あるもの探しの旅

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2013/12/29

ことだまみしらず

 会津身不知柿について記した前回12月15日(日)、NHK大河ドラマ「八重の桜」が最終回を迎えました。武家社会が終焉を迎えた幕末から、薩長土肥による藩閥主導で中央集権型の富国強兵国家建設へとひた走った激動の時代。抗いようのない歴史の大きなうねりに直面した会津の群像と、時代の転換点を恩讐を越えて生きた綾瀬はるか演じる新島八重の姿に、改めて感銘を受けた庄イタなのでした。

 徳川への忠誠を貫いたことが徒(あだ)となり、勝ち目のない闘いへ追い込まれていった会津。八重は戊辰戦争の端緒となった鳥羽・伏見の戦い(1868・慶応4年1月)で2歳年下の弟・三郎を失います。後の鶴ヶ城籠城戦では、亡き弟の形見となった軍服を着用し、八重は戦いに臨むのです。

tsurugajyo.jpg【Photo】2011年春の改修によって、藩制期の赤瓦が蘇った会津若松城(鶴ヶ城)

 奥羽諸藩による会津救済の嘆願に耳を貸さなかった西軍の主力部隊は同年6月に白河口、次いで9月に二本松へ進軍。雪中戦を不利と見て母成峠から一気呵成に会津若松へ侵攻したのが10月8日午前。越後口、日光口と三方に守備が分散し、迎撃態勢が整わない混乱の中、予備役であった白虎隊や家老・西郷一族のような婦女子の自刃、そして薙刀で銃列に斬り込んだ婦女隊など、幾多の惨劇が起こります。

 斬髪・男装し、スペンサー銃を携え悲壮な覚悟で籠城戦に臨む八重。火力で圧倒する西軍との絶望的な闘いの中、玄武隊員として参戦していた高島流砲術師範の父・山本権八が11月1日に戦死。そうした幾多の血が流された挙句、藩主・松平容保が白旗を掲げたのが11月6日。その2日後、奥羽越列藩同盟諸藩の中で最後まで抵抗した庄内藩が降伏したことで、越後と会津が主戦場となった戊辰戦争がほぼ終結。旧幕臣の榎本武揚や新撰組残党らが最後の抵抗を試みた蝦夷地・函館で収束を迎えます。

tsurugajyo_inverno.jpg【Photo】純白の雪をまとい、無垢姿となった冬の会津若松城(鶴ヶ城)

 明治新政府によって賊軍の汚名を着せられた東北諸藩でも、京都守護職として倒幕派掃討の任を負った会津藩は、とりわけ8月18日の政変や禁門の変で朝敵とされた長州藩の怨恨を買っていました。会津松平家は断絶こそ免れますが、旧領地は政府直轄となり、隣接する猪苗代ないしは下北半島への転封を迫られます。八重の桜では山本家が身を寄せた米沢でのつましい暮らしを中心に描かれましたが、旧会津藩士は謹慎が解かれた1870年(明治3)、新天地・下北を目指します。

 ところが斗南藩と名付けられた現在のむつ市・小川原湖周辺は、旧禄23万石と比較にならない3万石とは名ばかりの極寒の荒地。郷里で帰農した若干名を除き、旧藩士2万人のうち、移住した1万7千人には慣れない土地での過酷な授産生活が待ち受けていました。

 8歳で経験した会津戦争で母と姉妹らが自刃、のちに陸軍大将を務めた柴五郎(1860-1945)の回顧録「ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書」(石光真人編著/中公新書)に「挙藩流罪という史上にかつてなき極刑」という表現にある通り、栄養不足などで移住先で命を落とす者が続出した耐乏生活は辛酸を極めました。

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 今年の夏、青森・三沢を訪れた折、三沢市先人記念館に展示されていたのが、一片の褪色した緋毛せんの切れ端「泣血氈(きゅうけつせん)」。命運尽きて西軍の軍門に降った松平容保が臨んだ降伏調印の場に敷かれていた緋毛氈を藩士らが切り分け、敗戦の無念を胸に刻んだ印とされます。斗南藩主として下北に移った松平容保の嫡男・容大(かたはる)が、1871(明治4)7月の廃藩置県により東京に帰還。斗南県が弘前・黒石や旧南部領七戸などとともに青森県へ編入されると、旧会津藩士はその多くが会津へ帰還する道を選んだといいます。

【Photo】「八重の桜」最終回の再放送日に頂き物をした身不知柿

yaenosakura_last.jpg 八重の桜最終回「いつの日も花は咲く」は、会津戦争終結から30年後が描かれます。1896年(明治29)、日清戦争で篤志看護婦として負傷兵の看護にあたった献身的な活動に対し、八重は民間出身の女性として初叙勲の栄に浴します。翌年春、会津に戻った八重は、元・家老の西郷頼母と再会。満開の桜を愛でる二人が交わした言葉が印象的でした。

 ・八重「花は散らす風を恨まねえ、ただ一生懸命に咲いてる」
 ・頼母「八重、にしゃ(会津弁で「お前は」)桜だ。花は散っても時が来るとまた花を咲かせる。何度も何度も花を咲かせろ」

 大河ドラマの最後に発した八重の言葉は「私はあきらめない」という会津訛りのモノローグでした。今は寒く厳しい季節のさなかにある会津・福島にも、春が訪れれば桜の花は咲き、来年の秋が巡ってくれば、身不知柿が橙色の実を結びます。

 深い悲しみの淵から立ち上がり、新たな地平を切り開いた一人の会津女性の目線で描かれた大河ドラマの終章をリアルタイムで視聴はできませんでしたが、再放送の21日(土)は自宅で過ごしていました。その日の朝、知り合いから、"お裾分け"と手提げ袋に入った頂き物をしました。そこにはなんと会津身不知柿が入っていたのです。

 そこで浮かんだ言葉が「言霊(ことだま)」。古来、言葉には霊的な力が宿ると考えられ、言葉にしたことが、吉凶禍福いずれにも物事に対して影響を及ぼすと考えられてきました。

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【Photo】言霊で拙宅に届いたとしか思えない身不知柿。カキと相性の良いドングリの香り漂うスペイン産ハモンセラーノを巻いて食した

 志貴嶋 倭國者 事霊之 所佐國叙 真福在与具(しきしまの やまとのくには ことだまの さきはふくにぞ まさきくありとぞ)
訓読み:磯城島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ ま幸くありこそ/ 万葉集巻十三
志貴嶋(しきしまの)」は、「倭」やまと(=大和)に掛かる枕詞。事霊=言霊。事象と言葉を同一視した古代日本の考え方による。
 【意訳】 大和の国は言葉の霊力によって幸福がもたらされる

 遣唐使への送別に詠まれたと推測されるこの歌は、山部赤人とともに歌聖として別格の扱いを受ける三十六歌仙の筆頭格にあたる飛鳥時代の歌人・柿本人麻呂歌集に収められています。没後1300年あまりを経た現在も、歌人として広く名を知られる人麻呂は、持統天皇治世前後の飛鳥時代に詠んだ短歌・長歌が残されているだけで、極めて謎の多い人物です。「色は匂へど 散りぬるを」で始まるいろは歌の作者だという説や、百済からの亡命者だったという推測すら存在し、生没や来歴は何一つ確かなことはありません。

 柿にちなむ姓を名乗る歌人が和歌に詠んだ言霊が実際に形となったエピソードをもって、新たな年が佳き年であるように望みを託す型どおりのご挨拶が、言霊となって実現するよう願いを込め、この1年を締めくくることにします。

 皆さま、どうぞよい年をお迎えください。baner_decobanner.gif
 

2013/12/15

会津の橙、「身不知柿」

terme_ashinomaki.jpg ぽつぽつと降りだした雨に急かされるように後にした大内宿。R118下野街道を大川ダムから大川(阿賀川)沿いに進むと、渓谷を見下ろす芦ノ牧温泉を通ります。「牛乳屋食堂」の看板を左折した先は会津鉄道芦ノ牧温泉駅。小さな木造の駅舎にいつの間にか住みついたのだという「バス」という名のメス猫が名誉駅長を務めています。どうやら"構内巡回"の名目で職場から姿をくらますことが多いらしく、空振りのリスクは避けることにしました。本能と欲求に忠実な仕事ぶりは動画とブログ「ネコ駅長『ばす』の日記」で。

【Photo】会津若松市街地と大内宿まで、ともに車でおよそ30分の中間地点にある芦ノ牧温泉郷

 大内宿近辺では目にすることすら稀だった人家が道沿いに増え、その庭先を飾る鮮やかな橙(だいだい)色に目を奪われるようになりました。登る日輪が照らす東の空、沈みゆく夕陽に燃える西の空、そして茶の間ではコタツの卓上に置かれたミカンの色である橙色の語源となった「橙(ダイダイ)」は"代々"につながる縁起物ゆえ、正月飾りに欠かせません。Bitter orange(英語:ビターオレンジ)、Arancio amaro(イタリア語:アランチョ・アマーロ)という名の通り、酸味と苦味が強く生食には適しません。地球温暖化が進む昨今、その栽培の北限は福島浜通りから宮城県南にまで達しようとしています。しかるに冬の冷え込みが厳しい会津での露地栽培は不可能。会津で橙色の果物といえば、「身不知(みしらず)」をおいて他にはありません。

mishirazu_cac hi2013.jpg【Photo】すっかり葉を落とした枝からこぼれんばかりに橙色の実をたわわに結んだ身不知柿が冬近しを告げる。会津若松市大戸町雨屋にて

 現在の二本松市小浜一帯を治めていた戦国武将・大内氏が、西念寺の僧侶夕安(せきあん)を中国に留学させ、帰朝時に中国から苗木を持ち帰ったため、「西念寺柿」という別称も存在する身不知柿。父・輝宗の弔い合戦に臨んだ伊達政宗に追われ、会津に逃れた大内・畠山ら二本松勢とともに16世紀末に会津へと持ち込まれたといわれます。

mishirazu2_cachi.jpg【Photo】晩秋の雨にしっとりと濡れ、より一層鮮やかさを増した身不知柿

 初代・朝宗が居城を構えた伊達氏発祥の地が福島県伊達市。同市北部の梁川町五十沢(いさざわ)地区から宮城県丸森町耕野(こうや)地区にかけては、寒風に晒して柿渋を抜き、うま味を凝縮させる「あんぽ柿」ないしは「ころ柿」と呼ばれる干し柿の一大産地です。そこで使われるのは同じ渋柿でも「蜂屋柿(はちやがき)」と「平核無(ひらたねなし)」。明治期には甘柿・渋柿あわせて1,000種類が存在したという日本では、現在およそ300種が栽培されているといいますから、ところ変われば品変わる、ですね。

 身不知柿という風変わりな名の由来には諸説あります。まずは重さで枝が折れるほど大量の実を結ぶ身のほど知らずの柿だからというもの。我を忘れて食べ過ぎてしまうから、という異説にも頷けます。さらには蘆名と伊達が領地争いを繰り広げた室町期、ときの足利将軍に献上したところ、「これほど美味しい柿を知ることがなかった」と賞賛を得たという伝承も存在します。当の柿は真相を黙して語りませんが、その真相やいかに。

mishirazu3_cachi2013.jpg 会津を訪れたのは11月半ば。現在では会津一円で栽培される身不知柿が色づく季節を迎えていました。そぼ降る雨の中、柿を収穫していた方がおいでだったので、千載一遇の機会と路肩に停めた車を降り、話しかけました。話が出来すぎですが、そこは会津若松市大戸町雨屋。南会津鉄道の無人駅「あまや」がある地区です。阿賀川扇状地の南端にあたるそこから3kmあまり北上すると、皇室に献上する身不知柿の樹が西向きの斜面を覆う一大産地、門田町御山(もんでんまちおやま)となります。

【Photo】見ず知らずの庄イタに、雨の中で収穫したばかりの身不知柿を分けて下さったのがこの方。重ねて謝意をお伝えして、ありがたく頂戴した

 「これが身不知柿ですか?」という庄イタの問いに脚立の上で柿もぎ作業中だった男性は、収穫の手を休めずに「そうですよ」と応じます。聞けば畑の持ち主から依頼され、一人で収穫を行っているところでした。10月下旬から11月いっぱいが収穫時期となる身不知柿も、近年では温暖化の影響で、色付きが遅れがちなのだそう。ムラなく色がつくよう育てるのが栽培農家の腕の見せ所なのだといいます。卒爾ながら声を掛けた私としばし言葉を交わし、「食べきれないから持って行って」と採ったばかりの身不知柿を「まだ渋抜きしていませんよ」と袋に入れて渡して下さいました。

mishirazu4_cachi.jpg【Photo】コロンとした丸みを帯びた形状の身不知柿。一大産地の会津若松市門田町御山に隣接する同市大戸町雨屋のR118沿いには、収穫期には直売所が開設される

 ドライアイスを使う炭酸ガスによる渋抜きでは、4~5日で柿渋を感じなくなるため、パリっとした固めの食感となります。酒造りが盛んな会津では、渋抜きには伝統的に日本酒の副産物としてできる焼酎を用いてきました。会津の花春酒造では柿渋抜き専用の甲乙混和焼酎を発売しているほど。ヘタの部分を焼酎に浸して袋で密封すると、柿渋が抜けるまでの目安は2週間。正月までは日持ちする肉質が固めの身不知柿も、その頃には食感に柔らかさが出てきます。

mishirazu5_cachi.jpg【Photo】収穫直後を頂き、焼酎でさわしてほぼ1カ月を経た身不知柿。甘さがより一層のって、目の詰まった果肉の食感には柔らかさが加わった

 期せずして鶴岡の知人が送ってきたフルーツタウン櫛引産の庄内柿との食べ比べとなった今年。さわして(=渋抜きして)から2週間目に、もう大丈夫かと袋から取り出した身不知柿は、すっきりとした上品な甘さの後に渋みがまだ幾分残りながらも、シャキシャキとした歯ごたえが感じられました。ならばと再度焼酎に浸して1週間ほど経過した身不知柿は、もはや完全に柿渋が抜けて味がより濃厚になり、まったりとした食感に変わっていました。

 う~ん、おいしい。

 丸森や庄内の柿より、遥か遠方の奈良や和歌山産が幅を利かせる仙台では、身不知柿を見かけることはまずありません。ならば会津を訪れて一粒で二度おいしい身不知柿を召し上がってください。どのタイミングで食するかはお好み次第。ただし、"ならぬことは、ならぬものです"という会津藩士としての規範を定めた「什の掟(じゅうのおきて)」にある通り、戸外で物を食べてはなりませぬ。こらんしょ、ふくしま会津。

 驚愕の後日談、「ことだまみしらず」につづく。
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2013/12/08

晩秋の三原色、黄・朱・橙。

深まる秋の大内宿@会津

 黄金色に輝くカラマツの森と燃え立つように色付いた裏磐梯の山並みをいくつ越えたことでしょう。深まる秋を映し出す"うつくしまふくしま"の美景に、幾度となく車を停めて見入ったものです。

hidama_toge.jpg【Photo】秋の装いを深める氷玉峠。現在は自動車で難なく越えることができる「大内宿こぶしライン」も、かつては深い谷と急峻な山を越える下野街道の難所だった。大内宿のひとつ手前の宿場であり、つい数分前に通過した関山宿は、山肌を流れる雲の下に覆われていた 

 会津若松から会津美里を経て日光へと続いていた石畳や復元された茶屋一里塚、苔むした石碑などが随所に残る国史跡「下野街道(別名:会津西街道・南山通り)」に沿って整備された県道131号下郷会津本郷線(通称「大内宿こぶしライン」)で氷玉峠を越えて目指すは、いにしえの宿場町の面影を今に伝える大内宿。本来の読みである「おおちじゅく」は、時の変遷を経て「おおうちじゅく」の呼び名が一般的になりました。

oouchi_jyuku-2013.jpg【Photo】海抜665mの高地にあり、1年の半分近くは雪景色に変わる大内宿。草屋根を根雪が覆い隠すまでの束の間、周囲の山並みは燃え立つかのように秋色に染まる。集落北端の扇屋分家脇の階段をいくばくか登った小高い子安観音堂からの眺望。高度成長期には赤や青のトタン屋根が浸食した家並みは、苔むす草屋根が軒を並べる往時の姿を取り戻しつつある

 観光シーズンの週末には、会津若松から芦ノ牧温泉を経てR118を南下するルートとの合流地点まで渋滞が続き、5km進むのに1時間を要することもあるのだといいます。そのため、観光バスの混雑が予想される湯ノ上会津高田線ルートを避けたのが奏功。10時を回ったばかりということもあって、意外なほどスムーズに大内宿に到着しました。それでも日光方面からR121を北上してくる関東方面からの車も相まって、家並みに最も近い有料駐車場はすでに満杯。蕎麦打ち体験ができる「食の館」から、4~5分徒歩で移動する必要がある宿場北側の駐車場に誘導されました。

shohou_ji-ouchi.jpg【Photo】茅葺き屋根の家並みが軒を連ねる宿場北側の高台に建つ浄土宗正法寺の境内をイチョウが黄色に染める

 1580年(天正18)の秀吉による奥州仕置で会津に入部し、鶴ヶ城を築城した蒲生氏郷の治世には、近郊の村とともに宿駅としての役割を担っていたとされる大内村。徳川の治世となった17世紀には、会津松平家初代・保科正之が、総勢600名にもなる参勤交代の休憩所とした400坪の本陣や、その半分ほどの脇本陣「石原屋」と肝煎住居「美濃屋」を除き、街道に面した間口がおおよそ七間半(約13.5m)、奥行き十一間半(約21m)の建坪40坪の短冊型に屋敷割がなされます。21世紀を迎えた今も、江戸にタイムスリップしたかのような街並みが保存されています。

 古来あまたの人馬が通り過ぎてきた大内宿。かつての宿場へと歩みを進めると、路傍に立つ庚申塔や巳待塔、湯殿山碑などがまずは出迎えてくれます。「浅沼食堂」を営む扇屋分家の前に立つと、南側へと緩やかに傾斜した全幅7m近い旧街道の両側に軒を連ねる茅葺きの家並みが目に入ってきます。会津若松から険しい山越えを強いられたかつての旅人の目には、さぞ人の温もりを感じてほっとする光景だったはずです。

oouchi_jyuku5-2013.jpg 大内宿が人や物資の往来で賑わった当時、山水を引いて街道の真ん中を流れていた水路は、1886年(明治19)に街道の両端へと移設され、現在も用水路として使われています。水場が設けられた水路と家屋の軒下との間は、観光地化が進んだ昭和40年代に作られた植え込みを含めて2間(約3.6m)ほどの仕切りのない空間になっています。

 手入れの行き届いた茅葺屋根は、数軒単位で共有する茅場で収穫し、屋根裏で保管するカヤを融通しあう相互扶助「無尽」に支えられた共同体「結(ゆい」)」によって保たれてきたもの。寄棟造りや兜造りの現存家屋46軒が、南北450mにわたって整然と軒を連ねる統一感ある佇まいは、木造と石造りの違いはあれど、庄イタの目には景観保護の意識が高い欧州の旧市街地と重なって見えるのでした。

S50_ouchijyuku.jpg【Photo】観光客が訪れるようになり、いにしえの街道は1970年(昭和45)アスファルト舗装された。突き当たりに位置し、現在は食事処となった扇屋分家がそうであるように、アルミサッシではなく上部が障子張りの木製「上透かし雨戸」が見られる。煙突の役割を果たす「煙出し」や、寄棟屋根の尾根にあたる棟押え「軒(ぐし)」の一部に青や赤のトタンが見られるものの、茅留めに木材を使う会津の伝統的な建築様式が主流だった1975年頃の大内宿 〈画像出典〉:図説日本の町並み第2巻「南東北」第一法規出版 1982年刊 / 撮影:馬場直樹

 街道に面した2室が客間として使われたのは、3代会津藩主・松平正容(まさかた)の代に参勤交代路が白河街道に移った江戸初期17世紀中葉まで。その後は、会津23万石のコメを江戸へと運ぶ廻米など物資の輸送路として命脈を保ちます。18世紀初頭には類焼家屋が60軒にも及んだ大火に見舞われます。南会津地域に残る茅葺き集落でも、1907年(明治40)の火災で全戸焼失後に再建された人馬一体の暮らしを物語る茅葺き曲家の町並みが2年前に「重要伝統的建造物群保存地区」の指定を受けた南会津町舘岩の「前沢集落」、1896年(明治29)に同じく集落が全焼した同町「水引集落」とは違って、その後は大きな火災もなく200年以上を経て今日に至っています。

S57_ouchijyuku.jpg【Photo】重要伝統的建造物群保存地区に指定され、茅葺きへの葺き替えなどの修景に着手する前、1980年(昭和55)頃の大内宿。現在は無粋なカラートタン葺きの住宅は姿を消し、家並みの東西に迂回道路が新設されて車を締め出した旧街道のアスファルトや電柱は撤去された。路上のTOYOTA初代セリカに時の変遷を感じる 〈画像出典〉:図説日本の町並み第2巻「南東北」第一法規出版 1982年刊 / 撮影:馬場直樹

 余剰電力で揚水発電を行う目的で1974年(昭和49)に着工した大内ダム(画像のダム湖上方が大内宿)に姿を変えた大内沼から大内峠付近は、戊辰の役で戦場となりました。日光口守備隊長・山川大蔵指揮の会津藩士と新政府軍双方による焼き討ちをかろうじて免れます。廃藩置県後の1884年(明治17)、県令三島通庸の独断で着工した会津三方(さんぽう)道路が阿賀川沿いに開削されて以降は、旅人の姿も途絶えます。太平洋戦争前には会津若松-会津田島間に鉄路が敷設され、陸の孤島と化した大内宿はタイムカプセルに納められたかのようにひっそりと命脈を保ってきました。

 1878年(明治11)6月末、英国人女性紀行作家イザベラ・バードがこの地で一泊しています。しかしながら家並みには特段触れずに"山にかこまれた美しい谷間の中にあった"と「日本奥地紀行(原題『Unbeaten Tracks in Japan』)」で簡潔に記しています。

miyamototsune_showa_nippon.jpg それから90年の時を経た1967年(昭和42)、武蔵野美術大学の学生が、甲州で出逢った会津の茅葺き職人「会津茅手(かやて)」研究のため、大内宿を訪れます。それが当時、民俗学者・宮本常一の門下生として同大建築学科に在籍し、現在は母校で教鞭をとる相沢韶男(つぐお)教授。

【Photo】1967年9月、初めて大内宿を訪れた相沢韶男氏が夢中でフィルムに収めたという大内宿。タバコの葉を家並みの前に干す大内宿が表紙に使われた「あるくみるきく双書 宮本常一とあるいた昭和の日本16巻東北③」(農山漁村文化協会 2012年刊)

 中山道・甲州街道・六十里越街道の田麦俣など、各地の宿場を探訪してきた相沢青年は、目にしたこともない宿場時代そのままの面影を留めていた大内宿に魅了されます。恩師が所長を務めていた「日本観光文化研究所」の刊行物で2度にわたって大内宿を紹介。これが大内宿が世に知られる端緒となります。足繁く会津に通うなかで目の当たりにした伝統美を破壊しながら日本中に蔓延していた(相沢教授の言葉を借りれば)無国籍な「官軍建築」の浸食に危機感を抱くようになります。

 電源三法交付金がもたらした徒(あだ)花である赤や青のトタン屋根への葺き替えとアルミサッシ化など景観改変を憂い、宮本常一が朝日新聞紙上で文化財保護の必要性を訴えたのが1969年(昭和44)6月。すぐに観光客が訪れるようになり、炭焼きと自給自作に等しい稲作や葉タバコ栽培、出稼ぎ茅手を生業としてきたムラは、観光業に新たな活路を見出します。その年、旧街道がアスファルト舗装されたことに象徴される開発か景観保護かで意見が二分したまま、街並み保存を旗印に下郷町長に就任した大塚実氏の努力もあって、1980年(昭和55)に景観保護条例が制定され、修景と景観保護に向けた機運が高まります。長年に及ぶ相沢氏らの働きかけに文化庁が法令改正に動き、全国で3例目となる重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けたのが1981年(昭和56)。

oouchi_jyuku2-2013.jpg【Photo】有料駐車場からの経路となる南側から見た大内宿。信州高遠(たかとう)育ちの保科正之がもたらした大根のすり汁を加えた「高遠そば」をネギ1本で食する「ねぎ蕎麦」として観光客向けに売り出した「三澤屋」前を流れる洗い場が設けられた用水路

 現在は年間100万人を超える観光客が訪れる一大観光地と化したかつての宿場町。現在の表通りは、いかにも一見の観光客向け土産物店や飲食店で占められ、幾分なりとも興ざめを覚悟せねばなりません。それは何も大内宿に限った話ではなく、世界遺産の白川郷を訪れた際にも同じ印象を抱きました。とはいえかく申す自分も一介の観光客。地域資産に魅力を見出した若い世代が戻って町並み保存に取り組む現在の大内宿に対してモノ申す立場ではありません。

snowfesta-ouchijyuku.jpg【Photo】例年2月の第二土曜・日曜に開催される「大内宿雪まつり」

 まして会津は国賊の汚名を着せられ、斗南へと流刑同然に追いやられました。いびつな明治以降の国造りの中であてがわれた原発が引き起こした人災にこれから先も翻弄され続けなければならない相双地域など、多くの人々が会津若松でも避難生活を送っています。そこを旅することも、きっと福島再生の力になるはず。年明け2月8日(土)・9日(日)には雪灯篭が灯る夜をオススメしたい「大内宿雪まつり」が行われるほか、2015年4月の大型観光キャンペーン「ふくしまデスティネーションキャンペーン」のプレキャンペーンイヤーとなる来年。懐の深い魅力に満ちた会津と福島を訪れてはいかがでしょう。

tateiwa_kabu.jpg【Photo】大内宿から下野街道を日光方面へ南下した山あいの南会津町舘岩の在来作物「舘岩カブ」。惜しむらくは焼畑作から現在は畑栽培に移行している。2つの製造元が甘酢漬として製品化。稲作が困難な山間高冷地の貴重な命の糧として自家採種で300年以上にわたって受け継がれてきた。漬物のほか、かつては雑穀に混ぜて食された

 「今年は初雪が遅くてなし」と、土産物店「叶屋」の若旦那が温かい茶を勧めながら話しかけてきました。そこで目にとまったのが、隣接する南会津町舘岩の高原地域に伝わる在来作物「舘岩カブ」の甘酢漬。このカブのルーツは、平家に反旗を翻して都を追われた高倉宮以仁王が持ち込んだとも、近江(滋賀県)蒲生郡日野出身の蒲生氏郷が会津入部の折に持参した近江野菜「日野菜カブ」だともいわれます。しかしながら、藤沢カブの焼畑の一角で研究用に栽培されていた細長く深紅の日野菜カブとは著しく形状が異なることは確か。

tateiwa_kabu2.jpg【Photo】舘岩カブは辛味が少なく子どもでも食べやすい。写真奥は民田ナス辛子漬

 「おしゃべりな畑(山形大学出版会 2010年刊)には、数多くの在来カブが伝承されてきた山形県最上地域を行商で訪れた近江商人が日野菜カブの種をもたらしたことが「やまがたフィールド科学センター」山﨑彩香さんによって紹介されています。会津から越後・庄内を経て最上に種が伝播していったのでしょうか。山形在来作物研究会会長で山形大学農学部の江頭宏昌准教授は、天候不順で食料が不足しそうな年でも、飢饉に備えて8月のお盆時期に播種すれば10月中旬に収穫できる救荒作物として、東北の山あいでカブが大切にされてきた事実を指摘します。

 武蔵野美大の相沢教授は、"草屋根は数万年単位の技術伝承の結果"だと語ります。そして次世代にそれを伝えてゆく意義を、1969年9月「あるく みる きく31号」(日本観光文化研究所)で発表した「草屋根-会津茅手見聞録」が再録された「あるく みる きく双書 宮本常一とあるいた昭和の日本16巻東北③」(農山漁村文化協会 2012刊)のあとがきで強調しています。黄色に色付いたイチョウの葉が舞う晩秋の大内宿で、鮮やかな朱に染まった舘岩カブに、地域資産を伝えてゆくことの価値を改めて感じ入ったのでした。

 開店時刻の10時をまわって30分ほどというのに、少なくとも1時間待ちを宣告されそうな繁盛ぶりの高遠そばは予定通りパス。昼食の予約をしていた猪苗代湖畔のイタリアン「cucina Incontra クッチィーナ・インコントラ」への道すがら遭遇した秋の会津を彩る3原色のひとつ、色鮮やかな「(だいだい)」に関する話題は次回、会津の橙「身不知柿」で。 to be continued.
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