あるもの探しの旅

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晩秋の三原色、黄・朱・橙。

深まる秋の大内宿@会津

 黄金色に輝くカラマツの森と燃え立つように色付いた裏磐梯の山並みをいくつ越えたことでしょう。深まる秋を映し出す"うつくしまふくしま"の美景に、幾度となく車を停めて見入ったものです。

hidama_toge.jpg【Photo】秋の装いを深める氷玉峠。現在は自動車で難なく越えることができる「大内宿こぶしライン」も、かつては深い谷と急峻な山を越える下野街道の難所だった。大内宿のひとつ手前の宿場であり、つい数分前に通過した関山宿は、山肌を流れる雲の下に覆われていた 

 会津若松から会津美里を経て日光へと続いていた石畳や復元された茶屋一里塚、苔むした石碑などが随所に残る国史跡「下野街道(別名:会津西街道・南山通り)」に沿って整備された県道131号下郷会津本郷線(通称「大内宿こぶしライン」)で氷玉峠を越えて目指すは、いにしえの宿場町の面影を今に伝える大内宿。本来の読みである「おおちじゅく」は、時の変遷を経て「おおうちじゅく」の呼び名が一般的になりました。

oouchi_jyuku-2013.jpg【Photo】海抜665mの高地にあり、1年の半分近くは雪景色に変わる大内宿。草屋根を根雪が覆い隠すまでの束の間、周囲の山並みは燃え立つかのように秋色に染まる。集落北端の扇屋分家脇の階段をいくばくか登った小高い子安観音堂からの眺望。高度成長期には赤や青のトタン屋根が浸食した家並みは、苔むす草屋根が軒を並べる往時の姿を取り戻しつつある

 観光シーズンの週末には、会津若松から芦ノ牧温泉を経てR118を南下するルートとの合流地点まで渋滞が続き、5km進むのに1時間を要することもあるのだといいます。そのため、観光バスの混雑が予想される湯ノ上会津高田線ルートを避けたのが奏功。10時を回ったばかりということもあって、意外なほどスムーズに大内宿に到着しました。それでも日光方面からR121を北上してくる関東方面からの車も相まって、家並みに最も近い有料駐車場はすでに満杯。蕎麦打ち体験ができる「食の館」から、4~5分徒歩で移動する必要がある宿場北側の駐車場に誘導されました。

shohou_ji-ouchi.jpg【Photo】茅葺き屋根の家並みが軒を連ねる宿場北側の高台に建つ浄土宗正法寺の境内をイチョウが黄色に染める

 1580年(天正18)の秀吉による奥州仕置で会津に入部し、鶴ヶ城を築城した蒲生氏郷の治世には、近郊の村とともに宿駅としての役割を担っていたとされる大内村。徳川の治世となった17世紀には、会津松平家初代・保科正之が、総勢600名にもなる参勤交代の休憩所とした400坪の本陣や、その半分ほどの脇本陣「石原屋」と肝煎住居「美濃屋」を除き、街道に面した間口がおおよそ七間半(約13.5m)、奥行き十一間半(約21m)の建坪40坪の短冊型に屋敷割がなされます。21世紀を迎えた今も、江戸にタイムスリップしたかのような街並みが保存されています。

 古来あまたの人馬が通り過ぎてきた大内宿。かつての宿場へと歩みを進めると、路傍に立つ庚申塔や巳待塔、湯殿山碑などがまずは出迎えてくれます。「浅沼食堂」を営む扇屋分家の前に立つと、南側へと緩やかに傾斜した全幅7m近い旧街道の両側に軒を連ねる茅葺きの家並みが目に入ってきます。会津若松から険しい山越えを強いられたかつての旅人の目には、さぞ人の温もりを感じてほっとする光景だったはずです。

oouchi_jyuku5-2013.jpg 大内宿が人や物資の往来で賑わった当時、山水を引いて街道の真ん中を流れていた水路は、1886年(明治19)に街道の両端へと移設され、現在も用水路として使われています。水場が設けられた水路と家屋の軒下との間は、観光地化が進んだ昭和40年代に作られた植え込みを含めて2間(約3.6m)ほどの仕切りのない空間になっています。

 手入れの行き届いた茅葺屋根は、数軒単位で共有する茅場で収穫し、屋根裏で保管するカヤを融通しあう相互扶助「無尽」に支えられた共同体「結(ゆい」)」によって保たれてきたもの。寄棟造りや兜造りの現存家屋46軒が、南北450mにわたって整然と軒を連ねる統一感ある佇まいは、木造と石造りの違いはあれど、庄イタの目には景観保護の意識が高い欧州の旧市街地と重なって見えるのでした。

S50_ouchijyuku.jpg【Photo】観光客が訪れるようになり、いにしえの街道は1970年(昭和45)アスファルト舗装された。突き当たりに位置し、現在は食事処となった扇屋分家がそうであるように、アルミサッシではなく上部が障子張りの木製「上透かし雨戸」が見られる。煙突の役割を果たす「煙出し」や、寄棟屋根の尾根にあたる棟押え「軒(ぐし)」の一部に青や赤のトタンが見られるものの、茅留めに木材を使う会津の伝統的な建築様式が主流だった1975年頃の大内宿 〈画像出典〉:図説日本の町並み第2巻「南東北」第一法規出版 1982年刊 / 撮影:馬場直樹

 街道に面した2室が客間として使われたのは、3代会津藩主・松平正容(まさかた)の代に参勤交代路が白河街道に移った江戸初期17世紀中葉まで。その後は、会津23万石のコメを江戸へと運ぶ廻米など物資の輸送路として命脈を保ちます。18世紀初頭には類焼家屋が60軒にも及んだ大火に見舞われます。南会津地域に残る茅葺き集落でも、1907年(明治40)の火災で全戸焼失後に再建された人馬一体の暮らしを物語る茅葺き曲家の町並みが2年前に「重要伝統的建造物群保存地区」の指定を受けた南会津町舘岩の「前沢集落」、1896年(明治29)に同じく集落が全焼した同町「水引集落」とは違って、その後は大きな火災もなく200年以上を経て今日に至っています。

S57_ouchijyuku.jpg【Photo】重要伝統的建造物群保存地区に指定され、茅葺きへの葺き替えなどの修景に着手する前、1980年(昭和55)頃の大内宿。現在は無粋なカラートタン葺きの住宅は姿を消し、家並みの東西に迂回道路が新設されて車を締め出した旧街道のアスファルトや電柱は撤去された。路上のTOYOTA初代セリカに時の変遷を感じる 〈画像出典〉:図説日本の町並み第2巻「南東北」第一法規出版 1982年刊 / 撮影:馬場直樹

 余剰電力で揚水発電を行う目的で1974年(昭和49)に着工した大内ダム(画像のダム湖上方が大内宿)に姿を変えた大内沼から大内峠付近は、戊辰の役で戦場となりました。日光口守備隊長・山川大蔵指揮の会津藩士と新政府軍双方による焼き討ちをかろうじて免れます。廃藩置県後の1884年(明治17)、県令三島通庸の独断で着工した会津三方(さんぽう)道路が阿賀川沿いに開削されて以降は、旅人の姿も途絶えます。太平洋戦争前には会津若松-会津田島間に鉄路が敷設され、陸の孤島と化した大内宿はタイムカプセルに納められたかのようにひっそりと命脈を保ってきました。

 1878年(明治11)6月末、英国人女性紀行作家イザベラ・バードがこの地で一泊しています。しかしながら家並みには特段触れずに"山にかこまれた美しい谷間の中にあった"と「日本奥地紀行(原題『Unbeaten Tracks in Japan』)」で簡潔に記しています。

miyamototsune_showa_nippon.jpg それから90年の時を経た1967年(昭和42)、武蔵野美術大学の学生が、甲州で出逢った会津の茅葺き職人「会津茅手(かやて)」研究のため、大内宿を訪れます。それが当時、民俗学者・宮本常一の門下生として同大建築学科に在籍し、現在は母校で教鞭をとる相沢韶男(つぐお)教授。

【Photo】1967年9月、初めて大内宿を訪れた相沢韶男氏が夢中でフィルムに収めたという大内宿。タバコの葉を家並みの前に干す大内宿が表紙に使われた「あるくみるきく双書 宮本常一とあるいた昭和の日本16巻東北③」(農山漁村文化協会 2012年刊)

 中山道・甲州街道・六十里越街道の田麦俣など、各地の宿場を探訪してきた相沢青年は、目にしたこともない宿場時代そのままの面影を留めていた大内宿に魅了されます。恩師が所長を務めていた「日本観光文化研究所」の刊行物で2度にわたって大内宿を紹介。これが大内宿が世に知られる端緒となります。足繁く会津に通うなかで目の当たりにした伝統美を破壊しながら日本中に蔓延していた(相沢教授の言葉を借りれば)無国籍な「官軍建築」の浸食に危機感を抱くようになります。

 電源三法交付金がもたらした徒(あだ)花である赤や青のトタン屋根への葺き替えとアルミサッシ化など景観改変を憂い、宮本常一が朝日新聞紙上で文化財保護の必要性を訴えたのが1969年(昭和44)6月。すぐに観光客が訪れるようになり、炭焼きと自給自作に等しい稲作や葉タバコ栽培、出稼ぎ茅手を生業としてきたムラは、観光業に新たな活路を見出します。その年、旧街道がアスファルト舗装されたことに象徴される開発か景観保護かで意見が二分したまま、街並み保存を旗印に下郷町長に就任した大塚実氏の努力もあって、1980年(昭和55)に景観保護条例が制定され、修景と景観保護に向けた機運が高まります。長年に及ぶ相沢氏らの働きかけに文化庁が法令改正に動き、全国で3例目となる重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けたのが1981年(昭和56)。

oouchi_jyuku2-2013.jpg【Photo】有料駐車場からの経路となる南側から見た大内宿。信州高遠(たかとう)育ちの保科正之がもたらした大根のすり汁を加えた「高遠そば」をネギ1本で食する「ねぎ蕎麦」として観光客向けに売り出した「三澤屋」前を流れる洗い場が設けられた用水路

 現在は年間100万人を超える観光客が訪れる一大観光地と化したかつての宿場町。現在の表通りは、いかにも一見の観光客向け土産物店や飲食店で占められ、幾分なりとも興ざめを覚悟せねばなりません。それは何も大内宿に限った話ではなく、世界遺産の白川郷を訪れた際にも同じ印象を抱きました。とはいえかく申す自分も一介の観光客。地域資産に魅力を見出した若い世代が戻って町並み保存に取り組む現在の大内宿に対してモノ申す立場ではありません。

snowfesta-ouchijyuku.jpg【Photo】例年2月の第二土曜・日曜に開催される「大内宿雪まつり」

 まして会津は国賊の汚名を着せられ、斗南へと流刑同然に追いやられました。いびつな明治以降の国造りの中であてがわれた原発が引き起こした人災にこれから先も翻弄され続けなければならない相双地域など、多くの人々が会津若松でも避難生活を送っています。そこを旅することも、きっと福島再生の力になるはず。年明け2月8日(土)・9日(日)には雪灯篭が灯る夜をオススメしたい「大内宿雪まつり」が行われるほか、2015年4月の大型観光キャンペーン「ふくしまデスティネーションキャンペーン」のプレキャンペーンイヤーとなる来年。懐の深い魅力に満ちた会津と福島を訪れてはいかがでしょう。

tateiwa_kabu.jpg【Photo】大内宿から下野街道を日光方面へ南下した山あいの南会津町舘岩の在来作物「舘岩カブ」。惜しむらくは焼畑作から現在は畑栽培に移行している。2つの製造元が甘酢漬として製品化。稲作が困難な山間高冷地の貴重な命の糧として自家採種で300年以上にわたって受け継がれてきた。漬物のほか、かつては雑穀に混ぜて食された

 「今年は初雪が遅くてなし」と、土産物店「叶屋」の若旦那が温かい茶を勧めながら話しかけてきました。そこで目にとまったのが、隣接する南会津町舘岩の高原地域に伝わる在来作物「舘岩カブ」の甘酢漬。このカブのルーツは、平家に反旗を翻して都を追われた高倉宮以仁王が持ち込んだとも、近江(滋賀県)蒲生郡日野出身の蒲生氏郷が会津入部の折に持参した近江野菜「日野菜カブ」だともいわれます。しかしながら、藤沢カブの焼畑の一角で研究用に栽培されていた細長く深紅の日野菜カブとは著しく形状が異なることは確か。

tateiwa_kabu2.jpg【Photo】舘岩カブは辛味が少なく子どもでも食べやすい。写真奥は民田ナス辛子漬

 「おしゃべりな畑(山形大学出版会 2010年刊)には、数多くの在来カブが伝承されてきた山形県最上地域を行商で訪れた近江商人が日野菜カブの種をもたらしたことが「やまがたフィールド科学センター」山﨑彩香さんによって紹介されています。会津から越後・庄内を経て最上に種が伝播していったのでしょうか。山形在来作物研究会会長で山形大学農学部の江頭宏昌准教授は、天候不順で食料が不足しそうな年でも、飢饉に備えて8月のお盆時期に播種すれば10月中旬に収穫できる救荒作物として、東北の山あいでカブが大切にされてきた事実を指摘します。

 武蔵野美大の相沢教授は、"草屋根は数万年単位の技術伝承の結果"だと語ります。そして次世代にそれを伝えてゆく意義を、1969年9月「あるく みる きく31号」(日本観光文化研究所)で発表した「草屋根-会津茅手見聞録」が再録された「あるく みる きく双書 宮本常一とあるいた昭和の日本16巻東北③」(農山漁村文化協会 2012刊)のあとがきで強調しています。黄色に色付いたイチョウの葉が舞う晩秋の大内宿で、鮮やかな朱に染まった舘岩カブに、地域資産を伝えてゆくことの価値を改めて感じ入ったのでした。

 開店時刻の10時をまわって30分ほどというのに、少なくとも1時間待ちを宣告されそうな繁盛ぶりの高遠そばは予定通りパス。昼食の予約をしていた猪苗代湖畔のイタリアン「cucina Incontra クッチィーナ・インコントラ」への道すがら遭遇した秋の会津を彩る3原色のひとつ、色鮮やかな「(だいだい)」に関する話題は次回、会津の橙「身不知柿」で。 to be continued.
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