あるもの探しの旅

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2008/04/27

長いものには・・・

StarbucksがClover®を買収

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【Photo】日本のカフェでは第一号の「Clover 1s」を操作する「Bal Musette カフェ バル ミュゼット」の川口バリスタ 

 資本の論理はスゴイ。そんな出来事が最近ありました。2004年に二人の男性が米国シアトルで起業したベンチャー企業「Clover Equipment クローバー・イクイップメント社」が、コーヒーショップを世界規模で展開する大手チェーン「Starbucks スターバックス」に買収されたのです。「え? 何のこと?? 」と、仰る方もおいででしょう。そんな方はまずこちらのバックナンバーをチェック願います。米国シアトルに本拠を置くスターバックス社がこの企業買収に関して発表したのは先月19日のこと。私が仙台市泉区桂にある「la casa del caffè Bal Musette カフェ バル ミュゼット」でクローバー社製のマシン「Clover 1s」で淹れたコーヒーと出合ったのが昨年11月。どうやらその未体験のコーヒーの味に魅せられたのは、私だけではなくスターバックス社の会長兼CEO(最高経営責任者)ハワード・シュルツ氏も同様だったようです(笑)。
《参考資料》 2008年3月19日付 Starbucks Coffee Company のニュースリリース(英語)

 変貌著しいコーヒーの世界の最先端を仙台に居ながらにして体験できるというので、皆さんにもぜひ味わって頂こうと、そのコーヒーの美味しさを当「あるもん探しの旅」でご紹介したのが、バックナンバーの通り昨年11月30日のことです。"コーヒー抽出法の革命"と世のバリスタ達が注目するClover 1sは、バル ミュゼット以外には、当時は焙煎業者に2台しか日本に上陸していませんでした。その後日本に2台ほどが導入されましたが、スターバックス社の発表によると、同社が独占的にClover 1sを国内外の店舗に供給してゆくようです。スターバックスでは、シアトルとボストンの数店舗にClover 1sが導入されたとのこと。すでに導入済みのバル ミュゼットほか一部の例外を除いて、日本でも同社のチェーン店でClover®社のマシンで淹れたコーヒーが遠くない将来、飲めるようになるかもしれません。

bal_musette_nicalagua.jpg【Photo】 川口バリスタがオススメの「ニカラグア・リンダ・ビスタ」をClover 1sで淹れた一杯

 記者発表の場に同席したクローバー・イクイップメント社の創業者の一人ザンダー・ノスラー氏は「Coffee is as complex, rich and distinctive as fine wines.(コーヒーは素晴らしいワインのように複雑で豊かで特別なもの)」と語っています。この点に関しては激しく同意しますが、世界最大手のコーヒーチェーンの傘下に加わる決断が、ノスラー氏に幸福のクローバーをもたらすかどうか、厳しい豆の選択眼と卓越した技能を備えたバル ミュゼットの川口バリスタが丁寧にサーブするコーヒーを飲みながら、ふと思った休日の午後でした。

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2008/04/20

春を告げる雪形

鳥海山の種まき爺さん

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【PHOTO】秋には鮭が遡上してくる清流・洗沢川沿いに60本のソメイヨシノが咲き揃う。視線の先には多くの水の恵みをもたらす鳥海山が残雪に輝く

 先週末の風雨で仙台のソメイヨシノはあらかた散ってしまいましたが、今が盛りの桜を愛でに鳥海山に端を発する清流 洗沢川が流れる山形県飽海郡遊佐町をこの週末訪れました。同町高瀬地区の洗沢橋から下流にかけては、川沿いに樹齢50年ほどのソメイヨシノの見事な並木が続いています。これは昭和33年の皇太子ご成婚を記念して地元の方たちの手で60本が植樹されたものだといいます。眼前には雪を頂く鳥海山が迫り、今を盛りと咲き誇る桜と花弁が川面に浮かぶ洗沢川には、風を受けて泳ぐ鯉のぼりがかかります。それはそれは絵のように美しい風景でした。

yunosawa1.jpg【PHOTO】次から次へと水を汲みに人々が訪れる湯ノ澤霊泉。湧水の里・酒田市八幡地区の入浴施設「ゆりんこ」のすぐ手前にある 

空模様は花曇りながら、そこを訪れた日の酒田の最高気温は17.8℃と春爛漫の陽気。鼻腔をくすぐるのは甘い春の花の香りかと思いきや、雨上がりの湿気を含んだ風に乗ってどこからともなく漂ってくるのはなんとコヤシの臭い!!(爆) 「ん?」と、堤防の向こうに広がる田んぼに目をやると、そこではトラクターが堆肥を散布中。田植えに向けた田おこしの準備が始まっているのでした。一部の圃場では、すでに水張りが始まっており、そこでは土中から這い出してくる虫を狙うシラサギやウミネコの姿もありました。

 海鳥たちはどうやって海辺から離れた位置にある水張りをする田んぼの存在があることを知るのだろう? ...そんなことを思いつつ向かった先は、1995年に国土庁が選定した「水の郷百選」に庄内地方からは遊佐町と共に選ばれた旧八幡(やわた)町(現・酒田市)の湧水「湯ノ澤霊泉」でした。緑が広がる八森自然公園の裾野にある温泉施設「ゆりんこ」の手前にあるそこは、庄内では知らぬ人のいない名水スポットです。

yunosawa2.jpg 【PHOTO】 こんこんと清らかな伏流水が湧き出でる給水口には苔がびっしり

 二基の水汲み場からは、年間を通して水温10℃の豊富な水が音をたてて溢れ出しています。ここは水汲み場が屋根で覆われているため、たとえ雨降りの日でも水を汲むのに重宝します。すぐ隣にある入浴施設「ゆりんこ」の湯上りに水分補給のため立ち寄るのもいいでしょう。古来から不老長寿の水として、飲用や炊飯用にと、さまざまに用いられてきたこの水を求めて、近隣から訪れる人がこの日も後を絶ちませんでした。yunosawa3.jpg 鳥海山南側に数多く存在する湧水は、口当たりの優しい軟水が多いのですが、この水は輪郭のはっきりしたクリアな印象が最初あるものの、喉を過ぎると口の中に甘さが残る美味しい水です。我が家では冷水でそのままは勿論のこと、カッフェや料理・炊飯にとオールマイティに活躍する霊泉の名に恥じぬこの水。20リットル容量のポリタンク2つに詰めて車に積み込みました。

【PHOTO】 豊富な湧水がほとばしり出る二つの水汲み場が整備された湯ノ澤霊泉。車のアクセスがよいことから訪れる人が引きも切らない人気の湧水スポット

 ポリタンクの水がチャッポンチャッポン、両出し4本のマフラーからは官能的な重低音。そんな絶妙な(?)和音を奏でる alfa Brera で「庄内こばえちゃライン」を南下すると、「刈屋梨」の産地で名高い酒田市刈屋地区に差し掛かります。そちらでも名産の幸水をはじめとする梨の樹の手入れが始まっていました。ちょうど白い可憐な梨の花がほころび始めたところ。その目線の先に聳える鳥海山南側の山肌には、右向きに腰をかがめて種まきをする農夫の形をしていることから、田植えの準備を始める目安とされる種まき爺さんとして地元で知られる雪形が姿を現していました。

kariyachoukaisan.jpg【PHOTO】 鳥海山の山肌に種まき爺さんが姿を現す頃、白い梨の花がほころび始めた刈屋梨の産地、酒田市刈屋地区。日光川と荒瀬川が水はけのよい肥沃な土壌をもたらすこの地では、明治初期より梨の栽培が盛んで、刈屋梨はトップブランドとして君臨する

 自家栽培する無農薬農産物を無添加の漬物なんと希少なことよ! )に加工製造する「月山パイロットファーム」の相馬 一廣さん宅に「ハリハリ大根」と「民田茄子からし漬」を購入しようと途中で立ち寄った折、「父は稲の種まきで近くの共同作業場に出払っています」と娘さんに言われたっけ・・・。連作障害の出ない輪作による資源循環型農業のパイオニアでもある相馬さん。農機具や作業用トラックはBDF(バイオディーゼル)車ですが、休日には1,390kg のボディに3.2 リッターDOHC4バルブV6エンジンを搭載し、250馬力を発生させるalfa147GTAを駆るやんちゃな一面も持ち合わせるお方。

【PHOTO】 岩手山の頂きに翼を広げた格好の鷲が現れる頃、寒さ厳しい南部の地にも遅い春が訪れる
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  古来より農作業などの人々の暮らしと深く結びついた「雪形」が各地に伝えられてきました。津軽富士こと青森の岩木山には、「ツバメ」「下りウサギ」ほか30あまりの雪形が伝えられています。岩手県盛岡市からは岩手山の頂きに翼を広げた「鷲」が現れます。

 宮城県でも栗駒山の名前の由来とされる駒形の模様や、蔵王の水引き入道が良く知られています。雪形とは、残雪と山肌のコントラストが描く文様をさまざまな物に見立てて、名前を付けて呼び習わしてきたもの。地球温暖化の影響で年々その雪形が現れる時期が早まっているそう。熱いラテンの血がたぎるアルファロメオと環境負荷が少ない天ぷらの香りがする作業用BDFトラックを颯爽と乗りこなす月山のエコファーマー。芯が通ったその人の生きざまと、春の訪れを告げる鳥海山の種まき爺さんの姿がどことなく重なって思えました。

gassannpilot.jpg 【PHOTO】月山パイロットファーム製「ハリハリ大根」(右)。細かく刻んだ干し大根に青大豆・ニンジン・赤唐辛子を混ぜ、醤油・砂糖・日本酒で味付け。自家栽培するダイコンで作ったハリハリ漬けは歯ごたえも良く美味。同「民田茄子からし漬」(左)。鶴岡市民田地区に伝わる在来野菜「民田ナス」を酒粕と砂糖・塩・和辛子の粉末で漬け込む。日本で唯一、自家栽培する和辛子を漬物で使用。漬物本来の味を教えてくれる逸品

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2008/04/13

佐藤 久一さんのこと 〈後編〉

「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男は
なぜ忘れ去られたのか」

《前編》より続き

【Photo】内装から調度に至るまで、佐藤久一が理想のおもてなしを提供するための場としてのこだわりが随所に見られる酒田東急プラザビル3Fの「ル・ポットフー」。このメインダイニングは地中海クルーズの客船をイメージしたという

Lepotaufeu1.jpg 酒田駅前の再開発計画によって、ビジネスホテルチェーン「東急イン」がキーテナントとなる「酒田東急プラザビル」が酒田駅前に完成したのは1975年(昭和50年)9月。地元挙げての誘致に成功した宿泊施設の顔としてホテル3階に「ル・ポットフーLink to Websiteの2 号店が開店したのが同年12月のこと。常務取締役支配人に就任した佐藤 久一が事細かに注文をつけた豪奢な内装のダイニングルームには、80坪のフロアに32席のテーブルと二つの個室「ル・シャトー」と「ラ・スフレ」が用意されました。中町の清水屋デパート5 階にそれまであったル・ポットフーは、デパートの移転を機に2年後に店をたたみますが、当初はそちらも残したままの船出でした。

 こうした潤沢な事業資金の後ろ盾には、地元の名士だった久一の父・久吉と経営母体の「荘内振興」社長・五十嵐 薫(ただす)の後押しがありました。久一は駅前のホテルという立地条件を考慮し、店の特色を前面に打ち出すため、メニュー構成を庄内浜の魚介主体に変えてゆきます。サクラマス、ハタハタ、ノドグロ、大越中バイガイ、岩ガキ、寒ダラ、タラの白子、カスベ ・・・。こうした伝統的Lepotaufeu2.jpgなフランス料理では使うことがそれまで無かった旬の庄内産食材を積極的に取り入れてゆくのです。自他共に認めるワインラヴァーの私も国内のワイナリーでは屈指の品質の高さに一目置く山形県上山市の「タケダワイナリー」のワインをハウスワインにするなど、地産地消やスローフードという言葉が誕生する遥か以前から、久一はその理念を実践していました。

【Photo】 淡いモスグリーンに明るいシルバーの草花や鳥の図柄で覆われた壁紙、ゴブラン文様の椅子、アンティークの掛時計がしつらえられた個室「ル・シャトー」。常連客には久一がここで付き切りでサービスをした

 朝5時半に始まる酒田港の朝競(せ)りで久一が手に入れた素材を元に料理を考えるのは、6人の厨房スタッフを率いる太田 政宏シェフ。 固定したメニューに束縛されることなく、その日入手した最上の素材でメニューを組み立てる「おまかせ」コースに二人は力を入れてゆくのでした。ランチの準備と接客を終えると、新たな魚の調達のため、夕競りが行われる鼠ヶ関、吹浦、象潟の漁港へと久一は車を走らせます。ディナー客が引けた夜10時過ぎに個室ラ・スフレにひとり籠って、辞書を片手に仏語の料理書を読み漁りました。「久一さんは時間さえあればいつも料理書を読んでいた」と太田シェフは振り返ります。こうして久一は余人の追従を許さない域にまで料理に対する知識と理解を深めてゆきます。

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【Photo】 久一が手書きした夏のメニュー ※クリックで拡大

 たとえば、一組のカップルが酒田駅前に出来た評判のフレンチレストラン「ル・ポットフー」にお任せコースの予約を電話で入れたとしましょう。客をもてなすこと、わけても女性客を喜ばせることにいつも心を砕いた久一は、電話の口調や食事の目的を聞き出して、あれこれ想いをを巡らせます。料理の組み立てはどんな内容にするか。テーブルに飾るのはどんな花がふさわしいのか。テーブルに向かう動線から眺めてどの角度が最もその花が美しく見えるのか・・・。

 花を生けた花瓶を前に、答えの出ない自問自答が延々と続きます。仕事を終えて帰宅する従業員たちは、片手を顎に当てて腕組みをしながら物思いにふける久一の姿をしばしば目にしました。翌朝、出勤してきた彼らは、昨夜と同じ場所に同じ格好で座っている久一と再び相まみえるのです。こうして四六時中店にいる久一は、従業員の目には全く私生活が見えなかったのだといいます。映画の世界から離れても、久一は客がドラマチックな非日常の時間を過ごす空間の演出に絶えず情熱を燃やし続けていたのです。

Kyuichi_con_suzuki.jpg【Photo】 「レストラン欅」に復帰した1993年、常連客に送った挨拶状より。今も欅のメインダイニングルームに掛かるマリー・ローランサンの絵を前に大きなスズキを手に笑みを浮かべる佐藤 久一

 作家 山口 瞳は、著書『酔いどれ紀行』の取材で酒田に滞在した4日間、連日連夜ル・ポットフーに通い詰めます。山口が「サービス魔」と形容した久一は、同書の表現を借りれば「この材料、この味で、これだけの店構え(ル・ポットフーの調度はとても立派で、かつ瀟洒である)」で提供していました。食事を目的に毎年フランスを訪れ、フランス料理通を自認していた落語家 古今亭志ん朝をして「日本で初めてすごいフランス料理にぶつかった」と驚愕させておきながら、その代金は非常に安価なものでした。とはいえ、魚を求めて久一が市場に顔を出すと、競りの立会い人たちは"あらかた良い魚はル・ポットフーに持って行かれる"とか、目をつけた魚を手に入れるためには金に糸目を付けなかったため、浜値が上がってしまうとボヤきあったのだそうです。

 久一の伝記「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか」では、彼の徹底したこだわりを物語るさまざまなエピソードが紹介されています。ル・ポットフーが開店して間もない頃、久一は室井という新人コックに東京八重洲の百貨店「大丸」に夜行列車で向かうよう指示します。
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 翌日のディナーには、酒田の鉄工所が外国の客をもてなすための予約が入っていました。目的は卓上を飾るにふさわしい大きさのその国の旗と日の丸を手に入れること。それだけの目的のため「旗を買ったら、すぐに電車で戻って来い」と久一から念を押されていた彼は、翌朝開店とともに旗を入手、とんぼ帰りで酒田へと戻るのです。それからも偶然に久一と目が合っただけで「山に行ってタラの芽を採って来い」などと命じられることがしばしば。東京生まれで、自生する天然の山菜など見たことも無いその新人を見送りながら「熊には気を付けろ」と久一は言い添えるのでした。

【Photo】 日本イタリア料理界の重鎮、室井 克義氏

 先月末に同書の著者・岡田 芳郎氏の講演が酒田で催されました。岡田氏の講演に続いて、氏を進行役に太田シェフとかつて旗を買いに行かされた室井 克義氏による鼎談が行われました。開会に先立って話を伺ったご本人の弁によれば、太田シェフに憧れて25歳でル・ポットフーに入ったという室井シェフ。久一がいつも店でこうしていたと言いながら、彫刻家ロダンの「考える人」のように腕組みをして歩く様子の真似をしてみせてくれました。常識に囚われず、もっと良いもの、更なる高みを常に目指していた久一は、「そうじゃないんだよ」と噛み締めるように力を込めて語るのが口癖だったそうです。久一から薫陶を受けた一年の間に料理の道を志す者として多くのものを得たと室井シェフは語ります。この道で成功した現在でも、時折「常務(久一のこと)なら、こんな時にきっとこうしただろうな」と、思うことがあるのだとか。接した期間は一年と短かったものの、久一からは計り知れない大きな影響を受けたと振り返ります。

Talksession.jpg【Photo】2008年3月末、酒田で行われた岡田 芳郎氏の講演会で。左より聞き手の岡田氏と"一度も面と向かって褒められたことはなかった"久一との思い出を語る太田 政宏氏、室井 克義氏

 久一のもとで素晴らしい素材と出合った室井氏は、のちにイタリア料理に転進。ホテル西洋銀座「アトーレ」総料理長を17年間務め、2003年(平成15年)銀座にリストランテ「M' Di Piu エム・ディ・ピュー」をオープン。現在もオーナーシェフとして活躍中です。(「M」は名前の頭文字。「Di Piu」は 「もっと」「より以上に」という意味のイタリア語)氏は「日本イタリア料理協会」を1988年(昭和63年)に設立し、初代会長に就任。1991年に北イタリアピエモンテ州Torino トリノで設立されたイタリア料理を学ぶ若い外国人のための教育研修機関「ICIF イチフ」(Italian Culinary Institute for Foreigners)の立ち上げにも尽力、本部を同州Costigliole d'Asti コスティリオーレ・ダスティに移した今も数多くの料理人を志す若者がアンジェロ・ガヤやマウリッチャ・フェレッロLink to Backnumberなど一流の講師陣が揃うICIFで学んでいます。いつの日か久一のような類いまれな足跡を残す若者がそこから現れるのかもしれません。

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【Photo】1976年10月29日午後5時40分、グリーンハウスで火災が発生。折からの強風のもと燃え盛る炎によって、市街中心部を焼き尽くす大火となった。左写真は炎上するグリーンハウス。(写真提供:酒田市資料館)   酒田大火の被害を伝える1976年10月30日(土)の河北新報夕刊(下写真)クリックで拡大
 
1976.10.30KAHOKU.jpg 1976年(昭和51年)10月29日の夕刻、ディナー客に料理の説明をしていた久一に、酒田中心部の中町で火災が発生して市街に燃え広がっていることが知らされます。みぞれ混じりの冷たい雨と瞬間最大風速26メートルの西寄りの強風が吹き荒れる中、煽られた炎は、あっという間に東側市街地へと燃え広がります。その火元となったのが若き日の久一が手塩にかけてつくり上げたグリーンハウスだったのです。翌朝5時に鎮火するまでに延焼面積は22.5haに及び、1,023世帯 3,300名が焼け出されます。

sakatataika.jpg 死者1名・負傷者1,003名を出したこの「酒田大火」の被害総額は405億円と推計され、火災による被害規模では戦後四番目といわれました。当時社長の座にあった父・久吉は、謝罪会見の席上、映画事業を整理し、その余剰金と土地の売却益を罹災者に全額拠出することを発表します。映画館の運営は久一の手を離れて久しかったものの、酒田市民の間ではグリーンハウスと久一は深く結び付いていました。家財を失い復興に向け苦難の道を歩んだ酒田市民にとって、久一は怨嗟の対象であり続けました。酒田大火は、街の誇りだった映画館グリーンハウスを造り、"酒田にル・ポットフーあり"と全国に街の名前を知らしめた立役者、佐藤 久一の名に暗い翳を落としたのです。

【Photo】火災の発生から一夜明けた1976年10月30日、一面の焦土と化した酒田市街中心部。外壁だけを残して焼け落ちた大沼デパート。その右隣に火元となったグリーンハウスがあった

 仙台市泉区のフランス料理店「ジュアン・レパン」のオーナーシェフ 織田 寛二氏は、1978年(昭和53年)にル・ポットフーで料理人としてのスタートを切りました。1954年(昭和29年)兵庫県生まれの織田シェフは、関西大学で法律を学んでいた1976年(昭和51年)にル・ポットフーの料理と出合います。学生時代より食べ歩きが趣味だった織田氏はその味に魅せられ、料理人の道に進みました。'83年に渡仏するまで在籍したル・ポットフーで接した久一は、直接厨房に対してあれこれ言うことは無かったそうです。自分が目利きした素材で「こんな料理ができないか」と相談を持ちかけるのが太田シェフでした。久一の意図を汲んだ太田シェフが手がける試作品を久一が味見をして、ル・ポットフーの料理として磨き上げていったのです。

kanji_oda.jpg 当時「日本一」との呼び声が高まっていた店を訪れる客に最高のものを提供すること。その難題に応えて皿の上にそれを見事に表現した太田シェフは、織田氏にとって善き指導者であり、生き方を見習うべき先輩でもありました。織田シェフによれば長い歴史を持つにもかかわらず、ル・ポットフー出身の料理人は意外と数少ないのだといいます。なぜならそこは"居心地が良かった"からだとか。厳しい上下関係が当たり前の料理の世界では珍しく、太田シェフは調理が一段落したところで厨房スタッフ全員で洗い物をしていました。太田シェフ以下全員でスキューバダイビングの免許取得に取り組み、皆で「バイ貝」や岩礁に生息する「カメノテ」などを採っていたそうです。
  
【Photo】 「ジュアン・レパン」の織田 寛二シェフは、当時誰も同行しなかった久一の魚の買出しにしばしば運転手役として同行した。夜中に厨房の調理用ワインを飲んでしまう久一に対抗して「ワインにヴィネガーを入れたり、タバコの中にマッチを忍ばせたりした」と笑う

 久一の並外れた味へのこだわりを一身に受け止め、それを料理として完成させる太田シェフ。この頃には店の名声は高まる一方で、この二人が編み出す類まれな料理を味わう観光バスのツアーが組まれるまでになります。1978年(昭和53年)、評判を聞きつけて店を訪れた雑誌「四季の味」編集長・森須 滋郎(もりす じろう)は、見事な久一の接客ぶりに感嘆します。全国の飲食店を見てきた森須編集長は、素晴らしい料理を優雅な立ち振る舞いで提供する久一を「日本一のメートル・ドテル」《注》と絶賛します。 一方で人口10万程度の地方都市で、原価率がいかにも高いであろう料理を常識ではあり得ない低価格で出して経営が成り立つのかを問いかけました。Otacuccinakeyaki.jpgすると久一は「ホテルの4階・5階と6階の一部を占める宴会場収入で採算は取れている」と事もなげに説明するのでした。さらにこうも付け加えます。「3階のレストランは、道楽であり、自分の生き甲斐だ」と。

【Photo】 階段を下りて店の扉を開けると目に入る「レストラン欅」の厨房。父の跡を継いだ息子の舟二(しゅうじ)さんら、きびきびと動く調理スタッフとともに調理の指揮を執る太田シェフ(左) 撮影;2008年3月

 "食は芸術であり、文化である"との固い信念のもと、原価率が七割を超える看板のおまかせ料理を提供するル・ポットフー。日ごと高まる名声とあいまって店に投入する労力と経費は膨らむ一方。店は慢性的な赤字体質を抱えていました。家に戻らず店に泊り込む日々を送る久一に "会社の資金を道楽に注ぎ込んでいる" という風当たりが次第に強まります。その重圧から逃れるため、久一は酒に溺れてゆきました。「日本一のレストラン」という賛辞は、同時に久一を追い込んでいたのです。過度の飲酒による十二指腸潰瘍で倒れた後も、コックコートに酒を忍ばせ酩酊状態で接客する久一に従業員たちは距離を置くようになります。

 1988年(昭和63年)6月にはフロアを取り仕切る名マダムとして活躍していた鈴木 新菜(にいな)が、8月には仕入れに関する意見の相違で太田シェフが相次いで店を去ります。こうして厨房とフロアの核を失ったル・ポットフーには、その後微妙なズレが生じてゆきます。"酒田の宣伝のためだから"と採算を度外視した久一のやり方を擁護してきたオーナーの五十嵐 薫も、累積赤字が一億円を超えた'80年代後半には経営上看過できない状況に陥っていました。オーナーが代替わりした翌月の1993年1月31日、久一は心血を注いだル・ポットフーの支配人の座を解雇同然の形で追われます。それは清水屋デパートにル・ポットフーを開店して20年目のことでした。

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【Photo】 「魚たちがおいしくなるから―。寒流にもまれた冬が好きです」という添え書きとKyuichi Sato のサインがある'95年冬のおまかせメニュー。料理人の神様と称えられたリヨン近郊のレストラン「La Pylamide ピラミッド」のフェルナン・ポワン未亡人、マダム・ポワンのような味わいのある美しい筆跡はもはや失せている。太田シェフはこの頃すでに久一の体調がかなり悪かったはずだと語る。前年に日本テレビの取材を受けた際のメニュー クリックで表示 の筆跡には、現場復帰一年後の意欲がまだ滲み出ているように読み取れる

 自身が創り上げた夢の城と呼ぶにふさわしいル・ポットフーを追われた久一に救いの手を差し伸べたのは、'84年(昭和59年)から荘内振興の社長に就任していたかつての盟友・小林 元雄氏でした。自ら飛び出す形で一度は袂(たもと)を分けた小林氏の誘いでグループ傘下の和食店を手伝うものの、そこはフランス料理を極めた久一の居場所ではありませんでした。久一が完全に浮いた存在となっていると聞いた小林社長の提案で古巣の欅に久一が戻ったのが1993年9月。63歳を迎えていた久一は、再び原点に戻って日本一のレストランを目指そうと欅のスタッフに呼びかけます。かつての顧客約1,000名に宛てて送られた挨拶状クリックで表示には、あと20年常にレストランに立って料理の夢を追い続けてゆきたいとの決意が記され、こう結ばれていました。「料理、それは思い出・・・・・。」
 
 しかし待ち受けていた運命はそれを許さなかったのです。
 
 1996年(平成8年)に年が改まる頃には、久一は体調を崩して店を休みがちになります。医者嫌いの久一は、家族や周囲に体の不調を一切明かしませんでした。michikomikawa.jpg嫌がる本人を周囲が説き伏せて市立酒田病院に入院させたのが10月29日。それが奇しくも酒田大火の日であることに不吉な思いにとらわれたというのが、欅でフロア係を務める三川 美和子さん。1989年(平成元年)にル・ポットフーに入社以来、久一が欅に戻った'93年9月に欅に移り、尊敬する久一のもとで働いてきました。欅のダイニングルーム奥にある個室に私を案内した三川さんは「久一さんはこの場所にテーブルを二つ並べてメニューを書いていました」と部屋の隅を指差すのでした。そこには久一の残像がまだ残っているように思えてなりませんでした。

【Photo】 「ここで久一さんはメニューを書いていたんですよ」と語る三川 美和子さん。清水屋が新生「マリーン5清水屋」としてリニューアルした2012年、新規開店したフレンチレストラン「L'Oasis ロアジス」に太田シェフとともに移った

 親族に伝えられた精密検査の結果は、久一が末期の食道ガンに侵されているというものでした。自身の病名を知らない久一は、入院後もしばらくは三川さんに店の予約状況を確認する電話を毎朝かけてきたそうです。起き上がれぬほどに衰弱が進み、集中治療室に移ってからも、混濁する意識が覚醒するひとときの間に「中華料理を研究して欅で本格中華に挑戦するんだ」と語っていた久一は、1997年(平成9年)1月23日、静かに息を引き取ります。夢を与えた多くの人々から「久ちゃん」と親しまれ、世界一の映画館と日本一のレストランの支配人という輝かしい業績を地元酒田に残した男。かつてグリーンハウスで映画の幕開けを告げた「ムーンライトセレナーデ」が流れる葬儀場の祭壇に飾られた遺影は、欅で再起を期した3年半前の挨拶状の写真でした。その葬儀は華やかな伝説に彩られた久一には不釣合いなほど、ひっそりとしたものだったといいます。

libro_okada.jpg 岡田 芳郎氏は、著書「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか」の中で、久一が駆け抜けた67年の人生の栄光と悲惨を見事に描いています。岡田氏は光と同時に闇を抱えていた生身の久一を果たして好きになったかどうかわからないと語ります。それでも著者が逆説的なこの本のタイトルに込めた思いに共感する酒田市民が多いことは、地元でこの本がベストセラーになっていることからも窺えます。つい最近まで酒田では佐藤 久一の記憶は封印されたままでした。

 久一の名を口にすることすらタブーにした大火から30年が過ぎた2007年12月に本の出版に先立って酒田で催されたグリーンハウスの「想い出コンサート」と、この本の出版を契機に死後10年を経てようやくスポットライトを浴びた感がある久一の業績。その検証は、これから改めて市民の手によってなされることでしょう。愛する地元の素材を徹底して磨き上げることで、鮮烈な輝きを放った一人の男の存在が忘れ去らないためにも、そうあって欲しいと願わずにはいられません。

「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか」岡田 芳郎著 講談社刊 1785円(税込)

《注》メートル・ドテル(Maitre d'hotel 仏語)レストランにおける現場サービスの責任者。メイン・ダイニングルームで給仕を指揮をする給仕長

◆食べログもチェック ⇒ ル・ポットフーフレンチ / 酒田駅

昼総合点★★★★ 4.5 。
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