面に凹凸の装飾が施された「Diamante ディアマンテ」ラインの1-2カップ用。約10年使い込んだこの初代ナポレターナは、酷使がたたって変形・変色が著しく、モデル名が意味するダイヤモンドのような輝きはとうに褪せています。本体と取っ手の接合部から水漏れするようになったため(→こんなところもイタリア製らしい? )、代替品を探していた'06年に実現したトリノ訪問。Terra Madre と Salone del Gusto の取材が主目的だったため、公式行事やワークショップへの参加に時間を割かれ、市内観光やショッピングがほとんど出来ないことが予想されました。

 そのため、4代目となる同社のナポレターナを前もって滞在先のアグリツーリズモRupestr のジョルジョ氏に探してもらいました。Rupestr がある小さなCanelli の町は無理でも、同社お膝元の大都市トリノならば、簡単に入手できるのでは?と考えたからです。

istruzioni_per_uso.jpgところが、危惧した通り北イタリア・ピエモンテ州では、ナポレターナが一般的ではなく、地元調達が出来ないとのこと。たまたまRupestr のWEBサイト管理を手がけるジョルジョの知人がナポリ在住で、そのルートで調達してもらった次第。人の繋がりを駆使して物事を解決する名人ジョルジョに限らず、イタリア人はこうした処世の達人です。

 ジョルジョに調達してもらったプレーンな外観のモデル「Liscia リッシャ(=伊語で「滑らかな」の意)」1-2カップ用は、€15(約2,340円)とぐっとリーズナブル。本体は純度99.5%のアルミニウム製、取っ手が耐熱性・難燃性に優れたベークライト製という基本的な構造やデザインは1946年の初代モデルに細部の改良は加えられたものの、大きな変更はありません。レトロな雰囲気を漂わせるILSAや端正で美しいフォルムのALESSI をご覧になって、どうやってカッフェを淹れるのか想像がつかない方もおいででしょう。

 日本では馴染み薄なナポレターナだけに、それも無理からぬこと。それでは早速、濃厚なナポリスタイルのカッフェを淹れてみましょう。上の図解イラストをもとに手順に従ってご説明すると・・・図でご覧の通り、ナポレターナは最後に用いる蓋(ふた)を除いて4つのパーツから構成されます。

caffettieranapoletano1.jpg【左PHOTO】〈1〉:熱源にかけるパーツ「ボイラー」(図C)に水を入れる。その際、水が上部に穿たれた直径2mmほどの小さな穴を超えないよう

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【右PHOTO】〈2〉:図の向きで「フィルター」(図B)をボイラー部にセット。その際(C)の穴と(B)の縦に刻まれた窪みの向きを合わせるとよい。フィルターに挽いたコーヒー豆を装填。フィルターの目が粗いので、仕上がったカッフェに粉が紛れ込まぬよう、豆は極細挽きよりは細挽き程度がよい

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【左PHOTO】〈3〉:「スクリューキャップ」(図A)でフィルターの装填口をふさぐ

caffettieranapoletano4.jpg【右PHOTO】〈4〉:仕上がったカッフェの注ぎ口と取っ手が付いており、屋外などでデミタスカップがなければ、その代用も務める「ポット」(図の最上部)をボイラーにセット。上下取っ手の向きを合わせると抽出中の姿が美しい。ここだけは、ともするとやることが適当なナポリっ子の真似はせぬこと。ボイラー部を下、ポット部を上にして熱源にかける(下図1)。ガスコンロを用いる場合は弱火~中火。取っ手を焦がすので強火は厳禁。

caffetttieranapoletano6.jpg【上PHOTO】〈5〉:ボイラー内の水が加熱されるとフィルター内のコーヒー粉を蒸らし始める。沸騰した熱湯が、ボイラー部の穴からチョロチョロ出始めたら熱源から外すサイン。素早くボイラーとポットの取っ手を両手でしっかり押さえながら上下逆にひっくり返す(下図2)。ボイラーの穴からお湯がピューッと勢いよく噴き出すが、すぐに止まるので慌てず騒がず。アルミ素材は柔らかく変形しやすいので、時に噛みあわせが緩い場合も。ズレによって熱湯が漏れないよう注意が必要

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〈6〉:耐熱性のある平らな場所にナポレターナを移して待つことしばし。使用する器具の容量にもよるが、2~3分でドリップは完了。その間、ボイラー部には蓋を装着して温めておく(→必ずしも使わなくても可)。ドリップが終わったらボイラーをはずし、ポットに蓋を被せ(省略可)【上PHOTO】 、カップにカッフェを注ぐ。

caffettieranapoletano8.jpg【PHOTO】è pronto!! ハイ、出来上がり!!

 ポット部分の熱が冷めれば、カップがなくてもカッフェを直接ナポレターナから飲むことだって出来ます。この使い方はアウトドアで一人カッフェを飲む場合などに重宝しそう。コーヒーの旨み成分を含む豆の油脂成分をろ過しないため、ナポレターノで淹れたカッフェは、調和が取れた深い味わいが楽しめます。いまやカッフェを淹れる時に使うカフェティエッラの割合は、ナポレターナ 7 に対しマキネッタ 3 と圧倒的にナポレターナが優勢。最初はマキネッタを使っていた仕事先でも、今ではナポレターナ一辺倒になりました。

 会社では電気コンロが置いてある流しでナポレターナを使うのですが、火にかけている間、立ち込める芳香は特筆もの。それを嗅ぎつけて分け前を要求する同僚もいます(笑)。後処理はマキネッタ同様、さっと水洗いでOK。金属製フィルターのため、余分な紙ゴミも出しません。なんというスグレ物!

napoletana_uffizi.jpg【PHOTO】オフィスで愛用している4代目ナポレターナ。普及が進むIHヒーターでは使用できないアルミ製ゆえ、お払い箱になりかかった電熱線ヒーターには懇願調に「捨てないで下さい」と記し、IHヒーターに重ねて使用

 ナポレターナが欲しくなったアナタに大切なポイントをお教えします。ナポレターナの素材は是非「alluminio =アルミニウム」製を選んでください。私の2代目ナポレターナはILSA社のステンレス製でしたが、カッフェが金属と馴染むまでと忍耐強く何度使ってもアルミ製ナポレターナのような深みのある味が出ないのです。苦味が強くでる傾向があり、調教を諦めた私はアルミに回帰、使用期間半年ほどで2代目はお蔵入りとなりました。

 イタリアでも丈夫なステンレス製のナポレターナが造られてはいます。しかしナポリのカッフェ好きの間では、ナポレターナはアルミ製というのが常識なのです。アルミの調理器具を使うとアルツハイマー病になると指摘する向きがあります。それでもアルミ製のマキネッタやナポレターノで淹れた一杯の薫り高いカッフェの誘惑には到底勝てません。その指摘が本当ならば、カッフェ好きのイタリア人たちは皆アルツハイマーになっている筈ですが、そんな話は聞いたことがありませんよね。

 そう自分を納得させて、ナポリスタイルを貫く「Passalacquaパッサラックア」の豆を装填した愛用の4代目ナポレターナを今朝もヒョイッとひっくり返したのでした。


次回、「Arriva a Napoli !? 白日夢 @ Caffè Passalacqua」に続く

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