あるもの探しの旅

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日本初の温水路

先人の英知が遺した日本初の太陽光温水装置
 「上郷温水路群」@ 秋田・象潟

kotaki_chokai.jpg【photo】万年雪を頂く鳥海山の懐に抱かれた秋田県にかほ市象潟町上郷地区。鳥海山の豊かな水が稲穂の中を流れる小滝温水路。一見ありふれた農業用水路だが・・・

 秋田県にかほ市象潟町上郷(かみごう)地区一帯では、秋田・山形県境にそびえる鳥海山の稜線が北側に延びる緩やかな傾斜地でコメ作りが盛んに行われています。そこでは紀元前466年に起きた鳥海山の大規模な噴火などによって吹き飛ばされた巨大な岩の塊が田んぼの所々に見られます。この地のコメ作りには、鳥海山が深いかかわりを持っており、今回はそこに記された昭和初期から脈々と続けられてきた人々の英知の足跡をたどってみましょう。

agariko_daio.jpg【photo】樹齢300年以上と推定される奇形ブナ「あがりこ大王」は、中島台の森の主クリックで拡大

 北西の季節風によって、山頂東側の積雪が多い年で50m、年間降水量が20,000mℓと、熱帯雨林並みの降水量に達するといわれる鳥海山は、豊かな水の恵みを人里にもたらします。上郷地区から鳥海山の山腹に向かう県道象潟・矢島線の先にある「中島台レクレーションの森MAP」には、全長5km の遊歩道が整備され、2時間20分ほどでブナの森を探索できます。そこには幹周りが7.62mと日本一の太さがある「あがりこ大王」をはじめとする奇形ブナの森があり、樹齢300年を超える威容を誇るあがりこ大王の枝越しからも万年雪を頂く鳥海山頂が垣間見られますclicca qui 。森を管理する田中 二三男さんによると、特に朝早い時間帯には、森と付近の路上でクマを目にすることは決して珍しいことではないそうです。

detsubo.jpg【photo】豊富な伏流水の湧出により、ブナの木漏れ日を映す水面には絶えず複雑な流紋が描き出される。獅子ヶ鼻湿原の「出壷」
 
 遊歩道で巡る先に広がる獅子ヶ鼻湿原には、鳥海山の伏流水が湧き出すスポットが数多くあり、年間通して水温7℃あまりという冷たい水が随所で湧き出してきます。手を切るように冷たい水には、1分と手を浸していられません。"クマの水飲み場"という物騒な異名を持つ「出壺」では、今年のように少ない年でも毎秒200ℓ、多いときには400ℓも湧き出してくるという水が岩の隙間へと渦を巻きながら吸い込まれてゆくダイナミックな水の動きが見られますclicca qui 。そこは、苔むした岩肌から大量の伏流水がほとばしり出る「元滝clicca qui 」と並んで、鳥海山の豊かな水の循環を目の当たりにできる格好の場所です。

【photo】マリモとはいうものの、藻ではなく苔が水の中で成長した「鳥海マリモ」(下写真左)
鳥越川から温水路への取水口。獅子ヶ鼻湿原から3kmの導水トンネルを抜けてきた水は一段と冷え込んでおり、川霧が漂うそこは夏でもひんやりと涼しい(下写真右)

shusuiko_onsuiro.jpg chokai_marimo.jpg

 水深約2mの底がくっきりと見て取れるほど透明度が高い水ですが、数値が7より多ければアルカリ性、少なければ酸性の度合いが高くなるpH値が、火山性土壌の影響によって4.6~4.7%という酸性を示します。そのため殺菌効果は高いものの飲用には適しません。その流れの先には、水苔が流水の中に堆積して形作られた天然記念物「鳥海マリモ」が群生します。湿原付近から湧出した水は、赤川・鳥越川・岩股川となって流れ出し、発電用に引かれた水路には、水温が気温よりもはるかに低いために水面からは霧が立ち込めています。

 雪解け水が地中にしみ込んだ伏流水は、標高550mの獅子ヶ鼻湿原一帯から湧出し、川となって標高200mの上郷地区に流れ着く時点でも、水量が豊かなだけに10℃ほどまでしか水温が上がりません。稲が健全に生育するためには最低でも15℃の水温が必要なため、かつては上郷に暮らす人々は、冷たい川の水口にある水田一枚を稲を植えない捨て田としてあてがわざるを得なかったといいます。

kamigo_haichizu.jpg【photo】県道象潟・矢島線の道沿いの場所(「現在地」と表記)に建つサインボードに記してある「上郷温水路群」の配置・・・①大森温水路 ②水岡温水路 ③長岡温水路 ④象潟温水路 ⑤小滝温水路

 1926年(昭和2)1月、豊富な鳥越川の水を活用した横岡第一水力発電所が稼働、さらなる水温低下の要因となる延長3kmの導水トンネルを掘削した電力会社から住民に補償金17,000 円(現在の貨幣価値換算で約1千万円)が支払われます。当時の上郷村長岡集落の世話役であった佐々木順治郎(1882-1952)は、日当たりの良い場所に傾斜が少なく、できうる限り水路幅を確保する一方で水深を浅くした農業用水路を作ることで、水の温度を上げられないかと思案します。水路には随所に高低差のある落差工が設けられ、水が滝となって揉まれることで摩擦熱がkisakata_onsuiro.jpg生じて温度が上昇しやすいよう設計されます。冷水による生育障害で思うようにコメの反収が上がらなかった地区の人々は、順治郎の呼びかけに応じて、農作業の合間や農閑期に労を惜しまずに岩を運び水路を広げる土木作業を行いました。現在のように重機で工事を行ったのではなく、全て人力でなされたという作業はさぞ大変だったことでしょう。

【photo】水路幅を広げ、水深を浅くした象潟温水路を流れる水に日差しが燦々と注ぐ。こうして10℃前後と水温の低い水は徐々に温められる

 最初に着工した長岡温水路が完成すると、水路の入り口から耕作地に至るまでに水温が平均で3.8℃、最高8℃も上昇してコメの収量が徐々に上がってゆく期待通りの成果をもたらします。考案者として陣頭に立った順治郎が温水路の効果を見届けるようにこの世を去ったのは、温水路整備が秋田県営の事業となった翌年の1952年(昭和27)のこと。以降1960年(昭和35)までの間に長岡・大森・水岡・小滝・象潟という合計5つの温水路が上郷地区周辺に整備されます。これらの温水路は現在「上郷温水路群」と総称され、総延長6,281mに合計215カ所の落差工が設けられ、今もすべて現役の農業用水路として活躍しています。

kotaki_onsuiro1.jpg【photo】県道象潟・矢島線沿いを流れるため、上郷温水路群のなかでは、最も場所が判りやすい小滝温水路。流れに手を入れてみると、獅子ヶ鼻湿原の手を切るような水とは違い、太陽のぬくもりが感じられ、温水路の効果を実感できた

 鳥海山を背景に青々とした水田が広がる田園風景に溶け込む幾つもの階段状の流れを形成する温水路と初めて遭遇したのが2年前の夏。それは中島台の奇形ブナの森を目指していたに過ぎない私にとって、全く偶然の出合いでした。融雪水の低温障害という厳しい自然条件に立ち向かおうとした人智が作り出した見事な仕掛けを前にして、そこを取り巻く周囲の環境や作られた目的は全く異なるものの、前世イタリア人である私は、とある既視感(デジャヴ)に見舞われたのです。水が階段状の段差を流れ下るさまは、南イタリア・ナポリ近郊 Caserta カセルタにある世界遺産の壮大なバロック様式の「Reggia di Caserta e Parco カセルタ王宮と庭園」の全長3kmに及ぶ建築家ルイージ・ヴァンヴィテッリが設計した階段状の水路を彷彿とさせたのでした。

reggia_caserta.jpg【photo】ナポリ王国の威信をかけて1752年に造営が始まったカセルタ王宮のバロック庭園(左写真)。階段状の水路が延々と続く片道3kmの庭園は、往復歩くと足が棒になること請け合いなので、園内を走るバスか馬車で奥まで進み、彼方に見えるファサードの幅が250mもある巨大な宮殿まで緩やかな下り道を徒歩で戻って来るのが得策。野村不動産のマンション「PROUD」シリーズの最新CMに登場するのが、この庭園。モデルの森下久美さんと"世界一の時間へ"ひとときの現実逃避を図りたい方は〈コチラ〉をチェック・プリーズ(笑)。ロングバージョンでは、呆れかえるほど長大なこの庭園のスケールが空撮の動画でご覧頂けます

 とりたてて物理や土木工学に関する知識があったわけではない一介の農民であった佐々木順治郎が、日本で初めて考案し、住民と手を携えて作り上げた上郷温水路群は、2003年(平成15)に社団法人 土木学会によって土木学会選奨土木遺産として認証されました。その意義は、"鳥海山からの融雪水による冷水害対策として、水路幅を広く、水深を浅くし、落差工を連続させた日本で初めての温水路である"というものでした。加えて2006年(平成18)には農林水産省によって、"日本の農業を支えてきた代表的な用水"として疎水百選のひとつに選定されます。

kotaki_onsuiro2.jpg【photo】土木学会選奨土木遺産の記念プレート(写真手前)とベンチが設置された親水空間となった小滝温水路の下流部分。そこでは地域の子ども達が温水路について学ぶ校外学習が行われる

 コメの収量を上げる効果が実証された温水路は、後に上郷地区だけでなく、鳥越川下流域の白雪川沿いに1962年(昭和37)~1967年(昭和42)にかけて、この一帯に存在する温水路では最長となる7,190mに及ぶ「岱山(たいやま)温水路」が整備されます。さらに1975年(昭和50)~1982年(昭和57)には、最も新しい温水路として1,306mの長さを持つ「金浦(このうら)温水路」が作られました。

kaneura_onsuiro.jpg【photo】白雪川水系の温水路では最も新しい昭和57年に完成した金浦温水路。落差工部分に岩を積み上げた初期の温水路とは違い、最新の土木工学に基づき、全体がRC作りとなっている。15mもある水路幅のスケールは右側に停車しているalfa Breraと比較すれば一目瞭然クリックで拡大

 毎年6月第一土曜日には、田植えを終えた地区の人々が、温水路の清掃や周辺の草刈りなどの奉仕作業「早苗饗(さなぶり)普請」を行います。早苗饗は読んで字の通り、無事に田植えを終えた農家の人々が、五穀豊穣をもたらす田の神に感謝の意を表すため、6月初旬ごろに行う宴を指します。上郷の人々は、祖先が汗を流して築き上げた温水路への感謝を田の神を敬う心と共に絶えず抱いてきました。毎年7月には、上郷温水路のある5つの集落の人々が、水源となる鳥越川上流域にある大水揚場までの10kmを片道2時間をかけて遡上、水神に参詣するとともに水源付近の倒木を除くなどの手入れを実施しています。

kisakata_tsukumojima.jpg【photo】白雪川水系の温水路の水は、上郷など鳥海山麓の水田のみならず、名勝「九十九島(つくもじま)」で知られるこの象潟付近の田畑をも潤し、やがて日本海へと注ぎ、日本一美味しいといわれる岩ガキをはじめとする海の幸をも涵養している

 佐々木順治郎の発案から80年あまり。鳥海山と太陽の恵みを活かした温水路は、どれだけの豊かな稔りと人々の心に潤いをもたらしたことでしょう。ブナの森に端を発する清らかな水は、これからも決して枯れることなく大地を満たしてゆくに違いありません。

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コメント

 実際に行ってみました。このような苦闘の歴史があろうとは、気付かずにそのまま通り過ぎてしまいそうな水路でした。

 実際、水に手を入れてみましたが、手が凍りつきそうになる中島台の中の水とは違って、ぬくもりが感じられました。

人間の英知に感動ですね。

▼donburaco様

コメントをお寄せ頂きありがとうございます。鳥海山北側斜面から湧き出すブナの森、中島台の水は手を切るように冷たい水です。遊歩道沿いの水路を流れる水には、30秒も手を浸していられません。その水をコメ作りに活用せざるを得なかった上郷地区の農民の苦労が偲ばれます。

某県知事式にいえば「どげんかせんといかん」と、温水路を編み出した佐々木順治郎と労を惜しまず賦役についた上郷の人々には畏敬の念を覚えます。

環鳥海地域には、水にまつわる素敵なスポットが数多くあります。これからもそんな場所を訪ねて参りますので、お付き合いのほど。

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