あるもの探しの旅

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ことだまみしらず

 会津身不知柿について記した前回12月15日(日)、NHK大河ドラマ「八重の桜」が最終回を迎えました。武家社会が終焉を迎えた幕末から、薩長土肥による藩閥主導で中央集権型の富国強兵国家建設へとひた走った激動の時代。抗いようのない歴史の大きなうねりに直面した会津の群像と、時代の転換点を恩讐を越えて生きた綾瀬はるか演じる新島八重の姿に、改めて感銘を受けた庄イタなのでした。

 徳川への忠誠を貫いたことが徒(あだ)となり、勝ち目のない闘いへ追い込まれていった会津。八重は戊辰戦争の端緒となった鳥羽・伏見の戦い(1868・慶応4年1月)で2歳年下の弟・三郎を失います。後の鶴ヶ城籠城戦では、亡き弟の形見となった軍服を着用し、八重は戦いに臨むのです。

tsurugajyo.jpg【Photo】2011年春の改修によって、藩制期の赤瓦が蘇った会津若松城(鶴ヶ城)

 奥羽諸藩による会津救済の嘆願に耳を貸さなかった西軍の主力部隊は同年6月に白河口、次いで9月に二本松へ進軍。雪中戦を不利と見て母成峠から一気呵成に会津若松へ侵攻したのが10月8日午前。越後口、日光口と三方に守備が分散し、迎撃態勢が整わない混乱の中、予備役であった白虎隊や家老・西郷一族のような婦女子の自刃、そして薙刀で銃列に斬り込んだ婦女隊など、幾多の惨劇が起こります。

 斬髪・男装し、スペンサー銃を携え悲壮な覚悟で籠城戦に臨む八重。火力で圧倒する西軍との絶望的な闘いの中、玄武隊員として参戦していた高島流砲術師範の父・山本権八が11月1日に戦死。そうした幾多の血が流された挙句、藩主・松平容保が白旗を掲げたのが11月6日。その2日後、奥羽越列藩同盟諸藩の中で最後まで抵抗した庄内藩が降伏したことで、越後と会津が主戦場となった戊辰戦争がほぼ終結。旧幕臣の榎本武揚や新撰組残党らが最後の抵抗を試みた蝦夷地・函館で収束を迎えます。

tsurugajyo_inverno.jpg【Photo】純白の雪をまとい、無垢姿となった冬の会津若松城(鶴ヶ城)

 明治新政府によって賊軍の汚名を着せられた東北諸藩でも、京都守護職として倒幕派掃討の任を負った会津藩は、とりわけ8月18日の政変や禁門の変で朝敵とされた長州藩の怨恨を買っていました。会津松平家は断絶こそ免れますが、旧領地は政府直轄となり、隣接する猪苗代ないしは下北半島への転封を迫られます。八重の桜では山本家が身を寄せた米沢でのつましい暮らしを中心に描かれましたが、旧会津藩士は謹慎が解かれた1870年(明治3)、新天地・下北を目指します。

 ところが斗南藩と名付けられた現在のむつ市・小川原湖周辺は、旧禄23万石と比較にならない3万石とは名ばかりの極寒の荒地。郷里で帰農した若干名を除き、旧藩士2万人のうち、移住した1万7千人には慣れない土地での過酷な授産生活が待ち受けていました。

 8歳で経験した会津戦争で母と姉妹らが自刃、のちに陸軍大将を務めた柴五郎(1860-1945)の回顧録「ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書」(石光真人編著/中公新書)に「挙藩流罪という史上にかつてなき極刑」という表現にある通り、栄養不足などで移住先で命を落とす者が続出した耐乏生活は辛酸を極めました。

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 今年の夏、青森・三沢を訪れた折、三沢市先人記念館に展示されていたのが、一片の褪色した緋毛せんの切れ端「泣血氈(きゅうけつせん)」。命運尽きて西軍の軍門に降った松平容保が臨んだ降伏調印の場に敷かれていた緋毛氈を藩士らが切り分け、敗戦の無念を胸に刻んだ印とされます。斗南藩主として下北に移った松平容保の嫡男・容大(かたはる)が、1871(明治4)7月の廃藩置県により東京に帰還。斗南県が弘前・黒石や旧南部領七戸などとともに青森県へ編入されると、旧会津藩士はその多くが会津へ帰還する道を選んだといいます。

【Photo】「八重の桜」最終回の再放送日に頂き物をした身不知柿

yaenosakura_last.jpg 八重の桜最終回「いつの日も花は咲く」は、会津戦争終結から30年後が描かれます。1896年(明治29)、日清戦争で篤志看護婦として負傷兵の看護にあたった献身的な活動に対し、八重は民間出身の女性として初叙勲の栄に浴します。翌年春、会津に戻った八重は、元・家老の西郷頼母と再会。満開の桜を愛でる二人が交わした言葉が印象的でした。

 ・八重「花は散らす風を恨まねえ、ただ一生懸命に咲いてる」
 ・頼母「八重、にしゃ(会津弁で「お前は」)桜だ。花は散っても時が来るとまた花を咲かせる。何度も何度も花を咲かせろ」

 大河ドラマの最後に発した八重の言葉は「私はあきらめない」という会津訛りのモノローグでした。今は寒く厳しい季節のさなかにある会津・福島にも、春が訪れれば桜の花は咲き、来年の秋が巡ってくれば、身不知柿が橙色の実を結びます。

 深い悲しみの淵から立ち上がり、新たな地平を切り開いた一人の会津女性の目線で描かれた大河ドラマの終章をリアルタイムで視聴はできませんでしたが、再放送の21日(土)は自宅で過ごしていました。その日の朝、知り合いから、"お裾分け"と手提げ袋に入った頂き物をしました。そこにはなんと会津身不知柿が入っていたのです。

 そこで浮かんだ言葉が「言霊(ことだま)」。古来、言葉には霊的な力が宿ると考えられ、言葉にしたことが、吉凶禍福いずれにも物事に対して影響を及ぼすと考えられてきました。

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【Photo】言霊で拙宅に届いたとしか思えない身不知柿。カキと相性の良いドングリの香り漂うスペイン産ハモンセラーノを巻いて食した

 志貴嶋 倭國者 事霊之 所佐國叙 真福在与具(しきしまの やまとのくには ことだまの さきはふくにぞ まさきくありとぞ)
訓読み:磯城島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ ま幸くありこそ/ 万葉集巻十三
志貴嶋(しきしまの)」は、「倭」やまと(=大和)に掛かる枕詞。事霊=言霊。事象と言葉を同一視した古代日本の考え方による。
 【意訳】 大和の国は言葉の霊力によって幸福がもたらされる

 遣唐使への送別に詠まれたと推測されるこの歌は、山部赤人とともに歌聖として別格の扱いを受ける三十六歌仙の筆頭格にあたる飛鳥時代の歌人・柿本人麻呂歌集に収められています。没後1300年あまりを経た現在も、歌人として広く名を知られる人麻呂は、持統天皇治世前後の飛鳥時代に詠んだ短歌・長歌が残されているだけで、極めて謎の多い人物です。「色は匂へど 散りぬるを」で始まるいろは歌の作者だという説や、百済からの亡命者だったという推測すら存在し、生没や来歴は何一つ確かなことはありません。

 柿にちなむ姓を名乗る歌人が和歌に詠んだ言霊が実際に形となったエピソードをもって、新たな年が佳き年であるように望みを託す型どおりのご挨拶が、言霊となって実現するよう願いを込め、この1年を締めくくることにします。

 皆さま、どうぞよい年をお迎えください。baner_decobanner.gif
 

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