あるもの探しの旅

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佐藤 久一さんのこと 〈前編〉

世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男の物語

 映画館「グリーンハウス」。フランス風郷土料理「レストラン欅」。フランス料理店「ル・ポットフー」。
 これらは一人の男が日本海に面した湊町・山形県酒田市を舞台に追い求めた夢の軌跡。世の中の大勢の人から喜んでもらえる仕事をしたい。そんな幼い頃から抱いていた夢を形にするためには決して妥協することをしなかった男。やがて彼は夢と現実のはざまで運命に翻弄され無残に押し潰されてゆく・・・。一度ならず二度までも夢を形にして、人々の賞賛を受けた男の名は佐藤 久一さとう きゅういち・1930~1997)。没後10年を経て、この伝説の男が遺した業績に光を当てる伝記「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか」(岡田 芳郎著)がこのほど講談社より出版されました。
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【PHOTO】良い魚が手に入ると、きまってご機嫌だったという佐藤 久一。庄内浜に春を告げるサクラマスを手に「ル・ポットフー」で<写真協力:コマツ・コーポレーション>

 映画が庶民の娯楽の花形だった1950年代。萩 昌弘や小森 和子などの著名な映画評論家を魅了し、淀川 長治に"世界一"と賞賛せしめた映画館。それが山形県酒田市にあった「グリーンハウス」でした。久一は、1930年(昭和5年)1月に酒田で造り酒屋「金久酒造」《注》を営む名家に長男として生まれます。日本大学芸術学部に在学中、父・久吉は買収したダンスホールを改装した500席ほどの洋画専門館グリーンハウスの運営を久一に打診します。 大学を中退して酒田へ戻った彼は、20歳の誕生日に支配人に就任、青年らしい一途さで仕事に打ち込んでゆくのです。

 敗戦の混乱から抜け出そうと必死にもがいていた当時の日本人にとって、アメリカ映画は単なる娯楽ではなく、豊かな暮らしやロマンチックな恋物語への憧れを掻き立てるものでした。まだ全国でも珍しかった回転ドアや蝶ネクタイと白手袋で正装した案内係を配置、夢を見る場にふさわしい非日常空間へとグリーンハウスを改装します。館内に定員10名のミニシアターを設け、個室での誰気がねのない映画鑑賞を可能にします。シネコンの原型といえる複数スクリーンと観賞用の個室は、日本中のどの映画館にも当時は無かった施設でした。あわせて人々を惹きつける独創的なイベントや企画を数多く実施、その映画館を自ら思い描いた理想の姿に変貌させてゆきました。

 1958年(昭和33年)5月に発行されたグリーンハウスの情報誌「グリーンイヤーズ」300回記念号に、当時の久一の心情が余すところ無く語られています。筆者の岡田氏が感嘆する通り、このとき久一は弱冠28歳。不世出の男が若くして残したこのマニフェストは、久一が長じてからの歩みを暗示するものなので、少々長くなりますが引用しておきます。

 「私は幼い頃から一つの夢を抱いていた。"何かひとつ世の中の大勢の人から喜んで貰(もら)える仕事をしたい"と・・・。  幸せは決して自分ひとりだけのものではない。世の中のみんなが幸せになることが自分自身を幸せにするものだと考えていた。  私はいつか大人になり自分の能力の限界が解ってきた。そして私は幼い頃から持ち続けたこのささやかな希(ねが)いを映画を通じて具現したいとこの仕事にぶつかった。だから映画の仕事は私にとって生き甲斐ともいえるものだ。  生きることの悩み、苦しみ、悲しみ、そして喜びなどの一切の縮図が映画館の中に繰り広げられる。このような映画の内容から例えどんなささやかでも、みんなが幸せになるための種子を摘みとって頂ければ私達の喜びはこれに過ぎるものはない。  私は映画が皆さんから強い共感を得られた時ほど幸福なことはない。 私はこの幸福を味わいたいためにもよりよい映画を、そしてよりよい環境を創り出す仕事に今後も全力を尽くして行きたいと思っている。
 緑館(りょくかん)支配人」

 1960年6月、グリーンハウスでアラン・ドロンが主演したルネ・クレマン監督の話題作「太陽がいっぱい」が東京日比谷スカラ座と同時封切り公開されます。映画フィルムのプリント本数が限られていたGreenHouse.jpg当時、東京のロードショウ館と地方の小映画館が話題作を同時上映することなど到底あり得ませんでした。久一の卓越した手腕がなせるそうした事例が、それ以降増えてゆきます。酒田市民は、そんな映画館グリーンハウスを誇りに思い、心から愛していました。

【PHOTO】酒田市民の誇りだった映画館「グリーンハウス」(写真協力:酒田市資料館)

 そのように順風満帆だったグリーンハウス支配人の座を突如打ち捨て、妻を残し一人の女性を伴って久一が東京へと向かったのは34歳のとき。そうした彼の私生活は生涯清算されることはありませんでした。その頃、すでに東京でもグリーンハウスの名前は知られていました。酒田での実績を買われ、彼は誕生間もない日生劇場の企画運営を嘱望され、採用されます。"芝居の生の迫力が伝わる劇場を郷里に造る"という新たな夢の実現に向け、映画といういわば虚構の世界から、生身の役者が演じる演劇という実在の世界に久一の関心が移っていたのです。後に佐藤 久一が「食」の世界で新たな伝説を生み出す契機は、採用一年後の食堂課への配置転換でした。劇場のレストラン「アクトレス」で使用する食材の買い付けを担当した久一は、自分の裁量に全てが任される食材の目利きの仕事に自らの新たな適性を見出します。二年後、久一は当時酒田市議会議長の要職にあった父から、酒田市中心部に建築中の「酒田市産業会館」地階に造る本格的洋食レストランの立ち上げを任されます。地元財界関係者らが出資する運営会社「荘内振興」が同時に創設されました。
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【PHOTO】庄内産食材を用いたフランス風郷土料理という新たなジャンルを確立させた立役者、太田 政宏シェフ。地元の調理師学校での講師を長年務める傍ら、調理技術向上を目的とする庄内DEC(Development European Food Creation)クラブ会長、食の都庄内親善大使としても活躍中

 アクトレスで働いていた腕の立つ若い料理人やサービススタッフらを引き連れて酒田へと戻った久一は、1967年11月に竣工した産業会館地階にオープンした「レストラン欅」の取締役支配人となります。そこで久一と「フランス風郷土料理」と呼ばれる新たなジャンルの創作料理をのちに作り上げてゆくのが、「ル・ポットフー」の黄金期を築き、現在もレストラン欅の総料理長として陣頭指揮にあたっている太田 政宏氏です。1943年(昭和18年)横浜に生まれた太田氏は、東京ステーションホテル、東京会館を経てアクトレスで久一と出会います。当初は商用客相手に明確な方向性を打ち出せずにいた欅の転機は1972年に訪れます。大阪の辻調理師学校が催したポール・ボキューズ、ジャン・トロワグロら3名の著名なフランス人シェフによる公開技術講座へ参加、彼らの軽やかで深みのある味付けに衝撃を受けます。当時、伝統的なフランス料理界に新風を起こしていたヌーヴェル・キュイジーヌの祖との出会いによって、二人は常識に囚われず素材と向き合うことの大切さに気付かされるのです。鮮度が高い日本海の魚介をはじめとする庄内産食材の数々。その質と種類はボキューズが店を構えるフランスを代表する食の都リヨンに勝るとも劣らないものでした。

【PHOTO】2008年3月末に「世界一の映画館と日本一のフランス料理店・・・」の著者、岡田 芳郎氏が酒田で行われた講演会に持参して紹介したTV番組のVTRより。取材で「ル・ポットフー」を訪れたレポーターに料理をサーブするコックコート姿の佐藤 久一。太田シェフはスクリーンを眺めて「不器用な人でしょ?」とコメント(笑)

 辻調理師学校の講習会場でコックコート姿で指揮を執る辻 静雄の堂々たる振る舞いに感銘を受けた久一は、以降コックコートに身を包むようになります。酒田市街中心部にある「清水屋デパート」からの出店要請を受ける形で新たなフランス家庭料理を提供しようと「ル・ポットフー」を開店させたのが1973年9月。すでに固定客を掴んでいた欅の運営は日生劇場以来の事業パートナー、小林 元雄(あさお)氏に一任します。太田シェフの手によるグラタンとスープを柱とする親しみやすいメニューは、当時はまだ本格的なフランス料理に馴染みが薄かった女性客の評判を呼びます。予約制の本格的な料理を提供する夜間営業を開始した後の1974年10月、作家の開高 健が店を訪れます。「ウズラの網焼き」「トマト入り牛センマイのグラタン」「ガサエビのマリニエール」・・・・。食に関する造詣が深い開高がそこで出合ったのは開高の表現によれば "生まれて初めて食べる素晴らしいフランス料理" でした。その噂を聞きつけたのが作家の丸谷 才一です。鶴岡出身の丸谷には、隣町の酒田にそんなフレンチがあるとはにわかには信じられなかったのです。文藝春秋に食のエッセーを連載中だった丸谷は、さっそくル・ポットフーへと足を運びます。「蕎麦粉のクレープとキャビアの前菜」「アカエイの黒バター掛け」「赤川寄りの砂丘で獲れたキジのパテ」・・・・。丸谷はその日食べたコースを評して、文藝春秋に "裏日本随一のフランス料理" と記します。

こうしてル・ポットフー伝説は生まれてゆくのです。

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【PHOTO】 太田 政宏シェフが編み出した「ガサエビのマリニエール」。絶品。レストラン欅にて

 私がまだ学生だった1984年、「東北で一番おいしいフランス料理店が酒田にある」という評判を聞き、仙台に帰省した折に訪れたル・ポットフー(《後編》で登場する「酒田東急イン」に移転後の店)で印象深かったのは、なんといっても魚介料理の美味しさでした。中でも「手で召し上がって下さい」と出された「ガサエビのマリニエール」の印象は鮮烈でした。口腔を満たすスープの濃厚なエビのコク。それでいて軽やかで澄み切った味わい。身がとろけるようで甘味のあるガサエビを、柔らかな殻ごとガブっと丸かじり・・・。バイト代を工面してたまに行っていた東京のフレンチとは、一味も二味も違う本格的な料理を手頃な値段で楽しめるその店と、酒田出身の写真家 土門 拳のマスタープリントを展示する土門拳記念館を気に入った私は、以降何度か酒田に足を運ぶことになります。その土門 拳も郷土の酒田に戻ると、ル・ポットフーを訪れることを殊のほか楽しみにしていたそうです。

 私が庄内系に変異する素地は、こうして当時から作られていたのかもしれません。


佐藤 久一さんのこと 〈後編〉
「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男は
なぜ忘れ去られたのか」に続く


《注》佐藤 久一は「金久酒造」の跡取りである父・久吉と母・智恵の間に1930年に誕生した。当時、家業の経営は、久吉の義父に当たる三五郎が当たっていた。久吉が5歳の時に父の岩吉が急死し、母の芳(よし)が番頭の三五郎と再婚したためである。三五郎は、義理の息子夫妻の間に生まれた久一をたいそう可愛がり、酒の銘柄を皆に愛され喜ばれるようにと「金久(きんきゅう)」から「初孫」へと変えた。つまり、銘酒「初孫」の孫とは佐藤 久一その人を指すのである。ちなみに社名が金久酒造から初孫酒造に変更されたのは1960年のこと。現在は社名を「東北銘醸㈱」として「初孫」銘柄の酒を造り続けている


 

コメント

庄内系イタリア人様、はじめまして。
関西在住の虎と申します。

先日旅行の折、ル・ポットフーと欅に行ってみました。
とても美味しい料理でしたので楽しかったです。
行く前にあれこれ参考にさせていただきました。

思えば20年以上前にANAの機内誌に掲載されていた記事を見て、酒田に有名なお店があるのかぁと思っていましたが、
先日「おくりびと」を見ているとカレンダーに書かれた初孫の文字に「あっ、そう言えば...」と思いだした次第です。

それから佐藤久一さんの本の存在を知り、購入して一気に読破していました。
そしてお店に行きたいなぁと思っていたのですが...
やっと念願叶ったと言う所でしょうか?
また訪ねてみたいなぁと思いました。

どうもお邪魔しました。

▽関西の虎さま

 ブログソフトの不調でコメントバックが遅れてしまい、申し訳ございませんでした。また先日はコメントを頂戴し、ありがとうございました。お名前から察するにひょっとして阪神タイガースの選手の方でしょうか?

 さて、今回のご旅行の目的が「おくりびと」のロケ地巡りだったのか、佐藤久一の足跡を辿る旅だったのかは存じ上げませんが、楽しくも美味しいご旅行だったとのことで何よりです。

 欅のすぐ近くにある喫茶店兼バー「ケルン」には行かれましたか?佐藤久一の伝記冒頭に登場する映画館グリーンハウスの若き支配人だった頃の久一が、上映が終わると従業員を引き連れて毎日のように通ったという店です。

 82歳の今も現役バリバリのバーテンダーであるご主人の井山計一さんは、サントリーが寿屋と呼ばれていた時代に同社が主催したカクテルコンクールでグランプリを獲得し、今もスタンダードカクテルとして有名なご自身が考案された「Yukiguni(雪国)」のシェーカーを振り続けています。

 世界一と称えられる映画館と日本一の呼び声が高いフレンチレストランがあった佐藤久一の時代の酒田を懐かしそうに語る井山さんのお話は、最高の酒の肴になります。

 ぜひまた酒田をお訪ねください。

 1935年生まれの私は、10歳から18歳まで酒田で過ごしました。グリーンハウスには何度行ったことか。あのステージで山本艶子さんの合唱団員として何度か歌いもしました。以後しっかりと再訪することはなく、時折、初孫を飲んでは、はるかに想い出に浸っています。

 今日、読売新聞で佐藤久一さんの記事を読み、パソコンを開きました。ル・ポットフーは知りませんでした。すぐにでも行ってみたい。10年ほど滞在したヨーロッパの味と比較しながら、酒田時代を思い出したいです。

鈴木恭平様

 私のように実際のグリーンハウスを知らない者にとって、黄金期の姿をご存知とは羨ましい話です。いかに当時の酒田市民からそこが愛されていたかを岡田芳郎さんの本は生き生きと描いていました。

 佐藤久一さんが追い求めた理想を具現化したル・ポットフーの内装は、ほぼ当時のままかと思います。不世出の男の夢を皿の上に見事に描いてみせた太田政宏シェフとは、今もレストラン欅や、息子さんが独立した店レストランNicoの厨房でお会いすることができます。

 これからは季節も良くなります。どうぞ青春時代をお過ごしになられた酒田へお運びください。

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